心の奥に流れる波はいつも同じである。本来穏やかなのだ。それは太陽が生きとし生けるものに恵みの光を与える慈悲の体現者のように、心の根底には慈悲に包まれた絶対安心の心が存在している。ただバランスを失い偏った心がそれを嵐と錯覚したにすぎない。
自己へ執着を明らかに見極めるとき、本来の心は穏やかであり、いつも変わらず慈悲に支えられて流れていることに気づくだろう。
大学生だった26歳の12月の夜のことであった。深夜喫茶店のアルバイトで午前3時ごろに私は帰宅し床に就いたが、いつものように頭が冴え、いろいろなことが脳裏をよぎり寝つけなかった。
そんな時、がい骨と自分が一緒に寝ている姿が忽然と浮かび、「自分は死ぬかもしれない」という言葉が浮かび、強烈な恐怖感に襲われ震えた。私は寝床から飛び起きると死の恐怖を打ち消そうと自分を叱咤したが、心臓はますます高鳴り始めた。
まるで絶壁の前に立ち後ろから突然押されて、危うく転落しそうになったとき味わうような強い恐怖感であった。「このまま死ぬかもしれない」という言葉が反復され、腰が抜け歩けなくなった。救急車を呼ぼうと思ったが深夜なので様子をみようと思いとどまった。近くの公園に行き「悪鬼退散!」「悪鬼退散!」と心で叫びながら、誰一人いない深夜の公園をさまよった。しかし不安と恐怖は去らないどころか強まり私を追いかけてきた。
精も根も尽き私は部屋に戻り、たまたま部屋に置いてあった日本酒をがぶ飲みし、酔いつぶれ、そのまま眠った。
翌日から、私の意識は心臓にくぎ付けになった。心臓の周囲がチクチク痛むとか、少しでも異常があると強い不安に襲われ、「死ぬかもしれない」という言葉が決まって頭の中を巡るのだった。
内科で心臓の検査をしてもらったところ、医者は「心電図に異常はない。疲れすぎではないのか」と診断した。しかし、私の健康への不安は消えなかった。
不安を抱いたまま、深夜喫茶の接客のアルバイトに出た。忙しいときは気にならなかったが、一息ついたとき不安と緊張が一気に高まり、死の恐怖に襲われ吐きそうになり急いでトイレに駆け込んだ。仕事の限界を感じたので早退した。
夜のアパートは不安が充満していた。「あの発作が再び起きたらどうしよう」と戦々恐々としながら酒をあおった勢いで眠った。
以来、心臓が停止するのではないかという強い不安と死の恐怖が交錯し、私は勉強もアルバイトもできなくなり、部屋に閉じこもった。この病的な状態をどう解決するかが生活の全てになった。
そんなころ、たまたま外を散歩していると、私は夢の中を浮遊しているような非現実感を強く味わった。「ああ、自分は頭が狂ってしまった」と恐ろしくなった。私はどこで何をしても楽しむことができなくなり、まるで地獄が住み家になってしまった。
私は広島での生活を断念し、病気療養のため故郷の北九州市の八幡に帰った。両親は既に他界していたため実家には兄と妹の二人が狭い借家で生活していた。
早速、北九州市の大きな病院の脳神経外科で診察を受けたが「異常なし」との診断であった。この病のことを兄や妹や親しい友達にも話すことができず、私は一人で苦しむしかなかった。
二か所の病院で診察を受けたが、結局「異常なし」とのことだった。心臓への不安と死の恐怖は全く軽減されず、私は襲ってくる不安や恐怖を言葉で追い払おうとやりくりを重ねたが、徒労に終わるばかりであった。
原因はわからないまま、誰にも相談できないので、自分で色々と試行錯誤を繰り返した。
本屋で見つけた「不安のメカニズム」という不安神経症の治療法について書かれている本を読んだ。「不安や恐怖が襲ってきたとき、流れに身を任せる」という趣旨のものであったが、恐怖が襲ってきたとき、その本の通りに実践することは至難なことであった。心臓への不安と死の恐怖はなかなか克服できなかった。
強度の不眠症による昼夜逆転生活の改善と病気回復のために、兄の大工仕事の手伝いを始めた。仕事中は心臓のことを忘れていることが多かったが、夕方になると呼吸困難を感じ不安が強まる日が続いた。
2月の雪の降る日、仕事が休みだったので私は一大決意し標高600メートルの山の登山を試みた。自分の心臓の健康度を自ら試すためだった。
家から約3時間あまりをかけ登頂し、そのまま下山し家までたどり着いた。心臓には何も起こらなかった。私はこの体験で自分の心臓に問題がないことを確認できたが不安が去ったわけではなかった。このころになると息苦しさや呼吸のしにくさや極端に浅い呼吸に苦しむようになっていた。
ただ、仕事の手伝いで生活リズムの改善をはかり、登山という恐怖突入体験で自分の健康に対して「大丈夫だ」と発病当時よりは少しは思えるようになっていた。
新学期が始まる4月、心臓への不安と死の恐怖をもったまま、「案ずるより産むが易し」と言い聞かせ、4か月の病気療養に終始を打ち、大学に復学するため広島に戻った。予め計画していた通り深夜喫茶のアルバイトを週2日の日勤に変えてもらい、新たに朝刊配達も始めた。
新聞配達は不眠症の自分にとっては過酷なものであったが「数日寝なくとも死にはしない」と言いかせ、不眠のまま朝を迎えても5時には新聞店に出向き、その日は昼寝をしないよう大学の授業に出向きひたすら苦しみに耐えた。
どんなに苦しくとも目前の大学の授業に出席し単位を取ることと、朝刊配達と喫茶店のアルバイトをすることを続けた。不安や発作や呼吸のしにくさ息苦しさが時折襲ってきたが、そのまま時間の流れに身を任せ、目の前のことをやり続けた。その結果、薄紙を剥ぐように少しずつ少しずつ回復を実感できるようになり、それに比例するかのように「心の嵐」は徐々に影を潜めていった。
大学復帰から4か月経過した7月ごろになると、私はこの病を忘れていることが多くなった。また古本屋で森田正馬氏の「神経衰弱の根治法」「生の欲望」に出会い一気に読了し、自分の病の全貌をようやく知ることができた。それは自分の健康に対して一段と自信を深めさせた。
こうして私は、自力でパニック障害の克服に成功したのであった。
A 私の気質
人間関係に敏感であり負けず嫌いであった。そのため人に負けまいと意地を張ったり努力するタイプであった。中学一年の頃、その性分が功を奏して優秀な学業成績を収めたりした。学校で発表したりするとき周囲を意識し過ぎて過度に緊張した。中学3年生のころ英語の発表で発音がおかしいと笑われたことがあり「また笑われるのではなかろうか?」と思うと変な発音になり読むたびにクラスメートに笑われた。その都度、自分も笑って誤魔化していたが内心は傷ついていた。
高校の頃は家庭の経済的事情から大学進学を断念せざるを得ず普通高校に進学が許されず、劣等意識から負けず嫌いが顔を出し突っ張り非行に走り優越意識を持とうとした。
大学時代はゼミの発表が当たったとき、意識過ぎて眠れずゼミを欠席し単位が取れなかった。
20歳の頃は、怖いもの知らずで、理想が高く完全欲を抱き努力で何事も成し遂げられると豪語していた。特に一浪目の頃は「予の辞書に不可能はない」というナポレオンの言葉を信奉し一日12時間、食事中もトイレの中でも勉強したりし一気に近眼になった。無謀、無茶苦茶な生活をしていた。自分の心身は自分でコントロールできると思っていた。
小学生のころ、一人で風呂に入っていたとき突然「自分はいつかは死ぬ」という考えが浮かんできて、全身が凍りついたような強烈な恐怖に襲われた。生まれた初めて死をまじかに感じた戦慄体験であった。
B 生活環境・生活習慣・身体状況
大学に入り自活のため週に3回、深夜2時半までの喫茶店のアルバイトをし帰宅は深夜3時を過ぎていた。朝方まで眠れないことが度々あり、昼過ぎの起床が習慣になり、大学の講義に出席できず、2年間でとった単位は数単位。そのことは自己呵責や自己嫌悪感を増幅させた。強烈な不眠症にもかかっていた。
不眠症や偏った食生活で常に体がきつかった。倦怠感からバイトの休みの日は一日12時間近く日没まで寝ていた。体の調子のよいときはほとんどなかった。お金のないなか、ときどきするパチンコで負けると「俺は愚かな奴だ!」と自己呵責し抑うつ的になったりした。
C 心理的葛藤・怒りの抑圧・自分らしさの喪失
・浪人時代の頃…不眠症や加害恐怖観念や強迫観念に苦しむ。人に害を与えるのではないか。突然重要な人に対して「死ね」という言葉が脳裏に浮かび、その言葉を振り払うのに苦しむ。また頻発する金縛り、眼精疲労による吐き気など。
・大学入学の頃(23歳入学) …大学に入学するも「燃え尽き症候群」のように、目標喪失、パチンコへの耽溺、不眠症、意欲の低下、希死念慮、自己嫌悪抑うつ感に苛まれる。
・24歳12月の頃…父の死、喪失体験、所属していた哲学研究会から離脱気味となり孤立しメンバーへの罪悪感に苦しむ。また尊敬していた先輩に暴言を浴びせられ、衝撃的に傷つき、その傷は心の奥深くまで突き刺さり、怒りの温床となる。大学に行かず、昼夜逆転の生活を続ける。
哲学研究会で理想的人格を頭の中だけで模倣しようとして、背伸び、虚飾の自分になり、いつしか自分らしさを喪失していく。
D 哲学書・心理学書・小説の濫読、耽読
ハイディガー、ベルグソン、フロム、ユング、法華経、吉川栄治の三国志・太閤記・宮本武蔵など、三島由紀夫の全作品、精神分析、催眠、睡眠など