相談室(ブログ)

感情は 意識対象を 替えれば 制御できる

2025.04.01

感情は 意識が向かう対象を 替えることで 制御できるようになる

感情の収束は、波のように生まれた感情のエネルギーが、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つし

かないのです。それは、意識によって対象を替えてゆけば可能になります。意識の転換とはエネルギー

が向かう対象を意識的に替えることなのです。対象を替えてもすぐに、エネルギー内容が変わるわけで

はありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したもの(感情と表現している)の残滓や余韻が自

然に消えるを待たなければなりません。

マインドフルネスの指向する世界とは

マインドフルネスの意(こころ)は、評価せず今に集中して、目的に向かって生きることと、専門家は説明

していますが、この心の状態をとらえようとしています。

マインドフルネス的生き方が、注意の転換を可能にし、感情の囚われから脱する一つの道になるのは、

個の体得にあるからです。それは受容とも 南無(注1)とも表現されています。

このことを体得すれば どんな感情にも 振り回されなくなります。

注1 南無 ナムはサンスクリット語(古代のインド語)で、漢語では帰命と音訳されている仏教の重要な言葉の一つです。南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無大日如来、南無妙法蓮華経など、仏・菩薩や仏性を表現した言葉の冒頭に冠された大事な文字です。本来は、仏・菩薩や仏性に自分の命を任せ、それに基づいて生きるという意味です。森田療法の創始者、精神科医の森田正馬氏は、自分の命をあるがままに、まかせて、今を生きることを南無というと著書「生の欲望」の中で述べています。

南無を「あるがまま」と同じ意味で使っています。つまりマインドフルネスの指向する世界と同意なのです。どちらも仏教を基盤にしたものだからです。森田療法の核心は「あるがまま」に生きることです。それは体得であり、悟りであると言っています。そうすれば、どんな嫌な感情にも振り回されなくなり、受け入れることができるようになり、苦しみは消えてゆくと言います。彼は、自らの強迫観念や神経症(心臓恐怖症)を治した経験をもとに、新たな療法を創作し、当時、難治とされた「神経症」「強迫観念」「神経衰弱・抑うつ」を、薬を使用せず全治させた治療実績(90%以上)があります。

このエビデンスにより、森田療法は日本のみならず、世界に広がり、精神疾患の世界で注目されるようになりました。今、森田療法が下火になっているのは、真の弟子(師匠森田の教えを正しく体得した人)が徐々にいなくなっているからです。どの世界(芸術、宗教、学問、道の世界など)も師匠の精神の体得者がいなくなったとき、衰亡を遂げ、やがて風化し滅亡の道をたどります。これは歴史が語る真実です。

感情は 言葉や思考で 操作できない 

2025.03.24

感情は湖面に生まれた波と同じである

池に石を投げれば 波が起こります。その波を止めることはできません。無理に止めようとすれば、分

波したり 逆に波が大きくなったりします。 

波を起こしているエネルギーが他に変り 消えるまで待つしかありません。

人の感情は波と同じです。

ある対象との関係で 起きた感情は 言葉・イメージや思考では その流れを止めることはできま

せん。

波が徐々に消えてゆくように 流れに心身をまかせ  消えるまで 待つしかないのです。

瞋り(瞋恚)という感情が 最も制御困難な感情

人間の感情で、制御が難しいものが、怒り、恐怖・不安、悲しみ、ゆううつ・落ち込みです。

それらの中でも最も制御困難なものが、怒り(瞋恚)です。

振幅が大きく周波数が多い感情だからです。波は振幅の大きさと周波数で強度や速度が分かります。瞋

恚という瞋りの波は、振幅も周波数も多いので、自他を巻き込むのです。自分や人を巻き込み、他害や

自害という不幸のどん底に人を追い込む危険性を孕んだ感情だからです。各地の戦争がそれを物語って

います。すべて、瞋恚(l瞋り・怒り)が原因です。そしてそれが連鎖拡大しています。瞋りの原因と対処

としての智慧を獲得しない限り、真の解決も平和もありません。

瞋り(怒り)の原因を知る

怒りは現代用語であり、もともと瞋りと表記します。瞋りは正確には「瞋恚・しんい」という心の働き

であり三大煩悩(三毒・三悪とも表現)の一つです。瞋恚とは、目を一杯にして対象を叩き攻撃しようとす

る心の働きである。自分の不利益になることに対して目をいからす心作用である。自分にとって不利益

になる、思いが通らない、思い通りにならない、そんなとき、瞋恚の心が起きます。

知識では 人は変われない 智慧が 人を変える

以上のようなことを知ることは知識です。しかしものごとは、知識だけでは解決できません。

「ハウトウーもの」の本や「トリセツ」や「講座」だけでは解決できないのは、そこに原因がありま

す。自ら実践・経験して体得する それが智慧です。その智慧に至るためには、それを体得した師匠・

先生・先輩の智慧の伝承が必要です。それは全人格対全人格の中で伝承されると言われています。いわ

ゆる師弟関係の中での修得です。

智慧の体得によって人は、よりよい生き方ができるようになります。智慧こそが幸福の源泉だからで

す。

  生命は 常に変化し 動いている 私たちは どこへ 向かっているのか…  

2025.03.15

すべての生あるものは、生まれた時から死に向かって行進している。人間も例外ではなく、死に向か

って瞬間瞬間、進む。生あるものの最終ゴールは死である。 ハイディガー、哲学者より

ティーブジョブ氏 最後の言葉

一代で巨万の富を築き世界的名声を得た、アップル創業者のスティーブジョブ氏は、すい臓がんのため55歳でこの世を去りました。死の直前、病床で語ったこと…「富や名声は死に際して何の役にも立たない。いのちが大事だ、私の病気と替わってくれる人は、だれもいない。私は、まだ大事な書をまだ読んでいない。それは、健康に生きるための本だ」…。私たちは自分の死と向き合ったとき、はじめて自らのいのちの有り難さに気づくのかもしれません。

生命は 瞬間瞬間 意識できない世界で 動き 変化している

私たちのいのちは、五感覚(目、耳、舌、鼻、身)器官が反応しながら、瞬間瞬間流れています。あるときは何気なく、あるときは意識をもって…。私たちは今の自分が感じている世界が、自分のすべてと思っています。しかし、今の瞬間の心身は 常に一定のところにとどまることなく 流れ続けて(注1)ていますが、私たちは、それを意識できません。ほんの一例ですが、血液は常に、体中を流れ、酸素と栄養を全細胞に届けています(滞れば、細胞が死滅し、私たちは死にます)が、私たちはそれを意識できません。私たちが、自分がいつ死ぬのかを、意識できないのは、生の営みが無意識活動中心に行われているからです。

注1 仏教では、こうしたいのちの流れを2600年前に、既に解明していました。それを諸行無常・諸法無我という言葉で表現しています。万物、存在するものは常に変化し、縁起で生起し、やがて滅していく、顕在と潜在のかたちを織りし、一定の自分はないと説きます。また潜在状態の存在を「空、くう」ととらえます。今の最先端の量子力学が、遅らせながらそれを証明つつあると言われています。

意識できる世界は1% 99%は意識できない世界で 人は生きている 

瞑想(注2)を実践し、自分の身体や心を一心に観察し、想像力を磨いていくと、私たちが意識できている世界は1%以下ということに辿りつきます。99%以上は意識できないところで心身は活動しています。私たちは無意識的活動を意識できないため、その活動に気づくことができません。ですから、その働きの、あり難さを感じることもありません。正しい知識に基づいた想像力によって、はじめて真実の把握ができ、心身の働きの偉大さに気づくようになります。瞑想の素晴らしさはそこにあります。

「想像力は知識より大事である 知識には限界があるが 想像力は無限である」 アインシュタイン

注2  瞑想…もともとは、仏教の禅波羅蜜(せんはらみつと読む。禅によって最高の不動の境地に至る)という修業から生まれたもの。心を一所に定めて、心を観じること。感覚に反応せず、自らの深層を観察すること。心身は動いているので、つかまえることはできません。その動いている心身になりきるには、心身そのものになるしかありません。それを直観、インスピレーションなどと表現する人もいますが、ブッタ(一応は釈尊を指す言葉、真意は覚者)は「悟り」と表現しています。それは心が浄化された人しかできないとされています。私たち凡人は、五感覚のもたらす欲望で心が濁っています。ですから、心の動きを、言葉やイメージでいったん止めて、真実に迫っていく方法をとります。その言葉は悟った人の真実を表現したものでなければ、真実に到達することはできません。言語道断(言葉で表現できない真理の世界)という世界に入るには、凡人は先哲・覚者の言葉を信じて、そこに入るしかないのです。そうしないと、心の浄化も進まず、迷いから迷いの世界に入り込み、部分の知を悟りと錯覚し、真理に至ることができなくなります。

(われ)思う、(ゆえ)に我あり‥意識こそが 生の証拠との考え方

16世紀の有名な懐疑(かいぎ)哲学者(てつがくしゃ)デカルトは、すべてを疑うが、疑っている自分の存在を真理と認め「(われ)思う、(ゆえ)に我あり」との名言を残し、近代合理主義哲学を開いとされています。

つまり、私たちが今、感じている意識こそすべてという哲学です。意識できない世界は(やみ)に閉ざされることになりました。合理主義のもと産業革命が進み、物質科学は日の出の勢いのごとく発展を()げ、量子力学、原子爆弾、光の研究は精緻さを増し、やがて月にロケットが着陸するという、ウサギの(もち)つきつき神話もあっけなく(くず)されることになりました。

科学万能主義が 新しい病を次々に産み続ける

やがて科学万能主義の時代が到来(とうらい)し、人間は神をも恐れない存在となり、科学を崇拝(すうはい)する科学信仰、物質・お金信仰を招きました。科学や可視化できる世界がすべてであり、科学が何でも解決してくれると…。

しかし置き去りにされてきた、意識できない世界である心については、ほぼ16世紀のままと言ってよいでしょう。深層(しんそう)心理学のフロイトやユング(注3)がその闇にかすかな光をともしましたが、科学性に(とぼ)しいとされ看過されています。

注3 フロイト、ユング …19世紀の心理学の先駆的役割を果たした人たち。フロイトは、催眠や夢という現象から無意識層を仮説し、神経症やトラウマを治療したとされています。ユングは一時フロイトに師事していましたが、無意識層の理解が異なり、ユング自らの深層心理体験を基にして、個人無意識、集合無意識を仮説、曼荼羅なども図顕しています。無意識層の展開は、既に仏教の唯識思想によると2000年前に、第七識無意識世界としてマナ識、第八識無意識世界としてアラヤ識が説かれていますが、両者の見解と深遠さは根本から異なっているとされています。

心の病は 精神病薬で 根治できないのは あたりまえ

しかし、20世紀の終わりから、心の病は不増えていきます。そして21世紀に入るとさらに増加し、さまざま身体の病気に加え、心の病も多様化しています。現代の精神医学は、精神より物質、脳の働きに注目し、薬学で対応しています。つまり精神医学も物質医学になりつつあるため、心の病の根治(注4)が出来なくなりつつあります。精神、心は脳を介在して顕在しますが、脳そのものの働きが心ではないからです。今、量子力学など先端の物理学が、物質と意識の関係を模索していますが、確かなことは未だ分かっていません。

注4 「心の病の根治」日本が生んだ精神療法家、森田正馬は精神科医でしたが、「神経症の根治法」という書の中で、神経症は薬で治らないと現場治療の現実から悟り、森田療法を考案しました。そして強迫観念、パニック障害、不安症、各種恐怖症等を独自の精神療法で、90%以上根治したとされ、全国から患者が殺到したと言われています。

今 生きている、それは 記憶された過去の シナプス現象

ところで私たちが生きているのは、意識できる部分、意識できない部分の働きを合わせたもの全体が私たちの心身の活動の事実です。五つの感覚(眼・耳・舌・鼻・身)で刺激情報を感受し、それを意識が快・不快などの感情として受け取り、感情と言語・イメージとして記憶していきます。こうして無意識層に記憶されたものが自動的に次の活動時に生起し反応します。

今、生きていることはこれまでの人生で習得した記憶が意識化されて生きていることなのです。つまり、心身全体の過去の記憶が自動的に再生されたもので生きています。記憶を失う疾患の一つ、認知症の例を考えれば、生きる活動が記憶に支えられていことが理解できます。私たちが感覚し意識できるのは、体を動かす運動神経と感覚神経の一部ぐらいで、実際に働いているものの1%以下にすぎません。

身体の働き それが神

少しだけ例を挙げてみます。呼吸で吸った酸素は鼻腔を通過し気管支を通り、肺にある約4億個ある肺胞に入ります。その肺胞一つ一つは、それぞれ湿度100%を保っています。4億の肺胞の周囲にめぐらされている毛細静脈と毛細動脈でガス交換を行います。そして心臓を経て全身の細胞を巡り酸素を配り、二酸化炭素を持ち帰ります。心臓の一回の鼓動で約70mlの血液が送り出され、約30秒で全身を巡り、心臓に戻ってきます。こうして、酸素と栄養は全細胞に配られ、私たちは生を保っています。止まれば死にます。こうした呼吸の活動は全く意識されません。

また食べたものを私たちは口で咀嚼(そしゃく)します。舌には数千個の「味らい」が五味(うま味、甘み、塩味など)を感じます。味らいが正常に働かなければ、食べ物を食べても私たちは、おいしいと感じなくなります。さらに気管と食道の入口の弁(魔の弁と言われている)の操作で、誤飲することなく食道に至ります。そして、食道のぜん動運動によって、胃に送り届けられます。胃には食べ物を(くさ)らないようにするため、胃酸を出し37度の温度で数時間保存しながら消化しやすいように砕きます。また空腹感を防ぐため数時間は保存します。そして、砕いたものを十二指腸におくります。

十二指腸で本格的な消化活動が開始されます。膵液から消化酵素が出され、消化活動が順調にできるように働きます。その後、6メートル-ほどの小腸で、24時間から48時間かけて消化・吸収されます。その働きを担っているのが腸壁の粘膜です。その粘膜を広げると、テニスコート一面ほど広さになります。こうしてエネルギーになったものが各細胞に血液によって運ばれ、細胞は生を保っています。体のごく一部の活動ですが、こうした活動は、私たちは意識できません。一体どこで、だれが指令を出しているのでしょうか。アインシュタインは、神が存在するとすれば、このような働きを神と呼びたいと言い、汎神論(注5)を信じていました。

注5 汎神論 スピノザが提唱した。簡単に言えば、神とは万物の創造者ではなく、万物そのものがもともと神の働きをしているという説。全ての存在が神であるという考え。釈尊が捉えた仏性と似た概念。

細胞は 瞬間瞬間、細菌やウィルスと闘い 生命を守っている 

体の中で毎日新しいがん細胞が成人の場合で約3000個生れているという事実があります。私たちはボーとしていますが、体の内部で白血球が熾烈(しれつ)な戦いをし、マクロファージという細胞が、がん細胞を食べたり、攻撃したりして、がん細胞を駆逐(くちく)しています。そんな活動に対して私たちは、全く意識することもできません。

風邪を引き発熱し、のどが()れた時など、白血球が菌やウィルスと戦い、そこは戦場となり炎症(えんしょう)を起こします。また赤くはれたり、発熱したりするのは激しい戦いの(あと)だからです。

このように私たちの身体は、意識できない世界で、涙ぐましい戦いを(いた)るところで展開しています。私たちが意識して指示しているわけではありません。体の各部分が、体を守るために、本来的使命に生きているのです。生きぬくための熾烈な戦いをしています。仮にウィルスに負けてしまうと、体は死ぬからです。破傷風(はしょうふう)などの(きん)に負けると、やはり命を保つことはできません。

弱肉強食が生物界の生体の秩序(ちつじょ)の一つのルールです。人の体の内部も白血球が負ければ強いウィルスが勝ち、体を支配し、人は死にます。身体自体が壮絶(そうぜつ)破壊(はかい)と創造を()りなしているのが生の現実です。

 動きを止めれば 生あるものは 死んでしまう

人は動きを止めればやがて弱り、死滅していくしかないのです。体の内部の戦いのように動き、前進するしかありません。宇宙や自然は常に変化し流動(りゅうどう)しています。人間も宇宙の一部であり、変化に合わせなければ生き残ることができないのが自然の道理(どうり)なのです。

地球は生きている それを神通の力(注5)という

地球は生きています。私たち生物と同じように…。地球は地球自らのものであり、自分の役割を誠実に果たしながら 自分の使命を果たしています。

地上の大気中には、私たちの生命活動の根本である呼吸に必要な酸素がほどよく存在しています。また各惑星、月、太陽との絶妙なバランスと、ほどよい距離感と大きさによって重力や引力が均衡し、今の領域を正確に保つため一日で一回転し、太陽の周りを高速度で一年をかけて一周します。だれの指示でもなく、自らの本然の力で回っています。

そうした神秘的な智慧のおかげで、私たちは宇宙に浮遊せず、大地に足をつけ、太陽光の強烈な紫外線にさらされることもなく、適度な水と温度、湿度の恩恵に浴し、生きていくことが出来ています。

生きとして生けるものすべてが、生まれ、そして自分の役割を演じ、生を終えていきます。地球も生物も人も同じ生命体です。これを生命現象の「生住異滅」といいます。

注5 神通力 生命が発する不思議な力。鳥が空を飛ぶのも神通力。動物が鳴くのも神通力。人間が言葉を話すのも神通力。地球が自転し公転しているのも神通力。すべて思議できない不思議な力に支えられている。

地球は 慈悲と智慧の体現者 

地球の活動は慈悲を根本にした智慧の律動に支えられています。慈悲とは苦しみを抜き楽しみを与える働きです。地球上のあらゆる生物の苦しみを和らげ、楽しみを与えゆく慈悲の実行者にして慂出する力それが智慧です。あらゆる生物は、地球の恩恵に浴し、慈悲と神秘な智慧に守られながら生きることが出来ているのです。

地球上には大気圏が地上から、約10万キロmまであり、宇宙空間からくる電磁波などから守られています。地上の生物や動物や人が生きていけるのは、酸素が存在し、海があり、人間の血管のように河川があり、血液が流れるように水が流れているからです。

地球の自公転や水が生物の生を支えています。私たちは、普段当たり前のこととして、それらの恩恵を享受していますが、けっして当たり前のことではなく、奇跡なのです。

地球の有り難さの一部を感じるのは、地震や気温の急激な上昇や線状降水帯発生などの時ぐらいでしょうか。そんなときも、地球そのものについて深く考えることはせず、自分たちが生き延びることしか考えていません。どこまでも自己中心的な欲望に生きているのが人間です。

地球の兄弟星、火星や月には酸素がほとんどありません。金星は温室効果ガスの影響て表面温度が460度の灼熱の惑星です。美しい輪を持つ土星の輪は、氷の粒と岩石の集まりでありガスの惑星です。太陽系では地球だけが生物が住める不思議な惑星です。

太陽からの距離が絶妙な位置にあるため、地球上では生物が生きていけます。太陽が光を程よく調和するかのように、可視光線、赤外線、紫外線などを届けてくれています…。太陽の光のおかげで、暗闇の宇宙に光が灯され、私たちはものを見ることが出来ます。絶妙な気圧のおかげで振動をキャッチし音や声を聞くことが出来ています。私たち生物は、とても不思議な働きに守られています。

 地球を 無断拝借している 人間  

地上の生物は、無料で地球に棲んでいます。人間は、地上のあらゆるものを勝手に使い、加工し破壊しています。地球全体の働きを考えず、自分の利益になる部分を切り刻み、自分たちの生を保とうとしています。他の生物に比べ知能が発達しているため、自己中心的欲望にまかせ、他の生物の生態系を壊し、母船である地球そのものを壊しつつあります。このままの愚行が進めば、生物は少しずつ絶滅し、人類も滅びてゆくことになります。今しか考えない、救いようのない愚かさが、拍車をかけています。

地球を壊しているのは 人間だけ

森林伐採と砂漠化、工場が出す煤煙と汚染水で海や川が汚れ、多くの生物が死滅しています。二酸化炭素の排出と気候の温暖化、食用のために動植物の殺、養殖。鳥瞰的客観的な目で見れば、人間のしていることの恐ろしさに唖然とするのではないでしょうか。

地球が生命ある存在ということを知らないようです。地球は傷つき、血を流しているのが見えないのでしょうか。科学が進歩し、物理天文学、量子力学も日進月歩しています。スマホ一つで、用が足せる便利社会になり、子どもから大人まで、楽しさやおもしろさに溢れる視覚快適感覚に脳が麻痺し思考する苦労をしなくなり、自己中心的に快楽を追い求め、生物や地球環境のことを思いやることを忘れています。

何のための科学の進歩なのでしょうか。見えるものしか追いかけず、大事な心を見ようとしない人間の生命の濁りが社会や時代の濁りを生み、あらゆる心身の病気を招き、応急対処的な症状除去の医療に身をまかせ、根本を見ることをせず、人類や生物を破滅に導いているのです。

気候変動、地震や自然災害、地球はSOSを出しています。しかし、そのサインをだれも読み取ろうとしていません。真の科学者はいますが、多くの自己保身者や自己中心者に消されているかのようです。

地球上の生物の90%は植物です。地球の主人公は植物ともいえます。地球は植物の惑星です。

残りの10%が動物・昆虫・微生物などです。動物の中でも人はごく微小で、人一人に対して、ありは一万五千匹の比率です。地球の動物の主役は昆虫です。

生物、特に動物は弱肉強食の本能の法則で生きています。最も限度を知らない自分勝手な動物が人です。少しばかり、脳が発達し、道具を開発し、言葉を持ち、記憶化した知識で、地球を支配するかのような錯覚に生きています。その錯覚がやがて地球を荒廃させ、生物が住めない惑星にしてしまうでしょう。

誰のものでもない地球、地球は地球自らのものです。「ここの土地は自分のものだ」と言い張り、人を平気で押しのけ殺す人たち…その極致が戦争です。戦争は自己中心性のもつ人間魔性の仕業です。

宇宙に浮かぶ地球を想像することができれば、地上の生物や人はみな地球号に乗った運命共同体と自覚できます。無知な自己中心的な政治家や権力者や富豪たちが、やがて地球を破滅させてゆくでしょう。

恩を感じ 恩に報いる心は 美しい

未来の地球に生きる人たち、今の子どもたち、他の生物、動物を思うと人間の愚かさと貪欲、そして傲慢さに怒りがこみあげてきます。地球の恩恵をありのままに感じる純な心をもつことこそ、人としての正しい道であり 幸福になる道なのです。

愛は 心が奏でる 音楽であり 詩であり 光である

2025.03.09

愛するとは お互いに見つめ合うことではなく 二人が同じ方向を見ることである           (星の王子の作者 サンテグュペリ)

かつて放映された韓国ドラマ「冬のソナタ」は、多くの女性の心をとらえ、感動をもたらしました。その物語の主題は二人の心が描き出す美しい愛の賛歌でした。文学や音楽の多くは恋愛が主題であり、洗練された愛を追い求め 人の心をつかんでいます。

人は心の奥で真の愛を求め、そんな愛に憧れ、探し続けています。深い愛との出会いは、人の心を清らかにし、その人の持つ美しさを醸し出します。

これは男女の愛だけにとどまらず、親子、友人、自然、動物、芸術など、さまざまな対象に対して共通するものです。桜が春に美しく花開く陰には、大地の恵み、みずみずしい水、太陽の優しい光など多くの自然の愛が注がれています。親から本当の愛を貰った子どもは、心が安定し、情緒が育ち、素直で、清らかに生きていけるようになります。愛はそれだけ偉大な力を持っています。

では、愛とは一体、何なのでしょうか。

愛の表現…恋愛、人類愛、家族愛、兄弟愛、夫婦愛、親子愛、師弟愛、自然愛、動物愛、母性愛、母校愛、芸術愛、研究愛、博愛、慈愛など…、愛のつく言葉はたくさんあります。それぞれ意味は微妙に違っています。また使う人が自分なりの意味をこめることもあります。

しかし、その愛とは何なのかというと明確に答えられる人が、果たしているのでしょうか? 日本にはもともとない言葉であり、欧米のLOVEの訳語だからです。翻訳語の曖昧さが日本で創作され美化された代表的な言葉が「愛」と言えます。

愛ほど抽象的なつかみどころがない言葉はありません。しかも快い響きを持った数少ない言葉です。それは、愛しているという言葉には、不思議な心地よい響きの調べがあるからです。愛という言葉は、どのようにも解釈できる幅がありますから、真実の愛が分からなくなったりします。

男女の愛では、恋は愛の序章になります。恋なくして男女の愛の成立は難しいと思われます。恋は好きという感情から始まります。その感情が中心ですから、盲目になり、暴走しがちになります。その段階で結婚まで走ってしまえば、早期の破綻を迎えるかもしれません。駆け落ちは、恋の盲目性のなせる業であり、その結婚の多くは、うまくいってないのが現状です。恋心を抑制する知が薄れ、高揚した恋情が先行してしまった結果です。

恋愛は、その盲目的本能に知性をもたらし、自己中心性と葛藤し、相手のことを考えるようになり、双方の成長の機縁になります。恋愛の二人の成長の先に、愛が待っています。愛は二人が紡ぎ出す、この世に二つとない美しい世界を表現します。その一端を私たちは恋愛小説やドラマに見ることができます。愛を育てていけば二人は終生、美しい絆をつくってゆけます。その二人に、離婚(注1)という文字はありません。

愛の模範を、お腹の中に子どもを宿した母親に、見ることができます。母親は、宿った子どもを自らを顧みず、そのいのちを守り、大事に育てていきます。無償の愛の行為です。釈尊(注2)は、その心と振る舞いを慈悲(注3)と名付けました。

愛は本当の優しさをともないます。また見返りを求めることはしません。相手がどんな状況になっても、たとえ相手の姿かたちが変わり果ててしまっても、その人のすべてを受け入れ 守り、大事にし、尽くし抜く心、それが愛です。

例えば、男性が新婚前後の女性に愛を捧げるのは難しくありませんが、10年、20年、そして相手が白髪になった70代、80代になっても愛を貫くことができれば、それは本物の愛です。そのパートナーは世界で最も幸福な人といえます。

愛はお金や財宝、名声、人気、地位で得ることができないとスティーブジョブ氏(注4)は言いました。この世界の最高の宝なのです。生きているときも、そして死後にも持っていける美しい心の品性です。

愛の実践には、心の強さ、心の清らかさ、正しい心を保つ品性が求められます。愛は二人を高め合います。高め合う愛こそ本物の愛です。愛は人間の品行の成長を伴います。愛する二人は限りなく向上し輝き、美しさを放ち、周囲をほのぼのとさせます。それが本物の愛の品格です。

愛は その人のすべてを受け入れ 大事にし  たとえ相手が白骨になったとしても その人を 永久に 愛し続ける それがまことの愛です。

私の妹夫婦(注5)が紡ぎ出した、本当の愛の詩の一部を詠んでみました。

注1 釈尊 ゴータマシッダルタ、一般的にブッタと呼称されています。約2600年前、インドの釈迦族の王子として生れ、何不自由のない生活を送っていましたが、心は晴れず、もんもんとしていたと言われています。人生の真の生き方を模索し19歳で出家したとされています。当時のあらゆる修行者に師事し修行を重ね、難行苦行の修行の末、30歳で生命の永遠の因果の法を悟ったとされています。正統仏教は宇宙、自然、生物、人間という万象を貫く、不思議な因果の如来の法を根本にしていると言われています。

注2 離婚 …現在の日本では、三組に一組が離婚すると言われています。その原因は様々ですが、一番は「性格の不一致」と言われています。正確に言えば、相手が理解できず、相手の欠点や嫌なところを受け入れることができなかった結果です。

好きと感じた一時の感情は、裏返し感情の嫌悪・嫌いに変ります。人の好悪感情、愛憎は、例えていうなら、同じ硬貨の表と裏の関係のようなものです。一時は好きで抱擁し合った関係だったはずですが、嫌悪感に支配されると、一緒にいたくない、最悪、同じ空気を吸いたくないなどの気持ちになったりします。二人の関係は、恋の段階、もしくは恋愛の段階で終わり、愛を慈しむ主題にまで到達していません。離婚の多くの原因は、筆者に言わせれば、本当の愛を知らなかった結果なのです。

注3  慈悲 …他者を守り、支え、育み慈しむ振る舞い。自然や宇宙の根本の法則の周波数に自分の周波数を重ね合わせるようにして生きるとき、心の奥底から湧き出ます…母親の一時的な慈悲の働き、菩薩の世界。その慈悲の周波数に生きるとき、あらゆる生命、人間は本来の調和を奏で最高の自分を発揮し充実し安定し、真の幸せ郷に至るとされています。

代表的な人に、孔子、老子、イエスキリスト、キング博士、ガンジー、中村医師、ヘレンケラー、ナイチンゲール、観世音菩薩、弥勒菩薩、竜樹菩薩、不軽菩薩などの無数の菩薩がいます。その他、慈悲の体現者として、釈尊、天台大師、伝教大師、日蓮聖人など無数の諸仏が存在するといわれています。

注4  スティーブ・ジョブズ…アップル社を設立し、その会社の共同経営者。一代で巨万の富と名声をほしいままにしたが、55歳ですい臓がんのために、2010年にこの世を去ります。スティーブ・ジョブズの「最後の言葉」の大意を筆者がまとめたものです。

注5  妹夫婦は45年近く、ともに歩み続けましが、先日、70歳でこの世を後にしました。特に、癌緩和病棟で過ごした8日間、24時間寄り添う夫(義弟)、ベットのそばで、腫れ上がって痛む妻(妹)の腕を、ずっと優しく撫でながら、語り掛けていました。臨終の瞬間まで手を握り「ずっと一緒だよ、明日も明後日も、来世も、ずっと一緒にいるよ。愛している」と語りかけていました。そんな光景を目の当たりにした私は、愛の何たるかを教えてもらった思いです。妹のことは、このブログ「死の瞬間が物語る その人の人生の真実」(1月19日版)に載せています。本当に尊敬できる夫婦でした。私の心も二人の愛に、どれだけ浄められたかわかりません。二人の心を少しでも伝えたいとの思いで、このブログを書きました。

※当室は、あらゆる宗教・思想団体にも所属していません。室長は、若い日より、万般の思想、哲学、宗教、文学、科学、心理学を学び続け、今もその学びの旅は続いています。

自分らしく 輝いて生きるための 智慧 

2025.02.02

自分らしく輝いて生きるためには 哲学(注1)することが大事になります。そこには先人の人生をかけて得た智慧が貯蔵されているからです。

人は本来の自己(注2)に生きるとき 心が安定し最高の充実を得ることができます。 それが生きる本当の意味であり、本来の自己が奥底で望んでんでいるこころなのです。

人は生れてから死ぬまで、自分らしく生きることを心の深層で望んでいます。そして本来の自分を生きたいと願い 自分らしさを探すように生きています。それは個人の深い本源的欲求(注3)に根差していて、その到達点にある、喜びに満ちた幸福郷という心の故郷に還る道を探しているのです。

自分はこの宇宙で、どの生物や人間にも代替できないかけがえのない個性の持ち主であり「天上天下唯我独尊」(注4)の存在だということを自己本来が心の深いところで識って(注5)います。

古今のあらゆる思想、哲学、文学、芸術、音楽、宗教、科学が本来の自己を探究してきました。「汝自身を知れ」(注6)といったギリシャの哲人ソクラテスもその一人です。夏目漱石(注7)は「足下を掘れ」と自分の内面を探求することの大切さを教えてくれました。

私の目的は 個々の人が自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい

物理学者のニコラ・テスラ(注8)の言葉です。テスラのいう「自分の翼」とは自分しか持たない翼であり、自分らしい自己のことです。彼らは、みんな本来の自己を探し、本来の自分に生きることの大切さを教えてくれています。

自分らしさは抽象的な言葉であり知識であり、どのようにも解釈される曖昧言語の一つです。「○○らしさ」は、偽りの多様化社会では、差別用語で使われることも少なくありません。「男らしく行動しなさい」「あなたは親らしくない」…。つまり「○○らしさ」のなかには、既に社会に広がった価値観が染み込んでいます。つまり本当の自分らしさではなく、時代の社会常識によってつくられた自分らしさになります。

例えば、いつも遅刻する人が、たまたま早く来たとき、周囲の人は「君らしくないね」と言ったりします。いつも遅刻することが、その人らしさになっています。その人の自分らしさとは、この場合、遅刻する自分ということになります。自分らしさとは、習慣的に意識的・無意識的に行動しているパターン化された自分を指しています。つまり「○○らしさ」は大人社会の既成の価値観が作った、その時代に通用する常識になってしまっています。そうした風潮が、「自分らしく生きる」ということを迷いの世界に誘っていきます。

では本当の自分らしさとは何なのでしょうか。この問いに答えられる人を、今の社会に見つけることは困難を極めます。なぜなら自分という人間存在、心の真実が分かっていないからです。現代社会は過度の情報化、視覚化された社会のため、真実が分かっていないのに、わかったように説明する詭弁者や偽善者に溢れ、真面目な人は混乱し、迷妄の闇にさまよう結果になっています。

自分らしさとは、本来の自己を生きることなのです。では本来の自己とは何かを知ることが、本当の自分らしさの発揮につながります。

自分らしく生きるためには スティーブ・ジョブズ氏(注9)が語るように、「大人が作った価値観や常識を一度見直し、再思考し、価値あるものとないもの、本物と偽物を精査し、自分のものとして、取り入れられるものは取り入れるという取捨選択をし、その中から独自のものを創り出していくこと」が本当の自分を作ることにつながると言います。

自分らしさの獲得は、ある意味、茨の道です。楽に到達できるものではなく、思考を磨き、意識を磨き、想像力(=創造力)と格闘しながら、日常生活の中で錬磨された思想を実践という体験の中で検証しながら、肉化していくという魂の闘いが要求されます。そのためには正しい哲学に導いてくれる師や善き友が必要になります。

道を求める困難さを避け楽な道や偏った思想や価値観に生きた人たちは、大人が作った過去の常識に埋没し、利用され、本来の自分を見失い、迷える自分を生きることになり、充実した人生も味わえなくなり、本当の幸福を感じることもできなくなります。

明治、大正、昭和初期まで、思想や哲学や文学の世界では、本当の自分を探求する魂の壮絶な闘いの人による書がありました。しかし、昨今はハウトウーものや表面的、コンビニ的知識が広がり、偽物や軽薄が幅をきかせ、本物が埋没しています。このような著者に共通しているのは、独自の哲学がなく、実践がなく科学的実証性が伴っていないことです。書物は発行部数と売り上げ至上主義となり、残念ながら中身は問われなくなりつつあります。

多くの情報が経済至上主義思想という欲望づけにされ、巧みな宣伝力で、人間の弱点である視覚(注10)を刺激し、快感覚に潜む麻薬的力で、思考を停止させ、知性を麻痺させるかのように広がっています。そんな商業主義の、軽薄ものは中身がなく、本当の自分らしさを見つけることにつながらないどころか、悪(注11)になっているものも少なくありません。悲しいかな、人を不幸に導く最大のものが悪知識(注12)であるということに、現代人は気づいていません。

芝蘭之室(しらんのしつ)では、本来の自分を識ることを哲学し、濁りに染まった現代社会や思想を乗り越える智慧の獲得を目指しています。

※当芝蘭之室はいかなる宗教・思想団体にも所属していません。室長は、18歳の頃から「自分とは何か」を探求し、あらゆる思想、哲学、文学、宗教、心理学、諸科学、人体学などの書物に向きあい、真実を探求し研鑽してきました。今もその旅は続き、現在はブッタ(釈尊以外の生命の覚者も含む)の最高の教えとされる仏法と量子力学等を中心に研究しています。

注1 哲学… 哲学は、思考の究極世界であり、瞑想の極致です。生命とは何か、自分とは何か、心とは何か、人間いかに生かるべきか、生とは何か、死とは何か、自分はどこからきたのか、宇宙は無限なのか有限なのか、時間とは何か、真理とは何か、正義とは何か、人間は善なのか、悪なのか、愛とは何か、幸福に生きるためには、どう生きればよいのか、など人生、社会、自然、宇宙万般を対象に思索し探求する学の世界です。

ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ニーチェ、ベルグソン、キルケゴール、ショウペンハウアー、サルトル、ハイディガ―などが有名ですが、近代は量子力学などの諸科学の陰に隠れた感があります。しかし、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ニコラ・テスラなど一流の科学者の真理探求過程と悟り・考え方は哲学そのものです。

これは科学者だけでなく、夏目漱石、森鴎外、吉川英治、ゲーテ、トルストイ、ドフトフエスキーなどの文学者、ベートベーン、バッハ、モーツアルトなどの音楽家、ダビィンチ、ミケランジェロなどの芸術家、ヘレンケラー、ナイチンゲール、ガンジー、キング博士などの人道主義者、老子、孔子などの思想家、イエスキリスト、マホメット、ブッタなどの宗教者など、その道の一流を極めた人は、みなそれなりの優れた普遍性に満ちた哲学を持っていますし、表現する言葉が美しく読んだり誦したりするだけで心が浄化され、深い触発を受け正しい生き方に導いてくれます。彼らは優れた詩人といえます。

(注2) 本来の自己 自己とは意識層と無意識層を含めた自分全体を指しています。それに対して、自分とは、習慣化・記憶化されたパターン化された自分を指し、自己からみれば部分的なもの・意識になります。

(注3) 本源的欲求 西田幾多郎の代表作「善の研究」の中で使っている重要な言葉。本来の自己、「純粋経験」とほぼ同義と考えてよいでしょう。

(注4 )「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんがゆいがどくそん) 釈尊の言葉とされていますが、真意が曲解されて伝わっています。唯我独尊の「我」とは個の我だけを指すのではなく、この宇宙全体にはただ一つの我、宇宙もすべての生物、人間も、存在するものすべては一つの「我」という意味です。釈尊の悟達によれば「我」とは、瞬間瞬間、如如として来る、仏性、法性、如来という意味です。この「我」が、すべてを創り出す生滅の法で、永遠に存在しているというのが真意です。

注5 識る 筆者は「知る」と「識る」を区別して使っています。知るは感覚で感受したものを意識することであり、ものごとの一部分しか受取れていません。識るは感覚、意識、記憶化された無意識を統合して感受することであり、ものごとの全体をわかろうとする働きであり、真の受容になります。

例えばタバコやギャンブルは害になるのでよくないから、やめようと頭の中で「知って」いても繰り返します。それは人間の心身の部分知だから、人間の全体をコントロールできないのです。識るとは、タバコは悪いので吸わないという行動ができることを指します。つまり識るは体得であり、「悟り」といえます。知識と感情全体を抑制できるのが「識る」であり、生命全体でわかることであり、覚者はこれを「悟り」という言葉で表現しています。これが修得できれば、心の悩みや心の病は治り、苦から解放されていきます。

(注6)「汝自身を知れ」ソクラテスの名言と言われています。あなたはあなたのことを全くわかっていない。自ら無知を自覚し、大いに学んでいきなさいと言う意味になります。ここで言う無知とは、本来の自己に対する無知のことです。

(注7) 夏目漱石「私の個人主義」という書の中で展開している言葉。「足下を掘れ」とは自分の心の深くまで探求し、本来の自己を探りなさいという意味になります。

(注8)ニコラ・テスラ…1856~1943年 交流電気を発明、約300の発明をしたとされる、天才物理・電気学者。現在のイーロン・マスクはニコラテスラを信奉していると言われています。彼の設立した車の会社の名前は「テスラ」です。

ニコラテスラの哲学の一部を紹介します「存在とは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによってすへての生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き産み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一、一つの状態から別の状態に移ることだけです。これがすべての秘密の回答です」

(注9)アップルを設立したその会社の共同経営者。スティーブ・ジョブズの「スタンフォード大学の講演」「最後の言葉」の要点を筆者がまとめたもの。

(注10)視覚を刺激…人間の感覚反応は9割は視覚に依存しています。それは二本足歩行し、体力的には他の動物より圧倒的に弱いため、視覚と記憶・知識の優位さで生き抜くために発達しています。反応の基準は、快・不快、好き・嫌い、好ましい・好ましくないという過去の記憶化された習慣的に作り上げた価値観で自分を守るために反応します。その基準は好き・嫌いという感覚反応ですから、本当の利害は得られず、また善悪など度外視しています。コンビニ感覚社会では、見た目が勝負ですから、人間の弱点にもなる視覚に訴える広告宣伝、テレビ、ユーチューブに溢れ、真偽も利害も善悪も二の次になり、思考しない人間を増産し、人間の質の低下を加速させています。

(注11)悪…ここでは人の精神を高める向上させたり、順益させるるものを善といい、逆に人の精神や生き方を低下させたり、自他を違損するものを悪という使い方をしています。古来、哲学や思想や科学は善悪を巡って魂の闘いをしてきました。一例をあげれば、地球は回っていると唱えたガリレオの地動説は当時の社会から裁判にかけられ有罪になりました。

当時の善思想は天・太陽が回っているといことであり、地球が回っていると言う考えは悪で人を惑わすものとされたのです。当時の善は、真理が究明された現在からみれば悪です。真理は権威社会が作り、当時の社会常識は今の科学からすれば、悪になります。ガリレオが善だったのです。つまり社会常識や思想は時代の民衆や権力者が作り出すものであり、真実とは限らないと言うことです。だからこそ、真理・真実を見抜く正しく賢い目が大事であり、そこに導いてくれる正しい師・先哲の存在が不可欠になります。

善を生涯探求し実行した哲学の祖ソクラテスは当時の詭弁家知識人の悪に毒を飲まされたのです。いつの世も悪は多く、善は少ないようです。悪は楽であり、善は困難を伴うので、人々は容易に悪思想に染まってしまうのです。悪は一時的に栄えたように錯覚しますが、末路は苦しみであり、地獄の世界になります。世の中を俯瞰するに、あらゆる商売、品物、企業団体、医療・心療内科やカウンセリングも商業主義・経済優位に毒されていのが現実で、残念ながら善は少なく、本物は砂浜の一粒の砂のようなものです。人々が賢くなるしかありません。

(注12)悪知識…生命全体、心全体、身体全体をみるという全体観の把握なしに、部分だけを見て、生命現象、心の働きや身体の働きを決めつける偏った知識、思想のことを指しています。わたしたちの普通の五感覚では、地球は動いていなくて、太陽が動いていると感じる中世キリスト教の常識(悪知識)が陥った天動説を信じてしまいます。

天文物理学の発見という根拠をもとに、想像力の目で太陽系全体を見れば、地球も太陽も動いていることを知ります。これを正見といいます。つまり正見とは、全体を観るということ、真実を見極めるということです。全体を知る、つまり真実を知ることで正しい対処ができるようになり、幸福な人生を生きることができるようになると言われています。

何も考えず権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である アインシュタイン

死の瞬間が 物語る その人の人生の 真実

2025.01.19

今、生きている人たちは、120年後には、誰一人この地球上には存在していません。みんな死んでいます。人生は不確実ですが、死だけは誰人にも確実に訪れてきます。生まれたものは必ず死ぬというのが生住異滅(注1)という変化を持つ生命の真実相だからです。だからこそ、死ぬ存在の自分を真剣に考えることが大事になります。それは、この人生をどう生きるのかという問いにもなります。

死ほど厳しいものはありません。人生をどのように生きたのか、その総決算が臨終の場面です。そして、その人の生きざまが死相に現れ、その人の人生の本性を語ることになります。人生は長さではなく、深さであり、何を為したかが問われるのが臨終の儀式です。

アップル社を設立し一代で巨額の富を築いたスティーブ・ジョブズ(注2)は、すい臓がんのため55歳でこの世を去りました。彼の「最後の言葉」の中に、人生で大事なものは、「家族に、パ―トナーに、友人にどれだけ愛情を与えたのか、やさしくしたのか、よい人間関係をつくることができたのか」であり、富、お金、名声は死後持っていけないと言っています。彼のような富と名声を得た人だから言えた言葉かもしれません。

死の瞬間に、人は生きているときの虚飾の衣は剥がされ裸一貫の人間にされ、生きざまが明らかにさらされます。生まれてから死ぬまで身口意(身体、言葉、心)の三つの行為でしたことを、すべて自己検証する儀式が臨終です。社会的地位や財産や名誉や人気など全く役に立ちません。それらは今世を飾る一次的なものであり、執着すれば来世の足枷・苦しみになるとブッタ(注3)は警告しています。

人の目はごまかすことができても自分を欺くことはできません。死の瞬間は自分が自分の人生全部を評価し裁く厳粛な時なのです。仏教説話などで比喩的に説く三途の河や奪衣婆(だつえば)、縣衣翁(けんねおう)や閻魔大王の責めなどの儀式のことです。これらは分かりやすい比喩であり、真実は自分の身体が死滅し、身体と心が乖離(かいり)する瞬間に自分の生きざま(主として善悪の行為の総量)を自分が検証し、心の深層(阿頼耶識・貯蔵識、注4)に整理して刻印し、空の状態で存在します。そして次の自分の業にふさわしいかたちを決める時なのです。そのかたちは業によって決まり、植物、昆虫、鳥、動物、人など様々です。

身体は消滅しても、その働きを支えていた心法・心の働き(注4)は、そのまま「空」(空…くうと読む。竜樹・世親らの生命観)の状態で続くと竜樹菩薩(注5)は大智度論で展開されています。そして初七日(最初の七日間)で次の生のかたちが決まる生命もあります。長くても49日内に次の生命のかたちが決まると聖人は説いています。

人生で、善の行為が多かったのか、悪の行為が多かったのか、もしくは善悪に関係しない生き方が多かったのかなどが自己検証の基準になります。

善とは、他者や他生物の命を慈しみ、育み、守る慈悲の行為であり自己中心性とは逆方向の、ある意味自己犠牲(自己中心性を抑制したり昇華したりすること)を伴う行為です。

悪とは、他者や他生物を傷つけ、支配し、壊し、憎み、攻撃し、破壊したりする自己中心のままに生きる行為です。

善を多く成した人は、死相が安らかで、眠るような表情になります。体も軽く、色は白くなり、死後硬直もなく体は生きているように柔らかく弾力性があり、腐敗も三日以上はありません。そのような死相の人は人間界以上の世界(人界、天界、菩薩界、仏界)(注5)に旅立つと聖人は説いています。

逆に悪の多い人生だった人は、死後まもなく硬直し、顔の表情は苦渋に染まり、悔しさ、などの表情になり、体も重くなったり、顔色も黒ずんだりし、見るのも恐かったり辛くなったりします。体の腐敗も早くなります。そして、地獄の世界、餓鬼の世界、畜生の世界、修羅の世界(注6)に赴くと聖人は説いています。

これらは私が多くの人生やその臨終を実際に見てきた事実からも言えますが、聖人が説いています。人生は長さではなく、何を為したかが大事なのです。

最近最愛の妹が70歳で亡くなりました。生前は、人のため、子どもたちのため、孫のため、婿のため、病弱を省みず誠実に真心こめて行動し尽くしていました。がん闘病で、余命半年と言われていましたが、約3年生きました。そのうちの2年半は普通に生活していました。亡くなる前の半年前から入退院を繰り返していました。

辛い闘病期間もあったようですが、臨終後、顔は穏やかで安らかになり、体も白くなりました。もともと色の白い人であったようですが、若返り、きれいになりました。葬儀、火葬までの三日間、私もまじかで接し、指や腕に触れましたが、柔らかく、腹部はかすかに上下し、呼吸をしているような感じで安らかに眠っているようでした。

硬直もなく腐敗もありません。孫たちは祖母に手をつないだりして何度も触れていました。柔らかく、手が握れるのです。腕の脇の部分などは、火葬の日まで温かでした。このような死相の人は、そうたくさん見たことがありません。その人の母親も同じような状態であったと記憶しています。私がまじかで見た死相で、このような状態で臨終を迎えたの人はわずかです。いずれも人に誠実に尽くすように生きてきた人たちです。それ以外の人は、死に顔を見るのも辛くなるような状態の人の方が多かったような気がします。

「臨終のことを まず学びて、他事を学ぶべし」と聖人は言われました。死にゆく存在であるわたしたち人間。私たちはいかに死ぬのか、それはいかに生きるのかの問いになります。最高に価値ある生き方、意味のある生き方、充実した人生とは、人の幸福に貢献する生き方、つまり菩薩道(注7)にあると、ブッタは教えました。

◎当室はいかなる宗教団体とも無関係です。室長は若き日から、万般の哲学、思想、宗教、心理学、文学、科学を研鑽し、最近は法華経と量子力学の関係性を研究しています。

注1 生住異滅 じょうじゅういめつと読む。仏法哲学の生命観の一つ。この世界のすべての存在は、生れ、安定した形で住み、やがて老化したり壊れたりする異なる形になり、すべて滅していくという過程をたどります。生物、無生物すべてに当てはまる。地球や太陽、石や塵、植物、動物、人間、すべて生住異滅の法則に則っています。つまり、すべての存在は常に変化していると言うことであり、「諸行無常」と同じ世界を指しています。

注2 アップルを設立したその会社の共同経営者。スティーブ・ジョブズの「最後の言葉」の要点を筆者がまとめたもの。一代で大富豪になった人。

注3  ブッタ・聖人… 法華経正統継承者の中では、三世の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人をブッタ・覚者・聖人と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドの釈尊、中国の天台智顗、日本の最澄と日蓮の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来世を予言し、それを的中させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹・天親菩薩がいます。彼らは人間生命の深層を探り、空観や唯識思想や死後の世界を究明したと言われています。

注4 阿頼耶識・貯蔵識…唯識思想では意識の下に、無意識層として、第七識として末那識(自我執着意識)、その下に第八識、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在していますが、縁に触れて生起し、意識に影響を与えます。脳に記憶化されたものと考える理解しやすいかもしれません。天台智顗は八識下に根本浄識としての九識を覚知されました。それを法性・仏性といい、あらゆる生命、万物の根底の生命であり釈尊の妙法蓮華経や如来と同義であると説かれています。

生命の深層の第八識・阿頼耶識に貯蔵された業(カルマ)の主として善悪が次の生のかたちを決めるとされ、楞伽経(弥勒菩薩、無著菩薩の教えとされている)では、初七日から七日間ごとに行き先が決まるとされ、49日目には、どんな人も行き先が決まると説かれています。

注5 心法…生命は色法と心法の二面性をもつと天台大師は理論づけています。色法とは、簡単にいえば肉体的側面で分析可能な部分です。心法とは、簡単にいえば心性です。色法の働きを可能にする性分・性質であり、分析不可能な不可思議な働きで「空」の状態で存在しています。色心不二が究極の生命の真実相とされ、仏性や如来と表現されることもあります。

注6 龍樹菩薩… 2世紀ごろのインドに生れた仏教僧。ナーガールジュナという。空(くう)は龍樹菩薩の中心思想の一つ。存在するものを「有」存在しないものを「無」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「縁・対境」によって生起し有のかたちになる。「空」は有無の二つの在り方をとる生命現象なのです。

注7 人間界以上の世界(天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界) 注7 地獄の世界、餓鬼の世界、畜生の世界、修羅の世界

釈尊以前のバラモンの教えは、六道輪廻といって、人間は六つの世界を巡るとされていました。その六つとは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天界でした。天界が最高位です。世間で言われるところの欲望が満足された極楽のような世界です。しかし、生命の真実を覚知された釈尊は、生命の境界は十境界あるとして、それを法華経如来寿量品で説きました。中国の天台大師は、それを一念三千論として体系化され、生命の十境界を明確に説明しています。

「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、諂曲なるは修羅、平らかなるは人、喜ぶは天…」と

分かりやすく現代的に説明します。

〇地獄の世界…苦しみ・地獄の世界―地下の牢獄(ナラカという、サンスクリット語)―最低の生命境涯
・生きていることが苦しい、何も見ても不幸、どうにもならないうめき声。生命力の枯渇。
・思い通りにならない苦しみ、怒り、憤りの世界。

・怒りがもたらす破壊の働き…自傷や他傷、殺人や戦争の原因
・焼けつくような苦しみ、求めても得られない苦しみ。強いものに巻かれる苦しみ
・苦の波長…本来の波長が失われ、逆流し、混乱し生命は限りなく疲弊し生のエネルギーを奪う

※死後に赴く世界…地下深くにある八大地獄に象徴される間断なく苦が充満する世界。

〇餓鬼の世界…「〇〇したい、○○がほしい」 充たされない焼けるような枯渇した世界-餓鬼の世界―
・欲望の過剰やとらわれ、執着に心がつながれ、不自由になり苦を感じる。
・ギャンブル依存などあらゆる依存は欲望の執着がもたらしている
・飢餓的欲望の波長…一時的に速度を増し、竜巻のように自己破壊を伴う。

※死後に赴く世界…地下深くにある渇しても渇しても得られない、生命が焦がれ焼かれるような苦しみの世界。

〇畜生の世界…先を見ず目先で行動する愚かさの世界…畜生の世界…残害の苦…強いものに食べられる苦 しみ
・生きるための本能、食べる、生殖活動、自分を安全に守る働き。
・弱肉強食の世界、自分の中に規範がない。強いものに巻かれたり、食べられたりする恐怖の世界。
・後先を考えない本能に支配されて行動する愚かさ。
・波長は、どんよりして遅々として進む。けだるい感じ。以上の三つの世界を三毒とも三悪道ともいう

※死後に赴く世界…残害の苦を伴う世界(強いものに食べられる苦しみのある世界)

〇修羅の世界…他者と比較し、常に他者に勝ろうとし、心が休まらず安定しない修羅の世界
・他人と比べ、自分が優れ、他人が劣っていると思う心。優れた人に嫉妬し、引きずり落とそうとする心。
・自分は素晴らしいと思う自己像を持ち、その自己像を壊さないためにエネルギーを費やす。
 外面は善い人…仁・義・礼・知の振る舞いで本心を隠し偽り、人に諂う。素直でない。
 内面と外面が異なる。偽りの自分を守り、保つためにエネルギーをつかう。心は安定しない。
・自分の優位性を保ち、劣等を隠すため、心は戦々恐々として休まるところはなく不安定。

※死後に赴く世界…海の波が間断なく打ち寄せ、戦々恐々とした安心できない世界。

〇人の世界…平穏な境地、人間らしい境涯…自分に勝つ生き方の第一歩…人間の世界
・正しい人生の軌道を歩むことによって心が安定してくる、内面化された規範に生きる。人らしさを保つには努力が必要になる、人間を超えたものに畏敬の念を持ち、尊敬することで自分を豊かにする。「三帰五戒…人間らしい生き方」は人に生れると唯識哲学は教える。
・欲望のコントロール、抑制する努力、倫理や道徳を守る。教育によって、人は人になる。教育が大事になる。

※死後に赴く世界…安らかで穏やかな平和な世界。

〇天の世界…欲望が充足された喜びの世界…天の世界
・人々は天を仰ぎ、敬い、憧れた。 自分に打ち勝つ先に得られる喜びの世界。
・欲望世界・精神的な充実の世界。しかし砂上の楼閣であり、永続できない。

※死後に赴く世界…満ち足りた満足を感じる世界。

〇声聞の世界 反省、内省的自我…諸行無常を探究。存在の有無、真理を追究し自分を高める世界
 一切のもの、一切の生物、人、社会に学び、人間完成を目指す心。見えないが確かに存在する心を見る。空や縁起を学ぶ。

※死後に赴く世界…充実を感じる世界。

〇縁覚の世界…「空」を悟る境涯。諸法は無我と悟る。色即是空を悟る世界。代表的な人に、夏目漱石、吉川英治などの文豪、ベートベーンなどの音楽家、アインシュタイン、ニコラテスラ、ニュートン、アリストテレス、ゲーテ、トルストイ、ダビィンチなどの覚りを得た人たちの世界。

※死後に赴く世界…深い充実感のある世界。

〇菩薩の世界…他者を守り、支え、育む慈悲・愛の心に満ちた世界。自然や宇宙の根本法則、慈悲の周波数に自分の周波数を重ね合わせるようにして生きる。…菩薩の世界
その慈悲の周波数に生き続けるとき、あらゆる生命、人間は本来の調和を奏で最高の自分を発揮し充実し安定する。真の幸せ郷に至る。代表的な人に、孔子、老子、イエスキリスト、キング博士、ガンジー、中村医師、ヘレンケラー、ナイチンゲール、観世音菩薩、弥勒菩薩、不軽菩薩などの無数の菩薩がいる

※死後に赴く世界…喜びに満ちた深い充実に満ちた世界。仏国土や寂光土、霊山浄土などと表現されている。死後赴く世界で、最高の境界の世界。生前、菩薩道を実践し、菩薩の心が定着した人が赴く世界とされている。

注8 菩薩道 人々に内在する仏性(最高の生命状態、智慧、生命力を持つ、妙法蓮華経ともいう)を礼拝し、仏性を開くために、相手に尽くす生き方。人のすべての面を受け入れ、守り、大事にし、生の向上・成長のために尽くす生き方。お腹の中の子を守る母親の生き方は菩薩道そのものとされています。

母親の菩薩の行為(少なくとも胎内にいる9か月あまり)を考えると、毒親という考え方は生命の真実の在り方に反する言葉になり、その言葉を発する人自体の考え方が、逆に毒を飲むような行為になり、不幸になっていくというのが生命の因果の法則です。その考え方を煽る人たちも同罪です。

  生きている  どんな財宝や 名声にも まさる  不可思議な 有り難き 心の流れ 

2025.01.01

私たちの新進は 24時間 意識できない世界で 変化し続けている

私たちは何かを感じ何かを考え、瞬間を生きています。ある人は何気なく、ある人は何も考えず、ある人は意識をもって、今を生きています。私たちは今の自分が感じている意識が、自分のすべてと思っています。そのことを深く考えることは、ほとんどありません。今の瞬間の命が 常に一定のところにとどまることなく 流れ続けていることを 意識することはできません。

意識できている世界は1%以下、99%以上は意識できていない

冷静に自分を観察し想像力を働かせてみると、私たちが意識できている世界は1%以下なのです。99%以上は意識できないところで心身は活動しています。私たちは無意識的活動を意識できないため、その活動に気づきません。その働きの、あり難さを感じることもありません。正しい知識に基づいた想像力によって、はじめて真実の把握ができ、心身の働きの偉大さに気づくようになります。

「想像力は知識より大事である 知識には限界があるが 想像力は無限である」 アインシュタイン

(われ)思う、(ゆえ)に我あり

16世紀の有名な懐疑(かいぎ)哲学者(てつがくしゃ)デカルトは、すべてを疑うが、疑っている自分の存在を真理と認め「(われ)思う、(ゆえ)に我あり」との名言を残し近代合理主義哲学の()とされています。

つまり、私たちが今、感じている意識こそすべであるということです。意識できない世界は(やみ)に閉ざされることになりました。合理主義のもと物質科学はめまぐるしく発展を()げ、原子爆弾や光速度の研究、やがて月にロケットが着陸するという、ウサギの(もち)つきつき神話もあっけなく(くず)されることになりました。現実の月は、地上で見る月とは異なり、でこぼこだらけで美しいものではなかったのです。

科学万能主義の時代が 心の世界を置き去りにした

やがて科学万能主義の時代が到来(とうらい)し、人間は神をも恐れない存在となり、科学を崇拝(すうはい)する科学信仰を招きました。科学がすべてを解決してくれると…。

しかし置き去りにされてきた、意識できない世界である心については、ほぼ16世紀のままと言ってよいでしょう。深層(しんそう)心理学のフロイトやユングがその闇にかすかな光をともしましたが、科学性には(とぼ)しいとされ看過されています。

今生きているのは、心身に記憶されたものが自動再生しているに過ぎない

ところで私たちが生きているのは、意識できる部分、意識できない部分の働きを合わせたもの全体が私たちの心身の活動の事実です。五つの感覚(眼・耳・舌・鼻・身)で刺激情報を感受し、それを意識が快・不快などの感情として受け取り、言語化して記憶していきます。こうして無意識層に記憶されたものが自動的に次の活動を生み出します。

今、生きていることはこれまでの人生で習得した記憶が意識化されて生きていることなのです。つまり、心身全体の過去の記憶が自動的に再生されたもので生きています。 

私たちが感覚し意識できるのは、体を動かす運動神経と感覚神経ぐらいで、実際に働いているものの1%以下にすぎません。私たちの体を俯瞰(ふかん)すれば、その事実に気付きます。

身体の働きは神そのもの

少しだけ例を挙げてみます。呼吸で吸った酸素は気管支を通り、肺にある約4億個ある肺胞に入ります。その肺胞の中は、それぞれ湿度100%を保っています。一つ一つの肺胞の周囲にめぐらされている毛細静脈と毛細動脈でガス交換を行います。そして心臓を経て全身の細胞を巡り酸素を配り、二酸化炭素を持ち帰ります。心臓の一回の鼓動で約70mlの血液が送り出され、約30秒で全身を巡り、心臓に戻ってきます。こうして、酸素と栄養は全細胞に配られ、私たちは生を保っています。止まれば死にます。

また食べたものは口で咀嚼(そしゃく)され、気管に入ることもなく、食道のぜん動運動によって、胃に送り届けられます。胃には食べ物を(くさ)らないようにするため、胃酸を出し37度の温度で数時間保存し、空腹感を防ぎ、やがて十二指腸におくります。体のごく一部の活動ですが、こうした活動は、私たちは意識できません。

生きるために、私たちの身体は瞬間瞬間、熾烈な闘いをしている 

体の中で毎日新しいがん細胞が成人の場合で約3000個生れているという事実があります。私たちはボーとしていますが、体の内部で白血球が熾烈(しれつ)な戦いをし、マクロファージという細胞が、がん細胞を食べたり、攻撃したりして、がん細胞を駆逐(くちく)しています。そんな活動に対して私たちは、全く意識することもできません。

風邪を引き発熱し、のどが()れた時など、白血球が菌やウィルスと戦い、そこは戦場となり炎症(えんしょう)を起こします。また赤くはれたり、発熱したりするのは激しい戦いの(あと)だからです。

このように私たちの身体は、意識できない世界で、涙ぐましい戦いを(いた)るところで展開しています。私たちが意識して指示しているわけではありません。体の各部分が、体を守るために、本来的使命に生きているのです。生きぬくための熾烈な戦いをしています。仮にウィルスに負けてしまうと、体は死ぬからです。破傷風(はしょうふう)などの(きん)に負けると、やはり命を保つことはできません。

弱肉強食が生物界の生体の秩序(ちつじょ)の一つのルールです。人の体の内部も白血球が負ければ強いウィルスが勝ち、体を支配し、人は死にます。身体自体が壮絶(そうぜつ)破壊(はかい)と創造を()りなしているのが生の現実です。

私たちは 動きを止めれば死滅する

人は動きを止めればやがて弱り、死滅していくしかないのです。体の内部の戦いのように動き、前進するしかありません。宇宙や自然は常に変化し流動(りゅうどう)しています。人間も宇宙の一部であり、変化に合わせなければ生き残ることができないのが自然の道理(どうり)なのです。

地球は生きている それを神通力という

地球は生きています。私たち生物と同じように…。地球は地球自らのものであり、自分の役割を誠実に果たしながら 自分の使命を果たしています。

地上の大気中には、私たちの生命活動の根本である呼吸に必要な酸素がほどよく存在しています。また各惑星、月、太陽との絶妙なバランスと、ほどよい距離感と大きさによって重力や引力が均衡し、今の領域を正確に保つため一日で一回転し、太陽の周りを高速度で一年をかけて一周します。だれの指示でもなく、自らの本然の力で回っています。

そうした神秘的な智慧のおかげで、私たちは宇宙に浮遊せず、大地に足をつけ、太陽光の強烈な紫外線にさらされることもなく、適度な水と温度、湿度の恩恵に浴し、生きていくことが出来ています。

生きとして生けるものすべてが、生まれ、そして自分の役割を演じ、生を終えていきます。地球も生物も人も同じ生命体です。これを生命現象の「生住異滅」といいます。

地球の営みは慈悲を根本にした智慧の発動

地球の活動は慈悲を根本にした智慧の律動に支えられています。慈悲とは苦しみを抜き楽しみを与える働きです。地球上のあらゆる生物の苦しみを和らげ、楽しみを与えゆく慈悲の実行者にして慂出する力それが智慧です。あらゆる生物は、地球の恩恵に浴し、慈悲と神秘な智慧に守られながら生きることが出来ているのです。

地球上には大気圏が地上から、約10万キロmまであり、宇宙空間からくる電磁波などから守られています。地上の生物や動物や人が生きていけるのは、酸素が存在し、海があり、人間の血管のように河川があり、血液が流れるように水が流れているからです。

地球の自公転や水が生物の生を支えています。私たちは、普段当たり前のこととして、それらの恩恵を享受していますが、けっして当たり前のことではなく、奇跡なのです。

地球の有り難さの一部を感じるのは、地震や気温の急激な上昇や線状降水帯発生などの時ぐらいでしょうか。そんなときも、地球そのものについて深く考えることはせず、自分たちが生き延びることしか考えていません。どこまでも自己中心的な欲望に生きているのが人間です。

地球の兄弟星、火星や月には酸素がほとんどありません。金星は温室効果ガスの影響て表面温度が460度の灼熱の惑星です。美しい輪を持つ土星の輪は、氷の粒と岩石の集まりでありガスの惑星です。太陽系では地球だけが生物が住める不思議な惑星です。

太陽からの距離が絶妙な位置にあるため、地球上では生物が生きていけます。太陽が光を程よく調和するかのように、可視光線、赤外線、紫外線などを届けてくれています…。太陽の光のおかげで、暗闇の宇宙に光が灯され、私たちはものを見ることが出来ます。絶妙な気圧のおかげで振動をキャッチし音や声を聞くことが出来ています。私たち生物は、とても不思議な働きに守られています。

私たちは無料で地球に棲んでいる

地上の生物は、無料で地球に棲んでいます。人間は、地上のあらゆるものを勝手に使い、加工し破壊しています。地球全体の働きを考えず、自分の利益になる部分を切り刻み、自分たちの生を保とうとしています。他の生物に比べ知能が発達しているため、自己中心的欲望にまかせ、他の生物の生態系を壊し、母船である地球そのものを壊しつつあります。このままの愚行が進めば、生物は少しずつ絶滅し、人類も滅びてゆくことになります。今しか考えない、救いようのない愚かさが、拍車をかけています。

地球を傷つけているのは人間の自己中心的欲望

森林伐採と砂漠化、工場が出す煤煙と汚染水で海や川が汚れ、多くの生物が死滅しています。二酸化炭素の排出と気候の温暖化、食用のために動植物の殺、養殖。鳥瞰的客観的な目で見れば、人間のしていることの恐ろしさに唖然とするのではないでしょうか。

地球が生命ある存在ということを知らないようです。地球は傷つき、血を流しているのが見えないのでしょうか。科学が進歩し、物理天文学、量子力学も日進月歩しています。スマホ一つで、用が足せる便利社会になり、子どもから大人まで、楽しさやおもしろさに溢れる視覚快適感覚に脳が麻痺し思考する苦労をしなくなり、自己中心的に快楽を追い求め、生物や地球環境のことを思いやることを忘れています。

何のための科学の進歩なのでしょうか。見えるものしか追いかけず、大事な心を見ようとしない人間の生命の濁りが社会や時代の濁りを生み、あらゆる心身の病気を招き、応急対処的な症状除去の医療に身をまかせ、根本を見ることをせず、人類や生物を破滅に導いているのです。

気候変動、地震や自然災害、地球はSOSを出しています。しかし、そのサインをだれも読み取ろうとしていません。真の科学者はいますが、多くの自己保身者や自己中心者に消されているかのようです。

地球上の生物の90%は植物です。地球の主人公は植物ともいえます。地球は植物の惑星です。

残りの10%が動物・昆虫・微生物などです。動物の中でも人はごく微小で、人一人に対して、ありは一万五千匹の比率です。地球の動物の主役は昆虫です。

生物、特に動物は弱肉強食の本能の法則で生きています。最も限度を知らない自分勝手な動物が人です。少しばかり、脳が発達し、道具を開発し、言葉を持ち、記憶化した知識で、地球を支配するかのような錯覚に生きています。その錯覚がやがて地球を荒廃させ、生物が住めない惑星にしてしまうでしょう。

誰のものでもない地球、地球は地球自らのものです。「ここの土地は自分のものだ」と言い張り、人を平気で押しのけ殺す人たち…その極致が戦争です。戦争は自己中心性のもつ人間魔性の仕業です。

宇宙に浮かぶ地球を想像することができれば、地上の生物や人はみな地球号に乗った運命共同体と自覚できます。無知な自己中心的な政治家や権力者や富豪たちが、やがて地球を破滅させてゆくでしょう。

地球の恩恵を感じる心が地球や人類を救う

未来の地球に生きる人たち、今の子どもたち、他の生物、動物を思うと人間の愚かさと貪欲、そして傲慢さに怒りがこみあげてきます。地球の恩恵をありのままに感じる純な心をもつことこそ、人としての正しい道ではないでしょうか。

自己中心者は幸福になれますか?

2024.12.31

質問

大学1年生です。これまで19年生きてきましたが、人間の仮面をかぶったような偽善的行為をする大人の多さに失望しています。政治家は選挙になると、「国民のために、この身を捧げます」など美辞麗句を並べますが、当選後は、自分の利益、お金、名誉、権力、果ては不倫など私利私欲に走り、自分の欲望すら制御できていません。そうした政治家が日本の政治をしていると思うと悲しくなります。彼らは未来ある子どもたちに、人間は欲の塊で醜いものという毒を吹き込んでいる気がします。

一般の企業、会社の人から小さなお店の人まで、儲けという利益のために、平気で詐欺まがいの商法をしたりしています。購買した人の利や健康などに対する思いやりを感じません。過剰なキャッチコピーで不健康食品を平気で売ったり、自然環境を平気で壊したりしています。そうした商品を買う民衆が愚かではありますが…。

マスコミ、芸能界は視聴率アップという利益のためには何でもありの感じです。視聴者の心理的影響性や子どもの健全な教育など全く考えていません。マスコミ、スマホ、テレビ情報がいかに視聴者の心を不健康にしているか、特に子どもの教育に悪影響を及ぼしているか考えていません。自分たちの利益という今だけを見た自己中心の生き方であり、未来に生きる子どもの健全な心はどうなってもよいのでしょうか。

私は名門受験高校で学び、現在名門といわれる大学に通っています。思えば、私の受けた教育は、ただただ有名大学に進むためだけものでした。T大に何人入るか、国立医学部に何人入るか、その実績が高校の名誉になり、利益につながります。私は、その一齣に過ぎなかったようで、今虚しさを感じています。受験技術や受験知識は教授してくれましたが、果たして人らしい教師がいたでしょうか。人間はいかに生きるべきか、人はどうあるべきかという最も大事な人間について誰も教えてはくれませんでした。ただ私が有名大に入れるかどうかが、すべてでした。合格した私の心は彷徨っており、空虚感に苛まれています。

人間はみんな自己中心者なのでしょうか。自己中心性を乗り越えることはできますか?

自己中心的生き方では幸福になれないと思いますが、私の考えは間違っていますか?

今まで、だれも納得する回答を与えてくれませんでした。たまたま芝蘭の室のブログを見たので質問しました。思索するヒントをいただければうれしく思います。

回答

あなたは、真剣に人生を考えています。人間の生き方とは、人間とは何か、いかに生きるべきか、人は自己中心的存在なのか、それを乗り越える生き方はあるのかなど…。

生きるとは、一面から言えば、自分の身を守り、自分を保ち続けることです。それは生物としての本能です。その点から言えば、あなたも私も自分中心です。人間を含め、生物はすべて自己中心という一面をもっています。あくまで一面であり、すべてではありません。

これまで歴史に登場した偉人・賢人・哲人は、この自己中心性を脱し、人々の精神の向上に身を捧げてきた人たちです。その生き方は自己中心性とは逆方向であり、一面からすれば精神的苦を伴うものであり、よいとわかってもなかななか実践するのは困難な道だったようです。

話を動物・人の自己中心に戻します。

動物・人の場合、食べなければ死にます。寝なければ死にます。眠れる場所がなくては、睡眠がとれず身を保つことができなくなります。衣服をまとわなければ、外気や菌などから見を守ることができません。どんなきれいごとを言っても、生き抜くためには自分の身を保たなければなりません。まず、人も動物も自分ファースト、自己保身が第一になります。これは生物の本能の一つです。

しかし、ここに動物・人の他面をみることがあります。母親です。動物も人間もわが子を命をかけて守ります。自分が危険にさらされても、自分が食べなくとも、子どもを守り、まず子どもに食べさせます。これは自己中心性と逆の方向の働きであり、慈悲心といいます。人は母親のみならず、みな慈悲の心を本然的に持っています。この慈悲の心が発動されるとき、人は自己中心性を乗り越えることが可能になります。これも人間性の一面です。この心を耕し、人生を生き抜こうとした人たちを賢人といいます。

慈悲の心こそ自己中心性の対極にある心であり、それを乗り越える唯一の力です。

慈悲とは、苦しみに共感し苦しみを抜き、楽しみを与える行為です。命あるものを守り、育み、慈しむ心、それが慈悲です。

比喩的に表現するなら、太陽は慈悲の体現者であり、地球もそうですし、自然や植物もそうです。幼子の病を寝食を忘れ看病する母親も慈悲心の表れです。どんな生物や人にも慈悲心は内在しています。

慈悲こそ命あるものの本来の調和した美しい働きです。慈悲心で地球も宇宙もあらゆる生物も生きることができています。慈悲は産み出し創造する源泉です。私たちは慈悲心に守られ支えられて生きています。しかし、そんなことに気づく人は稀です。

無慈悲はその対極にある行為です。自己中心性に潜む魔性であり、破壊の働きです。命あるものは、この魔性・破壊心と慈悲心を本来的に持っていると賢人は説いています。自己中心性を克服しなければ慈悲心は発動しません。

私たちの生命を慈悲心が支配するのか、魔性の破壊心が支配するのか、生命は常に闘っています。これが宇宙の真実の姿です。正義が勝利するとは限りません。歴史は残念ながら、破壊心の勝利で綴られています。一部の権力者の自己中心性に巣くう魔性の破壊心、殺行為が人類の歴史です。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」です。野蛮な武力による暴力支配でも勝てば、その世界の正義になります。生命の魔性は思想も常識もすべてを支配下に置き、思うがままに生きようとします。

日本の神風思想、ナチスの思想、帝国主義時代の侵略思想など、すべてが魔性に操られた思想です。その魔的な思想に、どれだけ多くの尊い命が奪われたことでしょう。この魔性は権力者に最も入り込み寄生するウィルスのようなものです。今は、経済、お金が世界を支配しています。また科学万能という思想がその経済第一主義を支えています。

地球上の人類は、「歴史は繰り返す」の言葉の通り、愚の歴史を今なお綴っています。ロシア・ウクライナ戦争、ガザ地区のイスラエルとハマスの破壊・殺人合戦、世界各地の紛争、経済戦争など…。経済戦争の被害者は数億に達し、今この瞬間も餓えや渇水や感染症に苦しんでいます。

これらの破壊性・生命に潜む魔性に対抗できるものこそ、私たち一人一人の命に内在する慈悲の心と個から発する智慧です。その慈悲心を勇気で沸き立たせるしかありません。それには自己中心性に伴う快感や快適さを乗り越え、苦を伴う闘いが求められます。慈悲の体現者が増えれば、豊かな智慧が湧き、人の心も平和になり、地球も潤っていきます。

今回は自己中心性と、それを乗り越える道としての慈悲の心について述べてみましたが、人間性のごく一部しか語っていません。なぜ人は、慈悲の心が発動できないのか、自己中心的欲望に生きてしまうのか。この解決には人間の心の解明、宇宙万物の現象と、現象を現象として生起させている法則の究明なくしては不可能です。機会があれば、一緒に学んでみませんか。

自分ファーストという自己中病が増加している

アメリカファースト、都民ファーストなどの思想は、自己中心者の心に適い、彼らはその思想の支持者になり、自己愛者を増やし、やがて一国みな哲学なき自分ファーストになってゆきます。

人間が自分を第一優先し、他者や他生物や自然や地球のことを二の次とし、ひたすら自己利益のために利用し、未来のことは眼中にないようです。人間の知性が私利私欲を満たすためだけに使われているようです。

どの国の政治家も、口を開けば「経済、国益」を、金科玉条のように叫びます。経済第一主義、換言すれば、お金第一主義であり、物が豊かにあることが幸福になる道だと叫びます。やがて、ものや土地や海域を巡り、国をあげて、他国民を殺し合う戦争まで発展します。自国ファースト、自分ファーストの思想は、他者の命を物質のように考え、殺傷することができるようになります。

あらゆる企業や組織や団体は功利主義であり、成果主義であり利潤・利益を血眼になって求めます。社員が過労死しても会社の利益が優先されます。会社・組織ファーストであり、一人の命はもののようにあつかわれてしまいます。成果、利潤、お金、株価はすべて数値化され、その数字は人間の命より大事にされます。お金は数字で表記されます。その数欲しさに、強盗し、平気で人を殺しています。

中学受験の過熱、それも将来の自己利益のためであり、私利私欲を満たす一つの手段になっています。本来の学問は、自分を知り、社会を知り、自然を知り、目に見えない無数の法則を探究し、自己実現し、その磨かれた知性で他者・社会・自然に貢献する、大きな志のある学びでした。

現在の学校教育は経済推進者の養成所であり、偏差値という非人間的数字を求めて加熱し、経済至上主義社会の歯車を作ってゆきます。学校は人間教育を忘れています。その場から離脱してゆく人たちが、ある意味、不登校者であり、引きこもり者であり、純粋な心を持った人たちなのかもしれません。

成熟した社会ては、自分のための学問は小人の学として軽蔑されていましたが、今は多くの人が小人の学を目指し、自分ファーストの道を進んでいます。今の子どもが大人になったとき、社会は自己中心者で溢れていることでしょう。

 生物種の一つである人と動物の違いはどこにあるのでしょうか。言葉や道具を使う、二本足歩行するなどという生物学観点の話ではありません。行動や他生物への影響性といった心の側面に視点を当てたお話です。

 動物は本来的に生命に具わっている能力、つまり本能に従って行動します。本能的行動は、他の存在を考えることはせず、自分勝手であり、自己中心であり、自分ファーストそのものです。自分ファーストは、つまり動物と同じレベルといえます。

「あの人は獣もの以下だ」「彼は人を食い物にしている」「弱肉強食」「虎の威を借るキツネ」など、人の行為を動物に譬えた表現はたくさんあります。つまり人間も動物的側面をもった生物であり、動物と同じような行動をすることがあるということです。さらに知識があるだけに、動物以下の行動をすることもあります。このような生物は見かけは人面をもっていますが、およそ「人」とは言い難いと思います。

  畜生は空腹感を満たすため、生き抜くために他を殺し食べたます。満腹になれば、それ以上は食べません。人間は満腹になっても人を殺します。その殺し方も頭を使って残虐に、動物にない殺し方をします。地球上で最も恐ろしい生物なのです。

 人が人になっていったのは、人しか持たない温かい心根でした。他人も自分と同じように喜怒哀楽をもった存在であると他人を思いやり、そうした感情に共感し他生物と共生する心から、人は動物を超えた心性を開花させました。そこには自分だけ利を得る、自分だけ栄えるという心はありません。等しく公平に利を分け与える心でした。恩を受けたら恩に報いるというの道理に生きるようになったのです。恩を知らない人を畜生以下というのはそうした意味なのです。

自分を大事にすることと同じように人や自然も大事にしていくという共存共栄の哲学を持った生き方こそ、本来の人の道です。また、人とは徳を積むための哲学を持った人間です。これを学ぶのが真の学問なのです。つまり学問は、人が人になるために生涯をかけて実践する修養の道なのです。

その果てにあるものは、人として成熟され、自己中心性を超えた人らしい人です。

人は死んだら どこへ行くのですか? 中学3年女子

2024.12.19

質問

中学三年生の女子です。数日前、近くの学校の中三女子が突然刺され、亡くなり怖くなりました、それを機に、人は死んだらどこに行くのだろうと考えるようになり夜も眠れません。何か参考になることがあれば教えていただけますか。

回答

この問いに正しく答えられる人は、今の世にはいないと思います。なぜなら、今いる人たちはみんな生きていて死んでいないからです。ただし生命の真理を悟ったと言われる聖人は、過去世・現世・未来世の三世の生命の真理がわかると言われていますので、死後もわかるようです。まずは世間一般に流れているお話をします。そのあとに偉人や覚者・聖人の生命観について説明します。

おとぎ話では 人が死んだら「星になった」「天に昇った」などと言い、なんとなくロマンを感じま

すね。キリスト教では神に召され生前、神を信じていた人は永遠の楽園に行くなどと言われています。ちまたの仏教では、死んだ後、人はみな、三途の河を渡るとあります。その河には、三つの通りがあり、比較的罪の浅い人の通る浅瀬のみち、善を積んだ人の通る金銀でできた橋、罪の重い人のわたる深い激流のみちの三つです。その川岸のほとりには、奪衣婆(だつえば・死者の衣を剥ぎ、生前の行いをあらいざらい暴く人)がいて、罪の軽重をはかるそうです。そして行き先が決まり、地獄、餓鬼、畜生の世界へ、あるいは修羅、人、天などの世界に行くと説かれています。日本の仏教説話などに地獄絵図などが描かれていたり、別府温泉には血の池地獄など各種の地獄の湯が今でもあります。想像するだけで怖くなりますね。

唯物論哲学では、人間の身体は物資なので、死によって肉体がなくなり、すべては消滅すると論じます。現代科学の物質還元主義思想です。心は脳という肉体・物質によって生じると考えます。脳がなくなれば心も同時になくなるという考えです。人生は一度きりですから、殺人をしても、そのことを隠して生ききれば、死後に裁かれることはないことになります。別に善行を積まなくても、悪の限りを尽くしても、あくまで、一回の人生で終わりだから何をやっても関係ないと言うことになります。

スピリチャル系では霊魂になってどこかを浮遊しているなどと言います。そしてその魂が生きている家族などに災いをなす、つまり先祖の霊が祟るなど怖い話になったりします。一部の邪な宗教では、この霊魂説を利用して、人の本能的恐怖心と無智につけこみ、金儲けしているところがあります。

果たして人は死んだらどこへ行くのでしょうか?

死とはなんでしょうか?   生れたのは偶然なのでしょうか? 

それとも、 生れるべきして生れうまれたのでしょうか? 

この問いは、生命とは何かという難問に辿りつきますね。

生命の解明なしに、生まれる前の生命、そして死後の生命も解明できません。

では、私たちの生命とは一体 何なのでしょうか?


歴史上の偉人たちは、この問いを生涯かけて探究し解明しようとしました。ここでは、一生を賭けてこの難問を探究し 真理を悟ったと言われているブッタ(注1聖人)の生命観を紐解いてみましょう。 

覚者ブッタは あらゆる生命は 無始無終である、つまり始めもなければ終わりもない、今のこの瞬間が永遠に続く、正確に言えば、生命は常に今の瞬間の律動しかないと悟りました。時間は存在しない、時間と思っているのは言葉でとらえたものに過ぎず、実際は現象が流れ変化しているだけのことだといいます。

20世紀の天才ニコラ・テスラ(注2物理学者・詩人)は、この世で誰も死んだ人はいないと、逆説的な言い方をしました。それは2500年前にブッタがとらえた生命観に近接しています。

彼は、エネルギーから光が生れ、それが物質を生み、やがて別のエネルギーに変化する。

光もエネルギーも不滅と語りました。不滅なので生も死もないと言ったのです。

生もなく死もない 生命は縁によって顕在し 死という縁で空「注3 空・くう」のかたちに変り 潜在すると言います。

生命は二つのかたちをとりながら存在し続けるとブッタは説きます。

生命は有という顕在のかたちをとり 無という死のかたちで潜在すると説きます。例えていえば 夜に

なって寝ます 次の日の朝起きます。

寝る前の自分を生のかたちとして存在 眠ったときを死のかたちで存在し 朝起きた時を次の生のかた

ちとして新たに存在します。

寝る前も自分 眠っているときも自分 次の日起きた時も同じ自分 自分と言う我は一貫し連続してい

ます。この我は「空」の状態で存在すると説きました。自分の我は生まれ変わって、すごい人や生物に

なるわけではありません。自分という我は、あくまで自分なのです。

今、生きているときの行為の総体が記憶化され、次の行為につながるように 今世の生き方の総体が心

の深い部分の蔵(注4アラヤ識)に「空」の状態で貯蔵され、自分に適した縁を選び出し、顕在化すると説

きます。(注5妙法蓮華経譬喩品で説法)

因果応報とも言います。今の行為(因)が一つの行動を起こし(結果)、幸不幸の報いを得る。(応報)

他者の目は欺けても自分の心は厳然と事実を記憶し、その善悪の総体が次の生のかたちを決めるとブ

ッタは説いています。

エネルギーはかたちを変えますが不変と言われています。個の我は一貫して続くのです。

正しい生き方をしていた人が不慮の事故で死んだり、中村医師のようにアフガニスタンで流れ弾で死ん

でも、正しい生き方をしていた我は連続し、再び正しいところに生れ 正しい生命のかたちをもって生

きるとブッタは説きます。

ブッタは生命の覚者です。 過去・現在・未来という三世の生命を悟ったと言われています。

ブッタの生命観 生と死は不二であり 生命は無始無終であり 今の我が姿かたちを変えて因果の総体

(注5 業=カルマ)で連続すると悟ったそうです。(注6 妙法蓮華経如来寿量品で説法)

つまり、人が死んだら生前の行為の総体(行為、言葉、心で思ったこと)…善と悪そして無記(純粋な知識)

という業が意識下に「空」のかたちで潜在します。その業に適した縁を選んでかたち(新たな生命)にな

り、生まれると説きます。例えば生前、人らしい生き方(人としての戒を守り、敬虔な心を持ち、四恩を

感じ、それに報いる生き方をするなど)をしていれば人に生れます。動物のような弱肉強食の生き方をし

ていれば動物(昆虫・鳥など)のかたちに生れると妙法蓮華経譬喩品に釈尊は説いています。全ては自分の

行為の結果であり、だれのせいでもありません。これが自業自得の本当の意味です。

◎当室は宗教団体とは一切関係ありません。室長は20歳の頃から、哲学、倫理学、思想、医学、文学、天文物理学、生物学、孔子の教え、老子の教え、キリスト教、仏教を学び、研究してきました。最近は特に量子力学・心身医学・諸科学と妙法蓮華経(釈尊・天台智顗・最澄・日蓮の流れと竜樹・天親の空や縁起、唯識思想)の相関性について研究し、心理療法への応用展開を模索しています。

注1 ブッタ・聖人… インドに約2500年に誕生した釈尊を一般的には指します。しかし妙法蓮華経(略して法華経)正統継承者の中では、三世の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人を聖人と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドの釈尊、中国の天台智顗、日本の最澄と日蓮の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来世を予言し、それを的中させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹・天親菩薩がいます。彼らは人間生命の深層を探り、空観や唯識思想や死後の世界を究明したと言われています。

注2 ニコラ・テスラ…交流電圧を発明しました。電気学者。300以上の発明、発見をしていると言われています。詩人、哲学者。生涯独身を貫き、人類福祉のための発明に一生を捧げました。「私の脳は受信機に過ぎない。宇宙には中核となるものがあり、私たちはそこから、知識やインスピレーションを得ている。私は、この中核の秘密に立ち入ったことはないが、それが存在することは知っている。」「3・6・9という数字のすばらしさを知れば、宇宙への鍵を手にすることができる」などの名言を残しています。アメリカのイーロン・マスク氏は、ニコラテスラの崇拝者として有名です。

注3空(くう)竜樹菩薩の中心思想の一つ。存在するものを「有」存在しないものを「無」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「縁・対境」によって生起し有のかたちになる。「空」は有無の二つの在り方をとる生命現象なのです。

注4 阿頼耶識 唯識思想では意識の下に、第七識として末那識(自我執着意識)、その下に第八識、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在しているが確かに存在し、意識に影響を与えています。脳に記憶化されたものと考える理解しやすいかもしれません。天台智顗は八識下に根本浄識としての九識を覚知されました。それを法性・仏性といい、あらゆる生命、万物の根底の生命であり釈尊の妙法蓮華経と同義であると説かれています。

注5,6 法華経と言います。インド応誕の釈尊は、菩提樹下で成道(生命の真実相を悟る)したと言われています。その悟りの内容を修行面で仏教と言い、法理面を仏法と言います。悟りの内容は深く深遠であったため、当時の民衆の機根(生命状態や能力など)に応じて種々のたとえや方便を使って教えを説いたとされています。例えば念仏の南無阿弥陀仏や大日如来の教えや禅や般若波羅蜜経など、40年にわたって八万宝蔵とも言われる膨大な教えを展開されましたが、いずれも生命の部分を説いたものです。部分ですから、それらに執着しては、正しい生命観を持てないと戒めましたが、現存する日本の多くの仏教は、釈尊の教えに反し部分に執着しています。それゆえ、真実の法にいたることができていません。

釈尊は最後の八年で、真実の教え・生命の全体像を説きます。それが妙法蓮華経(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランのインド、サンスクリット語の漢訳)です。妙法蓮華経とは、宇宙を含めたすべての存在は不可思議な因果俱時の法に則って存在しています。この不思議な法を言葉で命名したものが妙法蓮華経です。実態は言葉を超えて存在しています。今この瞬間にも私たちの生命そのものとして存在しています。当時、書物はありませんので口承で真意を汲んだ弟子たちによって編集され、28品(章)に分類されています。比喩品は第三であり、如来寿量品は第十六になります。

如来とは、阿弥陀如来や薬師如来など仏と訳されることもありますが、真実の意味は、瞬間瞬間に生命の深層から湧き出る私たちの本来的な生命のことです。つまり、今の一瞬の生命は不可思議であり、どこからともなく湧き起こり、私たちの生を支えていますが私たちは意識できませんし、実感もできません。過去の記憶の総体で自動的な働きの感知である意識で生きているからです。

如来の意味は、瞬間に発動する生命のもつ慈悲と智慧の律動なのです。生命は永遠に今を振動しています。永遠と言う言葉は時間の変化を表す言葉であり、実際は生命は常に今の瞬間しかないのです。アインシュタイン氏もニコラテスラ氏も、こうした世界の一部を覚知されていたと言われています。だからあれほどの発見ができたとも言えます。この今の生命の真実の在り方、如如としてくる生命、つまり妙法蓮華経如来にナム(ナムは梵語、漢語で帰命という)して生きることこそ真の幸福に至る生き方と聖人は教えています。

寿量とは、仏の生命の功徳、智慧は限りなく果てがなく、はかりしれない。私たちの言葉に置き換えると、生命の力、生命力が無限であり、限りがない、どんな困難も、障壁も乗り越えることが出来る生命力という意味になります。

 本当の自分に生きるとき、どんな困難も乗り越える力と智慧が湧き 新しい自分がつくられていきます

2024.12.14

苦しみは 本当の自分を忘れた 迷いの姿であり 

生命は懐かしい本当の心の故郷に還ることを願っています。

本来の自己に還り 本来の自分に生きる時 苦しみはなくなり 

人生の生きる意味に目覚め 深い充実を感じるようになります。

本来の自己とは何か…古来、人間が求め続けたきた難問でした。

自己とは何か?   生命とは何か?

心とは何か?  意識とは何か?  死とは何か?

さあ 一緒に歴史上の賢聖を尋ねててみましょう 

漂流し苦悩にさまよう 自己の平和を取り戻すために…

人はどこから来たのか 偶然にこの世にやってきたのか?

ニコラテスラ氏(20世紀の物理学者・詩人)は、誰も死んだ人はいない

光は物質を産み それはエネルギーに変り 物質は消え 光に戻る、と‥。

人という物質のかたちは宇宙に還っても その物質のもっていたエネルギーは宇宙に溶け込み

変化しただけであり やがて縁によってかたちを作る つまり生命は永遠に続くとの見解を

述べました。

今は人として生きていても かたちはなくなり 次のかたちは植物かもしれない

動物のかたちかもしれない 鳥のかたちかもしれない 昆虫のかたちかもしれない…

地球一の聖人・賢者・覚者と言われ、生命現象を悟ったとされている釈尊(ブッタ)は

過去世で鹿の王のかたちで生き 仏道を修行したことがあると自らの過去世の一端を説きました。

釈尊によると、人は偶然に、この世に誕生したのではなく 生命はかたちを変えながら 個の我は

連続していると覚知されたそうです。

夢を見る前の自分と 夢から覚めた自分は別人ではなく 同じ我を持ち一貫した存在です。

つまり 今世の人生で行為として積み上げた善悪の行為の蓄積(カルマ=業の集積)されたものが

次の生のかたちを決めるとブッタは説かれました。

人らしく人間の戒を守って生きれば 人として生まれ

畜生のように生きれば 畜生(動物や鳥や昆虫)のかたちに生れ    

欲望に執着した生き方であれば 地下深くの餓鬼の世界に生れ

人や自然や生物を傷つけ続けて生命は 苦しみの連続する 地獄に生を受け

徳を積み 人に施し 他の生命を慈しみ 守った生き方は 宮殿に生れ天人となり

知的探求 真理を模索して生きた人は ソクラテスやアインシュタインやノーベル受賞者

のような知的世界に囲まれた場所に生を受け

いつも苦しむ人のために その苦を抜く行動を突けた人は 弥勒菩薩 観音菩薩 イエスキリスト 老子 孔子 マザーテレサ ヘレンケラーのようなメシア的存在で生れるといいます。

つまり 今どんな生き方をしているのか 善を積んでいるのか 悪を行っているのか それらは脳に記

憶され 無意識世界に刻まれ 次の行為に影響を与え そして次の生のかたちを決定すると釈尊は説い

たのです。

これを因果といい それが報いとして目に見えるかたちをつくるとブッタは妙法蓮華経譬喩品で説かれました。

つまり今の自分は自分の生き方が作ったものであると知ることが、根本的な苦を抜く正眼視というので

すです。

人間は人間のことを何もわかっていないと、無知の知…無知であることを知りなさいと、ギリシャの若

者に生命の真理に目覚めるように説いたのは 哲人ソクラテスでした。

私たちは自分の身体がなせ動いているのかを知りません 脳や各器官や臓器がどのように統一され連系

され生を営んでいるか知りません。

意識がどこから起きているのかも知りません なぜ周囲を感知できるのかもよくわかっていません。

自分が自分であることは なんとなく記憶された言葉で認知しているに過ぎず 

記憶は既に過去であり 今の瞬間の自分が何者なのかがわかっていません。

ソクラテスの問いは真理をついた言葉であり 当時の知識層といわれた詭弁学者は彼を恐れ

彼に嫉妬し 牢屋に送り 法を順守するソクラテスの正義感につけ込み、毒を送ったと言われています

ソクラテスの問いは 今も私たちの心に鮮明に響いてきます

自分のこと 自然や宇宙 生命についてほとんどわかっていないという

学べば学ぶほど多くのことが分かっていない自分に気づきます

まさに無知の自覚です。そこから本当の自分の探求が始まりす。