書籍… 不登校・ひきこもり・心の不調から蘇る 芝蘭の便り
第一章 不登校・ひきこもりの心理
1・なぜひきこもるのでしょうか 2・不登校、ひきこもりに不足している心の安心領域とは何ですか 3・現代社会はひきこもり・不登校にどんな影響を与えているのでしょうか 4・なぜ不登校・引きこもり・心の不調者が増加するのでしょうか 5・不登校・引きこもりになったとき親が考えなければいけないことはどんなことでしょうか 6・ひきこもり・不登校の心理的要因と再生の道 7・心の安心領域はどうすれば育ちますか コラム1 不登校を産み出す学校教育環境 コラム2 偏差値教育の落とし穴 コラム3 不登校・ひきこもり面接事例 コラム4 偉人が遺した名言
第二章 生きることは闘い 闘わないと滅びる
1 人間の基本は自分の身を守る本能的行動 2 人間は思考する感情の動物 3 強い刺激は頭の中を巡り 心を乱す 4 生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある 5 生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人間 6 人間は何のために生きるのか…青年釈迦の苦悩
第三章 不登校・ひきこもり・心の不調を解決する心の調整法
1,見えないストレスを軽減する方法 2,反応から対処という生き方 3,見えない心の傷つきを癒す方法 4,対人不安を解決する方法 5,嫌な気分を受け入れて生きる方法 6,感情は言葉や思考では制御できないことを知る 7,最も制御が難しい感情は怒りと悲しみ 8,怒りや悲しみを受け入れる方法 9,執着やとらわれを明らかに見る生き方 10,人の心が分かるようになるための心の在り方 11,本来、心に壁は存在しない 12,私たちの心と体は常に変化し動いている…素粒子理論からの考察 13,心が持つ不思議な力と働き…量子力学的視点と心の関連性 14,自立を育む安心環境 15,子どもとの豊かな関わり方 16,発達障害の活かし方
第四章 本来の自己に出遭うとき、自分らしく生きることができる
1,自分らしく生きることが幸福 2,自分らしさの探求は社会常識との戦い 3,自分らしさの獲得は自分独自の規範を作ることにある 4,社会常識を昇華することが心の独立 5,自らの光で周囲を照らす生き方 6,自分というかけがえのない個性を自覚する 7,何に価値を置いて生きるかが大事 8,他人の評価に振り回されない自分を築く 9,健康的な習慣が自分らしさを発揮させる 10,自分を自分らしく表現する方法 11,自他尊重のさわやかな自己表現法
第五章 本来の自己のリズムに今の自分のリズムを一致させ幸福に生きるための内省法
1, 自分の身体を内省する 2,自分を取り巻く環境、自然、宇宙を内省する 3,自分の生命を支えてくれている存在を内省する 4,本来の自己のリズム(周波数・波動)を内省する
第六章 中高生の質問に回答する
1,自分が嫌いです。自分を好きになるにはどうすればよいですか?(高校生・女性)
2,人は死んだらどうなりますか?(中学生・女性)
3,生まれながらに差別があるのはなぜですか?(高校生男性)
※この書は、知識を集大成させた机上の学問の本ではなく、思想、哲学、文学、宗教学、心理学、身体学、諸科学の筆者の遍歴と50年間の教育実践、思春期の青年との関わりから試行錯誤し、研究したものから生まれた経験・実践をまとめた筆者独自の芝蘭の便り・本です。
以下に、第一章の5 第二章の6 を紹介します。
第一章 5 親が 考えなければならないことは、どんなことでしょうかが
子どもが不登校・ひきこもり状態になったとき、親が考えないといけないことは、原点に戻ることです。この場合の原点とは、苦しんでいる子どもの心です。子どもの心と向き合い、子どもの心を知ろうと努めることが最初にやるべきことなのです。なぜ、このような状態になったのか。その要因はどこにあるのか。何が過剰であり、何が不足していたのか、どこの部分を支援すれば、子どもが人間的な健全成長を遂げることができるのかを考えることです。子ども自身も、なぜ今の状態に陥ったのかがわからないこともよくあります。
不登校・ひきこもりという出来事は、一面から見れば苦という状態ですが、視点を変えれば、親も子どもも一緒に、人間的に成長する、またとない機会を与えてくれたかけがえのない出来事と見ることができます。そのようにひきこもり・不登校という心のありさまを前向きにとらえることができれば、本質的解決の道に入ることができます。
子どもが、どんな状態になっても、子どもをそのまま受け入れ、大事に守っていくという無条件の愛情(注3)を親が持つことができれば、子どもは必ず良い方向に向かっていきます。また、親自らが誠実に子どもの成長を願い行動している姿は、必ず子どもの心に届き、やがて心を開いてゆくようになります。苦悩する子どもにとって、親の真心の愛情に勝る良薬は、この世界にはありません。ユダヤのことわざに「母親は百人の教師に勝る」とあるのはこの意味です。
芝蘭の室を訪れる長期不登校・ひきこもり者は心療内科にかかったものや公的な福祉機関に通所した経歴を持っています。数カ所を巡った人も少なくありません。そのほとんどの人が、改善せず芝蘭の室に来所しています。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。
脳の神経伝達物質(セロトニン、ドーパーミン、アドレナリンなど)を標的にする薬では、心の問題を解決することは困難であり、本質的な対処にはなりません。解熱剤ぐらいの一時的効能はあるかもしれませんが、あくまでも一時的な症状緩和であり、本質的解決をもたらしてくれるものではありません。なぜなら、心とは何か、意識とは何かが現在の最先端の脳科学でも解明できていないからです。ただ分かっていることは、心は脳をはじめとした身体を通して、「苦しい、痛い」「気分が悪い、何もする気がしない」などの苦しみの言葉や気分や症状として表現されるということです。その身体の主要な一部の働きを担っているが脳ですが、すべての細胞に心の働き(注4)がみられるのも事実です。だから難解なのです。
心の不調の場合、多くの場合、苦しみは心の炎症から生じています。身体のそれと違って心の傷は見えません。服薬は、依存性を高めたり、副作用による身体の不調を招いたりすることがあります。不登校状態を長引かる結果にもなりかねません。複雑な心を診ることは大変難しいことなのです。心の病は見立てと対処を間違うと悪化するのは、身体の病気の誤診と同じです。ただ心の場合、誤診(注5)していても、曖昧にすることができます。私たちが、慎重に賢明にならないと、心の健康を守ることもできなくなります。
(注3) 無条件の愛情…ヘレンケラーを世界的偉人に育てた陰の支援者はサリバン先生です。目が見えなくなり、三重苦から自暴自棄に荒れ狂うヘレンに対して、彼女は忍耐強く無条件の愛情を持ち続け、終生ヘレンに尽くし、彼女の持つ可能性を開いたとされています。ヘレンの偉業はサリバン先生なくしては成し遂げられなかったと言われています。ヘレンは「私を作ったのはサリバン先生です」とサリバン先生の恩に報いる行動を生涯、貫いたと言われています。
(注4)細胞に心の働き…すべての細胞は振動し、微弱な光を出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。人間を構成する細胞は約46兆個と言われていますが、その細胞一つ一つが生命現象を演じ、酸素と栄養を取り入れ、新陳代謝し、エネルギーを発し、環境変化に適応し生と死を演じています。奇跡的な働きです。分析できる見える物質を支えているのが見えない働きです。心は関係性で生起するので、とらえることができないと、最先端の量子力学が「量子のもつれ現象」などで、心の不可思議さの一面を分析しています。
(注5) ●「誤診」(心の科学、NO164…精神科臨床における誤診、薬物療法偏重と誤診、うつ状態の鑑別診断と誤診、大人の発達障害と誤診などが編集されている) ●「精神科臨床はどこへ行く」(心の科学・井原裕編)‥薬を巡る諸問題、治療現場で起きていること、PTSDの乱発―心のケアのいかがわしさなど●「ブラック精神医療」(米田倫康著)‥知ってほしい精神医療現場の驚愕の真実
第二章 6 人は何のために生きるのか…青年釈迦の苦悩
ここで一人の人間、釈迦(注3)の例をあげてみます。釈迦は王子として生れ、王宮の中で何不自由のない生活をしていましたが、19歳の頃、心に湧きおこる虚しさに苦しみます。「私は何のために生きるのか」「私の心はなぜ、こんなにも空しいのか」と生存の意味を問う苦しみに悶々としていました。
ある日、王宮の東門から出た時、老人を見、人は老いることを知ります。南門から出た時、病人に会い、生あれば病があることを知ります。西門から出た時、死人を見、人は死ぬことを知ります。最後に北門から出た時、端然威儀具足した修行者に会い、姿も心も清浄なものを見て、出家得道の望みを起こしたと言われています。有名な「四門遊観」(注4)の話であり、釈迦が「生老病死」という人間の四苦と真正面から向き合った瞬間でした。釈迦は、その解決のため、王宮での恵まれた生活を捨てて、人生の真理を求めて、苦悩充満する娑婆世界(娑婆とは堪忍の意味、実社会は思いどおりにいかない世界という意味)に生命探求の旅に出ます。
人生とは苦なのでしょうか。生きるとは苦しみの連続なのでしょうか。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。人間として存在する意義はどこにあるのでしょうか。人生とは、一面からすれば、生きる意味、存在の意義を、生涯をかけて探す道のりと言えます。苦悩の人生は人の心を耕し深くしてくれ、苦しみは心を浄化させてくれます。苦悩の中で自分の心を見つめ、人生の真実の一部を見つめることができるようになります。聖人や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちだと思います。
生きている今の瞬間の生命は常に変化し、同じところにとどまっていません。瞬間の生命には苦もなく楽もないとは釈尊の悟りです。今の瞬間は純粋な経験であり、色付けできないものです。それを苦と感じるのは五感であり、それを鮮明にし、思考と言葉にした意識の働きです。過去の記憶化された潜在意識の染色の結果なのです。本来の瞬間は、新しい純粋な経験です。古来より生命錬磨の修行をした先人たちは、生きる意味を模索し、幸福な生き方を探究しました。そして人間の欲望こそが苦の原因だと究明し、心を浄化させれば、幸福になれると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、不眠の修行をしたり、異性を遠ざけたりなどして苦の原因を断じようとしました。釈迦在世のインドは、そのような修行して悟りを得たいう六人の指導者が支配していたと言われてます。
すべて苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす煩悩(欲望)(注5)を克服した後に、真の楽があると信じた修行でした。釈迦もその修行を一時期されましたが、苦行に徹しても幸福は得られないと悟り、独自の道を歩まれたと言われています。人間が生きていることは、煩悩に従って生きていることと言えます。その欲望が苦にもなり、楽にもなります。つまり、苦楽は心の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生の存在の色が変わります。楽しい世界を心に描き、意識して強く心を定めて生きれば、心は楽に満ちてきます。そのように心を描くのは、今の意識です。意識を磨けば、どの瞬間も楽しんでいけるようになります(注6)。これが真の楽観主義であり、自己肯定であり釈迦(釈尊)の悟りと言われています。
釈尊は語ります。心を研ぎ澄まし、心が清らかになれば、その純粋な心に宇宙の慈悲の振動が共鳴し、私たちの心に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなると。自己が宇宙の慈悲と一体になり、喜びに包まれます。それが最高の楽であり、聖人・賢人が求めた世界とされています。そのためは、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。釈尊は、悟りは知識では得られない、実践の中での生命の体得だと、ことあるごとに弟子たちに諭したと言われています。
(注3) 釈迦…悟りを開いた後、尊敬を込めて、釈尊とか、ブッタ、ゴータマシッダルタなどと呼ばれました。成道後(仏を悟った後)の40年間の教えは、八万宝蔵と言われ、インド、中国、韓国、東南アジア諸国などに広がる中で釈尊の教えは伝承者により変化してゆきます。日本では、最澄・日蓮の法華経や法然・親鸞の浄土教・阿弥陀経やマインドフルネスに影響を与えた禅、般若心経、観音経などが知られています。
(注4)「四門遊観」の話…宮沢賢治の詩「雨にも負けず 風にも負けず…東に病気の子どもあれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいといい 北 に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい…」 一部の抜粋ですが、ここには釈迦の「四門遊観」の話になぞらえたものが書かれていると言われています。宮沢賢治は、法華経の信奉者であり、彼の文学の根底には法華経があったと言われています。詩のメモの最後の部分には、法華経に出てくる菩薩や如来が書かれていたそうです。
(注5)煩悩…仏教用語。人間の心身を煩わせ悩ませる種々の精神作用の総称。根本煩悩として、貪(むさぼり),瞋(瞋り・いかり)、癡(おろか)、慢(おごり)、疑(疑い・迷い)の五つを挙げています。その他、隋煩悩などがあり総勢108個とする説もあります。除夜の鐘の108回撞く習わしは、一年間の煩悩を消滅し、新しい年を幸せに迎えたいと言う願いが込められていると言われています。
(注6)「どの瞬間も楽しんでいけるようになる」…釈尊は「衆生所遊楽」と説きました。衆生とは、細胞の集まりのあらゆる生命体という意味であり、人間と訳すこともあります。人間は、この世に、自在に自分を発揮し、楽しむために生まれて来たという意味です。
※本に関する問い合わせは、芝蘭之室ホームページ予約画面のメッセージらんのメールでお願いします。価格は税込み2000円(通信購入の方は、送料・振りこみ料込み)の予定です。本屋での流通予定はありませんので、本屋での購入はできません。購買は芝蘭の室経由になります。
書籍「心を健康にする本」…改善率96%のマインドフルネス・認知行動療法・自然療法の3種の哲学・科学を調和させた芝蘭独自の療法 来春3月 出版予定
主な内容…心がわからないと心の病は治せない / 心の病の原因 / 心も体も物質もすべて振動している/ 脳と心と薬の関係 / 五感覚と意識の関係 / 潜在意識が意識に与える影響 / 心の安定に関係する自己愛と母性愛(慈愛) / ストレスと適応/ 生き抜くとは闘いである
自分を好きになる方法 /心の傷をもって生きる方法/ よい人間関係の作り方/ コミュニケーションの上手なとり方/ 発達障害の活かし方 / 不安症の改善法/ パニック障害の改善法 / 強迫観念の改善法 / 反芻(はんすう)思考の改善法/ 抑うつの改善法/ 依存症の改善法 / ひきこもり・不登校の改善法 / 夫婦不和の改善法
怒り・悲しみ・感情の整え方/ 執着を解き放つ方法/先端科学の量子力学と心の世界の関係性/ ブッダの哲学と量子力学の共通点 / マインドフルネス、森田療法の基礎になっている仏法哲学
自然・生体リズムに則って生きると健康になれる/ 崩れる幸福と崩れない幸福 /心身を健康にする瞑想法 自分らしく輝いて生きるための哲学
※改善率について。3回以上の継続来談者は100%改善していますが、1~2回で来談が途切れた方の改善は把握できていません。ですから改善率は96%になっています。
生きることは サバイバル…
生きるためには食べなくてはいけません。食べ物を確保しないと生きていけないからです。2024年世界では、推定約6億7300万人が飢餓状態に直面しており、これは世界人口の約8.2%にあたります。この数は飢餓人口の減少傾向が見られるものの、2030年の「飢餓ゼロ」という持続可能な開発目標(SDGs)の達成にはほど遠い状況ですが、これが地球の人類の実態です。
食べ物を得るためには、睡眠をとらないと活動できません。そこで安心して寝ることができる住みかが必要になります。一人では食べ物を得ることに限界がありますので、他者との協働が必要になります。ここに共同体が生れていきます。他者と支え合わないと食物を得ることができなくなり、生き抜くことができなくなるからです。
現在の地球上では、紛争状態にある国の正確な数は年々変動するため特定が難しいですが、英国際戦略研究所(IISS)の「武力紛争調査2024」によると、2023年7月から2024年6月の間に世界で約20万人が紛争による死亡者とされています。また、ウクライナ侵攻やシリア内戦など、現在進行中の紛争は複数存在し、それらの影響を受けている子どもたちの数は約4億7千万人にも上るとも言われています。これらの紛争の根本的原因も、もともとは食べ物をはじめとした物質の確保のためであり、生き残るためのものです。現実はきれいごとではなく、残酷です。これが動物種としての人類が生き抜くことの実態なのです。
争い、紛争、戦争は食べ物、物質、領土の奪い合い、つまりサバイバルから始まります。こうした動物性の克服を可能にするのが人間の持つ知性です。しかし、その知性が自己利益、集団利益、国家利益のためだけに使われると、こうした悲劇を生み出します。地球人類は、未だこの課題を解決できていません。国連の平和協議は絵に画いた餅のようであり、ウクライナの惨劇をとめることはできていません。力(暴力・武力・核力)こそ正義がまかり通る野蛮な世界、それが残念ながら地球の現状なのです。人間知性では、人間の欲望を制御できないことを物語っています。では、こうした人間の自己中心性による悪を克服できる方法はないのでしょうか。その方法を模索したのが、過去の思想家であり哲学者であり、宗教家でした。そしてその道を極めたとされているの人たちを、聖人(注1)と呼んでいます。
注1、聖人…一般的には世界の主要な宗教や哲学の開祖を指し、孔子、釈迦、イエス・キリスト、ソクラテスの4人を指します。彼らはそれぞれの時代や地域で人々を導く教えを説き、人類の文化や思想に多大な影響を与え続けています
人間行動の根っこは 本能的な身を守る行動
赤ん坊や幼い子は、本能的行動のまま生きています。親も、そのような本能的行動を満たしてやります。それが保護であり、その時点での養育になります。こどもがわがままなのは、本能的行動のまま生きているからです。人は、食べる、眠る、生殖活動をするという本来的に持つ能力(本能という)で生きています。そして、その本能の活動を支えるのが脳神経の電気信号による快と不快という感情です。だから食べようとしますし、眠ろうとします。また、種を残すために、生殖活動をします。食べ物を食べて美味さを感じないと、食べなくなるかもしれません。安眠は、心地よさを伴います。また生殖行為には快楽が伴います。そうした脳内の電気信号による快楽報酬があるから、人は本能行為をし、生を保つことができるのです。
逆に本能行動が満たされないと、不快、不満、怒りなどの苦しみを味わうことになります。さらに、人と協力活動をするという社会性が必要になります。ここに人間関係の苦しみも生れます。このようにして人間は自らの身を保ち生きてゆきます。これが人の生きる基本です。天皇も有名人も凡人も貧困者もみな、この基本的な本能を全うしながら生きています。また、この本能的欲求の過剰性が、社会的犯罪や戦争までもたらします。また本能が満たされない場合も、社会的犯罪につながります。「衣食足りて礼節を知る」のが人間です。このような本能はだれもがみんな平等に持つものであり、人間の平等性の証の一つです。そしてこの本能的欲望の調和状態が病と健康の分かれ道になります。人間性の一つは、こうした欲望を調整できているかどうかによります。前述の釈迦や孔子やソクラテスなどの過去の偉人たちは、この本能的欲求を調和させ昇華し、人間性のすばらしさを証明した人たちと言えます。
本能が満たされないと不快、不満、怒り、不安、恐怖という苦を感じる
ここまでは、他の動物にも見られる本能行動の基本ですが、人間も動物の一種であることを自覚することが大事です。人間の苦しみの多くは、この本能行動に原因があるからです。食べ物や住まいを得ること、現代では、お金を稼ぐことにつながります。お金は労働の対価です。お金を得るために仕事をし、人と関わらなければなりません。お金を多く稼ぐことができれば、富裕者となり、豊かな暮らしができ、快適、快感をほしいままにできます。逆にお金に窮すれば、貧困になり、生活が苦しくなり、家族を持つ場合は、子どもの養育にも影響してきます。社会的犯罪は、この人間の本能の過剰と不足に原因しています。そして、詐欺、強盗、殺人、窃盗、ギャンブルなど多くの社会問題が起きます。また、生殖本能では、不倫、性的犯罪、ストーカー殺人など多くの犯罪が見られます。さらに集団生活の必要性から、集団のリーダーである権力者が生れ、名誉名声を過剰に求め、人権を無視した行為が生れたり、集団に適応できないひきこもり・不登校が生れたりします。
快を求め・不快を避ける本能的行動
人は生きるために不快・嫌悪・恐怖を避け身を守ります。そして安心、快適を求め、身を養います。つまり好きか嫌いかという快不快感覚が生きるために最初に反応します。それは人間の行動原理の第一法則です。誰人も、この法則に則って生きています。今の苦楽は、人の目・耳・舌・鼻・身に発した感覚の反応が言葉に置き換えた意識活動の結果です。思い通りであれば快感を味わえます。うまくいかないと不快感に支配され、怒りや嫌悪、恐れなどの苦しみになります。人が他の動物と異なるのは、二本足で歩行ができ、手が使えること、大脳皮質が発達し言葉が使え、記憶をもとに思考できる働きを持っていることです。
人間の苦しみは 思考することで増した
人間は自然のうちで最も弱い一本の葦(あし)にすぎない しかし、それは考える葦である(注1)
苦しさを感じ、生きるか死ぬかと考えるのは、この地上で人間だけです。動物も植物もそのようなことは考えません。例えば事故などで脳の大脳皮質の思考野などを損傷すれば、生きる苦しさなど考える思考が活動しなくなり、植物的生命状態で生き抜くことになります。その場合、人は動物的生に近くなります。動物は、苦しさより恐怖と快感の本能で行動しています。思考することはほとんどなく、快・不快の本能的反応行動が中心です。
(注1)葦(あし)…水辺に生える植物で風に弱く、容易に倒れてしまうことから、人間の肉体的弱さやもろさを象徴しています。しかし、人間は、他の動物にはない思考力を持つため、自分の弱さを自覚し、宇宙の大きさを認識し、死を意識することができる、という点が強調された哲学者パスカルの名言です。
自分は自分と意識できるは記憶の働き
「われ思うゆえに我あり」とデカルトは言いました。思考し、それらを意識するために、自分は自分だと確認できます。考えることで、人間だけが自己認識できるのです。しかし、考えるために、人間は悩みと苦しみを引き受けることになりました。反面、思考することで人間は進歩発展し、物質的に豊かな生活を送ることができるようになりました。思考するという人間に与えられた特権をどう使うかが重要になります。思考は言葉によってなされます。
言葉は過去の記憶・知識ですが、言葉には心の思いとしての感情が伴います。それはAIにはない人間独自のものです。苦と感じるのは、知識・言葉よりも、それと一緒に生起する感情です。AIには感情はありません。正確な電気信号による知識があるだけです。苦からの解放は、感情をどうコントロールできるかにかかっていると言えます。人間は思考する感情の動物です。波のように生まれた感情のエネルギーは、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしかありません。それは、今の感情に支配されている意識を他の対象に置き換えることで可能になります。
意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることです。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーのもつ余派はすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したもの(感情と表現している)の余情や余韻が自然に消えることを待たなければなりません。一度起きた湖面の波が消えるのを待つしかないのです。
強い刺激は 頭の中を巡り続ける
強い刺激とは、前述した本能行動と関係しています。一番強い刺激は、自らの身が危機に瀕する時に生じる、恐怖と怒りです。恐怖場面に出遭ったとき、人も動物も、逃走か闘争かの二者択一を迫られます。闘争の場合は、対象に対して激しい攻撃的怒りを発します。逃走の場合は恐怖に支配されます。その恐怖感は深く心に刻まれます。闘争の場合も同様に心に残ります。そして、何かあるたびに心に浮かびあがり、自らを苦しめます。その心的状態をトラウマ(心的外傷)と表現することもあります。この繰り返しが頭の中で起きる現象を反芻(はんすう)思考と呼んだりします。心を病んでいる人に多く見られる心の働きです。また、強い刺激には快刺激も含まれます。刺激に伴う快感の強さは心に深く刻まれ、やはり頭の中を巡り、何かに触れて思い起こされ、行為を繰り返します。いわゆる依存症です。昔から言われてきた「飲む、打つ、買う」に代表される、アルコール、ギャンブル、買春という三つの本能的反復行動です。現代は、ゲームやスマホ依存が加速し、世の中の大半の人たちが依存症になっていると言われています。
反芻思考は、記憶の働きがある限り、だれしもが経験するものです。ただ、その思考のため生活に不自由を感じ、頭の中をぐるぐる回り、頭から離れない思考を病的思考と呼んでいます。侵入思考、自動思考、強迫観念とも重なる心的働きです。それは、ある時のある出来事が記憶され、反復することにより強化され、その記憶が無意識層に潜在、堆積されているからです。そこから 波のように何気に起きてきます。制御が難しいため苦しみます。しかし、忘れてはいけないことは、「やけどした子が火を恐れるようになる」とあるように、恐怖体験は身を守るための本能の働きであるということです。
生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある
生き続けていれば、よいことにも出遭えます。人生は空模様と似ています。いつも晴れではありません。雨や雪そして嵐であっても、いつまでも続きません。台風も一週間もすれば通り過ぎます。暗雲が垂れ込め重苦しい空模様の日でも、雲のかなたには太陽はいつも輝いています。目で見えなくとも、心を働かせば輝いている太陽を描くことができます。同じように、どんな辛い苦しみも、いつまでも続きません。空模様と同じです。そして見えなくとも心には、いつも太陽が存在しています。空のたとえが教えてくれるものを信じて、今を耐え、今日を生きるようにします。今日、しなければいけないことをします。今をとにかく生きます。そうすれば空模様が一定でないように、心模様も変わっていきます。だから、人は生きていけるのです。「冬来りなば 春 遠からじ」(ドイツの詩人シラーの言葉) 冬は苦を象徴し、春は希望であり、楽を表しています。
筆者の苦しみ多き青少年期
楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦しみとの闘いです。なぜなら、生きることは常に新しい出来事・変化を経験することなのです。新しい経験であるためうまくいかないことは当然なのです。うまくいかないと人は苦しさを感じます。私の過去を例に話してみます。七歳で母親と死別しました。兄弟7人、10年の間に7人ですから、ほとんど年子状態です。父親は寂しさのためか、酒浸りとなり家に帰って来ず、子どもを放置した状態でした。小学生の頃は、生活苦に苦しめられました。食べるものがない、寝る布団がない、服がない、電気がない、年上の人たちからの不当な暴力やいじめ、暴言、罵倒されたり、地域の人から厄介視されたり、およそ人間の生活ではありませんでした。
私が5年生になったころ、私たち男兄弟4人は、児童養護施設に収容されます。今と違ってその施設は、弱肉強食がものをいう動物的な世界でした。児童に自由はほとんどなく、食べ物も粗食、量り飯、休みの日は奉仕作業という名のもとの強制労働です。現代の刑務所より劣悪環境で、地獄そのものでした。多くの児童の心は歪んでいったようです。中学3年生の始めの頃に、親父に引き取られ叔母の家に同居しました。思春期、青年期になると、私は人と比較して自分を劣ったものと感じ自信を失なったり、自暴自棄になり横道にそれたり、自分の体形(身長の低さなど)に悩んだり、自分の弱さや劣等を隠すために、高校では服装違反、規律違反し、突っ張り、虚勢を張って生き続け、同級生や教師からも一目置かれる存在になっていました。しかし心は空虚で満たされず、ますます反社会的行動に走っていました。結果は高校中退です。また施設出身ということを気にしたり、性格を悩んだり、悩み・苦しみ、そして失敗の連続でした。ですが、なんとか生き抜きました。
20歳の頃、人生の善き先輩と出会い、正しい人生、生き方に徐々に目覚め、生き方の方向がかわってゆきました。自活しながらの浪人・学生時代は、自分の存在に煩悶し、生きるとは何か、自分はどこからきて、どこへ行くのか、心とは何なのか、真理とは、神や仏がいて、なぜ人々は不公平なのか、神はいないのか、正しい生き方とは、幸福とはなど、大学の勉強はそっちのけで、心、生命、見えない世界、正しい社会の在り方などを探求し哲学しました。そのせいで2年間留年しました。社会に出てからも苦悩は続きました。仕事、職場の人間関係、そして家族のことなど、青年期以上の苦悩の連続でした。ですが生き抜きました。
苦悩の先に楽しさや喜びを束の間 感じ やがて平穏な日々になる
今日まで多くの苦しみに向き合い、生き抜くたびに楽しさを感じることもありました。苦を乗り越えた先に、人生の喜びを味わいました。だから生き続けてこれたのかもしれません。しかし、その楽しさもつかの間、また苦が訪れます。その繰り返しですが、苦を乗り越えてゆく度に強くなり賢くなったのも事実です。そして、いつの間にか、苦しみの日々より、平穏な日が増えたような気がします。それは私自身の生き方が変った結果だと気づきました。生きる、それは苦楽であるということを先人は、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と訓えてくれています。それが、私たちの人生であり、生命の真実のありようかもしれません。
生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人
生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。動物は、子どもに生き抜く方法を教えるために、わが子を千仭の谷に突き落としたりして、生き抜くことを体に記憶させます。人間は、子どもの頃は親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。よいとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命を、どう生きていくかが大事になります。闘いに勝つ、つまり自分に負けないということで生き抜いていけます。
負けない自分作る 信念 目標 勇気 忍耐 そして希望
負けない自分を作るためには、正しい信念、目標、勇気、忍耐、行動、そして希望が必要です。何よりも「正しい」ということが大事です。例えば、強盗する勇気とか、人を殺す勇気とかは動物的勇気であり、人間の道に背いているため間違った勇気になります。お金持ちになりたいと言うのは正しい目標とは言えません。お金持ちになって、恵まれない人たちの役に立ちたいというのは正しい目標です。正しさの基準は、自分だけが潤うのではなく、自分も他人も潤っていく、つまり、自他共存共栄の思想が正しい生き方の意味です。そのためには、正しい知識・思想が必要です。
悲しみは 人生を深くさせる
愛するパートナーとの死別ほど悲しいことはありません。
心が締め付けられるように苦しくなり、流す涙は海となり、幾日も流れ続けてやむことはありません。
見るもの、聞くもの、食べるもの、香るもの、触れるものすべてに、愛する人の面影が宿り、愛おしさ
に心がかき乱されます。
そして人生の悲しみに底のないことを味わい、苦しみに沈みます。
心は空(から)になり、愛する人の幻とともに夢の中を生きます。
その人の旅だった世界に思いをはせ、死と真剣に向き合うようになります。
そして、残された自分の生きる意味を問い続けます。
やがて、残りの人生の使命を自分なりに感じることができるようになります。
そして愛する人との死を境に人生が大きく変わってゆきます。
その人の志(こころざし)を胸に抱き、未来永遠に、その人と一緒に生きるという誓いを果たす
深い人生を歩み始めます。
書籍「心を健康にする本」…改善率96%のマインドフルネス・認知行動療法・自然療法の3種の哲学・科学を調合させた芝蘭独自の療法 来春出版予定
主な内容…心がわからないと心の病は治せない / 心の病の原因 / 心も体も物質もすべて振動している/ 脳と心と薬の関係 / 五感覚と意識の関係 / 潜在意識が意識に与える影響 / 心の安定に関係する自己愛と母性愛(慈愛) / ストレスと適応
自分を好きになる方法 /心の傷をもって生きる方法/ よい人間関係の作り方/ コミュニケーションの上手なとり方/ 発達障害の活かし方 / 不安症の改善法/ パニック障害の改善法 / 強迫観念の改善法 / 反芻(はんすう)思考の改善法/ 抑うつの改善法/ 依存症の改善法 / ひきこもり・不登校の改善法 / 夫婦不和の改善法
怒り・悲しみ・感情の整え方/ 執着を解き放つ方法/ 自然・生体リズムに則って生きると健康になれる/ 崩れる幸福と崩れない幸福 / 自分らしく輝いて生きるために/ 心身を健康にする瞑想法
先端科学の量子力学と心の世界の関係性/ ブッダの哲学と量子力学の共通点 / マインドフルネス、森田療法の基礎になっている仏法哲学
※改善率について。3回以上の継続来談者は100%改善していますが、1~2回で来談が途切れた方の改善は把握できていません。ですから改善率は96%になっています。
本に関する問い合わせは、芝蘭之室ホームページ予約画面のメッセージらんのメールでお願いします。価格は税込み2000円(通信購入の方は、送料・振りこみ料込み)の予定です。本屋での流通予定はありませんので、本屋での購入はできません。購入はすべて芝蘭の室経由になります。
書籍… 不登校・ひきこもりから蘇る 芝蘭の便り 2026年1月出版予定(限定100冊)
目次
第一章 不登校・ひきこもりの心理
1・なぜひきこもるのでしょうか 2・不登校、ひきこもりに不足している心の安心領域とは何ですか 3・現代社会はひきこもり・不登校にどんな影響を与えているのでしょうか 4・なぜ不登校・引きこもり・心の不調者が増加するのでしょうか 5・不登校・引きこもりになったとき親が考えなければいけないことはどんなことでしょうか 6・ひきこもり・不登校の心理的要因と再生の道 7・心の安心領域はどうすれば育ちますか
コラム1 不登校を産み出す学校教育環境 コラム2 偏差値教育の弊害
コラム3 不登校・ひきこもり面接事例 コラム4 偉人が遺した名言
第二章 解決への具体的方法
1,不安の世界を生きる
2,反応から対処する方法
3,傷ついた心の癒し方
4,対人不安を軽減する方法
5,嫌な気分を受け入れて生きる方法
6,感情は言葉や思考では制御できない
7,最も制御が難しい感情は怒りと悲しみ
8,怒りや悲しみを受け入れる方法
9,苦しみの原因になる執着・とらわれを解放する方法
10,人の心が分かるようになるための心の在り方
11,苦しみから解放される生き方 …ブッタの哲学的視点
12,苦しみが心を浄化させてくれる
13,心の壁は臆病が描き出した幻影
14,私たちの心と体は常に変化し動いている…素粒子理論との関係
15,心が持つ不思議な力と働き…量子力学的視点との関連性
16,地球は生きていることを知る…自然や宇宙を想像する力
17,自立を育む安心環境
18,子どもとの豊かな関わり方
19,発達障害の活かし方
第三章 自分らしく輝いて生きるために
1 自分らしく生きることが幸福 2 自分らしさの探求は社会常識との戦い
3 自分らしさの獲得は自分独自の規範を作ることにある
4 社会常識を昇華することが心の独立 5 自らの光で周囲を照らす生き方
6 自分というかけがえのない個性に生きる 7 何に価値を置いて生きるかが大事
8 他人の評価に振り回されない自分を築く
9, 健康的な習慣が自分らしさを発揮させる
10, 自分を自分らしく表現する方法 11, 自他尊重のさわやかな自己表現法
※改善率について。5回以上の継続来談者は100%改善していますが、1~4回で来談が途切れた方の改善は把握できていません。ですから改善率は93%になっています。
※本に関する問い合わせは、芝蘭之室ホームページ予約画面のメッセージらんのメールでお願いします。
価格は税込み2000円(通信購入の方は、送料・振りこみ料込み)の予定です。読者対象は、中学生以上の子ども、心の不調者、保護者、母親、教師、教育関係者などです。
本屋での流通予定はありませんので、本屋での購入はできません。購買は芝蘭の室経由になります。
スティーブジョブ氏 最後の言葉
「パートナーや家族や友人への愛情こそ、死後にもっていける最高のものである。死に際して、財産や地位や名誉は何の役にも立たない」(趣意)と、スティーブジョブ氏(アップル創業者・56歳ですい臓がんのため死去)は死の間際に語ったそうです。生きているときも、そして死後も持っていける美しい心の品性、それが生命を愛する心です。死に際して、肉体は消えますが、心は消えません。「心は不滅であり、永遠です。誰も死んだ者はいません。すべてのものは、始めもなければ終わりもありません」(ニコラ・テスラ…アインシュタインと並び称される20世紀の偉大な物理科学者・哲学者・詩人)
以下の言葉集は、私たち夫婦の約50年の思慕、恋愛、愛情の歴史から紡ぎ出したものです。
男女の愛の始まり、それは恋心です
男女の愛は恋から始まります。恋心なくして男女の愛の成立はありません。恋は相手が好きになったり、相手を慕う気持ち、ときめく心から始まり恋愛に発展していきます。恋愛感情の背後に、性的ホルモンの働きがあります。これは全ての動物・昆虫にも共通する種保存の生命が内在的に持つ性質です。本能的であるため、盲目性があり、暴走することもあります。その段階で結婚まで走ってしまえば、早期の破綻を迎えるかもしれません。
好き嫌いは硬貨の表と裏の関係です
好きという感情は嫌いという感情と表裏ですから、相手の嫌な面を見ると、たちまち嫌いという感情に変っていき、やがて二人の間に嫌悪感が漂うことになります。例えば、どんなに好きな食べ物でも毎日食べれば飽きがきてしまい、初めのようにはうま味を感じなくなります。同じように、どんなに好きな相手でも、いつも一緒にいれば感覚が慣れてしまい、新鮮さもなくなり、好きという感情も薄れていきます。「隣の庭の花は自分の庭の花より良く見える」との言葉は、こうした感覚や刺激の性質を言い当てています。これは、人間のもつ本能的生理感覚ですから、誰人も避けることができません。倦怠期と表現される状態です。
不倫や浮気は性ホルモンの衝動的反応行為
男性の性は攻撃的、支配的、衝動的です。それは男性ホルモンの性質からきています。男性のほうが他の異性に衝動的に目移りし、性的刺激に誘発されやすくなり、種を残そうという本能に動かされます。極端に言えば、性欲が強くなれば、相手を選ばず女性であれば、誰とでも性行為をしようとさえします。だから、アダルトビデオが繁盛し、ソープランドのようなものが存在できるのです。男性生理の持つ抑制の難しさです。社会的規範や道徳性が薄れると、「性欲を押さえることができませんでした」と、マスコミで不倫報道の謝罪をした某政治家のようになります。この危険性は男性は等しく持っています。だからその性的衝動性を法で取り締まろうとしますが、不倫までは法の手は延びていません。江戸時代の不倫は姦通罪と言われ、女性は死刑になっていました。社会秩序を壊す働きだと解釈していたからです。現在でも、不倫は夫婦関係を壊し、家庭崩壊の大きな原因になっています。
不倫の防波堤…人間性を貫くのか 動物性が優位になるかの分かれ道
最後の砦は、道徳的規範をどれだけ個人が持っているかにかかっています。人倫(じんりん)という言葉あります。人としての正しい行いのことであり、人の倫(みち)という意味です。つまり人格の問題であり、人間性のレベルの問題です。人間の善性に背く行為を不倫と言います。つまり、不倫は人の倫(みち)に外れていることを指す言葉です。とても恥ずかしいことですが、欲望の濁りに染まった社会は、正しいここと間違ったことが分からなくなり、スマホには不倫サイトが横行し、不倫に甘美さをこめて、人間を奈落に誘っています。
女性は愛を知り、愛に生きるとき 美しく輝きます
女性の性は、男性と異なり受動的で平和的で抱擁的です。嫌いな人と交わることは基本的にはしません(売春のように、性を金儲けに使うのは、一種の仕事と割り切っているから可能でしょうが、当人の心の中は筆者にも分かりません)。女性は好きな人を選びます。さらに愛情のある性行為を求めます。女性の不倫は、パートナーが嫌になり、愛情を感じなくなったときに始まりやすくなります。女性は男性より愛情に生きる存在です。生理的にも愛情に守られて生きる存在です。つまり男性よりも愛情を求める存在なのです。女性は、恋をすると美しくなり、愛されるときれいに輝いていきます。それは愛してくれる人に応えるための心身全体(無意識世界を含む)の女性の生理的好反応です。世の結婚した女性が魅力的でないとしたら、それは夫の妻への愛情が足りないからと言えるかもしれません。女性は愛を知ることで、その人固有の美しさを発揮するようになります。
好き嫌いを超える一つの方法が利の価値に生きることです
倦怠期を乗り越える方法の一つが、相互の損得・利害関係を考える知です。離婚は、「世間の恥」とか「社会的信頼を失う」とか、「子どもの教育に良くない」とか、「経済的にやっていけない」とかで、二人が好きでもないのに一緒に生活している関係が損得関係を重視した利です。利の価値によって好悪という感覚を克服しようとします。しかし、それだけでは、恋愛の親近性もなく、愛もないため、往々にして冷えた関係になり、家庭内別居状態になりがちであり、二人とも幸せを感じることはできません。二人の醸し出す人間の愛情の持つ振動は、家庭の中に波となって漂い、同居家族である子どもに大きな影響を与えます。子どもは情緒が育たず、健全な愛情を持つことができなくなり、人間関係の中で不和を起こしやすくなります。これは、私が関わった不登校児の家庭によくある風景です。
二人の心の向上によってもたらされる新しい関係 それが真の愛です
これを乗り越えるのが、双方の努力によって育んでいく関係です。それは自己中心性と葛藤し、相手のことを考える心の成長が求められます。双方の心の向上なくして成就できません。愛は二人が紡ぎ出す、この世に二つとない美しい世界を表現します。その一端を私たちは恋愛小説やドラマに見ることができます。愛を育てていけば二人は終生、美しい絆をつくってゆけます。その二人に、離婚という文字はありません。
愛に必須な条件は、相手を一人の人間として尊敬することです
愛に必須な条件は、相手を一人の人間として尊敬できるかどうかです。そのためには、相手をよく理解し、相手の良さを見出せるかどうかにかかっています。これは、好悪や利害を超える心の絆があります。人間信頼、人間尊敬ほど強い絆は、この世にないからです。
愛とは相手を大事に思う心であり 相手のすべてを受け入れることです
愛は本当の優しさをともないます。また見返りを求めることはしません。相手がどんな状況になっても、たとえ相手の姿かたちが変わり果ててしまっても、その人のすべてを受け入れ 守り、大事にし、尽くし抜く心、それが愛です。
愛とは耐えることです
例えば、男性が新婚前後の女性に愛を捧げるのは難しくありませんが、10年、20年、そして相手が白髪になった70代、80代になっても愛を貫くことができれば、それは本物の愛です。そのパートナーは世界で最も幸福な人といえます。愛を貫くには、相手の嫌な面も包容する忍耐力が求められます。忍耐力は人を一回りも二回りも成長させます。愛することにより、忍耐力が強まり、人間としても成長できます。つまり愛は二人を人間的に成長させてくれるのです。
大人の愛の実践は人間向上、人間完成であり、最高の幸福への道です
―愛とは互いに見つめ合うことではなく 二人が同じ方向を見ることであるー
サンテグュペリ・星の王子様の作者
愛の実践には、心の強さ、忍耐する心、正しい心を保つ品性が求められます。愛は二人を高め合います。高め合う愛こそ本物の愛です。愛は人間の品行の成長を伴います。愛する二人は限りなく向上し輝き、美しさを放ち、周囲をほのぼのとさせます。それが本物の愛の品格です。そして、その愛は、パートナーから家族、友人へと広がってゆきます。愛は平和の原動力なのです。宗教が愛を大事にする理由はここにあります。
愛は その人のすべてを受け入れ 大事にし たとえ相手が白骨になったとしても その人を愛し続けることができる それが真の愛です。そして、その愛は、常にときめき 引き合い、共に永遠を生きます。
愛を育む具体的実践
人間の自己表現法は二つある。
1,言葉の表現…言葉は事物の比喩であり、共通の記号。 言葉の裏に込められた意味を読むためには心を遣わなければいけない。
2,言葉以外の表現(ノンバーバルコミュニケーション)から心を読む
※ノンバーバルコミュニケーション…顔の表情、服装、振る舞い、声色など
メラビアンの公式(好意の総計100%)‥人の印象に残る表現を知る
①言葉による表現(言語情報・話している内容)…7%
② 声による表現(聴覚情報…声の大きさ、声色、速さ、口調など) …38%、
③ 言語外による表現(視覚情報…見た目、視線、しぐさ、表情、服装など) …55%
※言語外表現が、最も人の心に好感として残る
会話における言葉には 三種類の機能があることを知る
1、言葉は共通の記号である
2、言葉の解釈…言葉の正しい意味
3、言葉にこめられたもの…言葉で表現しようとしている言葉以前の心、感情、気持ちという波動のようなもの」をキャッチする
※出来事を語る場合…人によって「出来事」の受け止め方は異なる。置かれた位置、立場、精神状況による。相手の背景、立場、認知の枠や癖を理解して出来事を再生し、想像し真実に迫る。
心を開く関係づくりは、無条件の肯定的な関心を持つことを知り、実行する
・相手に対して無条件の肯定的な配慮をもつこと。➡条件・限定をつけるということは、こちらの欲求を満足させる利己的愛情といえる。
・第一に、人間の意義と価値に対する心からの尊敬。⇒肯定的関心
・第二に、相手の自己指示(方向、選択、決定)の能力を信頼できるかという点であり、個人の人生を決めるのは、その人自身であることをどこまでも深くこちらが感じ取っているかである。
相手を総合的に理解するよう相手を思い遣る
①相手を取り巻く状況を多角的(時間・空間的)に知る
・長所短所などの特性、趣味、友人、今の置かれた状況、精神状態。
一つのカテゴリー・型にはめこまない。相手の現在を多角的に理解するメタ認知力を高める
②こちらの態度と人間性の与える影響力
・相手とどのようにつながるか、こちらの人間性、態度、言葉遣い、安心感、ほっとする雰囲気、こころを開く言動や振る舞い…総合力でつながること(コミット)を心がける。
・相手が心を開かなければ、こちらを信頼しなければ、関係はできない。
これは、すべての他者とのかかわりに共通したものである。「心を開く」「信頼関係」が大事になる。
・「心の思いを声にのせる。つまり、言葉や声、声色で心を知る。心を聴く努力。
・自分にとって相手は「鏡に浮かべる姿」 人は関係性で変わることを知る。
・悩んでいる人に対して大切なことは、心を軽くしてあげること、明るくしてあげること。相手の言うことに、じっくりと耳を傾ける。じっくりと話を聞いてあげる。それだけですっきりする心が軽くなることが多い。聞いてあげること自体が、苦しみを軽くすることになる。
スキンシップをこころがける
・手に触れる、手をつなぐ、肩に触れる、肩を抱く、軽くキスをするなど、一日に一回はスキンシップをこころがけ、パートナーを安心させる…愛の貴重な表現法です。
・心のスキンシップ…会話、対話、雑談、何気ない話…一日30分以上はする。一日何度か、笑顔を贈り、優しい言葉をかけ、相手を思い遣る。
メンタライゼーションを活用する…
メンタライゼーションとは、「行動の背後にある心理状態と意図を考慮に入れて、他者の行動の意味を解釈する能力である。」
⇒相手の心は理解できないという無知の姿勢が大事。だから相手を理解していこうという、相手に対して積極的な関心を持つようにする。信頼関係が築かれないと相手は心を開かない。心が開かないと、どんな言葉も相手の心に届かない。自分の心理状態を知ること。自分の心理状態が悪いと、相手の心を理解する余裕もなくなり、理解できなくなる。相手の心理状態を知り、相手の状況を知る努力をする。
心の健康のために…ストレスに負けないレジエンスを日常から培る
1 自分はできると信じる、自分に負けない心をもつ…あきらめない心が心を強くする。
2 失敗した時、新しい自分を見つけるようにする。人生・経験は、すべて教師である。失敗も成功も一つの出来事、全ては経験であり、自分や人生を教えてくれるかけがえのない教師である。
3 自分を支える人を持つ。 身近な人に感謝できる心を持つ。
4 良い習慣を身につける…規則正しい生活、良書に親しむ、笑いと感謝、積極的、前向き、楽観的、強気、出来事に意味を見出す生き方、未来を明るく想像する生き方、マインドフルな生き方など。
5 心の強さは、「苦」を乗り越える度に強化されることを知る。
パートナーへの愛は、人間としての成熟度を表しています。
私の目的は 個々の人が自分の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい ニコラ・テスラ(注1)
人は自ら持つ力を自覚したとき変わります。人は自分が置かれた状況の意味を知るとき変わります。人は、多くの人に支えられて生きていることに気づくとき変ってゆきます。自分の存在意味を知り、可能性への気づきは希望をもたらし、変化への原動力になってゆきます。芝蘭の室を訪れたひきこもり・不登校者の多くは心理対話によって、自らの心に内在する可能性を自覚し旅立ってゆきました。
最近の二事例です。7年ひきこもっていた青年は、7度の対話を通して、「人生、逃げていたら負けなんですね。私は今まで、大事な時に、いつも逃げていました。立ち向かいます」と自らを深く自覚しました。その後、就職し社会に復帰してゆきました。ある女子高校生は、中学生から不登校引きこもりになっていました。面接が7回に差し掛かったころ、「人間は常に刺激に反応している。刺激に、よりよく反応することが生きることである」など、自ら心裡や自然の働きのすばらしさに気づいたころから、大きく変わってゆきました。今は希望をもって学校生活を送っています。上記の二人は、自らの心を再発見することによって変わってゆきました。「汝(なんじ)自身を知れ」と叫んだのはギリシャの哲人ソクラテスでした。気づきや自覚を触発する人間性対話が、自ら閉ざしていた心を開き、光に照らされたかのように眠っていた魂を触発し、可能性の開花に向かって動き出したのです。
不登校・ひきこもりは 脱皮のための準備期
人間にとって大事なことは、どんな環境や出来事にも適応できる、強い心、賢さ、そしてしなやかで優しい心を持ち、かけがえのない自分を自分らしく表現して生きることです。この世界に、あなたの顔が一つしかないように、あなたの人生もあなただけの道になります。ガイドラインやマニュアルは机上の知識に過ぎず、参考になる部分もあるかもしれませんが残念ながら、人生には数学的な模範解答はありません。なぜなら人生は、一人ひとり異なり、誰一人として同じ人生はないからです。人生の問題を解くカギは、自ら悩み、試行錯誤し、失敗を重ね、その中から自分にふさわしい道を見つけるしかないのです。
善き人との対話が人間の可能性を触発していく
ですが、その道は難問であり茨の道です。ですから、先人が得た智慧に学ぶことが大事になります。その智慧は対話・名作読書(注2)によってもたらされます。人生における疑問や質問に対して答えてくれる善き友・先人・先生が必要になります。かつてギリシャの哲人ソクラテスは、対話によって青年たちの可能性を開いたと言われています。その対話は産婆術と言われ、青年のもつ個性的可能性や能力を産み出しました。また釈尊(ブッタ)も対話を通して、弟子たちの疑問に答え、悟りの道に導いたとされています。日本の明治維新を推進し、多くの俊英を輩出した松下村塾の吉田松陰も対話で青年たちの心を触発してゆきました。
本来、学校は生徒と先生の対話によって、子どもたちの可能性を開く場としての目的がこめられていました。しかし、現代の学校は、知識偏重になり、知識の総量を偏差値として数値化し、よい高校、よい大学に進学するという目的にすりかえられたかのように、社会経済に役立つ人間を育成しています。しかしながら、そうした知識の多くは、今後AIで代用できるようになっていきます。知識偏重教育には、大事な人の心、人間性の開発が置き去りにされてきました。それが不登校の原因の大きな要因になっていることに気づいている人は、ほとんどいません。。
母親が持つ わが子に対する無償の愛の力
子どもが、どんな状態になっても、子どもをそのまま受け入れ、大事に守っていくという無条件の愛情(注1)を親が持つことができれば、子どもは必ず良い方向に向かっていきます。また、親自らが誠実に子どもの成長を願い行動している姿は、目に見えたかたちに現れなくとも、必ず子どもの心に届き、やがて心を開いてゆくようになります。苦悩する子どもにとって、親の真心の愛情に勝る良薬は、この世界にはありません。ユダヤのことわざに「母親は百人の教師に勝る」とあるのはこの意味です。
(注1) 無条件の愛情…ヘレンケラーを世界的偉人に育てた陰の支援者はサリバン先生です。目が見えなくなり、三重苦から自暴自棄に荒れ狂うヘレンに対して、彼女は忍耐強く「無条件の愛情・肯定的関心」を持ち続け、終生ヘレンに尽くし、彼女の持つ可能性を開いたとされています。ヘレンの偉業はサリバン先生なくしては成し遂げられなかったと言われています。ヘレンは「私を作ったのはサリバン先生です」とサリバン先生の恩に報いる行動を生涯、貫きました。ヘレンの人間としての偉大さは、そうした報恩の行動に最も表れています。
付録1「子どもの心がみえるとき」荒れ狂う生徒たちに対して、無条件の愛情を根本にして忍耐強くかかわり、心を開いていった中学教師のかかわりの記録の本。
短絡的に精神科や心療内科に連れていくのは考えものです。それは、結果的に、多くの場合、症状を長引かせたリ、悪化させたりしてしまいます。これは心療内科だけではなく、心の専門性の低い相談機関は同じことが言えます。芝蘭の室を訪れる長期不登校・ひきこもり者は心療内科にかかったものやカウンセリングルームに通所した経歴の持ち主がほとんどであり、それも数カ所を巡った人も少なくありません。ほとんどの人が、改善せず、逆に悪化させて、芝蘭の室に来所しています。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。
不登校の原因の大半は 子どもの教育環境にある
人間は人間に教育されることによって、人間になっていきます。かつて狼(おおかみ)に育てられた少女は、人間の行動や心が育たず、狼の習性を持ったまま、短命で命を終えました。彼女たちは人として生まれましたが、養育環境が狼社会であったため、狼の行動習性を身に付けてしまいました。この貴重な事例は教育の本質を教えてくれています。どんな教育環境にいるかで、子どもは変わります。
教育によって人は人にもなりますが、動物以下の生きものや魔物にもなります。戦時下のかつての学校・思想教育では、天皇の神格化が進み、神である天皇のために死ぬことは、国の恩に報いることであり最高の美徳とされたのです。そのため、神風特攻隊や人間魚雷などで若き青年が命を捧げました。背く者は非国民とされ、その思想に反対する者は獄につながれ、拷問を受けました。また多くの外国人を殺すことが英雄になったのです(残念ながら地球上では、ロシア・ウクライナ、イスラエル・イラン・ガザ地区などの国では今も、そのようなことが現実に行われています)。すべては誤れる教育や宗教・思想が、人をそのように仕向けたのです。教育・思想の恐ろしさです。正しいものを見極める基準が大事になります。その基準とは、地球上のすべての人が幸福になれる思想・教育こそ、正しい教育であり、思想・宗教といえます。登校・ひきこもりで当室を訪れる家庭に共通している要因を挙げてみます。一番は母親の過干渉です。二番は虐待・無関心・子への愛情不足です。三番は親や祖父母の過保護です。四番目は母親の心の不調・うつなどの病気です。共通してよく見られる要因が夫婦の不和(家族の不和)です。少子化や核家族化や共稼ぎ、学歴偏重社会の影響を受けています。
子
学級のルールは「みんなの目」です。「みんな同じように」「みんながやっている」などが規範になります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という集団論理が生まれます。正しいかどうかは二の次です。集団の正しさとは集団の掟のことであり、集団に存在する暗黙の規範のことです。みんな平等という表面的な平等主義が学校を支配しています。本当の平等主義は、違いや異質という個を認めたうえで成り立ち、人間の尊厳性に基づく理念です。異質の排除の考えが、いじめや無視などの集団同質化行動を産み出します。また行き過ぎた管理教育が、自立を損ねていきます。これらが不登校を産み出していきます。
最後は社会・情報環境です。現代社会では、この社会・情報環境が一番の影響力を持っているかもしれません。中学生以上の国民の大半がスマホ依存という、異常なスマホ情報依存環境に生きていますが、その異常性に多くの人が気づいていません。スマホ、パソコン、テレビから流される情報に子どもも、大人も知識(最近はAIが多い)を得て教育されているのが現状です。その知識の真偽も精査せず、心に深く記憶化されていきます。それは以後の行動に無意識的に作動し、判断や選択に影響を与えることを自覚できている人はほとんどいません。また、このような情報環境を親も教師も制御することは困難です。
不登校・ひこもりの心…
不登校・ひきこもり状態にある人の多くは、心の不安定感(過度のストレス)に耐えられず、家という安心領域・癒しの空間に回避した状態です。そのこころは、人や場に対する恐怖や不安、行為の後に訪れる嫌悪感や恥ずかしさなどの不快や自責の念です。人は本能的に不快を避けます。不快への過敏感覚はストレスとなり重なると、心身の不安定を招きます。不快を避けるのは、生きるための生物・人の大事な保身行為の一つだからです。その心を、さらに詳しくみてみましょう。
日本は世界でも有数な安全平和社会であり物質的に豊かな便利社会です。それなのに、なぜ社会不安障害、適応障害、うつ、ひきこもり・不登校などの心の不調者が増加するのでしょうか。物質的豊かさの追求とその享受、便利社会の恩恵に反比例しているのが、心の豊かさの喪失現象です。便利さや不自由のない生活は、生きていく上での大事な忍耐する力、思考したり、想像したりする場を奪っていく面があります。つまり、心は貧しく、乏しく脆弱になっていくということです。
不登校・引きこもり状態にある人は、不快感覚がもたらした恐怖や嫌悪というストレス状態の一つの解決策として家に籠った状態です。その引きこもり状態に大きく影響しているのが、人間だけが持つ知的記憶力です。嫌な出来事を知的に記憶してしまうところが、他の動物と異なるところです。世間でいう、トラウマ(心の傷つき体験が記憶化されたもの)現象です。もちろん、動物も恐怖や脅威対象に対して本能的な身体記憶作用が働き、出遭った瞬間に直観的に、その対象から逃走します。生き抜くための身を守る本能的記憶行動です。
生き抜くため行動に潜む「癡・おろかさ」について述べてみましょう。痴…おろかとも表記します。知が病んでいる状態、間違った知識というのが言葉の意味です。ものごと、人間、自然の法、因果や道理がわからず、目先の感覚的欲求に抗しきれなく行動する心的状態です。
「飛んで火に入る夏の虫」暗闇の光を求め、火に入り、焼け死んでいく虫たち。このようなことは人間社会にもたくさんあります。お金のため、有名校に入るために大事な人の心・情緒を失うのも愚かさ、好きなものを食べ過ぎたり、飲み過ぎたりして病気になるのも愚かさ、専門家の誤った知識に騙(だま)されるのも愚かさ、人を傷つけることも、殺し合うのも愚かさが原因です。
すべて生き抜くために自分を守るための行動が発端になっています。生物・人間の本質の一つが自己中心性です。誰人にも潜在する自己執着意識(注)の働きです。自己中心性を発動させないと生き残れないからです。しかし、自己中心性だけに生きると、弱肉強食(争い・戦争など)世界に生きる他の生物や動物と同じレベルになってしまい、共生ができなくなります。人間と動物の違い‥それは他者への思い遣りという思考・想像力を働かせた心の働きです。自己中心性を克服する鍵は、人の情緒の働き、優れた想像力と思考力のもたらす、思い遣りの振る舞いにあります。
世の中、偽りの情報、利己的金儲けのための巧みな情報など玉石混交状態になっています。無知な人たちをだます似非専門家たち。視覚情報に弱い人間心理につけ込むコマーシャルやユーチューブ動画など。見抜くのは大変なことです。甘言で人の保身を増長してゆきます。愚かさの病が現代人を覆っていると言えます。人々は表面的な浅い思想につかりきっているようです。仮初(かりそめ)の平和に守られ、便利さに忍耐心を失い、思考することを麻痺させられ、人々は自らの生をよりよく保とうと快適情報にますます依存し、生きる力を弱め、脆弱性(ぜいじゃくせい)を強めています。そのうち、あらゆる病気が生活習慣(基本は思考、行動、情緒の在り方、社会環境のもたらす毒性)病と言われるようになるかもしれません。
正しい知識と対処力が 正しい人生を開く
その結果、心の病はますます増産されていきます。生きること、身を守ることに潜む愚かさが原因と気づかずに心身が毒に染まっていきます。それを乗り越える方法は、まず正しい知識を身につけ、正しい情報を見抜く智慧を培うことから始まります。人の心の安心領域は、個人によってすべて異なります。個々の心的状態の把握なしに解決は難しくなります。心の在り方、感情と思考と行動の関連性、記憶と潜在意識など個人の反応のしかたを正しく知ることから、安心領域の拡大が可能になります。つまり自分の意識・心を、どこまで正しく明確に見ることができるかが重要になります
そのためには、正しい師・先生が必要になります。正しい師とは、病める人を確実に改善し、その人の人生を高め、幸福の方向へ導くことができる人です。例を挙げれば、ブッダ・釈尊のように多くの人を現実的に救い、幸福の人生に導く人です。現代社会に、そのような人がいるのかと思うでしょうが、います。私も何人かに出会い、そのおかげで今の私があると思っています。菩薩の心(注4)を実践している人はいますが、表に現れていないだけです。私利私欲なく無私の志を持って生きている人です。洞察眼を磨けば、自然や宇宙現象もその一つであることがわかります。
(注4)菩薩の心…釈尊・ブッタは菩薩道に終生生き抜きました。菩薩の道を行く人はブッタの志を生きる人です。最近では中村哲医師がいます。アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされました。彼のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らをかえりみず献身する母親もその一部)の一人だと思います。 中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」は、平安時代の人、最澄の言葉です。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」この最澄の生き方は菩薩の心そのものです。
心、体、自然、ものとの相関性についての気付きが解決の良薬
自分の心をみつめ、正しく知識することがまず一番大事になります。自分の意識や感情を知ることです。自分の身体の働きについて正しく知識することです。生きていることの不思議を感じるように自己観察力を磨くことです。地球・宇宙や自然や環境や他者との関係性で生きていることを想像力を磨いて実感するようにしましょう。正しい人間観、社会観、自然観を身に付けることです。全体を網羅した知識がもたらすものが気づきを産み、行動を変えてゆくからです。それらが心の良薬なり、一回りも二回りも成長した人格に成長していくことになります。そのとき乗り越えられない心の壁はなくなり、不登校・ひきこもる必要がなくなり、社会・学校をはじめどんな環境にも適応順応できるようになります。それがニコラ・テスラが教えてくれた「自分の翼で飛ぶという意識」です。
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と関係はありません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・法華経に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、ジョン・カバットジン氏のマインドフルネス、そして科学(量子力学)と釈尊・天台智顗・日蓮の生命理論の関係性を思索研鑽しています。学びの旅は、今も続いています。学べば学ぶほど自分の無知に気づき始めています。
付録1 「こどもの心がみえるとき」当時、市内一荒廃した中学校に赴任し、荒れ狂う生徒たちに真正面からかかわった一中学教師のノンフィックシヨン小説(松岡敏勝著・文芸社)。テーマは、荒れた子どもに対する「無条件の愛・可能性を信じる心・忍耐・誠実」。ペスタロッチ(教育の父と言われている)の志を胸に抱いて、2年間かかわり、苦闘の末、子どもの心を開き、共に大きく成長した物語。
想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ
アインシュタインの名言です。宇宙の物理的真理の一端、相対性理論を発見した彼の言葉は光彩を放っています。かたちは異なりますが、彼は想像力・思考力を磨く瞑想をしていたと思われます。瞑想は、目を閉じて、座禅しながらやるだけのものではありません。瞑想を深める不可欠の要素が、研ぎ澄まされた想像力と混ざり気のない思考力と浄化された心の働きです。宇宙や身体の働き・性質は、目に見えないため、言葉だけでは覚知できません。すべての言葉は人間が創ったものであり、あくまでも事物の比喩であり、ものごとそのものではありません。見えない世界は、想像力を働かせ瞑想すれば、言葉のもともととらえようとした事物に接近できるようになります。瞑想・想像力は心を宇宙大に広げ、心を豊かにしてくれるとアインシュタインは教えてくれています。
瞑想の本来の意味
マインドフルネス(注3)の影響もあって、瞑想という言葉が流行しているようです。その瞑想は、アメリカのジョン・カバットジン氏、発案のものです。彼は日本で禅を修業されました。瞑想は、日本が発祥の地(正確にはインドが源流)ですが、なぜかアメリカのカバット・ジン氏を模倣したものが、現在の日本に広がっています。本来の瞑想は、心を浄化させながら、想像力と思考力を磨き、自己の本地を直観する修行で「禅定」と呼ばれていました。浄化された心の静慮のもと、本来の自己と宇宙的自己を貫く不思議な法(六感覚・注4では感知できない)が交流共鳴すること、それが禅定であり、釈尊の直観瞑想と言われてます。深い瞑想に入るには、曇った心を浄化することが必須になります。汚れた鏡には映像が正しく映らないからです。マインドフルネス瞑想は、今に集中することによって、生命の純一化をはかり、広大な慈悲と智慧の世界に接近しようとした試みのように筆者には思えます。
(注1)「今という瞬間の生命」…釈尊(ブッタ)は、私たちの生命は今の瞬間しかない、この瞬間の生命は、無限であり、無量であり無始無終である(法華経如来寿量品による)と覚知されたと言われています。アインシュタインは「私の永遠は、今、この瞬間なんだ」という言葉を残しています。釈尊は瞬間の生命現象を「如来・にょらい」と表現しました。如如(にょにょ)として来る、言葉では表現できない(言語道断)不可思議な生命のできごとという意味です。釈尊は、この如来を、仏性(ぶっしょう…サ・ダルマ・フンダリキャ・ソタランと表し、名訳者の鳩摩羅什・くまらじゅうは妙・法・蓮華・経と漢訳しました)と名付けたのです。この宇宙・森羅万象は「如来」であり「妙法蓮華経であり、智慧と慈悲の働きを持つ生命の永遠のエネルギーであり、光と闇」であると釈尊は覚知されたと言われています。ニコラ・テスラは「この世のすべては光である。宇宙には、もともとエネルギーがあり、それは光となり、物質を作り、やがてエネルギーに戻る。この世は光の無限の形象である。闇にはエネルギーが潜んでいる。宇宙には始めも終わりもない。」(趣旨)と、宇宙や生命の永遠性の一端を垣間見ていたようです。それは釈尊の悟りと一部、重なっているように思えます。
(注2)智慧と慈悲の光…生命の持つ最高のパフォーマンス、振る舞いを表す言葉です。慈悲とは抜苦与楽という意味です。苦しみを抜き楽をもたらす生命に本来的に具わった働きです。智慧は、瞬間瞬間変化する今に最適に対処する力です。知識が過去の固定化されたものであるのに対して、智慧は、今をもっともよく生きようとする適応力といえます。それは慈悲の発動とともに発揮されます。太陽が光を放つのも慈悲であり智慧です。地球が自公転し、地上の生物を守り支えているのも慈悲であり智慧です。雨が降るのも…空が晴れるのも、花が咲くのも、穀物が実るのも、地上に空気があり、重力があり、水があるのも慈悲であり智慧です。慈悲とは、生命を守り、慈しむ働きです。智慧と慈悲が生命を創造しているといえます。ニコラ・テスラがとらえたエネルギーという表現と重なります。慈悲は利他の行動を伴います。それは自己中心性と反対の働きです。慈悲と智慧が崩れざる幸福(絶対的不動の幸福)の源泉です。逆に無慈悲と悪知識(悪智慧)は生命を破壊し、不幸の種子になってゆくとブッタは説いています。
(注3)マインドフルネス…アメリカのジョン・カバットジン氏(現マサチューセッツ大学医学部名誉教授)が考案したストレス低減法。彼は日本で仏教(開祖は釈尊)の禅を修行し、それにヒントを得てマインドフルネス(生命力がよみがえる瞑想健康法ー心と体のリッフレッシュー著書「マインドフルネス・ストレス低減法」)という言葉で表現し、独自の瞑想法を開発しました。彼は心の中に流れるダルマ(法)の悟りを基本にし、人間の煩悩の一部を明らかにしたと言われています。その苦しみの軽減法を、マインドフルネスと称し、アメリカのみならず、日本や多くの国に広がり、病める人を救い、高い治療実績をあげていると言わています。
(注4)六感覚…眼根、耳根、舌根、鼻根、身根、意根の六つの現実世界を感知・認知する能力のこと。仏教唯識哲学派が、心の深層世界を解明したものによると、「根・こん」とは能力を指します。唯識(ゆいしき)哲学は、根(能力)―境(対象・縁)ー識(判別する、分別する、知る)という三つの認識過程を詳細に解明しています。六根清浄(ろっこんしょうじょう)という言葉がありますが、今風に言うと心身のデトックス(浄化)を含んだ言葉であり、六根清浄された心身は思考も感情も欲望も振る舞いも高度に洗練されたものになり、人としての最高のパフォーマンスを発揮できるようになるとされています。通常の欲望充足に伴う満足感や快感を「欲楽」といい、それは、比較相対評価を伴い、はかなく消えゆくものですが、六根清浄の果報に伴う満足感は「法楽」とされ、深く壊れにくく絶対的であり、永遠性(付録1)があると言われています。法楽は当時の仏道修行者たちのあこがれの世界であり、修行の最終目標でした。
地球瞑想は 心を豊かにし 優しさを開発していく
私たちは地球という大地に棲んでいますが、地球上に存在していることを意識することはほとんどありません。大地が揺れる地震があっとき、ああ地球の大地にいるんだと意識する程度です。地球には、大気があり、気圧があり、熱があり、水蒸気があり、風があり、重力があります。それらの働きによって、ほぼ一気圧を保ち、宇宙に浮遊することもなく重力に守られ、程よい酸素で生物は呼吸し、気温も100度に上昇することもなく、現在の気温を維持しています。また、山あり、谷あり、丘あり、沙漠あり、平野あり、川あり、湖あり、生命の源でもある海もあります。空には、鳥や昆虫が飛び、大地には人間をはじめ、さまざな動物、植物、微生物が生息しています。海には魚、エビ、凧、藻類や海藻などが生を営んでいます。
地球の大気圏は、生物に有害なX線やガンマ線などの光を遮断してくれています。そして可視光線と言われる波長を届けてくれ、私たちは、太陽の光(一部は電気)の反射でものを見ることができています。また赤外線のおかげで地表の温度を保っています。現在のような温暖化現象による高温が続くと、少し地球の気温上昇を意識するかもしれませんが、これらのことを、日常考えることはありません。瞑想という想像力をつかえば、多くの自然現象や宇宙の現象の働きの不思議さを実感できるようになります。そして、インスピレーションのようなものが訪れてくることもあります。この瞑想を人類が実践するなら、戦争の愚かに気づき、人間のエゴは抑制され、人々は地球民族として、お互い助け合い共生できるようになります。
ニコラ・テスラの発明と瞑想
地球は月という兄弟衛星を伴い自ら回転し、太陽の重力に引っ張られて、その周りを一年かけて巡ります。また太陽系の中で他の惑星と協働し絶妙な調和と秩序を保っています。その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営んでいます。宇宙瞑想で数多くの発見をしたニコラ・テスラ(注5)(IQ300と一部で言われている科学者・哲学者・詩人)がいます。彼は、瞑想の中に訪れた瞬間(悟り・閃き・インスピレーション)を、発明ではなく、宇宙にもともと存在するものを受信したに過ぎないと表現しています。宇宙・自然にもともと存在するエネルギー、振動、周波数に共鳴したというのが、彼の思考・想像に基づいた瞑想で受信したものでした。瞑想とは、目に見えないが確かに働き、存在する法を発見することとも言えます。
(注5) ニコラ・テスラ…アインシュタインに比肩する20世紀最大の天才物理学者と言われています。交流電圧を発明し、300以上の発明、発見をしたと言われています。物理学者よりむしろ、詩人であり、哲学者であることが彼の卓越性を表しています。生涯独身を貫き、人類福祉のための発明に一生を捧げました。「私の脳は受信機に過ぎない。宇宙には中核となるものがあり、私たちはそこから、知識やインスピレーションを得ている。私は、この中核の秘密に立ち入ったことはないが、それが存在することは知っている。」などの名言を残しています。彼は、クンダリーニ・ヨガを通じて感情を制御する方法を学んだと述懐しています。アメリカのイーロン・マスク氏は、ニコラ・テスラの崇拝者として有名です。
痛みや苦しみは 心身の浄化作用
私たちの生命は、関係性で成り立ち、刺激がもたらす変化に適応し、心身の秩序を保つことによって生を保っています。刺激の強さ(注6)に、細胞組織の秩序が乱れるとき、痛みや苦しみというメッセージが脳に届きます。また刺激に対する執着や抵抗(注7)は神経の過剰な活動を招き細胞を壊すことにつながります。細胞の破壊が、病の原因です。さらに思考や感情の偏りは、心身に負荷をかけ過ぎ、調和を乱してゆきます。調和が限界を超えるとき、心身は疲弊し、病が発生します。しかし、人はその原因を見ようとせず、目に見える症状としての痛みや苦しみだけを除去しようとします。結果として、病は増幅し本質的な解決は難しくなります。病のもたらすものを知れば、それを薬に変えることができます。
(注6)刺激の強さ…脅威を与える対象に対して、心身は恐怖や怒りに対処する神経・ホルモン反応が起こります。そして心身を守るために、闘争か逃走かを選択し、危機を乗り越えようとします。対象が強烈である場合は、その刺激の強さに抗しきれず、心身は破壊や破滅につながることもあります。例えば、地震などの自然災害、戦争、傷害、事故、火災・などに遭遇すると、心身は一気に損傷、破壊されます。逆に強い快刺激をもたらす対象…ギャンブル・ゲーム、アルコール、麻薬、性的なもの、食べ物、宝石、お金、スマホ情報などの報酬的快感は反復行為(嗜癖・依存・くせになる)をまねき、その過剰神経反応が、心身の調和を乱し、病的になっていきます。専門家は、この状態を依存症と表現しています。
(注7)執着や抵抗…例えば、怒りの対象に対して、反復的な考えや思いが繰り返され、不安や嫌な感情を増長させ、うつの原因になったりします。その現象を反芻(はんすう)思考という学者もいます。また快刺激への執着は依存症を招き、心身を乱し疲弊(ひへい)させていきます。
身体瞑想は 体を健康にする
私たち人間の身体は心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡ってゆきます。食べたものは口内で咀嚼(そしゃく)され、食道を経て胃に数時間38度の温度で保管消化され、十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進みます。小腸でさらに本格消化が始まり、肝臓に送られ、そこで加工・貯蔵され、血管を通して各臓器に栄養となって運ばれます。大腸では数十兆個の大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたものは約7メートルの消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、人間が生きるためのエネルギーになります。
腎臓は1分間で1リットルの血液を浄化し身体を守ります。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり約200の加工的な働きをしながら体を守り動かしています。ホルモンは炎症を抑えたり、体や臓器の調和をはかり、身体の恒常性を保ってくれています。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚を通して身体を守ります。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守る免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節してくれています。皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の細菌、ウィルスから体を守り、その総重量は10㌔を超えます。人間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美男などと私たちは言います。
意識は、体の働きの1000分の1も 感知することができない
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で内・外世界の情報を得ていますが、それは身体の働きの100分の1以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識(し)る(注8)ことがではないのが人間の本来的な働きなのです。
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆個の細胞を新陳代謝させ、絶妙な調和と秩序を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。
もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが感覚の現実ですが、それは人の身体全体から見れば一万分の一程度の微小なことに過ぎませんが、苦になります。
(注8)識る…「知る」は、記憶に基づいて物事を判別するという、いわゆる知の働きを指します。「識る」は仏法の生命哲学の中核をなす、唯識派の重要な概念の一つです。「識る」は「知る」と違って、心全体でわかるということです。「知る」が部分知であるのに対して、「識る」は全体知・直観智になり、ものごとの理解の深さが異なります。瞑想は、「知る」から「識る」に到(いた)る修行です。
生きる…それは変化しく関係性で成り立っている
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。現代人の多くは視覚・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失う傾向にあります。それが様々な新しい心の病を作りだしていることに気づいていません
不安・適応障害は時代がつくった産物
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っているからです。
磨かれた心の目には 肉眼では見えない世界が映し出される
「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」(シュレディンガー、20世紀の物理学者、波動力学を提唱、ノーベル物理学賞受賞)
磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には、見えないものまでが正しく見えるようになります。目に見える表面的なものではなく、その背後に隠された重大なものをみることができるようになります。何が幸福をもたらし、何が不幸にさせるのかを明晰に見分けることができます…。幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです。
心を汚す 四種の欲望と感情
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると、心の波は逆流し、自他を巻き込み、いたずらに消耗し、やがて苦しみの海に沈んでゆきます。限度を知らない過剰な欲望は、自らを焼き焦がし、周りを燃やし、炎の波にのまれてゆきます。快楽に耽け続けると 心は淀み、濁ってゆき善悪がわからなくなり、心の波長は間延びし、思考もとまります。人に勝りたい 人より優位に立ち、人を支配したいと思い続けると、心は歪んで、素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は、ほどよさの感覚を失うと調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。
慈愛の人がかもしだす 穏やかな雰囲気
幸福になる音色を奏でる人は、心が素直で柔らかく、きれいに澄んで、美しい振動を奏でています。財産、社会的地位、名声、人気、才能、美貌、健康などは、幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが、時とともに色褪せ、壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは、空しく時と共に風化し、最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは、花火のようなもので、刹那的な陽炎(かげろう)のようなものです。
こころは流れる 執着・とらわれの多くは 変化に乗れず エネルギーの無駄遣い
ー祇園精舎の鐘の声 諸行無常(注9)の響きあり 沙羅双樹(注10)の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の言葉は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 知識ではなんとなくわかったような気持になりますが、凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り、事物をありのままに見ることができないからです。
(注9) 諸行無常(しょぎょうむじょう)…中学時代、古典の平家物語で勉強された方も多いと思います。仏教で説かれた重要な哲学の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は関係性(縁起という)によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていない「生滅の法」に則ています。それは諸法無我と同義です。全ての存在は関係性で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と判別しているにすぎず、夢のようなものを実在していると思い込んでいます。認知症が進み、重度になり記憶機能が失われた場合、自分が自分であることも分からなくなりますが、生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による夢の世界のできごとなのです。
この世のものは全て流れており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の見解です。私たちもやがて変化し死んでゆきます。この大地、地球も太陽もやがて死んでなくなります。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明するかたちになっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった意識は、夢の中を生き、心の真実を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を鍛えることで可能になります。
(注10)沙羅双樹(さらそうじゅ)の花…釈尊(ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で潜在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相(しょほうじっそう)といいます。釈尊の究極の生命理論(法華経方便品で説かれている)とされています。それを悟ることができれば生命の永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は弟子たちに説かれました。
清浄化された心に行き詰まりはなくなり 幸(さち)が香る
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識、五感、心根は時とともに輝きを増し、その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは、永遠性を孕(はら)んだ美しい調和された振動を持ちます。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる周波数であり、釈尊の共鳴した世界と言われています。
善い知識に親しみ 心を清浄にする 詩読誦瞑想
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…。過去の聖人(釈尊・ブッタ)の生き方や思想哲学のこころをこころとすることです。そのためには、釈尊・ブッタの悟りの言葉を詩・偈(注11)に凝縮した世界に心を冥合できるようにします。その詩・偈には、釈尊の悟りそのものの振動(受信した法・ダルマ)が韻律として息づいているからです。不断に自己を磨き続け、内省し、浄化された自己の鏡に、偈にこめられた世界が共鳴・振動し始めます。そのとき、行き詰まりや病は消え、真の安穏と喜びを得ることができるとブッタは教えます。それが瞑想の究極です。そのとき、本来の自己と宇宙的自己が冥合するとブッタは教えてくれました。
(注11)偈…宇宙や生命の真実を詩韻のかたちにした言葉。釈尊は八万宝蔵という膨大な教え(弟子たちによって経としてまとめられた)を説きましたが、釈尊晩年の八年に「今までの教えは、すべて方便であり、真実を説いていない。生命や現象の部分部分しか説いていないので、それらの教えに執着しては、生命全体を悟ることはできない」として、「これから、生命全体の円融円満の教えを説きます」と弟子たちに告げ、妙法蓮華経(28品)を説きました。その究極の教えは、「妙法蓮華経如来寿量品第16」にあるとされ、なかんずく自我偈(510字)(付録2)に凝縮されたと言われています。その偈は釈尊の悟達の究極の生命の真理の世界を比喩・言語化したものです。ですから、それを読誦することで、もとのままの本来の宇宙の働きと己心の我が生命が感応道交することができるとされています。それが偈読誦瞑想です。ニコラ・テスラが「私は科学者というより詩人です。宇宙にある真理を受信する」と言った意味は、言葉を洗練し凝縮した詩こそ、宇宙や生命の法や真理を比喩的に表現できる唯一のものと知っていたからです。真理は、言葉という比喩を用いることで、人に伝授できないと言われています。過去の偉人たちが、詩や名言(注12)のかたちで真理を残している意味はそこにあります。
宮沢賢治の「雨にも負けず…」という詩を紐解(ひもと)いてみたいと思います。
雨ニモマケズ (原文はカタカナ書きのメモ) 宮沢賢治
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち
欲はなく 決して瞋らず いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れずに (あらゆることに、自分の欲を優先しないという意味)
よく見ききしわかり そして忘れず 野原の松の林の蔭の 小さな茅葺(かやぶ)きの小屋にいて
東に病気の子どもあれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいといい
北に喧嘩(けんか)や訴訟があれば つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなに木偶の坊と呼ばれ 褒められせず 苦もされず
そういうものに 私はなりたい (以下は一般的には省略されています)
南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) 南無浄行菩薩(じょうぎょう) 南無安立行菩薩(あんりゅうぎょう)
以上が、ノートにメモされていた全てです。
以下は筆者の解釈です。南無とは帰依ということです。宇宙生命の仏性に自らの生命をあずけ、その法に基づいて生きる、つまり宇宙の根源の法に自らの生命の律動・波長を合わせて生きるということになります。無辺行菩薩とは永遠の生命を悟る生命の働きを意味しています。生命は無始無終であり、(自らが作者であり、人生という作品を作っていく)通常の因果を超えた不可思議さをもつものとの意味です。上行菩薩とは自立した自由な主体性を意味しています。どんな困難、逆境、苦悩、不幸をも乗り越えていく生命の働きを指しています。南無釈迦牟尼仏はあらゆるものに適応する最善の智慧の働きです。南無浄行菩薩は煩悩や社会悪に染まらない清らかな生命の働きです。強さと柔らかさ賢さを備えています。南無安立行菩薩は心の平穏、絶対的安心の生命の働きを意味しています。
人間の真実の生き方を探求し、人生を真剣に求め「小欲知足」に生きた賢治。「あらゆることを自分を勘定に入れず」自分の自己中心性と徹底的に向き合い克服しようと利他行に生きました。彼の生き方の目標は「でくのぼう」、つまり法華経に説かれている不軽菩薩の実践でした。彼の文学は法華経思想の展開でもあったと言われています。
不軽菩薩は、全ての人間を礼拝していきます。「人間は、みな仏性(最高の可能性)を持っている、菩薩道を行じれば、みんな仏性を開くことができると、人間のもつ可能性としての仏性を礼拝していく修行をしました。これこそが、人間の不幸の原因の根源ともいえる「瞋恚・怒り…地獄の因と釈尊は説かれた」から真の解放の道だったのです。不軽菩薩の生き方こそ、賢治の生きる意味だったようです。
彼が37歳で亡くなる2年前に残した言葉です。
「全世界の人々が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」
(付録1)「法楽は深く壊れにくく絶対的であり永遠性をもつ」…宇宙生命や個々の生命現象は無限無量であり、個の生命も無量無限と釈尊は説かれました。「無量義は一法から生じる」(森羅万象は一つの法から生まれる、無量義経)と説かれます。その一法とは妙法蓮華経であると悟られたのです。個の生命も無限・永遠と言われました。生きているときの行為の総量(カルマという、基準は善悪の量)によって、次の生命のかたち(人、動物、魚、熊、虫、ゴキブリ、植物、花、樹木、惑星、星、太陽など)が決まり、業にふさわしいかたちを得る。その生ごとにかたちを変えて、エネルギー不変の法則のように個の生命も永遠に続いていくと説かれたのです。人に生まれるのは、ガンジス川の砂の一粒の確率であると釈尊は説かれ、人と生まれた生を大事に生きることを教えられました。生物の中で、人だけが知性が発達し、その知のおかげで自らを高め、変えてゆくことができる唯一の存在であると教えてくれています。植物にも動物にもそれはできません、また絶対的法楽の境涯を得た生命は、次の生もそのかたちを(福智に富み徳がある人)得ると説かれました。(法華経比喩品による)。人としてのかたちを得るには、人として生涯を生きなければかなわないとされています。「三帰五戒」は人に生まれると説かれています。簡潔に言えば、自分も他人も大事にする思い遣りの行動を貫くことと言えます。当時の修行者たちは、命をかけて、「法楽」にいたる修業をされたと言われています。
付録2…自我偈(510字)…釈尊の妙法蓮華経は何人かの訳僧によって、5世紀頃の中国に広まり、やがて日本に渡ってきました。特に鳩摩羅什訳(くまらじゅうゆく)の妙法蓮華経訳が秀でていると言われています。彼の自我偈訳が、漢語で510 文字になります。「自我得佛來(じがとくぶつらい)…速成就佛身(そくじょうじゅうぶっしん)」と五言の美しい調べの偈が続きます。「自」に始まり、「身」で締めくくられています。自我偈が「自身」の生命に内在する仏性の讃嘆詩・偈と言われ、今日まで多くの人々に読誦され、愛されてきたと言われています。
(注12)詩や名言
〇「我々は自らの心を変え、勇敢に声を発することによってのみ 他者の心を変えることができる」「精神は鍛錬なしには 堕落する」「他の人の喜びを喜び 他の人とともに苦しむ これが人間にとって 一番の指針です」「私の永遠は、今、この瞬間なんだ」(以上はアインシュタイン)
〇「宇宙には始めもなければ終わりもない。だれも死んだ人はいない。死は元のエネルギーに戻った姿にすぎない」「私は光の一部であり、それは音楽です。光が私の六感を満たします。私は見る、閃(ひらめ)く、感じる、嗅(か)ぐ、触れる、そして考える、それについて考えることが私の第六感です。光の粒子は書かれた音符です。人間の心臓の鼓動は、地球の交響曲の一部です。」(以上はニコラテスラ)
〇「心を空・からにしなさい。水のように、形態やかたちをなくしなさい。水をカップに入れるとカップになる。水をボトルに入れると、ボトルになる。水をティーポットに入れるとティーポットになる。水は流れることができ、衝突することもできる。水になりなさい。わが友よ。」「友よ水になれ」「柔軟であれ、人は生きているときは柔軟である。死ねば人は固くなる。人の肉体であれ、心であれ、魂であれ、柔軟が生であり、硬直は死である」(以上は、ブルス・リー)
〇「恐怖とは、マラリヤや黒熱病よりも恐ろしい病気である。マラリヤや黒熱病は体を蝕(むしば)む。しかし、恐怖は精神を蝕む。」「精神性の最大の要素は、恐れない心である。」(マハトマ・ガンジー)
芝蘭の便り 59
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と関係はありませんし、所属もしていません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・唯識哲学、法華経の生命論に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、そして科学(量子力学)と釈尊・天台・日蓮の法華経生命哲学の関係を思索研鑽しています。学ぶほど、自らの無知に気づきます。ですから、今も学びを続けています。
心そのものが解明できていないのが 最先端科学の現状
短絡的に精神科や心療内科に連れていくのは考えものです。それは、結果的に、多くの場合、症状を長引かせたリ、悪化させたりしてしまいます。これは心療内科だけではなく、心の専門性の低い相談機関は同じことが言えます。芝蘭の室を訪れる長期不登校・ひきこもり者は心療内科にかかったものやカウンセリングルームに通所した経歴の持ち主がほとんどであり、それも数カ所を巡った人も少なくありません。ほとんどの人が、改善せず、逆に悪化させて、芝蘭の室に来所しています。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。
脳の神経伝達物質(セロトニン、ドーパーミン、アドレナリンなど)を標的にする精神病薬では、心の問題を解決することは困難であり、本質的な対処にはなりません。それは精神科医が一番知っていることです。解熱剤ぐらいの一時的効能はあるかもしれませんが、あくまでも一時的な症状緩和であり、本質的解決をもたらしてくれるものではありません。なぜなら、心とは何か、意識とは何かが現在の最先端の量子力学・諸科学・脳医学でも解明できていないからです。ただ分かっていることは、心は脳をはじめとした身体を通して、「苦しい、死にたい」「心が重たい、何もする気がしない」などの苦しみの言葉や気分、もろもろの症状として表現されるということだけです。その身体の主要な一部の働きを担っているが脳ですが、すべての細胞に心の働き(注1)がみられるのも事実です。だから難解なのです。
(注1)細胞に心の働き…細胞は微弱な光を出していることが最近明らかにされました。それをバイオフォトンと学者は名付けています。人間を構成する細胞は約46兆個と言われていますが、その細胞一つ一つが生命現象を演じ、酸素と栄養を取り入れ、新陳代謝し、エネルギーを発し、環境変化に適応し生と死を演じています。それは奇跡的です。分析できる見える物質を支えているのが見えない働き・性質です。その働き唯識論等では「心」(空・くう)と表現しています。心は関係性で生起し一定しないので、とらえることができません。(物理学では、その現象を不確定性原理、量子のもつれ現象、光の粒子性と波動性の二重性などと表現している)
精神病薬の依存性と副作用の弊害
苦の原因は心から生じているので、精神病薬で苦の原因を根本的に取り除けないのは、理解できたと思います。服薬することで、依存性を高めたり、副作用による身体の不調を招いたりします。結果、不登校状態を長引かせ、対人恐怖・社会不安・関係被害妄想などを強化していくこともあります。それは複雑な心を診ようとしていないことの結果です。これは心の見立てができない相談機関も同じことが言えます。心の病は見立てと対処を間違うと悪化するのは、身体の病気の誤診と同じです。ただ心の場合は誤診(注2)していても、曖昧にすることができます。心そのものが解明されていないからできることです。だからこそ慎重に賢明にならないと心を健全に守ることもできなくなります。
注2 ●「誤診」(心の科学、NO164…精神科臨床における誤診、薬物療法偏重と誤診、うつ状態の鑑別診断と誤診、大人の発達障害と誤診などが編集されている)
●「ブラック精神医療」(米田倫康著)‥知ってほしい精神医療現場の驚愕の真実 ●「発達障害のうそ」(米田倫康著)‥専門家、製薬会社、マスコミの罪を問う。 ●「精神科臨床はどこへ行く」(心の科学・井原裕編)‥薬を巡る諸問題、治療現場で起きていること、PTSDの乱発―心のケアのいかがわしさなど
不登校、ひきこもりは 環境順応能力の問題
一言で言えば、不登校、引きこもりの大多数は、時代の産物であり、現代の教育環境が作ったものであり、病気でも何でもありません。環境順応能力の問題です。私が子ども時代には、今のような不登校は一人もいませんでした。学年に1名程度、家の手伝いのため学校に行けなかったり、身体の病気の治療・入院のために行けなかったりというのが理由でした。現在の不登校の理由は、全く異なっています。人間は変化する社会や時代の影響を受け、社会変化がもたらすものに教育され、なおかつその変化に順応して生きていくしかありません。人間が一人では生きてゆくことができない社会的存在である限り、避けられない現実です。食物の栄養が身体のエネルギーに変り、私たちは生きています。同じように人間を取り巻く環境は私たちの心の栄養になり、エネルギーになっていくこともあり、毒性をもつものもあります。
不登校の原因の90%は 子どもの教育環境にある
人間は人間に教育されることによって、人間になっていきます。かつて狼(おおかみ)に育てられた少女は、人間の行動や心が育たず、狼の習性を持ったまま、短命で命を終えました。彼女たちは人として生まれましたが、養育環境が狼社会であったため、狼の行動習性を身に付けてしまいました。この貴重な事例は教育の本質を教えてくれています。どんな教育環境にいるかで、子どもは変わります。子どもを取り巻く教育環境は大きく分けて、1、家庭環境 2、学校環境 3、社会・情報環境と私は考えています。ここでは持って生まれた生得的要因・遺伝的要因・素質等という大事な要因がありますが、それは難問ですので別の機会に論じたいと思います。
不登校・引きこもりをつくりだす 養育環境
不登校・ひきこもりで当室を訪れる家庭に共通している要因を挙げてみます。一番は母親の過干渉です。二番は虐待・無関心・子への愛情不足です。三番は親や祖父母の過保護です。四番目は母親の心の不調・うつなどの病気です。共通してよく見られる要因が夫婦の不和(家族の不和)です。少子化や核家族化や共稼ぎ、学歴偏重社会の影響を受けています。芝蘭の室で面接し改善した特徴的な事例を付録2に載せています。
子どもにとって学校とは学級を意味しています。家庭以外で自分が存在する場所です。その学級は日本人の行動様式の基本である、かつての「ムラ」意識が今も支配しています。「ムラ」は個や自律を認めません。「ムラ」は集団規範を守る人、集団規律に従う人で成り立ちます。集団は他律が成員を支配します。
学級のルールは「みんなの目」です。「みんな同じように」「みんながやっている」などが規範になります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という集団論理が生まれます。正しいかどうかは二の次です。集団の正しさとは集団の掟のことであり、集団に存在する暗黙の規範のことです。みんな平等という表面的な平等主義が学校を支配しています。本当の平等主義は、違いや異質という個を認めたうえで成り立ち、人間の尊厳性に基づく理念です。異質の排除の考えが、いじめや無視などの集団同質化行動を産み出します。また行き過ぎた管理教育が、自立を損ねていきます。これらが不登校を産み出していきます。以下詳細は、付録3
最後は社会・情報環境です。現代社会では、この社会・情報環境が一番の影響力を持っているかもしれません。中学生以上の国民の大半がスマホ依存という、異常なスマホ情報依存環境に生きていますが、その異常性に多くの人が気づいていません。スマホ、パソコン、テレビから流される情報に子どもも、大人も知識(最近はAIが多い)を得て教育されているのが現状です。その知識の真偽も精査せず、心に深く記憶化されていきます。それは以後の行動に無意識的に作動し、判断や選択に影響を与えることを自覚できている人はほとんどいません。また、このような情報環境を親も教師も制御することは困難です。
不登校・ひこもりの心…
不登校・ひきこもり状態にある人の多くは、心の不安定感(過度のストレス)に耐えられず、家という安心領域・癒しの空間に回避した状態です。そのこころは、人や場に対する恐怖や不安、行為の後に訪れる嫌悪感や恥ずかしさなどの不快や自責の念です。人は本能的に不快を避けます。不快への過敏感覚はストレスとなり重なると、心身の不安定を招きます。不快を避けるのは、生きるための生物・人の大事な保身行為の一つだからです。その心を、さらに詳しくみてみましょう。
便利で豊かな社会が 心を弱くしていく
日本は世界でも有数な安全平和社会であり物質的に豊かな便利社会です。それなのに、なぜ社会不安障害、適応障害、うつ、ひきこもり・不登校などの心の不調者が増加するのでしょうか。物質的豊かさの追求とその享受、便利社会の恩恵に反比例しているのが、心の豊かさの喪失現象です。便利さや不自由のない生活は、生きていく上での大事な忍耐する力、思考したり、想像したりする場を奪っていく面があります。つまり、心は貧しく、乏しく脆弱になっていくということです。
不快・嫌悪を避ける 不登校・引きこもり
不登校・引きこもり状態にある人は、不快感覚がもたらした恐怖や嫌悪というストレス状態の一つの解決策として家に籠った状態です。その引きこもり状態に大きく影響しているのが、人間だけが持つ知的記憶力です。嫌な出来事を知的に記憶してしまうところが、他の動物と異なるところです。世間でいう、トラウマ(心の傷つき体験が記憶化されたもの)現象です。もちろん、動物も恐怖や脅威対象に対して本能的な身体記憶作用が働き、出遭った瞬間に直観的に、その対象から逃走します。生き抜くための身を守る本能的記憶行動です。
過剰性が HSC(高度感受性反応…神経過敏)状態を招く
生き抜くため行動に潜む「癡・おろかさ」について述べてみましょう。痴…おろかとも表記します。知が病んでいる状態、間違った知識というのが言葉の意味です。ものごと、人間、自然の法、因果や道理がわからず、目先の感覚的欲求に抗しきれなく行動する心的状態です。
「飛んで火に入る夏の虫」暗闇の光を求め、火に入り、焼け死んでいく虫たち。このようなことは人間社会にもたくさんあります。お金のため、有名校に入るために大事な人の心・情緒を失うのも愚かさ、好きなものを食べ過ぎたり、飲み過ぎたりして病気になるのも愚かさ、専門家の誤った知識に騙(だま)されるのも愚かさ、人を傷つけることも、殺し合うのも愚かさが原因です。
すべて生き抜くために自分を守るための行動が発端になっています。生物・人間の本質の一つが自己中心性です。誰人にも潜在する自己執着意識(注)の働きです。自己中心性を発動させないと生き残れないからです。しかし、自己中心性だけに生きると、弱肉強食(争い・戦争など)世界に生きる他の生物や動物と同じレベルになってしまい、共生ができなくなります。人間と動物の違い‥それは他者への思い遣りという思考・想像力を働かせた心の働きです。自己中心性を克服する鍵は、人の情緒の働き、優れた想像力と思考力のもたらす、思い遣りの振る舞いにあります。
刺激的な情報が 環境順応力に影響
世の中、偽りの情報、利己的金儲けのための巧みな情報など玉石混交状態になっています。無知な人たちをだます似非専門家たち。視覚情報に弱い人間心理につけ込むコマーシャルやユーチューブ動画など。見抜くのは大変なことです。甘言で人の保身を増長してゆきます。愚かさの病が現代人を覆っていると言えます。人々は表面的な浅い思想につかりきっているようです。仮初(かりそめ)の平和に守られ、便利さに忍耐心を失い、思考することを麻痺させられ、人々は自らの生をよりよく保とうと快適情報にますます依存し、生きる力を弱め、脆弱性(ぜいじゃくせい)を強めています。そのうち、あらゆる病気が生活習慣(基本は思考、行動、情緒の在り方、社会環境のもたらす毒性)病と言われるようになるかもしれません。
正しい知識と対処力が 正しい人生を開く
その結果、心の病はますます増産されていきます。生きること、身を守ることに潜む愚かさが原因と気づかずに心身が毒に染まっていきます。それを乗り越える方法は、まず正しい知識を身につけ、正しい情報を見抜く智慧を培うことから始まります。人の心の安心領域は、個人によってすべて異なります。個々の心的状態の把握なしに解決は難しくなります。心の在り方、感情と思考と行動の関連性、記憶と潜在意識など個人の反応のしかたを正しく知ることから、安心領域の拡大が可能になります。つまり自分の意識・心を、どこまで正しく明確に見ることができるかが重要になります。
正しい知識に導いてくれる師・先生の存在が必要
そのためには、正しい師・先生が必要になります。正しい師とは、病める人を確実に改善し、その人の人生を高め、幸福の方向へ導くことができる人です。例を挙げれば、ブッダ・釈尊のように多くの人を現実的に救い、幸福の人生に導く人です。現代社会に、そのような人がいるのかと思うでしょうが、います。私も何人かに出会い、そのおかげで今の私があると思っています。菩薩の心(注6)を実践している人はいますが、表に現れていないだけです。私利私欲なく無私の志を持って生きている人です。洞察眼を磨けば、自然や宇宙現象もその一つであることがわかります。
(注6)菩薩の心…釈尊・ブッタは菩薩道に終生生き抜きました。菩薩の道を行く人はブッタの志を生きる人です。最近では中村哲医師がいます。アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされました。彼のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らをかえりみず献身する母親もその一部)の一人だと思います。 中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」は、平安時代の人、最澄の言葉です。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」この最澄の生き方は菩薩の心そのものです。
心、体、自然、ものとの相関性についての気付きが解決の良薬
自分の心をみつめ、正しく知識することがまず一番大事になります。自分の意識や感情を知ることです。自分の身体の働きについて正しく知識することです。生きていることの不思議を感じるように自己観察力を磨くことです。地球・宇宙や自然や環境や他者との関係性で生きていることを想像力を磨いて実感するようにしましょう。正しい人間観、社会観、自然観を身に付けることです。全体を網羅した知識がもたらすものが気づきを産み、行動を変えてゆくからです。それらが心の良薬なり、一回りも二回りも成長した人格に成長していくことになります。そのとき乗り越えられない心の壁はなくなり、不登校・ひきこもる必要がなくなり、社会・学校をはじめどんな環境にも適応順応できるようになります。それがニコラ・テスラが教えてくれた「自分の翼で飛ぶという意識」です。
偉人が遺した名言に学ぶ
〇「想像力は知識より重要だ 知識には限界があるが、想像力は世界を包み込む」「我々は自らの心を変え、勇敢に声を発することによってのみ 他者の心を変えることができる」「精神は鍛錬なしには 堕落する」「他の人の喜びを喜び 他の人とともに苦しむ これが人間にとって 一番の指針です」「私の永遠は、今、この瞬間なんだ」(以上はアインシュタイン)
〇「宇宙には始めもなければ終わりもない。だれも死んだ人はいない。死は元のエネルギーに戻った姿にすぎない」「私は光の一部であり、それは音楽です。光が私の六感を満たします。私は見る、閃(ひらめ)く、感じる、嗅(か)ぐ、触れる、そして考える、それについて考えることが私の第六感です。光の粒子は書かれた音符です。人間の心臓の鼓動は、地球の交響曲の一部です。」(以上はニコラ・テスラ)
〇「心を空・からにしなさい。水のように、形態やかたちをなくしなさい。水をカップに入れるとカップになる。水をボトルに入れると、ボトルになる。水をティーポットに入れるとティーポットになる。水は流れることができ、衝突することもできる。水になりなさい。わが友よ。友よ水になれ」「柔軟であれ、人は生きているときは柔軟である。死ねば人は固くなる。人の肉体であれ、心であれ、魂であれ、柔軟が生であり、硬直は死である」(以上は、ブルス・リー)
〇「恐怖とは、マラリヤや黒熱病よりも恐ろしい病気である。マラリヤや黒熱病は体を蝕(むしば)む。しかし、恐怖は精神を蝕む。」「精神性の最大の要素は、恐れない心である。」(以上はマハトマ・ガンジー)
〇宮本武蔵の箴言(しんげん)「我以外、皆我師‥われいがい、みな、わがし」。ここで言う我(われ)は、人だけなく、すべての生命ある存在、万物を指しています。人間的に大成するためには、あらゆるの環境に謙虚に学ぶことの重要性を教えてくれます。偉人(先生)の名言は、人を正しい方向に導いてくれる指標になります。
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と関係はありません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・法華経に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、ジョン・カバットジン氏のマインドフルネス、そして科学(量子力学)と釈尊・天台智顗・日蓮の生命理論の関係性を思索研鑽しています。学びの旅は、今も続いています。学べば学ぶほど自分の無知に気づき始めています。
付録1 「こどもの心がみえるとき」当時、市内一荒廃した中学校に赴任し、荒れ狂う生徒たちに真正面からかかわった一中学教師のノンフィックシヨン小説(松岡敏勝著・文芸社)。テーマは、荒れた子どもに対する「無条件の愛・可能性を信じる心・忍耐・誠実」。ペスタロッチ(教育の父と言われている)の志を胸に抱いて、2年間かかわり、苦闘の末、子どもの心を開き、共に大きく成長した物語。
付録2 〇いじめ事例。中学時代の部活コーチの度重なる暴言が心の傷になり、高校2年でトラウマを発症し、不登校になった女性の事例、認知行動療法、人間関係療法で7回で完治。 〇親の過干渉事例 小学時代から一流大学進学路線に載せられ、大学入学後に挫折が始まり、社会に出て適応できず、数カ所転職後、長期の引きこもりになった男性事例。認知行動療法、森田療法、人間性療法で25回で社会復帰。〇いじめ、親の放任事例。小学校の低学年のとき、いじめに遭い、人が怖くなり、以後不登校となり、中学校も全欠席、卒業後20歳まで引きこもっていた女性の事例。認知行動療法で数回で完治。 〇親、祖母の過干渉と夫婦不和の事例。習い事や宿題、勉強を完璧にさせようと、親と祖母が指示、強制圧力をかけた結果、習い事をいかなくなり、学校も行かなくなる。小学校3年の秋から全欠席になった男児の事例。母親面接を数回実施し改善する。〇教師の高圧的言動の事例。担任教師の恐怖感を与える言動に怯え、不登校が始まった小1女児の事例。数回の面接で改善。
付録3「不登校を量産する学校教育環境」
中学校が荒れていた頃、小学校も学級崩壊などが起こり、多くの学級は無秩序状態を経験しました。鎮静化のため、学校では管理体制が強化されました。荒れた中学校の矢面に立ったのが強面(こわもて)の体育会系教師で、暴れる生徒を取り押さえる力が求められました。
暴れていた生徒の大半は、低学力生徒か家庭崩壊傾向、愛情不足傾向の生徒たちでした。当時は「落ちこぼれ」と言われたりしました。かつて私が関わった生徒の中には算数の九九もできない非行グループの番長もいました。
彼らは、今風で言えば「知的障害傾向者」であり、「ADHD・ASD」傾向者と言われるでしょう。当時の学級は、そんな子どもが学級に混じり、学級自体の均質化・秩序化を妨げ、デコボコ状態を醸し出していました。今のように学級で緊張したり、人目を意識したりすることが少なく、失敗や異質を受け入れる容量が学級にはあったのです。
二度と荒れた学校にさせてはいけないと、学校の管理体制は強化され、秩序を乱す異質の存在は学校から排除されるようになりました。その頃、特別支援教育も学校に導入されます。かつて暴れていた低学力の子どもは、教室から影を潜めます。管理は強化され、教室は同質化された子どもだけが残りました。
異質の混在は、同質化の防波堤になっていました。しかし、それが減少していく中で、異質的存在は学級に居づらくなります。みんなと違う、普通でない子どもは、どこに行ってしまったのでしょうか…あるいは家で生活するようになったのでしょうか…
集団が作る同質性は、異質性をますます排除していきます。異質であることは控えなくてはいけません。「みんなと同じでないといけない」「みんなと違ってはいけない」「普通でないといけない」などと子どもは異質になることを恐れ、集団の中で無意識的に緊張しています。失敗を過度に気にします。失敗すれば集団から排除されるかもしれないからです。過剰に人目を気にします。排除されては、その集団の中で生きていけなくなるからです。
学級成員の神経過敏状態は強まり、HSC(ハイリー・センテンシィブ・チャイルド=高度感受性をもつ子どものことの呼称。病気ではない。神経過敏状態に長くさらされ続けると、そうした反応をするようになる、一過性のもの)なる子どもが増産さます。
小学校に行くと、「学校は失敗するところ」などの掲示をよく目にします。しかし実際の教室は、学級成員によって、失敗は異質性の一つとして冷ややかに見られがちです。小中学生は過度に失敗を恐れるようになりました。かつての学級には、失敗しても平気な子、人に笑われても平気な子が混じっており、失敗に対して集団自体が寛大でした。外れた異質の子どもの存在が教室に笑いをもたらし、リラックスさせたり面白くしたりなどの潤滑油的役割をもたらし、異質性を持つ成員の居心地をよくしていたと私は思います。
子どもは異質になるまい、みんなと同じようにしようと、過剰に神経を遣いHSC状態になる子どももでてきます。ある子どもはストレスで一杯になり、他者に暴力を振るう形で発散させたりします。またある子どもは、その過剰さに神経を使い果たし疲弊し、学級に居れなくなります。そしてやむなく不登校という回避行動をとるようになるのです。小学生の暴力の急増の原因、不登校増加の原因の一つは、ここにあると考察しています。
芝蘭の便り
痛みや苦しみは 心を浄化させてくれる薬に変わる
私たちの生命は、関係性で成り立ち、刺激がもたらす変化に適応し、心身の秩序を保つことによって生を保っています。刺激の強さ(注1)に、細胞組織の秩序が乱れるとき、痛みや苦しみというメッセージが脳に届きます。また刺激に対する執着や抵抗(注2)は神経の過剰な活動を招き細胞を壊すことにつながります。細胞の破壊が、病の原因です。さらに思考や感情の偏りは、心身に負荷をかけ過ぎ、調和を乱してゆきます。調和が限界を超えるとき、心身は疲弊し、病が発生します。しかし、人はその原因を見ようとせず、目に見える症状としての痛みや苦しみだけを除去しようとします。結果として、病は増幅し本質的な解決は難しくなります。病のもたらすものを知れば、それを薬に変えることができます。
(注1)刺激の強さ…脅威を与える対象に対して、心身は恐怖や怒りに対処する神経・ホルモン反応が起こります。そして心身を守るために、闘争か逃走かを選択し、危機を乗り越えようとします。対象が強烈である場合は、その刺激の強さに抗しきれず、心身は破壊や破滅につながることもあります。例えば、地震などの自然災害、戦争、傷害、事故、火災・などに遭遇すると、心身は一気に損傷、破壊されます。逆に強い快刺激をもたらす対象…ギャンブル・ゲーム、アルコール、麻薬、性的なもの、食べ物、宝石、お金、スマホ情報などの報酬的快感は反復行為(嗜癖・依存・くせになる)をまねき、その過剰神経反応が、心身の調和を乱し、病的になっていきます。専門家は、この状態を依存症と表現しています。
(注2)執着や抵抗…例えば、怒りの対象に対して、反復的な考えや思いが繰り返され、不安や嫌な感情を増長させ、うつの原因になったりします。その現象を反芻(はんすう)思考という学者もいます。また快刺激への執着は依存症を招き、心身を乱し疲弊(ひへい)させていきます。
身体瞑想で 体が健康になってゆく
私たち人間の身体は心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡ってゆきます。食べたものは口内で咀嚼(そしゃく)され、食道を経て胃に数時間38度の温度で保管消化され、十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進みます。小腸でさらに本格消化が始まり、肝臓に送られ、そこで加工・貯蔵され、血管を通して各臓器に栄養となって運ばれます。大腸では数十兆個の大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたものは約7メートルの消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、人間が生きるためのエネルギーになります。
腎臓は1分間で1リットルの血液を浄化し身体を守ります。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり約200の加工的な働きをしながら体を守り動かしています。ホルモンは炎症を抑えたり、体や臓器の調和をはかり、身体の恒常性を保ってくれています。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚を通して身体を守ります。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守る免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節してくれています。皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の細菌、ウィルスから体を守り、その総重量は10㌔を超えます。人間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美男などと私たちは言います。
意識は、体の働きの1000分の1も 識ることができない
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で内・外世界の情報を得ていますが、それは身体の働きの100分の1以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識(し)る(注3)ことがではないのが人間の本来的な働きなのです。
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆個の細胞を新陳代謝させ、絶妙な調和と秩序を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。
もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが感覚の現実ですが、それは人の身体全体から見れば一万分の一程度の微小なことに過ぎませんが、苦になります。
(注3)識る…「知る」は、記憶に基づいて物事を判別するという、いわゆる知の働きを指します。「識る」は仏法の生命哲学の中核をなす、唯識派の重要な概念の一つです。「識る」は「知る」と違って、心全体でわかるということです。「知る」が部分知であるのに対して、「識る」は全体知・直観智になり、ものごとの理解の深さが異なります。瞑想は、「知る」から「識る」に到(いた)る修行です。
生きる…それは関係性で成り立ち、変化に反応し、適応する闘いである
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。現代人の多くは視覚・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失う傾向にあります。それが様々な新しい心の病を作りだしていることに気づいていません
不安・適応障害や不登校、引きこもりは時代がつくった一時的産物に過ぎない
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っているからです。
磨かれた心の目には 肉眼では見えない世界が映し出される
「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」(シュレディンガー、20世紀の物理学者、波動力学を提唱、ノーベル物理学賞受賞)
磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には、見えないものまでが正しく見えるようになります。目に見える表面的なものではなく、その背後に隠された重大なものをみることができるようになります。何が幸福をもたらし、何が不幸にさせるのかを明晰に見分けることができます…。幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです。
心の濁りをつくる 四種の欲望と感情
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると、心の波は逆流し、自他を巻き込み、いたずらに消耗し、やがて苦しみの海に沈んでゆきます。限度を知らない過剰な欲望は、自らを焼き焦がし、周りを燃やし、炎の波にのまれてゆきます。快楽に耽け続けると 心は淀み、濁ってゆき善悪がわからなくなり、心の波長は間延びし、思考もとまります。人に勝りたい 人より優位に立ち、人を支配したいと思い続けると、心は歪んで、素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は、ほどよさの感覚を失うと調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。
福徳の人が奏でる きれいに澄んだ波動
幸福になる音色を奏でる人は、心が素直で柔らかく、きれいに澄んで、美しい振動を奏でています。財産、社会的地位、名声、人気、才能、美貌、健康などは、幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが、時とともに色褪せ、壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは、空しく時と共に風化し、最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは、花火のようなもので、刹那的な陽炎(かげろう)のようなものです。
こころは流れる 執着・とらわれの多くは停滞によるエネルギーの損失
ー祇園精舎の鐘の声 諸行無常(注4)の響きあり 沙羅双樹(注5)の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の言葉は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り、事物をありのままに見ることができないからです。
(注4) 諸行無常(しょぎょうむじょう)…中学時代、古典の平家物語で勉強された方も多いと思います。仏教で説かれた重要な哲学の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は関係性(縁起という)によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は関係性で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と判別しているにすぎず、夢のようなものを実在していると思い込んでいます。認知症が進み、重度になり記憶機能が失われた場合、自分が自分であることも分からなくなりますが、生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による夢見現象のようなものです。
この世のものは全て流れており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の見解です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明するかたちになっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を鍛えることで可能になります。
(注5)沙羅双樹(さらそうじゅ)の花…釈尊(ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で潜在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相(しょほうじっそう)といいます。釈尊の究極の生命理論(法華経方便品で説かれている)とされています。それを悟ることができれば生命の永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は弟子たちに説かれました。
清浄化された心に病はなく 福徳は爛漫に香る
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識、五感、心根は時とともに輝きを増し、その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは、永遠性を孕(はら)んだ美しい調和された振動を持ちます。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる周波数であり、釈尊の共鳴した世界と言われています。
善い知識に親しみ 心を清浄にする 偈読誦(げどくじゅ)瞑想
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…。過去の聖人(釈尊・ブッタ)の生き方や思想哲学のこころをこころとすることです。そのためには、釈尊・ブッタの悟りの言葉を詩・偈に凝縮した世界に心を冥合できるようにします。その偈には、釈尊の悟りそのものの振動(受信した法・ダルマ)が息づいているからです。不断に自己を磨き続け、内省し、浄化された自己の鏡に、偈にこめられた世界が共鳴・振動し始めます。そのとき、病は消滅し、真の安穏と喜びを得ることができるとブッタは教えます。それが瞑想の究極です。そのとき、本来の自己と宇宙的自己が共鳴しているとブッタは教えてくれました。
◎当室はあらゆる思想・宗教団体とも関係ありません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・法華経の生命論に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、そして科学(量子力学)と釈尊・天台・日蓮の法華経生命哲学の関係を思索研鑽しています。学びの旅は、今も続いています。