すぐに心療内科・精神科に行くのは控えたほうがよい
心の不調、不登校・ひきこもり状態になったとき、本人の心と向き合おうとせず、すぐに精神科や心療内科に連れていくのは考えものです。その行為は、結果的に、多くの場合、症状を長引かせたリ、悪化させたりしてしまいます。芝蘭の室を訪れる長期不登校・ひきこもり者は心療内科にかかったものがほとんどあり、それも数カ所を巡った人もいます。ほとんどの人が、改善せず、逆に悪化させて、芝蘭の室に来所しています。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。
不登校、ひきこもりは 現代社会が作りだしたものであり 環境不適応状態に過ぎない
一言で言えば、不登校、引きこもりはの大多数は、時代の産物であり、現代社会が作ったものであり、病気でも何でもありません。環境適応能力の問題です。わたしが子ども時代には、今のような不登校は一人もいませんでした。学年に1名程度、家の手伝いのため学校に行けなかったり、身体の病気治療・入院のために行けないというのが理由でした。現在の不登校の理由は、全く異なっています。人間は変化する社会や時代の影響を受けるのは当たり前のことです。ですから、脳の神経伝達物質を標的にする精神病薬では、心の問題を解決することは困難であり、本質的な対処にはなりません。解熱剤ぐらいの一時的効能はあるかもしれませんが、あくまでも一時的であり、本質解決をもたらしてくれるものではありません。逆に服薬することで、依存性を高めたり、副作用による身体の不調を招いたりして、結果、不登校状態を長引かせるばかりか、二次的な症状すら産み出す結果になってしまいます。彼らの心と向き合っていないための当然の結果と言えます。
年々増加する 不登校とひこもり‥その背景にあるもの‥
不登校・ひきこもり状態にある人の多くは、心の不安定感(過度のストレス)に耐えられず、家という安心領域・癒しの空間に回避した状態です。そのこころは、人や場に対する恐怖や不安、行為の後に訪れる嫌悪感や恥ずかしさなどの不快や自責の念です。人は本能的に不快を避けます。不快への過敏感覚はストレスとなり重なると、心身の不安定を招きます。不快を避けるのは、生きるための生物・人の大事な保身行為の一つだからです。その背景要因を、さらに詳しくみてみましょう。
便利・物質的豊かな社会が 忍耐力の不足を招き 心を弱くしていく
日本は世界でも有数な安全平和社会であり物質的に豊かな便利社会です。それなのに、なぜ社会不安障害、適応障害、うつ、ひきこもり・不登校などの心の不調者が増加するのでしょうか。
物質的豊かさの追求とその享受、便利社会の恩恵に反比例しているのが、心の豊かさの喪失現象です。便利さや不自由のない生活は、生きていく上での大事な忍耐する力の養成の場を奪っていく面があります。つまり、心は貧しく、乏しく脆弱になっていくということです。「忍耐こそ大成の礎」という言葉は深い意味があります。
快適を求めるのは 生きるための本能の働き…
人は生きるため快適さを欲し、安全を求めます。これはあらゆる生物、動物の持つ本能です。人も動物の一種です。本能とは本来的に持つ悩・神経の働きです。1万メートルの上空をすいすい飛ぶ鳥、神業です。また水圧に抗して生きる深海魚、神秘としかいいようがありません。
人も、どんな動物にも負けていない不思議な本来的な生き抜く身体を持っています。一例をあげれば、人は生き抜くために、空腹を感じる働きをもっています。空腹感がなければ、人は食べることをしなくなるでしょう。また舌の味覚がうまさを感じなければ、食べものを求めなくなるかもしれません。空腹感も味覚も人に具わっている不思議な生き抜くための悩・神経・心の働きなのです。
不快・嫌悪を避けるところに 引きこもりが生れる
人が他の動物と異なるのは、二本足で歩行ができ、手が使えること、大脳皮質が発達し言葉が使え、記憶をもとに思考できる働きを持っていることです。
人は生きるために不快を避けます。恐怖を避け安心を求めます。つまり好きか嫌いかという感覚が生きるために最初に反応します。それは人間の行動原理の第一法則です。誰人も、この法則に則って生きています。社会的な犯罪を犯す人の大半は、本能から生起する欲を制御できないために起きています。
苦しみは 欲求がうまく通らない結果の不快反応
今の苦しみや楽しみは、人の五感(目・耳・舌・鼻・身)に発した生きるための欲求の結果です。欲求が満たされれば快感覚を味わえます。うまくいかないと不快感覚に支配され、怒りや嫌悪、恐れなどが記憶されていきます。不登校・引きこもり状態にある人は、不快感覚がもたらした恐怖や嫌悪というストレス状態の一つの解決策として家に籠った状態です。
不登校・引きこもり 対処を間違えると 本当の病気になる
自らの欲求の中身を知り、その調律の仕方を知ることが心の不調(不登校・ひきこもり・不適応)を改善する要諦になります。不登校・引きこもり・不適応が長くなれば、抑うつ症状、対人恐怖症が出るのは普通の心理現象であり、病気でも何でもありません。対応や処置を誤ると、さらに不調状態を長引かせ、本当の心の病(抑うつや対人恐怖症)になってしまいます。
安易に薬に頼るのは自立心を損なっていく
安易に薬に頼るのは、危険なことです。もともと依存心が強くなっているところに、薬に頼れば、結果として自立心が損なわれてしまうからです。心のことがよくわかっていない、専門家まがいの人が、心の病を悪化させることはよくある話です。自らの心を明るい鏡に映せば、真実が見えてきます。
快を求めすぎると 心身の不調を招き 痛みや苦しみを感じるようになっていく
人の生き抜くため行動に潜む「癡・おろかさ」について述べてみましょう。
痴…おろかとも表記します。知が病んでいる状態、間違った知識というのが言葉の意味です。ものごと、人間、自然の法、因果や道理がわからず、目先の感覚的欲求に抗しきれなく行動する心的状態です。
「飛んで火に入る夏の虫」暗闇の光を求め、火に入り、焼け死んでいく虫たち。このようなことは人間社会にもたくさんあります。お金のため、有名校に入るために大事な人の心・情緒を失うのも愚かさ、好きなものを食べ過ぎたり、飲み過ぎたりして病気になるのも愚かさ、専門家の誤った知識に騙されるのも愚かさ、人を傷つけることも、殺し合うのも愚かさが原因です。
すべて生き抜くために自分を守るための行動が発端になっています。生物・人間の本質は自己中心です。自己中心を発動させないと生き残れないからです。しかし、自己中心性だけに生きると、弱肉強食(争い・戦争など)世界に生きる他の生物や動物と同じレベルになってしまいます。人間と動物の違い‥それは他者への思い遣りという想像力を働かせた心の働きです。自己中心性を克服する鍵は、人の情緒の働き、優れた想像力にあります。
病気の多くは、正しい知識不足 道理がわかっていないことが原因
病気や不調の多くは、正しい知識の不足、道理や因果が分からないことから生じています。正しい知識や情報を身につけることが病気を予防します。「知は力なり」(フランシス・ベーコンの名言)は真実を穿(うが)っています。
病の治療を重視する日本の医療界は、既に後手に回っています。真の文明・文化国は、病気にならないための予防に重点を置き、健康維持に先手を打ちます。病気になってからは、すべてが遅くなり、回復までの手立ても数倍かかります。結果、心療内科の予約が三か月待ちになる現象が起こります。
軽薄情報の氾濫が 人の快適さや楽しさを増長させ 病を増産させている
世の中、偽りの情報、利己的金儲けのための巧みな情報、偽善に満ちています。無知な人たちをだます似非専門家たち。視覚情報に弱い人間心理につけ込むコマーシャルやユーチューブ動画など。見抜くのは大変なことです。甘言で人の保身を増長しています。
この愚かさの病・痴病が現代人を覆っていると言えます。国民に本当の学びが少なく、表面的な浅い思想につかりきっているようです。拝金思想、刹那主義、コンビニ信者が先進国を席巻しています。
仮初(かりそめ)の平和に守られ、便利さに忍耐心を失い、人々は自らの生をよりよく保とうと快適情報にますます依存し、生きる力を弱め、脆弱性(ぜいじゃくせい)を強めています。
正しい知識の獲得がもたらす智慧が 正しい人生につながる
その結果、心の病はますます増産されていきます。生きること、身を守ることに潜む愚かさが原因と気づかずに…。それを乗り越える方法は、まず正しい知識を身につけ、正しい情報を見抜く智慧を培うことから始まります。
不確かな心を 明確化する意識の在り方
安心領域は、個人によってすべて異なります。個々の心的状態の把握なしに解決は難しくなります。心の在り方、感情と思考と行動の関連性、記憶と潜在意識など個人の反応のしかたを正しく知ることから、安心領域の拡大が可能になります。つまり自分の意識・心を、どこまで正しく明確に見ることができるかが全てなのです。
正しい知識に導いてくれる師・先生の存在が必要
そのためには、正しい師・先生が必要になります。正しい師とは、病める人を確実に改善し、その人の人生を高め、幸福の方向へ導くことができる人です。例を挙げれば、ブッダ・釈尊のように多くの人を現実的に救い、幸福の人生に導く人です。私利私欲なく無私の志を持って生きている人です。洞察眼を磨けば、自然もその一つであることがわかります。
偉人が遺した名言
宮本武蔵の名言「我以外、皆我師‥われいがい、みな、わがし」。ここで言う我(われ)は、人だけなく、すべての生命ある存在、万物を指しています。フランスの思想家ルソーは「自然に還れ」と叫びました。老子は「自然のままに生きよ』と言いました。含蓄に富む名言です。名言は、人を正しい方向に導いてくれる指標になります。
芝蘭の便り
喜びと安心、そして躍動し智慧にあふれた健康のリズムが、人の心の奥に流れていると、ブッタは弟子たちに語りました。
自然、生物、人、万物は リズムを奏でている
塵、花、木、川、海、山、生物、人間、地球、月、太陽、星々、銀河のすべてはリズムを奏でています。これは、量子物理学の発見であり、生命の不思議世界に接近しつつあると言われています。見えない心のリズムについては既に、2600年前にインドの釈尊・ブッタ(注1)によって直観知され、その真意を信解した正師たち(注2)に求道、研鑽され、発展を遂げてきました。
宇宙のあらゆる存在は周波数でかたちが決まり、それぞれが固有の振動を奏でています。天にも昇る喜びの周波もあれば、地の底に沈む苦しみのリズムもあります。動物も生物も、そのかたちに応じた周波数を出しています。人は通常は平穏なリズムを奏でています。それが人間のリズムの基本であるとブッタは言います。
人は 他の生命や自然のリズムに 振動・共鳴してしまう
生命の発するリズムは光の波のように四方八方の周囲に拡散されます。よい光や香りを放つ人もいれば、怒気や不愉快波を出す人や臭気を放つ人さえいます。目に見えない波ですが、周囲に広がります。いわゆる共鳴現象です。五感で感じられる共鳴と、感じられないものがあります。例えば、お腹の中の赤ちゃんが、母親の言葉を聞き、感情を受信しているようなものです。善も悪も共感・感染します。きれいな夕焼け空や朝焼けの振動、穏やかな言葉の持つリズム、癒される自然の波動、心惹かれるリズム、嫌な不協和音の攪乱波(かくらんは)など、すべての生命的存在は、心の境界(注3)に応じたリズムを奏でているとブッタは語りました。
生理的合わないの本当の意味
「あの人とは、生理的に合わない」は、その一つの例であり、その人の発するリズムを心身が受け入れられない反応です。しかし、それは固定化されたものではなく、こちらの心の境界が上がれば、生理的な回避反応も、受け入れられるようになり、その人に合わせることができるようになります。
自らの心の境界を高めることで、どんな人の波長にも適応できるようになる
また不登校・ひきこもる人の中には、人々の発する不愉快な波を避けるために安全空間に回避している人も少なくありません。他者や社会の持つ嫌な波を受け入れ、適応できるようになるためには、こちらの心の境界を高めるしかありません。心の境界が低いと周囲に振り回されますが、高くなると、逆に周囲・環境をリードすることができ、価値的に対処できるようなります。
善き人、善き言葉に触れると 善いリズムに目覚め 人格が高められていく
ブッタのような人格の香る人のそばにいると 共感現象により 心が浄化され、人間性の高みに引き上げられていきます。逆に朱に交われば赤くなるとのことわざのように、人間性の低い人のそばにいると、「類は類を呼ぶ」ように、そのリズムに感染し いつしか人格から悪臭を発するようになるかもしれません。人はその境界に即して振動し、波を出しているからです。人の心がわかることは大変な難事です。自分の心がわかっていないと、人の心も分からないからです。多くの人は本心を隠して生きています。心が澄んだ人は、他者のリズムを直感で感じとり、その人の本質を知ることができ、善き波動と悪しき波動の持ち主を見わけることができるようになります。人を見分ける基準は、その人の私欲私心(松下幸之助の言葉…私欲私心が会社をつぶす)の有無をみればわかります。人格者は清廉潔白であり、正義を行うことに正直な人です。
意識は光であり 粒子と波の二面性をもっている
意識とは何か、最新の脳科学も、またあらゆる科学をもってしても、意識を正確にとらえることはできていません。しかし、確実に言えることは、今、このように読んだりしていることは意識の働きよるということです。つまり意識は言語道断(言葉では説明できないもの)の世界のリズムです。比喩を使うしかありません。光は二つの側面を持っています。それは粒子と波という二面性です。人の意識は、言葉による思考や想像力と気分・情緒という二側面があると考えられます。言葉・イメージは固定化された物質であり粒子といえます。気分情緒は波に譬えられます。人間の意識は情緒・気分というリズムをもっていると推測でき、それは波であり、関係性によって起こるため、読むことが難しくなりす。
生命は関係性であり 生滅のリズムを奏でている
量子力学などで、素粒子の世界や動きから周波数の一部は解析できている部分もありますが、ごく一部であり、ほとんどが闇の中です。あらゆる生物、物体、人間や動物も固有の周波数を出していますが、固定的なものではなく、絶えず変化し、相関性で生起しているのが真相です。関係性で生起しているゆえに、一方が変化すれば他方も変化することになり、固定化できず、観測も分析もできないのです(不確定性原理)。その意味では素粒子の究極の世界と意識・生命は似ているといえます。宇宙のすべての生命体は周波数によってかたちができ、その周波数も刻々と変化し生滅を繰り返し、相関性(縁起)で成り立っていると直感したのが釈尊です。
健康・幸福になるリズムは 意識を磨くことから始まる
波動を高めるとか運気をあげるとか、周波数を合わせるとかいっても、宇宙、生命の真相がわからないと、どこに周波数を合わせるかさえわかりません。指標なき盲目の方向は危険です。地獄行きの周波数や人をだまし(グルーミングなどの優しい言動など)、不幸を誘う周波数で満ちているのがこの世界の現実です。心が濁っていると、見る目が曇り、真実が見抜けなくなり、偽物を本物と見てしまいます。結果、不幸な人生をさまようことになります。思考を磨き、選択する力、判断力を高め、想像力を広げる意識の錬磨によって健康・幸福のリズムに乗ることができるようになります。
真実を悟っていない人の言動や振る舞いを見ぬく賢さが求められる
見えないリズムをあつかう、宗教やスピリチュアル系や思想・考え方の怖さはそこにあります。今、問題になっている宗教がそのよい例です。そもそもお金や営利の心がある人や団体には気を付けなくてはいけません。ユーチューブやサイトの情報は要注意です。そもそも閲覧数(利益・名誉になる)が目的であり、閲覧者の幸福などほとんど考えていません。正しい思想の人は、ブッタやその弟子たちのように、お金や名声名誉を求めず真実の探求を第一に誠実に生き、自他の救済に生きています。なぜなら真実の探求と悟りで心が喜びと充実感に満ちおり、既に心の宝を得ているからです。
生命の真実に最も近づいとされるブッタ
生命本来のリズムの解明は宇宙すべての生命現象の解明なくしては分からない難問です。生命の真相を求めて、この地球では有史以来あらゆる聖人、賢人、物理学者、数学者、哲学者、思想家、宗教家が格闘してきました。そして到達した世界を書物や対話などで残してきました。その数は膨大であり、一生かけても探究できないと言われています。最も生命の真実に迫った人たちは2600年前ぐらいのインドに端を発しているようです。自分のすべてをかけて生命の真実に迫ろうとしました。世俗の欲と闘い、迷いの生命と格闘し悟りを得たと言われています。その代表が釈尊・ブッタと言われています。
生命の悟りは知識・言葉・分析知では到達できない 修業実践の中に脈打つ直観智
生命を悟ることは、知的理解では到達できないと言われています。知識は生命の一部しか理解できません。ブッタの悟りは直観智であり、生命全体で識ることでした。それは心身全体をかけた実践・修行のなかで生命浄化の果てに到達できた生命の直観知です。
欲望に染まった生命を浄化することによって、本来の純粋な自己が発するリズムにはじめて冥合が可能になります。本来の自己、つまり宇宙本来の自己のリズムは、万物を創造し育み慈しむ慈悲の音律であり波であり光であり無分別の一法なのです。慈悲の修行実践者にして初めて到達できる悟りです。欧米世界やイスラム世界では、その存在を神と命名し、人間世界のはるかかなたに祭り上げてしまい、その存在の探求や思考をやめ、崇め信じることを第一義にしてしまいました。
最高のリズムに合わせて生きるためには、覚者の通った道に学び、覚者の言葉を師標(注4)にして修行実践するしかありません。言葉では表現できない不可思議な音律がもたらリズムは覚知であり実践修得しかないからです。
正しい知識・言葉は 詩的で 美しい響きを持っている
そのためには、正しい指標、正しい知識が必要になります。正しい知識とは、生命全体を基本にした上で、部分は部分として把握理解している知識です。逆に不幸を誘う知識は、部分をもって生命全体とする偏った知識です。実践行動してみて、100%の人が幸福を実感できるものこそ正しい知識の証といえます。正しい言葉は詩的で美しい響きがあります。以下は、私が読んだもので美しい響きを持つものと記憶しているものの一部です。
「論語」、万葉集などの短歌、平家物語の冒頭、鳩摩羅什訳の「法華経寿量品の自我偈」、ニーチェの「ツラツゥストラはかく語りき」、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判」、ゲーテの「ファースト」、ペスタロッチ「隠者の夕暮れ」、日蓮の「三世諸仏総勘文教相廃立」、ベルグソンの「創造的進化」、西田幾多郎の「善の研究」、宮沢賢治の「雨にも負けず…」や高村光太郎やタゴールやホイットマンの韻文、偉人の名言、故事成語など…。
善き知識 善き書物、善き人 善き師、よき先生に出会えることこそ 人生最高の宝であり、智慧と福徳の源泉です。それらの存在が契機(縁)となって私たちの心の境界を高め、幸福リズムに導いてくれるからです。
(注1) ブッタ…一般的には2600年前頃にインドに生れ、生命の真理を悟った人を言う。釈迦族の王子であったことから、釈尊と敬称されるようになる。釈尊50年の教法は八万宝蔵と言われ、日本では般若心経や法華経や禅(ヨガや森田療法やマインドフルネスに影響)が、わずかに知られている。ブッタは釈尊一人の呼称ではなく、生命の真実を悟った覚者の別名であり、宇宙には無数の覚者が存在し、仏は人的側面を指し、法的側面は仏性と言う。その仏性が心の本来のリスムであるとブッタは悟達された。
(注2) 釈迦滅後1000年の間に、釈迦の教法(法蔵)を付属し布教した24人の正師のこと。釈尊10大弟子の一人、迦葉尊者に始まり、14代目に竜樹菩薩(ナーガールジュナ)がいる。「空」「縁起」などの深遠な生命理論が展開され、その「関係性の理論」は、量子力学の発見と近似していると言われている。
(注3) 心の境界 …中国の天台大師(538年~597年)によると、天台は心を多面的に観念思惟し、釈尊の法華経の中に秘されていた「一念三千論」の生命論を体系化した。心の十境界(1地獄界「苦しみ」、2餓鬼界『貪り・執着する心」、3畜生界「癡か・威張る・愧じない心」、4修羅界「傲慢・嫉妬・マウントする心」、5人界『平穏・おもいやりる心」、6天界「満足・喜び」…この六つの境界は環境に左右されやすい。7声聞界(正しい知識を学び自分のものにする向学の心、向上する心)、8縁覚界(見えない世界や法則を悟る、気付き)、9菩薩界(自他ともの生命を高め慈しむ智慧の振る舞い)、10仏界(ブッタ、覚者、生命の真実を悟り成りきる)…以上の四つの境界は環境・他者を価値的にリードすることができる)。天台の境界論は、のちの仏教界に大きな影響を与えた。すべての命(衆生)は十界を有し、それらは「空」の状態で存在し、縁によって生起するという関係性理論を展開し、心の境界は固定化されたものではなく、意識を磨き修行することで高め、変えることができると論じた。現在の量子力学は、その理論を証明しつつあると言われている。
(注4)釈尊が弟子たちに説いた最も大事な指標の一つに「六波羅蜜」(ろくはらみつ‥波羅蜜とは、迷いから悟りに至り、宇宙大の生命をくみとり、そのリズムに乗るための六つ項目) の修行実践がある。六波羅蜜を正しく実践すれば、あらゆる病は治るとされている。釈尊は医王との別名があり、治せない病気はなかったと言われている。
1,「布施波羅蜜」…この実践により、自己の慳貪心(貪欲で人にものを与えず独り占めする心)を破すことができる。具体的な実践として、財施(財・お金を他者に施す)、法施(正しい生き方や知識を人に施す)、無畏施(心からの安心感を人に与え、人々の恐怖を取り除く)がある。これを実践すれば、執着を明らかに見ることができるようになり、依存症(ギャンブル依存など)を治すことができるようになる。心の境界の「餓鬼界」を善の方向に転換できるようになる。
2,持戒波羅蜜‥悪を止め、善を行うこと。リズム的生命活動を破る行為を、再び人間らしい生命へ回復させる実践。これを実践すれば、反社会的行為を治すことができる。心の境界の畜生界を善の方向に転換できるようになる。
3,忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)‥忍耐のこと。瞋恚(しんい、各種の怒りの煩悩を破す効果がある。)他者の生命を高め、慈しむ菩薩行には、耐え忍んで他者を守るという努力が要請される。これを実践すれば、アンガーをマネジメントすることができるようになる。心の境界の地獄界を善の方向に転換できるようになる。
4,精進波羅蜜‥喜んで慈悲を行い、いささかも怠けない。懈怠(人間完成に向かって努力することを怠る心)を破す。これを実践すれば、社会で、その道の一流になることができる。修羅界を善の方向に活かすことができるわうになる。
5,禅定波羅蜜‥静慮ともいい、精神を集中して散乱せしめないこと。マインドフルネスは、これを重点的に実践している。これを実践すれば、不安障害など多くの心の病を治すことができる。人間界を強化し安心立命の心を得ることができるようになる。
6,般若波羅蜜(般若とは、智慧の意味)一切の事柄、法理に通達して明瞭ならしめる智慧の獲得を目指す。愚痴(物事の道理に暗く、因果律や善悪、正義がわからない心)を破す。これを実践すれば、崩れない幸福郷に至ることができる。六波羅蜜のほかに、大事な指標として「八正道・八賢聖道」があるが、ここでは割愛する。
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と無関係です。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学理論、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、心理行動理論、詩音律学などを研鑽してきました。今は、人体学、意識論、量子力学、ニコラ・テスラの哲学、ブッタの教え、唯識・天台の生命論を中心に思索研鑽するなど、学問の旅は続いています。
芝蘭の便り 2025,6,14
なぜ、ありのままの自分を生きることができないのでしょうか。
それは他人の存在を意識しすぎるからです。仮に無人島に一人で生きるとすれば、あなたは何も意識せず、ただひたすら生きることに一生懸命になるでしょう。しかし現実の社会では一人では生きていくことができません。お互いに守り合わなければ、自分の命を保つことすらできないからです。
これは動物種としての本能です。一人であれば餌を取ることも食べることも生き続けることにも限界があります。やはり他人との協働が必要になります。他者の中で生きるとき、どうしても人目を意識し始めます。それは自然なことです。さらに集団の中での自分の評価が気になります。それも持って生まれた人の性分でしかたのないことです。やがてそこには、人の比較や優劣が生まれることになります。
集団の中で生きていると、自分をありのままに表現することが難しくなります。集団にはルールが生まれ、やがて、それが常識になっていきます。人々は時代と集団の中で作られたきまり(価値観)に知らず知らずのうちに、影響されていきます。そこでの常識という物差しで人が評価され、価値づけが行われます。
人々は価値基準というものさしで個々の人間を比べ評価していきます。ものさしは人を測る基準となり、優劣をつけていきます。比べる対象と物差しは無数に存在します。成績、学歴、会社、給料、役職、容色容姿、財産財物、地位、名誉、健康、身体、性格、各種の能力など…
人よりも強い、弱い。金持ち貧乏、顔がいい、顔がよくない。背が高い、背が低いなど。これらは全部、比較から生まれています。ある基準で価値が位置づけられ違いが生まれます。これら現実社会の比較優劣の実態です。しかし、これらは変化するので安定しません。
こうした社会の中では、人は安定できず、不安の中で生きることになります。基準の物差しが、時の流れと場で変わっていくからです。例えば戦争になると、人を多く殺す人が英雄となり、価値のある人になります。逆に平和な国では、一人、殺せば、極悪犯罪人となり、人としての価値も認められなくなります。社会の評価や価値に生きる間、本来の自分を生きることも困難になっていきます。
比較・優劣社会では、人々の目は外に向き、いつしか物差しという基準ではかられた価値に振り回され、安定できません。たえず心は揺れ動き落ち着かなくなります。
こうした比較相対の優劣を基準とした社会に振り回されないためには、自分の目を内側に向け、優劣を超えた価値を探し、それに生きることが大事です。その価値こそ、私たち本来の自分がもつ無上の心の価値なのです。
自分内比較、自己評価を根本にして生きることです。例えば、今日の自分と昨日の自分、一週間前の自分と今の自分を比較するなどの生き方です。何を比較するのか、目的をもって、努力したかどうかを比較します。結果よりも過程(プロセス、たどった道のり)を重視します。結果も比較相対の一部ですが、努力したかどうか、成長できたかどうかを問題にします。それは、比較相対を超えた絶対的な心の安定力になり、自己信頼領域が広がってゆきます。その積み重ねが、自信となり、自己の肯定意識を高もてゆきます。それに比例するかのように心の自由度も拡大します。
芝蘭の便り56
私の目的は、個々の人が、自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい
ニコラ テスラ (20世紀の物理学者・詩人)
心の安心領域とは何か
心の安心領域とは、どこにいても、何をしていても どんな場であっても どんな人に会っても 自分は自分でいいのだ、自分は大丈夫だと思える心の在り方です。それはどんなに変化する場にも柔軟に対応する能力であり 嫌なことにに耐えることができる力であり 困難を乗り越える力であり 挑戦・経験し、失敗から学べる能力であり、自分はできるんだと自分の力を信じることができる能力です。それは知識量でも、学力でも、学歴でもありません。人間の「知・情・意」を総合した経験から生み出される磨かれた意識です。比喩的にいうなら、情緒力ともいえます。
心の安心領域を広げることが 不登校・引きこもりの 解決の良薬
会社や学校で嫌な出来事に遭っても、それに対する反応は人それぞれです。みんなが、そこから回避するわけではありません。では、引きこもりや不登校は、なぜ家という安心空間に回避したのでしょうか。その原因について考えることが大事です。そうすれば、その人独自の解決の道が見いだせるはずです。
本質的な原因の把握なしに学校・社会復帰させようとして、関係機関に相談し、子どもだけをなんとかしようとする無駄を繰り返しているのが現状です。的を外した対処に改善はありません。逆に悪化させ、ひきこもり・不登校を長期化させることになってしまいます。本質的要因の一つが心の安心領域の問題です。安心領域が狭いと、場の変化に安心感が得られなくなり、その場にいることが苦となり、そこから回避してしまいます。
自分が分からず どう生きてよいのかわからない
人間にとって最も大事なことは何があっても、自分らしく自分を表現し、どんな環境や出来事にも立ち向かっていける強い心、賢さ、そしてしなやかな心を持つことです。
この世界に、あなたの顔が一つしかないように、あなたの人生もあなた独自の道になります。ガイドラインやマニュアルは机上の知識です。残念ながら数学的な解答は人生にはありません。自分で解答を見つけるしかないのです。
環境の変化に うまく適応できていない
めまぐるしく変化する現代社会に大人も子どもも適応することに難しさを感じています。この世界の人も、ものも、自然も、すべては変化していますが、普段は意識できません。変化が小さいときは習慣的に自動反応し、今までの記憶化された心身の習慣力で適応できるからです。しかし変化の波が大きいと、適応できない人や生物や自然が増えてきます。それが、ひきこもり、不登校の一因になっています。
急速な変化に適応できず、自分でも原因が分からず、今まで普通にできていたことが出来なくなっていきます。専門家は社会不安障害、うつ、適応障害、ひきこもり・不登校という名前をつけることで解決したかのように錯覚していますが、その中身は曖昧であり、人間の部分しか見ていないため、的に当たっていないのが現状です。なぜなら生命現象(人間の心と体、自然、社会など)の全体が分かっていないからです。
物質的豊かさ 便利社会がもたらす 忍耐力の不足
科学技術の急速な発達により、物質的豊かさは年々増し、忍耐しなくてよい便利社会が到来し、過剰サービスが人間の忍耐力や思考力を脆弱化しています。人はすべてのことを当たり前と思うようになり、科学技術を盲信し、いつしか驕りという毒を飲まされ、人間の素朴な.心を失い、自分の外にあるものに感謝の念が持てなくなりつつあり、今生きていることの有り難さに鈍感になっています。
視聴覚という感覚反応中心の生き方は 情緒が育たない
スマホ・パソコン、テレビなどの電気製品の普及に、私たちの心身、脳は適応できず、心身のバランスを崩していることに気づいていません。見えたり聞いたりする情報に操作され、生きることが視聴覚という快感覚反応中心になりつつあり、思考や想像力を培う場を失い、嫌なことに耐える力が身に付かない生き方になっています。
想像力と忍耐力と思考力などの総合力である情緒の不足は、人間関係を難しくします。引きこもり・不登校は、環境適応できず、社会から逃走し、家という安心空間への回避した状態といってよいでしょう。そこには多くの場合、情緒の未熟さが見え隠れしています。
安心領域は愛情という心の栄養で育つ
安心領域の基礎を育てるのは、まず親の愛情です。なかんずく母親の無条件の愛情です。子どもを、丸ごと受け入れ、大事に守り育むことによって、子どもは人間信頼の基盤を築いていきます。いわゆる基本的信頼とか、こどもの安全基地と表現されるものです。この基本的安心領域ができていれば、成長と共に、子どもはあらゆる場での経験を糧にして、自ら安全領域を拡大していくことができます。この基本的信頼が脆弱であれば、変化しゆく場に不安を感じたりして、その場に適応することができなくなり、そこから回避することが起こります。
安心領域を広げるには 正しい知識と学びが必要
そうした場合は、特に親も子どももともに人間としての新たな学びが必要になります。学ぶことによって変化をもたらしている波を知り、変化の中で生きる自分を知り、変化する環境と自分への適応力に気づくことができるからです。つまり人生が変化の連続なら、幸福に生きるためには大人になっても学び続けるしか変化に対応できないからです。
学歴を得るために学ぶのではなく 自分を高めるために学ぶことが 人を賢くする
学校の学びは、学歴や社会的ステイタスを得ることが目標の知識偏重になり、知識がモノ化され現実の生きる力になっていないのが現状です。学校で学んだ知識は過去のものであり、多くは今の変化に対応できなくなっています。
「学べば学ぶほど、私は何も知らないことがわかる。自分が無知であると知れば知るほど
より一層 学びたくなる」(アインシュタイン)
人間の心を知る、身体と心の関連性を知る、自然や社会を知る、人との関わり方、人生を知ることを学びます。断片的知識ではなく、知識を全体につなげ、人間全体を知ることを学ぶことが大事です。そして、その人らしい個性を表現して輝いていける自分らしい生き方を知ることで、安心領域の広がりを自得していきます。正しい知識と智慧の獲得を目標に学び続けることです。智慧とは生きる最善の対処法です。どんな環境下にあっても自分に負けず、生き抜く力です。それこそがどんな場にあっても通用する安心領域なのです。
自分を高め 周囲の人を その光で照らす学びと生き方が 正しい生き方
最終目標は、人として「一隅を照らす」生き方ができるようになることです。それは、中村哲医師(注1)の生き方の指針でした。
アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされた中村哲医師のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らを省みず献身する母親もその一部)の一人だと思います。
注1 中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」平安時代の人、最澄の言葉。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」
芝蘭の便り 5月19日号
対人恐怖・場面不安を解決する具体的な行動 芝蘭の便り㉔
自分の内部で起こっていることや、「自分がどう、うまく振る舞うか」ということに焦点をあてはめないようにします。代わりに、自分が加わっている会話で、話に耳を傾け自分も参加することに集中するようにします。(話を聴くことに注意を向ける)
他人は、あなたがどれほど不安に感じていても、ほとんど気づかないことを覚えておきます。あなたが考えているほど、不安が目に見えて表れることはありません。(他者には、あなたの心の中は見えない)
他人は必ずしもあなたの言っていることに注意を払っているわけではありません。彼らの注意はほとんど自分自身のことに向けられていることが多く、自らの問題に、なによりも関心をもつものです。立場を変えればわかります。人は、基本的には、みんな自分中心です。自分が先です。それが人間の自然な姿なのです。
自分らしく自然体であればよいのです。ありのままの自分を受け入れることです。(自分に生きること)
人と関わるとき、不安感はあなたしかわからない体験であることを学びます。(心は見えない)
誰でも不安になることはあります。毎回の会話で全て完璧に振る舞う必要はありません。(実力以上には生きられない。背伸びしない。無理をしないこと。今の自分のありのままでいいのです。)
人前でのできが、思っている以上に悪くないことにも気づくことが大事です。実際、あなたよりスキルの低い人はたくさんいるからです。(自分を客観的に見てみる、メタ認知することです。)
ありのままの自分に生きるように心がけます。人目、人の思い、人が自分をどう思うのかという生き方から、自分の生き方、自分の行動、自分の考えという自分の外面に見える姿ではなく、内面の心を大事にする生き方…自分自身に生きることに努めます。
受動的な生き方から、能動的生き方に生き方の姿勢を変えます。受け身の生き方は、他人や環境に支配されやすくなります。能動的な生き方は、環境を変えていくことができます。
案ずるよりも産むがやすし‥頭の中であれこれ考えるよう、一つの行動が大事です。行動、つまり、新たな経験をすることです。
経験することが大事です。目的を達成する(成功する)ことより、やったかどうか、努力したかどうかが大事です。プロセスを大事にします。新しいことに挑戦することです。そして、うまくいかなかったことから学んでいくことが大事であり、それが本当の成長になります。
人の中で何か行動する時、行動そのものを重視し、その行動を精一杯やり、その行動がどうであったかを省みて、自分を高めていくようにします。
内向から外向、受け身から積極的・能動に動けばよいのです。見られている自分から、人を見る自分に変っていくことです。人は、あなたが思っているほど、あなたのことを見ていないし、気にもしていません。
謙虚に人から学び、世の中から学び、あらゆるものから積極的に学び、自らを向上させ、あなたが立派な人間になることです。あなたが人間的に向上していけば、あなたの周りに、あなたにふさわしい友達が出てくるものです。つまり、あなた本人と環境は、本体と影のような関係であり、一体なのです。
生きるということは、今の瞬間しかありません。その瞬間の連続なのです。過去も未来も、すべてこの瞬間にあります。今を絶えず「精一杯生きる」こと、そして、受け身ではなく能動的に行動すること、さらに学びと向上心があれば、いつの間にか、人目を気にすることさえ忘れている自分になっているでしょう。
痛み・苦しみはメッセージ
痛みや苦しみは心身の不調和から発するメッセージです。対象への執着は神経の過剰疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩します。心身の調和が乱れきった時、苦や痛みは限界を超え、心身は病んでしまいます。
しかし人は、その原因を見ようとせず、目に見える痛みの原因を除去しようとします。結果、病は増幅し本質的な解決に至ることが難しくなります。
木を見て森を見ず
森に入れば目の前の木しか見えません。これは人間の本能的感覚の現実であり、限界です。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たち人間は、見えたり耳に聞こえたりする五感覚で感知できるごく一部を見て行動し、わかったつもりになり、全体を見ることをしていません。物事の全体を見るためには想像力を働かさなければいけません。
正しい瞑想の在り方
最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本義もわからずやっている人がほとんどです。真の瞑想は意識、想像力を磨く修行なのです。想像力と思考を磨き本来の自己と宇宙的自己に冥合することが、ブッタ(覚者)の瞑想でした。
想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ
アインシュタインの名言です。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は光彩を放っています。今から述べる事柄は、感覚では理解できません。想像力を働かせれば見えてくる世界です。地球は月という兄弟衛星を伴い瞬時も休まず動き変化し 太陽系の中で絶妙な調和を保っています。その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営んでいます。
意識は1%しか感覚・認知できない 99%は無意識の活動
私たちの身体の働きの一部を知識に基づいて想像してみます。私たち人間の身体はリズムを奏でるように呼吸し心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡っています。食べたものは口内で咀嚼され、食道を経て十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進み小腸で、各血管を通じて各臓器に栄養となって運ばれます。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚で身体を守ってくれています。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守るため、免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節してくれています。
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で外部世界と交渉していますが、それは身体の働きの100分の一以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識ることがではないのが人間の本来的な働きなのです。
神経とは神の通り経(みち)という意味
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆の細胞を新陳代謝させ絶妙な調和を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の歯の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが人の身体の現実ですが、それは人の身体全体から見れば微小なことに過ぎません。
生きるとは変化であり 環境適応である
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。
思考しないことが 心の死を招く
現代人の多くは視聴・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失っています。それが様々な新しい心の病をつくりだしていることに誰も気づいていません。
現代病の多くは生活習慣、思考の誤りに起因している
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。
澄んだ心には 対象がありのままに見えてくる
人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っています。磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には すべてが正しく見えるようになります。何が幸福をもたらし 何が不幸にさせるのかを 明晰に見分けることができます…幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです。
心の不調和状態をつくる 四つの欲望と感情
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。一つ目は、瞋り(いかり)です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると 心の波は逆流し 自他を巻き込み いたずらに消耗し やがて苦しみの海に沈んでゆきます。二つ目は、限度を知らない過剰な欲望です。それは 自らを焼き焦がし 周りを燃やし 炎の波にのまれてゆきます。三つ目は本能的快楽を求めすぎることです。快楽に耽け続けると 心は淀み 濁り 善悪がわからなくなり 心の波は間延びし 思考もとまります。四つ目は、今風に言うとマウントの心です。人に勝りたい 人より優位に立ち 人を支配したいと思い続けると 心は歪んで 素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は ほどよさの感覚を失うと 調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。
幸福になる人は 心が素直で 柔らかく 心根が善い人
幸福になる音色を奏でる人は 心が素直で 柔らかく きれいに澄んで 美しい周波を演じています。財産 社会的地位 名声 人気 才能 美貌 健康などは 幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが 時とともに色褪せ 壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは 空しく時と共に風化し 最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは 花火のようなもので 刹那的な陽炎のようなものです。幸福になる人は、心の中に積む人間性や人格の光こそが大切だということを知っています。それが心根の善い人の特徴です。
この世のものは全て変化する お金や名声への執着は 最後はむなしさを招く
ー祇園精舎の鐘の声 (注)諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の詞は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り 心の真実相が見えないからです。
自分の心の底から湧き出る喜びこそ幸福の源泉
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識 五感 心根は時とともに輝きを増し その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは 永遠性を孕んだ美しい調和された波そのものです。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる調和波なのです。
偉人に学び それを素直に 日々実行していく人は 心が健康になり 幸福になっていく
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…自分や人の心が美しいと感じた時はどんな時だったのかを 振り返ってみてください…過去の聖人・賢人の生き方や 思想哲学や文学・芸術に学んでみましょう。不断に自己を磨き続け 内省し 浄化された自己の鏡に 真実も幸福も映し出されるでしょう。意識を磨き、研ぎ澄まされた精緻な思考の力、そして宇宙をも包む想像力を身につければ、あらゆる病は消滅し、真の安らぎを得ることができるでしょう。それがブッタが悟った真の瞑想行為です。
注 諸行無常…仏教で説かれた重要な思想の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は縁起によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は縁起で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と意識しているにすぎず、夢のようなものを実在していると記憶しているにすぎません。認知症になり記憶機能が失われてしまえば、自分が自分であることも分からなくなりますが生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による錯覚現象のようなものです。
この世のものは全て動いており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の発見です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明する形になっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実相を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を無限に広げることで可能になります。
沙羅双樹の花…釈迦(釈尊・ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で存在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相といいます。究極のブッタの哲理です。それを悟ることができれば永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は覚知されました。
―愛とは互いに見つめ合うことではなく 二人が同じ方向を見ることであるー
サンテグュペリ・星の王子様の作者
夫婦の愛情のない家庭に 不登校や子どもの問題行動が生まれやすくなります
二人の醸し出す人間の愛情の持つ周波数は、家庭の中に波となって漂い、同居家族である子どもに大きな影響を与えます。子どもは心の栄養である愛情を受け取れず、情緒が育たなくなり、健全な愛情を育てることができなくなります。その結果、人間関係の中で衝突や感情的トラブルを起こしやすくなり、集団に適応できなくなったりします。これは、私が関わった不登校児や問題行動を起こす子どもの家庭によく見られる風景です。
男女の愛情の序章 それは恋です
男女の愛の序章、それは恋です。恋なくして男女の愛の成立はありません。恋は好きという感情から始まり恋愛に発展していきます。恋愛感情の背後に、性的ホルモンの働きがあります。これは全ての動物・昆虫にも共通する種保存の生命が内在的に持つ法則です。本能的であるため、盲目性があり、暴走することもあります。その段階で結婚まで走ってしまえば、早期の破綻を迎えるかもしれません。
好きな相手も 時間が立てば 嫌になることが増えます
好きという感情は嫌いという感情と表裏ですから、相手の嫌な面を見ると、たちまち嫌いという感情に変っていき、やがて二人の間に嫌悪感が漂うことになります。例えば、どんなに好きな食べ物でも毎日食べれば飽きがきてしまい、おいしさを感じなくなります。同じように、どんなに好きな相手でも、いつも一緒にいれば飽きてしまい、新鮮さもなくなり、好きという感情も薄れていきます。これは、人間のもつ本能的生理感覚ですから、誰人も避けることができません。倦怠期と表現される状態です。
好き嫌いを超える一つの方法 利の価値に生きることです
これを乗り越える方法の一つが、相互の損得・利害関係を考える知です。離婚は、「世間の恥」とか「社会的信頼を失う」とか、「子どもの教育に良くない」とか、「経済的にやっていけない」とかで、二人が好きでもないのに一緒に生活している関係が損得関係を重視した知です。知によって好悪という感覚を克服しようとします。しかし、それだけでは、恋愛の親近性もなく、愛もないため、往々にして冷えた関係になり、家庭内別居状態になりがちであり、二人とも幸せを感じることはできません。
二人の心の向上によってもたらされる 新しい関係 それが愛です
これを乗り越えるのが、双方の努力によって育んでいく関係です。それは自己中心性と葛藤し、相手のことを考える心の成長が求められます。双方の心の向上なくして成就できません。愛は二人が紡ぎ出す、この世に二つとない美しい世界を表現します。その一端を私たちは恋愛小説やドラマに見ることができます。愛を育てていけば二人は終生、美しい絆をつくってゆけます。その二人に、離婚という文字はありません。
愛情に必須な条件は 相手をかけがえのない人間として 尊敬することです
愛に必須な条件は、相手を一人の人間として尊敬できるかどうかです。そのためには、相手をよく理解し、相手の良さを見出せるかどうかにかかっています。これは、好悪や利害を超える心の絆があります。人間信頼、人間尊敬ほど強い絆は、この世にないからです。
愛情は相手を大事に思う心であり 守り抜く行為です
愛は本当の優しさをともないます。また見返りを求めることはしません。相手がどんな状況になっても、たとえ相手の姿かたちが変わり果ててしまっても、その人のすべてを受け入れ 守り、大事にし、尽くし抜く心、それが愛です。
例えば、男性が新婚前後の女性に愛を捧げるのは難しくありませんが、10年、20年、そして相手が白髪になった70代、80代になっても愛を貫くことができれば、それは本物の愛です。そのパートナーは世界で最も幸福な人といえます。
スティーブジョブ氏最後の言葉 大事なのは 金でも 名誉でもなく パートナーへの愛情
愛はお金や財宝、名声、人気、地位で得ることができないとスティーブジョブ氏(アップル創業者・56歳で死去)は言いました。この世界の最高の宝なのです。生きているときも、そして死後にも持っていける美しい心の品性です。
愛の実践は人間の向上であり 人間完成であり 最高の幸福への道です
愛の実践には、心の強さ、心の清らかさ、正しい心を保つ品性が求められます。愛は二人を高め合います。高め合う愛こそ本物の愛です。愛は人間の品行の成長を伴います。愛する二人は限りなく向上し輝き、美しさを放ち、周囲をほのぼのとさせます。それが本物の愛の品格です。
愛は その人のすべてを受け入れ 大事にし たとえ相手が白骨になったとしても その人を 永久に 愛し続ける それがまことの愛です。
※以下に述べることを理解し、実行してゆけば、愛を育むことができ、夫婦関係は100%改善できます
◎愛情を育む具体的実践
スキンシップをこころがける
◎身体のスキンシップをこころがける…一日に一回は相手の体に触れるようにし、相手の温もりを感じ合うようにします…肩に触れたり、肩を抱いたりする、腕を組む、手を握るなど、できそうなことから行動にうつします。
◎心のスキンシップ(心の栄養を届けること)をこころがける…
・一日に一度は、相手に笑顔を贈る
・毎日、相手に優しい言葉、相手を尊敬している言葉、感謝の言葉を届ける(ありがとう、今日も一日お疲れ様など)
・毎日会話をする(5分、10分、20分…徐々に増やしていく)
・ときには、「愛しているよ」「好きだよ」などと相手に好意の言葉を贈る
以上のことが実行出来れば、二人は仲良くなれるし、愛を育んでゆけます。
さらに以下のことを理解し、実行していけば、人間理解が深まり、愛は深まっていきます。
人間の自己表現法は二つある。
1,言葉の表現…言葉は事物の比喩であり、共通の記号。 言葉の裏に込められた意味を読むためには心を遣わなければいけない。
2,言葉以外の表現(ノンバーバルコミュニケーション)から心を読む
※ノンバーバルコミュニケーション…顔の表情、服装、振る舞い、声色など
メラビアンの公式(好意の総計100%)‥人の印象に残る表現を知る
①言葉による表現(言語情報・話している内容)…7%
② 声による表現(聴覚情報…声の大きさ、声色、速さ、口調など) …38%、
③ 言語外による表現(視覚情報…見た目、視線、しぐさ、表情、服装など) …55%
※言語外表現が、最も人の心に好感として残る
会話における言葉には 三種類の機能があることを知る
1、言葉は共通の記号である
2、言葉の解釈…言葉の正しい意味
3、言葉にこめられたもの…言葉で表現しようとしている言葉以前の心、感情、気持ちという波動のようなもの」をキャッチする
※出来事を語る場合…人によって「出来事」の受け止め方は異なる。置かれた位置、立場、精神状況による。相手の背景、立場、認知の枠や癖を理解して出来事を再生し、想像し真実に迫る。
心を開く関係づくりは、無条件の肯定的な関心を持つことを知り、実行する
・相手に対して無条件の肯定的な配慮をもつこと。➡条件・限定をつけるということは、こちらの欲求を満足させる利己的愛情といえる。
・第一に、人間の意義と価値に対する心からの尊敬。⇒肯定的関心
・第二に、相手の自己指示(方向、選択、決定)の能力を信頼できるかという点であり、個人の人生を決めるのは、その人自身であることをどこまでも深くこちらが感じ取っているかである。
相手を総合的に理解するよう心を尽くす
①相手を取り巻く状況を多角的(時間・空間的)に知る
・長所短所などの特性、趣味、友人、今の置かれた状況、精神状態。
一つのカテゴリー・型にはめこまない。相手の現在を多角的に理解するメタ認知力を高める
②こちらの態度と人間性の与える影響力
・相手とどのようにつながるか、こちらの人間性、態度、言葉遣い、安心感、ほっとする雰囲気、こころを開く言動や振る舞い…総合力でつながること(コミット)を心がける。
・相手が心を開かなければ、こちらを信頼しなければ、関係はできない。
これは、すべての他者とのかかわりに共通したものである。「心を開く」「信頼関係」が大事になる。
・「心の思いを声にのせる。つまり、言葉や声、声色で心を知る。心を聴く努力。
・自分にとって相手は「鏡に浮かべる姿」 人は関係性で変わることを知る。
・悩んでいる人に対して大切なことは、心を軽くしてあげること、明るくしてあげること。相手の言うことに、じっくりと耳を傾ける。じっくりと話を聞いてあげる。それだけですっきりする心が軽くなることが多い。聞いてあげること自体が、苦しみを軽くすることになる。
メンタライゼーションを活用する…
メンタライゼーションとは、「行動の背後にある心理状態と意図を考慮に入れて、他者の行動の意味を解釈する能力である。」
⇒相手の心は理解できないという無知の姿勢が大事。だから相手を理解していこうという、相手に対して積極的な関心を持つようにする。信頼関係が築かれないと相手は心を開かない。心が開かないと、どんな言葉も相手の心に届かない。自分の心理状態を知ること。自分の心理状態が悪いと、相手の心を理解する余裕もなくなり、理解できなくなる。相手の心理状態を知り、相手の状況を知る努力をする。
心の健康のために…ストレスに負けないレジエンス力を日常から培うようにする
1 自分はできると信じる、自分に負けない心をもつ…あきらめない心が心を強くする。
2 失敗した時、新しい自分を見つけるようにする。人生・経験は、すべて教師である。失敗も成功も一つの出来事、全ては経験であり、自分や人生を教えてくれるかけがえのない教師である。
3 自分を支える人を持つ。 身近な人に感謝できる心を持つ。
4 良い習慣を身につける…規則正しい生活、良書に親しむ、笑いと感謝、積極的、前向き、楽観的、強気、出来事に意味を見出す生き方、未来を明るく想像する生き方、マインドフルな生き方など。
5 心の強さは、「苦」を乗り越える度に強化されることを知る。
スティーブジョブ氏 最後の言葉
一代で巨万の富を築き世界的名声を得た、アップル創業者のスティーブジョブ氏は、すい臓がんのため55歳でこの世を去りました。死の直前、病床で語ったこと…「富や名声は死に際して何の役にも立たない。いのちが大事だ、私の病気と替わってくれる人は、だれもいない。私は、まだ大事な書を読んでいない。それは、健康に生きるための生命の本だ」
生命は 瞬間瞬間 意識できない世界で 動き 変化しています
私たちのいのちは、五感覚(目、耳、舌、鼻、身)器官が反応しながら、常に流れています。あるときは何気なく、あるときは意識をもって…。私たちは今の自分が感じている世界が、自分のすべてと思っています。しかし、今の瞬間の心身は 常に一定のところにとどまることなく 流れ続けて(注1)ていますが、私たちは、それを意識できません。ほんの一例ですが、血液は常に、体中を流れ、酸素と栄養を全細胞に届けています(滞れば、細胞が死滅し、私たちは死にます)が、私たちはそれを意識できません。私たちが、自分がいつ死ぬのかを、意識できないのは、生の営みが潜在意識活動中心に行われているからです。
注1 仏教では、こうした生命の流れを2600年前に、既に解明していました。それを「諸行無常・是生滅法」という言葉で表現しています。万物、存在するものは常に変化し、縁起で生起し、やがて滅していく、顕在と潜在のかたちを織りし、一定の自分はないと説きます。また潜在状態で存在することを「空、くう」ととらえます。今の最先端の量子力学が、遅らせながらそれを証明つつあると言われています。
意識できる世界はわ0,1% 99,9%は意識できない世界で 人は生きています
瞑想(注2)を実践し、自分の身体や心を一心に観察し、想像力を磨いていくと、私たちが意識できている世界は1%以下ということに辿りつきます。99%以上は意識できないところで心身は活動しています。私たちは無意識的活動を意識できないため、その活動に気づくことができません。ですから、その働きの、あり難さを感じることもありません。正しい知識に基づいた想像力によって、はじめて真実の把握ができ、心身の働きの偉大さに気づくようになります。瞑想の素晴らしさはそこにあります。
「想像力は知識より大事である 知識には限界があるが 想像力は無限である」 アインシュタイン
(注2 瞑想…もともとは、仏教の禅波羅蜜(ぜんはらみつと読む。禅によって最高の不動の境地に至る)という修業から生まれたもの。心を一所に定めて、心を観じること。感覚に反応せず、自らの深層を観察すること。心身は動いているので、つかまえることはできません。その動いている心身になりきるには、心身そのものになるしかありません。それを直観、インスピレーションなどと表現する人もいますが、ブッタ(一応は釈尊を指す言葉、真意は覚者)は「悟り」と表現しています。それは心が浄化された人しかできないとされています。私たち凡人は、五感覚のもたらす欲望で心が濁っています。ですから、心の動きを、言葉やイメージでいったん止めて、真実に迫っていく方法をとります。その言葉は悟った人の真実を表現したものでなければ、真実に到達することはできません。言語道断(言葉で表現できない真理の世界)という世界に入るには、凡人は先哲・覚者の言葉を信じて、そこに入るしかないのです。そうしないと、心の浄化も進まず、迷いから迷いの世界に入り込み、部分の知を悟りと錯覚し、真理に至ることができなくなります。
我思う、故に我あり‥意識こそが 生の証拠との考え方
16世紀の有名な懐疑哲学者デカルトは、すべてを疑うが、疑っている自分の存在を真理と認め「我思う、故に我あり」との名言を残し、近代合理主義哲学を開いとされています。つまり、私たちが今、感じている意識こそすべてという哲学です。意識できない世界は闇に閉ざされることになりました。合理主義のもと産業革命が進み、物質科学は日の出の勢いのごとく発展を遂げ、量子力学、光の研究は精緻さを増し、やがて月にロケットが着陸するという、ウサギの餅つきつき神話もあっけなく崩されることになりました。
科学万能主義が 新しい病を 次々に産み続けています
やがて科学万能主義の時代が到来し、人間は神をも恐れない存在となり、科学を崇拝する科学信仰、物質・お金信仰を招きました。科学や可視化できる世界がすべてであり、科学が何でも解決してくれると…。
しかし置き去りにされてきた、意識できない世界である心については、ほぼ16世紀のままと言ってよいでしょう。深層心理学のフロイトやユング(注3)がその闇にかすかな光をともしましたが、科学性に乏しいとされ看過されています。
(注3) フロイト、ユング …19世紀の心理学の先駆的役割を果たした人たち。フロイトは、催眠や夢という現象から無意識層を仮説し、神経症やトラウマを治療したとされています。ユングは一時フロイトに師事していましたが、無意識層の理解が異なり、ユング自らの深層心理体験を基にして、個人無意識、集合無意識を仮説、曼荼羅なども図顕しています。無意識層の展開は、既に仏教の唯識思想によると2000年前に、第七識無意識世界としてマナ識、第八識無意識世界としてアラヤ識が説かれていますが、両者の見解と深遠さは根本から異なっているとされています。
心の病は 精神病薬で 根治できないと 森田正馬は叫ばれました
しかし、20世紀の終わりから、心の病は増えていきます。そして21世紀に入るとさらに増加し、さまざま身体の病気に加え、心の病も多様化しています。現代の精神医学は、精神より物質、脳の働きに注目し、薬学で対応しています。つまり精神医学も物質医学になりつつあるため、心の病の根治(注4)が出来なくなりつつあります。精神、心は脳を介在して顕在しますが、脳そのものの働きが心ではないからです。今、量子力学など先端の物理学が、物質と意識の関係を模索していますが、確かなことは未だ分かっていません。
注4 「心の病の根治」日本が生んだ精神療法家、森田正馬は精神科医でしたが、「神経症の根治法」という書の中で、神経症は薬で治らないと現場治療の現実から悟り、森田療法を考案しました。そして強迫観念、パニック障害、不安症、各種恐怖症等を独自の精神療法で、90%以上根治したとされ、全国から患者が殺到したと言われています。
今 生きているという意識は、記憶された過去の 脳神経細胞現象です
ところで私たちが生きているのは、意識できる部分、意識できない部分の働きを合わせたもの全体が私たちの心身の生命活動の事実です。五つの感覚(眼・耳・舌・鼻・身)で刺激情報を感受し、それを意識が快・不快などの感情として受け取り、感情と言語・イメージとして記憶していきます。こうして無意識層に記憶されたものが自動的に次の活動時に生起し反応します。
今、生きていることはこれまでの人生で習得した記憶が意識化されて生きていることなのです。つまり、心身全体の過去の記憶が自動的に再生されたもので生きています。記憶を失う疾患の一つ、認知症の例を考えれば、生きる活動が記憶に支えられていることが理解できます。私たちが感覚し意識できるのは、体を動かす運動神経と感覚神経の一部ぐらいで、実際に働いているものの0,1%以下にすぎません。
私たちは、この地球に生を受けて、地球や太陽や自然の恵みに守られて生きています。母から産まれ、いろいろな人に守られ生きています。私たち人間は、自然やあらゆる生物、社会の恵みに育まれて生きています。私たちの身体は、宇宙の物質からできています。
地球の恩恵は無限であり、生物・人間に無尽の愛を注いでくれています。愛とは、人知れず尽くす行為であり、どんなときも支え、大事に守る働きです。赤子に対する母の無償の愛に近いものがあります。
地球は黙々と働いています。彼は地上の生物に見返りを求めることはしません。私たちは、空気、水、光、大地など使い放題に使っています。地球は、いつも私たちに最高のものを与えてくれています。地球はだれのものでもありません。地球自らのものであることを忘れてはいけません。
地球は優しく、慈愛の体現者ですから、すべての生あるものを育み、受け入れています。その深く広い愛に気づかず、多くの人間は、甘えています。愚かな強欲者や利己主義者は自分のものでもない地球を私物化し、生物を支配したり、コントロールしたり、金儲けの手段や道具にしています。
とても悲しいことです。地球は泣いています。あるとき、地球は自らの傷の痛みに耐えかね、自然災害の形で、「痛い、苦しい」と叫び、私たち人間に警告します(注1)。しかし、欲で情緒が濁り、そのメッセージを読み取れない権力者は、目先の対処に汲々するばかりで、本質を見ようとはしません。
地球は私たちを含めた無数の生物を乗せて、精巧に自ら回転しています。人間はその変化分を24時間と計測します。また太陽の周りを正しい軌道に則り一周します。人間は、その動いた分を、365日と言います。地球の働きは、寸分の狂いもなく、休むこともなく、まるで自らの使命を忠実に果たすかのように動いています。
もし地球が休んだり、止まってしまったら、私たちを含めた生物は、たちまち死滅します。微妙な調和に包まれ、宇宙空間に漂いながら、今生きていることの不思議さに感動を覚えます。
月や近くの惑星である金星や火星に、酸素や水はないと言われています。太陽系では、地球だけが酸素が豊富にあり、水に恵まれています。この地球の慈愛、太陽の愛、自然の恵みや恩を私たち人間は、どれほど感じているのでしょうか。
この恩恵を感じる感性が、心の健康の一つの証です。心が浄化されれば、この世界や自然に当たり前なことは何ひとつなく、すべては有り難い、かけがえのない瞬間であり、できごとだと観ることができるようになります。
注1 釈尊の教えである「金光明経」「大集経」「仁王経」等の経典で説かれています。金光明経のごく 一部を、難解ですが原書にて紹介します。「一切の人衆、皆、善心なく 繋縛殺害瞋諍のみあって 互いに相讒諂し 枉げて辜なきに及ばん、彗星しばしば出でて…疫病流行し…地動き、暴風・悪風・時節によらず常に飢饉に遭って、苗実成らず…」(大意を述べます…すべての人間は、他に施したり、他を育んだり、守ったりすることなく我欲に生きている。そして互いに殺し合い、争い、いがみ合っている。結果、彗星はしばしば出現し、疫病が流行し、地震は多発し、台風、洪水、季節外れの気候が起こり、飢饉、飢餓になり、農作物も実らない)今の頻発する異常気象、各地の戦争・紛争状態など合致しています。原因は人間の五欲の執着、自己中心の生き方にあると警告しています。
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瞋りの連鎖を解く方法はあるのか
瞋りの連鎖を解くためには、まず自分を知ることです。瞋りの対象への強度と深さを知らなければ
なりません。また瞋りの習慣化された自分の内省も必須です。瞋りを発しても、数日以内で、その瞋り
から解放される人もいます。逆に、瞋りを発しやすく、その瞋りに振り回され、簡単に瞋りから解放
されず、何日も、何年も怒りが、怨み憎しみとなり、心の奥に固着する人もいます。その人は、一日の
大半を地獄を住みかにしている人といってよいでしょう。問題は、根深い瞋りを心の奥に持っている人
の瞋りの解放です。この傾向の人は、アンガーマネジメントの講習を受けても、いっこうに解決するこ
とができません。なぜなら知識や言葉を超えた奥深くに宿っている、瞋恚の塊りの心作用だ
からです。その塊りを少しずつ溶かし、浄めるしかありません。
ブッタの悟りが教える六波羅蜜(ろくはらみつ)の実践修行
ブッタ(注1)は人間の持つ煩悩が不幸に導く元凶であることを悟りました。前回のブログで説明したよう
に、三毒という煩悩をもっとも制御困難なものとしています。人間の本能に根付いているものだからで
す。脳科学の知見で言えば、大脳皮質の言葉や感覚受容の奥にある、大脳辺縁系に端を発しているから
です。正確に言えば、大脳辺縁系にあるのではなく、瞋りはそこに顕在する心作用です。脳科学で解決
できない世界ですから、心科学(ブッタの仏法科学)に基づくしか解決はありません。
六波羅蜜(注2)の実践は、煩悩の迷いを悟りと開き、苦を楽に替え、暗を明に転じ、人を幸福に到達させ
る実践・修行です。
注1 ブッタ…覚者、生命の真理を悟った人という意味。一般的には、約2600年前ごろのインドに生まれた釈迦を指しますが、生命現象の三世を俯瞰すると生命の真実を悟った人のことをブッタと言います。いわゆる仏・如来のことです。釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、多宝如来、大日如来など、この宇宙には無数の仏が存在すると言われています。
注2 六波羅蜜…波羅蜜は、到彼岸、仏の生命へと到り、宇宙大の生命をくみ取るための六つの項目。布施波羅蜜(財物や幸福になる生き方や安心感を人に施す修行)。持戒波羅蜜(悪を止めて善を行う修業)。忍辱波羅蜜(忍耐しながら慈悲行をし、人を救うこと)。精進波羅蜜(喜んで人の善に尽くし、少しも怠けない修行)。禅定波羅蜜(精神を集中して散乱させない修行…マインドフルネスはこの修行法にヒントを得ている)。智慧波羅蜜(一切の事柄、法理に通達して明了ならしめる智慧の開発を目指す修行)
瞋りの煩悩を転換する実践は 忍辱波羅蜜にある
忍辱波羅蜜の修行は生命的存在をどのようにとらえるかから始まります。
自分を含め、すべての生命的存在は慈愛すべきものと見ます。
なぜなら、すべての生命的存在は仏性(注3)を持つ存在だからです。どんな人も根底に仏性を内在させて
いると信じ、相手を守り尽くしていきます。その姿勢で関わっても、相手から馬鹿にされたり、罵られ
たり、攻撃されたりします。それらの辱(はずかし)めに耐え、相手の仏性を信じて関わり続けることが忍
辱の修業なのです。その修業の中で瞋恚(瞋り・怒り)の生命は、浄化され、本来の清らかな生命が蘇って
くるとブッタは説きます。これは大変な修行ですが、この修行を貫く中で瞋りに振り回されない自在な
境地になるだけでなく、崩れない幸福境涯に近づくことができるとされています。
注3 仏性…仏の生命の心的側面。釈尊という場合、生命の身体的な側面を指し、仏と表現されます。仏の生命の心的な働きを指す場合は仏性と言います。この宇宙の森羅万象は仏性の働きとブッタは開悟されました。生命は自ら創造し自ら死滅する生滅の法です。また、宇宙のすべてを創る働きが生命に内在する仏性であり、慈悲を演じ生死を繰り返す無始無終の因果を内在する生命の働きです。キリスト教では、スピノザが汎神論を唱えました。自然や宇宙の神的な働き、人間や動物の神秘的な働き、そうしたものすべてが神であるという説です。アインシュタインは、両親の関係でキリスト教を信じていましたが、進化論を知って旧来のキリスト教から離れました。しかしスピノザの汎神論の神は信じていたと言われています。仏性は、汎神論で説く「神」に近い目に見えない生命の働きと考えてよいでしょう。
ブッタは能忍の人 人間世界は堪忍世界 能忍の修行が瞋り(怒り)を浄化させてくれる
この世のとらえ方を正しく見てゆく修行をします。この世を娑婆世界(しゃばせかい)と見ます。娑婆(梵
語、サーハの音写)は、堪忍(かんにん)、能忍(のうにん)と訳される言葉です。娑婆世界とは、苦悩が充満
している人間世界のことです。「この世界の衆生(人間)は、三毒およびもろもろの煩悩を堪え忍んで受け
るので娑婆世界という」(法華経巻五)。
思うようにいかないのが当然であり、自分のことを理解してくれない、わかってくれないのは当然であ
り、自分勝手な人ばかりが存在しているのが当然と、この世界をあるがままに見つめ受け入れ、堪忍し
て生きていきます。その生き方ができるようになれば、瞋りの対象を受け入れることができるようにな
ります。正しく言えば瞋りの対象が原因ととらえている自分を、原因は自分の中にあると見ていくと
き、忍耐することができるようになっていきます。その結果、生命の浄化が進みます。生命が浄化され
た分、瞋りの生命は消失していきます。釈尊・ブッタは能忍の人と言われています。釈尊自身、こうし
た修行の結果、悟りを得、ブッタになったと言われています。