相談室(ブログ)

慈悲は 私たちの苦しみを 楽へと変える 大薬師

2025.12.27

我が家の庭で、一つの琵琶の種が八年の歳月を経て、立派な木に成長し実をつけました。私たちは、この世に誕生したとき、わずか直径0,1ミリほどの一つの精卵細胞という微小な存在でした。それがいつの間にか40数兆個の細胞になり組織化され、50キロを超す体に変化しています。これらの不思議な働きを生命の持つ慈悲(注1)といい、智慧ともいいます。この宇宙のすべては、慈悲と智慧によって産みだされたとブッダ(注2)は悟りました。このあまりにも不思議な働きをユダヤの人たちは、人間の心の外にその働きを見い出し、神(ヤハウェ)と名付け、万物の創造主としました。それに対してブッダは宇宙にもつながる法が、わが心の中にもあるものと直観したのです。誰人にも内在する内なる妙なる力であるからこそ、その法を覚知できれば、人は自力で自分の運命(宿命・過去の行為の貯蔵がもたらすもの)を変えてゆけると説いたのです。この世界のあらゆる言葉も思想も宗教も、すべて人間の思考から始まっています。存在する言葉、思想、宗教は人間が創ったものであり、決して人間を離れてはいません。ここを間違えると正しい法から外れてゆきます。

(注1)慈悲(じひ)…釈尊(ブッダ)の悟りの言葉の一つ。抜苦与楽(ばっくよらく)といい、苦しみを抜き楽を与えるという意味です。生命はエネルギーの流れであり、その流れは混沌(こんとん)(コラム)としています。通常は過去の経験の記憶で流れています。私たちはエネルギーの流れを、快、苦、快でもない苦でもないという三つを受信(一般的に感情と表現)しながら生きています。人は快を求め苦を避けますが、苦は避けることができません。人の五つの感覚(視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚)は、受信能力には限界があり、思い通りにならないことが多く、意識は苦を避け、快に執着します。快は楽であり、心地よさをもたらすからです。しかし、生命は快苦の絶妙なバランスで流れています。意識の快への執着が苦をもたらします。慈悲は智慧の力で苦を解脱(げだつ)し、その働きによって意識は楽を感じてゆきます。それを抜苦与楽の慈悲の働きといいます。その慈悲を支えるものこそ、無量の智慧です。慈悲の体現者を菩薩と呼びます。弥勒(みろく)菩薩、観音菩薩、文殊(もんじゅ)菩薩、普賢(ふげん)菩薩など、三世にはたくさんの菩薩がいます。弥勒のことを救済者・メシア(イエス・キリストはメシアと呼ばれていた)とも言います。太陽や地球は地上の生物を慈しみ育む慈悲を常に行じ、私たちの生命を救う菩薩の働きをしています。太陽神、水神、風神、地神、海神などの自然崇拝は人間の素直な感謝の心から発したものでした。それを宗教心と言います。菩薩は慈悲を修行する人ですが、仏は常に慈悲を振る舞う人です。仏のことを如来(にょらい)ともいいます。京都の三十三間堂には、たくさんの菩薩像や如来像が安置されています。それは、彼らが、人々の尊敬と憧(あこが)れの対象だったからです。すべて素晴らしい素敵な人たちであり、私たちの模範であり、目標の人たちです。私たちの心の中にも潜在する素晴らしい働きなのです。

(注2)ブッダ…悟りを開いた後、釈尊(しゃくそん)、仏陀と呼ばれるようになりました。ブッダは、釈尊一人を指すのではなく、過去・現在・未来という三世(さんぜ)の宇宙には無数のブッダがいるとされています。ブッダとは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧と慈悲の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。智慧即慈悲とブッダは説き、その智慧は甚(じん)深(じん)無量(むりょう)(じんじんむりょう。無量ではてしないという意味、法華経の言葉)であり、慈悲の心はすべての生物を救う大悲と説きました。また「慧光(えこう)照(しょう)無量(むりょう)」(えこうしょむりょう、法華経の言葉)、簡単に説明すれば、智慧の光は、宇宙の無限まで照らしゆくと説きました。「一切(いっさい)衆生(しゅじょう)の異(い)の苦は如来(にょらい)一人の苦」と語ったブッダ。その意(こころ)は、すべての生きとし生きるものの苦しみは、私一人の苦しみであるとして衆生救済に生涯を捧げました。その尊い慈悲の振る舞いを仏(ほとけ)と言います。仏とは奈良の大仏のような偉大な人間離れした存在ではありません。人間性の極致(きょくち)である、尊く美しい慈悲の振る舞いを表現した言葉です。あくまで、仏は人間であるとブッダは強調されました。そして、弟子たちに自分と同じ仏の境涯に至る道を慈悲と智慧で教えました。歴史上にも、ブッダの悟りに限りなく接近した菩薩と言える人がたくさんいます。例を挙げると、ソクラテス、孔子、ガンジー、アインシュタイン、ニコラ・テスラなどです。ニコラ・テスラ(1856-1943,交流電圧など200以上の発明者・詩人・哲学者)は数多くの発見発明をし、人類に貢献しましたが、それ以上に彼の生涯の生きざまや振る舞いから、彼の慈悲と智慧の偉大さを私は感じます。テスラは言います。「存在とは光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべての生命は(お)りなされたのです。」エネルギーは光であり、智慧であり、慈悲なのです。生命の最高の表現(エネルギーの形象)は、智慧に裏打ちされた慈悲の振る舞いです。それを如来・仏と言います。(注2)終

慈悲は美しい秩序であり、調和をもたらします。慈悲は心が産み出す人間美の芸術です。慈悲ある人は内面から、素敵な輝きを放ちます。慈悲は絶えず変化し、更新される美しさです。私たちの生命は、もともと創造性と破壊性の二面(注3)を持っていますが、破壊性を創造性に変えゆく智慧(ちえ)を秘めています。その力を慈悲(じひ)と言います。慈悲とは万物を産み出し育み慈しみ守り、苦しみを抜く大悲(たいひ)の智慧です。赤ん坊を無心(むしん)に守り(いつく)しむ母の振る舞いも慈悲です。慈悲は智慧を生みます。人間の最も美しい品性は慈悲です。昔の日本人が愛してやまなかった観音菩薩(かんのんぼさつ 、正しくは観世音菩薩)は慈悲の体現者の象徴でした。桜の花を見て心を癒されるのは、桜の持つ慈悲の働きを私たちが感じるからです。すべての生物は、本来その慈悲の智慧力を内在しているとブッダは覚知しました。そして、それを私たちの生命に(く)み出す方法を教えてくれました。その方法の一つが智慧(ちえ)(そく)慈悲(じひ)(注4)の瞑想です。

(注3)創造性と破壊性の二面…生命とは混沌としたエネルギーの流れです。混沌をエネルギー(煩悩・欲望)の無明性(むみょうせい)とブッダは悟りました。この無明が破壊の原因です。人やものを破壊し損失させる戦争や殺人や犯罪は人間の持つ破壊性・無明によって起こります。その無明をけん引する欲望(煩悩・ぼんのう)が瞋り(いかり)、貪り(むさぼり)、癡か(おろか)、傲慢(ごうまん)・慢心とブッダは洞察しました。その対極にある生命の働きが慈悲です。慈悲を人々の中に植え、その種子の開花の闘いを生涯されたのがブッダです。その生涯は迫害と茨の道でした。命を狙われたこと何度もありました。正しい人は無明の破壊性の人に迫害されるのが、この世界の歴史の現実です。無明と慈悲は、誰人の中にも存在する働きであり、縁によってどちらかが顕れるとブッダは見抜いていました。人間の中に存在する無明の破壊性は快、それを好み続け自分のものにしたいと思う愛着、執着という煩悩・欲望の連鎖よって増幅されます。人々は快、好き、愛着、執着に傾き破壊性の味方になってゆき、無明に支配されてゆき、終末には光の乏しい暗い世界に入ります。破壊的な無明の人生なのか、創造的な慈悲の人生なのか、すべて私たちの記憶として心の内界深くに刻印され、その小我(私たちの個々の我のこと。それに対するものが、宇宙我・大我=慈悲と智慧)がエネルギー不滅の法則のように、未来永遠に続くとブッダは覚知していました。

(注4)智慧即慈悲…直訳すれば、智慧はそのまま慈悲であり、慈悲はそのまま智慧であるという意味になります。わかりやすく言えば、慈悲は智慧の振る舞いを指し、智慧はその心の働きを指します。生命の持つ二面性を表現しています。仏法生命科学は、生命や出来事を固定的にとらえません。すべては流れであり、仮に一時的に組織化された存在ととらえます。宇宙の現象はすべて、振動する素粒子の働きで成立しています。ブッダは、この宇宙の振動を覚知していました。今の振動数を悟ることができれば未来の結果が見えてきます。だからブッダは未来2000年先の法の流れを予言(大集経にまとめられている)し、それを現実に的中させています。ニコラ・テスラやアインシュタインも、宇宙の存在物はすべて振動していると明察していました。現象を起こしている目に見えない流れをとらえる言葉として仏法生命科学は「(そく)」を使います。あくまで、言葉は比喩ですが、言葉で表現しないと他者には伝わらないからです。有名な「色即是空・しきそくぜくう(しきそくぜくう)」(般若心経(はんにゃしんぎょう)…般若は智慧という意味で目に見えない働きを指す。「色」=色法=分析できる形をもったもの、人間で言えば身体。空=「色・形あるもの」を支える見えない働き、人間で言えば心。その二つは、つまり一体である、その一体性を表わす言葉が「即」になります)は、この「即」を理解すれば生命の妙がわかります。即とは「妙」という不思議な目に見えない働きをするものとブッダは説きます。

病は (かたよ)り、執着という部分へのとらわれが産み出した一時的な不幸の現象

偏りや執着は秩序を乱し、病を招きます。過剰や不足はバランスを崩し、心身を不調にします。生命の本来の秩序を知ることが何よりも大事です。科学を信じて生きている私たちは、部分観に生きざるを得なくなっています。科学は部分の分析から法則を発見し、私たちの生活に利益をもたらすという実証を示しているからです。分析された対象は真実です。しかし、ものごとの全体をとらえてはいません。意識し分析できる世界と、意識を超えて分析不能な広大な世界の働きに目を向けることが大事になります。部分と全体のつながりを知ることが、健康になるための必須の条件です。真の健康には、いかなる財宝や名声にも及ばない、喜びと心の躍動と調和の美があります。それは心の中に、もともと潜在する慈悲と智慧が現れたものにすぎません。これを「無上宝珠、不求自得」(…無上の宝珠は求めざるに自ずから得たり)とブッダは説きました。宇宙最高の宝が、私たちの生命にもともと存在しているということです。その宝こそ、慈悲即智慧のエネルギーなのです。慈悲は創造するエネルギーとも表現できます。その慈悲を私たちの生命に湧き出させる方法はブッダに学ぶのが一番です。自力で学び修行し、自らそこに到達するには、一生をかけても到達できないかもしれません。正しい先人の智慧に謙虚に学ぶのが早道です。正しいことが大事になります。正しくないと努力が徒労に終わるばかりか、偏りは執着を作り、不幸の原因になります。智慧即慈悲の瞑想の一つを芝蘭の室では実践しています。

コラム生命の流れは混沌としたエネルギーであり、人間の苦・不幸の原因をつくる」…仏法生命論では、生命の流れを「煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦」の三道の流れととらえています。煩悩は生命のもともとのエネルギーであり、混沌としていて、苦楽の両方を持った流れです。意識は快楽を求め、それを五感覚を使って行為します。その行為を業と言います。その行為は習慣力を持ちます。特に刺激の強い、快楽と恐怖は、自動的に反復行為をします。脳内細胞の電気信号であるシナプスの配線が太くなっていて簡単に反応してしまうからです。人は五感の快を求め、思い・考えるという意識はそれを強め執着・愛着し、生命の調和を失っていきます。また恐怖という不快を極度に避け、結果恐怖にとらわれてしまいます。その不調和が病であり、苦をもたらします。その流れの転換方法をブッダは、「法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)」の三徳と説きました。般若は智慧という意味です。法身は、私たちの本来の浄化された生命のことです。その生命には無量の智慧が内在されています。その生命の智慧を引き出せば、苦は浄化される(解脱)という流れに変わります。法身とは誰人の生命の中にも内在する、仏性・法性(ほっしょう)のことです。この生命を引き出すことができれば、あらゆる苦は楽へと変わってゆきます。その道を仏・菩薩道と言います。その道を行くには、ブッダのような正しい師と、宇宙の真理の法(三世の仏が悟った法…古代インドのサンスクリット語でサ・ダルマ・フンダリキャ・ソタランと言います。中国の名訳師が妙法蓮華経と訳しました)の学びが必要になります。世の中は安易な道を誘う詐欺師のような人に満ち溢れています。私たちが賢くならないといけません。「何も考えず権威を敬うことは真実に対する最大の敵である」とアインシュタインは言いました。今はマスコミ、ユーチューブ動画、SNSなどの発信情報が権威化されています。実際にその人に会えば、その人の振る舞いからその人の真実が見えます。「百聞は一見にしかず」は真実を穿(うが)っています。会ってその人の人格を見極めることはとても大事なことです。

筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。

心の病を治す 慈悲の瞑想法

2025.12.20

痛みや苦しみは不調和からのメッセージ

痛みや苦しみは心身の傷つきや不調が発する神経の電気信号によるメッセージです。電子メールのようなものです。執着は神経の疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩し全体を見失わせます。心身の調和が乱れきった時、苦しみや痛みは限界を超え、心身は病みます。しかし、私たちは、その原因を突き止めようとせず、五感で受信した痛みや症状を除去しようとします。その結果、本質的な解決に至ることが難しくなります。智慧の瞑想は、不調和のメッセージの意味を読み取ります。

過去の記憶(知識)による反応行動から 今を意識して生きることで 健康になっていく

木を見て森を見ず」という言葉があります。森に入れば目の前の木しか見えなくなります。これは人間の感覚反応の現実であり、また限界です。人間が鳥のように空を飛べないのと同じです。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たちは、基本的には「井の中の蛙・かわず、大海を知らず」の感覚で生きています。感覚が受信する、ごく一部の世界を、物事の全体と思ってしまいます。それは神経や脳の働きが過剰になり壊れるのを防ぐためです。私たちが生きている現実は、ほとんどが記憶と過去の知識による感覚反応による自動操作的な行動です。井の中の蛙である私たちが大海を見ようとするなら、正しい知識に基づいた想像力を遣うしかありません。井の中から見る世界は部分であり、大海は生命全体を指します。それが反応から、対処(智慧)の生き方に変わる鍵になります。その生き方を継続することで新しい自分が創られていきます。新しい自分を作ることができれば、いかなる心の病も治すことができるとブッダは教えてくれました。

瞑想のやり方を間違えると 迷妄の世界に入り 心の病は増幅する

最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本質がわかっている人が、どれほどいるのでしょうか。心を病んでいる人が、安易に瞑想を行うと迷妄の闇の世界に入ってしまい、心の病は増幅することになります。本来、瞑想はインドの古代社会で実践されていた生命(煩悩)を浄化し、生命全体を直感することを志向するエネルギーを必要とする修行法の一つでした。釈迦・ブッダは、先人の実践に学びながらも、自ら独自の瞑想法で生命の真実(生命の全体)を悟り、仏の境地を得た(注1)と言われています。以下は少し専門的な話になります。ブッダの悟りに至るための修行法の一つに禅定波(ぜんじょうは)()(みつ)(注2)があります。簡単に言えば瞑想によって悟りの境地に至る修行法です。

瞑想は、実は誰人(だれびと)も実行している

瞑想は日常という現実世界から離れ、非日常を体験することです。現実を離れ、自分を客観する世界に入ることです。つまり、一人静かに自分を振り返ったり、内省したり、自然の中を歩きながら、自分を見つめたりすることや日記や記録をつけたりすることも立派な瞑想です。瞑想は特別なことではなく、人間の営みの一つであり、自らを成長させる、かけがえのないものなのです。自分を省みることや反省が自分を高めることにつながるのは、想像力による自己客観視のたまものです。これをメタ認知、鳥瞰的見方という人もいます。しかし、心の病を治し、真の健康を得るには、本格的な瞑想が必要になります。ここでは、その本格的な瞑想について述べてゆきます。

(注1)仏の境地を得た…仏とは宇宙の真理を悟る智慧を体得した人のことを指した言葉です。仏性(ぶっしょう)は宇宙生命の智慧や慈悲を含んだ不思議な法を指しています。仏の境地という場合、すべての生命的存在に内在する不思議な智慧と慈悲の法を悟り、それに基づいて生きている人という意味になります。具体的にはブッダなどの聖人を指します。聖人とは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。仏教史上、釈尊(正法時代のブッダ)のほか、天台、最澄(像法時代のブッダ、釈尊滅後1000年から2000年の期間を像法という釈尊の教法が像「かたち」になる時代)、日蓮(末法のブッダ、釈尊滅後2000年以降未来永遠、釈尊の教法が隠没「おんもつ」する時代)とされています。世界に目を転じてみると、思想・哲学は異なりますが、孔子、イエス・キリスト、ソクラテスも自らの思想・哲学で多くの人々の精神を高め、救済した人とされ、聖人と言われています。

(注2)禅定波羅蜜…仏の境涯を得るための修行法の六波羅蜜(ろくはらみつ)の一つ。(は)(ら)(みつ)とは、今の自分が悟りの境地に至るための修行法という意味です

日本の瞑想は 鎌倉時代の道元の禅が源流

ブッダ以降の仏道修行者の一人、インドの達磨大師が独自の禅を考案し、中国の禅修行者を経て、日本に伝わったとされています。鎌倉時代に栄西や道元が禅を布教しました。道元は釈尊の言葉から離れ、独自に修行の世界に入ることを目指しました。それが「不立(ふりゅう)文字(もんじ)教外(きょうげ)別伝(べつでん)」です。簡単に言えばブッダの言葉の外にある、以心伝心のようなものと解釈し、独自に悟りの世界に入る修行をしました。しかし、指標なき瞑想が、どこに向かうのか、先人の言葉や正しいイメージのない瞑想は闇の中を彷徨(さまよ)ことになりかねません。道元は死ぬ直前、自らの居場所を「妙法蓮華経庵」と名付け、法華経の「如来神力品」の一節を毎日読誦(どくじゅ)していたと言われています。彼は、最後には釈尊の言葉・法華経に帰ったのです。心の不調者や病んでいる人は、迷いの世界にいます。そんな人が禅の瞑想をやればどうなるのか、想像しただけで結果は見えています。瞑想は意識から入ります。その意識が迷いの状態にあり、指標がなければ、漂流するしかありません。神経を遣った分、迷いと苦しみは増幅されるでしょう。私も、大学時代にギャンブル依存がひどかったとき、座禅を試したことがありますが、効果を感じることはできませんでした。指標なき瞑想をすることで、今の迷いの自分から離れられるかどうか疑問です。魔界(まかい)(生命の秩序を壊したり、破壊したりする働きが起きる世界)に入る危険性があると日蓮(ブッダの一人)は警告しました。瞑想には正しい師や指標が必要なのです。

マイドフルネスの目指す瞑想法

マインドフルネス考案者のカバットジン氏は、日本で道元の禅を修行し、それを基にして、独自の瞑想法を開発しました。しかし彼のマインドフルネスは禅とは別のものだと私は思います。彼はイメージや言葉から生命の全体の秩序や調和に迫っています。それが「呼吸瞑想」「歩行瞑想」「今やっていることに対することに意識を集中するという瞑想です」。つまり、「今、生きている瞬間に集中する」という簡単なものです。簡単ですが、私たちは、今という瞬間に、なかなか集中できません。雑念が雲のように湧くからです。過去の記憶から流れてくるような想念に流され、今を過去の記憶の反応で生きているからです。結果、今を生きることができていません。集中力を高めるもっともよい方法が呼吸瞑想です。また身体を観察する「ボディスキャン」です。彼が考案したボディスキャンで部分と全体のつながりを感じてゆくことができます。そうすることでストレスを低減することもできます。彼の主著「マインドフルネスストレス低減法」は、それらの内容を詳述しています。彼の書は世界に広がり、多くの病める人のストレスを実際に低減したと言われています。本当にマインドフルネスを実践したい方は、彼の書「マインドフルネスストレス低減法」を読むことを勧めます。私も彼の書は何度も精読しました。

心身を健康にする 芝蘭の瞑想法

真の瞑想は想像力と思考力を遣って、生命の深層に接近する心の修行です。想像力と思考でブッダの言葉を指標にして深層に入り、本来のありのままの生命の振動にリズムを合わせ、私たちの自己と宇宙的自己が冥合(みょうごう)することが真の瞑想です。そのとき、私たちの意識という一部は、生命全体を直感します。ニコラ・テスラがいう、「宇宙を受信する」ということであり、振動数が重なることと言えます。

「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ」 とアインシュタインは言いました。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は意味深長です。以下に述べる事柄は、感覚では理解できません。知識を指標として想像力を遣えば感じられる世界です。芝蘭の室の瞑想は、1、「身体瞑想」2、知恩瞑想 3、「地球自然瞑想」4、「詩朗読瞑想」の四つを実践し、心の状態にあったものを使います。前提としての生命の働きを理解する心理学習は必須です。特に心の病の重篤な人は、「詩朗読瞑想」を中心に行います。

心の病の四相神経症系、パーソナリティ系、うつ系、統合失調症系

心の病を感覚受信、反応、エネルギーの量という視点から、私は四相に分類しています。1、神経症傾向(強迫性、パニック障害、恐怖症、対人不安、トラウマ、解離など)2、パーソナリティー系。 3、うつ・躁うつ系。 4、統合失調症スペクトラム系。神経症系はエネルギー量を多く持っているので、正しい心理学習で自らを知ることで、比較的早く改善可能です。ただし、トラウマの強度が強い解離性に関しては、特別なかかわりが必要になります。パーソナリティ系は、エネルギーはありますが、波が激しく自己コントロール不全に陥りやすく苦しみます。幼少期の愛着の問題が複雑に絡んでいるため、認知と感情の偏りが大きくなっています。その調節には関係者の粘り強い支援と心理学習が必要になります。うつ系はエネルギーが低下していますので、心身の調節をし、エネルギーの補充が何よりも一番です。エネルギー低下がひどく、生きる意欲が著しく減少しているときは、励ましたり、責めるような言動のかかわりをすると、自殺(苦をもたらす対象を自ら攻撃して、対象を消滅させること。対象の消滅をもたらす心身も消えます。自殺の深層因は瞋恚・しんい(自他ともの生命を破壊する強い攻撃性)による苦しみですから、それを解けば解決に至ります)につながったりしますので、細心の配慮が必要です。休養と軽い運動、気分転換や旅行や趣味を優先します。生活習慣リズムの改善が必須です。エネルギーが出てきたら、心理学習や身体・地球瞑想、詩朗読瞑想を行います。対応を誤ると遷延(せんえん)し長期間、病むことになります。統合失調症系は、深い深層から起きる観念が現実化し意識を支配しているので難治とされていますが、改善可能です。かつてアメリカの精神科医サリバンは統合失調症入院患者をほぼ改善させたとの報告も残っています。つまり統合失調症も対処によっては改善できることを教えてくれています。心理学習と生命の深い深層の流れの転換が必要になります。心理学習、身体瞑想、地球瞑想を含め、詩朗読瞑想が最も効果的です。

筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式理論、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。

人は死んだら どうなりますか? 完全に消滅するのですか? それともどこかへ行くのですか? (男子大学生)

2025.12.09

質問

最近、大学の後輩が亡くなりました。悲しくて、夜も眠れません。彼はどうなったのでしょうか? どこへ行ったのでしょうか? 安らかに眠っているのでしょうか? 何かしらヒントをいただければありがたいです。

回答

この問いに正解を出せる人間はいません。なぜなら、今いる人たちは、みんな死んでいないからです。ですから、この問いに対する回答は、すべて仮説であり、推測になります。ここでは二コラ・テスラ(注1)の光振動理論とブッダ(注2)の生命科学理論から考察した私なりの仮説を述べてみます。

(注1)ニコラ・テスラ…アインシュタインと並び称される20世紀最大の物理学者、交流電圧を発見するなど200以上の発見をし、人類の福祉に貢献した。 (注2)ブッダ…仏教の開祖釈迦・釈尊のこと。詳しくは下欄に詳述。

死は、(せい)ある人間にとっては、最も大事な問題です。なぜなら、生まれたものは必ず死ぬのが生命の法則(注3)だからです。死は生きている人間にとって最大の恐怖を与えます。自分が(な)くなる、自分の持っているものがすべてなくなる…体、地位、名声、財産、能力もすべて失くし、周囲の家族や愛する人たちとも別れなければなりません。人生もこの世界も不確実ですが、死だけは確実で、億万長者も最高権力者も凡人も必ず死にます。死は誰人にも平等にやってくる生命の法則です。差異と差別の現実から見れば、信じられないことですが、今生きている人の生命も本質部分では平等です。この真実をニコラ・テスラやブッダは直観していました。

一代で中国を統一し、権力を(ほしいまま)にし、この世のすべての人間やものを自由に支配できると思っていた(しん)()皇帝(こうてい)は、「不死(ふし)の薬」を賢者に探すように命じたという逸話(いつわ)(のこ)されています。アメリカでは、死後に生き(かえ)ることを願って、自分を冷凍保存にしている人もいると聞きます。いずれも生に対する愛着の強さを物語っています。

死ぬことは人間にとって最大の苦しみであり、一大事(いちだいじ)なのです。ですから、古来(こらい)、宗教、哲学、思想、科学が、死について思索(しさく)してきました。物質世界のことと違って見えない心の世界のことであるため、科学の力でも及びません。そのため、昔から今日にいたるまで、あらゆる仮説(かせつ)がまことしやかに展開されてきました。その(さい)たるものが宗教です。

キリスト教では、死後、神の(さば)きを受け、魂は天国や地獄に行くという考え方を示します。(すべ)ては神が死後を決めるという思想です。人間を(ふく)めたこの世界を(つく)ったのは神ですから、(せい)も神の創造であり、死も神の裁断(さいだん)ということになります。イスラム教では、死は終わりではなく、来世へ向かう通過点と考えているようです。死という最後の日に審判を受け、善行(ぜんこう)を積んだものは、天国へ、悪業(あくごう)を積んだものは地獄へ、アッラーが審判します。一般科学は、物質主義ですから、死ねば物質がなくなるように、すべてなくなるという考えです。仏教は宗派(しゅうは)によっていろいろな考えがありますが、生命は断絶(だんぜつ)するのではなく、基本的には続くという考えです。日本人の死生(しせい)(かん)は、この仏教の考え方が伝統的に受け入れられているようです。

()たして死後の生命はどうなるのでしょうか? 死とは何でしょうか?生まれる前はどこにいたのでしょうか?生れたのは偶然なのでしょうか、それとも、 生れるべきして生れたのでしょうか?この問いは、生命とは何かという難問に(かえ)ってきます。生命の真実の解明なしに、生まれる前の生命、そして死後の生命の解明もできません。私たちの生命とは一体、何なのでしょうか。

ニコラ・テスラは記者のインタビューに次のように答えたと言われています。「存在とは、光の無限の形象(けいしょう)の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべて生命は()りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き()み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一(ゆいいつ)、一つの状態から別の状態に移ることだけです」

一方、ブッダはあらゆる生命は、無有(むう)生死(しょうじ)(生と死は()ることは()い)と説きます。生もなく死もない、生命は(えん)によって顕在(けんざい)し、死という縁で(くう)(注4)のかたちに変り、潜在(せんざい)すると悟りました。つまり生命は無始(むし)無終(むしゅう)であり、始めもなければ終わりもない、あるのは今の生命が続くだけであると説きます。ブッダとテスラは同じ世界を見ていたようです。仏法生命論は、生命は二つのかたちをとりながら存在し続けると説きます。生命は()という顕在(けんざい)のかたちをとり、一方で()という死のかたちで潜在(せんざい)すると説きます。(たと)えていえば、夜になって寝ます。次の日の朝に起きます。寝る前の自分を生のかたちとしての存在と考えます。眠ったときを死のかたちで存在していると考えます。朝起きた時を次の生のかたちとして新たに存在しと考えます。寝る前も自分、眠っているときも自分、次の日起きた時も同じ自分、自分と言う()一貫(いっかん)し連続しています。この我の流れをエネルギーと考えるなら、テスラの考え方と一致します。

この()(くう)の状態で存在すると仏法は論じます。自分の我は生まれ変わって、過去の偉人や生物になるわけではありません。自分という我は、あくまで自分で一貫しています。今、生きているときの行為の総体が記憶化され、次の行為につながるように、(こん)()の生き方の総体が心の深い部分の(くら)(5あらや識)に(くう)の状態で貯蔵(ちょぞう)され、自分に(てき)した(えん)を選び出し、顕在化すると説きます。それを因果(いんが)応報(おうほう)とも言います。今の行為((いん))が一つの行動を起こし(果)、(こう)不幸(ふこう)(むく)いを()るのが応報ということです。(ひと)の目は(あざむ)けても自分の心は厳然(げんぜん)と事実を記憶し、その善悪の総体が、次の生のかたちを決めるとブッダは説きました。エネルギーはかたちを変えますが、不変とテスラが言ったことと同じことを()しています。

ブッダは過去・現在・未来という三世(さんぜ)の生命を悟ったと言われています。ブッダの生命観、(せい)()不二(ふに)であり、生命は無始(むし)無終(むしゅう)であり、今の()が姿かたちを変えて因果の総体( (ごう)=カルマ)で連続すると悟りました。つまり、人が死んだら生前(せいぜん)の行為の総体(行為、言葉、心で思ったこと)…善と悪そして無記(むき)(純粋な知識)という(ごう)が意識下に「(くう)」のかたちで潜在してゆきます。その業にふさわしい(えん)を選んで、阿頼耶(あらや)(しき)に蓄積されているものが種子(しゅし)発芽(はつが)するように、新たな生命のかたちになり、生まれると説きます。(たと)えば生前(せいぜん)、人らしい生き方…人としての(かい)を守り、敬虔(けいけん)な心を持ち、()(おん)(親の恩、社会の恩、師の恩、一切の生物の恩)を感じ、それに(むく)いる生き方をするなど)をしていれば人に生れると言います。動物のような弱肉強食の生き方をしていれば動物(犬・昆虫・鳥など)のかたちに生れるとブッダは説いています。(すべ)ては自分の行為の結果であり、誰のせいでもありません。これが自業自得(じごうじとく)の本当の意味です。つまり、死んでも生きているときの自分という我は、姿形(すがたかたち)を変えて、心法(しんぽう)(注6)(色法=肉体、心法=心、仏法生命論は色心不二と説きます)として存在し、永遠に続くとの理論です。

注2 ブッタ・聖人(しょうにん)…インドに約2500年に誕生したブッダを一般的には指します。しかし法華経の正統(せいとう)継承者(けいしょうしゃ)の中では、三世(さんぜ)の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人を聖人(しょうにん)と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドのブッダ、中国の天台智顗(てんだいちぎ)、日本の最澄(さいちょう)日蓮(にちれん)の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来を予言し、それを的中(てきちゅう)させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹(りゅうじゅ)・天親菩薩(ぼさつ)がいます。彼らは人間生命の深層(しんそう)を探り、(くう)(かん)唯識(ゆいしき)思想や死後の世界を究明したと言われています。聖人と呼ばれる人たちは、自らの私利私欲と闘い、それを克服昇華させ、人々の苦しみを抜き、人の生き方を高め、現実的に人々を救済し、慈悲行を生涯貫いた人であり、人として最高の生き方の見本を証明した人たちです。「人間は素晴らしい存在である、その素晴らしさにめざめなさい」と生涯、忍耐強く対話を続けたそうです。あくまでも人間に始まり人間で終わった人たちです。同じ人間だら、人間として共感でき、心底尊敬でき、私のあこがれの存在です。

注3生命の不思議な法則…宇宙のすべての存在は生と死を繰り返しています。地上の生物は細胞で構成されていますが、その細胞は生まれて変化成長し、やがて老化し役割を終えます。人間も同じです。細胞でできているからです。この法則を釈迦は生住異滅(じょうじゅういめつ)、生滅の法(生死の二法)(じょうじゅういめつ)と悟りました。

注4 (くう)竜樹(りゅうじゅ)菩薩(ぼさつ)の中心思想の一つ。存在するものを「()」存在しないものを「()」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「(えん)(きょう)」によって生起(せいき)し有のかたちになる。「空」は有無(うむ)の二つの在り方をとる生命現象なのです。

注5 阿頼耶(あらや)(しき) 唯識(ゆいしき)思想では意識の下に、第七(だいなな)(しき)として末那(まな)(しき)(自我(じが)執着(しゅうちゃく)意識)、その下に第八(だいはっ)(しき)、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在しているが確かに存在し、意識に影響を与えています。脳に記憶化されたものと考えると理解しやすいかもしれません。天台智顗(てんだいちぎ)は八識下に根本(こんぽん)(じょう)(しき)としての()(しき)を覚知されました。それを法性(ほっしょう)(仏性(ぶっしょう))といい、あらゆる万物を創造する慈悲と()()の生命でありブッダの妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)(注7)と同義であると論じています。

注6… 心法(しんぽう)、仏法生命論の重要概念(がいねん)の一つ。色法(しきほう)=肉体の働き、心法=心の働き、仏法生命論は(しき)(しん)不二(ふに)と説きます。この色心不二が生命の存在の真実の姿とブッダは悟りました。般若波(はんにゃは)()(みつ)(きょう)の中心思想は「色即是空(しきそくぜくう)」です。色法は、これ(くう)との教えです。心法は、(くう)の状態で存在し、(えん)によって顕在し見えるかたち、色法として働きます。色心不二理論は、妙法蓮華経方便品(ほうべんひん)で説かれた重要理論です。

7 妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)、略して法華経(ほっけきょう)といいます。インド応誕(おうたん)のブッダは、菩提(ぼだい)樹下(じゅか)で生命の真実相を悟ったと言われています。その悟りの内容を修行面で仏教と言い、法理面(ほうりめん)仏法(ぶっぽう)と言います。悟りの内容は深遠(しんえん)であったため、当時の民衆の生命状態や能力に応じて種々(しゅじゅ)のたとえや方便(ほうべん)を使って教えを説いたとされています。(たと)えば念仏(ねんぶつ)南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)大日如来(だいにちにょらい)の教えや(ぜん)般若波(はんにゃは)()(みつ)(きょう)など、40年にわたって八万(はちまん)宝蔵(ほうぞう)とも言われる膨大(ぼうだい)な教えを展開しましたが、いずれも当時の民衆の能力や理解度を考えて、生命の一部分を説いたとブッダは言われました。部分ですから、それらに執着しては、正しい生命観を持てないと戒めましたが、現存する日本の多くの仏教は、部分に(とら)われています。それゆえ、真実の法に(いた)ることができていないと聖人は語っています。

ブッダは最後の八年で、真実の教え、生命の全体像を説きます。それが妙法蓮華経(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランのインド、サンスクリット語の漢訳)で、略して法華経と呼ばれています。妙法蓮華経とは、宇宙を含めたすべての存在は不可思議な因果()()の法に(のっと)って存在しているというありのままの姿を言葉として表現したものです。この不思議な法を言葉で名付けた方が聖人であり、その()音律(おんりつ)(リズム・振動)が妙法蓮華経です。実態は言葉を超えて存在していますが、人間には比喩(ひゆ)の言葉でしか表現できないので、聖人は言葉として表現したと言います。そして比喩(ひゆ)(そく)真理(しんり)(比喩はそのまま真理を表す)と不可思議境の世界を説かれました。この妙法蓮華経の振動は、今この瞬間にも私たちの生命そのものとして存在していると言います。当時、書物はありませんので口承(こうしょう)で真意を()んだ弟子たちによって編集され、28品(章)に分類されました。生物の(ごう)を説いた比喩品(ひゆぼん)は第三であり、永遠の生命を説いているのは如来(にょらい)寿量品(じゅりょうぼん)第十六になります。

如来(にょらい)とは、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)薬師(やくし)如来(にょらい)など仏(人的側面)と訳されることもありますが、真実の意味は、今の生命の深層から()き出る私たちの本来的な生命の振動であり法のことです。つまり、今の一瞬の生命は不可思議であり、どこからともなく湧き起こり、私たちの生を支えていますが、私たちは意識できませんし、実感もできません。過去の記憶の総体で自動的な働きの感受(かんじゅ)である意識で生きているからです。

如来の意味は、瞬間に発動する生命のもつ慈悲(じひ)智慧(ちえ)の律動であり振動リズムです。これを光の振動ととらえたのがニコラ・テスラです。生命は永遠に今を振動しています。永遠と言う言葉は時間の変化を表す言葉であり、アインシュタインは、時間はない、変化があるだけと言いました。実際の生命は常に今しかないのです。アインシュタインもニコラ・テスラも、こうした世界の一部を覚知していたと言われています。だからあれほどの発見ができたとも言えます。この今の生命の真実の在り方、如如(にょにょ)としてくる生命、つまり妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)如来(にょらい)にナム(ナムは梵語(ぼんご)、漢語で帰命(きみょう)…リズムを冥合(みょうごう)させること)して生きることこそ真の幸福に至る道(仏道(ぶつどう))と聖人は教えています。私は今日まで、50年近く諸般の哲学や文学、科学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。研鑽の旅は今も続いています。あなたもぜひ、思索研究され、生命の真実に接近されてみてください。

しらんの便り…不登校・引きこもり・心の不調からよみがえる本 (来春出版予定)第五章より抜粋

〇筆者は、広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。

自分が嫌いです どうすれば自分が好きになれますか(女子高校生) 

2025.12.02

(質問)自分が嫌いです。自分の顔も嫌いです。生きることが辛いです。どうすればいいですか。

回答

自分が嫌いなぐらい辛いことはありません。生きているのは自分であり、自分そのものですから…。その自分が嫌い、それは生きることが嫌いということと同じぐらい辛く苦しいことです。

よくよく考えてみると、自分が嫌いと感じているのは、あなたの意識が感知した世界のことです。その意識の向いている対象とは一体何なのでしょうか。意識はあなたの全体を感知できません。意識が感知できるのは、あなたのごく一部だけです。まず、そのことを知らなければいけません。

あなたが嫌いと感じているのは、あなたのどの部分のことなのでしょうか。顔でしょうか.体形でしょうか、暗いなどといわれる性格面でしょうか、うまく人と話せない自分でしょうか、嘘をつき内心を隠す自分でしょうか、成績が良くない自分でしょうか、運動能力の低い自分でしょうか、家庭に問題がある自分でしょうか、貧しい家に住む自分でしょうか…例を挙げればきりがありません。

しかし、これらは、あなたの属性の一部分にすぎません。あなたの全体ではありません。部分は全体ではないことを知らなければなりません。顔がよいとかよくないとかは、あなたの属性の一部分にしか過ぎないのです。一部分で全体を決めてしまっていることに気づかなければいけません。人間の真の価値は、部分の属性で決まるものではなく、全体で決まります。例えば、一人の人の苦しみもわからない国王より、貧しく地位もないけど、隣人の一人を救う人のほうが人間としての価値は高く、偉い人と聖人(ブッダ)言いました。

顔という一属性を例に挙げて考えてみます。確かに顔は人間にとって大事な部位です。顔の表情を見れば、その人の心情を読むことができますし、生き方そのものが顔に現れていると言われます。人相診断というものがあるほどですから。確かによい顔は好感をもたらします。そのよい顔とは一体どんな顔をいうのでしょうか。マスコミなので作られた俳優のような顔をよい顔というのでしょうか。顔は人間の中心的な部位ですが、人間全体ではありません。あくまで一部です。つまり顔がよいというのはその人の一部を評価されたにすぎません、その人そのものが好(よ)いわけではありません。

顔に対する意識は、今のあなたが感じたものにすぎません。そしてその顔を評価しているのは誰でしょう。あなたですか、それとも周囲の人ですか。よく考えてみてください。よく考えてみると、その評価は、社会の人が作った評価を周囲の人も信じ、その評価をあなたが取り入れているに過ぎないことがわかります。わかりやすくいえば、顔のよしあしを決めているのは、その時代の価値基準というものさしです。

例を挙げれば、女性の外見の美の基準は時代とともに変わっています。平安時代は、ふくよかな一重(ひとえ)(まぶた)の切れ長で、髪が美しい女性が美人とされました。日本は長く和服文化で、和服を着ていましたので、欧米の服装が入ってくるまでは、和服が似合う人が美人でした。現代は、欧米の影響もあり、外見のスマートさや化粧や装飾品、髪型など顔の持つ本来の素面(すめん・素材)のよさより、装飾され加工された美を求める傾向にあります。その最たるものが整形、スマートなスタイルです。しかし、いかに外見を飾っても心根(こころね)の美しさは装飾や加工では作れません。心根のよさは生き方が反映されるからです。女性に対する美意識も時代とともに変わっていきます。変わらないのは心根の美しさです。

「単純さは究極の洗練である」とレオナルド・ダビンチは言いました。真の美は調和であり、整った秩序を持ち、単純です。体と心の調和されたものこそ真の美です。その美は時間の変化の中でも輝きます。心に美しさを持つ人は、年齢とともに美しさを発揮してゆけます。体は時間とともに衰えてゆきますが、心は死ぬまで成長してゆくものだからです。真実は常に単純です。

顔という一部分で人間全体を決めつけることの愚かさがわかったと思います。内面的な性格、能力、優しさ、思いやる心の深さ、そうしたものを持つ人の美しさは顔の美しさをはるかに凌駕(りょうが)します。

どんな美しい顔立ちであっても心の成長のない顔は()きます。また風化してゆきますが、心を磨いた顔は日々輝いていきます。自分の一部を見て、他者と比較し、自分を劣ったもの、だめなものと決めつけることから、自分が嫌だという感情が生まれます。それは、あなた全体のもつ可能性に対する冒涜(ぼうとく)です。あなたには、もっもっといろいろなものがあるはずです。例え、世の中の基準値から見て、顔がよくなくとも、顔が嫌いでも、心根が好(よ)ければ、また他人があなたの心根をほめれば、あなたはあなたの心根が好きになるはずです。好い所が増えれば増えるほど、自分が自分を好きになれます。

あなたの体を目を閉じて想像してみてください。体には、皮膚、筋肉、骨、脳、神経、口、鼻、耳、目、食道、胃、腸、肝臓、心臓、肺、ホルモン、血液…など無数の部分(パーツ)があります。顔は皮膚の一部です。あなた全体の100分の一以下にすぎません。百分の一が劣っているからといって、全体の100を嫌うという愚かな考えに陥っています。

今の自分をありのまま受け入れ、あなた自身の全体に生きることです。あなたの全体を知ることです。そこから全ての変化が起きます。大事なことは、他人の言葉ではなく、自分が自分に投げかける言葉なのです。

もう一度繰り返します。人間の属性はたくさんあります。その属性を比較する基準も、人が作ったものさしに過ぎません。容姿(ようし)以外にも、頭の良さ、学歴、性格、富、人気、家柄など、その人の持つ属性はたくさんあり、評価基準も無数にあります。評価基準は社会や人が作ったものです。容姿が人より悪くとも、他の面で人より(ひい)でていれば、人も認め、自分も自分の容姿の悪さを受け入れることができるようになります。()いところも悪いところも、容姿の悪さも、すべて自分の一部です。

今の自分をすべて受け入れることです。あなたには気づかないあなたの良さがまだたくさんあなたの中に潜在しています。意識の方向を変えてみることです。違った自分が見えてくるはずです。人と比べることをやめ、今日の自分と明日の自分を比べる生き方に変え、自分のよさを開発してゆくことです。人と比べても本当の成長はありませんが、今の自分と未来の自分を比べ、足りないところを努力し補っていけば確実に成長してゆきます。そして人からも認められるようになっていきます。やがて自分を認めることができるようになります。その積み重ねの努力の継続が、自分は自分でよいと思える自分にしてくれるでしょう。

今の自分を全部受け入れ、多くの未知の可能性の発掘(はっくつ)のため、常に学び向上し、心を(みが)いていけば、自分の欠点なんか、気にならない日がくるでしょう。あなたには、それだけ素晴らしい力が眠っているからです。その開発も、今の自分を(まる)ごと受け入れることから始まります。いつの日か、自分が好きになる日が必ず来ます。私もそうでした。

芝蘭の便り「ひきこもり・不登校・心の不調からよみがえる」(来週出版予定) 第五章の3 質問に答えるより

〇筆者は、広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。

慈悲のリズムに乗るとき 苦しみはなくなり 心は 安穏になってゆく

2025.11.29

安心と喜びの慈悲のリズムが、私たちの心の奥底に流れています。しかし、私たちはそれを感知することがなかなかできません。

石、草木、花、川、海、山、生物、大地、空、人間、地球、月、太陽、星、銀河など、あらゆる存在は、原子でできており、振動しリズムを奏でています。これは、量子物理学の知見であり、生命の不思議世界に接近しつつあると言われています。見えない生命のリズムについては(すで)に、2600年前ごろにインドのブッダによって瞑想(めいそう)直観(ちょっかん)され、その真意を信解(しんげ)した正師たち(注1)に求道、研鑽され、深化を(と)げてきました。生命はリズムを(かな)で、一瞬も止まることなく流れゆく存在であると…。

(注1) 釈迦(しゃか)滅後1000年の間に、釈迦(ブッダ)の正法(しょうほう)継承(けいしょう)した24人のこと。「(くう)縁起(えんぎ)」などの深遠な生命理論を展開した。その関係性理論は量子力学の知見と近似しています。(注1)

宇宙のあらゆる存在は、石も植物も動物も原子で構成され独自の周波数(注2)を持ち、それぞれが固有の波動を出しています。喜びの波動もあれば、地の底に沈む苦しみの周波数もあります。動物も生物も、そのかたちに応じた周波数を出していると量子物理学は語ります。人は通常、平穏な周波数を奏で、その波動を出しています。それが人間のリズムの基本であるとブッダは語りました。

(注2) 周波数(ここではリズムを同じ意味で使っている)…一秒間に振動する数、単位はHz(ヘルツ)、私たちの脳波は通常、シーター波(4~8Hz、まどろみ時)、アルファ波(8~13Hz、リラックス時)、ベーター波(13~30Hz、活動時)、ガンマ波(30Hz以上、緊張、興奮時)の周波数が中心になっていると言われています。癒しの周波数は、528Hzと言われ、リラックス効果やDNAの修復が期待される奇跡の周波数という学者もいます。また432Hzは、自然の周波数や宇宙の響きと呼ばれ、心を落ち着かせ、感情を穏やかにする効果があるという学者もいます。人間が耳で聞くことができる周波数の範囲は、20~2万Hzと言われ、出せる音は80~1100Hzと言われています。ちなみに蝙蝠(こうもり)は10万Hzの音が聞き分けられる音の超能力動物です。波動は振動を伝えるエネルギーです。周波数が高いと波動も大きくなります。この宇宙で最も周波数が高い存在は、現代量子物理学の発見によると光とされ、400兆Hz(赤外線)から700~800兆Hz(紫外線)と言われ、思考や想像を超えた神がかり的な奇跡の周波数です。私たちは光で生きています。また微細(びさい)な光を体から出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。生命は不思議です。こうした不思議な生命現象をブッダは「サ・ダルマ」(妙法…漢訳)と名付けました。ブッダのいう法とは、人間の感覚では感知できませんが、確かに存在し変化を生み出す働きを言います。科学は、あるものごとや現象を理論として仮説し、それを実験・実行し、その仮説の正しさが証明され、現実に適用して効果を発するものと定義できます。ブッダの説いた仏法(生命科学理論)は、それを正しく実行すれば、慈悲と智慧が生命に流れることによって結果が出てきます。例をあげれば苦しんでいる人がブッダの仏法を正しく実践した結果、苦しみから解放される事実が百発百中ということです。それを科学と言います。仏法は正しい理論に裏打ちされた科学です。量子力学がそれを証明しつつあると言われています。(注2)終

生命の発するリズムは、私たちの五感では感受することが難しいのですが、実際は光の波のように四方八方に伝播(でんぱ)されています。よい光や香りを放つ人もいれば、怒気や嫌悪波を出す人もいます。目に見えない波ですが、周囲に波動として広がります。五感で感じられる共鳴と、感じられないものがあります。例えば、お腹の中の赤ちゃんが、母親の言葉を聞き、その感情の振動を受信しているようなものです。善も悪も共感し感染します。きれいな夕焼け空や朝焼(あさや)けの放つ波動、穏やかな言葉の持つリズム、癒される自然の波動、(こころ)()かれるリズム、嫌な不協和音の攪乱波(かくらんは)など、すべての生命的存在は、生命の境界(きょうかい)(注3)に応じたリズムを奏でているとブッダは語ります。

(注3) 生命の境界…天台智顗・てんだいちぎ(てんだいちぎ)(538年~597年、天台大師のこと。隋の皇帝も帰依し国師となった人)によると、ブッダの究極の法を多面的にとらえ「一念三千論」の生命科学理論を提唱し、像法(ぞうほう)時代の仏と言われています。すべての人間の生命に等しく十境界は内在し、縁(対象)によって現れると説きます。生命の十境界(1、地獄界「束縛された不自由な苦しみと、苦をもたらすものをはねかえせない(うら)み憎しみ怒りと破壊の渦巻(うずま)く生命」、2、餓鬼界・がきかい(がきかい)貪・むさぼ(むさぼ)り・飢渇・きかつ(きかつ)、執着、自らの欲望の(ほのお)に焼かれ、求めても得られない(かっ)し、もだえ苦しむ生命」、3、畜生界・ちくしょうかい(ちくしょうかい)癡・おろか(おろ)威張(いば)る、愧・は(は)じない心、弱肉強食、強いものに巻かれたり、弱いものを傷つけたり、強いものに殺されたり、弱いものを殺したりする攻撃と恐怖の保身の生命」。以上の三つを(さん)悪道・さんあくどう(あくどう)と名付け、人間の苦しみの根本因としています。現代の世界の各地の戦争や紛争をはじめとした惨劇(さんげき)、社会的犯罪などの不幸な現象はこの三悪道から起きるとブッダは洞察(どうさつ)しました。 4、修羅界・しゅらかい(しゅらかい)傲慢・ごうまん(ごうまん)嫉妬・しっと(しっと)、人より優れようとしたり劣等に苦しんだりする戦々恐々・きょうきょう(せんせんきょうきょう)とした心が揺れ動く不安定な生命」、現代の競争社会…学歴、成果主義社会の根底にある生命は修羅界です。こうした競争社会に疲れ、家に回避しているのが、不登校・ひきこもりの要因の一つになっています。5、人界・にんかい(にんかい)『平穏・安定した思いやりに満ちた平和な本来の人間の生命状態」6、天界(てんかい)「満足・充足・喜びの生命」…人間はこの六つの世界を縁・えん(えん)(対象)によって(めぐ)る、つまり六道(ろくどう)輪廻・ろくどうりんね(りんね)しているブッダは説きます。この六つの境界は環境に左右されやすい生命状態で安定できません。7、声聞界・しょうもんかい(しょうもんかい)(正しい知識を学び自分のものにする向学の心、向上する生命)、8、(えん)覚界・えんがくかい(がくかい)(見えない世界や法則を(さと)智慧(ちえ)の生命)、9、菩薩界・ぼさつかい(ぼさつかい)(自他ともの生命を高め慈・いつく(いつく)しむ慈悲と智慧の振る舞い、自己中心性を克服(こくふく)し生命を大きく飛躍させる崇高(すうこう)な生命)、10、仏界・ぶっかい(生命の真実を悟り永遠性を覚知できる智慧の生命)…以上の四つの境界は、生命が安定し、エネルギーに満ち、環境や他者を価値的にリードすることができると言われています)。天台の境界論は、のちの仏教界に大きな影響を与えました。すべての命(衆生(しゅじょう)・しゅじょう、人間)は十境界をもち、それらは「空・くう(そら)」の状態で存在し、縁・えん(対象)によって起こるという関係性理論を展開しました。生命の十境界は固定化されたものではなく、縁(対象)によって起こり、変化してゆきます。どの境界がよく出るのかによって、その人の人間性の品位(ひんい)・ひんい、振る舞いが決まります。意識を磨き修行すること(意志、決意、誓いをもち行動すること)で境界のレベルを上げることで人格を高め、品・ひん(ひん)のある人(孔子(こうし)のいう君子(くんし))になっていくと論じています。ブッダは修行によって、仏界(ぶっかい)(宇宙大の尽きることのない智慧と慈悲と創造性、生命力などを含む無上(むじょう)宝珠(ほうじゅ)の世界)の境涯(きょうがい)定業化・じょうごうか(じょうぎょうか)(習慣化)を弟子たちに教えました。現在の量子力学は、縁起という関係性理論を証明していると言われています。(注3)

「あの人とは、生理的に合わない」は、その一つの例であり、その人の発するリズムを心身が受け入れられない反応です。しかし、それは固定化されたものではなく、こちらの心の境界が上がれば、生理的な回避反応も、受け入れられるようになり、その人に合わせることができるようになります。

また不登校・ひきこもる人の中には、人々の発する不愉快な波を避けるために安全空間に回避している人も少なくありません。他者や社会の持つ嫌な波動を受け入れ、適応できるようになるためには、こちらの心の世界を広げるしかありません。心の境界が低いと周囲の波動に振り回されますが、高くなると、逆に周囲や環境をリードすることができ、価値的に対処できるようなります。

ブッダ・釈尊(しゃくそん)のような人格の(かお)る人のそばにいると、共感(きょうかん)現象(げんしょう)により、心が浄化され、人間性の(たか)みに引き上げられていきます。逆に(しゅ)に交われば赤くなるとのことわざのように、人間性の低い人のそばにいると、そのリズムに感染(かんせん)し、いつしか人格が低下するようになるかもしれません。人はその境界に応じた周波数を(かな)で、波を出しています。人の心がわかることは大変な難事(なんじ)です。自分の心がわかっていないと、人の心も分からないからです。多くの人は本心を隠して生きています。心が澄んだ人は、ひとのリズムを直感で感じとり、その人の本質を知ることができ、()波動(はどう)(あしき)しき波動の持ち主を見わけることができるようになります。人を見分ける基準は、その人の私欲(しよく)私心(ししん)(松下幸之助の言葉…私欲私心が会社をつぶす)の有無(うむ)をみればわかります。人格者は清廉潔白(せいれんけっぱく)であり、誠実で正直です。

意識とは何か、最新の脳科学も、またあらゆる科学をもってしても、意識を正確にとらえることはできていません。しかし、確実に言えることは、今、このように読んだりしていることは意識の働きよるということです。つまり意識は言語道断(ごんごどうだん)(言葉では説明できないもの)の世界の振動数の世界なのです。比喩(ひゆ)を使うしか表現できません。

光は二つの側面を持っています。それは粒子と波という二面性です。人の意識は、言葉・イメージと気分・情緒(じょうちょ)という二側面があると考えられます。言葉・イメージは固定化された物質であり粒子(りゅうし)といえます。気分情緒は波に(たと)えられます。人間の意識は情緒・気分というリズムをもっていると推測でき、そこに人の心を読むことの難しさや、周波数の秘密が隠されている可能性があります。

量子力学などで、素粒子(そりゅうし)の世界や動きから周波数の一部は解析(かいせき)できている部分もありますが、ごく一部であり、ほとんどが(いま)だに(やみ)の中です。あらゆる生物、物体、人間や動物も固有の周波数を出していますが、固定的なものではなく、絶えず変化し、関係性で生起(せいき)しているのが真相(しんそう)です。関係性で生起しているゆえに、一方が変化すれば他方も変化することになり、固定化できず、観測も分析もできないという不確定性(ふかくていせい)原理(げんり)(4)が生れます。その意味では素粒子の究極(きゅうきょく)の世界と意識・生命は似ているといえます。宇宙のすべての生命体は周波数によってかたちができ、その周波数も刻々(こっこく)と変化し生滅(しょうめつ)を繰り返し、関係性(縁起(えんぎ))で成り立っていると直感したのがブッダです。

(注4)不確定性(ふかくていせい)原理(げんり)…量子力学の根幹をなす概念(がいねん)の一つ。1927年にハイゼンベルグが提唱しました。簡単に言えば、物質の究極の世界は正確な観測ができず、不確定であるということ。(注4)

波動を高めるとか運気(うんき)をあげるとか、周波数を合わせるとかいっても、宇宙、生命の真相がわからないと、どこに周波数を合わせるかさえわかりません。指標(しひょう)なき盲目(もうもく)の方向は危険です。地獄に引き込む周波数や人をだまし、不幸を(さそ)う周波数もあります。心が(にご)っていると、見る目が(くも)り、真実が見抜けなくなり、偽物(にせもの)を本物と見てしまいます。結果、不幸な人生をさまようことになります。心を(みが)き、選択する力、判断力を高め、想像力を広げる意識の錬磨(れんま)によって健康・幸福のリズムに乗ることができるようになります。

見えない生命のリズムをあつかう、宗教やスピリチュアル系や思想・考え方の怖さはそこにあります。今、問題になっている宗教がそのよい例です。そもそもお金や営利の心がある人や団体には気を付けなくてはいけません。ユーチューブやサイトの情報も要注意です。そもそも閲覧(えつらん)数(利益・名誉になる)が目的のものが多く、閲覧する人の幸福を考えている人は少ないかもしれません。正しい思想の人は、釈尊やその弟子たちのように、真実の探求を第一に誠実に生き、自他の救済に生きています。なぜなら真実の探求と悟りで心が充実しているからです。

生命本来のリズムの解明は宇宙すべての生命現象の解明なくしては分からない難問です。生命の真相を求めて、この地球では有史(ゆうし)以来(いらい)あらゆる聖人(しょうにん)、賢人、物理学者、数学者、哲学者、思想家、宗教家が格闘してきました。そして到達した世界を書物や対話などで残してきました。その数は膨大(ぼうだい)であり、一生かけても探究できないと言われています。最も生命の真実に迫った人たちは(よん)聖人(しょうにん)(ソクラテス、孔子、イエス・キリスト、釈尊・ブッダの四人を指す)と一般的に言われています。なかんずく、(みずか)らの生命の魔性と(たたか)い、迷いの生命と格闘(かくとう)(さと)りを得た人がブッダです。

生命を悟ることは、知的理解では到達できないと言われています。知識は生命の一部しか理解できないからです。釈尊の悟りは直観(ちょっかん)()であり、生命全体でわかることでした。それは心身全体をかけた実践・修行のなかで生命浄化の()てに到達できた生命の直観体得です。

欲望に()まった生命を浄化することによって、本来の純粋な自己が(はっ)するリズムにはじめて冥合(みょうごう)が可能になります。本来の自己、つまり宇宙本来の自己のリズムは、万物(ばんぶつ)を創造し育む慈悲の音律(おんりつ)であり波であり光であり無分別(むふんべつ)の一法なのです。慈悲の修行実践者にして初めて到達できる悟りです。欧米(おうべい)世界やイスラム世界では、その存在を神と名付け、人間世界のはるかかなたに祭り上げてしまい、その存在の探求や思考をやめ、(あが)め信じることを第一(だいいち)()にしてしまったように思えます。

慈悲のリズムに合わせて生きるためには、覚者(かくしゃ)の通った道に学び、覚者の言葉を師標(しひょう)(注5)にして修行実践するしかありません。言葉では表現できない不可思議な音律がもたらすリズムは覚知であり実践修得しかないからです。そのためには、正しい指標、正しい知識が必要になります。正しい知識とは、生命全体を基本にした上で、部分は部分として把握(はあく)理解している知識です。逆に不幸を誘う知識は、部分をもって生命全体とする(かたよ)った知識です。実践してみて、100%の人が幸福を実感できるものこそ正しい知識の(あかし)といえます。正しい言葉は詩的で美しい響きがあります。以下は、私が読んだもので美しい響きを持つものと記憶しているものの一部です。

論語(ろんご)」、老子の言葉、聖書の一節、万葉集などの短歌、平家物語の冒頭(ぼうとう)法華経(ほけきょう)寿量品(じゅりょうぼん)、ニーチェの「ツラツゥストラはかく語りき」、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判」、ゲーテの「ファースト」、ペスタロッチ「隠者(いんじゃ)の夕暮れ」、日蓮(にちれん)の「立正安(りっしょうあん)国論(こくろん)」、ベルグソンの「創造的(そうぞうてき)進化(しんか)」、西田(にしだ)幾多郎(きたろう)の「善の研究」、アインシュタイン、ニコラ・テスラ、ダビンチ、ソクラテス、アリストテレス、パスカルの名言、宮沢賢治の「雨にも負けず…」や高村光太郎やタゴールやホイットマンなどの詩です。

()き言葉 善き知識・書物、善き人 善き師、よき先生に出会えることこそ 人生最高の宝であり、智慧と福徳の源泉です。それらの存在が(えん)となって私たちは心の境界を高め、幸福リズムに乗ることができるようになります。

(注5) 覚者の言葉を師標(しひょう)…ブッダ・釈尊が弟子たちに説いた最も大事な指標の一つに「六波羅蜜・ろくはらみつ(ろくはらみつ)」(波羅蜜とは、迷いから悟りに至り、宇宙大の生命をくみとり、そのリズムに乗るための六つ項目) と八正道(はっしょうどう)の修行実践があります。それらを正しく実践すれば、あらゆる病は(なお)るとされています。釈尊は(い)(おう)との別名があり、治せない病気はなかったと言われています。ただし、正法時代に特に効果をもたらす実践法と言われています。釈尊は時代の流れを大集経(だいしつきょう)の中で予言しています。正法(釈尊の死後1000年間、煩悩を克服して悟りを得る最初の500年間…解脱堅固(げだつけんご)、禅や瞑想で悟りを得る後半の500年間…禅定堅固・ぜんじょうけんご)次の1000年を像法時代(最初の500年間は、読経、書写が盛んになる読誦多聞堅固・どくじゅたもんけんご。後半500年は、お寺や仏像などが盛んに作られる多造寺堅固・たぞうじけんご)堅固・けんごとは予言が的中するという意味です。日本をはじめ、仏教国では、不思議なことですが、釈尊の予言の通りになっています。釈尊滅後2000年以降を末法と言います。日本では、平安時代の終わりのころで、闘諍言訟(とうじょうごんしょう…思想宗教上の争いが絶えなく、何が正しいのかわからなくなる時代)末法思想到来などと言われ、暗い世相の時代になりました。釈尊の仏法が効力を失う時代とされ、新たな仏法が日本を中心に興る時代と天台は予言しました。末法は未来永遠に続くとされています。今は末法です。

〇六波羅蜜(ろくはらみつ)

1,「布施波(ふせは)()(みつ)」…この実践により、自己の貪欲(どんよく)で人にものを与えず(ひと)り占めする心を克服(こくふく)することができます。具体的な実践として、お金を他者に(ほどこ)したり、正しい生き方や知識を人に施したり、心からの安心感を人に与え、人々の恐怖を取り除いたりすることです。これを実践すれば、執着を明らかに見ることができるようになり、依存症を治すことができるようになります。心の境界の「餓鬼界」を善の方向に転換できるようになります。

2,持戒波(じかいは)()(みつ)‥悪を()め、善を行うこと。リズム的生命活動を破る行為を、再び人間らしい生命へ回復させる実践。これを実践すれば、反社会的行為を治すことができます。心の境界の畜生界を善の方向に転換できるようになります。

3,忍辱波(にんにくは)()(みつ)‥忍耐のこと。瞋恚(しんい)(各種の怒りの煩悩(ぼんのう)を治す効果がある。) 人間の生命を高め、慈しむ菩薩行には、耐え忍んで他者を守るという努力が必要になります。これを実践すれば、アンガーをマネジメントすることができるようになります。心の境界の地獄界を善の方向に転換できるようにもなります。

4,精進波(しょうじんは)()(みつ)‥喜んで慈悲を行い、いささかも(なま)けないことです。懈怠(けたい)(人間完成に向かって努力することを(おこた)る心)をいましめてゆきます。これを実践すれば、社会で、その道の一流になることができます。修羅界を善の方向に()かすことができるようになります。

5,禅定波(ぜんじょうは)(ら)(みつ)静慮(じょうりょ)ともいい、精神を集中して散乱させないことです。マインドフルネスは、これを重点的に実践しています。これを実践すれば、不安障害など多くの心の病を治すことができ、人間界を強化できるようになります。 6,般若波(はんにゃは)(ら)(みつ)(般若(はんにゃ)は、智慧の意味)一切の事柄、法理に通達して明瞭ならしめる智慧の獲得を目指します。愚痴(ぐち)(物事の道理に暗く、因果律もわからない心)を治します。これを実践すれば、崩れない幸福郷に至ることができます。

〇八正道・はっしょうどう…1、正見…正しい見解 2、正思惟…思考が正しいこと 3、正語…言葉が正しいこと    4、正業… 行いが正しいこと 5、正命…生活法が正しいこと 6、正精進…修行法の正しいこと   7、正念…観念の正しいこと 8、正定…一切の悪を捨てること  正しいことが大事です。私たちは、何が正しく、何が正しくないのかがわからず迷っているのが現実です。ただ経験からわかることは、正しくないものを信じて行動すれば、行き詰まり、苦しむことになるということです。正しいことは正義とも解釈できます。正しいことはブッダ・覚者の言葉に学ぶしかありません。この宇宙を貫く法(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタラン=妙法蓮華経・みょうほうれんげきょう(漢訳)=仏界)に乗ることとブッダは説いています。宇宙の仏界の周波数のリズムに私たちの個の生命を乗せること(ナム・漢訳で帰命)で、宇宙に満ちている仏界の周波数に私たちの生命が同期(冥合・みょうごう)し、絶対安心境涯に至るとブッダは説きました。

「心が健康になり 喜びの人生を生きる本」から抜粋 (2026年出版予定) 松岡敏勝著

〇筆者は、広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。

人は生まれた時から差があるのはなぜですか(中学生女子)

2025.11.18

質問

両親はよくけんかをしていました。私が小学校3年生の時、二人は離婚しました。母親と私たち兄弟3人の生活は、経済的に苦しく、母親は、長女の私に厳しくなりました。同級生の恵まれた家庭を見るにつけ、「なぜ、こんな親の元に生まれたのか」と疑問を持ちながら生きています。家のせいなのか、暗いと人によく言われます。金持ちの家に生まれたり、いい親をもつ家に生まれたりするのは、なぜなのでしょうか。その理由が知りたいです。

回答

とても難しい問題ですが、私たち人間にとって大事な本質的な問いになっています。この質問の問いは、前質問「人は死んだらどこへ行くのか」と重複しますが、大事な問題なので、再度、生命哲学視点から述べてみます。

あなたの質問は、「生まれる前の自分はどこにいたのか?」という問いに置き換えられます。また「人間死んだらどこへ行くのか?」という問いにもなり、生命とは何なのかという本質的な問いになっています。私も青春の頃、そうした問いに悩み、ソクラテス、プラトン、キリスト教神学。近世のデカルト、パスカル、ニーチェ、キルケゴール、ショウペンハイアー、カント、ベルグソン、日本の哲学者西田幾大郎の「善の研究」さらに、ユングの無意識心理学、聖書、仏教の唯識(ゆいしき)思想、生命論と読み(あさ)りました。その中で最も共鳴できたのは、仏教の唯識思想とユングの集合無意識という考え方でした。ここでは簡単に説明させていただきます。

 仏教の無意識世界とユングの無意識の世界には共通点があるように思えます。仏教の唯識思想派では、五感(眼、耳、鼻、舌、身)という感覚を意識が判断思考します。意識が六番目の「(しき)」です。ここまでが意識の世界で、その下が無意識層で、七番目に「自我(じが)執着(しゅうちゃく)意識」があります。今の言葉で言いかえれば、自己愛に近い意識があり、自己への限りない執着があります。これがともすれば正しい生き方の足枷(あしかせ)になり、人間に不幸をもたらすことになると言います。その下に、私たちが身体で行動したり、言葉で働きかけたり心で思ったりしたこと(すべ)てが8番目の行為の貯蔵(ちょぞう)庫に(おさ)められるというのです。行為の貯蔵庫の識をアラヤ識といいます。このアラヤ識、(ごう)・カルマの貯蔵庫は、生きているときも死後も「(くう)」の状態で存在しているといいます。(前述)

個の生命は、自分の業に応じた条件を選び、次の生を始めると説いています。つまり、今生きている行為の全体が、次の生につながるという考え方です。差異は生れる時、始まるのではなく、今世の終わり、つまり死の段階で決まることになります。これが差異を作るカルマの法則です。エネルギー保存の法則に似ています。金持ちとか、社会的な地位がそのまま続くということではなく、行為の内容…善か悪か、つまり他者の生命を慈しみ、育む、守るという善の行いをどのくらいしたのか、また、他の生命を傷つけ、害したり、さげすんだり、馬鹿にしたり、だましたり、自分だけのことしか考えず、他の生命を利用するような生き方をしたのか、「善悪」どちらの生き方が多かったのかが、死の瞬間に、自分が自分を(さば)厳粛(げんしゅく)な時が(おとず)れ(閻魔(えんま)(さば)きとも比喩(ひゆ)的に言われている)、次の生のかたち・差異が決まるというのです。

人間に生まれてくるには、やはり人間らしい生き方をしていないと人間には生まれないと言われています。動物的な生き方…本能のまま、弱肉強食の生き方であれば、次にふさわしい生命のかたちは動物かもしれないというのです。自分にふさわしいかたちや場所を選んで次の生の形と場所を自らが選択するという考え方です。来世の生まれたときの差は、つまり今世の自分の生き方が作り決定するとの考え方です。

生命は死によって断絶(だんぜつ)するものでもなく、何かに生まれ変わるという転生(てんせい)ということでもありません。今日の夜、眠る=死、明日の朝、生まれる=来世。(まった)く自分は連続したものです。見えない、知覚できない七番目と八番目の無意識の世界が続くのです。自己の(が)は連続して一貫しています。これがカルマの法則です。生命の因果は見えませんが、無意識の中に確実に刻印(こくいん)される厳然(げんぜん)たる法則であり、おまけも割引もないと言われています。自分の脳そして深層(しんそう)(しん)に記憶され、消えることなく連続します。それはエネルギーが姿かたちを変えても不変であることと同じです。位置エネルギーが電気エネルギーに姿かたちは変わっても、エネルギーは不変です。同様に、前世の自分と今世の今の自分は姿は違いますが、エネルギー本体の 我(心の法則)は一貫しているのです。これを業(生命の因果)の法則といいます。

社会法、国法、世間(せけん)法は人をだますことができますが、自らに内在する生命の因果はごまかしがききません。仏教では、こうした見方ができることを(しょう)見(ただしくものごとを見る)(けん)と言います。不幸の原因は生命を正見できないところにあるとブッタは説きました。この考え方からすると、あなたは人間に生まれてきていますので、前世(ぜんせ)で人間らしい生き方(戒律(かいりつ)=道理、倫理(りんり)を守る生き方)をしていたからだと思います。親という環境をどう受け取り、どのようにいかしていくかで、生き方も変わり、価値も変わっていきます。

私は六歳で母親を亡くし、兄弟七人、酒乱の父親、養育放任、極貧(ごくひん)の中で少年期を生きました。恵まれない環境でも生き方や関わり方一つで大きく開けることを経験から知りました。あなたも、自分の人生を、自分らしく探求され、自らを高める方向に進まれてください。未来は、今の生き方でどのようにも変わっていくからです。運命として決まっているわけではなく、生命は蘇生力(そせいの力。よみがえるエネルギー)を秘め、柔軟であり可変性に富んでいます。ここが生命の持つ可能性のすばらしさです。私の好きなドイツの詩人シラーは詠(よ)みました。「汝(なんじ・あなた)の運命の星は、汝の胸中にあり」 必ず希望の未来は開けます。

「ひきこもり・不登校・心の不調からよみがえる本」(松岡敏勝著・来春出版予定) 第五章より

 真の瞑想法で 心は健康になり 躍動する  

2025.10.23

健康は心身の美しい秩序と調和

健康は美しい秩序であり、調和の美です。心が健康な人は内面から、素敵な輝きを放ちます。健康は絶えず変化し、更新される流れそのものです。私たちの生命は、健康と病の二面を持っていますが、病を健康に変えゆく力も秘めています。その力は、瞑想による振動の受信によって可能になります。

偏りや執着は秩序を乱し、病を招きます。過剰や不足はバランスを崩し、心身を不調にします。生命の本来の秩序を知ることが何よりも大事です。科学を信じて生きている私たちは、部分観に生きています。科学は部分の分析から法則を発見し、私たちに利益をもたらしているからです。分析された対象は真実ですが、物事の全体をとらえてはいません。意識できる部分と意識できない広大な世界の働きに目を向けることが大事になります。部分と全体のつながりを知ることが、健康を得るための必須の条件です。真の健康には、いかなる財宝や名声にも及ばない、喜びと心の躍動と調和の美があります。

痛みや苦しみは不調和からのメッセージ

痛みや苦しみは心身の傷つきや不調が発する神経の電気信号によるメッセージです。メールのようなものです。執着は神経の疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩し全体を見失わせます。心身の調和が乱れきった時、苦しみや痛みは限界を超え、心身は病みます。しかし、人はその原因を突き止めようとせず、五感で受信した痛みや症状を除去しようとします。その結果、本質的な解決に至ることが難しくなります。瞑想は不調和のメッセージを、いち早く読み取るセンサーの働きをします。

反応から対処へ意識を変えれば心の病は改善できる

木を見て森を見ず」という言葉があります。森に入れば目の前の木しか見えなくなります。これは人間の神経反応の現実であり、また限界なのです。人間が鳥のように空を飛べないのと同じです。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たちは、基本的には「井の中の蛙、大海を知らず」の感覚で生きています。見たり聞いたりする感覚が受信する、ごく一部を見て、物事を理解したつもりになり、全体を見ることをしていません。それは神経や脳の働きが過剰になり壊れるのを防ぐためです。私たちが生きている現実は、ほとんどが記憶による感覚反応による自動操作的な行動です。井の中の蛙である私たちが大海を見ようとするなら、正しい知識に基づいた想像力を遣うしかありません。井の中から見る世界は部分であり、大海は生命全体を指します。それが反応から、対処(智慧)の生き方に変わる鍵になります。その生き方を継続することで新しい自分が創られていきます。新しい自分を作ることができれば、いかなる心の病も治すことができるとブッダは教えてくれました。

瞑想のやり方を間違えると 迷妄の世界に入り 心の病は増幅する

最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本質がわかっている人が、どれほどいるのでしょうか。心を病んでいる人が、安易に瞑想を行うと迷妄の闇の世界に入ってしまい、心の病は増幅することになります。本来、瞑想はインドの古代社会で実践されていた生命を浄化し、生命全体を直感することを志向するエネルギーを必要とする修行法の一つでした。釈迦・ブッダは、先人の実践に学びながらも、自ら独自の瞑想法で生命の真実(生命の全体)を悟り、仏の境地を得た(注1)と言われています。以下は少し専門的な話になります。ブッダの悟りに至るための修行法の一つに禅定波羅蜜・ぜんじょうはらみつ(注2)があります。簡単に言えば瞑想によって悟りの境地に至る修行法です。

瞑想は、実は誰人も実行している

瞑想は日常という現実世界から離れ、非日常を体験することです。現実を離れ、自分を客観する世界に入ることです。つまり、一人静かに自分を振り返ったり、内省したり、自然の中を歩きながら、自分を見つめたりすることや日記や記録をつけたりすることも立派な瞑想です。瞑想は特別なことではなく、人間の営みの一つであり、自らを成長させる、かけがえのないものなのです。自分を省みることや反省が自分を高めることにつながるのは、想像力による自己客観視のたまものです。これをメタ認知、鳥瞰的見方という人もいます。しかし、心の病を治し、真の健康を得るには、本格的な瞑想が必要になります。ここでは、その本格的な瞑想について述べてゆきます。

(注1)仏の境地を得た…仏とは宇宙の真理を悟る智慧を体得した人のことを指した言葉です。仏性(ぶっしょう)は宇宙生命の智慧や慈悲を含んだ不思議な法を指しています。仏の境地という場合、すべての生命的存在に内在する不思議な智慧と慈悲の法を悟り、それに基づいて生きている人という意味になります。具体的にはブッダなどの聖人を指します。聖人とは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。仏教史上、ブッダのほか、天台、最澄、日蓮とされています。世界に目を転じてみると、思想・哲学は異なりますが、孔子、イエス・キリスト、ソクラテスも自らの思想・哲学で多くの人々の精神を高め、救済した人とされ、聖人と言われています。

(注2)禅定波羅蜜…仏の境涯を得るための修行法の六波羅蜜・ろくはらみつの一つ。波羅蜜とは、今の自分が悟りの道に至るための修行の方法という意味です。詳細はこの文章の末尾に付録として記載しています。

日本の瞑想(禅)は 達磨(ダルマ)大師から 道元(鎌倉時代の僧侶)に伝わったもの

ブッダ以降の仏道修行者の一人、インドの達磨(ダルマ)大師が独自の禅を考案し、中国の禅修行者を経て、日本に伝わったとされています。鎌倉時代に栄西や道元(どうげん)が禅を布教しました。道元は釈尊が涅槃経(ねはんぎょう)で説いた言葉を信じ、独自に修行の世界に入ることを目指しました。それが「不立文字・教外別伝」(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)で、ブッダ(釈尊)の言葉から離れ、独自に悟りの世界に入る修行でした。しかし、指標なき瞑想が、どこに向かうのか、先人の言葉や正しいイメージのない瞑想は闇の中を彷徨(さまよ)ことになりかねません。道元も死ぬ直前の日々は、釈尊の法華経の一節を毎日読誦していたと言われています。心の不調者や病んでいる人は、迷いの世界にいます。そんな人が禅の瞑想をやればどうなるのか、想像しただけで結果は見えています。瞑想は意識から入ります。その意識が迷いの状態にあり、指標がなければ、漂流するしかありません。神経を遣った分、迷いと苦しみは増幅されるでしょう。私も、大学時代にギャンブル依存がひどかったとき、座禅を試したことがありますが、効果を感じることはできませんでした。指標なき瞑想をすることで、今の迷いの自分から離れられるかどうか疑問です。魔界(生命の秩序を壊したり、破壊したりする働きが起きる世界)に入ることも考えられ、危険性があります。瞑想には正しい師や指標が必要なのです。

マイドフルネスの目指す瞑想法

マインドフルネス考案者のカバットジン氏は、日本で道元の禅を修行し、それを基にして、独自の瞑想法を開発しました。しかし彼のマインドフルネスは禅とは別のものだと私は思います。彼はイメージや言葉から生命の全体の秩序や調和に迫っています。それが「呼吸瞑想」「歩行瞑想」「今やっていることに対することに意識を集中するという瞑想です」。つまり、「今、生きている瞬間に集中する」という簡単なものです。簡単ですが、私たちは、今という瞬間に、なかなか集中できません。雑念が雲のように湧くからです。過去の記憶から流れてくるような想念に流され、今を過去の記憶の反応で生きているからです。結果、今を生きることができていません。集中力を高めるもっともよい方法が呼吸瞑想です。また身体を観察する「ボディスキャン」です。彼が考案したボディスキャンで部分と全体のつながりを感じてゆくことができます。そうすることでストレスを低減することもできます。

心身を健康にする瞑想法

真の瞑想は想像力と思考力を遣って、生命の深層に接近する心の修行です。想像力と思考でブッダの言葉を指標にして深層に入り、本来のありのままの生命の振動にリズムを合わせ、私たちの自己と宇宙的自己が冥合(みょうごう)することが真の瞑想です。そのとき、私たちの意識という一部は、生命全体を直感します。ニコラ・テスラがいう、「宇宙を受信する」ということであり、振動数が重なることと言えます。

「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ」 とアインシュタインは言いました。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は意味深長です。以下に述べる事柄は、感覚では理解できません。知識を指標として想像力を遣えば感じられる世界です。芝蘭の室の瞑想は、1、「身体瞑想」2、「地球自然瞑想」3、「詩朗読瞑想」の三つを実践し、心の状態にあったものを使います。前提としての生命の働きを理解する心理学習は必須です。特に心の病の重篤な人は、「詩朗読瞑想」を中心に行います。

心の病の四相

心の病を感覚受信、反応、エネルギーの量という視点から、私は四相に分類しています。1、神経症傾向(強迫性、パニック障害、恐怖症、対人不安、トラウマ、解離など)2、パーソナリティー系。 3、うつ・躁うつ系。 4、統合失調症スペクトラム系。神経症系はエネルギー量を多く持っているので、正しい心理学習で自らを知ることで、比較的早く改善可能です。ただし、トラウマの強度が強い解離性に関しては、特別なかかわりが必要になります。パーソナリティ系は、エネルギーはありますが、波が激しく自己コントロール不全に陥りやすく苦しみます。幼少期の愛着の問題が複雑に絡んでいるため、認知と感情の偏りが大きくなっています。その調節には関係者の粘り強い支援と心理学習が必要になります。うつ系はエネルギーが低下していますので、心身の調節をし、エネルギーの補充が何よりも一番です。休養と軽い運動、気分転換や旅行や趣味を優先します。生活習慣リズムの改善が必須です。エネルギーが出てきたら、心理学習や身体・地球瞑想、詩朗読瞑想を行います。対応を誤ると遷延(せんえん)し長期間、病むことになります。統合失調症系は、深い深層から起きる観念が現実化し意識を支配しているので難治とされていますが、改善可能です。かつてアメリカの精神科医サリバンは統合失調症入院患者をほぼ改善させたとの報告も残っています。つまり統合失調症も対処によっては改善できることを教えてくれています。心理学習と生命の深い深層の流れの転換が必要になります。心理学習、身体瞑想、地球瞑想を含め、詩朗読瞑想が最も効果的です。

改善率96%…書籍「不登校・ひきこもり・心の不調から蘇る本」 2026年1月出版予定(限定100冊) 

2025.10.06

書籍…  不登校・ひきこもり・心の不調から蘇る 芝蘭の便り   

第一章  不登校・ひきこもりの心理 

1、不登校・引きこもりになったとき親が考えなければいけないことはどんなことでしょうか  2、なぜひきこもるのでしょうか  3、不登校、ひきこもりに不足している心の安心領域とは何ですか                4、現代社会はひきこもり・不登校にどんな影響を与えているのでしょうか 5,なぜ不登校・引きこもり・心の不調者が増加するのでしょうか   6、ひきこもり・不登校の心理的要因と再生の道                   7、心の安心領域はどうすれば育ちますか  コラム1 不登校を産み出す学校環境   

第二章  生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある

1 人間の基本は自分の身を守る本能的行動 2 人間は思考する感情の動物 3 強い刺激は頭の中を巡り 心を乱す 4 生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある 5 生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人間 6 人間は何のために生きるのか…青年釈迦の苦悩                          

第三章 不登校・ひきこもり・心の不調を解決する心の具体的な方法              

1,ストレスと健康 2,不安を軽減する方法 3,感情と思考と言葉 4感情は言葉や思考で制御できない  5,最も制御することが難しい感情は怒り  6,怒りを調整する方法 7 心を平穏にする方法 8,対人不安を軽くする対処法  9,嫌な気分を受け入れたまま生きる 10,執着を解放する方法 11,人の心が分かるようになるために  13心の壁は臆病が描き出した幻にすぎない  14,対人関係をよくするさわやかな表現法   15,安心感が育つと 自立しやすくなる 16,心が持つ不思議な働きと力を知ると心が軽くなる 17,地球の働きを知れば 本当の生き方に目覚めていく 18,生命本来のリズムに乗って生きれば心は安定し 平穏になっていく                                                                        

 第四章 本来の自己に出遭うとき、自分らしく生きることができる                  

1,自分らしく生きることが幸福  2,自分らしさの探求は社会常識との戦い 3,自分らしさの獲得は自分独自の規範を作ることにある 4,社会常識を昇華することが心の独立 5,自らの光で周囲を照らす生き方 6,自分というかけがえのない個性を自覚する  7,何に価値を置いて生きるかが大事 8,他人の評価に振り回されない自分を築く 9,健康的な習慣が自分らしさを発揮させる 10,自分を自分らしく表現する方法  11,自他尊重のさわやかな自己表現法

 第五章 質問に回答する

1,自分が嫌いです。自分を好きになるにはどうすればよいですか?(高校生)

2,人は死んだらどうなりますか?(大学生)

3,生まれながらに差別があるのはなぜですか?(中学生)

※この書は、知識を集大成させた机上の学問の本ではなく、思想、哲学、文学、宗教学、心理学、身体学、諸科学の筆者の遍歴と50年間の教育実践、思春期の青年との関わりから試行錯誤し、研究したものから生まれた経験・実践をまとめた筆者独自の芝蘭の便り・本です。

以下に、第一章の1  第二章の6 を紹介します。

第一章 5 親が 考えなければならないことは、どんなことでしょうか

子どもが不登校・ひきこもり状態になったとき、親が考えないといけないことは、原点に戻ることです。この場合の原点とは、苦しんでいる子どもの心です。子どもの心と向き合い、子どもの心を知ろうと努めることが最初にやるべきことなのです。なぜ、このような状態になったのか。その要因はどこにあるのか。何が過剰であり、何が不足していたのか、どこの部分を支援すれば、子どもが人間的な健全成長を()げることができるのかを考えることです。子ども自身も、なぜ今の状態に(おちい)ったのかがわからないこともよくあります。

不登校・ひきこもりという出来事は、一面から見れば苦という状態ですが、視点を変えれば、親も子どもも一緒に、人間的に成長する、またとない機会を与えてくれたかけがえのない出来事と見ることができます。そのようにひきこもり・不登校という心のありさまを前向きにとらえることができれば、本質的解決の道に入ることができます。

子どもが、どんな状態になっても、子どもをそのまま受け入れ、大事に守っていくという無条件の愛情(注3)を親が持つことができれば、子どもは必ず良い方向に向かっていきます。また、親自らが誠実に子どもの成長を願い行動している姿は、必ず子どもの心に届き、やがて心を開いてゆくようになります。苦悩する子どもにとって、親の真心の愛情に勝る良薬は、この世界にはありません。ユダヤのことわざに「母親は百人の教師に勝る」とあるのはこの意味です。

芝蘭の室を訪れる長期不登校・ひきこもり者は心療内科にかかったものや公的な福祉機関に通所した経歴を持っています。数カ所を巡った人も少なくありません。そのほとんどの人が、改善せず芝蘭の室に来所しています。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。

脳の神経伝達物質(セロトニン、ドーパーミン、アドレナリンなど)を標的にする薬では、心の問題を解決することは困難であり、本質的な対処にはなりません。解熱剤ぐらいの一時的効能はあるかもしれませんが、あくまでも一時的な症状緩和であり、本質的解決をもたらしてくれるものではありません。なぜなら、心とは何か、意識とは何かが現在の最先端の脳科学でも解明できていないからです。ただ分かっていることは、心は脳をはじめとした身体を通して、「苦しい、痛い」「気分が悪い、何もする気がしない」などの苦しみの言葉や気分や症状として表現されるということです。その身体の主要な一部の働きを担っているが脳ですが、すべての細胞に心の働き(注4)がみられるのも事実です。だから難解なのです。

心の不調の場合、多くの場合、苦しみは心の炎症(えんしょう)から生じています。身体のそれと違って心の傷は見えません。服薬は、依存性を高めたり、副作用による身体の不調を招いたりすることがあります。不登校状態を長引かる結果にもなりかねません。複雑な心を()ることは大変難しいことなのです。心の病は見立てと対処を間違うと悪化するのは、身体の病気の誤診(ごしん)と同じです。ただ心の場合、誤診(注5)していても、曖昧にすることができます。私たちが、慎重に賢明にならないと、心の健康を守ることもできなくなります。

(注3) 無条件の愛情…ヘレンケラーを世界的偉人に育てた陰の支援者はサリバン先生です。目が見えなくなり、三重苦から自暴自棄に荒れ狂うヘレンに対して、彼女は忍耐強く無条件の愛情を持ち続け、終生(しゅうせい)ヘレンに尽くし、彼女の持つ可能性を開いたとされています。ヘレンの偉業はサリバン先生なくしては成し遂げられなかったと言われています。ヘレンは「私を作ったのはサリバン先生です」とサリバン先生の恩に報いる行動を生涯、貫いたと言われています。

(注4)細胞に心の働き…すべての細胞は振動し、微弱な光を出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。人間を構成する細胞は約46兆個と言われていますが、その細胞一つ一つが生命現象を演じ、酸素と栄養を取り入れ、新陳代謝し、エネルギーを発し、環境変化に適応し生と死を演じています。奇跡的な働きです。分析できる見える物質を支えているのが見えない働きです。心は関係性で生起するので、とらえることができないと、最先端の量子力学が「量子のもつれ現象」などで、心の不可思議さの一面を分析しています。

(注5) ●「誤診」(心の科学、NO164…精神科臨床における誤診、薬物療法偏重と誤診、うつ状態の鑑別診断と誤診、大人の発達障害と誤診などが編集されている) ●「精神科臨床はどこへ行く」(心の科学・井原裕編)‥薬を巡る諸問題、治療現場で起きていること、PTSDの乱発―心のケアのいかがわしさなど●「ブラック精神医療」(米田倫康著)‥知ってほしい精神医療現場の驚愕の真実       

第二章   6 人は何のために生きるのか…青年釈迦(しゃか)の苦悩

ここで一人の人間、釈迦(注3)の例をあげてみます。釈迦は王子として生れ、王宮の中で何不自由のない生活をしていましたが、19歳の頃、心に()きおこる(むな)しさに苦しみます。「私は何のために生きるのか」「私の心はなぜ、こんなにも空しいのか」と生存の意味を問う苦しみに悶々(もんもん)としていました。

ある日、王宮の東門から出た時、老人を見、人は老いることを知ります。南門から出た時、病人に会い、生あれば病があることを知ります。西門から出た時、死人を見、人は死ぬことを知ります。最後に北門から出た時、端然(たんぜん)威儀(いぎ)具足(ぐそく)した修行者に会い、姿も心も清浄(せいじょう)なものを見て、出家(しゅっけ)得道(とくどう)の望みを起こしたと言われています。有名な四門遊(しもんゆ)(かん)(注4)の話であり、釈迦が「(しょう)(ろう)病死(びょうし)」という人間の()()と真正面から向き合った瞬間でした。釈迦は、その解決のため、王宮での恵まれた生活を捨てて、人生の真理を求めて、苦悩充満する娑婆(しゃば)世界(娑婆とは堪忍(かんにん)の意味、実社会は思いどおりにいかない世界という意味)に生命探求の旅に出ます。

人生とは苦なのでしょうか。生きるとは苦しみの連続なのでしょうか。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。人間として存在する意義はどこにあるのでしょうか。人生とは、一面からすれば、生きる意味、存在の意義を、生涯をかけて探す道のりと言えます。苦悩の人生は人の心を(たがや)し深くしてくれ、苦しみは心を浄化させてくれます。苦悩の中で自分の心を見つめ、人生の真実の一部を見つめることができるようになります。聖人や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちだと思います。

 生きている今の瞬間の生命は常に変化し、同じところにとどまっていません。瞬間の生命には苦もなく楽もないとは釈尊の悟りです。今の瞬間は純粋な経験であり、色付けできないものです。それを苦と感じるのは五感であり、それを鮮明にし、思考と言葉にした意識の働きです。過去の記憶化された潜在意識の染色の結果なのです。本来の瞬間は、新しい純粋な経験です。古来より生命錬磨の修行をした先人たちは、生きる意味を模索し、幸福な生き方を探究しました。そして人間の欲望こそが苦の原因だと究明し、心を浄化させれば、幸福になれると考え、苦行に徹しました。何日も断食(だんじき)したり、不眠の修行をしたり、異性を遠ざけたりなどして苦の原因を断じようとしました。釈迦在世(ざいせ)のインドは、そのような修行して悟りを得たいう六人の指導者が支配していたと言われてます。

すべて苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす煩悩(ぼんのう)(欲望)(注5)を克服した後に、真の楽があると信じた修行でした。釈迦もその修行を一時期されましたが、苦行に徹しても幸福は得られないと悟り、独自の道を歩まれたと言われています。人間が生きていることは、煩悩に従って生きていることと言えます。その欲望が苦にもなり、楽にもなります。つまり、苦楽は心の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生の存在の色が変わります。楽しい世界を心に描き、意識して強く心を定めて生きれば、心は楽に満ちてきます。そのように心を描くのは、今の意識です。意識を磨けば、どの瞬間も楽しんでいけるようになります(注6)。これが真の楽観主義であり、自己肯定であり釈迦(釈尊)の悟りと言われています。

釈尊は語ります。心を()ぎ澄まし、心が清らかになれば、その純粋な心に宇宙の慈悲の振動が共鳴し、私たちの心に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなると。自己が宇宙の慈悲と一体になり、喜びに包まれます。それが最高の楽であり、聖人・賢人が求めた世界とされています。そのためは、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。釈尊は、悟りは知識では得られない、実践の中での生命の体得だと、ことあるごとに弟子たちに諭したと言われています。

(注3) 釈迦…悟りを開いた後、尊敬を込めて、釈尊とか、ブッタ、ゴータマシッダルタなどと呼ばれました。成道(じょうどう)後(仏を悟った後)の40年間の教えは、八万(はちまん)宝蔵(ほうぞう)と言われ、インド、中国、韓国、東南アジア諸国などに広がる中で釈尊の教えは伝承者により変化してゆきます。日本では、最澄(さいちょう)日蓮(にちれん)法華経(ほけきょう)(ほう)(ねん)親鸞(しんらん)浄土(じょうど)(きょう)阿弥陀(あみだ)(きょう)やマインドフルネスに影響を与えた(ぜん)般若心経(はんにゃしんぎょう)観音経(かんのんきょう)などが知られています。

(注4)「四門遊観」の話…宮沢賢治の詩「雨にも負けず 風にも負けず…に病気の子どもあれば 行って看病してやり  西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ  に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいといい  喧嘩(けんか)訴訟(そしょう)があれば つまらないからやめろといい…」 一部の抜粋(ばっすい)ですが、ここには釈迦の「四門遊観」の話になぞらえたものが書かれていると言われています。宮沢賢治は、法華経の信奉者であり、彼の文学の根底には法華経があったと言われています。詩のメモの最後の部分には、法華経に出てくる菩薩(ぼさつ)如来(にょらい)が書かれていたそうです。

(注5)煩悩…仏教用語。人間の心身を(わずら)わせ悩ませる種々の精神作用の総称。根本煩悩として、(とん)(むさぼり),(じん)(瞋り・いかり)、()(おろか)、(まん)(おごり)、()(疑い・迷い)の五つを挙げています。その他、(ずい)煩悩(ぼんのう)などがあり総勢108個とする説もあります。除夜(じょや)(かね)の108回()く習わしは、一年間の煩悩を消滅し、新しい年を幸せに迎えたいと言う願いが込められていると言われています。

(注6)「どの瞬間も楽しんでいけるようになる」…釈尊は「衆生所(しゅじょうしょ)遊楽(ゆうらく)」と説きました。衆生とは、細胞の集まりのあらゆる生命体という意味であり、人間と訳すこともあります。人間は、この世に、自在に自分を発揮し、楽しむために生まれて来たという意味です。

※本に関する問い合わせは、芝蘭之室ホームページ予約画面のメッセージらんのメールでお願いします。価格は税込み2000円(通信購入の方は、送料・振りこみ料込み)の予定です。本屋での流通予定はありませんので、本屋での購入はできません。購買は芝蘭の室経由になります。

書籍「心を健康にする本」…改善率96%のマインドフルネス・認知行動療法・自然療法の3種の哲学・科学を調和させた芝蘭独自の療法  来春3月 出版予定  

主な内容…心がわからないと心の病は治せない / 心の病の原因 / 心も体も物質もすべて振動している/ 脳と心と薬の関係 / 五感覚と意識の関係 / 潜在意識が意識に与える影響 / 心の安定に関係する自己愛と母性愛(慈愛) /  ストレスと適応/ 生き抜くとは闘いである

自分を好きになる方法 /心の傷をもって生きる方法/ よい人間関係の作り方/ コミュニケーションの上手なとり方/ 発達障害の活かし方 / 不安症の改善法/ パニック障害の改善法 / 強迫観念の改善法 / 反芻(はんすう)思考の改善法/ 抑うつの改善法/  依存症の改善法 /  ひきこもり・不登校の改善法 / 夫婦不和の改善法

怒り・悲しみ・感情の整え方/ 執着を解き放つ方法/先端科学の量子力学と心の世界の関係性/ ブッダの哲学と量子力学の共通点 /  マインドフルネス、森田療法の基礎になっている仏法哲学 

自然・生体リズムに則って生きると健康になれる/ 崩れる幸福と崩れない幸福 /心身を健康にする瞑想法 自分らしく輝いて生きるための哲学 

※改善率について。3回以上の継続来談者は100%改善していますが、1~2回で来談が途切れた方の改善は把握できていません。ですから改善率は96%になっています。

生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば 晴れる日もある

2025.09.28

生きることは サバイバルか…

生きるためには食べなくてはいけません。食べ物を確保しないと生きていけないからです。2024年世界では、推定約6億7300万人が飢餓状態に直面しており、これは世界人口の約8.2%にあたります。この数は飢餓人口の減少傾向が見られるものの、2030年の「飢餓ゼロ」という持続可能な開発目標(SDGs)の達成にはほど遠い状況ですが、これが地球の人類の実態です。

食べ物を得るためには、睡眠をとらないと活動できません。そこで安心して寝ることができる住みかが必要になります。一人では食べ物を得ることに限界がありますので、他者との協働が必要になります。ここに共同体が生れていきます。他者と支え合わないと食物を得ることができなくなり、生き抜くことができなくなるからです。

現在の地球上では、紛争状態にある国の正確な数は年々変動するため特定が難しいですが、英国際戦略研究所(IISS)の「武力紛争調査2024」によると、2023年7月から2024年6月の間に世界で約20万人が紛争による死亡者とされています。また、ウクライナ侵攻やシリア内戦など、現在進行中の紛争は複数存在し、それらの影響を受けている子どもたちの数は約4億7千万人にも上るとも言われています。これらの紛争の根本的原因も、もともとは食べ物をはじめとした物質の確保のためであり、生き残るためのものです。現実はきれいごとではなく、残酷です。これが動物種としての人類が生き抜くことの実態なのです。

争い、紛争、戦争は食べ物、物質、領土の奪い合い、つまりサバイバルから始まります。こうした動物性の克服を可能にするのが人間の持つ知性です。しかし、その知性が自己利益、集団利益、国家利益のためだけに使われると、こうした悲劇を生み出します。地球人類は、未だこの課題を解決できていません。国連の平和協議は絵に画いた餅のようであり、ウクライナの惨劇をとめることはできていません。力(暴力・武力・核力)こそ正義がまかり通る野蛮な世界、それが残念ながら地球の現状なのです。人間知性では、人間の欲望を制御できないことを物語っています。では、こうした人間の自己中心性による悪を克服できる方法はないのでしょうか。その方法を模索したのが、過去の思想家であり哲学者であり、宗教家でした。そしてその道を極めたとされているの人たちを、聖人(注1)と呼んでいます。

注1、聖人…一般的には世界の主要な宗教や哲学の開祖を指し、孔子、釈迦、イエス・キリスト、ソクラテスの4人を指します。彼らはそれぞれの時代や地域で人々を導く教えを説き、人類の文化や思想に多大な影響を与え続けています

人間行動の根っこは 本能的な身を守る行動

赤ん坊や幼い子は、本能的行動のまま生きています。親も、そのような本能的行動を満たしてやります。それが保護であり、その時点での養育になります。こどもがわがままなのは、本能的行動のまま生きているからです。人は、食べる、眠る、生殖活動をするという本来的に持つ能力(本能という)で生きています。そして、その本能の活動を支えるのが脳神経の電気信号による快と不快という感情です。だから食べようとしますし、眠ろうとします。また、種を残すために、生殖活動をします。食べ物を食べて美味さを感じないと、食べなくなるかもしれません。安眠は、心地よさを伴います。また生殖行為には快楽が伴います。そうした脳内の電気信号による快楽報酬があるから、人は本能行為をし、生を保つことができるのです。

 逆に本能行動が満たされないと、不快、不満、怒りなどの苦しみを味わうことになります。さらに、人と協力活動をするという社会性が必要になります。ここに人間関係の苦しみも生れます。このようにして人間は自らの身を保ち生きてゆきます。これが人の生きる基本です。天皇も有名人も凡人も貧困者もみな、この基本的な本能を全うしながら生きています。また、この本能的欲求の過剰性が、社会的犯罪や戦争までもたらします。また本能が満たされない場合も、社会的犯罪につながります。「衣食足りて礼節を知る」のが人間です。このような本能はだれもがみんな平等に持つものであり、人間の平等性の証の一つです。そしてこの本能的欲望の調和状態が病と健康の分かれ道になります。人間性の一つは、こうした欲望を調整できているかどうかによります。前述の釈迦や孔子やソクラテスなどの過去の偉人たちは、この本能的欲求を調和させ昇華し、人間性のすばらしさを証明した人たちと言えます。

 本能が満たされないと不快、不満、怒り、不安、恐怖という苦を感じる

 ここまでは、他の動物にも見られる本能行動の基本ですが、人間も動物の一種であることを自覚することが大事です。人間の苦しみの多くは、この本能行動に原因があるからです。食べ物や住まいを得ること、現代では、お金を稼ぐことにつながります。お金は労働の対価です。お金を得るために仕事をし、人と関わらなければなりません。お金を多く稼ぐことができれば、富裕者となり、豊かな暮らしができ、快適、快感をほしいままにできます。逆にお金に窮すれば、貧困になり、生活が苦しくなり、家族を持つ場合は、子どもの養育にも影響してきます。社会的犯罪は、この人間の本能の過剰と不足に原因しています。そして、詐欺、強盗、殺人、窃盗、ギャンブルなど多くの社会問題が起きます。また、生殖本能では、不倫、性的犯罪、ストーカー殺人など多くの犯罪が見られます。さらに集団生活の必要性から、集団のリーダーである権力者が生れ、名誉名声を過剰に求め、人権を無視した行為が生れたり、集団に適応できないひきこもり・不登校が生れたりします。

快を求め・不快を避ける本能的行動

人は生きるために不快・嫌悪・恐怖を避け身を守ります。そして安心、快適を求め、身を養います。つまり好きか嫌いかという快不快感覚が生きるために最初に反応します。それは人間の行動原理の第一法則です。誰人も、この法則に則って生きています。今の苦楽は、人の目・耳・舌・鼻・身に発した感覚の反応が言葉に置き換えた意識活動の結果です。思い通りであれば快感を味わえます。うまくいかないと不快感に支配され、怒りや嫌悪、恐れなどの苦しみになります。人が他の動物と異なるのは、二本足で歩行ができ、手が使えること、大脳皮質が発達し言葉が使え、記憶をもとに思考できる働きを持っていることです。

人間の苦しみは 思考することで増した

人間は自然のうちで最も弱い一本の葦(あし)にすぎない しかし、それは考える葦である(注1)

苦しさを感じ、生きるか死ぬかと考えるのは、この地上で人間だけです。動物も植物もそのようなことは考えません。例えば事故などで脳の大脳皮質の思考野などを損傷すれば、生きる苦しさなど考える思考が活動しなくなり、植物的生命状態で生き抜くことになります。その場合、人は動物的生に近くなります。動物は、苦しさより恐怖と快感の本能で行動しています。思考することはほとんどなく、快・不快の本能的反応行動が中心です。

(注1)葦(あし)…水辺に生える植物で風に弱く、容易に倒れてしまうことから、人間の肉体的弱さやもろさを象徴しています。しかし、人間は、他の動物にはない思考力を持つため、自分の弱さを自覚し、宇宙の大きさを認識し、死を意識することができる、という点が強調された哲学者パスカルの名言です。

 自分は自分と意識できるは記憶の働き

「われ思うゆえに我あり」とデカルトは言いました。思考し、それらを意識するために、自分は自分だと確認できます。考えることで、人間だけが自己認識できるのです。しかし、考えるために、人間は悩みと苦しみを引き受けることになりました。反面、思考することで人間は進歩発展し、物質的に豊かな生活を送ることができるようになりました。思考するという人間に与えられた特権をどう使うかが重要になります。思考は言葉によってなされます。

言葉は過去の記憶・知識ですが、言葉には心の思いとしての感情が伴います。それはAIにはない人間独自のものです。苦と感じるのは、知識・言葉よりも、それと一緒に生起する感情です。AIには感情はありません。正確な電気信号による知識があるだけです。苦からの解放は、感情をどうコントロールできるかにかかっていると言えます。人間は思考する感情の動物です。波のように生まれた感情のエネルギーは、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしかありません。それは、今の感情に支配されている意識を他の対象に置き換えることで可能になります。

意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることです。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーのもつ余派はすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したもの(感情と表現している)の余情や余韻が自然に消えることを待たなければなりません。一度起きた湖面の波が消えるのを待つしかないのです。

 

強い刺激は 頭の中を巡り続ける 

 強い刺激とは、前述した本能行動と関係しています。一番強い刺激は、自らの身が危機に瀕する時に生じる、恐怖と怒りです。恐怖場面に出遭ったとき、人も動物も、逃走か闘争かの二者択一を迫られます。闘争の場合は、対象に対して激しい攻撃的怒りを発します。逃走の場合は恐怖に支配されます。その恐怖感は深く心に刻まれます。闘争の場合も同様に心に残ります。そして、何かあるたびに心に浮かびあがり、自らを苦しめます。その心的状態をトラウマ(心的外傷)と表現することもあります。この繰り返しが頭の中で起きる現象を反芻(はんすう)思考と呼んだりします。心を病んでいる人に多く見られる心の働きです。また、強い刺激には快刺激も含まれます。刺激に伴う快感の強さは心に深く刻まれ、やはり頭の中を巡り、何かに触れて思い起こされ、行為を繰り返します。いわゆる依存症です。昔から言われてきた「飲む、打つ、買う」に代表される、アルコール、ギャンブル、買春という三つの本能的反復行動です。現代は、ゲームやスマホ依存が加速し、世の中の大半の人たちが依存症になっていると言われています。

 反芻思考は、記憶の働きがある限り、だれしもが経験するものです。ただ、その思考のため生活に不自由を感じ、頭の中をぐるぐる回り、頭から離れない思考を病的思考と呼んでいます。侵入思考、自動思考、強迫観念とも重なる心的働きです。それは、ある時のある出来事が記憶され、反復することにより強化され、その記憶が無意識層に潜在、堆積(たいせき)されているからです。そこから 波のように何気に起きてきます。制御が難しいため苦しみます。しかし、忘れてはいけないことは、「やけどした子が火を恐れるようになる」とあるように、恐怖体験は身を守るための本能の働きであるということです。

生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある

生き続けていれば、よいことにも出遭えます。人生は空模様と似ています。いつも晴れではありません。雨や雪そして嵐であっても、いつまでも続きません。台風も一週間もすれば通り過ぎます。暗雲が垂れ込め重苦しい空模様の日でも、雲のかなたには太陽はいつも輝いています。目で見えなくとも、心を働かせば輝いている太陽を描くことができます。同じように、どんな辛い苦しみも、いつまでも続きません。空模様と同じです。そして見えなくとも心には、いつも太陽が存在しています。空のたとえが教えてくれるものを信じて、今を耐え、今日を生きるようにします。今日、しなければいけないことをします。今をとにかく生きます。そうすれば空模様が一定でないように、心模様も変わっていきます。だから、人は生きていけるのです。「冬来りなば 春 遠からじ」(ドイツの詩人シラーの言葉) 冬は苦を象徴し、春は希望であり、楽を表しています。

筆者の苦しみ多き青少年期

楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦しみとの闘いです。なぜなら、生きることは常に新しい出来事・変化を経験することなのです。新しい経験であるためうまくいかないことは当然なのです。うまくいかないと人は苦しさを感じます。私の過去を例に話してみます。七歳で母親と死別しました。兄弟7人、10年の間に7人ですから、ほとんど年子(としご)状態です。父親は寂しさのためか、酒浸(さけびた)りとなり家に帰って来ず、子どもを放置した状態でした。小学生の頃は、生活苦に苦しめられました。食べるものがない、寝る布団(ふとん)がない、服がない、電気がない、年上の人たちからの不当な暴力やいじめ、暴言、罵倒(ばとう)されたり、地域の人から厄介(やっかい)視されたり、およそ人間の生活ではありませんでした。

私が5年生になったころ、私たち男兄弟4人は、児童養護施設に収容されます。今と違ってその施設は、弱肉強食がものをいう動物的な世界でした。児童に自由はほとんどなく、食べ物も粗食、(はか)り飯、休みの日は奉仕作業という名のもとの強制労働です。現代の刑務所より劣悪(れつあく)環境で、地獄そのものでした。多くの児童の心は(ゆが)んでいったようです。中学3年生の始めの頃に、親父に引き取られ叔母の家に同居しました。思春期、青年期になると、私は人と比較して自分を劣ったものと感じ自信を失なったり、自暴自棄になり横道にそれたり、自分の体形(身長の低さなど)に悩んだり、自分の弱さや劣等を隠すために、高校では服装違反、規律違反し、突っ張り、虚勢(きょせい)を張って生き続け、同級生や教師からも一目置かれる存在になっていました。しかし心は空虚で満たされず、ますます反社会的行動に走っていました。結果は高校中退です。また施設出身ということを気にしたり、性格を悩んだり、悩み・苦しみ、そして失敗の連続でした。ですが、なんとか生き抜きました。

20歳の頃、人生の()き先輩と出会い、正しい人生、生き方に徐々に目覚め、生き方の方向がかわってゆきました。自活しながらの浪人・学生時代は、自分の存在に煩悶(はんもん)し、生きるとは何か、自分はどこからきて、どこへ行くのか、心とは何なのか、真理とは、神や仏がいて、なぜ人々は不公平なのか、神はいないのか、正しい生き方とは、幸福とはなど、大学の勉強はそっちのけで、心、生命、見えない世界、正しい社会の在り方などを探求し哲学しました。そのせいで2年間留年しました。社会に出てからも苦悩は続きました。仕事、職場の人間関係、そして家族のことなど、青年期以上の苦悩の連続でした。ですが生き抜きました。

苦悩の先に楽しさや喜びを束の間 感じ やがて平穏な日々になる

今日まで多くの苦しみに向き合い、生き抜くたびに楽しさを感じることもありました。苦を乗り越えた先に、人生の喜びを味わいました。だから生き続けてこれたのかもしれません。しかし、その楽しさもつかの間、また苦が訪れます。その繰り返しですが、苦を乗り越えてゆく度に強くなり賢くなったのも事実です。そして、いつの間にか、苦しみの日々より、平穏な日が増えたような気がします。それは私自身の生き方が変った結果だと気づきました。生きる、それは苦楽であるということを先人は、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と(おし)えてくれています。それが、私たちの人生であり、生命の真実のありようかもしれません。

生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人

生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。動物は、子どもに生き抜く方法を教えるために、わが子を千仭(せんじん)の谷に突き落としたりして、生き抜くことを体に記憶させます。人間は、子どもの頃は親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。よいとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命を、どう生きていくかが大事になります。闘いに勝つ、つまり自分に負けないということで生き抜いていけます。

負けない自分作る 信念 目標 勇気 忍耐 そして希望

負けない自分を作るためには、正しい信念、目標、勇気、忍耐、行動、そして希望が必要です。何よりも「正しい」ということが大事です。例えば、強盗する勇気とか、人を殺す勇気とかは動物的勇気であり、人間の道に背いているため間違った勇気になります。お金持ちになりたいと言うのは正しい目標とは言えません。お金持ちになって、恵まれない人たちの役に立ちたいというのは正しい目標です。正しさの基準は、自分だけが潤うのではなく、自分も他人も潤っていく、つまり、自他共存共栄の思想が正しい生き方の意味です。そのためには、正しい知識・思想が必要です。

悲しみは 心をきれいにし 人生を深くする

2025.09.27

悲しみは 人生を深くさせる

愛するパートナーや子どもとの死別ほど悲しいことはありません。

心が締め付けられるように苦しくなり、流す涙は海となり、幾日も流れ続けてやむことはありません。

見るもの、聞くもの、食べるもの、香るもの、触れるものすべてに、愛する人の面影が宿り、愛おしさ

に心がかき乱されます。

そして人生の悲しみに底のないことを味わい、苦しみに沈みます。

心は空(から)になり、愛する人の幻とともに夢の中を生きます。

その人の旅だった世界に思いをはせ、死と真剣に向き合うようになります。

そして、残された自分の生きる意味を問い続けます。

やがて、残りの人生の使命を自分なりに感じることができるようになります。

そして愛する人との死を境に人生が大きく変わってゆきます。

その人の志(こころざし)を胸に抱き、未来永遠に、その人と一緒に生きるという誓いを果たす

深い人生を歩み始めます。