質問
大学1年生です。これまで19年生きてきましたが、人間の仮面をかぶったような偽善的行為をする大人の多さに失望しています。政治家は選挙になると、「国民のために、この身を捧げます」など美辞麗句を並べますが、当選後は、自分の利益、お金、名誉、権力、果ては不倫など私利私欲に走り、自分の欲望すら制御できていません。そうした政治家が日本の政治をしていると思うと悲しくなります。彼らは未来ある子どもたちに、人間は欲の塊で醜いものという毒を吹き込んでいる気がします。
一般の企業、会社の人から小さなお店の人まで、儲けという利益のために、平気で詐欺まがいの商法をしたりしています。購買した人の利や健康などに対する思いやりを感じません。過剰なキャッチコピーで不健康食品を平気で売ったり、自然環境を平気で壊したりしています。そうした商品を買う民衆が愚かではありますが…。
マスコミ、芸能界は視聴率アップという利益のためには何でもありの感じです。視聴者の心理的影響性や子どもの健全な教育など全く考えていません。マスコミ、スマホ、テレビ情報がいかに視聴者の心を不健康にしているか、特に子どもの教育に悪影響を及ぼしているか考えていません。自分たちの利益という今だけを見た自己中心の生き方であり、未来に生きる子どもの健全な心はどうなってもよいのでしょうか。
私は名門受験高校で学び、現在名門といわれる大学に通っています。思えば、私の受けた教育は、ただただ有名大学に進むためだけものでした。T大に何人入るか、国立医学部に何人入るか、その実績が高校の名誉になり、利益につながります。私は、その一齣に過ぎなかったようで、今虚しさを感じています。受験技術や受験知識は教授してくれましたが、果たして人らしい教師がいたでしょうか。人間はいかに生きるべきか、人はどうあるべきかという最も大事な人間について誰も教えてはくれませんでした。ただ私が有名大に入れるかどうかが、すべてでした。合格した私の心は彷徨っており、空虚感に苛まれています。
人間はみんな自己中心者なのでしょうか。この問いに、今まで、だれも納得する回答を与えてくれませんでした。たまたま芝蘭の室のブログを見たので質問しました。思索するヒントをいただければうれしく思います。
回答
あなたは純粋ですし、真剣に人生を考えています。人間の生き方とは、人間とは何か、いかに生きるべきか、人は自己中心的存在なのか、それを乗り越える生き方はあるのかなど…。
生きるとは、自分の身を守り、自分を保ち続けることです。それは生物としての本能です。その一面的真理から言えば、あなたも私も自分中心です。人間を含め、生物はすべて自己中心という一面をもっています。あくまで一面であり、すべてではありません。
これまで歴史に登場した偉人・賢人・哲人は、この自己中心性を脱し、人々の精神の向上に身を捧げてきた人たちです。その生き方は自己中心性とは逆方向であり、一面からすれば精神的苦を伴うものであり、よいとわかってもなかななか実践するのは困難な道だったようです。
話を動物・人の自己中心に戻します。
動物・人の場合、食べなければ死にます。寝なければ死にます。眠れる場所がなくては、睡眠がとれず身を保つことができなくなります。衣服をまとわなければ、外気や菌などから見を守ることができません。どんなきれいごとを言っても、生き抜くためには自分の身を保たなければなりません。まず、人も動物も自分ファースト、自己保身が第一になります。これは生物の本能の一つです。
しかし、ここに動物・人の他面をみることがあります。母親です。動物も人間もわが子を命をかけて守ります。自分が危険にさらされても、自分が食べなくとも、子どもを守り、まず子どもに食べさせます。これは自己中心性と逆の方向の働きであり、慈悲心といいます。人は母親のみならず、みな慈悲の心を本然的に持っています。この慈悲の心が発動されるとき、人は自己中心性を乗り越えることが可能になります。これも人間性の一面です。この心を耕し、人生を生き抜こうとした人たちを賢人といいます。
慈悲の心こそ自己中心性の対極にある心であり、それを乗り越える唯一の力です。
慈悲とは、苦しみに共感し苦しみを抜き、楽しみを与える行為です。命あるものを守り、育み、慈しむ心、それが慈悲です。
比喩的に表現するなら、太陽は慈悲の体現者であり、地球もそうですし、自然や植物もそうです。幼子の病を寝食を忘れ看病する母親も慈悲心の表れです。どんな生物や人にも慈悲心は内在しています。
慈悲こそ命あるものの本来の調和した美しい働きです。慈悲心で地球も宇宙もあらゆる生物も生きることができています。慈悲は産み出し創造する源泉です。私たちは慈悲心に守られ支えられて生きています。しかし、そんなことに気づく人は稀です。
無慈悲はその対極にある行為です。自己中心性に潜む魔性であり、破壊の働きです。命あるものは、この魔性・破壊心と慈悲心を本来的に持っていると賢人は説いています。自己中心性を克服しなければ慈悲心は発動しません。
私たちの生命を慈悲心が支配するのか、魔性の破壊心が支配するのか、生命は常に闘っています。これが宇宙の真実の姿です。正義が勝利するとは限りません。歴史は残念ながら、破壊心の勝利で綴られています。一部の権力者の自己中心性に巣くう魔性の破壊心、殺行為が人類の歴史です。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」です。野蛮な武力による暴力支配でも勝てば、その世界の正義になります。生命の魔性は思想も常識もすべてを支配下に置き、思うがままに生きようとします。
日本の神風思想、ナチスの思想、帝国主義時代の侵略思想など、すべてが魔性に操られた思想です。その魔的な思想に、どれだけ多くの尊い命が奪われたことでしょう。この魔性は権力者に最も入り込み寄生するウィルスのようなものです。今は、経済、お金が世界を支配しています。また科学万能という思想がその経済第一主義を支えています。
地球上の人類は、「歴史は繰り返す」の言葉の通り、愚の歴史を今なお綴っています。ロシア・ウクライナ戦争、ガザ地区のイスラエルとハマスの破壊・殺人合戦、世界各地の紛争、経済戦争など…。経済戦争の被害者は数億に達し、今この瞬間も餓えや渇水や感染症に苦しんでいます。
これらの破壊性・生命に潜む魔性に対抗できるものこそ、私たち一人一人の命に内在する慈悲の心と個から発する智慧です。その慈悲心を勇気で沸き立たせるしかありません。それには自己中心性に伴う快感や快適さを乗り越え、苦を伴う闘いが求められます。慈悲の体現者が増えれば、豊かな智慧が湧き、人の心も平和になり、地球も潤っていきます。
今回は自己中心性と、それを乗り越える道としての慈悲の心について述べてみましたが、人間性のごく一部しか語っていません。なぜ人は、慈悲の心が発動できないのか、自己中心的欲望に生きてしまうのか。この解決には人間の心の解明、宇宙万物の現象と、現象を現象として生起させている法則の究明なくしては不可能です。機会があれば、一緒に学んでみませんか。
アメリカファースト、都民ファーストなどの思想は、自己中心者の心に適い、彼らはその思想の支持者になり、自己愛者を増やし、やがて一国みな哲学なき自分ファーストになってゆきます。
人間が自分を第一優先し、他者や他生物や自然や地球のことを二の次とし、ひたすら自己利益のために利用し、未来のことは眼中にないようです。人間の知性が私利私欲を満たすためだけに使われているようです。
どの国の政治家も、口を開けば「経済、国益」を、金科玉条のように叫びます。経済第一主義、換言すれば、お金第一主義であり、物が豊かにあることが幸福になる道だと叫びます。やがて、ものや土地や海域を巡り、国をあげて、他国民を殺し合う戦争まで発展します。自国ファースト、自分ファーストの思想は、他者の命を物質のように考え、殺傷することができるようになります。
あらゆる企業や組織や団体は功利主義であり、成果主義であり利潤・利益を血眼になって求めます。社員が過労死しても会社の利益が優先されます。会社・組織ファーストであり、一人の命はもののようにあつかわれてしまいます。成果、利潤、お金、株価はすべて数値化され、その数字は人間の命より大事にされます。お金は数字で表記されます。その数欲しさに、強盗し、平気で人を殺しています。
中学受験の過熱、それも将来の自己利益のためであり、私利私欲を満たす一つの手段になっています。本来の学問は、自分を知り、社会を知り、自然を知り、目に見えない無数の法則を探究し、自己実現し、その磨かれた知性で他者・社会・自然に貢献する、大きな志のある学びでした。
現在の学校教育は経済推進者の養成所であり、偏差値という非人間的数字を求めて加熱し、経済至上主義社会の歯車を作ってゆきます。学校は人間教育を忘れています。その場から離脱してゆく人たちが、ある意味、不登校者であり、引きこもり者であり、純粋な心を持った人たちなのかもしれません。
成熟した社会ては、自分のための学問は小人の学として軽蔑されていましたが、今は多くの人が小人の学を目指し、自分ファーストの道を進んでいます。今の子どもが大人になったとき、社会は自己中心者で溢れていることでしょう。
生物種の一つである人と動物の違いはどこにあるのでしょうか。言葉や道具を使う、二本足歩行するなどという生物学観点の話ではありません。行動や他生物への影響性といった心の側面に視点を当てたお話です。
動物は本来的に生命に具わっている能力、つまり本能に従って行動します。本能的行動は、他の存在を考えることはせず、自分勝手であり、自己中心であり、自分ファーストそのものです。自分ファーストは、つまり動物と同じレベルといえます。
「あの人は獣もの以下だ」「彼は人を食い物にしている」「弱肉強食」「虎の威を借るキツネ」など、人の行為を動物に譬えた表現はたくさんあります。つまり人間も動物的側面をもった生物であり、動物と同じような行動をすることがあるということです。さらに知識があるだけに、動物以下の行動をすることもあります。このような生物は見かけは人面をもっていますが、およそ「人」とは言い難いと思います。
畜生は空腹感を満たすため、生き抜くために他を殺し食べたます。満腹になれば、それ以上は食べません。人間は満腹になっても人を殺します。その殺し方も頭を使って残虐に、動物にない殺し方をします。地球上で最も恐ろしい生物なのです。
人が人になっていったのは、人しか持たない温かい心根でした。他人も自分と同じように喜怒哀楽をもった存在であると他人を思いやり、そうした感情に共感し他生物と共生する心から、人は動物を超えた心性を開花させました。そこには自分だけ利を得る、自分だけ栄えるという心はありません。等しく公平に利を分け与える心でした。恩を受けたら恩に報いるというの道理に生きるようになったのです。恩を知らない人を畜生以下というのはそうした意味なのです。
自分を大事にすることと同じように人や自然も大事にしていくという共存共栄の哲学を持った生き方こそ、本来の人の道です。また、人とは徳を積むための哲学を持った人間です。これを学ぶのが真の学問なのです。つまり学問は、人が人になるために生涯をかけて実践する修養の道なのです。
その果てにあるものは、人として成熟され、自己中心性を超えた人らしい人です。
地球は生きています。私たち生物と同じように…。
地球は地球自らのものであり、自分の役割を誠実に果たしながら 自分らしく生きています。
地上の大気中には、私たちの生命活動の根本である呼吸に必要な酸素がほどよく存在しています。また各惑星、月、太陽との絶妙なバランスと、ほどよい距離感と大きさによって重力や引力が均衡し、今の領域を正確に保つため一日で一回転し、太陽の周りを高速度で一年をかけて一周します。だれの指示でもなく、自らの本然の力で回っています。
そうした神秘的な智慧の律動おかげで、私たちは宇宙に浮遊せず大地に足をつけ、太陽光の強烈な紫外線にさらされることもなく、適度な水と温度、湿度の恩恵に浴し、生きていくことが出来ています。
生きとして生けるものすべてが、生まれ、そして自分の役割を演じ、生を終えていきます。地球も生物も人も同じ生命体です。
地球の活動は慈悲を根本にした智慧の律動に支えられています。慈悲とは苦しみを抜き楽しみを与える働きです。地球上のあらゆる生物の苦しみを和らげ、楽しみを与えゆく慈悲の実行者にして慂出する力それが智慧です。あらゆる生物は、地球の恩恵に浴し、慈悲と神秘な智慧に守られながら生きることが出来ているのです。
地球上には大気圏が地上から、約10万キロmまであり、宇宙空間からくる電磁波などから守られています。地上の生物や動物や人が生きていけるのは、酸素が存在し、海があり、人間の血管のように河川があり、血液が流れるように水が流れているからです。
地球の自公転や水が生物の生を支えています。私たちは、普段当たり前のこととして、それらの恩恵を享受していますが、けっして当たり前のことではなく、奇跡なのです。
地球の有り難さの一部を感じるのは、地震や気温の急激な上昇や線状降水帯発生などの時ぐらいでしょうか。そんなときも、地球そのものについて深く考えることはせず、自分たちが生き延びることしか考えていません。どこまでも自己中心的な欲望に生きているのが人間です。
地球の兄弟星、火星や月には酸素がほとんどありません。金星は温室効果ガスの影響て表面温度が460度の灼熱の惑星です。美しい輪を持つ土星の輪は、氷の粒と岩石の集まりでありガスの惑星です。太陽系では地球だけが生物が住める不思議な惑星です。
太陽からの距離が絶妙な位置にあるため、地球上では生物が生きていけます。太陽が光を程よく調和するかのように、可視光線、赤外線、紫外線などを届けてくれています…。太陽の光のおかげで、暗闇の宇宙に光が灯され、私たちはものを見ることが出来ます。絶妙な気圧のおかげで振動をキャッチし音や声を聞くことが出来ています。私たち生物は、とても不思議な働きに守られています。
地上の生物は、無料で地球に棲んでいます。人間は、地上のあらゆるものを勝手に使い、加工し破壊しています。地球全体の働きを考えず、自分の利益になる部分を切り刻み、自分たちの生を保とうとしています。他の生物に比べ知能が発達しているため、自己中心的欲望にまかせ、他の生物の生態系を壊し、母船である地球そのものを壊しつつあります。このままの愚行が進めば、生物は少しずつ絶滅し、人類も滅びてゆくことになります。今しか考えない、救いようのない愚かさが、拍車をかけています。
森林伐採と砂漠化、工場が出す煤煙と汚染水で海や川が汚れ、多くの生物が死滅しています。二酸化炭素の排出と気候の温暖化、食用のために動植物の殺、養殖。鳥瞰的客観的な目で見れば、人間のしていることの恐ろしさに唖然とするのではないでしょうか。
地球が生命ある存在ということを知らないようです。地球は傷つき、血を流しているのが見えないのでしょうか。科学が進歩し、物理天文学、量子力学も日進月歩しています。スマホ一つで、用が足せる便利社会になり、子どもから大人まで、楽しさやおもしろさに溢れる視覚快適感覚に脳が麻痺し思考する苦労をしなくなり、自己中心的に快楽を追い求め、生物や地球環境のことを思いやることを忘れています。
何のための科学の進歩なのでしょうか。見えるものしか追いかけず、大事な心を見ようとしない人間の生命の濁りが社会や時代の濁りを生み、あらゆる心身の病気を招き、応急対処的な症状除去の医療に身をまかせ、根本を見ることをせず、人類や生物を破滅に導いているのです。
気候変動、地震や自然災害、地球はSOSを出しています。しかし、そのサインをだれも読み取ろうとしていません。真の科学者はいますが、多くの自己保身者や自己中心者に消されているかのようです。
地球上の生物の90%は植物です。地球の主人公は植物ともいえます。地球は植物の惑星です。
残りの10%が動物・昆虫・微生物などです。動物の中でも人はごく微小で、人一人に対して、ありは一万五千匹の比率です。地球の動物の主役は昆虫です。
生物、特に動物は弱肉強食の本能の法則で生きています。最も限度を知らない自分勝手な動物が人です。少しばかり、脳が発達し、道具を開発し、言葉を持ち、記憶化した知識で、地球を支配するかのような錯覚に生きています。その錯覚がやがて地球を荒廃させ、生物が住めない惑星にしてしまうでしょう。
誰のものでもない地球、地球は地球自らのものです。「ここの土地は自分のものだ」と言い張り、人を平気で押しのけ殺す人たち…その極致が戦争です。戦争は自己中心性のもつ人間魔性の仕業です。
宇宙に浮かぶ地球を想像することができれば、地上の生物や人はみな地球号に乗った運命共同体と自覚できます。無知な自己中心的な政治家や権力者や富豪たちが、やがて地球を破滅させてゆくでしょう。
未来の地球に生きる人たち、今の子どもたち、他の生物、動物を思うと人間の愚かさと貪欲、そして傲慢さに怒りがこみあげてきます。地球の恩恵をありのままに感じる純な心をもつことこそ、人としての正しい道ではないでしょうか。
この問いに正しく答えられる人は、今の世にはいないと思います。なぜなら、今いる人たちはみんな生
きていて死んでいないからです。ただし生命の真理を悟ったと言われる聖人は、過去世・現世・未来世
の三世の生命の真理がわかると言われていますので、死後もわかるようです。まずは世間一般に流れて
いるお話をします。そのあとに偉人や覚者・聖人の生命観について説明します。
おとぎ話では 人が死んだら「星になった」「天に昇った」などと言い、なんとなくロマンを感じま
すね。
キリスト教では神に召され生前、神を信じていた人は永遠の楽園に行くなどと言われています。
ちまたの仏教では、死んだ後、人はみな、三途の河を渡るとあります。その河には、三つの通りがあ
り、比較的罪の浅い人の通る浅瀬のみち、善を積んだ人の通る金銀でできた橋、罪の重い人のわたる深
い激流のみちの三つです。その川岸のほとりには、奪衣婆(だつえば・死者の衣を剥ぎ、生前の行いをあ
らいざらい暴く人)がいて、罪の軽重をはかるそうです。そして行き先が決まり、地獄、餓鬼、畜生の世
界へ、あるいは修羅、人、天などの世界に行くと説かれています。日本の仏教説話などに地獄絵図など
が描かれていたり、別府温泉には血の池地獄など各種の地獄の湯が今でもあります。想像するだけで怖
くなりますね。
唯物論哲学では、人間の身体は物資なので、死によって肉体がなくなり、すべては消滅すると論じま
す。現代科学の物質還元主義思想です。心は脳という肉体・物質によって生じると考えます。脳がなく
なれば心も同時になくなるという考えです。人生は一度きりですから、殺人をしても、そのことを
隠して生ききれば、死後に裁かれることはないことになります。別に善行を積まなくても、悪の限りを
尽くしても、あくまで、一回の人生で終わりだから何をやっても関係ないと言うことになります。
スピリチャル系では霊魂になってどこかを浮遊しているなどと言います。そしてその魂が生きている家
族などに災いをなす、つまり先祖の霊が祟るなど怖い話になったりします。一部の邪な宗教では、この
霊魂説を利用して、人の本能的恐怖心と無智につけこみ、金儲けしているところがあります。
果たして人は死んだらどこへ行くのでしょうか?
死とはなんでしょうか? 生れたのは偶然なのでしょうか?
それとも、 生れるべきして生れうまれたのでしょうか?
この問いは、生命とは何かという難問に辿りつきますね。
生命の解明なしに、生まれる前の生命、そして死後の生命も解明できません。
では、私たちの生命とは一体 何なのでしょうか?
歴史上の偉人たちは、この問いを生涯かけて探究し解明しようとしました。ここでは、一生を賭けて
この難問を探究し 真理を悟ったと言われているブッタ(注1聖人)の生命観を紐解いてみましょう。
覚者ブッタは あらゆる生命は 無始無終である、つまり始めもなければ終わりもない、今のこの瞬間
が永遠に続く、正確に言えば、生命は常に今の瞬間の律動しかないと悟りました。時間は存在しない、
時間と思っているのは言葉でとらえたものに過ぎず、実際は現象が流れ変化しているだけのことだとい
います。
20世紀の天才ニコラ・テスラ(注2物理学者・詩人)は、この世で誰も死んだ人はいないと、逆説的な言い
方をしました。それは2500年前にブッタがとらえた生命観に近接しています。
彼は、エネルギーから光が生れ、それが物質を生み、やがて別のエネルギーに変化する。
光もエネルギーも不滅と語りました。不滅なので生も死もないと言ったのです。
生もなく死もない 生命は縁によって顕在し 死という縁で空「注3 空・くう」のかたちに変り 潜在
すると言います。
生命は二つのかたちをとりながら存在し続けるとブッタは説きます。
生命は有という顕在のかたちをとり 無という死のかたちで潜在すると説きます。例えていえば 夜に
なって寝ます 次の日の朝起きます。
寝る前の自分を生のかたちとして存在 眠ったときを死のかたちで存在し 朝起きた時を次の生のかた
ちとして新たに存在します。
寝る前も自分 眠っているときも自分 次の日起きた時も同じ自分 自分と言う我は一貫し連続してい
ます。この我は「空」の状態で存在すると説きました。自分の我は生まれ変わって、すごい人や生物に
なるわけではありません。自分という我は、あくまで自分なのです。
今、生きているときの行為の総体が記憶化され、次の行為につながるように 今世の生き方の総体が心
の深い部分の蔵(注4アラヤ識)に「空」の状態で貯蔵され、自分に適した縁を選び出し、顕在化すると説
きます。(注5妙法蓮華経譬喩品で説法)
因果応報とも言います。今の行為(因)が一つの行動を起こし(結果)、幸不幸の報いを得る。(応報)
他者の目は欺けても自分の心は厳然と事実を記憶し、その善悪の総体が次の生のかたちを決めるとブ
ッタは説いています。
エネルギーはかたちを変えますが不変と言われています。個の我は一貫して続くのです。
正しい生き方をしていた人が不慮の事故で死んだり、中村医師のようにアフガニスタンで流れ弾で死ん
でも、正しい生き方をしていた我は連続し、再び正しいところに生れ 正しい生命のかたちをもって生
きるとブッタは説きます。
ブッタは生命の覚者です。 過去・現在・未来という三世の生命を悟ったと言われています。
ブッタの生命観 生と死は不二であり 生命は無始無終であり 今の我が姿かたちを変えて因果の総体
(注5 業=カルマ)で連続すると悟ったそうです。(注6 妙法蓮華経如来寿量品で説法)
つまり、人が死んだら生前の行為の総体(行為、言葉、心で思ったこと)…善と悪そして無記(純粋な知識)
という業が意識下に「空」のかたちで潜在します。その業に適した縁を選んでかたち(新たな生命)にな
り、生まれると説きます。例えば生前、人らしい生き方(人としての戒を守り、敬虔な心を持ち、四恩を
感じ、それに報いる生き方をするなど)をしていれば人に生れます。動物のような弱肉強食の生き方をし
ていれば動物(昆虫・鳥など)のかたちに生れると妙法蓮華経譬喩品に釈尊は説いています。全ては自分の
行為の結果であり、だれのせいでもありません。これが自業自得の本当の意味です。
◎当室は宗教団体とは一切関係ありません。室長は20歳の頃から、哲学、倫理学、思想、医学、文学、天文物理学、生物学、孔子の教え、老子の教え、キリスト教、仏教を学び、研究してきました。最近は特に量子力学・心身医学・諸科学と妙法蓮華経(釈尊・天台智顗・最澄・日蓮の流れと竜樹・天親の空や縁起、唯識思想)の相関性について研究し、心理療法への応用展開を模索しています。
注1 ブッタ・聖人… インドに約2500年に誕生した釈尊を一般的には指します。しかし妙法蓮華経(略して法華経)正統継承者の中では、三世の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人を聖人と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドの釈尊、中国の天台智顗、日本の最澄と日蓮の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来世を予言し、それを的中させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹・天親菩薩がいます。彼らは人間生命の深層を探り、空観や唯識思想や死後の世界を究明したと言われています。
注2 ニコラ・テスラ…交流電圧を発明しました。電気学者。300以上の発明、発見をしていると言われています。詩人、哲学者。生涯独身を貫き、人類福祉のための発明に一生を捧げました。「私の脳は受信機に過ぎない。宇宙には中核となるものがあり、私たちはそこから、知識やインスピレーションを得ている。私は、この中核の秘密に立ち入ったことはないが、それが存在することは知っている。」「3・6・9という数字のすばらしさを知れば、宇宙への鍵を手にすることができる」などの名言を残しています。アメリカのイーロン・マスク氏は、ニコラテスラの崇拝者として有名です。
注3空(くう)竜樹菩薩の中心思想の一つ。存在するものを「有」存在しないものを「無」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「縁・対境」によって生起し有のかたちになる。「空」は有無の二つの在り方をとる生命現象なのです。
注4 阿頼耶識 唯識思想では意識の下に、第七識として末那識(自我執着意識)、その下に第八識、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在しているが確かに存在し、意識に影響を与えています。脳に記憶化されたものと考える理解しやすいかもしれません。天台智顗は八識下に根本浄識としての九識を覚知されました。それを法性・仏性といい、あらゆる生命、万物の根底の生命であり釈尊の妙法蓮華経と同義であると説かれています。
注5,6 妙法蓮華経、略して法華経と言います。インド応誕の釈尊は、菩提樹下で成道(生命の真実相を悟る)したと言われています。その悟りの内容を修行面で仏教と言い、法理面を仏法と言います。悟りの内容は深く深遠であったため、当時の民衆の機根(生命状態や能力など)に応じて種々のたとえや方便を使って教えを説いたとされています。例えば念仏の南無阿弥陀仏や大日如来の教えや禅や般若波羅蜜経など、40年にわたって八万宝蔵とも言われる膨大な教えを展開されましたが、いずれも生命の部分を説いたものです。部分ですから、それらに執着しては、正しい生命観を持てないと戒めましたが、現存する日本の多くの仏教は、釈尊の教えに反し部分に執着しています。それゆえ、真実の法にいたることができていません。
釈尊は最後の八年で、真実の教え・生命の全体像を説きます。それが妙法蓮華経(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランのインド、サンスクリット語の漢訳)です。妙法蓮華経とは、宇宙を含めたすべての存在は不可思議な因果俱時の法に則って存在しています。この不思議な法を言葉で命名したものが妙法蓮華経です。実態は言葉を超えて存在しています。今この瞬間にも私たちの生命そのものとして存在しています。当時、書物はありませんので口承で真意を汲んだ弟子たちによって編集され、28品(章)に分類されています。比喩品は第三であり、如来寿量品は第十六になります。
如来とは、阿弥陀如来や薬師如来など仏と訳されることもありますが、真実の意味は、瞬間瞬間に生命の深層から湧き出る私たちの本来的な生命のことです。つまり、今の一瞬の生命は不可思議であり、どこからともなく湧き起こり、私たちの生を支えていますが私たちは意識できませんし、実感もできません。過去の記憶の総体で自動的な働きの感知である意識で生きているからです。
如来の意味は、瞬間に発動する生命のもつ慈悲と智慧の律動なのです。生命は永遠に今を振動しています。永遠と言う言葉は時間の変化を表す言葉であり、実際は生命は常に今の瞬間しかないのです。アインシュタイン氏もニコラテスラ氏も、こうした世界の一部を覚知されていたと言われています。だからあれほどの発見ができたとも言えます。この今の生命の真実の在り方、如如としてくる生命、つまり妙法蓮華経如来にナム(ナムは梵語、漢語で帰命という)して生きることこそ真の幸福に至る生き方と聖人は教えています。
寿量とは、仏の生命の功徳、智慧は限りなく果てがなく、はかりしれない。私たちの言葉に置き換えると、生命の力、生命力が無限であり、限りがない、どんな困難も、障壁も乗り越えることが出来る生命力という意味になります。
苦しみは 本当の自分を忘れた 迷いの姿であり
生命は懐かしい本当の心の故郷に還ることを願っています。
本来の自己に還り 本来の自分に生きる時 苦しみはなくなり
人生の生きる意味に目覚め 深い充実を感じるようになります。
本来の自己とは何か…古来、人間が求め続けたきた難問でした。
自己とは何か? 生命とは何か?
心とは何か? 意識とは何か? 死とは何か?
さあ 一緒に歴史上の賢聖を尋ねててみましょう
漂流し苦悩にさまよう 自己の平和を取り戻すために…
人はどこから来たのか 偶然にこの世にやってきたのか?
ニコラテスラ氏(20世紀の物理学者・詩人)は、誰も死んだ人はいない
光は物質を産み それはエネルギーに変り 物質は消え 光に戻る、と‥。
人という物質のかたちは宇宙に還っても その物質のもっていたエネルギーは宇宙に溶け込み
変化しただけであり やがて縁によってかたちを作る つまり生命は永遠に続くとの見解を
述べました。
今は人として生きていても かたちはなくなり 次のかたちは植物かもしれない
動物のかたちかもしれない 鳥のかたちかもしれない 昆虫のかたちかもしれない…
地球一の聖人・賢者・覚者と言われ、生命現象を悟ったとされている釈尊(ブッタ)は
過去世で鹿の王のかたちで生き 仏道を修行したことがあると自らの過去世の一端を説きました。
釈尊によると、人は偶然に、この世に誕生したのではなく 生命はかたちを変えながら 個の我は
連続していると覚知されたそうです。
夢を見る前の自分と 夢から覚めた自分は別人ではなく 同じ我を持ち一貫した存在です。
つまり 今世の人生で行為として積み上げた善悪の行為の蓄積(カルマ=業の集積)されたものが
次の生のかたちを決めるとブッタは説かれました。
人らしく人間の戒を守って生きれば 人として生まれ
畜生のように生きれば 畜生(動物や鳥や昆虫)のかたちに生れ
欲望に執着した生き方であれば 地下深くの餓鬼の世界に生れ
人や自然や生物を傷つけ続けて生命は 苦しみの連続する 地獄に生を受け
徳を積み 人に施し 他の生命を慈しみ 守った生き方は 宮殿に生れ天人となり
知的探求 真理を模索して生きた人は ソクラテスやアインシュタインやノーベル受賞者
のような知的世界に囲まれた場所に生を受け
いつも苦しむ人のために その苦を抜く行動を突けた人は 弥勒菩薩 観音菩薩 イエスキリスト 老子 孔子 マザーテレサ ヘレンケラーのようなメシア的存在で生れるといいます。
つまり 今どんな生き方をしているのか 善を積んでいるのか 悪を行っているのか それらは脳に記
憶され 無意識世界に刻まれ 次の行為に影響を与え そして次の生のかたちを決定すると釈尊は説い
たのです。
これを因果といい それが報いとして目に見えるかたちをつくるとブッタは妙法蓮華経譬喩品で説かれました。
つまり今の自分は自分の生き方が作ったものであると知ることが、根本的な苦を抜く正眼視というので
すです。
人間は人間のことを何もわかっていないと、無知の知…無知であることを知りなさいと、ギリシャの若
者に生命の真理に目覚めるように説いたのは 哲人ソクラテスでした。
私たちは自分の身体がなせ動いているのかを知りません 脳や各器官や臓器がどのように統一され連系
され生を営んでいるか知りません。
意識がどこから起きているのかも知りません なぜ周囲を感知できるのかもよくわかっていません。
自分が自分であることは なんとなく記憶された言葉で認知しているに過ぎず
記憶は既に過去であり 今の瞬間の自分が何者なのかがわかっていません。
ソクラテスの問いは真理をついた言葉であり 当時の知識層といわれた詭弁学者は彼を恐れ
彼に嫉妬し 牢屋に送り 法を順守するソクラテスの正義感につけ込み、毒を送ったと言われています
ソクラテスの問いは 今も私たちの心に鮮明に響いてきます
自分のこと 自然や宇宙 生命についてほとんどわかっていないという
学べば学ぶほど多くのことが分かっていない自分に気づきます
まさに無知の自覚です。そこから本当の自分の探求が始まりす。
喜びの振動 悲しみの振動 苦しみの振動 恐怖の振動 怒りの振動 破壊の振動 慈しみの振動 快適な振動 不愉快な振動、満たされた振動、不満な振動など…この宇宙は万物の存在が発する無数の振動に満ち混沌としています。
動物にも無数の振動があり、植物にも幾つもの振動があり、細菌も、ウイルスも塵も石も空気も振動を発しています。その振動を秒単位で計測したものを物理学者は周波数と名付けています。
宇宙万物本来の振動は、喜びと安心に満ち慈しみと愛、そして常に進化し創造する無限の力を秘めた律動を奏でています。インスピレーション、啓示を受けた宗教者などは、その振動を神、仏などと、地球の言葉を使って名付けました。名付ける前から、その振動そのものは無始無終の在り方で存在し、今この瞬間も振動していますが見ることも感じることもできません。
宇宙のあらゆる存在は周波数でかたちが決まり、それぞれが固有の周波数を奏でています。天にも昇る喜びの周波数もあれば、地の底に閉じ込められる苦しみの周波数もあります。動物も、その個に応じた周波数を出しています。人は通常は穏やかな周波数を出しています。それが人間界の特徴の一つとも言われています。
人面を持ちながら、弱い者をいじめ支配し、強いものにこびへつらう動物以下の周波数が基本になっている人もいます。人の発する周波数は言葉や外面で操作することはできません、心が澄んだ人は、他者の周波数を直感で正しく感じとり、その心を見ぬくことができます。
例えば光は二つの側面を持っています。それは粒子と波という二面です。以下は私の仮説ですが、人間の心の表現としての意識は、言葉・イメージと気分感情いう二側面があります。言葉・イメージは粒子であり、気分感情は波に譬えられます。人間の意識表現としての言葉は感情・気分という波動性をもっていると推測でき、そこに人の周波数の秘密が潜在しています。
生物・人間の波動・周波数の種類は八万四千波(覚者、ブッタの悟り)と言われています。それを解明すれば、不可思議な周波数の問いや喜びの周波数のなぞは解けるでしょう。
この地球上、そして宇宙には生物、無生物、物質、塵などあらゆる存在、見えないが存在しているものなどが発する様々な波、光、闇波、電磁波、声、声なき声などが飛び交い無数の周波数に満ちています。
最新の量子力学などで、素粒子の世界や動きから周波数の一部は解析できている部分もありますが、ごく一部であり、ほとんどが闇の中です。あらゆる生物、物体、人間や動物も固有の周波数を出しているからです。しかもそれが固定的なものではなく、絶えず変化し、相関性の原理で生起しているのが真相だから分析できないのです。(最新の光の二重スリット実験の結果など)その意味では素粒子の究極の世界と似ています。
つまり宇宙の物体は周波数によってかたちができ、その周波数も刻々と変化し、相関性(縁起)で成り立っているということです。
あなたは、今の瞬間、あなた独自の周波数を出して生きています。しかも刻々と、対境(縁)によって変化する周波数なのです。その周波数の持ち主は、この宇宙であなたしかいません。持ち主のあなた自身の各細胞が発する周波数の組織化された総合波を瞬間にあなたの意識が感知しているに過ぎません。細胞は30数兆個(正確な数はつかめていない)あります。人間も動物も植物も地球も太陽も、みんな独自の周波数を出しています。
波動を高めるとか運気をあげるとか、周波数を合わせるとかいっても、宇宙、生命の真実相がわからないと、どこに周波数を合わせるかさえわかりません。指標なき盲目の方向は危険です。苦海行きの周波数や人をだまし(グルーミングなどの優しい言動など)苦しみを誘う周波数で満ちているのが地球世界の真実相です。心が濁っていると、見る目が曇り、真実が見抜けなくなり、偽物を本物と見てしまいます。結果、不幸な人生をさまようことになります。
見えない世界をあつかう、宗教やスピリチュアル系や思想・考え方の怖さはそこにあります。今、問題になっている宗教がそのよい例です。そもそもお金や営利の心がある人や団体には気を付けなくてはいけません。正しい思想の人は、お金や名声名誉を求めず真実の探求を第一に誠実に生きています。なぜなら真実の探求と悟りで心が喜びと充実感に満ちているからです。
周波数の解明は宇宙すべての生命現象の解明なくしては分からない難問です。生命の真実相を求めてこの地球では有史以来あらゆる聖人、賢人、物理学者、数学者、医学者、哲学者、思想家、宗教者が格闘してきました。そして到達した世界を書物や対話などで残してきました。その数は膨大であり、一生かけても探究できません。
最も生命の真実に迫った人たちは2500年前ぐらいのインドに端を発しているようです。自分のすべてをかけて生命の真実に迫ろうとしていました。世俗の欲を絶って生命の真実と格闘しました。その代表が釈尊・ブッタ(ブッタとは生命の真理を悟った人との意味)とも言われている)です。
五欲(眼・耳、舌・鼻・身が感じる快感)は、どうしても過剰が止まらず、生命の濁りをもたらします。その濁りを浄化しないと、本来的清浄の自己に冥合できないからです。五感覚がもたらす快不快、好き嫌い、他者支配欲や承認欲などを基本にした生きるため生命に本来的に具わっている本能的智慧は抑制する目ことが難しいようです。
生命の欲がもたらす必然的な濁りを浄化するのが釈尊をはじめとした修行者の課題でした。具体的には生きものを殺さない、肉食しない、妻帯しない、他者を傷つけたり支配したりしない、悪口を言わない、ウソをつかないなどの正しい行いをすること(釈尊は八正道を説いた)で生命の濁りをコントロールしようとしました。欲望・便利社会を生きる現代人には、とても不可能な実践です。
ブッタとは、生命の覚者、宇宙の真実相の覚者と言われています。知的理解では到達できないのです。知識は生命の一部しか理解できません。ブッタの悟りは直観智であり、生命全体で識ることでした。それは心身全体をかけた実践・修行のなかで意識を浄化する果てに訪れる生命の直観知なのです。
欲望に染まった生命を浄化することによって、本来の純粋な自己が発する周波数にはじめて冥合が可能になります。本来の自己つまり宇宙本来の自己の周波数は、万物を創造し育み慈しむ慈悲・愛の音律であり波であり光なのです。慈悲の実践者にして初めて可能になります。
欧米世界やイスラム世界では、その存在を神と命名し、人間世界のはるかかなたに祭り上げ、その存在の探求や思考をやめ、崇め信じることを第一義にしてしまいました。
最高の周波数に合わせて生きるためには、覚者・釈尊の通った道に学び、その言葉を師標として修行実践するしかありません。万物本来の歓喜の周波数は、その師標に基づいた実践体得の中に脈打ちます。言葉では表現できない不可思議な因果俱時の音律がもたらす周波数です。
◎当室は宗教団体とは一切関係ありません。室長は20歳の頃から、哲学、倫理学、思想、芸術、文学、天文物理学、生物学、孔子の教え、老子の教え、キリスト教、仏教を学び、研究してきました。最近は特に量子力学・諸科学・人体学と妙法蓮華経(釈尊・天台智顗・最澄・日蓮の流れと竜樹・天親の空や縁起、唯識思想)の相関性について研究し、当室の心理療法への応用展開を探索しています。
心は見えません。そこに心に関係する霊的なものや、妖しい宗教が、心が揺れて不安定な人に甘美な声で囁きます。「幸せになれます、運気が上がります、幸福の波動を教えます、運命が変わります、お金持ちになります、苦しみの原因をとりのぞけます、第六感が冴え幸運を呼び寄せます」などなど、見えない世界のことだけに、どんな虚言も作り話も本当らしく聞こえます。
この世の物質やものの多くは、分析でき科学の対象になります。しかし心や内的な世界や不思議な働きは把握が困難です。そこに作り話が入り込む余地があり、迷信、邪な教、偏った思想、魂や霊を扱うスピリチュアルなものが、手っ取り早い金儲けの道具と化します。
特に、スピリチュアルとカタカナ(欧米風)を使えば、アカデミックな印象を与え、曖昧模糊とした世界が、神秘さを増し、無知の彷徨える魂をひきつけます。昔の占いや迷信と紙一重とも知らずに…。
無知で不平不満が強く、愛情希求の心が強く、心が不安定で弱い人ほど、その蜜の甘さに騙されやすくなり、すぐに信じてしまいます。やがて毒が回り、思考することを忘れ、主観世界に埋没し、飛んで火に入る夏の虫のように、この世の地獄を見ることになります。
なぜなら生命の部分観しかあつかっていないものを生命の全体を扱っていると決めつける自己背信の過ちを犯しているからです。生命の部分観は部分観として見るなら問題はありませんが、部分を全体と見て信じてしまえば、生命の真理に到達できず、価値は生れないどころか、反価値的(不幸)現象を産むことになります。本当の幸福は、生命の真理を解明した全体観に則っとった法に生きる中にあるからです。
そもそも第六感やインスピレーションという言葉の曖昧さです。通常動物は人間を含め、五感(眼・耳・舌・鼻・身)で外の世界を識り、意識という第六感のインスピレーションで行動化します。この六番目の意識こそ、第六感・インスピレーションの正体です。意識は、現在の脳科学でも分析できていない謎の領域です。この能力は昆虫や鳥類や動物は特に優れており、人間はこれらの動物の第六感には及びません。
一番怖い存在は、殺人者、強盗者、詐欺者、猛毒の蛇コブラなどよりも心や魂を麻痺させる思想や言葉、そしてそれらをうまく操り人の善心を破り、思考の中心である意識を麻痺させる人たちです。身体だけでなく心、そして生命の核を破壊されるからです。覚者ブッタは、そのような人を奪命的存在と呼び、明らかに見わけ、遠ざけるように警告しました。
神のお告げを聞いた、霊的世界に感応した、テレパーシーを感じた、神のご神託があった、啓示を受けた。多くの邪な教祖の口癖でした。お告げも啓示も他の人には見えません。本人の主観世界であり、夢の世界であり、独善の世界です。
意識は、人間の心のごく一部の働きに過ぎません。人間の心には、意識の深層に広大な無意識世界があるとされ、フロイトやユングがその一部を実証しています。仏教では、既に2500年前にの世界を覚知しています。(注1)第七感(七識…自我に執着する世界、自己愛といってもよい)、第八感(八識…行動がすべて記憶化された蔵のような世界で業の蔵といい、サンスクリット語でカルマという)、第九感(九識…宇宙意識、自己と宇宙万物が根底で融合渾然一体となった世界)というすべての個や宇宙万物につながる広大な世界で、その働きはエネルギー不滅の法則のように無始無終と聖人は覚知された世界。
先人の言葉の蓄積された宝庫もなく、論理性や哲学性に乏しく、科学的実証性は皆無です。それをまことしやかに語り、邪な教えは広がります。彼らは甘美な響きがある魔性の言葉を巧みに駆使することに長けています。彼らは、信じる人が不幸になっても貧乏になっても病になっても、決して責任を取ることはしません。信じたあなたの信念が足りないのが原因だと開き直ります。
このような教祖まがいの人の言動を受け入れ、信じる民衆はいつの時代もいました。そして今の時代は、なおいっそう多くの人たちが惹かれてゆきます。時代が濁り、生命が弱り、不安が広がり、心の不幸が充満し、満たされない多くの人に溢れ、皮相や軽薄を好み、本物を嫌う民衆に満ちた時代だからです。さらに気候変動などの天変地異、各地で起きている紛争、戦争がそれに拍車をかけています。
「宗教は民衆のアヘン」といったカール・マルクスの言葉は有名です。彼は宗教(思想)のすべてをアヘンといったわけではなく、当時の倒錯した社会がつくった、当時のキリスト教思想を批判したものでした。多くの民衆を思考麻痺に導いた宗教思想をアヘンと言ったのです。人はだれしも、それなりの思想をもち思想を頼りに生きているからです。
最近ではオーム真理教の教祖がその類でした。空中浮遊という現象に多くの人が霊的なものを感じたと言われています。空中浮遊することが出来ても、現実の中で価値は生れませんし、幸福にもなれません。鳥やトンボやセミのほうがよほど超能力者といってよいと思います。
人の不幸を予言し、仮にそれが的中しても、何の価値も生じません。幸福の道を示し、現実的に幸福になれるなら、その教えは本物といってよいでしょう。その教えの実践で、どのくらいの人が幸福になったのかが科学的実証性というのです。それがない教えは迷信であり、地獄行きの思想といってよいでしょう。
一万メートルの上空を流れる時速300㌔のジェット気流を感知し、その流れに乗って遠くまで移動するコハクチョウは、そのことを本能的に知っています。まさに超能力者です。人間は、こうした動物や昆虫の超能力に遠く及びません。
人間(生物)には五つの眼(注2)があるとされています。肉眼は、遮るものがあれば見えなくなる人間の普通の眼です。二つ目に天眼があります。天眼は、昼夜遠近を問わず見ることが出来る天人の眼で、禅定(瞑想)を修した人が得る眼です。
釈尊の十大弟子の一人、目連は天眼第一と言われていたそうです。母が死後、地下深くにある餓鬼の世界に堕ちて食べ物もなく苦しんでいる姿を見たとされています。その母を救う行為から盆の食べ物の供養が始まったそうです。その他、(注1)慧眼、法眼、仏眼があります。
歴史上、精神世界、心の世界を高め人々の幸福に無私無償で尽くした人がいました。インドの釈尊、ユダヤのイエス・キリスト、多くの仏教継承者(竜樹菩薩、天親菩薩、弥勒菩薩、天台智顗、最澄、日蓮など)老子、孔子など…最近では、ヘレンケラーなど、いずれも結婚せず、世俗的なもの(お金、財宝、地位や名誉、人気など)を求めず、布施などで質素な生活をしていました。その姿そのものが本物の魂の救済者の証拠といえます。
彼らは聖者・聖人・賢人と言われ、一生をかけて、見えない心の世界、生命や正しい生き方を探究し、苦悩する人たちの救済や幸福実現のために命を賭けた人たちです。そして、不思議な生命そのもの(一端)を悟ったと言われています。
現代の霊者やスピリチャル系の人たちが、果たして世俗の欲を離れ、結婚もせず、名声、財物お金を求めずひたら、悩み苦しむ人に尽くしていく行動者を私は見たことがありません。こうした人たちには哲学や精緻な論理性や言行一致の思想がなく自己中心性(私利私欲)を脱し切れていない人の証拠です。
現代の物理天文学の最先端である量子力学は釈尊や天台智顗の生命の理論(注2)や因果、不可思議な法を証明しつつあります。光が波と粒子の二面性をもつことが明かされました。また全ての物質は周波数でかたちが決まるということも証明されつつあります。塵も石も生物も空気も粒子であり波であるということです。私たち人間と動物の違いは、量子力学的観点から言うと、周波数の違いということになります。
人体の細胞も光子(注3)を出しています。また粒子と波を持った存在です。やがて意識が光の一部であるということも証明されるでしょう。私は、意識は言葉と感情で成り立ち、意識は光であり、言葉やイメージは粒子であり、感情は波であるとの仮説をもち、日々思索と検証を繰り返しています。
「我思うゆえに我あり」近代合理主義思想の基盤を作ったとされるデカルトの有名な言葉です。確かに意識なしに私たちは、生きていることも周囲のものを認識することもできません。意識つまり認知機能がなくなった重度の認知症を患った方は、自分が何者かが分からなくなりますし、周囲を認知することが難しくなります。
認知機能の中心である意識の正体こそ、心の不思議さを説く鍵だと言われています。今、その世界に最も接近した科学は量子力学とされていますが、2500年前にブッタは既に、それを覚知されていたことが証明されつつあります。
人間、あらゆる生物、かたちを持った万物は、かたちに応じた周波数をもっています。それらの生物の周囲に存在するものも周波数を奏でながら振動しているというのが聖人の悟りであり、量子力学が遅まきながら辿りついた発見なのです。
正統派仏教の哲学思想にある、「縁起」(注4)や「空」の思想、瞬間の生命は「10世界の境界」を持ちながら常に「生死」を繰り返し、「空」で無のようなかたちで潜在したものが「縁」で有のかたちに生起すること、すべては生死
を繰り返しながら変化していることなど膨大な哲学理論を持っています。
今のスピリチャルや霊能者、偏頗な部分観の宗教は、仏教の深遠な哲学のごく一部を利用し、金儲けにつなげている人たちと言えるでしょう。
何も考えず 権威に従うことは 真実に対する 最大の敵である アインシュタイン
※権威とは今で言えば、いわゆる専門家、宗教者、マスコミ、スマモ、ユーチューバ・SNSで発信するものなど
注1 人間の心の世界…眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識、根本常識の
九つに理論体系している。
注2 五眼…仏教哲学の一つ、竜樹菩薩が大智度論で展開している。世界や宇宙や生命を把握・洞察する眼を五つに分けている、いわゆる肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼がある。
慧眼は、深い知識を持ち、想像力を研ぎ澄ますことによって宇宙や物理現象の一部を悟る眼、ニュートンの万有引力やアインシュタインの相対性理論、ノーベル賞受賞者の発見などがこれにあたる。
法眼は人々を救済するために、宇宙や自然や生命の真理から一切の事物・事象を判断する菩薩の眼。弥勒菩薩、観世音菩薩、普賢菩薩、薬王菩薩、文殊菩薩、その他、イエスキリスト、ガンジー、ナイチンゲール、ヘレンケラー(サリバン女史)などに具足していた眼と考えられる。
仏眼は一切の事象や事物を三世十方…過去・現在・未来、生命現象の永遠性と宇宙の無限性を見る仏の眼。妙法蓮華経という宇宙の実相を覚知した生命に具わる眼。釈尊は仏教の流れを1000年単位で予言。
正法時代1000年(解脱の時代、禅定瞑想の時代・像法時代1000年、仏教の経典を書写したり読誦したりする時代、多くのお寺が造られる時代、末法時代、未来永遠、思想や宗教が乱立し、深い思想を嫌がり浅い思想を好む人たちが生まれてくる時代であり、釈尊の仏法では救われない民衆が生まれてくるとされている。そんな中、釈尊の仏法に替わる新しい法が流布する時代と立て分け、どんな仏教が流布し、民衆がどのような行動をするか予言し的中させている。
また天台智顗や最澄も末法の仏教流布の流れを予言し的中させている。日蓮も、天変地異の起きる原因を洞察し、元寇襲来の時期を予言し的中させている。聖人(サ・ダルマ・プンダリキャ・スートラというサンスクリット語を漢訳した妙法蓮華経…始めもなければ終わりもない、無始無終の因果俱時不思議の一法を覚知された行者)は、仏教史上で四人いるとされている。釈尊、天台智顗、最澄、日蓮。それに近い人では竜樹菩薩、天親菩薩(空の思想、唯識思想を完成させた)などがいるとされている。
注3 光子 バィオフォトンのこと。バイオフォトンとは、生体内の生命活動やストレスによって誘発される生化学反応の余剰エネルギーが可視~近赤外の電磁波として放出された現象です。目には見えない極めて弱い光で、生体極微弱発光とも呼ばれます。
※注4「縁起」「空」「10世界の境界」「生死」「縁起で生起」…いずれも深遠な仏教哲学思想の根幹をなす言葉。釈尊に始まり、付法蔵の正師に継承され、竜樹・天親を経て天台智顗で一念三千理論(瞬間の生命、一念は三千の生命の法則で成り立つ、宇宙も自然もあらゆる生物、無生物、存在するすべてのものは、一念三千の妙法蓮華経の生命現象と理論化した)として完成されたという仏法の深遠な理論体系。
文証(継承された文献・経典)・理証(空・唯識・一念三千理論などの科学的知見を備えた理論)・現証(実践すれば、効果的な結果が出る、六根(眼・耳・舌・鼻・身・意)が清浄化され、生きる歓喜が湧き起こり幸福になる)を兼ね備えた完全な法体系で科学的である。
量子力学の発見が、これらの言葉の意味する世界を証明しつつあるとされている。霊的なもの、スピリチャル系には、科学的裏付けがない。主観の世界観で閉じている。科学性の有無は実証性にある。仮にある宗教思想や哲学思想を実行した結果、全員が幸福になったかどうかが証拠になる。
◎当室は宗教団体とは一切関係ありません。室長は20歳の頃から、哲学、倫理学、思想、芸術、文学、天文物理学、生物学、孔子の教え、老子の教え、キリスト教、仏教を学び、研究してきました。最近は特に量子力学・諸科学・人体学と妙法蓮華経(釈尊・天台智顗・最澄・日蓮の流れと竜樹・天親の空や縁起、唯識思想)の相関性について研究し、心理療法への応用展開を模索しています。
「私の目的は、個々の人が、自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい」
ニコラ テスラ (20世紀の物理学者・詩人)
人間にとって最も大事なことは何があっても、自分らしく自分を表現し、どんな環境や出来事にも立ち向かっていける強い心、賢さ、そしてしなやかな心を持つことです。
この世界に、あなたの顔が一つしかないように、あなたの人生もあなた独自の道になります。ガイドラインやマニュアルは机上の知識です。残念ながら数学的な解答は人生にはありません。自分で解答を見つけるしかないのです。
めまぐるしく変化する現代社会に大人も子どもも適応することに難しさを感じています。この世界の人も、ものも、自然も、すべては常に変化していますが、普通は意識できませんし、しようとはしません。変化が小さいときは無意識的に反応し、今までの記憶化された心身の働きで適応できるからです。しかし変化の波が大きいと適応できない人や生物や自然が増えてきます。
急速な変化に適応できず、自分でも原因が分からず、今まで普通にできていたことが出来なくなっていきます。そして専門家は社会不安障害、うつ、適応障害、ひきこもり・不登校という名前をつけ、分かったような顔をしていますが、その解決策は曖昧であり、部分観であり、ほとんどが正鵠を射てないような気がします。
科学技術の急速な発達により、便利、物質的豊かさは年々加速し、人間の忍耐力や思考力を脆弱化しています。人は全てのことを当たり前と思い、科学技術を盲信し、いつしか驕りという毒を飲まされ、自分の外にあるものに感謝の念が持てなくなり、素直な純粋な心を失い、今の瞬間の生の有り難さを享受できなくなっています。
スマホ・パソコン、テレビなどの電磁気製品の普及に人間の心身、脳は適応できず、人は心身のバランスを崩していることに気づいていません。見える情報、聞こえる情報に、いしつか操作され、思考力や想像力、忍耐力を培う場を失っています。
想像力と忍耐力と思考力の不足は人間関係を難しくします。
引きこもり・不登校は、環境適応できず、社会から逃走し、家という安心空間への回避した状態といってよいでしょう。
会社や学校で嫌な出来事に遭っても、それに対する反応は人それぞれです。みんなが、そこから回避するわけではありません。では、引きこもりや不登校者は、なぜ家という安心空間に回避したのでしょうか。その原因について考えることが大事です。そうすればその人独自の解決の道が見いだせるはずです。
本質的な原因の把握なしに学校・社会復帰させようとして、関係機関に相談し、子どもだけをなんとかしようとする無駄を繰り返しているのが現状です。的を外した対処に改善はありません。逆に悪化させ、ひきこもり・不登校を長期化させることになってしまいます。
親も子どももともに人間としての新たな学びが必要になります。学ぶことによって変化の波を知り、変化の中で生きる自分を知り、変化する環境と自分への適応力に気づくことができるからです。つまり人生が変化の連続なら、幸福に生きるためには大人になっても学び続けるしか変化に対応できないからです。
学校の学びは、学歴や社会的ステイタスを得ることが目標の知識偏重型になっています。社会で適応する力は、学校で学んだ知識は過去のものであり、多くは今の変化には太刀打ちできなくなっています。
「学べば学ぶほど、私は何も知らないことがわかる。自分が無知であると知れば知るほど
より一層 学びたくなる」(アインシュタイン)
当室では、心理教育を重視し、人体、心を知る、身体と心の相関性を知る、自然や宇宙と人間の関係を知る、社会を知る、人生を知ることを学びます。
そして、その人らしい個性を表現して輝いていける生き方を探究します。
具体的には心理検査等で本人独自の背景の理解に努めます。そして認知行動療法による行動活性化や認知の再構成、自他尊重の自己表現力の向上(アサーション)、マインドフルネス調和法(心身の統一・自己肯定・安心)を身につけながら、正しい知識と智慧の獲得を目指します。智慧とは生きる最善の対処法です。どんな環境下にあっても自分に負けず、生き抜く力です。
最終目標は、人として「一隅を照らす」生き方ができるようになることです。その言葉は、中村哲医師の生き方の指針でした。
アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされた中村哲医師のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らを省みず献身する母親もその一部)の一人だと思います。このような真の利他の振る舞いをする大人が増えれば、その国の民も心が潤い、自然や国土も潤い、災害も減少していくでしょう。
※中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」平安時代の人、最澄の言葉。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」
生きる、それは五感覚の働きに支えられています。中でも危険から身を守り、生を保つ行動に一番重きをなしているのが、視覚です。
私たちは記憶化された感覚情報をもとに反応し、多くの場合、思考することもなく刺激に応答して脳内で生起する言葉によって反応し生きています。
スマホ、パソコン、テレビに溢れる視聴覚情報を頼りに、思考という検閲もせず、盲信して生きています。便利であり、効率もよいからです。それが脳の働きの一面とも言われています。
テレビのコマーシャルはそうした人間の盲点を突き、ものを売っています。多くのテレビ番組やユーチューブは視聴率や再生回数に血道をあげます。刺激的で、記憶に残るように操作し、見る人の視聴覚に焼き付けようとします。
真実は二の次です。発信した視覚情報によって、人が不幸になろうと、悪に走ろうと関係ありません。視聴されることが大事であり、視聴覚に強い刺激を与え、視聴率をあげる、再生回数の多さが一番なのです。発信者の利益、つまり金儲けになるからです。
刺激的視聴覚情報は記憶に深く入り、次の行動を左右します。思考は停止し、過去の記憶化された視聴覚情報で無意識的判断をし行動するようになります。一種の自動操作状態です。洗脳状態とも言えます。
こうして無知な人は増産され、思考停止する人は増え、マスコミという得体の知れない権力の奴隷になっていきます。一種のプロガバンダのようなものです。日本人の大半は、スマホ依存、ユーチューブ依存、テレビ依存、視覚情報依存となり思考停止状態になり、洗脳されつつあります。その先に待っているのは、不幸な人生行路です。
人は悩み、思考し、より価値のある生き方をすることによって充実した深い人生を生きるようになります。多くの偉人が教えてくれているように、幸福は与えられるものではなく、自分で創り出すものなのです。
本物を探し、本物に学び、本物を摂りいれることです。過去にはそうした本物の偉人がたくさんいました。ソクラテス、アリストテレス、イエスキリスト、釈尊、竜樹・天親菩薩、天台智顗、最澄、老子、孔子、日蓮、レオナルド・ダビィンチ、ベルグソン、トルストイ、アインシュタイン、ニコラテスラ、ナイチンゲール、ヘレンケラー、野口英世、優れた文学・芸術作品など…歴史を紐解けば多くの偉人・賢人・書物や作品に出会えます。そこにはハウトウーものの軽薄(一時的流行品で、時間とともに消えていく)ものではなく、人生を賭け築いた心の宝が潜んで心の栄養になるでしょう。
マスコミで不登校の増加を騒ぐ前に、大人がしなければいけないことは、時代はいつも大人が中心になって作っていると言うことを自覚することです。不登校・引きこもりの減少を本当に願うなら、今の社会を深く洞察することです。今の社会や学校が子どもの心を成長する場になっているかどうかです。子どもの成長に貢献する教育や学校や社会になっているのか、専門家や政治家は深く賢い知見で、自らの私利私欲を見つめ世相を見極めることです。
不登校児の心理と大人の引きこもり、適応障害などの心の不調者には共通点があります。私たち人間は、環境の中で生を営んでいます。環境と自分は相互に影響し合い、持ちつ持たれつの相互関係で保たれています。私たちが、今どんな環境に生きているのかを知ることで、心の不調を健康にすることができるようになります。不登校の心理は、大人の心の不調者の心理と同じといってもよいと思います。同じ社会環境に生きていれば当然と言えば当然なのですが…。
最近の調査によると、精神疾患者は419万人、ひきこもり者は146万人、不登校者は年々増加し小中で約34万人、小中発達障害8,8%(令和4年文科省調査)。少子化にもかかわらず、若者の精神疾患者は増え、引きこもりは増加、不登校も増加の一途をたどっています。
これは身体の病気も同じです。癌患者は2人に1人であり、認知症は高齢者の4人に1人、アトピー患者、アレルギー患者、糖尿病、各種難病等は年々、増加しています。感染症はウイルスや菌がもたらす一時的な疾病ですが、その他の身体病は、本人の生き方や社会環境と大きな関連があります。
今や、癌やうつなどは生活習慣病などと言われるようになりました。つまり本人の生き方、考え方、行動の仕方が病気を作っといるとする考え方です。
一体、何が原因なのでしょうか。
健全な社会は、心の不調者を出さない予防に力を入れた、健康社会を目指すものです。政治家は、口を開けば「経済、経済」そして「福祉」です。あたかも経済が豊かになり、お金があれば、心の病も解消でき、健康な社会が到来するような口調です。このような政治家や専門家に、疑いを持つこともなく従う国民が、病を増産させている一因と思います。
二つ目の原因は軽薄、表面的なもうけ主義に偏った無責任な情報の氾濫です。そうした情報は何の規制もなく一方的に流布されます。受け取る側が、よほど賢く見極めなければ情報に翻弄されます。情報の真偽が分からず刺激的な情報に踊らされ、洗脳されています。視・聴覚優位な生き方にさせられ、気付かないうちに想像力や思考力は低下していきます。
なかんずく、テレビやスマホは人間の最も弱点ともいえる視覚に訴え、巧みに人間を操作します。人間は視覚情報に本能的に弱く敏感に反応しますから思考が麻痺する部分があります。怖いのは、操作されていることすら感じないことです。情報を受動的に受信することに慣れ、疑うことをやめることは、思考の死につながります。それに気づいていないことが一番の問題なのです。
スマホ・ユーチューブから繰りだされる視覚情報の洪水は、感覚過敏をもたらし、強いストレス源になっていることに気づいていません。それらの氾濫情報は私たちの感覚受容力をはるかに超え、強いストレス状態に置かれていることを私たちは意識できていません。なぜ、すぐイライラするのか、不満になるのか、傷つくのかわかっていません。まさかスマホ・パソコン・テレビなどの過剰な視覚聴覚情報の摂取に原因があるとは思いもよらないと思います。
三つ目は快楽・刹那主義、便利こそ豊かさという欲望の偏向や錯覚です。気持ちよさを求めれば求めるほど、不快に耐えられなくなります。便利さに慣れればなれるほど、不便に対して不満を感じるようになります。便利さが普通になると、この世の自然の現象や生きていることの「有りがたさ」が分からなくなり、心身の秩序を知らず知らずに失い、心の不調の原因を作ることになります。便利さは、当たり前感覚を強め、少しの不便に出会うとイライラしたり、不満を感じたり、怒ったりして、心の状態を悪くしていきます。
便利さや物質的豊かさの過度の追究は、恐ろしいことに自然の加工や破壊をもたらし、病める地球を作り出しています。自然や地球秩序の破壊は、地上に住む生物、人間の心身の秩序の破壊を伴います。なぜなら人間も自然の一部だからです。地球自然との絶妙な調和、秩序の中で人間も、その恩恵を受けて生きているからです。自然や地球や宇宙の恩恵さえ感じない人間の当たり前と思う心が、人間の不幸の源泉かもしれません。
依存心の強さが専門家を信じさせ、確かめることもしない愚かさが、心の不調者を増加させている最大の原因ではないでしょうか。真実に対する無知は不幸の原因です。賢くならなければだまされていることすら気づかず、いつしか不幸に沈むことになります。私たち一人一人が賢くなることこそが重要です。ギリシヤの哲学者ソクラテスの「無知の知…正しいことを何も知っていないということを知りなさい」「汝自身を知れ…本当のあなたの素晴らしさを知れ」という言葉を今こそかみしめるときです。
何も考えず 権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である アインシュタイン博士