私は人生で多くの失敗をしてきました。その一つが二度の不登校経験です。一回目の不登校は、小学校時代でした。
3年生から5年生の終わりまで、一日も登校していません。学校に行かず、川、山、畑、野原、村、街、市場、海など何かありそうなところを毎日のように兄弟で放浪していました。食べ物と遊び場を求めて。
私の母親は6歳で亡くなりました。残された父親と6人の兄弟での生活が始まりました。母親が死んだとき、長男小3、次男小2、私は三男で小1、四男の弟5歳、妹は3歳、2歳。父親は大工で、毎日のように酒を飲み、家に寄り付かず、今で言えば、子どもの養育放棄でした。家には食べ物が徐々になくなっていきました。布団も破れ、やがてなくなりました。火も電気もやがてなくなりました。残ったのは、ぼろぼろの夜は真っ暗になる家だけでした。服も夏冬兼用のぼろぼろ、靴は劣化し破れ、履けなくなるとと裸足で歩いていました。いつも下を見て歩いていました。5円や10円玉が落ちていないかと探しながら…。
私たち兄弟は、「汚い」とか「ほいとの子」(乞食の子という意味)と、地域の人に罵られ、バカにされるようになっていたのです。それは、とても嫌なことで、心は傷付きましたが、どうすることもできませんでした。大人の人間の心に敏感になり、心が優しい人の見わけがつくようになったのも、そのころからです。
家は、いつしか不良中学生数名が自由に出入りするたまり場になり、荒らされました。保護者の父親が家に帰ってこないからです。不良中学生は私たち兄弟を、使い走りにしたり、遊びのおもちゃにしたり、奴隷のように扱い、ひどい虐待や暴力を振るい、「学校に行くな」と命令され、何日も休むことを強制したのです。それがきっかけで、長い不登校生活が始まりました。不登校が 3年を経過したころ、地域の人たちの働きかけで、私たち男兄弟は、養護施設に収容されました。私は、そこで、よい保母さんや、信頼できる中学校の担任の先生に出会い、勉強や読書の楽しさに目を開いていきました。その勉強法や読書が、生涯の基礎になり、後年の自学・独学を可能にしてくれました。
二回目の不登校は、高校2年のときです。70日間の不登校生活の結果、中退を余儀なくされたことです。当時バイクの好きな友達と学校を休み、あらゆるところを暴走していました。中退後は家を追い出され、単身で東京に出て、牛乳配達をしながら、定時制高校に編入しました。そこで、素晴らしい人生の先輩に出会い、哲学や本当の学問とは何かを啓蒙されたのです。生き方が変ったのは、その時からです。
人生は面白いものです。そんな私が中学教師になり、生徒指導担当になったりしました。不登校、退学、非行少年が、中学校の生徒指導教師になるなんて、夢にも思っていませんでした。教員離職後は臨床心理士・公認心理師資格を活かし、心理カウンセラーの仕事をさせてもらい、不登校児童生徒や問題を持つ人たちにかかわっています。人生は本当に不思議なものですね。
「人生塞翁が馬」ともいえます。(松岡敏勝著「失敗もいいものだよ」自伝的小説 文芸社に詳細記載 )