回答
長くなりますが、私の最近の実践から得た思索をもとに説明致します。
最近の調査によると、精神疾患者は419万人、ひきこもり者は146万人、不登校者は年々増加し小中で24万人超(令和3年度調査)、小中発達障害8,8%(令和4年文科省調査)。少子化にもかかわらず、若者の精神疾患者は増え、引きこもりは増加、不登校も増加の一途をたどっています。一体、何が原因でこのような日本社会になっているのでしょうか。
健全な社会は、精神疾患者や不調者を出さない予防に力を入れた、心の健康社会を目指すものです。政治家は、口を開けば「経済、経済」そして「福祉」です。あたかも経済が豊かになり、お金があれば、そして「高齢者福祉」に力を入れれば、心の病も解消でき、健康な社会が到来するような口調です。しかし人間観や思想そして哲学の低い政治家や専門家(なぜ低いのかというと、自分の利益や名声が第一で国民は二の次と考えているから)と彼らに疑うこともなく盲従する国民が、現代社会の心の病を増産させている第一原因と私は思っています。
二つ目は軽薄、表面的な「売らんがための・儲け主義」に偏向した無責任な情報の垂れ流しです。そうした情報は何の規制もなく一方的に拡散されます。受け取る側が、よほど賢く見極めなければ情報に翻弄されてしまいます。現代人は、情報の真偽が分からず刺激的な情報に踊らされ、洗脳されています。視・聴覚優位な生き方にさせられ、想像力や思考力は低下しています。マインドコントールは何もカルト宗教(オウムや統一教会など)だけの専売特許ではありません。現代ではマスコミ(テレビ、週刊誌、ユーチューブなど) こそ、プロバガンダあり、人間の欲望や弱みに心理的に巧みに侵入し甘く語らって人の心を骨抜きにしている元凶かもしれません。
なかんずく、テレビやスマホは人間の最も弱点ともいえる視覚に訴え、巧みに人間をマインドコントロールしていると言えます。人間は視覚情報に本能的に弱く敏感に反応しますから思考が麻痺する部分があります。怖いのは、コントロールされていることすら感じないことです。情報を受動的に受信することに慣れ、疑うことをやめることは、思考の死につながります。それに気づいていないことが一番の問題なのです。以前「トイレットペーパーがなくなる」「マスクがなくなる」と報道されたとき、国民の多くが、雪崩を打ったように店に集中し、一時パニック状態になりました。冷静に真偽も確かめずに…。
「何も考えず、権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である」とはアインシュタインの言葉です。
三つ目は快楽・刹那主義、便利こそ豊かさという欲望の偏向や錯覚です。気持ちよさを求めれば求めるほど、不快に耐えられなくなります。便利さに慣れればなれるほど、不便に対して不満を感じるようになります。便利さが普通になると、この世の自然の現象や生きていることの「有りがたさ」が分からなくなり、心身の秩序を知らず知らずに失い、心の不調の原因を作ることになります。
便利さや物質的豊かさの過度の追究は、恐ろしいことに自然の加工や破壊をもたらし、病める地球を作り出しています。そのサインは、温暖化や異常気候や災害、最近では線状降水帯現象などになっています。自然や地球秩序の破壊は、地上に住む生物、人間の心身の秩序の破壊を伴います。なぜなら人間も自然の一部だからです。地球自然との絶妙な調和、神がかり的な秩序の中で人間も、その恩恵を受けて生きているからです。自然や地球や宇宙の恩恵さえ感じない人間の傲慢さ(当然のことと思っていること)が人間の不幸の源泉かもしれませんね。
ほんの一例ですが、私たちは酸素なしでは10分も生きることができません。もし地上の酸素が減少すればどうなるのでしょうか。酸素は植物や海の海藻、プランクトンが多大に作ってくれていますが、人間がそれらの植物を勝手に操作し続ければ、地上の酸素にも影響を与えることになるでしょう。
この影響は心身の病となって表れてくるのは当然の結果です。もしこのようなことがわからないということであれば、思考が曇り、欲望で心が濁っている証拠なのです。純粋な清らかな生命の働きを持たなければ物事の本質は見えないからです。
一面から言えば不快や不満や嫌なことに対する耐性の低くさから、心の不調は起きているのです。つまり人間や自然の生命現象・働きに対する無知(部分を全体と思い込む偏った思考)と偏った欲望への執心から心身の不健康は起きているのです。
最後は、専門家(精神科医)と製薬会社とマスコミが作り出す精神疾患(うつ、そううつ、発達障害など)の増産です。詳しく知りたい方は次の書物を読むとよいと思います。「ブラック精神医療」「発達障害のウソ」(いずれも、米田倫康著、扶桑社新書)「精神科臨床はどこへいく」(こころの科学、井原裕編、日本評論社)」「心の科学164、誤診」(日本評論社)「精神科は今日も、やりたい放題」(内海 聡著・三五館刊)
真実はいつも煙たがれ闇に葬られます。ガリレイは地球は回っているという真実を訴え、裁判に欠けられ死刑になりました。当時の大多数の人間は教会の天動説が生み出した常識を信じていたからです。現代から見れば非常識で、非科学的なものですが…。つまり、ガリレオは当時の無知な民衆とキリスト信教者によって死刑されたといってもよいでしょう。いつの時代も多数を占める無知の人間群が少数の真実派を迫害し、闇に葬ってしまうのです。そして知らず知らずの間に社会は、思想の毒(表面的にはきらびやかな薬が広がり)に染まり、社会に不幸は蔓延していくのです。
依存の心の強さが専門家を信じさせ、確かめることもしない愚かさが、精神疾患増産の最大の原因と私は思っています。真実に対する無知・愚かさは不幸の大きな原因です。賢くならなければだまされていることすら気づかず、いつしか不幸に沈むことになります。私たち一人一人が賢くなることこそが重要なことなのです。ギリシヤの大哲学者ソクラテスの「無知の知」「汝自身を知れ」という言葉が、私の心の中にこだまします。
回答
カウンセリングと心理療法を同じように理解している人が多いようですが、全く別のものです。
カウンセリングは相談という意味です。心理相談、進路相談、結婚相談、家族の相談、化粧品の相談など、話を聴いて何かアドバイスをするというぐらいの意味です。ですから、心理カウンセリングが心理状態の本格的な解決を目指すというものではありません。
一方、心理療法は、認知療法、認知行動療法、森田療法など、症状を見立て、解決の手立てや方法を持ったものです。本格的な心理状態の回復を目指すものです。ですから、研究され、科学的な効果的な治療実績(エビデンス)が問われるものです。
現在、科学的効果実績の高いものとして、認知療法、行動療法、認知行動療法、対人関係療法などがあげられます。また、不安症・神経症(パニック障害、強迫観念)などには、森田療法が効果実績が高いと証明されています。また、遷延化(なかなか治らない)鬱には、マインドフルネス認知療法の効果が高くなっています。
精神科医の治療は、精神療法と言われています。そもそも精神科医の治療は心理療法が中心でした。精神科医が行う心理療法は精神療法と言われています。日本で生れて世界的に広まった森田正馬氏の森田療法はまさに心理療法そのものです。40年前までは、精神科では心理療法(精神療法)が中心でした。行動療法や認知療法は精神科医が治療で使っていました。現在でも、行動療法の第一人者は精神科医が大半です。
しかし、30年前ぐらいから、精神科クリニックが急増し、その数も現在の4倍以上になり、名前も「精神科」という名前を使わず、「心療内科」「心理クリニック」、最近では「ストレスケアクリニック」「メンタルクリニック」など、誰でも利用できる親しみやすい名称で個人開業が急増しています。
精神科という敷居の高さはなくなり、誰でも気軽に利用できるようになり、どの心理クリニックも、今では予約がとれず、3か月待ちが当たり前になっています。精神疾患者が増えたのか、情報社会の結果なのか。正しくは、マスコミ操作により精神疾患者が急増された結果です。そして、精神科での薬物治療で改善できず、患者が通院し続け、患者が溜まっているからです。
テレビコマーシャルで製薬会社が流した「うつは心の風邪」というものが、大ヒットし、多くの人が心理クリニックを利用するようになりました。次の流行は「発達障害…薬治療」でした。今は、「大人の発達障害」が大流行しています。すべてマスコミと専門家と製薬会社の連携プレーの結果です。
精神科医から心理療法はなくなり、薬物療法一辺倒になってしまいました。私も北九州市で心理療法をやっている精神科医の存在を知りません。そのクリニックで心理療法をやっている人がいるとしたら、雇われ臨床心理士か公認心理師です。利用者に聞くと、心理療法というより、心理カウンセリングといった色彩の強い感じを受けます。
なぜそうなったのか、理由は大きく二つあります。一つは、現在の精神科医は、大学で薬理学を中心に学び、心理療法はほとんど修得していないと言われています。だから、心理療法ができないといってよいでしょう。(「ブラック精神医療」米田倫康著を参考)もう一つは、心理療法は一回50分近く時間がかかります。採算がとれません。薬物療法であれば、5分から10分で面接が終わります。「5分間治療」と揶揄されていますが、それが現実です。実際に心理クリニックに行かれた方は納得できると思います。
ですから、現在の精神科医の治療は患者への薬の投与が中心になります。
以上のことを考えれば、あなたが、どこにいけばよいのか判断できるのではないでしょうか。
回答
この問いには、今のあらゆる科学も宗教も推定でしか答えられないと思います。なぜなら死者は語らないし、実際に死なないとわからないからです。 以下に、私が50年近く学んだ科学や思想・宗教をもとに、この「死・来世」の問題について考察してみます。説明が、かなり難しくなりますが…。
来世があるかどうかは、つまり今の意識が考えていることですから、その意識を解明することから始まります。今の最新科学は一つの細胞すら作れません。つまり生命については説明できないのです。せいぜい、細胞の構造や働きが限界のようです。
この問いの解答は西洋科学では解明できないと言われています。キリスト教は神のみが知る世界です。その問いに、直観智で肉迫したのが、東洋思想、なかんずくブッタの思想が一番ではないかと思っています。なぜならブッタの悟りとは、「今の生命に永遠(前世・現世・来世に続く生命の真実の相)を覚知した」と言われているからです。つまり、今、この瞬間の生命は永遠であると悟ったのです。
身体は滅びても生命の働きそのものは永遠に続いていくものだというエネルギー保存の考えに近いものです。これは、輪廻転生という考えではなく、個の生命の特性の連続性を教えているのです。つまり、あなたの我(真我)は、あなたのまま続くというのです。今、動物のように、本能のまま、弱肉強食的な生き方をして死ねば、その生命の個の継続は、来世は前世の生き方にもっと適した身体を選び、つまりこの場合は、動物として生まれてくるという生命思想です。
生命は三世に続くものですから、当然来世はあるという考えになります。それも個の生命の傾向、生命の働き、特性が継続するという考えです。人間らしい生き方をすれば再び人間に生まれてくるし、畜生(動物・昆虫など)の生き方をしていれば、来世は自らにふさわしい形の身体を選び、なんらかの畜生の種として生まれてくるというのです。ここには、厳しい生命の因果律があります。人の目はごまかせても、自分の生命は、生き方は因果として刻印され、誤魔化せないという考えです。
人間は意識して自分を高めたり、精神的に向上することができます。つまりこの地上の生命種の中で人間だけが自分を成長させることができます。動物は、それができません。本能のまま生きるのが精一杯です。しかも、強いものに呑まれ、食べられるという強烈な恐怖に晒されたうえ、強いものに食べられ、殺されるという「残害の苦」を味わうとされています。
あたかも、今の人間が多くの牛、豚、鶏、魚を殺しているように…。彼らは殺される前には、「残害の苦」という殺される恐怖におののいているのです。ですから、過去の仏教修行者は肉食をしなかったのです。この思想に照らせば、現代人の罪は計り知れないものがあるようです。
意識で自分を高め、変えていける人間の生命形態こそ地球上では最高の生命なのです。私たちが人間の生命を保っているということは、最高の宝を持っていることと言えます。「無上の宝珠 不求自得…むじょうのほうじゅ ふぐじとく」(無上の宝、この上ない宝を求めていないにもかかわらず、自然と自分に具わっているというブッタの教えです)
死ぬことを考えることは横において、ひとまず生き抜いて自らの宝を活かしたり、使ったりすることを考えたほうが価値的だと思いますが、どうでしょうか…。
(質問者)
今、19歳です。今年から専門学校に入学しましたが、何をしてもうまくいきません。友だちもできません。勉強もおもしろくありません。めんどくさくなり、やっていることをすぐに、あきらめてしまいます。自分のメンタルの弱さが嫌になります。ネットで調べて、メンタルトレーニングをやってみましたが、うまくいきません。どうすればメンタルを強くすることができますか?
何かよい方法があれば教えてください。
(回答者)
あなたは、メンタルと言う言葉を使っていますが、そもそもメンタルとはどういう意味なのでしょうか。
心や心理を表現する英語の訳語に「メンタル」のほか、「マインド」や「セルフ」などの言葉がありますが、それらの違いを理解されているでしょうか。言葉は人間の共通の記号ですが、その指している本来の事物や状態は何なのでしょうか…、それがつかめていなければ、正しい対応はできません。あなたの言う「メンタル」とはどういう意味なのでしょうか。
(質問者)
意味を真剣に考えたことは一度もありません。ただみんなが使っているような「メンタルが弱い」=「心が弱い」といった程度の意味にとっていました。それが何か問題になるでしょうか。
(回答者)
ものごと、できごとで大事なことは、因果関係であり、道理です。また、言葉の表面的な意味ではなく、言葉で表現できないものごとに迫ることです。メンタルは心理状態を指す言葉ですが、その心理とは、心とはということが分からなければ、対応はすべて表面的、皮相的になります。あなたは、まず、自分の心理、もっといえば、「心」を知ることに努めなければなりません。心に関する正しい知識を学ぶことから始まります。まず、自分の心とは何か、生命とは何かに対する謙虚な学びから始めることだと思います。
(質問者)
どのようにして、それを学べばよいのでしょうか。書物ですか、それとも専門的な人から学べばよいのでしょうか。そちらで、そのようなことは教えてくれるのでしょうか。
(回答者)
私は、大学入る前の浪人時代から、哲学者のプラントンの「イディア」(ものの真理)という言葉の指す意味を思索し続けていました。その探索は、やがて生命や心に関するあらゆる書物を読むことにつながっていき、ヨーガをする人、キリスト者や法華経実践者、東洋哲学や西洋哲学、あらゆる思想、心理学を今日まで学んできました。今も学び続けています。そうしたものから私なりに得たものを一緒に学ぶということであれば、いつでも訪ねて来てください。
私たち人間は、病気になったとき治そうとして医師を頼ります。野生の動物はどうでしょうか。もちろん病院には行きません。多くの病気を自然に治しています。(感染症や外傷は別です)自然に治す方法を知っているからです。その意味では、動物は自分が主治医であると言えます。
動物の治療薬は何なのでしょうか。それは動物自らが本然的に持つ「自然治癒力」「免疫力」です。それが最大限に働くように動物は自分の身を処します。洞穴で休んだり、草を食べたり、食べることを止めたり、水で体を洗ったりなど体のサインに応じて対処しているのです。それによって自然治癒力は最大限に働きます。動物は本然的に、自然の秩序と体内の秩序のバランスの取り方を知っています。バランス、調和、秩序が戻れば病気状態が回復することを知っっているからです。
動物は自らが医師となり自分の大半の病気を自然に治しています。人間も生物学的には動物と同じです。同じように自分の病気を自分で治せます。特に生活習慣に関するものの大半は自力で治せるのです。なぜなら、生活習慣を作ったのは自分だからです。もちろん感染症や出血多量の外傷事故などは別です。これは専門家(医師)の援助がなければ、元にもどすことは自力では困難ですが、感染症や事故を予防したりすることも、その人の生活習慣、生き方によります。
自分の心身をよく知ることです。自分の生きているという不思議に気づき、生命活動の奇跡を実感することです。自分を観察し、自分の心身のサインに敏感になることです。人間の身体は比喩的に言えば、偉大な優れた薬の宝庫であり、あらゆる優秀な名医の集まりなのです。それがうまく使えるかどうかは私たち次第なのです。それを教えてくれるの人こそが、本物の生命の覚者と私は思っています。
私は人生で多くの失敗をしてきました。その一つが二度の不登校経験です。一回目の不登校は、小学校時代でした。
3年生から5年生の終わりまで、一日も登校していません。学校に行かず、川、山、畑、野原、村、街、市場、海など何かありそうなところを毎日のように兄弟で放浪していました。食べ物と遊び場を求めて。
私の母親は6歳で亡くなりました。残された父親と6人の兄弟での生活が始まりました。母親が死んだとき、長男小3、次男小2、私は三男で小1、四男の弟5歳、妹は3歳、2歳。父親は大工で、毎日のように酒を飲み、家に寄り付かず、今で言えば、子どもの養育放棄でした。家には食べ物が徐々になくなっていきました。布団も破れ、やがてなくなりました。火も電気もやがてなくなりました。残ったのは、ぼろぼろの夜は真っ暗になる家だけでした。服も夏冬兼用のぼろぼろ、靴は劣化し破れ、履けなくなるとと裸足で歩いていました。いつも下を見て歩いていました。5円や10円玉が落ちていないかと探しながら…。
私たち兄弟は、「汚い」とか「ほいとの子」(乞食の子という意味)と、地域の人に罵られ、バカにされるようになっていたのです。それは、とても嫌なことで、心は傷付きましたが、どうすることもできませんでした。大人の人間の心に敏感になり、心が優しい人の見わけがつくようになったのも、そのころからです。
家は、いつしか不良中学生数名が自由に出入りするたまり場になり、荒らされました。保護者の父親が家に帰ってこないからです。不良中学生は私たち兄弟を、使い走りにしたり、遊びのおもちゃにしたり、奴隷のように扱い、ひどい虐待や暴力を振るい、「学校に行くな」と命令され、何日も休むことを強制したのです。それがきっかけで、長い不登校生活が始まりました。不登校が 3年を経過したころ、地域の人たちの働きかけで、私たち男兄弟は、養護施設に収容されました。私は、そこで、よい保母さんや、信頼できる中学校の担任の先生に出会い、勉強や読書の楽しさに目を開いていきました。その勉強法や読書が、生涯の基礎になり、後年の自学・独学を可能にしてくれました。
二回目の不登校は、高校2年のときです。70日間の不登校生活の結果、中退を余儀なくされたことです。当時バイクの好きな友達と学校を休み、あらゆるところを暴走していました。中退後は家を追い出され、単身で東京に出て、牛乳配達をしながら、定時制高校に編入しました。そこで、素晴らしい人生の先輩に出会い、哲学や本当の学問とは何かを啓蒙されたのです。生き方が変ったのは、その時からです。
人生は面白いものです。そんな私が中学教師になり、生徒指導担当になったりしました。不登校、退学、非行少年が、中学校の生徒指導教師になるなんて、夢にも思っていませんでした。教員離職後は臨床心理士・公認心理師資格を活かし、心理カウンセラーの仕事をさせてもらい、不登校児童生徒や問題を持つ人たちにかかわっています。人生は本当に不思議なものですね。
「人生塞翁が馬」ともいえます。(松岡敏勝著「失敗もいいものだよ」自伝的小説 文芸社に詳細記載 )
今日まで多くの失敗をしてきましたが、その中でも20年近く私が苦しめられた失敗体験を以下に述べてみます。
多くの人の不幸は一面から言えば、無知から起きていると言えます。その一つが、専門家ということで、確かめもせず盲信してしまうことです。特に怖いのは、命にかかわる専門家…医師への盲信です。全ての医師が正しい診断をし、正しい処方をしていると思ったら痛い目にあうことになります。
私はかつて、運動中に足首を傷め7度の手術をした経験があります。最初の診断をした整形外科の町医者は私に対して「たいしたことはありません。普段通り運動してもいいですよ」と言いました。それで、単純な私は、専門家の医師が間違えるはずはないと信じ、言われた通り運動を続けていたら、足首は大きく腫れ徐々に歩行困難になっていきました。
その間、整骨院などで数カ所の診療所で治療を受けましたが、悪化するばかりでした。そこで九州で有名な整形外科をもつ大病院で診察をしてもらいました。すると、そこの整形外科医は『治療法はありません。やがて歩けなくなるでしょう』との絶望的な言葉を私に投げかけのです。私は、有名な病院の医師の言葉だから正しいのだろうとその見立てを受け入れ、その医師の言葉の暗示にかかったように、やがて本当に歩けなくなり、松葉杖生活になってしまいました。「仕事ができない、経済的に家族を養なっていけなくなる」という人生の大きな危機に瀕し地獄を彷徨う日々が続きました。初診の町医者の誤診に始まり、次の医師の見立てと処置の悪さが重なり、脚の痛み、歩行困難という苦しみは既に10年近くになっていました。
医師は医師免許を持った専門家だから間違いないと思っていた私の安易な盲信に近い考えは間違いであると、その時に気づいたのですが、既に時遅しでした。人は失敗から一番多くを学ぶと言いますが、その通りでした。医師の診察、診断が人生を大きく変えてしまうことを骨身に染みて知った辛く苦しい経験でした。
苦しむのはいつも患者であり、診察診断した医者は、誤診であったとしても、責任をとることもありません。不幸に泣くのは患者なのです。だからこそ愚かであってはならないのです。賢明さが必要なのです。
話は戻りますが、当時の私は「藁をもすがる思い」で必死に、いろんな人に聞いて回り、情報を集めました。生き続けなければならなかったからです。特に家族を守るために、治療をしてくれる医師を探し回りました。ある人の紹介で、整形の名医に出会い診断してもらったところ、「大丈夫、歩けるようになりますと関節固定術」を勧められました。名医と評判の医師でしたが、途中誤診もありました。患者の私の症状の報告と申し出を受け入れてくれ結果、MRIでの撮影が正確な診断に結びつき、間違った手術を回避することができたのです。最終的には、その医師の六度の手術で痛みなく歩けるようになりました。
20年間苦しんだ、歩行に伴う痛みはなくなりました。走ったり、膝を深く曲げたりはできませんが、運動は50%できる状態に戻りました。痛みなく歩けることの素晴らしさを感謝できるようになりました。この足に対する長年の苦悩が私の身体に対する傲慢さを少し浄化してくれたようです。
この時私が知ったことは、患者も医師であるということでした。私こそが脚の痛み、痛みと全身の関係などの症状を熟知していたからです。その報告を参考にしてくれた整形の医師こそ名医たる所以であったと私は思っています。患者に学べる謙虚さを持った医師こそ、名医の条件の一つではないでしょうか。
外科や内科にはレントゲンやMRIなどの最先端の科学的な武器があり、さらに各種の検査があります。それでも誤診は少なくないと言われています。
心の不可思議な世界を扱う精神科には最先端の科学的な武器は何一つないのです。どのように診断するのでしょうか。ある著名な医科学の大家は「心理的な事柄の多くが科学的に解明されていない以上、診断することに無理がある。似たような症状群に対処するしかない」という趣旨のことを述べています。つまり心理的原因は分かっていないのです。わかっているのは患者の症状だけなのです。
医師の評価は、最終的に実際に何人の患者を治したかで決まります。病院設備がきれいとか、評判がよいとか、○○大医学部出身、専門指定医とか、博士号とか外国留学の経験とか、著名な人に師事していたとか、ホームページや宣伝がいいとか、口コミにいいことを書いているとか、別問題です。大事なのは優れた技術を持ち、見立ての正確さがあり、現実に何人の人を治したのか、それが全てです。
これは、心理士やカウンセラーも同じであり、すべての専門家に当てはまる真実だと私は思っています。
日本人は昔から権威(専門家)に弱く、権威(専門家)に盲信する傾向を持っています。「お上の言うことは絶対」などと。そうした風土の中で生きているからこそ、権威や専門家を正確に見る目を養わないと私のように苦しむことになります。
専門家を盲信せず、自分の目で確かめ、丁寧に吟味し学ぶ賢明さが必要です。最終的に苦しむのは患者なのですから。
私たちは常日頃、生きているということを実感しないまま、無意識に習慣的に惰性で行動しています。
私たちが意識しなくても、体の99%の機能は自動操作状態で、無意識で動いています。脳の活動、呼吸、各神経機能、血液の全身の循環、内臓の消化、吸収、代謝活動など、意識していませんが人の生を保つために、一瞬も休む間もなく活動しているのです。
しかも絶妙に調和され、秩序を保っています。そうした身体の不思議な働きに対して、当たり前のように思い、不可思議な働きに対して敬虔な心を忘れて生きていることから多くの不調和状態が生まれています。心身の病の大半は、不調和状態の産物なのです。私たちが意識しているのは、生命活動の一部にすぎないにも関わらず、全体を見ることもなく、意識という一部で突っ走り、バランスを無視したような行動になっており、そこから多くの病も起きていると言えます。
健康状態は、自己の全体につながり、調和のとれた意識活動から創り出されます。心身の健康は、自らの本当の在り方を知ることから始まります。
人は昔から一人では生きることができない生き物です。拠り所となる集団に所属することで身を保ち、安心を得ることができます。それは集団が命を守ってくれるということを本能的に知っているからです。その場は家庭であり親です。無条件の愛情と言う保護があり、世界で最も安心できる場であり、安全基地なのです。
今の子どは、早ければ1歳前から、幼稚園や保育園に行かされる子もいます。そうした外の集団は、もともと自分の身を安全に守れる場ではありません。子どもなりに、無意識の中で目に見えない多くの脅威に対しての戦いをしています。意識をこえた心身全体をかけた戦いで、神経を使っています。具体的には脅威に対して自律神経系の反応による『逃走か闘争』によって対処しようとしています。それは身を守り生き続けるため本能的な自然の働きです。それはかなりのエネルギーを必要とします。学校や会社の中で安定を保つことに、意識、無意識を含めた人の持つ総合的な力が使われているのです。
うまく対処できると軌道に乗ったように、習慣の力(無意識的な力)で集団になじむ(適応する)ことができるようになります。しかし新たな脅威を感じること(いじめ、仲間はずしなど)が起きると、再び大きなエネルギーを使い、『逃走か闘争」かの選択の戦いが始まります。
引きこもりや不登校は、闘争にエネルギーを消耗させ、『逃走』という自分を守るための生き残るための行動であり選択の結果なのです。
では、その打開法はあるのでしょうか。
もちろんあります。人間は可変性に富み、変化成長する種子を心の奥底に持っているからです。その打開の道は、人間の感情と行動の関係、心のありよう全体を知ることから始まります。つまり自分の本来の姿を知ることで解決できるようになります。本来の自分には想像もできない力があり、行き詰まりはありません。その力を引き出すことができれば、どんな場や環境に対しても対処していく力や勇気や智慧が出てきます。
私の定義ですが、セルフとは意識する自我を含めた無意識に広がる自己のことです。換言すれば真実我とも本質我とも宇宙我とも表現できるものです。その自己(セルフ)を感じるとき、またはその自己にアクセスできるとき、癒し、勇気、智慧がふつふつと湧きあがり、あらゆる困難も乗り越えていくことができるようになります。人間の持つ潜在力は素晴らしいものがあるのです。
今やこどもから大人まで多くの人が不安を病んでいると言われています。10人に1人は不安障害といってよいかもしれません。なぜ、現代人は不安を増大させているのでしょうか。
それは、意識という概念が分かっていないことから起きています。近代哲学の祖といわれるデカルトは「我思う故にわれあり」と人間存在の認識を意識している自己にあるとしました。しかし、その意識の実態は科学で検証されず、曖昧なままなのです。
意識する自己を把握するには、内省の哲学が必要になります。しかし、現代人の目は外に向き、心を見ようしていません。内面の心の働きを省察せず、外の心地よい刺激を追いかけ続けています。おいしい食べ物、気に入った服や靴やカバンやアクセサリー、心地よい暮らし、好きな異性、車、家など。楽しめるスマホ、テレビ、ゲーム、推しやお気に入り。一日の苦しみを忘れさせるお酒など。目を内に向ける暇などないようです。心地よさの追求と不安の増大は比例しているようです。
人間は、意識と意識できていないが存在している働きがあり、多くは無意識的存在に支えられているのです。意識と無意識の相互関係を知ることが不安の解明につながります。
意識していることが私たちの全体ではなく、一部に過ぎないことが分かれば、不安は軽減していきます。それは哲学的実践で可能になります。