安心と喜びに満ちたリズムが、私たちの心の奥底に流れています。しかし、私たちはそれを意識することがなかなかできません。
塵、石、草木、花、川、海、山、生物、大地、空、人間、地球、月、太陽、星、銀河など、あらゆる存在は、原子でできており、振動しリズムを奏でています。これは、量子物理学の知見であり、生命の不思議世界に接近しつつあると言われています。見えない心のリズムについては既に、2600年前ごろにインドのブッダによって瞑想直観され、その真意を信解(しんげ)した正師たち(注1)に求道、研鑽され、深化を遂げてきました。心はリズムを奏で、一瞬も止まることなく流動しゆく存在であると…。
(注1) 釈迦滅後1000年の間に、釈迦の正法(しょうほう)を継承した24人のこと。「空(くう)や縁起(えんぎ)」などの深遠な生命哲学理論を展開した。その関係性理論は量子力学の知見と近似しています。(注1)終
宇宙のあらゆる存在は、塵(ちり)も石も植物も動物も原子で構成され独自の周波数(注2)を持ち、それぞれが固有の波動を出しています。喜びの波動もあれば、地の底に沈む苦しみの振動もあります。動物も生物も、そのかたちに応じた振動を奏でていると量子物理学は語ります。人は通常、平穏な周波数を奏で、その波動を出しています。それが人間のリズムの基本であるとブッダは言います。
(注2) 周波数(ここではリズムを同じ意味で使っている)…1秒間に振動する回数のこと。単位はHz(ヘルツ)、私たちの脳波の振動数は通常、シーター波(4~8Hz、まどろみ時)、アルファ波(8~13Hz、リラックス時)、ベーター波(13~30Hz、活動時)、ガンマ波(30Hz以上、緊張、興奮時)の周波数が中心になっていると言われています。癒しの周波数は、528Hzと言われ、リラックス効果やDNAの修復が期待される奇跡の周波数という学者もいます。また432Hzは、自然の周波数や宇宙の響きと呼ばれ、心を落ち着かせ、感情を穏やかにする効果があるという学者もいます。人間が耳で聞くことができる周波数の範囲は、20~2万Hzと言われ、出せる音は80~1100Hzと言われています。ちなみに蝙蝠(こうもり)は10万Hzの音が聞き分けられる音の超能力動物です。波動は振動を伝えるエネルギーのことです。周波数が高いと波動も大きくなります。この宇宙で最も周波数が高い存在は、現代量子物理学の発見によると光とされ、400兆Hz(赤外線)から700~800兆Hz(紫外線)と言われ、思考や想像をはるかに超えた神がかり的な奇跡の周波数です。私たちは光で生きています。また微細な光を体から出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。生命は不思議です。(注2)終
生命の発するリズムは、私たちの五感では感受することが難しいのですが、実際は光の波のように四方八方に伝播(でんぱ)されています。よい光や香りを放つ人もいれば、怒気や嫌悪波を出す人もいます。目に見えない波ですが、周囲に波動として広がります。五感で感じられる共鳴と、感じられないものがあります。例えば、お腹の中の赤ちゃんが、母親の言葉を聞き、その感情の振動を受信しているようなものです。善も悪も共感し感染します。きれいな夕焼け空や朝焼けの放つ波動、穏やかな言葉の持つリズム、癒される自然の波動、心惹かれるリズム、嫌な不協和音の攪乱波など、すべての生命的存在は、生命の境界(注3)に応じたリズムを奏でているとブッダは語ります。
(注3) 心の境界・きょうかい …中国の天台智顗(てんだいちぎ・538年~597年、天台大師(中国隋の皇帝も帰依し国師となった)によると、天台は釈尊の妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)を多面的にとらえ「一念三千論」の生命哲学理論を提唱し、像法(ぞうほう)時代の仏と言われています。心の十境界(1、地獄界「束縛された不自由な苦しみと、苦をもたらすものをはねかえせない怒りと破壊の渦巻く世界」、2、餓鬼界・がきかい『貪り・飢渇、きかつ・執着、自らの欲望の炎に焼かれる苦しみの世界」、3、畜生界・ちくしょうかい「癡、おろか・威張る・愧、はじない心、弱肉強食の恐怖の世界」、4、修羅界・しゅらかい「傲慢、ごうまん・嫉妬、しっと・人より優れようとしたり劣等に苦しんだりする戦々恐々とした不安定な世界」、5、人界・にんかい『平穏・安定した思いやりに満ちた平和な世界」、6、天界・てんかい「満足・充足・喜びの世界」…この六つの境界は環境に左右されやすい生命状態です。7、声聞界・しょうもんかい(正しい知識を学び自分のものにする向学の心、向上する心の世界)、8、縁覚界・えんがくかい(見えない世界や法則を悟る智慧の世界)、9、菩薩界・ぼさつかい(自他ともの生命を高め慈しむ智慧の振る舞い、自己中心性を克服し生命を大きく飛躍させる世界)、10、仏界・ぶっかい(生命の真実を悟り永遠性を覚知できる智慧の世界)…以上の四つの境界は環境・他者を価値的にリードすることができるといわれています)。天台の境界論は、のちの仏教界に大きな影響を与えました。すべての命(衆生・しゅじょう・人間)は十境界をもち、それらは「空・くう」の状態で存在し、縁によって起こるという関係性理論を展開しました。心の十境界は固定化されたものではなく、縁(対象)によって起こり、変化してゆきます。どの境界ががよく出るのかによって、その人の人間性の品位が決まります。意識を磨き修行すること(意志、決意、誓いをもち行動すること)で境界のレベルを上げることで上品な人間(孔子のいう君子)になっていくと論じています。ブッダは修行によって、仏界(宇宙大の尽きることのない智慧と慈悲と創造性、生命力などを含む無上の宝珠の世界)の境涯の定業化(習慣化)を弟子たちに勧めました。現在の量子力学は、縁起という関係性理論を証明していると言われています。(注3)終
「あの人とは、生理的に合わない」は、その一つの例であり、その人の発するリズムを心身が受け入れられない反応です。しかし、それは固定化されたものではなく、こちらの心の境界が上がれば、生理的な回避反応も、受け入れられるようになり、その人に合わせることができるようになります。
また不登校・ひきこもる人の中には、人々の発する不愉快な波を避けるために安全空間に回避している人も少なくありません。他者や社会の持つ嫌な波動を受け入れ、適応できるようになるためには、こちらの心の世界を広げるしかありません。心の境界が低いと周囲の波動に振り回されますが、高くなると、逆に周囲や環境をリードすることができ、価値的に対処できるようなります。
ブッダ・釈尊のような人格の香る人のそばにいると、共感現象により、心が浄化され、人間性の高みに引き上げられていきます。逆に朱に交われば赤くなるとのことわざのように、人間性の低い人のそばにいると、そのリズムに感染し、いつしか人格が低下するようになるかもしれません。人はその境界に応じた周波数を奏で、波を出しています。人の心がわかることは大変な難事です。自分の心がわかっていないと、人の心も分からないからです。多くの人は本心を隠して生きています。心が澄んだ人は、ひとのリズムを直感で感じとり、その人の本質を知ることができ、善き波動と悪しき波動の持ち主を見わけることができるようになります。人を見分ける基準は、その人の私欲私心(松下幸之助の言葉…私欲私心が会社をつぶす)の有無をみればわかります。人格者は清廉潔白であり、誠実で正直です。
意識とは何か、最新の脳科学も、またあらゆる科学をもってしても、意識を正確にとらえることはできていません。しかし、確実に言えることは、今、このように読んだりしていることは意識の働きよるということです。つまり意識は言語道断(言葉では説明できないもの)の世界の振動数の世界なのです。比喩を使うしか表現できません。
光は二つの側面を持っています。それは粒子と波という二面性です。人の意識は、言葉・イメージと気分・情緒という二側面があると考えられます。言葉・イメージは固定化された物質であり粒子といえます。気分情緒は波に譬えられます。人間の意識は情緒・気分というリズムをもっていると推測でき、そこに人の心を読むことの難しさや、周波数の秘密が隠されている可能性があります。
量子力学などで、素粒子の世界や動きから周波数の一部は解析できている部分もありますが、ごく一部であり、ほとんどが未だに闇の中です。あらゆる生物、物体、人間や動物も固有の周波数を出していますが、固定的なものではなく、絶えず変化し、関係性で生起しているのが真相です。関係性で生起しているゆえに、一方が変化すれば他方も変化することになり、固定化できず、観測も分析もできないという不確定性原理(注4)が生れます。その意味では素粒子の究極の世界と意識・生命は似ているといえます。宇宙のすべての生命体は周波数によってかたちができ、その周波数も刻々と変化し生滅を繰り返し、関係性(縁起)で成り立っていると直感したのがブッダです。
(注4)不確定性原理…量子力学の根幹をなす概念の一つ。1927年にハイゼンベルグが提唱しました。簡単に言えば、物質の究極の世界は正確な観測ができず、不確定であるということ。(注4)終
波動を高めるとか運気をあげるとか、周波数を合わせるとかいっても、宇宙、生命の真相がわからないと、どこに周波数を合わせるかさえわかりません。指標なき盲目の方向は危険です。地獄に引き込む周波数や人をだまし、不幸を誘う周波数もあります。心が濁っていると、見る目が曇り、真実が見抜けなくなり、偽物を本物と見てしまいます。結果、不幸な人生をさまようことになります。心を磨き、選択する力、判断力を高め、想像力を広げる意識の錬磨によって健康・幸福のリズムに乗ることができるようになります。
見えない生命のリズムをあつかう、宗教やスピリチュアル系や思想・考え方の怖さはそこにあります。今、問題になっている宗教がそのよい例です。そもそもお金や営利の心がある人や団体には気を付けなくてはいけません。ユーチューブやサイトの情報も要注意です。そもそも閲覧数(利益・名誉になる)が目的のものが多く、閲覧する人の幸福を考えている人は少ないかもしれません。正しい思想の人は、釈尊やその弟子たちのように、真実の探求を第一に誠実に生き、自他の救済に生きています。なぜなら真実の探求と悟りで心が充実しているからです。
生命本来のリズムの解明は宇宙すべての生命現象の解明なくしては分からない難問です。生命の真相を求めて、この地球では有史以来あらゆる聖人、賢人、物理学者、数学者、哲学者、思想家、宗教家が格闘してきました。そして到達した世界を書物や対話などで残してきました。その数は膨大であり、一生かけても探究できないと言われています。最も生命の真実に迫った人たちは四聖人(ソクラテス、孔子、イエス・キリスト、釈尊・ブッダの四人を指す)と一般的に言われています。なかんずく、自らの生命の魔性と闘い、迷いの生命と格闘し悟りを得た人がブッダです。
生命を悟ることは、知的理解では到達できないと言われています。知識は生命の一部しか理解できないからです。釈尊の悟りは直観智であり、生命全体でわかることでした。それは心身全体をかけた実践・修行のなかで生命浄化の果てに到達できた生命の直観体得です。
欲望に染まった生命を浄化することによって、本来の純粋な自己が発するリズムにはじめて冥合が可能になります。本来の自己、つまり宇宙本来の自己のリズムは、万物を創造し育む慈悲の音律であり波であり光であり無分別の一法なのです。慈悲の修行実践者にして初めて到達できる悟りです。欧米世界やイスラム世界では、その存在を神と名付け、人間世界のはるかかなたに祭り上げてしまい、その存在の探求や思考をやめ、崇め信じることを第一義にしてしまったように思えます。
最高のリズムに合わせて生きるためには、覚者の通った道に学び、覚者の言葉を師標(注5)にして修行実践するしかありません。言葉では表現できない不可思議な音律がもたらすリズムは覚知であり実践修得しかないからです。そのためには、正しい指標、正しい知識が必要になります。正しい知識とは、生命全体を基本にした上で、部分は部分として把握理解している知識です。逆に不幸を誘う知識は、部分をもって生命全体とする偏った知識です。実践してみて、100%の人が幸福を実感できるものこそ正しい知識の証といえます。正しい言葉は詩的で美しい響きがあります。以下は、私が読んだもので美しい響きを持つものと記憶しているものの一部です。
「論語」、老子の言葉、聖書の一節、万葉集などの短歌、平家物語の冒頭、法華経の寿量品、ニーチェの「ツラツゥストラはかく語りき」、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判」、ゲーテの「ファースト」、ペスタロッチ「隠者の夕暮れ」、日蓮の「立正安国論」、ベルグソンの「創造的進化」、西田幾多郎の「善の研究」、アインシュタイン、ニコラ・テスラ、ダビンチ、ソクラテス、アリストテレス、パスカルの名言、宮沢賢治の「雨にも負けず…」や高村光太郎やタゴールやホイットマンなどの詩です。
善き言葉 善き知識・書物、善き人 善き師、よき先生に出会えることこそ 人生最高の宝であり、智慧と福徳の源泉です。それらの存在が縁となって私たちは心の境界を高め、幸福リズムに乗ることができるようになります。
(注5) 覚者の言葉を師標…ブッダ・釈尊が弟子たちに説いた最も大事な指標の一つに「六波羅蜜・ろくはらみつ」(波羅蜜とは、迷いから悟りに至り、宇宙大の生命をくみとり、そのリズムに乗るための六つ項目) と八正道(はっしょうどう)の修行実践があります。それらを正しく実践すれば、あらゆる病は治るとされています。釈尊は医王との別名があり、治せない病気はなかったと言われています。ただし、正法時代に特に効果をもたらす実践法と言われています。釈尊は時代の流れを大集経(だいしつきょう)の中で予言しています。正法(釈尊の死後1000年間、煩悩を克服して悟りを得る最初の500年間…解脱堅固(げだつけんご)、禅や瞑想で悟りを得る後半の500年間…禅定堅固・ぜんじょうけんご)次の1000年を像法時代(最初の500年間は、読経、書写が盛んになる読誦多聞堅固・どくじゅたもんけんご。後半500年は、お寺や仏像などが盛んに作られる多造寺堅固・たぞうじけんご)堅固・けんごとは予言が的中するという意味です。日本をはじめ、仏教国では、不思議なことですが、釈尊の予言の通りになっています。釈尊滅後2000年以降を末法と言います。日本では、平安時代の終わりのころで、闘諍言訟(とうじょうごんしょう…思想宗教上の争いが絶えなく、何が正しいのかわからなくなる時代)末法思想到来などと言われ、暗い世相の時代になりました。釈尊の仏法が効力を失う時代とされ、新たな仏法が日本を中心に興る時代と天台は予言しました。末法は未来永遠に続くとされています。今は末法です。
〇六波羅蜜(ろくはらみつ)
1,「布施波羅蜜」…この実践により、自己の貪欲で人にものを与えず独り占めする心を克服することができます。具体的な実践として、お金を他者に施したり、正しい生き方や知識を人に施したり、心からの安心感を人に与え、人々の恐怖を取り除いたりすることです。これを実践すれば、執着を明らかに見ることができるようになり、依存症を治すことができるようになります。心の境界の「餓鬼界」を善の方向に転換できるようになります。
2,持戒波羅蜜‥悪を止め、善を行うこと。リズム的生命活動を破る行為を、再び人間らしい生命へ回復させる実践。これを実践すれば、反社会的行為を治すことができます。心の境界の畜生界を善の方向に転換できるようになります。
3,忍辱波羅蜜‥忍耐のこと。瞋恚(各種の怒りの煩悩を治す効果がある。) 人間の生命を高め、慈しむ菩薩行には、耐え忍んで他者を守るという努力が必要になります。これを実践すれば、アンガーをマネジメントすることができるようになります。心の境界の地獄界を善の方向に転換できるようにもなります。
4,精進波羅蜜‥喜んで慈悲を行い、いささかも怠けないことです。懈怠(人間完成に向かって努力することを怠る心)をいましめてゆきます。これを実践すれば、社会で、その道の一流になることができます。修羅界を善の方向に活かすことができるようになります。
5,禅定波羅蜜‥静慮ともいい、精神を集中して散乱させないことです。マインドフルネスは、これを重点的に実践しています。これを実践すれば、不安障害など多くの心の病を治すことができ、人間界を強化できるようになります。
6,般若波羅蜜(般若・はんにゃとは、智慧の意味)一切の事柄、法理に通達して明瞭ならしめる智慧の獲得を目指します。愚痴(物事の道理に暗く、因果律もわからない心)を治します。これを実践すれば、崩れない幸福郷に至ることができます。
〇八正道…1、正見…正しい見解 2、正思惟…思考が正しいこと 3、正語…言葉が正しいこと 4、正業… 行いが正しいこと 5、正命…生活法が正しいこと 6、正精進…修行法の正しいこと 7、正念…観念の正しいこと 8、正定…一切の悪を捨てること 正しいことが大事です。私たちは、何が正しく、何が正しくないのかがわからず迷っているのが現実です。ただ経験からわかることは、正しくないものを信じて行動すれば、行き詰まり、苦しむことになるということです。正しいことは正義とも解釈できます。正しいことはブッダ・覚者の言葉に学ぶしかありません。この宇宙を貫く法(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタラン)に乗ることとブッダは説いています。宇宙の仏界の周波数のリズムに私たちの個の生命を乗せることで、宇宙に満ちている仏界の周波数に私たちの生命が同期(冥合・みょうごう)するとブッダは説きました。
「ひきこもり・不登校・心の不調から蘇る本」第三章18から抜粋 (2026年来春出版予定) 松岡敏勝著
1、人は死んだら、どうなるのですか? (大学生・男性) 芝蘭の便り 2025.11.18
質問
一か月ほど前、後輩が自殺しました。なんとも言えない衝撃を受け胸が苦しくなり、彼の面影が浮かび夜も眠れなくなりました。 苦しんではいないだろうか? どこへ行ったのだろうか…いろいろな本を読みましたが、よくわかりません。芝蘭の室のブログをたまたま見かけ、何かヒントをくれそうな気がしたので、質問してみました。何かヒントいただければ、うれしいです。
回答
この問いに正しく答えられる人は、いないと言うのが正しいのかもしれませんね。なぜなら、今いる人たちはみんな生きていて死んでいないからです。死ぬということは、生ある人間にとっては、最も大事な問題です。なぜなら、生まれたものは必ず死ぬのが生命の不思議な法則(注1)の一つだからです。死は生きている人間にとって最大の恐怖を与えます。自分が無くなる、自分の持っているものがすべてなくなる…体も、積み上げてきた地位や名声や財産や能力もすべて失くし、周囲の家族や愛する人たちとも別れなければならないからです。自分やものや人に対する愛着をすべて断たなければなりません。
注1 生命の不思議な法則…宇宙のすべての存在は生と死を繰り返しています。地上の生物は細胞で構成されていますが、その細胞は生まれて変化成長し、やがて老化し役割を終えます。人間も同じです。細胞の構成でできた統一体だからです。この法則をブッダ(釈迦)は生住異滅(じょうじゅういめつ)と悟りました。
一代で中国を統一し、権力を恣にし、この世のすべての人間やものを自由に支配できると思っていた秦の始皇帝は、「不死の薬」を賢者に探すように命じたという逸話が遺されているそうですが、結局、叶いませんでした。アメリカでは、死後に生き還ることを願って、自分を冷凍保存にしている人もいると聞きます。いずれも生に対する愛着の強さを物語っています。
死ぬことは人間にとって最大の苦しみであり、一大事なのです。ですから、古来あらゆる宗教、哲学、思想、科学が、死について思索してきました。物質世界のことと違って見えない心の世界のことであるため、科学的分析が及ばないのです。そのため、昔から今日にいたるまで、あらゆる仮説がまことしやかに展開されてきました。その最たるものが宗教です。
キリスト教では、死後、神の裁きを受け、魂は天国や地獄に行くという考え方を示しています。全ては神が死後を決めるという思想です。もともと、人間を含めたこの世界を創ったのは神だから、生も神の創造、死も神の裁断ということになります。つまりすべて神が人間の運命を決めるという思想です。イスラム教では、死は終わりではなく、来世へ向かう通過点と考えているようです。死という最後の日に審判を受け、善行を積んだものは、天国へ、悪業を積んだものは地獄へ、アッラーが審判します。一般科学は、物質主義ですから、死ねば物質がなくなるように、すべてなくなるという考えです。仏教は宗派によっていろいろな考えがありますが、生命は断絶するのではなく、基本的には続くという考えです。日本人の死生観は、この仏教の考え方が受け入れられているようです。
世界三大宗教、キリスト教、イスラム教、仏教は魂や生命は死で無くならないと言う考え方が基本になっています。それに対して物質科学は、死ねばすべてなくなるという考え方です。どちらが正解なのかは、初めに述べたように、誰にも分りません。死に対する謎は、今生きている生命を深く掘り下げ、洞察してゆけばわかるとしたのが、哲学であり、ブッダ・聖人 (注2)の生命観です。
注2 ブッタ・聖人…インドに約2500年に誕生した釈尊を一般的には指します。しかし法華経の正統継承者の中では、三世の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人を聖人と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドの釈尊、中国の天台智顗、日本の最澄と日蓮の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来を予言し、それを的中させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹・天親菩薩がいます。彼らは人間生命の深層を探り、空観や唯識思想や死後の世界を究明したと言われています。
一般の仏教では、死んだ後、三途の河を渡るとあります。その河には、三つの通りがあり、比較的罪の浅い人の通る浅瀬のみち、善を積んだ人の通る金銀でできた橋、罪の重い人のわたる深い激流のみちの三つです。その川岸のほとりには、奪衣婆がいて、罪の軽重をはかるそうです。そして行き先が決まり、地獄の世界、餓鬼の世界、畜生の世界のいずれかの世界へ、あるいは修羅の世界、人の世界、天の世界などのいずれかに行くと説かれています。話を聴くだけで怖くなりますね。唯物論哲学では、人間の身体は物資なので、死によってすべては消滅すると言います。つまり一度きりの人生ですから、ある意味、極悪の殺人をしても死後に裁かれることはないことになります。あくまで、一回の人生で終わりですから。あなたは、どの死生観を信じますか。
ある新興宗教では祖先の霊を問題にし、苦しんでどこかを浮遊しているなどと言います。そしてその魂が生きている家族などに災いを為す、つまり先祖の霊が祟るなど怖い話になったりします。一部の宗教では、この霊魂説を利用して、人の本能的恐怖心と宗教的無知につけこみ、金儲けしているところがあります。死後は誰にもわからないため、どんな仮説も展開でき、本当らしく語ることができ、人の恐怖心に入り込みやすいのです。
果たして死後の生命はどこへ行くのでしょうか? 死とはなんでしょうか?生まれる前はどこにいたのでしょうか?生れたのは偶然なのでしょうか、それとも、 生れるべきして生れたのでしょうか?この問いは、生命とは何かという難問に還ってきます。生命の真実の解明なしに、生まれる前の生命、そして死後の生命の解明もできません。私たちの生命とは一体、何なのでしょうか。ここでは、真理を悟ったと言われている釈尊(ブッダ)を中心とした仏教の生命理論とニコラ・テスラの光・エネルギー論を比較対照しながら考察してみたいと思います。表現が難しくなっていると思いますが、深遠な哲学理論のため、簡単に語ることに限界があることをお許しください。
ニコラ・テスラは記者のインタビューに次のように答えたと言われています。「存在とは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべて生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き産み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一、一つの状態から別の状態に移ることだけです」
一方、釈尊はあらゆる生命は、無有生死(生と死は有ることは無い)と説きます。生もなく死もない、生命は縁によって顕在し、死という縁で空(注3)のかたちに変り、潜在すると悟りました。つまり生命は無始無終であり、始めもなければ終わりもない、あるのは今の生命のみと説きます。釈尊とテスラは同じ世界を見ていたようです。仏法では、生命は二つのかたちをとりながら存在し続けると説きます。生命は有という顕在のかたちをとり、一方で無という死のかたちで潜在すると説きます。例えていえば、夜になって寝ます。次の日の朝に起きます。寝る前の自分を生のかたちとしての存在と考えます。眠ったときを死のかたちで存在していると考えます。朝起きた時を次の生のかたちとして新たに存在しと考えます。寝る前も自分、眠っているときも自分、次の日起きた時も同じ自分、自分と言う我は一貫し連続しています。この我の流れをエネルギーと考えるなら、テスラの考え方と一致します。
注3 空…竜樹菩薩の中心思想の一つ。存在するものを「有」存在しないものを「無」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「縁・境」によって生起し有のかたちになる。「空」は有無の二つの在り方をとる生命現象なのです。
この我は空の状態で存在すると仏法は論じます。自分の我は生まれ変わって、過去の偉人や生物になるわけではありません。自分という我は、あくまで自分で一貫しています。今、生きているときの行為の総体が記憶化され、次の行為につながるように、今世の生き方の総体が心の深い部分の蔵(注4アラヤ識)に空の状態で貯蔵され、自分に適した縁を選び出し、顕在化すると説きます。それを因果応報とも言います。今の行為(因)が一つの行動を起こし(果)、幸不幸の報いを得るのが応報ということです。人の目は欺けても自分の心は厳然と事実を記憶し、その善悪の総体が、次の生のかたちを決めると釈尊は説きました。エネルギーはかたちを変えますが、不変とテスラが言ったことと同じことを指しています。
釈尊は過去・現在・未来という三世の生命を悟ったと言われています。釈尊の生命観、生と死は不二であり、生命は無始無終であり、今の我が姿かたちを変えて因果の総体( 業=カルマ)で連続すると悟りました。つまり、人が死んだら生前の行為の総体(行為、言葉、心で思ったこと)…善と悪そして無記(純粋な知識)という業が意識下に「空」のかたちで潜在してゆきます。その業にふさわしい縁を選んで新たな生命のかたちになり、生まれると説きます。例えば生前、人らしい生き方…人としての戒を守り、敬虔な心を持ち、四恩(親の恩、社会の恩、師の恩、一切の生物の恩)を感じ、それに報いる生き方をするなど)をしていれば人に生れると言います。動物のような弱肉強食の生き方をしていれば動物(犬・昆虫・鳥など)のかたちに生れると釈尊は説いています。全ては自分の行為の結果であり、誰のせいでもありません。これが自業自得の本当の意味です。つまり、死んでも生きているときの自分という我は、姿形を変えて永遠に続くとの理論です。
注4 阿頼耶識 唯識思想では意識の下に、第七識として末那識(自我執着意識)、その下に第八識、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在しているが確かに存在し、意識に影響を与えています。脳に記憶化されたものと考えると理解しやすいかもしれません。天台智顗は八識下に根本浄識としての九識を覚知されました。それを法性(仏性)といい、あらゆる万物を創造する慈悲と知慧の生命と論じています。
インド応誕の釈尊は、菩提樹下で生命の真実相を悟ったと言われています。その悟りの内容を修行面で仏教と言い、法理面を仏法と言います。悟りの内容は深遠であったため、当時の民衆の生命状態や能力に応じて種々のたとえや方便を使って教えを説いたとされています。例えば念仏の南無阿弥陀仏や大日如来の教えや禅や般若波羅蜜経など、40年にわたって八万宝蔵とも言われる膨大な教えを展開しましたが、いずれも当時の民衆の能力や理解度に応じて、生命の一部分一部分(救済に適切と思われるもの)を説いたと釈尊は言われました。部分ですから、それらに執着しては、正しい生命観を持てないと戒めましたが、現存する日本の多くの仏教は、部分に囚われています。それゆえ、真実の法に到ることができていないと聖人は語っています。
釈尊は最後の八年で、真実の教え、生命の全体像を説きます。それが妙法蓮華経(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランのインド、サンスクリット語の漢訳)と呼ばれています。妙法蓮華経とは、宇宙を含めたすべての存在は不可思議な因果俱時の法に則って存在しているというありのままの姿を言葉として表現したものです。この不思議な法を言葉で名付けた方が聖人であり、その語音律(リズム・振動)が妙法蓮華経です。実態は言葉を超えて存在していますが、人間には比喩の言葉でしか表現できないので、聖人は言葉として表現したと言います。そして比喩即真理(比喩はそのまま真理を表す)と不可思議境の世界を説かれました。この妙法蓮華経の振動は、今この瞬間にも私たちの生命そのものとして存在していると言います。当時、書物はありませんので口承で真意を汲んだ弟子たちによって編集され、28品(章)に分類されました。生物の業を説いた比喩品は第三であり、永遠の生命を説いているのは如来寿量品第十六になります。
如来とは、阿弥陀如来や薬師如来など仏(人的側面)と訳されることもありますが、真実の意味は、今の生命の深層から湧き出る私たちの本来的な生命の振動であり法のことです。つまり、今の一瞬の生命は不可思議であり、どこからともなく湧き起こり、私たちの生を支えていますが、私たちは意識できませんし、実感もできません。過去の記憶の総体で自動的な働きの感受である意識で生きているからです。
如来の意味は、瞬間に発動する生命のもつ慈悲と智慧の律動であり振動リズムです。これを光の振動ととらえたのがニコラ・テスラです。生命は永遠に今を振動しています。永遠と言う言葉は時間の変化を表す言葉であり、アインシュタインは、時間はない、変化があるだけと言われました。実際の生命は常に今しかないのです。アインシュタインもニコラ・テスラも、こうした世界の一部を覚知されていたと言われています。だからあれほどの発見ができたとも言えます。この今の生命の真実の在り方、如如としてくる生命にリズムを冥合させることが真の幸福に至る道(仏道)と聖人は語りました。あなたもぜひ、思索研究され、生命の真実に接近されてみてください。
「ひきこもり・不登校・心の不調からよみがえる本」(松岡敏勝著・来春出版予定) 第五章より
2、生まれた時から、差があるのはなぜですか(中学生3年女性)
質問
両親はよくけんかをしていました。私が小学校3年生の時、二人は離婚しました。母親と私たち兄弟3人の生活は、経済的に苦しく、母親は、長女の私に厳しくなりました。同級生の恵まれた家庭を見るにつけ、「なぜ、こんな親の元に生まれたのか」と疑問を持ちながら生きています。家のせいなのか、暗いと人によく言われます。金持ちの家に生まれたり、いい親をもつ家に生まれたりするのは、なぜなのでしょうか。その理由が知りたいです。
回答
とても難しい問題ですが、私たち人間にとって大事な本質的な問いになっています。この質問の問いは、前質問「人は死んだらどこへ行くのか」と重複しますが、大事な問題なので、再度、生命哲学視点から述べてみます。
あなたの質問は、「生まれる前の自分はどこにいたのか?」という問いに置き換えられます。また「人間死んだらどこへ行くのか?」という問いにもなり、生命とは何なのかという本質的な問いになっています。私も青春の頃、そうした問いに悩み、ソクラテス、プラトン、キリスト教神学。近世のデカルト、パスカル、ニーチェ、キルケゴール、ショウペンハイアー、カント、ベルグソン、日本の哲学者西田幾大郎の「善の研究」さらに、ユングの無意識心理学、聖書、仏教の唯識思想、生命論と読み漁りました。その中で最も共鳴できたのは、仏教の唯識思想とユングの集合無意識という考え方でした。ここでは簡単に説明させていただきます。
仏教の無意識世界とユングの無意識の世界には共通点があるように思えます。仏教の唯識思想派では、五感(眼、耳、鼻、舌、身)という感覚を意識が判断思考します。意識が六番目の「識」です。ここまでが意識の世界で、その下が無意識層で、七番目に「自我執着意識」があります。今の言葉で言いかえれば、自己愛に近い意識があり、自己への限りない執着があります。これがともすれば正しい生き方の足枷になり、人間に不幸をもたらすことになると言います。その下に、私たちが身体で行動したり、言葉で働きかけたり心で思ったりしたこと全てが8番目の行為の貯蔵庫に納められるというのです。行為の貯蔵庫の識をアラヤ識といいます。このアラヤ識、業・カルマの貯蔵庫は、生きているときも死後も「空」の状態で存在しているといいます。(前述)
個の生命は、自分の業に応じた条件を選び、次の生を始めると説いています。つまり、今生きている行為の全体が、次の生につながるという考え方です。差異は生れる時、始まるのではなく、今世の終わり、つまり死の段階で決まることになります。これが差異を作るカルマの法則です。エネルギー保存の法則に似ています。金持ちとか、社会的な地位がそのまま続くということではなく、行為の内容…善か悪か、つまり他者の生命を慈しみ、育む、守るという善の行いをどのくらいしたのか、また、他の生命を傷つけ、害したり、さげすんだり、馬鹿にしたり、だましたり、自分だけのことしか考えず、他の生命を利用するような生き方をしたのか、「善悪」どちらの生き方が多かったのかが、死の瞬間に、自分が自分を裁く厳粛な時が訪れ(閻魔の裁きとも比喩的に言われている)、次の生のかたち・差異が決まるというのです。
人間に生まれてくるには、やはり人間らしい生き方をしていないと人間には生まれないと言われています。動物的な生き方…本能のまま、弱肉強食の生き方であれば、次にふさわしい生命のかたちは動物かもしれないというのです。自分にふさわしいかたちや場所を選んで次の生の形と場所を自らが選択するという考え方です。来世の生まれたときの差は、つまり今世の自分の生き方が作り決定するとの考え方です。
生命は死によって断絶するものでもなく、何かに生まれ変わるという転生ということでもありません。今日の夜、眠る=死、明日の朝、生まれる=来世。全く自分は連続したものです。見えない、知覚できない七番目と八番目の無意識の世界が続くのです。自己の我は連続して一貫しています。これがカルマの法則です。生命の因果は見えませんが、無意識の中に確実に刻印される厳然たる法則であり、おまけも割引もないと言われています。自分の脳そして深層心に記憶され、消えることなく連続します。それはエネルギーが姿かたちを変えても不変であることと同じです。位置エネルギーが電気エネルギーに姿かたちは変わっても、エネルギーは不変です。同様に、前世の自分と今世の今の自分は姿は違いますが、エネルギー本体の 我(心の法則)は一貫しているのです。これを業(生命の因果)の法則といいます。
社会法、国法、世間法は人をだますことができますが、自らに内在する生命の因果はごまかしがききません。仏教では、こうした見方ができることを正見(ただしくものごとを見る)と言います。不幸の原因は生命を正見できないところにあるとブッタは説きました。この考え方からすると、あなたは人間に生まれてきていますので、前世で人間らしい生き方(戒律=道理、倫理を守る生き方)をしていたからだと思います。親という環境をどう受け取り、どのようにいかしていくかで、生き方も変わり、価値も変わっていきます。
私は六歳で母親を亡くし、兄弟七人、酒乱の父親、養育放任、極貧の中で少年期を生きました。恵まれない環境でも生き方や関わり方一つで大きく開けることを経験から知りました。あなたも、自分の人生を、自分らしく探求され、自らを高める方向に進まれてください。未来は、今の生き方でどのようにも変わっていくからです。運命として決まっているわけではなく、生命は蘇生力(そせいの力。よみがえるエネルギー)を秘め、柔軟であり可変性に富んでいます。ここが生命の持つ可能性のすばらしさです。私の好きなドイツの詩人シラーは詠(よ)みました。「汝(なんじ・あなた)の運命の星は、汝の胸中にあり」 必ず希望の未来は開けます。
「ひきこもり・不登校・心の不調からよみがえる本」(松岡敏勝著・来春出版予定) 第五章より
地球は生きています。私たち生物と同じように…。地球は地球自らのものであり、自分の役割を誠実に果たしながら、慈悲の働きをしています。大気中には、私たちの生命活動の根本である細胞に必要な酸素がほどよく存在しています。また月や太陽や金星などの惑星と絶妙な距離を保ち、重力や引力が均衡し、今の領域を保っています。地球は24時間で昼夜を織りなし、太陽の周りを1秒間で30㌔という速さで、私たち生物を乗せて365日で回遊します。その期間を人間は1年と名付け、日本人は春夏秋冬を味わっています。地球はだれの指示に従うわけでもなく、自らの本然の力である慈悲と智慧の働きを演じているのです。
そうした神秘的な働きのおかげで、私たちは宇宙に浮遊することもなく、大地に足をつけ、太陽光の強烈な紫外線やガンマ線などに曝されることもなく、適度な水と温度、湿度の恩恵に浴し、生きていくことが出来ています。生物は、生まれ、自分の役割を演じ、生を終えていきます。地球も生物も人も同じ生命体です。これを生命現象の「生住異滅」(注)とブッダは悟りました。
地球の活動は慈悲を根本にした智慧の働きに支えられています。慈悲とは苦しみを抜き、楽しみを与える働きです。地球上のあらゆる生物の苦しみを和らげ、楽しみを与えゆく慈悲の実行者にして慂出する力それが智慧です。あらゆる生物は、地球の恩恵に浴し、慈悲と智慧に守られながら生きることが出来ています。
地球上には大気圏が地上から、約10万キロmまであり、宇宙空間からくる電磁波が人間にもたらす被害から守っています。地上の生物や動物や人が生きていけるのは、酸素が存在し、海があり、人間の血管のように河川があり、血液が流れるように水が流れているからです。
地球の自公転や水が生物の生を支えています。私たちは、普段当たり前のこととして、それらの恩恵を享受していますが、けっして当たり前のことではなく、奇跡的出来事なのです。地球の有り難さの一部を感じるのは、地震や気温の急激な上昇や線状降水帯発生などの時ぐらいでしょうか。
地球の兄弟星、火星や月には酸素がほとんどありません。金星は温室効果ガスの影響で表面温度が460度の灼熱の惑星です。美しい輪を持つ土星の輪は、氷の粒と岩石の集まりでありガスの惑星です。太陽系では地球だけが生物が住める不思議な惑星です。
太陽からの距離が絶妙な位置にあるため、地球上では生物が生きていけます。太陽が光を程よく調和するかのように、可視光線、赤外線、紫外線などを届けてくれています。太陽の光のおかげで、暗闇の宇宙に光が灯され、私たちはものを見ることが出来ます。絶妙な気圧のおかげで振動を受信し音や声を聞くことが出来ています。私たちは不思議な働きに守られています。
私たちは、無料で地球に棲んでいます。現代の人類は、地球全体の働きを考えることもなく、加工したりして自由に使っています。科学的発明がなかった昔、人々は、太陽を礼拝したり、水神を祀ったり、地神に手を合わせる純な敬虔な心を持ち、地球や太陽の恵みに感謝していました。今は、他の生物の生態系を壊し、母船である地球そのものを壊しつつあります。このまま進めば、生物は少しずつ絶滅し、人類も滅びてゆくことになるかもしれません。森林伐採、砂漠化、工場が出す煤煙、汚染水で海や川が汚れ、多くの生物が死滅しています。二酸化炭素の排出と気候の温暖化、食用のために動物の殺、養殖。客観的な目で見れば、人間のしていることは果たして善なのでしょうか、悪なのでしょうか…。
地球が生命ある存在ということに気づいていないのでしょうか。地球が傷つき、苦しんでいるのが分からないのでしょうか。科学が進歩し、物理天文学、量子力学も日進月歩しています。スマホ一つで、用が足せる便利社会になり、子どもから大人まで、楽しさやおもしろさに溢れる視覚快適感覚にはまり、未来を見つめる想像力は衰え、考えることすら止めたのでしょうか、生物や地球環境のことを思いやることを忘れているのでしょうか。科学の進歩は何のためだったのでしょうか。見えるものを相手にし、大事な心を見ようとしない生き方が社会や時代の濁りを生み、心身の病気を招き、応急対処的な症状除去の医療に身をまかせ、根本を見ることをせず、人類や生物を破滅に導いている気がしてなりません。気候変動、地震や自然災害、地球はSOSを出しています。しかし、そのサインを、誰が読み取っているのでしょうか。
地球の生物の90%は植物です。残りの10%が動物・昆虫・微生物などです。動物の中でも人はごく微小で、人ひとりに対して、ありは一万五千匹の比率です。地球の動物の主役は昆虫です。生物、特に動物は弱肉強食の本能の法則で生きています。最も限度を知らない動物は、人間かもしれません。脳の発達のおかげで、道具を開発し、言葉を持ち、記憶化した知識で、地球を恣にしています。その欲望の先にあるのは、美しい緑の地球から、荒廃した生物の住めない惑星の姿かもしれません。
誰のものでもない地球、地球は地球自らのものです。「ここの土地は自分のものだ」と言い張り、人を平気で押しのけ殺す人たち…その極致が戦争です。戦争は自己中心性から発する人間魔性の仕業です。宇宙に浮かぶ地球を想像することができれば、地上の生物や人はみな地球号に乗った運命共同体と自覚できます。人間の傲慢さや貪欲さが、やがて地球を破滅させてゆくかもしれません。まず、地球も太陽も金星も月も私たちと同じ生命体と明らかに見る心を持つことです。地球の恩恵を感じる心が、自分も他人も守り、幸福にしていきます。地球の恩をありのままに感じる純な心をもつことこそ、人としての正しい道であり、幸福になる道なのです。
(注)「生住異滅」仏教哲学の言葉。あらゆる生命体や生物は、生れ、成長し安定し、やがて衰え、滅びてゆくという法に則っているということです。つまり、生命は生と死という法であり、どちらも生命の在り方の表現です。物理学視点で説明するなら、エネルギーが生命本体であり、変化する姿が生と死です。例えば、光の持つエネルギ―が電気エネルギーに変る時、光は死であり、電気が生です。エネルギーの姿が変っただけです。ニコラ・テスラはこのことを「存在とは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべての生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き、そして産み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一、一つの状態から別の状態に移ることだけです。これがすべての秘密の回答です」と語ったと言われています。
「ひきこもり・不登校・心の不調から蘇る本」第三章から抜粋 (2026年1月出版予定) 松岡敏勝著
書籍… 不登校・ひきこもり・心の不調から蘇る 芝蘭の便り
第一章 不登校・ひきこもりの心理
1、不登校・引きこもりになったとき親が考えなければいけないことはどんなことでしょうか 2、なぜひきこもるのでしょうか 3、不登校、ひきこもりに不足している心の安心領域とは何ですか 4、現代社会はひきこもり・不登校にどんな影響を与えているのでしょうか 5,なぜ不登校・引きこもり・心の不調者が増加するのでしょうか 6、ひきこもり・不登校の心理的要因と再生の道 7、心の安心領域はどうすれば育ちますか コラム1 不登校を産み出す学校環境
第二章 生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある
1 人間の基本は自分の身を守る本能的行動 2 人間は思考する感情の動物 3 強い刺激は頭の中を巡り 心を乱す 4 生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある 5 生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人間 6 人間は何のために生きるのか…青年釈迦の苦悩
第三章 不登校・ひきこもり・心の不調を解決する心の具体的な方法
1,ストレスと健康 2,不安を軽減する方法 3,感情と思考と言葉 4感情は言葉や思考で制御できない 5,最も制御することが難しい感情は怒り 6,怒りを調整する方法 7 心を平穏にする方法 8,対人不安を軽くする対処法 9,嫌な気分を受け入れたまま生きる 10,執着を解放する方法 11,人の心が分かるようになるために 13心の壁は臆病が描き出した幻にすぎない 14,対人関係をよくするさわやかな表現法 15,安心感が育つと 自立しやすくなる 16,心が持つ不思議な働きと力を知ると心が軽くなる 17,地球の働きを知れば 本当の生き方に目覚めていく 18,生命本来のリズムに乗って生きれば心は安定し 平穏になっていく
第四章 本来の自己に出遭うとき、自分らしく生きることができる
1,自分らしく生きることが幸福 2,自分らしさの探求は社会常識との戦い 3,自分らしさの獲得は自分独自の規範を作ることにある 4,社会常識を昇華することが心の独立 5,自らの光で周囲を照らす生き方 6,自分というかけがえのない個性を自覚する 7,何に価値を置いて生きるかが大事 8,他人の評価に振り回されない自分を築く 9,健康的な習慣が自分らしさを発揮させる 10,自分を自分らしく表現する方法 11,自他尊重のさわやかな自己表現法
第五章 質問に回答する
1,自分が嫌いです。自分を好きになるにはどうすればよいですか?(高校生)
2,人は死んだらどうなりますか?(大学生)
3,生まれながらに差別があるのはなぜですか?(中学生)
※この書は、知識を集大成させた机上の学問の本ではなく、思想、哲学、文学、宗教学、心理学、身体学、諸科学の筆者の遍歴と50年間の教育実践、思春期の青年との関わりから試行錯誤し、研究したものから生まれた経験・実践をまとめた筆者独自の芝蘭の便り・本です。
以下に、第一章の1 第二章の6 を紹介します。
第一章 5 親が 考えなければならないことは、どんなことでしょうかが
子どもが不登校・ひきこもり状態になったとき、親が考えないといけないことは、原点に戻ることです。この場合の原点とは、苦しんでいる子どもの心です。子どもの心と向き合い、子どもの心を知ろうと努めることが最初にやるべきことなのです。なぜ、このような状態になったのか。その要因はどこにあるのか。何が過剰であり、何が不足していたのか、どこの部分を支援すれば、子どもが人間的な健全成長を遂げることができるのかを考えることです。子ども自身も、なぜ今の状態に陥ったのかがわからないこともよくあります。
不登校・ひきこもりという出来事は、一面から見れば苦という状態ですが、視点を変えれば、親も子どもも一緒に、人間的に成長する、またとない機会を与えてくれたかけがえのない出来事と見ることができます。そのようにひきこもり・不登校という心のありさまを前向きにとらえることができれば、本質的解決の道に入ることができます。
子どもが、どんな状態になっても、子どもをそのまま受け入れ、大事に守っていくという無条件の愛情(注3)を親が持つことができれば、子どもは必ず良い方向に向かっていきます。また、親自らが誠実に子どもの成長を願い行動している姿は、必ず子どもの心に届き、やがて心を開いてゆくようになります。苦悩する子どもにとって、親の真心の愛情に勝る良薬は、この世界にはありません。ユダヤのことわざに「母親は百人の教師に勝る」とあるのはこの意味です。
芝蘭の室を訪れる長期不登校・ひきこもり者は心療内科にかかったものや公的な福祉機関に通所した経歴を持っています。数カ所を巡った人も少なくありません。そのほとんどの人が、改善せず芝蘭の室に来所しています。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。
脳の神経伝達物質(セロトニン、ドーパーミン、アドレナリンなど)を標的にする薬では、心の問題を解決することは困難であり、本質的な対処にはなりません。解熱剤ぐらいの一時的効能はあるかもしれませんが、あくまでも一時的な症状緩和であり、本質的解決をもたらしてくれるものではありません。なぜなら、心とは何か、意識とは何かが現在の最先端の脳科学でも解明できていないからです。ただ分かっていることは、心は脳をはじめとした身体を通して、「苦しい、痛い」「気分が悪い、何もする気がしない」などの苦しみの言葉や気分や症状として表現されるということです。その身体の主要な一部の働きを担っているが脳ですが、すべての細胞に心の働き(注4)がみられるのも事実です。だから難解なのです。
心の不調の場合、多くの場合、苦しみは心の炎症から生じています。身体のそれと違って心の傷は見えません。服薬は、依存性を高めたり、副作用による身体の不調を招いたりすることがあります。不登校状態を長引かる結果にもなりかねません。複雑な心を診ることは大変難しいことなのです。心の病は見立てと対処を間違うと悪化するのは、身体の病気の誤診と同じです。ただ心の場合、誤診(注5)していても、曖昧にすることができます。私たちが、慎重に賢明にならないと、心の健康を守ることもできなくなります。
(注3) 無条件の愛情…ヘレンケラーを世界的偉人に育てた陰の支援者はサリバン先生です。目が見えなくなり、三重苦から自暴自棄に荒れ狂うヘレンに対して、彼女は忍耐強く無条件の愛情を持ち続け、終生ヘレンに尽くし、彼女の持つ可能性を開いたとされています。ヘレンの偉業はサリバン先生なくしては成し遂げられなかったと言われています。ヘレンは「私を作ったのはサリバン先生です」とサリバン先生の恩に報いる行動を生涯、貫いたと言われています。
(注4)細胞に心の働き…すべての細胞は振動し、微弱な光を出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。人間を構成する細胞は約46兆個と言われていますが、その細胞一つ一つが生命現象を演じ、酸素と栄養を取り入れ、新陳代謝し、エネルギーを発し、環境変化に適応し生と死を演じています。奇跡的な働きです。分析できる見える物質を支えているのが見えない働きです。心は関係性で生起するので、とらえることができないと、最先端の量子力学が「量子のもつれ現象」などで、心の不可思議さの一面を分析しています。
(注5) ●「誤診」(心の科学、NO164…精神科臨床における誤診、薬物療法偏重と誤診、うつ状態の鑑別診断と誤診、大人の発達障害と誤診などが編集されている) ●「精神科臨床はどこへ行く」(心の科学・井原裕編)‥薬を巡る諸問題、治療現場で起きていること、PTSDの乱発―心のケアのいかがわしさなど●「ブラック精神医療」(米田倫康著)‥知ってほしい精神医療現場の驚愕の真実
第二章 6 人は何のために生きるのか…青年釈迦の苦悩
ここで一人の人間、釈迦(注3)の例をあげてみます。釈迦は王子として生れ、王宮の中で何不自由のない生活をしていましたが、19歳の頃、心に湧きおこる虚しさに苦しみます。「私は何のために生きるのか」「私の心はなぜ、こんなにも空しいのか」と生存の意味を問う苦しみに悶々としていました。
ある日、王宮の東門から出た時、老人を見、人は老いることを知ります。南門から出た時、病人に会い、生あれば病があることを知ります。西門から出た時、死人を見、人は死ぬことを知ります。最後に北門から出た時、端然威儀具足した修行者に会い、姿も心も清浄なものを見て、出家得道の望みを起こしたと言われています。有名な「四門遊観」(注4)の話であり、釈迦が「生老病死」という人間の四苦と真正面から向き合った瞬間でした。釈迦は、その解決のため、王宮での恵まれた生活を捨てて、人生の真理を求めて、苦悩充満する娑婆世界(娑婆とは堪忍の意味、実社会は思いどおりにいかない世界という意味)に生命探求の旅に出ます。
人生とは苦なのでしょうか。生きるとは苦しみの連続なのでしょうか。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。人間として存在する意義はどこにあるのでしょうか。人生とは、一面からすれば、生きる意味、存在の意義を、生涯をかけて探す道のりと言えます。苦悩の人生は人の心を耕し深くしてくれ、苦しみは心を浄化させてくれます。苦悩の中で自分の心を見つめ、人生の真実の一部を見つめることができるようになります。聖人や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちだと思います。
生きている今の瞬間の生命は常に変化し、同じところにとどまっていません。瞬間の生命には苦もなく楽もないとは釈尊の悟りです。今の瞬間は純粋な経験であり、色付けできないものです。それを苦と感じるのは五感であり、それを鮮明にし、思考と言葉にした意識の働きです。過去の記憶化された潜在意識の染色の結果なのです。本来の瞬間は、新しい純粋な経験です。古来より生命錬磨の修行をした先人たちは、生きる意味を模索し、幸福な生き方を探究しました。そして人間の欲望こそが苦の原因だと究明し、心を浄化させれば、幸福になれると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、不眠の修行をしたり、異性を遠ざけたりなどして苦の原因を断じようとしました。釈迦在世のインドは、そのような修行して悟りを得たいう六人の指導者が支配していたと言われてます。
すべて苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす煩悩(欲望)(注5)を克服した後に、真の楽があると信じた修行でした。釈迦もその修行を一時期されましたが、苦行に徹しても幸福は得られないと悟り、独自の道を歩まれたと言われています。人間が生きていることは、煩悩に従って生きていることと言えます。その欲望が苦にもなり、楽にもなります。つまり、苦楽は心の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生の存在の色が変わります。楽しい世界を心に描き、意識して強く心を定めて生きれば、心は楽に満ちてきます。そのように心を描くのは、今の意識です。意識を磨けば、どの瞬間も楽しんでいけるようになります(注6)。これが真の楽観主義であり、自己肯定であり釈迦(釈尊)の悟りと言われています。
釈尊は語ります。心を研ぎ澄まし、心が清らかになれば、その純粋な心に宇宙の慈悲の振動が共鳴し、私たちの心に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなると。自己が宇宙の慈悲と一体になり、喜びに包まれます。それが最高の楽であり、聖人・賢人が求めた世界とされています。そのためは、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。釈尊は、悟りは知識では得られない、実践の中での生命の体得だと、ことあるごとに弟子たちに諭したと言われています。
(注3) 釈迦…悟りを開いた後、尊敬を込めて、釈尊とか、ブッタ、ゴータマシッダルタなどと呼ばれました。成道後(仏を悟った後)の40年間の教えは、八万宝蔵と言われ、インド、中国、韓国、東南アジア諸国などに広がる中で釈尊の教えは伝承者により変化してゆきます。日本では、最澄・日蓮の法華経や法然・親鸞の浄土教・阿弥陀経やマインドフルネスに影響を与えた禅、般若心経、観音経などが知られています。
(注4)「四門遊観」の話…宮沢賢治の詩「雨にも負けず 風にも負けず…東に病気の子どもあれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいといい 北 に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい…」 一部の抜粋ですが、ここには釈迦の「四門遊観」の話になぞらえたものが書かれていると言われています。宮沢賢治は、法華経の信奉者であり、彼の文学の根底には法華経があったと言われています。詩のメモの最後の部分には、法華経に出てくる菩薩や如来が書かれていたそうです。
(注5)煩悩…仏教用語。人間の心身を煩わせ悩ませる種々の精神作用の総称。根本煩悩として、貪(むさぼり),瞋(瞋り・いかり)、癡(おろか)、慢(おごり)、疑(疑い・迷い)の五つを挙げています。その他、隋煩悩などがあり総勢108個とする説もあります。除夜の鐘の108回撞く習わしは、一年間の煩悩を消滅し、新しい年を幸せに迎えたいと言う願いが込められていると言われています。
(注6)「どの瞬間も楽しんでいけるようになる」…釈尊は「衆生所遊楽」と説きました。衆生とは、細胞の集まりのあらゆる生命体という意味であり、人間と訳すこともあります。人間は、この世に、自在に自分を発揮し、楽しむために生まれて来たという意味です。
※本に関する問い合わせは、芝蘭之室ホームページ予約画面のメッセージらんのメールでお願いします。価格は税込み2000円(通信購入の方は、送料・振りこみ料込み)の予定です。本屋での流通予定はありませんので、本屋での購入はできません。購買は芝蘭の室経由になります。
書籍「心を健康にする本」…改善率96%のマインドフルネス・認知行動療法・自然療法の3種の哲学・科学を調和させた芝蘭独自の療法 来春3月 出版予定
主な内容…心がわからないと心の病は治せない / 心の病の原因 / 心も体も物質もすべて振動している/ 脳と心と薬の関係 / 五感覚と意識の関係 / 潜在意識が意識に与える影響 / 心の安定に関係する自己愛と母性愛(慈愛) / ストレスと適応/ 生き抜くとは闘いである
自分を好きになる方法 /心の傷をもって生きる方法/ よい人間関係の作り方/ コミュニケーションの上手なとり方/ 発達障害の活かし方 / 不安症の改善法/ パニック障害の改善法 / 強迫観念の改善法 / 反芻(はんすう)思考の改善法/ 抑うつの改善法/ 依存症の改善法 / ひきこもり・不登校の改善法 / 夫婦不和の改善法
怒り・悲しみ・感情の整え方/ 執着を解き放つ方法/先端科学の量子力学と心の世界の関係性/ ブッダの哲学と量子力学の共通点 / マインドフルネス、森田療法の基礎になっている仏法哲学
自然・生体リズムに則って生きると健康になれる/ 崩れる幸福と崩れない幸福 /心身を健康にする瞑想法 自分らしく輝いて生きるための哲学
※改善率について。3回以上の継続来談者は100%改善していますが、1~2回で来談が途切れた方の改善は把握できていません。ですから改善率は96%になっています。
生きることは サバイバル…
生きるためには食べなくてはいけません。食べ物を確保しないと生きていけないからです。2024年世界では、推定約6億7300万人が飢餓状態に直面しており、これは世界人口の約8.2%にあたります。この数は飢餓人口の減少傾向が見られるものの、2030年の「飢餓ゼロ」という持続可能な開発目標(SDGs)の達成にはほど遠い状況ですが、これが地球の人類の実態です。
食べ物を得るためには、睡眠をとらないと活動できません。そこで安心して寝ることができる住みかが必要になります。一人では食べ物を得ることに限界がありますので、他者との協働が必要になります。ここに共同体が生れていきます。他者と支え合わないと食物を得ることができなくなり、生き抜くことができなくなるからです。
現在の地球上では、紛争状態にある国の正確な数は年々変動するため特定が難しいですが、英国際戦略研究所(IISS)の「武力紛争調査2024」によると、2023年7月から2024年6月の間に世界で約20万人が紛争による死亡者とされています。また、ウクライナ侵攻やシリア内戦など、現在進行中の紛争は複数存在し、それらの影響を受けている子どもたちの数は約4億7千万人にも上るとも言われています。これらの紛争の根本的原因も、もともとは食べ物をはじめとした物質の確保のためであり、生き残るためのものです。現実はきれいごとではなく、残酷です。これが動物種としての人類が生き抜くことの実態なのです。
争い、紛争、戦争は食べ物、物質、領土の奪い合い、つまりサバイバルから始まります。こうした動物性の克服を可能にするのが人間の持つ知性です。しかし、その知性が自己利益、集団利益、国家利益のためだけに使われると、こうした悲劇を生み出します。地球人類は、未だこの課題を解決できていません。国連の平和協議は絵に画いた餅のようであり、ウクライナの惨劇をとめることはできていません。力(暴力・武力・核力)こそ正義がまかり通る野蛮な世界、それが残念ながら地球の現状なのです。人間知性では、人間の欲望を制御できないことを物語っています。では、こうした人間の自己中心性による悪を克服できる方法はないのでしょうか。その方法を模索したのが、過去の思想家であり哲学者であり、宗教家でした。そしてその道を極めたとされているの人たちを、聖人(注1)と呼んでいます。
注1、聖人…一般的には世界の主要な宗教や哲学の開祖を指し、孔子、釈迦、イエス・キリスト、ソクラテスの4人を指します。彼らはそれぞれの時代や地域で人々を導く教えを説き、人類の文化や思想に多大な影響を与え続けています
人間行動の根っこは 本能的な身を守る行動
赤ん坊や幼い子は、本能的行動のまま生きています。親も、そのような本能的行動を満たしてやります。それが保護であり、その時点での養育になります。こどもがわがままなのは、本能的行動のまま生きているからです。人は、食べる、眠る、生殖活動をするという本来的に持つ能力(本能という)で生きています。そして、その本能の活動を支えるのが脳神経の電気信号による快と不快という感情です。だから食べようとしますし、眠ろうとします。また、種を残すために、生殖活動をします。食べ物を食べて美味さを感じないと、食べなくなるかもしれません。安眠は、心地よさを伴います。また生殖行為には快楽が伴います。そうした脳内の電気信号による快楽報酬があるから、人は本能行為をし、生を保つことができるのです。
逆に本能行動が満たされないと、不快、不満、怒りなどの苦しみを味わうことになります。さらに、人と協力活動をするという社会性が必要になります。ここに人間関係の苦しみも生れます。このようにして人間は自らの身を保ち生きてゆきます。これが人の生きる基本です。天皇も有名人も凡人も貧困者もみな、この基本的な本能を全うしながら生きています。また、この本能的欲求の過剰性が、社会的犯罪や戦争までもたらします。また本能が満たされない場合も、社会的犯罪につながります。「衣食足りて礼節を知る」のが人間です。このような本能はだれもがみんな平等に持つものであり、人間の平等性の証の一つです。そしてこの本能的欲望の調和状態が病と健康の分かれ道になります。人間性の一つは、こうした欲望を調整できているかどうかによります。前述の釈迦や孔子やソクラテスなどの過去の偉人たちは、この本能的欲求を調和させ昇華し、人間性のすばらしさを証明した人たちと言えます。
本能が満たされないと不快、不満、怒り、不安、恐怖という苦を感じる
ここまでは、他の動物にも見られる本能行動の基本ですが、人間も動物の一種であることを自覚することが大事です。人間の苦しみの多くは、この本能行動に原因があるからです。食べ物や住まいを得ること、現代では、お金を稼ぐことにつながります。お金は労働の対価です。お金を得るために仕事をし、人と関わらなければなりません。お金を多く稼ぐことができれば、富裕者となり、豊かな暮らしができ、快適、快感をほしいままにできます。逆にお金に窮すれば、貧困になり、生活が苦しくなり、家族を持つ場合は、子どもの養育にも影響してきます。社会的犯罪は、この人間の本能の過剰と不足に原因しています。そして、詐欺、強盗、殺人、窃盗、ギャンブルなど多くの社会問題が起きます。また、生殖本能では、不倫、性的犯罪、ストーカー殺人など多くの犯罪が見られます。さらに集団生活の必要性から、集団のリーダーである権力者が生れ、名誉名声を過剰に求め、人権を無視した行為が生れたり、集団に適応できないひきこもり・不登校が生れたりします。
快を求め・不快を避ける本能的行動
人は生きるために不快・嫌悪・恐怖を避け身を守ります。そして安心、快適を求め、身を養います。つまり好きか嫌いかという快不快感覚が生きるために最初に反応します。それは人間の行動原理の第一法則です。誰人も、この法則に則って生きています。今の苦楽は、人の目・耳・舌・鼻・身に発した感覚の反応が言葉に置き換えた意識活動の結果です。思い通りであれば快感を味わえます。うまくいかないと不快感に支配され、怒りや嫌悪、恐れなどの苦しみになります。人が他の動物と異なるのは、二本足で歩行ができ、手が使えること、大脳皮質が発達し言葉が使え、記憶をもとに思考できる働きを持っていることです。
人間の苦しみは 思考することで増した
人間は自然のうちで最も弱い一本の葦(あし)にすぎない しかし、それは考える葦である(注1)
苦しさを感じ、生きるか死ぬかと考えるのは、この地上で人間だけです。動物も植物もそのようなことは考えません。例えば事故などで脳の大脳皮質の思考野などを損傷すれば、生きる苦しさなど考える思考が活動しなくなり、植物的生命状態で生き抜くことになります。その場合、人は動物的生に近くなります。動物は、苦しさより恐怖と快感の本能で行動しています。思考することはほとんどなく、快・不快の本能的反応行動が中心です。
(注1)葦(あし)…水辺に生える植物で風に弱く、容易に倒れてしまうことから、人間の肉体的弱さやもろさを象徴しています。しかし、人間は、他の動物にはない思考力を持つため、自分の弱さを自覚し、宇宙の大きさを認識し、死を意識することができる、という点が強調された哲学者パスカルの名言です。
自分は自分と意識できるは記憶の働き
「われ思うゆえに我あり」とデカルトは言いました。思考し、それらを意識するために、自分は自分だと確認できます。考えることで、人間だけが自己認識できるのです。しかし、考えるために、人間は悩みと苦しみを引き受けることになりました。反面、思考することで人間は進歩発展し、物質的に豊かな生活を送ることができるようになりました。思考するという人間に与えられた特権をどう使うかが重要になります。思考は言葉によってなされます。
言葉は過去の記憶・知識ですが、言葉には心の思いとしての感情が伴います。それはAIにはない人間独自のものです。苦と感じるのは、知識・言葉よりも、それと一緒に生起する感情です。AIには感情はありません。正確な電気信号による知識があるだけです。苦からの解放は、感情をどうコントロールできるかにかかっていると言えます。人間は思考する感情の動物です。波のように生まれた感情のエネルギーは、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしかありません。それは、今の感情に支配されている意識を他の対象に置き換えることで可能になります。
意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることです。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーのもつ余派はすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したもの(感情と表現している)の余情や余韻が自然に消えることを待たなければなりません。一度起きた湖面の波が消えるのを待つしかないのです。
強い刺激は 頭の中を巡り続ける
強い刺激とは、前述した本能行動と関係しています。一番強い刺激は、自らの身が危機に瀕する時に生じる、恐怖と怒りです。恐怖場面に出遭ったとき、人も動物も、逃走か闘争かの二者択一を迫られます。闘争の場合は、対象に対して激しい攻撃的怒りを発します。逃走の場合は恐怖に支配されます。その恐怖感は深く心に刻まれます。闘争の場合も同様に心に残ります。そして、何かあるたびに心に浮かびあがり、自らを苦しめます。その心的状態をトラウマ(心的外傷)と表現することもあります。この繰り返しが頭の中で起きる現象を反芻(はんすう)思考と呼んだりします。心を病んでいる人に多く見られる心の働きです。また、強い刺激には快刺激も含まれます。刺激に伴う快感の強さは心に深く刻まれ、やはり頭の中を巡り、何かに触れて思い起こされ、行為を繰り返します。いわゆる依存症です。昔から言われてきた「飲む、打つ、買う」に代表される、アルコール、ギャンブル、買春という三つの本能的反復行動です。現代は、ゲームやスマホ依存が加速し、世の中の大半の人たちが依存症になっていると言われています。
反芻思考は、記憶の働きがある限り、だれしもが経験するものです。ただ、その思考のため生活に不自由を感じ、頭の中をぐるぐる回り、頭から離れない思考を病的思考と呼んでいます。侵入思考、自動思考、強迫観念とも重なる心的働きです。それは、ある時のある出来事が記憶され、反復することにより強化され、その記憶が無意識層に潜在、堆積されているからです。そこから 波のように何気に起きてきます。制御が難しいため苦しみます。しかし、忘れてはいけないことは、「やけどした子が火を恐れるようになる」とあるように、恐怖体験は身を守るための本能の働きであるということです。
生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある
生き続けていれば、よいことにも出遭えます。人生は空模様と似ています。いつも晴れではありません。雨や雪そして嵐であっても、いつまでも続きません。台風も一週間もすれば通り過ぎます。暗雲が垂れ込め重苦しい空模様の日でも、雲のかなたには太陽はいつも輝いています。目で見えなくとも、心を働かせば輝いている太陽を描くことができます。同じように、どんな辛い苦しみも、いつまでも続きません。空模様と同じです。そして見えなくとも心には、いつも太陽が存在しています。空のたとえが教えてくれるものを信じて、今を耐え、今日を生きるようにします。今日、しなければいけないことをします。今をとにかく生きます。そうすれば空模様が一定でないように、心模様も変わっていきます。だから、人は生きていけるのです。「冬来りなば 春 遠からじ」(ドイツの詩人シラーの言葉) 冬は苦を象徴し、春は希望であり、楽を表しています。
筆者の苦しみ多き青少年期
楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦しみとの闘いです。なぜなら、生きることは常に新しい出来事・変化を経験することなのです。新しい経験であるためうまくいかないことは当然なのです。うまくいかないと人は苦しさを感じます。私の過去を例に話してみます。七歳で母親と死別しました。兄弟7人、10年の間に7人ですから、ほとんど年子状態です。父親は寂しさのためか、酒浸りとなり家に帰って来ず、子どもを放置した状態でした。小学生の頃は、生活苦に苦しめられました。食べるものがない、寝る布団がない、服がない、電気がない、年上の人たちからの不当な暴力やいじめ、暴言、罵倒されたり、地域の人から厄介視されたり、およそ人間の生活ではありませんでした。
私が5年生になったころ、私たち男兄弟4人は、児童養護施設に収容されます。今と違ってその施設は、弱肉強食がものをいう動物的な世界でした。児童に自由はほとんどなく、食べ物も粗食、量り飯、休みの日は奉仕作業という名のもとの強制労働です。現代の刑務所より劣悪環境で、地獄そのものでした。多くの児童の心は歪んでいったようです。中学3年生の始めの頃に、親父に引き取られ叔母の家に同居しました。思春期、青年期になると、私は人と比較して自分を劣ったものと感じ自信を失なったり、自暴自棄になり横道にそれたり、自分の体形(身長の低さなど)に悩んだり、自分の弱さや劣等を隠すために、高校では服装違反、規律違反し、突っ張り、虚勢を張って生き続け、同級生や教師からも一目置かれる存在になっていました。しかし心は空虚で満たされず、ますます反社会的行動に走っていました。結果は高校中退です。また施設出身ということを気にしたり、性格を悩んだり、悩み・苦しみ、そして失敗の連続でした。ですが、なんとか生き抜きました。
20歳の頃、人生の善き先輩と出会い、正しい人生、生き方に徐々に目覚め、生き方の方向がかわってゆきました。自活しながらの浪人・学生時代は、自分の存在に煩悶し、生きるとは何か、自分はどこからきて、どこへ行くのか、心とは何なのか、真理とは、神や仏がいて、なぜ人々は不公平なのか、神はいないのか、正しい生き方とは、幸福とはなど、大学の勉強はそっちのけで、心、生命、見えない世界、正しい社会の在り方などを探求し哲学しました。そのせいで2年間留年しました。社会に出てからも苦悩は続きました。仕事、職場の人間関係、そして家族のことなど、青年期以上の苦悩の連続でした。ですが生き抜きました。
苦悩の先に楽しさや喜びを束の間 感じ やがて平穏な日々になる
今日まで多くの苦しみに向き合い、生き抜くたびに楽しさを感じることもありました。苦を乗り越えた先に、人生の喜びを味わいました。だから生き続けてこれたのかもしれません。しかし、その楽しさもつかの間、また苦が訪れます。その繰り返しですが、苦を乗り越えてゆく度に強くなり賢くなったのも事実です。そして、いつの間にか、苦しみの日々より、平穏な日が増えたような気がします。それは私自身の生き方が変った結果だと気づきました。生きる、それは苦楽であるということを先人は、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と訓えてくれています。それが、私たちの人生であり、生命の真実のありようかもしれません。
生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人
生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。動物は、子どもに生き抜く方法を教えるために、わが子を千仭の谷に突き落としたりして、生き抜くことを体に記憶させます。人間は、子どもの頃は親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。よいとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命を、どう生きていくかが大事になります。闘いに勝つ、つまり自分に負けないということで生き抜いていけます。
負けない自分作る 信念 目標 勇気 忍耐 そして希望
負けない自分を作るためには、正しい信念、目標、勇気、忍耐、行動、そして希望が必要です。何よりも「正しい」ということが大事です。例えば、強盗する勇気とか、人を殺す勇気とかは動物的勇気であり、人間の道に背いているため間違った勇気になります。お金持ちになりたいと言うのは正しい目標とは言えません。お金持ちになって、恵まれない人たちの役に立ちたいというのは正しい目標です。正しさの基準は、自分だけが潤うのではなく、自分も他人も潤っていく、つまり、自他共存共栄の思想が正しい生き方の意味です。そのためには、正しい知識・思想が必要です。
悲しみは 人生を深くさせる
愛するパートナーや子どもとの死別ほど悲しいことはありません。
心が締め付けられるように苦しくなり、流す涙は海となり、幾日も流れ続けてやむことはありません。
見るもの、聞くもの、食べるもの、香るもの、触れるものすべてに、愛する人の面影が宿り、愛おしさ
に心がかき乱されます。
そして人生の悲しみに底のないことを味わい、苦しみに沈みます。
心は空(から)になり、愛する人の幻とともに夢の中を生きます。
その人の旅だった世界に思いをはせ、死と真剣に向き合うようになります。
そして、残された自分の生きる意味を問い続けます。
やがて、残りの人生の使命を自分なりに感じることができるようになります。
そして愛する人との死を境に人生が大きく変わってゆきます。
その人の志(こころざし)を胸に抱き、未来永遠に、その人と一緒に生きるという誓いを果たす
深い人生を歩み始めます。
書籍「心を健康にする本」…改善率96%のマインドフルネス・認知行動療法・自然療法の3種の哲学・科学を調合させた芝蘭独自の療法 来春出版予定
主な内容…心がわからないと心の病は治せない / 心の病の原因 / 心も体も物質もすべて振動している/ 脳と心と薬の関係 / 五感覚と意識の関係 / 潜在意識が意識に与える影響 / 心の安定に関係する自己愛と母性愛(慈愛) / ストレスと適応
自分を好きになる方法 /心の傷をもって生きる方法/ よい人間関係の作り方/ コミュニケーションの上手なとり方/ 発達障害の活かし方 / 不安症の改善法/ パニック障害の改善法 / 強迫観念の改善法 / 反芻(はんすう)思考の改善法/ 抑うつの改善法/ 依存症の改善法 / ひきこもり・不登校の改善法 / 夫婦不和の改善法
怒り・悲しみ・感情の整え方/ 執着を解き放つ方法/ 自然・生体リズムに則って生きると健康になれる/ 崩れる幸福と崩れない幸福 / 自分らしく輝いて生きるために/ 心身を健康にする瞑想法
先端科学の量子力学と心の世界の関係性/ ブッダの哲学と量子力学の共通点 / マインドフルネス、森田療法の基礎になっている仏法哲学
※改善率について。3回以上の継続来談者は100%改善していますが、1~2回で来談が途切れた方の改善は把握できていません。ですから改善率は96%になっています。
本に関する問い合わせは、芝蘭之室ホームページ予約画面のメッセージらんのメールでお願いします。価格は税込み2000円(通信購入の方は、送料・振りこみ料込み)の予定です。本屋での流通予定はありませんので、本屋での購入はできません。購入はすべて芝蘭の室経由になります。
書籍… 不登校・ひきこもりから蘇る 芝蘭の便り 2026年1月出版予定(限定100冊)
目次
第一章 不登校・ひきこもりの心理
1・なぜひきこもるのでしょうか 2・不登校、ひきこもりに不足している心の安心領域とは何ですか 3・現代社会はひきこもり・不登校にどんな影響を与えているのでしょうか 4・なぜ不登校・引きこもり・心の不調者が増加するのでしょうか 5・不登校・引きこもりになったとき親が考えなければいけないことはどんなことでしょうか 6・ひきこもり・不登校の心理的要因と再生の道 7・心の安心領域はどうすれば育ちますか
コラム1 不登校を産み出す学校教育環境 コラム2 偏差値教育の弊害
コラム3 不登校・ひきこもり面接事例 コラム4 偉人が遺した名言
第二章 解決への具体的方法
1,不安の世界を生きる
2,反応から対処する方法
3,傷ついた心の癒し方
4,対人不安を軽減する方法
5,嫌な気分を受け入れて生きる方法
6,感情は言葉や思考では制御できない
7,最も制御が難しい感情は怒りと悲しみ
8,怒りや悲しみを受け入れる方法
9,苦しみの原因になる執着・とらわれを解放する方法
10,人の心が分かるようになるための心の在り方
11,苦しみから解放される生き方 …ブッタの哲学的視点
12,苦しみが心を浄化させてくれる
13,心の壁は臆病が描き出した幻影
14,私たちの心と体は常に変化し動いている…素粒子理論との関係
15,心が持つ不思議な力と働き…量子力学的視点との関連性
16,地球は生きていることを知る…自然や宇宙を想像する力
17,自立を育む安心環境
18,子どもとの豊かな関わり方
19,発達障害の活かし方
第三章 自分らしく輝いて生きるために
1 自分らしく生きることが幸福 2 自分らしさの探求は社会常識との戦い
3 自分らしさの獲得は自分独自の規範を作ることにある
4 社会常識を昇華することが心の独立 5 自らの光で周囲を照らす生き方
6 自分というかけがえのない個性に生きる 7 何に価値を置いて生きるかが大事
8 他人の評価に振り回されない自分を築く
9, 健康的な習慣が自分らしさを発揮させる
10, 自分を自分らしく表現する方法 11, 自他尊重のさわやかな自己表現法
※改善率について。5回以上の継続来談者は100%改善していますが、1~4回で来談が途切れた方の改善は把握できていません。ですから改善率は93%になっています。
※本に関する問い合わせは、芝蘭之室ホームページ予約画面のメッセージらんのメールでお願いします。
価格は税込み2000円(通信購入の方は、送料・振りこみ料込み)の予定です。読者対象は、中学生以上の子ども、心の不調者、保護者、母親、教師、教育関係者などです。
本屋での流通予定はありませんので、本屋での購入はできません。購買は芝蘭の室経由になります。
スティーブジョブ氏 最後の言葉
「パートナーや家族や友人への愛情こそ、死後にもっていける最高のものである。死に際して、財産や地位や名誉は何の役にも立たない」(趣意)と、スティーブジョブ氏(アップル創業者・56歳ですい臓がんのため死去)は死の間際に語ったそうです。生きているときも、そして死後も持っていける美しい心の品性、それが生命を愛する心です。死に際して、肉体は消えますが、心は消えません。「心は不滅であり、永遠です。誰も死んだ者はいません。すべてのものは、始めもなければ終わりもありません」(ニコラ・テスラ…アインシュタインと並び称される20世紀の偉大な物理科学者・哲学者・詩人)
以下の言葉集は、私たち夫婦の約50年の思慕、恋愛、愛情の歴史から紡ぎ出したものです。
男女の愛の始まり、それは恋心です
男女の愛は恋から始まります。恋心なくして男女の愛の成立はありません。恋は相手が好きになったり、相手を慕う気持ち、ときめく心から始まり恋愛に発展していきます。恋愛感情の背後に、性的ホルモンの働きがあります。これは全ての動物・昆虫にも共通する種保存の生命が内在的に持つ性質です。本能的であるため、盲目性があり、暴走することもあります。その段階で結婚まで走ってしまえば、早期の破綻を迎えるかもしれません。
好き嫌いは硬貨の表と裏の関係です
好きという感情は嫌いという感情と表裏ですから、相手の嫌な面を見ると、たちまち嫌いという感情に変っていき、やがて二人の間に嫌悪感が漂うことになります。例えば、どんなに好きな食べ物でも毎日食べれば飽きがきてしまい、初めのようにはうま味を感じなくなります。同じように、どんなに好きな相手でも、いつも一緒にいれば感覚が慣れてしまい、新鮮さもなくなり、好きという感情も薄れていきます。「隣の庭の花は自分の庭の花より良く見える」との言葉は、こうした感覚や刺激の性質を言い当てています。これは、人間のもつ本能的生理感覚ですから、誰人も避けることができません。倦怠期と表現される状態です。
不倫や浮気は性ホルモンの衝動的反応行為
男性の性は攻撃的、支配的、衝動的です。それは男性ホルモンの性質からきています。男性のほうが他の異性に衝動的に目移りし、性的刺激に誘発されやすくなり、種を残そうという本能に動かされます。極端に言えば、性欲が強くなれば、相手を選ばず女性であれば、誰とでも性行為をしようとさえします。だから、アダルトビデオが繁盛し、ソープランドのようなものが存在できるのです。男性生理の持つ抑制の難しさです。社会的規範や道徳性が薄れると、「性欲を押さえることができませんでした」と、マスコミで不倫報道の謝罪をした某政治家のようになります。この危険性は男性は等しく持っています。だからその性的衝動性を法で取り締まろうとしますが、不倫までは法の手は延びていません。江戸時代の不倫は姦通罪と言われ、女性は死刑になっていました。社会秩序を壊す働きだと解釈していたからです。現在でも、不倫は夫婦関係を壊し、家庭崩壊の大きな原因になっています。
不倫の防波堤…人間性を貫くのか 動物性が優位になるかの分かれ道
最後の砦は、道徳的規範をどれだけ個人が持っているかにかかっています。人倫(じんりん)という言葉あります。人としての正しい行いのことであり、人の倫(みち)という意味です。つまり人格の問題であり、人間性のレベルの問題です。人間の善性に背く行為を不倫と言います。つまり、不倫は人の倫(みち)に外れていることを指す言葉です。とても恥ずかしいことですが、欲望の濁りに染まった社会は、正しいここと間違ったことが分からなくなり、スマホには不倫サイトが横行し、不倫に甘美さをこめて、人間を奈落に誘っています。
女性は愛を知り、愛に生きるとき 美しく輝きます
女性の性は、男性と異なり受動的で平和的で抱擁的です。嫌いな人と交わることは基本的にはしません(売春のように、性を金儲けに使うのは、一種の仕事と割り切っているから可能でしょうが、当人の心の中は筆者にも分かりません)。女性は好きな人を選びます。さらに愛情のある性行為を求めます。女性の不倫は、パートナーが嫌になり、愛情を感じなくなったときに始まりやすくなります。女性は男性より愛情に生きる存在です。生理的にも愛情に守られて生きる存在です。つまり男性よりも愛情を求める存在なのです。女性は、恋をすると美しくなり、愛されるときれいに輝いていきます。それは愛してくれる人に応えるための心身全体(無意識世界を含む)の女性の生理的好反応です。世の結婚した女性が魅力的でないとしたら、それは夫の妻への愛情が足りないからと言えるかもしれません。女性は愛を知ることで、その人固有の美しさを発揮するようになります。
好き嫌いを超える一つの方法が利の価値に生きることです
倦怠期を乗り越える方法の一つが、相互の損得・利害関係を考える知です。離婚は、「世間の恥」とか「社会的信頼を失う」とか、「子どもの教育に良くない」とか、「経済的にやっていけない」とかで、二人が好きでもないのに一緒に生活している関係が損得関係を重視した利です。利の価値によって好悪という感覚を克服しようとします。しかし、それだけでは、恋愛の親近性もなく、愛もないため、往々にして冷えた関係になり、家庭内別居状態になりがちであり、二人とも幸せを感じることはできません。二人の醸し出す人間の愛情の持つ振動は、家庭の中に波となって漂い、同居家族である子どもに大きな影響を与えます。子どもは情緒が育たず、健全な愛情を持つことができなくなり、人間関係の中で不和を起こしやすくなります。これは、私が関わった不登校児の家庭によくある風景です。
二人の心の向上によってもたらされる新しい関係 それが真の愛です
これを乗り越えるのが、双方の努力によって育んでいく関係です。それは自己中心性と葛藤し、相手のことを考える心の成長が求められます。双方の心の向上なくして成就できません。愛は二人が紡ぎ出す、この世に二つとない美しい世界を表現します。その一端を私たちは恋愛小説やドラマに見ることができます。愛を育てていけば二人は終生、美しい絆をつくってゆけます。その二人に、離婚という文字はありません。
愛に必須な条件は、相手を一人の人間として尊敬することです
愛に必須な条件は、相手を一人の人間として尊敬できるかどうかです。そのためには、相手をよく理解し、相手の良さを見出せるかどうかにかかっています。これは、好悪や利害を超える心の絆があります。人間信頼、人間尊敬ほど強い絆は、この世にないからです。
愛とは相手を大事に思う心であり 相手のすべてを受け入れることです
愛は本当の優しさをともないます。また見返りを求めることはしません。相手がどんな状況になっても、たとえ相手の姿かたちが変わり果ててしまっても、その人のすべてを受け入れ 守り、大事にし、尽くし抜く心、それが愛です。
愛とは耐えることです
例えば、男性が新婚前後の女性に愛を捧げるのは難しくありませんが、10年、20年、そして相手が白髪になった70代、80代になっても愛を貫くことができれば、それは本物の愛です。そのパートナーは世界で最も幸福な人といえます。愛を貫くには、相手の嫌な面も包容する忍耐力が求められます。忍耐力は人を一回りも二回りも成長させます。愛することにより、忍耐力が強まり、人間としても成長できます。つまり愛は二人を人間的に成長させてくれるのです。
大人の愛の実践は人間向上、人間完成であり、最高の幸福への道です
―愛とは互いに見つめ合うことではなく 二人が同じ方向を見ることであるー
サンテグュペリ・星の王子様の作者
愛の実践には、心の強さ、忍耐する心、正しい心を保つ品性が求められます。愛は二人を高め合います。高め合う愛こそ本物の愛です。愛は人間の品行の成長を伴います。愛する二人は限りなく向上し輝き、美しさを放ち、周囲をほのぼのとさせます。それが本物の愛の品格です。そして、その愛は、パートナーから家族、友人へと広がってゆきます。愛は平和の原動力なのです。宗教が愛を大事にする理由はここにあります。
愛は その人のすべてを受け入れ 大事にし たとえ相手が白骨になったとしても その人を愛し続けることができる それが真の愛です。そして、その愛は、常にときめき 引き合い、共に永遠を生きます。
愛を育む具体的実践
人間の自己表現法は二つある。
1,言葉の表現…言葉は事物の比喩であり、共通の記号。 言葉の裏に込められた意味を読むためには心を遣わなければいけない。
2,言葉以外の表現(ノンバーバルコミュニケーション)から心を読む
※ノンバーバルコミュニケーション…顔の表情、服装、振る舞い、声色など
メラビアンの公式(好意の総計100%)‥人の印象に残る表現を知る
①言葉による表現(言語情報・話している内容)…7%
② 声による表現(聴覚情報…声の大きさ、声色、速さ、口調など) …38%、
③ 言語外による表現(視覚情報…見た目、視線、しぐさ、表情、服装など) …55%
※言語外表現が、最も人の心に好感として残る
会話における言葉には 三種類の機能があることを知る
1、言葉は共通の記号である
2、言葉の解釈…言葉の正しい意味
3、言葉にこめられたもの…言葉で表現しようとしている言葉以前の心、感情、気持ちという波動のようなもの」をキャッチする
※出来事を語る場合…人によって「出来事」の受け止め方は異なる。置かれた位置、立場、精神状況による。相手の背景、立場、認知の枠や癖を理解して出来事を再生し、想像し真実に迫る。
心を開く関係づくりは、無条件の肯定的な関心を持つことを知り、実行する
・相手に対して無条件の肯定的な配慮をもつこと。➡条件・限定をつけるということは、こちらの欲求を満足させる利己的愛情といえる。
・第一に、人間の意義と価値に対する心からの尊敬。⇒肯定的関心
・第二に、相手の自己指示(方向、選択、決定)の能力を信頼できるかという点であり、個人の人生を決めるのは、その人自身であることをどこまでも深くこちらが感じ取っているかである。
相手を総合的に理解するよう相手を思い遣る
①相手を取り巻く状況を多角的(時間・空間的)に知る
・長所短所などの特性、趣味、友人、今の置かれた状況、精神状態。
一つのカテゴリー・型にはめこまない。相手の現在を多角的に理解するメタ認知力を高める
②こちらの態度と人間性の与える影響力
・相手とどのようにつながるか、こちらの人間性、態度、言葉遣い、安心感、ほっとする雰囲気、こころを開く言動や振る舞い…総合力でつながること(コミット)を心がける。
・相手が心を開かなければ、こちらを信頼しなければ、関係はできない。
これは、すべての他者とのかかわりに共通したものである。「心を開く」「信頼関係」が大事になる。
・「心の思いを声にのせる。つまり、言葉や声、声色で心を知る。心を聴く努力。
・自分にとって相手は「鏡に浮かべる姿」 人は関係性で変わることを知る。
・悩んでいる人に対して大切なことは、心を軽くしてあげること、明るくしてあげること。相手の言うことに、じっくりと耳を傾ける。じっくりと話を聞いてあげる。それだけですっきりする心が軽くなることが多い。聞いてあげること自体が、苦しみを軽くすることになる。
スキンシップをこころがける
・手に触れる、手をつなぐ、肩に触れる、肩を抱く、軽くキスをするなど、一日に一回はスキンシップをこころがけ、パートナーを安心させる…愛の貴重な表現法です。
・心のスキンシップ…会話、対話、雑談、何気ない話…一日30分以上はする。一日何度か、笑顔を贈り、優しい言葉をかけ、相手を思い遣る。
メンタライゼーションを活用する…
メンタライゼーションとは、「行動の背後にある心理状態と意図を考慮に入れて、他者の行動の意味を解釈する能力である。」
⇒相手の心は理解できないという無知の姿勢が大事。だから相手を理解していこうという、相手に対して積極的な関心を持つようにする。信頼関係が築かれないと相手は心を開かない。心が開かないと、どんな言葉も相手の心に届かない。自分の心理状態を知ること。自分の心理状態が悪いと、相手の心を理解する余裕もなくなり、理解できなくなる。相手の心理状態を知り、相手の状況を知る努力をする。
心の健康のために…ストレスに負けないレジエンスを日常から培る
1 自分はできると信じる、自分に負けない心をもつ…あきらめない心が心を強くする。
2 失敗した時、新しい自分を見つけるようにする。人生・経験は、すべて教師である。失敗も成功も一つの出来事、全ては経験であり、自分や人生を教えてくれるかけがえのない教師である。
3 自分を支える人を持つ。 身近な人に感謝できる心を持つ。
4 良い習慣を身につける…規則正しい生活、良書に親しむ、笑いと感謝、積極的、前向き、楽観的、強気、出来事に意味を見出す生き方、未来を明るく想像する生き方、マインドフルな生き方など。
5 心の強さは、「苦」を乗り越える度に強化されることを知る。
パートナーへの愛は、人間としての成熟度を表しています。
私の目的は 個々の人が自分の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい ニコラ・テスラ(注1)
人は自ら持つ力を自覚したとき変わります。人は自分が置かれた状況の意味を知るとき変わります。人は、多くの人に支えられて生きていることに気づくとき変ってゆきます。自分の存在意味を知り、可能性への気づきは希望をもたらし、変化への原動力になってゆきます。芝蘭の室を訪れたひきこもり・不登校者の多くは心理対話によって、自らの心に内在する可能性を自覚し旅立ってゆきました。
最近の二事例です。7年ひきこもっていた青年は、7度の対話を通して、「人生、逃げていたら負けなんですね。私は今まで、大事な時に、いつも逃げていました。立ち向かいます」と自らを深く自覚しました。その後、就職し社会に復帰してゆきました。ある女子高校生は、中学生から不登校引きこもりになっていました。面接が7回に差し掛かったころ、「人間は常に刺激に反応している。刺激に、よりよく反応することが生きることである」など、自ら心裡や自然の働きのすばらしさに気づいたころから、大きく変わってゆきました。今は希望をもって学校生活を送っています。上記の二人は、自らの心を再発見することによって変わってゆきました。「汝(なんじ)自身を知れ」と叫んだのはギリシャの哲人ソクラテスでした。気づきや自覚を触発する人間性対話が、自ら閉ざしていた心を開き、光に照らされたかのように眠っていた魂を触発し、可能性の開花に向かって動き出したのです。
不登校・ひきこもりは 脱皮のための準備期
人間にとって大事なことは、どんな環境や出来事にも適応できる、強い心、賢さ、そしてしなやかで優しい心を持ち、かけがえのない自分を自分らしく表現して生きることです。この世界に、あなたの顔が一つしかないように、あなたの人生もあなただけの道になります。ガイドラインやマニュアルは机上の知識に過ぎず、参考になる部分もあるかもしれませんが残念ながら、人生には数学的な模範解答はありません。なぜなら人生は、一人ひとり異なり、誰一人として同じ人生はないからです。人生の問題を解くカギは、自ら悩み、試行錯誤し、失敗を重ね、その中から自分にふさわしい道を見つけるしかないのです。
善き人との対話が人間の可能性を触発していく
ですが、その道は難問であり茨の道です。ですから、先人が得た智慧に学ぶことが大事になります。その智慧は対話・名作読書(注2)によってもたらされます。人生における疑問や質問に対して答えてくれる善き友・先人・先生が必要になります。かつてギリシャの哲人ソクラテスは、対話によって青年たちの可能性を開いたと言われています。その対話は産婆術と言われ、青年のもつ個性的可能性や能力を産み出しました。また釈尊(ブッタ)も対話を通して、弟子たちの疑問に答え、悟りの道に導いたとされています。日本の明治維新を推進し、多くの俊英を輩出した松下村塾の吉田松陰も対話で青年たちの心を触発してゆきました。
本来、学校は生徒と先生の対話によって、子どもたちの可能性を開く場としての目的がこめられていました。しかし、現代の学校は、知識偏重になり、知識の総量を偏差値として数値化し、よい高校、よい大学に進学するという目的にすりかえられたかのように、社会経済に役立つ人間を育成しています。しかしながら、そうした知識の多くは、今後AIで代用できるようになっていきます。知識偏重教育には、大事な人の心、人間性の開発が置き去りにされてきました。それが不登校の原因の大きな要因になっていることに気づいている人は、ほとんどいません。。
母親が持つ わが子に対する無償の愛の力
子どもが、どんな状態になっても、子どもをそのまま受け入れ、大事に守っていくという無条件の愛情(注1)を親が持つことができれば、子どもは必ず良い方向に向かっていきます。また、親自らが誠実に子どもの成長を願い行動している姿は、目に見えたかたちに現れなくとも、必ず子どもの心に届き、やがて心を開いてゆくようになります。苦悩する子どもにとって、親の真心の愛情に勝る良薬は、この世界にはありません。ユダヤのことわざに「母親は百人の教師に勝る」とあるのはこの意味です。
(注1) 無条件の愛情…ヘレンケラーを世界的偉人に育てた陰の支援者はサリバン先生です。目が見えなくなり、三重苦から自暴自棄に荒れ狂うヘレンに対して、彼女は忍耐強く「無条件の愛情・肯定的関心」を持ち続け、終生ヘレンに尽くし、彼女の持つ可能性を開いたとされています。ヘレンの偉業はサリバン先生なくしては成し遂げられなかったと言われています。ヘレンは「私を作ったのはサリバン先生です」とサリバン先生の恩に報いる行動を生涯、貫きました。ヘレンの人間としての偉大さは、そうした報恩の行動に最も表れています。
付録1「子どもの心がみえるとき」荒れ狂う生徒たちに対して、無条件の愛情を根本にして忍耐強くかかわり、心を開いていった中学教師のかかわりの記録の本。
短絡的に精神科や心療内科に連れていくのは考えものです。それは、結果的に、多くの場合、症状を長引かせたリ、悪化させたりしてしまいます。これは心療内科だけではなく、心の専門性の低い相談機関は同じことが言えます。芝蘭の室を訪れる長期不登校・ひきこもり者は心療内科にかかったものやカウンセリングルームに通所した経歴の持ち主がほとんどであり、それも数カ所を巡った人も少なくありません。ほとんどの人が、改善せず、逆に悪化させて、芝蘭の室に来所しています。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。
不登校の原因の大半は 子どもの教育環境にある
人間は人間に教育されることによって、人間になっていきます。かつて狼(おおかみ)に育てられた少女は、人間の行動や心が育たず、狼の習性を持ったまま、短命で命を終えました。彼女たちは人として生まれましたが、養育環境が狼社会であったため、狼の行動習性を身に付けてしまいました。この貴重な事例は教育の本質を教えてくれています。どんな教育環境にいるかで、子どもは変わります。
教育によって人は人にもなりますが、動物以下の生きものや魔物にもなります。戦時下のかつての学校・思想教育では、天皇の神格化が進み、神である天皇のために死ぬことは、国の恩に報いることであり最高の美徳とされたのです。そのため、神風特攻隊や人間魚雷などで若き青年が命を捧げました。背く者は非国民とされ、その思想に反対する者は獄につながれ、拷問を受けました。また多くの外国人を殺すことが英雄になったのです(残念ながら地球上では、ロシア・ウクライナ、イスラエル・イラン・ガザ地区などの国では今も、そのようなことが現実に行われています)。すべては誤れる教育や宗教・思想が、人をそのように仕向けたのです。教育・思想の恐ろしさです。正しいものを見極める基準が大事になります。その基準とは、地球上のすべての人が幸福になれる思想・教育こそ、正しい教育であり、思想・宗教といえます。登校・ひきこもりで当室を訪れる家庭に共通している要因を挙げてみます。一番は母親の過干渉です。二番は虐待・無関心・子への愛情不足です。三番は親や祖父母の過保護です。四番目は母親の心の不調・うつなどの病気です。共通してよく見られる要因が夫婦の不和(家族の不和)です。少子化や核家族化や共稼ぎ、学歴偏重社会の影響を受けています。
子
学級のルールは「みんなの目」です。「みんな同じように」「みんながやっている」などが規範になります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という集団論理が生まれます。正しいかどうかは二の次です。集団の正しさとは集団の掟のことであり、集団に存在する暗黙の規範のことです。みんな平等という表面的な平等主義が学校を支配しています。本当の平等主義は、違いや異質という個を認めたうえで成り立ち、人間の尊厳性に基づく理念です。異質の排除の考えが、いじめや無視などの集団同質化行動を産み出します。また行き過ぎた管理教育が、自立を損ねていきます。これらが不登校を産み出していきます。
最後は社会・情報環境です。現代社会では、この社会・情報環境が一番の影響力を持っているかもしれません。中学生以上の国民の大半がスマホ依存という、異常なスマホ情報依存環境に生きていますが、その異常性に多くの人が気づいていません。スマホ、パソコン、テレビから流される情報に子どもも、大人も知識(最近はAIが多い)を得て教育されているのが現状です。その知識の真偽も精査せず、心に深く記憶化されていきます。それは以後の行動に無意識的に作動し、判断や選択に影響を与えることを自覚できている人はほとんどいません。また、このような情報環境を親も教師も制御することは困難です。
不登校・ひこもりの心…
不登校・ひきこもり状態にある人の多くは、心の不安定感(過度のストレス)に耐えられず、家という安心領域・癒しの空間に回避した状態です。そのこころは、人や場に対する恐怖や不安、行為の後に訪れる嫌悪感や恥ずかしさなどの不快や自責の念です。人は本能的に不快を避けます。不快への過敏感覚はストレスとなり重なると、心身の不安定を招きます。不快を避けるのは、生きるための生物・人の大事な保身行為の一つだからです。その心を、さらに詳しくみてみましょう。
日本は世界でも有数な安全平和社会であり物質的に豊かな便利社会です。それなのに、なぜ社会不安障害、適応障害、うつ、ひきこもり・不登校などの心の不調者が増加するのでしょうか。物質的豊かさの追求とその享受、便利社会の恩恵に反比例しているのが、心の豊かさの喪失現象です。便利さや不自由のない生活は、生きていく上での大事な忍耐する力、思考したり、想像したりする場を奪っていく面があります。つまり、心は貧しく、乏しく脆弱になっていくということです。
不登校・引きこもり状態にある人は、不快感覚がもたらした恐怖や嫌悪というストレス状態の一つの解決策として家に籠った状態です。その引きこもり状態に大きく影響しているのが、人間だけが持つ知的記憶力です。嫌な出来事を知的に記憶してしまうところが、他の動物と異なるところです。世間でいう、トラウマ(心の傷つき体験が記憶化されたもの)現象です。もちろん、動物も恐怖や脅威対象に対して本能的な身体記憶作用が働き、出遭った瞬間に直観的に、その対象から逃走します。生き抜くための身を守る本能的記憶行動です。
生き抜くため行動に潜む「癡・おろかさ」について述べてみましょう。痴…おろかとも表記します。知が病んでいる状態、間違った知識というのが言葉の意味です。ものごと、人間、自然の法、因果や道理がわからず、目先の感覚的欲求に抗しきれなく行動する心的状態です。
「飛んで火に入る夏の虫」暗闇の光を求め、火に入り、焼け死んでいく虫たち。このようなことは人間社会にもたくさんあります。お金のため、有名校に入るために大事な人の心・情緒を失うのも愚かさ、好きなものを食べ過ぎたり、飲み過ぎたりして病気になるのも愚かさ、専門家の誤った知識に騙(だま)されるのも愚かさ、人を傷つけることも、殺し合うのも愚かさが原因です。
すべて生き抜くために自分を守るための行動が発端になっています。生物・人間の本質の一つが自己中心性です。誰人にも潜在する自己執着意識(注)の働きです。自己中心性を発動させないと生き残れないからです。しかし、自己中心性だけに生きると、弱肉強食(争い・戦争など)世界に生きる他の生物や動物と同じレベルになってしまい、共生ができなくなります。人間と動物の違い‥それは他者への思い遣りという思考・想像力を働かせた心の働きです。自己中心性を克服する鍵は、人の情緒の働き、優れた想像力と思考力のもたらす、思い遣りの振る舞いにあります。
世の中、偽りの情報、利己的金儲けのための巧みな情報など玉石混交状態になっています。無知な人たちをだます似非専門家たち。視覚情報に弱い人間心理につけ込むコマーシャルやユーチューブ動画など。見抜くのは大変なことです。甘言で人の保身を増長してゆきます。愚かさの病が現代人を覆っていると言えます。人々は表面的な浅い思想につかりきっているようです。仮初(かりそめ)の平和に守られ、便利さに忍耐心を失い、思考することを麻痺させられ、人々は自らの生をよりよく保とうと快適情報にますます依存し、生きる力を弱め、脆弱性(ぜいじゃくせい)を強めています。そのうち、あらゆる病気が生活習慣(基本は思考、行動、情緒の在り方、社会環境のもたらす毒性)病と言われるようになるかもしれません。
正しい知識と対処力が 正しい人生を開く
その結果、心の病はますます増産されていきます。生きること、身を守ることに潜む愚かさが原因と気づかずに心身が毒に染まっていきます。それを乗り越える方法は、まず正しい知識を身につけ、正しい情報を見抜く智慧を培うことから始まります。人の心の安心領域は、個人によってすべて異なります。個々の心的状態の把握なしに解決は難しくなります。心の在り方、感情と思考と行動の関連性、記憶と潜在意識など個人の反応のしかたを正しく知ることから、安心領域の拡大が可能になります。つまり自分の意識・心を、どこまで正しく明確に見ることができるかが重要になります
そのためには、正しい師・先生が必要になります。正しい師とは、病める人を確実に改善し、その人の人生を高め、幸福の方向へ導くことができる人です。例を挙げれば、ブッダ・釈尊のように多くの人を現実的に救い、幸福の人生に導く人です。現代社会に、そのような人がいるのかと思うでしょうが、います。私も何人かに出会い、そのおかげで今の私があると思っています。菩薩の心(注4)を実践している人はいますが、表に現れていないだけです。私利私欲なく無私の志を持って生きている人です。洞察眼を磨けば、自然や宇宙現象もその一つであることがわかります。
(注4)菩薩の心…釈尊・ブッタは菩薩道に終生生き抜きました。菩薩の道を行く人はブッタの志を生きる人です。最近では中村哲医師がいます。アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされました。彼のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らをかえりみず献身する母親もその一部)の一人だと思います。 中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」は、平安時代の人、最澄の言葉です。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」この最澄の生き方は菩薩の心そのものです。
心、体、自然、ものとの相関性についての気付きが解決の良薬
自分の心をみつめ、正しく知識することがまず一番大事になります。自分の意識や感情を知ることです。自分の身体の働きについて正しく知識することです。生きていることの不思議を感じるように自己観察力を磨くことです。地球・宇宙や自然や環境や他者との関係性で生きていることを想像力を磨いて実感するようにしましょう。正しい人間観、社会観、自然観を身に付けることです。全体を網羅した知識がもたらすものが気づきを産み、行動を変えてゆくからです。それらが心の良薬なり、一回りも二回りも成長した人格に成長していくことになります。そのとき乗り越えられない心の壁はなくなり、不登校・ひきこもる必要がなくなり、社会・学校をはじめどんな環境にも適応順応できるようになります。それがニコラ・テスラが教えてくれた「自分の翼で飛ぶという意識」です。
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と関係はありません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・法華経に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、ジョン・カバットジン氏のマインドフルネス、そして科学(量子力学)と釈尊・天台智顗・日蓮の生命理論の関係性を思索研鑽しています。学びの旅は、今も続いています。学べば学ぶほど自分の無知に気づき始めています。
付録1 「こどもの心がみえるとき」当時、市内一荒廃した中学校に赴任し、荒れ狂う生徒たちに真正面からかかわった一中学教師のノンフィックシヨン小説(松岡敏勝著・文芸社)。テーマは、荒れた子どもに対する「無条件の愛・可能性を信じる心・忍耐・誠実」。ペスタロッチ(教育の父と言われている)の志を胸に抱いて、2年間かかわり、苦闘の末、子どもの心を開き、共に大きく成長した物語。