痛み・苦しみはメッセージ
痛みや苦しみは心身の不調和から発するメッセージです。対象への執着は神経の過剰疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩します。心身の調和が乱れきった時、苦や痛みは限界を超え、心身は病んでしまいます。
しかし人は、その原因を見ようとせず、目に見える痛みの原因を除去しようとします。結果、病は増幅し本質的な解決に至ることが難しくなります。
木を見て森を見ず
森に入れば目の前の木しか見えません。これは人間の本能的感覚の現実であり、限界です。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たち人間は、見えたり耳に聞こえたりする五感覚で感知できるごく一部を見て行動し、わかったつもりになり、全体を見ることをしていません。物事の全体を見るためには想像力を働かさなければいけません。
正しい瞑想の在り方
最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本義もわからずやっている人がほとんどです。真の瞑想は意識、想像力を磨く修行なのです。想像力と思考を磨き本来の自己と宇宙的自己に冥合することが、ブッタ(覚者)の瞑想でした。
想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ
アインシュタインの名言です。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は光彩を放っています。今から述べる事柄は、感覚では理解できません。想像力を働かせれば見えてくる世界です。地球は月という兄弟衛星を伴い瞬時も休まず動き変化し 太陽系の中で絶妙な調和を保っています。その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営んでいます。
人間の体の働きは 神そのもの
私たち人間の身体はリズムを奏でるように呼吸し心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡っています。食べたものは口内で咀嚼され、食道を経て十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進み小腸で、各血管を通じて各臓器に栄養となって運ばれます。
さらに大腸で数十兆の大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたものは約7メートルの消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、人間が生きるためのエネルギーになります。腎臓は一分間で一リットルの血液を浄化し生を守ります。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり約100の加工的な働きをしながら人体を守り動かしています。ホルモンは炎症を抑えたり、体や臓器の調和をはかり、身体の恒常性を作ってくれています。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚で身体を守ってくれています。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守るため、免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節してくれています。
皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の最近、ウィルスから守り、その総重量は10㌔を超えています。人間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美男などと私たちは錯覚しています。
意識は1%しか感覚・認知できない 99%は無意識の活動
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で外部世界と交渉していますが、それは身体の働きの100分の一以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識ることがではないのが人間の本来的な働きなのです。
神経とは神の通り経(みち)という意味
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆の細胞を新陳代謝させ絶妙な調和を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の歯の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが人の身体の現実ですが、それは人の身体全体から見れば微小なことに過ぎません。
生きるとは変化であり 環境適応である
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。
思考しないことが 心の死を招く
現代人の多くは視聴・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失っています。それが様々な新しい心の病をつくりだしていることに誰も気づいていません。
現代病の多くは生活習慣、思考の誤りに起因している
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。
澄んだ心には 対象がありのままに見えてくる
人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っています。磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には すべてが正しく見えるようになります。何が幸福をもたらし 何が不幸にさせるのかを 明晰に見分けることができます…幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです。
心の不調和状態をつくる 四つの欲望と感情
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると 心の波は逆流し 自他を巻き込み いたずらに消耗し やがて苦しみの海に沈んでゆきます。限度を知らない過剰な欲望は 自らを焼き焦がし 周りを燃やし 炎の波にのまれてゆきます。快楽に耽け続けると 心は淀み 濁り 善悪がわからなくなり 心の波は間延びし 思考もとまります。人に勝りたい 人より優位に立ち 人を支配したいと思い続けると 心は歪んで 素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は ほどよさの感覚を失うと 調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。
幸福になる人は 心が素直で 柔らかく きれいです
幸福になる音色を奏でる人は 心が素直で 柔らかく きれいに澄んで 美しい周波を演じています。財産 社会的地位 名声 人気 才能 美貌 健康などは 幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが 時とともに色褪せ 壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは 空しく時と共に風化し 最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは 花火のようなもので 刹那的な陽炎のようなものです。
この世のものは全て変化する 執着はむなしさを招く
ー祇園精舎の鐘の声 (注)諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の詞は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り 心の真実相が見えないからです。
自分の心の底から湧き出る喜びこそ幸福の源泉
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識 五感 心根は時とともに輝きを増し その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは 永遠性を孕んだ美しい調和された波そのものです。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる調和波なのです。
過去の偉人に学び 学んだことを素直に忍耐強く日々実行していく心
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…自分や人の心が美しいと感じた時はどんな時だったのかを 振り返ってみてください…過去の聖人・賢人の生き方や 思想哲学や文学・芸術に学んでみましょう。不断に自己を磨き続け 内省し 浄化された自己の鏡に 真実も幸福も映し出されるでしょう。意識を磨き、研ぎ澄まされた精緻な思考の力、そして宇宙をも包む想像力を身につければ、あらゆる病は消滅し、真の安らぎを得ることができるでしょう。
注 諸行無常…仏教で説かれた重要な思想の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は縁起によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は縁起で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と意識しているにすぎず、夢のようなものを実在していると記憶しているにすぎません。認知症になり記憶機能が失われてしまえば、自分が自分であることも分からなくなりますが生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による錯覚現象のようなものです。
この世のものは全て動いており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の発見です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明する形になっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実相を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を無限に広げることで可能になります。
沙羅双樹の花…釈迦(釈尊・ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で存在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相といいます。究極のブッタの哲理です。それを悟ることができれば永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は覚知されました。
便利社会が人の心を弱くしていく
日本は世界でも有数な安全平和社会であり物質的に豊かな便利社会です。それなのに、なぜ社会不安障害、適応障害、うつ、ひきこもり・不登校などの心の不調者が増加するのでしょうか。
物質的豊かさの追求とその享受、便利社会とその恩恵に反比例しているのが、心の豊かさの喪失です。つまり、心はますます貧しく、乏しく脆弱になっていきます。
快適志向が生きる力の一つの要因
人は生きるため快適さを欲し、安全を求めます。これはあらゆる生物、動物の持つ本能です。人も動物の一種です。本能とは本来的に持つ神経の働きです。1万メートルの上空をすいすい飛ぶ鳥、神業と言えます。また水圧に抗して生きる深海魚、やはり神秘としかいいようがありません。
人も、どんな動物にも負けていない不思議な本来的な生き抜く身体を持っています。
一例をあげれば、人は生き抜くために、空腹を感じる働きをもっています。空腹感がなければ、人は食べることをしなくなるでしょう。また舌の味覚がうまさを感じなければ、食べものを求めなくなるかもしれません。空腹も味覚も人に具わっている不思議な生き抜くための働きなのです。
快を求め 不快・嫌悪を避けるのが 人の行動原理の第一法則
人が他の動物と異なるのは、二本足で歩行ができ、手が使えること、大脳皮質が発達し言葉が使え、記憶をもとに思考できる働きをもっていることです。
人は生きるために不快を避けます。恐怖を避け安心を求めます。つまり好きか嫌いかという感覚が生きるために一番に反応します。それは人間の行動原理の第一法則です。誰人も、この法則に則って生きています。
苦しみは 欲求がうまく通らない結果の感受性反応
今の苦しみや楽しみは、人の五感(目・耳・舌・鼻・身)に発した生きるための欲求の結果です。自らの欲求を知り、その調律の仕方を知ることが心の不調を改善する要諦になります。自らの心を明るい鏡に映せばわかるようになります。
快を求めすぎる愚かさが 苦を招く
人の生き抜くため行動に潜む「癡・おろか」さについて述べてみましょう。
痴…おろかとも表記します。ものごと、人間、自然の法、因果や道理がわからず、目先の感覚的欲求に抗しきれなく行動する心的状態です。
「飛んで火に入る夏の虫」暗闇の光を求め、火に入り、焼け死んでいく虫たち。このようなことは人間社会にもたくさんあります。お金のために大事なものを失うのも愚かさ、好きなものを食べ過ぎたり、飲み過ぎたりして病気になるのも愚かさ、専門家に騙されるのも愚かさ、人を傷つけることも、殺し合うのも愚かさが原因です。すべて生き抜くために自分を守るための行動が発端になっています。
病気の多くは、正しい知識不足 道理・因果がわかっていないことが原因
病気の多くは、正しい知識の不足、道理や因果が分からないことから生じています。正しい知識や情報を身につけることが病気を予防します。「知は力なり」は真実を穿(うが)っています。
病の治療を重視する日本の医療界、既に後手に回っています。真の文明国は、病気にならないための予防に重点を置き、健康維持に先手を打ちます。
軽薄情報の氾濫が 人の快を増長させ 病を増産させている
世の中、偽りの情報、利己的金儲けのための巧みな情報、偽善に満ちています。無知な人たちをだます似非専門家たち。視覚情報に弱い人間心理につけ込むコマーシャルやユーチューブ動画など。見抜くのは大変なことです。甘言で人の保身を増長しています。
この愚かさの病・痴病が現代人を覆っていると言えます。国民に本当の学びが少なく、表面的な浅い思想につかりきっているように思えます。拝金思想、刹那主義、コンビニ信者が文明国を席巻しているようです。
仮初(かりそめ)の平和に守られ、便利さに忍耐心を失い、人々は自らの生をよりよく保とうと快適情報にますます依存し、生きる力を弱め、脆弱性(ぜいじゃくせい)を強めています。
正しい知識の獲得がもたらす智慧が 正しい人生につながる
その結果、心の病はますます増産されていきます。生きること、身を守ることに潜む愚かさが原因と気づかずに…。それを乗り越える方法は、まず正しい知識を身につけ、正しい情報を見抜く智慧を培うことから始まります。
不確かな心を明確化できるかどうかが鍵です
安心領域は、個人によってすべて異なります。個々の心的状態の把握なしに解決は難しくなります。心の在り方、感情と思考と行動の関連性、記憶と潜在意識など個人の反応のしかたを正しく知ることから、安心領域の拡大が可能になります。つまり自分の心を、どこまで正しく知ることができるかが全てなのです。
芝蘭の便り㉕
私の目的は、個々の人が、自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい
ニコラ テスラ (20世紀の物理学者・詩人)
自分が分からず どう生きてよいのかわからない
人間にとって最も大事なことは何があっても、自分らしく自分を表現し、どんな環境や出来事にも立ち向かっていける強い心、賢さ、そしてしなやかな心を持つことです。
この世界に、あなたの顔が一つしかないように、あなたの人生もあなた独自の道になります。ガイドラインやマニュアルは机上の知識です。残念ながら数学的な解答は人生にはありません。自分で解答を見つけるしかないのです。
環境の変化に うまく適応できていない
めまぐるしく変化する現代社会に大人も子どもも適応することに難しさを感じています。この世界の人も、ものも、自然も、すべては常に変化していますが、普段は意識できません。変化が小さいときは無意識的に反応し、今までの記憶化された心身の習慣力で適応できるからです。しかし変化の波が大きいと、適応できない人や生物や自然が増えてきます。それが、ひきこもり、不登校の一因になります。
急速な変化に適応できず、自分でも原因が分からず、今まで普通にできていたことが出来なくなっていきます。専門家は社会不安障害、うつ、適応障害、ひきこもり・不登校という名前をつけることで解決したかのように錯覚していますが、その中身は曖昧であり、人間の部分しか見ていないため、的に当たっていないのが現状です。なぜなら人間の心の働き全体が分かっていないからです。
物質的豊かさ 便利社会がもたらす 忍耐力の不足
科学技術の急速な発達により、物質的豊かさは年々増し、我慢しなくてよい便利社会が到来し、過剰サービス社会が人間の忍耐力や思考力を脆弱化しています。結果、人はすべてのことを当たり前と思うようになり、科学技術を盲信し、いつしか驕りという毒を飲まされ、人間の素直な.心を失い、自分の外にあるものに感謝の念が持てなくなりつつあり、今生きていることの有り難さに鈍感になっています。
視聴覚という感覚反応中心の生き方は 情緒が育たない
スマホ・パソコン、テレビなどの電気製品の普及に、使用はできているが、私たちの心身、脳は適応できず、心身のバランスを崩していることに気づいていません。見える情報、聞こえる情報に操作され、視聴覚という快感覚反応中心になりつつあり、思考や想像力を培う場を失い、嫌なことに耐える力が身に付かない生き方になっています。
想像力と忍耐力と思考力の不足は人間関係を難しくします。引きこもり・不登校は、環境適応できず、社会から逃走し、家という安心空間への回避した状態といってよいでしょう。
安心空間を広げることが 不登校・引きこもりの 解決の良薬
会社や学校で嫌な出来事に遭っても、それに対する反応は人それぞれです。みんなが、そこから回避するわけではありません。では、引きこもりや不登校は、なぜ家という安心空間に回避したのでしょうか。その原因について考えることが大事です。そうすれば、その人独自の解決の道が見いだせるはずです。
本質的な原因の把握なしに学校・社会復帰させようとして、関係機関に相談し、子どもだけをなんとかしようとする無駄を繰り返しているのが現状です。的を外した対処に改善はありません。逆に悪化させ、ひきこもり・不登校を長期化させることになってしまいます。
安心空間を広げるには 正しい知識と行動が求められる
親も子どももともに人間としての新たな学びが必要になります。学ぶことによって変化をもたらしている波を知り、変化の中で生きる自分を知り、変化する環境と自分への適応力に気づくことができるからです。つまり人生が変化の連続なら、幸福に生きるためには大人になっても学び続けるしか変化に対応できないからです。
学歴を得るために学ぶのではなく 自分を高めるために学ぶことが こころを強く賢くする
学校の学びは、学歴や社会的ステイタスを得ることが目標の知識偏重になり、知識がモノ化され現実の生きる力になっていないのが現状です。学校で学んだ知識は過去のものであり、多くは今の変化に対応できなくなっています。
「学べば学ぶほど、私は何も知らないことがわかる。自分が無知であると知れば知るほど
より一層 学びたくなる」(アインシュタイン)
芝蘭の室では、人間教育を重視し、体や心を知る、身体と心の関連性を知る、自然や社会を知る、人との関わり方、人生を知ることを学びます。
そして、その人らしい個性を表現して輝いていける自分らしい生き方を探究します。
正しい知識と智慧の獲得を目標にします。智慧とは生きる最善の対処法です。どんな環境下にあっても自分に負けず、生き抜く力です。
自分を高め 周囲の人を その光で照らす学びと生き方が 正しい生き方
最終目標は、人として「一隅を照らす」生き方ができるようになることです。それは、中村哲医師(注1)の生き方の指針でした。
アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされた中村哲医師のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らを省みず献身する母親もその一部)の一人だと思います。このような真の利他の振る舞いをする大人が増えれば、その国の民も心が潤い、自然や国土も潤い、災害も減少していくでしょう。
注1 中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」平安時代の人、最澄の言葉。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」
―愛とは互いに見つめ合うことではなく 二人が同じ方向を見ることであるー
サンテグュペリ・星の王子様の作者
男女の愛情の序章 それは恋です
男女の愛の序章、それは恋です。恋なくして男女の愛の成立はありません。恋は好きという感情から始まり恋愛に発展していきます。恋愛感情の背後に、性的ホルモンの働きがあります。これは全ての動物・昆虫にも共通する種保存の生命が内在的に持つ法則です。本能的であるため、盲目性があり、暴走することもあります。その段階で結婚まで走ってしまえば、早期の破綻を迎えるかもしれません。
好きな相手も 時間が立てば 嫌になることが増えます
好きという感情は嫌いという感情と表裏ですから、相手の嫌な面を見ると、たちまち嫌いという感情に変っていき、やがて二人の間に嫌悪感が漂うことになります。例えば、どんなに好きな食べ物でも毎日食べれば飽きがきてしまい、おいしさを感じなくなります。同じように、どんなに好きな相手でも、いつも一緒にいれば飽きてしまい、新鮮さもなくなり、好きという感情も薄れていきます。これは、人間のもつ本能的生理感覚ですから、誰人も避けることができません。倦怠期と表現される状態です。
好き嫌いを超える一つの方法 利の価値に生きることです
これを乗り越える方法の一つが、相互の損得・利害関係を考える知です。離婚は、「世間の恥」とか「社会的信頼を失う」とか、「子どもの教育に良くない」とか、「経済的にやっていけない」とかで、二人が好きでもないのに一緒に生活している関係が損得関係を重視した知です。知によって好悪という感覚を克服しようとします。しかし、それだけでは、恋愛の親近性もなく、愛もないため、往々にして冷えた関係になり、家庭内別居状態になりがちであり、二人とも幸せを感じることはできません。
夫婦の愛情のない家庭に 不登校が生まれやすくなります
二人の醸し出す人間の愛情の持つ周波数は、家庭の中に波となって漂い、同居家族である子どもに大きな影響を与えます。子どもは情緒が育たず、健全な愛情を持つことができなくなり、人間関係の中で不和を起こしやすくなります。これは、私が関わった不登校児の家庭によくある風景です。
二人の心の向上によってもたらされる 新しい関係 それが愛です
これを乗り越えるのが、双方の努力によって育んでいく関係です。それは自己中心性と葛藤し、相手のことを考える心の成長が求められます。双方の心の向上なくして成就できません。愛は二人が紡ぎ出す、この世に二つとない美しい世界を表現します。その一端を私たちは恋愛小説やドラマに見ることができます。愛を育てていけば二人は終生、美しい絆をつくってゆけます。その二人に、離婚という文字はありません。
愛情に必須な条件は 相手をかけがえのない人間として 尊敬することです
愛に必須な条件は、相手を一人の人間として尊敬できるかどうかです。そのためには、相手をよく理解し、相手の良さを見出せるかどうかにかかっています。これは、好悪や利害を超える心の絆があります。人間信頼、人間尊敬ほど強い絆は、この世にないからです。
愛情は相手を大事に思う心であり 守り抜く行為です
愛は本当の優しさをともないます。また見返りを求めることはしません。相手がどんな状況になっても、たとえ相手の姿かたちが変わり果ててしまっても、その人のすべてを受け入れ 守り、大事にし、尽くし抜く心、それが愛です。
例えば、男性が新婚前後の女性に愛を捧げるのは難しくありませんが、10年、20年、そして相手が白髪になった70代、80代になっても愛を貫くことができれば、それは本物の愛です。そのパートナーは世界で最も幸福な人といえます。
スティーブジョブ氏最後の言葉 大事なのは 金でも 名誉でもなく パートナーへの愛情
愛はお金や財宝、名声、人気、地位で得ることができないとスティーブジョブ氏(アップル創業者・56歳で死去)は言いました。この世界の最高の宝なのです。生きているときも、そして死後にも持っていける美しい心の品性です。
愛の実践は人間の向上であり 人間完成であり 最高の幸福への道です
愛の実践には、心の強さ、心の清らかさ、正しい心を保つ品性が求められます。愛は二人を高め合います。高め合う愛こそ本物の愛です。愛は人間の品行の成長を伴います。愛する二人は限りなく向上し輝き、美しさを放ち、周囲をほのぼのとさせます。それが本物の愛の品格です。
愛は その人のすべてを受け入れ 大事にし たとえ相手が白骨になったとしても その人を 永久に 愛し続ける それがまことの愛です。
※以下に述べることを理解し、実行してゆけば、愛を育むことができ、夫婦関係は100%改善できます
◎愛情を育む具体的実践
人間の自己表現法は二つある。
1,言葉の表現…言葉は事物の比喩であり、共通の記号。 言葉の裏に込められた意味を読むためには心を遣わなければいけない。
2,言葉以外の表現(ノンバーバルコミュニケーション)から心を読む
※ノンバーバルコミュニケーション…顔の表情、服装、振る舞い、声色など
メラビアンの公式(好意の総計100%)‥人の印象に残る表現を知る
①言葉による表現(言語情報・話している内容)…7%
② 声による表現(聴覚情報…声の大きさ、声色、速さ、口調など) …38%、
③ 言語外による表現(視覚情報…見た目、視線、しぐさ、表情、服装など) …55%
※言語外表現が、最も人の心に好感として残る
会話における言葉には 三種類の機能があることを知る
1、言葉は共通の記号である
2、言葉の解釈…言葉の正しい意味
3、言葉にこめられたもの…言葉で表現しようとしている言葉以前の心、感情、気持ちという波動のようなもの」をキャッチする
※出来事を語る場合…人によって「出来事」の受け止め方は異なる。置かれた位置、立場、精神状況による。相手の背景、立場、認知の枠や癖を理解して出来事を再生し、想像し真実に迫る。
心を開く関係づくりは、無条件の肯定的な関心を持つことを知り、実行する
・相手に対して無条件の肯定的な配慮をもつこと。➡条件・限定をつけるということは、こちらの欲求を満足させる利己的愛情といえる。
・第一に、人間の意義と価値に対する心からの尊敬。⇒肯定的関心
・第二に、相手の自己指示(方向、選択、決定)の能力を信頼できるかという点であり、個人の人生を決めるのは、その人自身であることをどこまでも深くこちらが感じ取っているかである。
相手を総合的に理解するよう心を尽くす
①相手を取り巻く状況を多角的(時間・空間的)に知る
・長所短所などの特性、趣味、友人、今の置かれた状況、精神状態。
一つのカテゴリー・型にはめこまない。相手の現在を多角的に理解するメタ認知力を高める
②こちらの態度と人間性の与える影響力
・相手とどのようにつながるか、こちらの人間性、態度、言葉遣い、安心感、ほっとする雰囲気、こころを開く言動や振る舞い…総合力でつながること(コミット)を心がける。
・相手が心を開かなければ、こちらを信頼しなければ、関係はできない。
これは、すべての他者とのかかわりに共通したものである。「心を開く」「信頼関係」が大事になる。
・「心の思いを声にのせる。つまり、言葉や声、声色で心を知る。心を聴く努力。
・自分にとって相手は「鏡に浮かべる姿」 人は関係性で変わることを知る。
・悩んでいる人に対して大切なことは、心を軽くしてあげること、明るくしてあげること。相手の言うことに、じっくりと耳を傾ける。じっくりと話を聞いてあげる。それだけですっきりする心が軽くなることが多い。聞いてあげること自体が、苦しみを軽くすることになる。
メンタライゼーションを活用する…
メンタライゼーションとは、「行動の背後にある心理状態と意図を考慮に入れて、他者の行動の意味を解釈する能力である。」
⇒相手の心は理解できないという無知の姿勢が大事。だから相手を理解していこうという、相手に対して積極的な関心を持つようにする。信頼関係が築かれないと相手は心を開かない。心が開かないと、どんな言葉も相手の心に届かない。自分の心理状態を知ること。自分の心理状態が悪いと、相手の心を理解する余裕もなくなり、理解できなくなる。相手の心理状態を知り、相手の状況を知る努力をする。
心の健康のために…ストレスに負けないレジエンス力を日常から培うようにする
1 自分はできると信じる、自分に負けない心をもつ…あきらめない心が心を強くする。
2 失敗した時、新しい自分を見つけるようにする。人生・経験は、すべて教師である。失敗も成功も一つの出来事、全ては経験であり、自分や人生を教えてくれるかけがえのない教師である。
3 自分を支える人を持つ。 身近な人に感謝できる心を持つ。
4 良い習慣を身につける…規則正しい生活、良書に親しむ、笑いと感謝、積極的、前向き、楽観的、強気、出来事に意味を見出す生き方、未来を明るく想像する生き方、マインドフルな生き方など。
5 心の強さは、「苦」を乗り越える度に強化されることを知る。
スティーブジョブ氏 最後の言葉
一代で巨万の富を築き世界的名声を得た、アップル創業者のスティーブジョブ氏は、すい臓がんのため55歳でこの世を去りました。死の直前、病床で語ったこと…「富や名声は死に際して何の役にも立たない。いのちが大事だ、私の病気と替わってくれる人は、だれもいない。私は、まだ大事な書を読んでいない。それは、健康に生きるための本だ」
生命は 瞬間瞬間 意識できない世界で 動き 変化しています
私たちのいのちは、五感覚(目、耳、舌、鼻、身)器官が反応しながら、瞬間瞬間流れています。あるときは何気なく、あるときは意識をもって…。私たちは今の自分が感じている世界が、自分のすべてと思っています。しかし、今の瞬間の心身は 常に一定のところにとどまることなく 流れ続けて(注1)ていますが、私たちは、それを意識できません。ほんの一例ですが、血液は常に、体中を流れ、酸素と栄養を全細胞に届けています(滞れば、細胞が死滅し、私たちは死にます)が、私たちはそれを意識できません。私たちが、自分がいつ死ぬのかを、意識できないのは、生の営みが潜在意識活動中心に行われているからです。
注1 仏教では、こうした生命の流れを2600年前に、既に解明していました。それを諸行無常・諸法無我という言葉で表現しています。万物、存在するものは常に変化し、縁起で生起し、やがて滅していく、顕在と潜在のかたちを織りし、一定の自分・我はないと説きます。また潜在状態で存在することを「空、くう」ととらえます。今の最先端の量子力学が、遅らせながらそれを証明つつあると言われています。
意識できる世界は1% 99%は意識できない世界で 人は生きています
瞑想(注2)を実践し、自分の身体や心を一心に観察し、想像力を磨いていくと、私たちが意識できている世界は1%以下ということに辿りつきます。99%以上は意識できないところで心身は活動しています。私たちは無意識的活動を意識できないため、その活動に気づくことができません。ですから、その働きの、あり難さを感じることもありません。正しい知識に基づいた想像力によって、はじめて真実の把握ができ、心身の働きの偉大さに気づくようになります。瞑想の素晴らしさはそこにあります。
「想像力は知識より大事である 知識には限界があるが 想像力は無限である」 アインシュタイン
(注2 瞑想…もともとは、仏教の禅波羅蜜(ぜんはらみつと読む。禅によって最高の不動の境地に至る)という修業から生まれたもの。心を一所に定めて、心を観じること。感覚に反応せず、自らの深層を観察すること。心身は動いているので、つかまえることはできません。その動いている心身になりきるには、心身そのものになるしかありません。それを直観、インスピレーションなどと表現する人もいますが、ブッタ(一応は釈尊を指す言葉、真意は覚者)は「悟り」と表現しています。それは心が浄化された人しかできないとされています。私たち凡人は、五感覚のもたらす欲望で心が濁っています。ですから、心の動きを、言葉やイメージでいったん止めて、真実に迫っていく方法をとります。その言葉は悟った人の真実を表現したものでなければ、真実に到達することはできません。言語道断(言葉で表現できない真理の世界)という世界に入るには、凡人は先哲・覚者の言葉を信じて、そこに入るしかないのです。そうしないと、心の浄化も進まず、迷いから迷いの世界に入り込み、部分の知を悟りと錯覚し、真理に至ることができなくなります。
我思う、故に我あり‥意識こそが 生の証拠との考え方
16世紀の有名な懐疑哲学者デカルトは、すべてを疑うが、疑っている自分の存在を真理と認め「我思う、故に我あり」との名言を残し、近代合理主義哲学を開いとされています。つまり、私たちが今、感じている意識こそすべてという哲学です。意識できない世界は闇に閉ざされることになりました。合理主義のもと産業革命が進み、物質科学は日の出の勢いのごとく発展を遂げ、量子力学、光の研究は精緻さを増し、やがて月にロケットが着陸するという、ウサギの餅つきつき神話もあっけなく崩されることになりました。
科学万能主義が 新しい病を 次々に産み続けています
やがて科学万能主義の時代が到来し、人間は神をも恐れない存在となり、科学を崇拝する科学信仰、物質・お金信仰を招きました。科学や可視化できる世界がすべてであり、科学が何でも解決してくれると…。
しかし置き去りにされてきた、意識できない世界である心については、ほぼ16世紀のままと言ってよいでしょう。深層心理学のフロイトやユング(注3)がその闇にかすかな光をともしましたが、科学性に乏しいとされ看過されています。
(注3) フロイト、ユング …19世紀の心理学の先駆的役割を果たした人たち。フロイトは、催眠や夢という現象から無意識層を仮説し、神経症やトラウマを治療したとされています。ユングは一時フロイトに師事していましたが、無意識層の理解が異なり、ユング自らの深層心理体験を基にして、個人無意識、集合無意識を仮説、曼荼羅なども図顕しています。無意識層の展開は、既に仏教の唯識思想によると2000年前に、第七識無意識世界としてマナ識、第八識無意識世界としてアラヤ識が説かれていますが、両者の見解と深遠さは根本から異なっているとされています。
心の病は 精神病薬で 根治できないと 森田正馬は叫ばれました
しかし、20世紀の終わりから、心の病は増えていきます。そして21世紀に入るとさらに増加し、さまざま身体の病気に加え、心の病も多様化しています。現代の精神医学は、精神より物質、脳の働きに注目し、薬学で対応しています。つまり精神医学も物質医学になりつつあるため、心の病の根治(注4)が出来なくなりつつあります。精神、心は脳を介在して顕在しますが、脳そのものの働きが心ではないからです。今、量子力学など先端の物理学が、物質と意識の関係を模索していますが、確かなことは未だ分かっていません。
注4 「心の病の根治」日本が生んだ精神療法家、森田正馬は精神科医でしたが、「神経症の根治法」という書の中で、神経症は薬で治らないと現場治療の現実から悟り、森田療法を考案しました。そして強迫観念、パニック障害、不安症、各種恐怖症等を独自の精神療法で、90%以上根治したとされ、全国から患者が殺到したと言われています。
今 生きている、それは 記憶された過去の強化された 脳神経シナプス現象です
ところで私たちが生きているのは、意識できる部分、意識できない部分の働きを合わせたもの全体が私たちの心身の生命活動の事実です。五つの感覚(眼・耳・舌・鼻・身)で刺激情報を感受し、それを意識が快・不快などの感情として受け取り、感情と言語・イメージとして記憶していきます。こうして無意識層に記憶されたものが自動的に次の活動時に生起し反応します。
今、生きていることはこれまでの人生で習得した記憶が意識化されて生きていることなのです。つまり、心身全体の過去の記憶が自動的に再生されたもので生きています。記憶を失う疾患の一つ、認知症の例を考えれば、生きる活動が記憶に支えられていることが理解できます。私たちが感覚し意識できるのは、体を動かす運動神経と感覚神経の一部ぐらいで、実際に働いているものの1%以下にすぎません。
私たちは、この地球に生を受けて、地球や太陽や自然の恵みに守られて生きています。母から産まれ、いろいろな人に守られ生きています。私たち人間は、自然やあらゆる生物、社会の恵みに育まれて生きています。私たちの身体は、宇宙の物質からできています。
地球の恩恵は無限であり、生物・人間に無尽の愛を注いでくれています。愛とは、人知れず尽くす行為であり、どんなときも支え、大事に守る働きです。赤子に対する母の無償の愛に近いものがあります。
地球は黙々と働いています。彼は地上の生物に見返りを求めることはしません。私たちは、空気、水、光、大地など使い放題に使っています。地球は、いつも私たちに最高のものを与えてくれています。地球はだれのものでもありません。地球自らのものであることを忘れてはいけません。
地球は優しく、慈愛の体現者ですから、すべての生あるものを育み、受け入れています。その深く広い愛に気づかず、多くの人間は、甘えています。愚かな強欲者や利己主義者は自分のものでもない地球を私物化し、生物を支配したり、コントロールしたり、金儲けの手段や道具にしています。
とても悲しいことです。地球は泣いています。あるとき、地球は自らの傷の痛みに耐えかね、自然災害の形で、「痛い、苦しい」と叫び、私たち人間に警告します(注1)。しかし、欲で情緒が濁り、そのメッセージを読み取れない権力者は、目先の対処に汲々するばかりで、本質を見ようとはしません。
地球は私たちを含めた無数の生物を乗せて、精巧に自ら回転しています。人間はその変化分を24時間と計測します。また太陽の周りを正しい軌道に則り一周します。人間は、その動いた分を、365日と言います。地球の働きは、寸分の狂いもなく、休むこともなく、まるで自らの使命を忠実に果たすかのように動いています。
もし地球が休んだり、止まってしまったら、私たちを含めた生物は、たちまち死滅します。微妙な調和に包まれ、宇宙空間に漂いながら、今生きていることの不思議さに感動を覚えます。
月や近くの惑星である金星や火星に、酸素や水はないと言われています。太陽系では、地球だけが酸素が豊富にあり、水に恵まれています。この地球の慈愛、太陽の愛、自然の恵みや恩を私たち人間は、どれほど感じているのでしょうか。
この恩恵を感じる感性が、心の健康の一つの証です。心が浄化されれば、この世界や自然に当たり前なことは何ひとつなく、すべては有り難い、かけがえのない瞬間であり、できごとだと観ることができるようになります。
注1 釈尊の教えである「金光明経」「大集経」「仁王経」等の経典で説かれています。金光明経のごく 一部を、難解ですが原書にて紹介します。「一切の人衆、皆、善心なく 繋縛殺害瞋諍のみあって 互いに相讒諂し 枉げて辜なきに及ばん、彗星しばしば出でて…疫病流行し…地動き、暴風・悪風・時節によらず常に飢饉に遭って、苗実成らず…」(大意を述べます…すべての人間は、他に施したり、他を育んだり、守ったりすることなく我欲に生きている。そして互いに殺し合い、争い、いがみ合っている。結果、彗星はしばしば出現し、疫病が流行し、地震は多発し、台風、洪水、季節外れの気候が起こり、飢饉、飢餓になり、農作物も実らない)今の頻発する異常気象、各地の戦争・紛争状態など合致しています。原因は人間の五欲の執着、自己中心の生き方にあると警告しています。
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瞋りの連鎖を解く方法はあるのか
瞋りの連鎖を解くためには、まず自分を知ることです。瞋りの対象への強度と深さを知らなければ
なりません。また瞋りの習慣化された自分の内省も必須です。瞋りを発しても、数日以内で、その瞋り
から解放される人もいます。逆に、瞋りを発しやすく、その瞋りに振り回され、簡単に瞋りから解放
されず、何日も、何年も怒りが、怨み憎しみとなり、心の奥に固着する人もいます。その人は、一日の
大半を地獄を住みかにしている人といってよいでしょう。問題は、根深い瞋りを心の奥に持っている人
の瞋りの解放です。この傾向の人は、アンガーマネジメントの講習を受けても、いっこうに解決するこ
とができません。なぜなら知識や言葉を超えた奥深くに宿っている、瞋恚の塊りの心作用だ
からです。その塊りを少しずつ溶かし、浄めるしかありません。
ブッタの悟りが教える六波羅蜜(ろくはらみつ)の実践修行
ブッタ(注1)は人間の持つ煩悩が不幸に導く元凶であることを悟りました。前回のブログで説明したよう
に、三毒という煩悩をもっとも制御困難なものとしています。人間の本能に根付いているものだからで
す。脳科学の知見で言えば、大脳皮質の言葉や感覚受容の奥にある、大脳辺縁系に端を発しているから
です。正確に言えば、大脳辺縁系にあるのではなく、瞋りはそこに顕在する心作用です。脳科学で解決
できない世界ですから、心科学(ブッタの仏法科学)に基づくしか解決はありません。
六波羅蜜(注2)の実践は、煩悩の迷いを悟りと開き、苦を楽に替え、暗を明に転じ、人を幸福に到達させ
る実践・修行です。
注1 ブッタ…覚者、生命の真理を悟った人という意味。一般的には、約2600年前ごろのインドに生まれた釈迦を指しますが、生命現象の三世を俯瞰すると生命の真実を悟った人のことをブッタと言います。いわゆる仏・如来のことです。釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、多宝如来、大日如来など、この宇宙には無数の仏が存在すると言われています。
注2 六波羅蜜…波羅蜜は、到彼岸、仏の生命へと到り、宇宙大の生命をくみ取るための六つの項目。布施波羅蜜(財物や幸福になる生き方や安心感を人に施す修行)。持戒波羅蜜(悪を止めて善を行う修業)。忍辱波羅蜜(忍耐しながら慈悲行をし、人を救うこと)。精進波羅蜜(喜んで人の善に尽くし、少しも怠けない修行)。禅定波羅蜜(精神を集中して散乱させない修行…マインドフルネスはこの修行法にヒントを得ている)。智慧波羅蜜(一切の事柄、法理に通達して明了ならしめる智慧の開発を目指す修行)
瞋りの煩悩を転換する実践は 忍辱波羅蜜にある
忍辱波羅蜜の修行は生命的存在をどのようにとらえるかから始まります。
自分を含め、すべての生命的存在は慈愛すべきものと見ます。
なぜなら、すべての生命的存在は仏性(注3)を持つ存在だからです。どんな人も根底に仏性を内在させて
いると信じ、相手を守り尽くしていきます。その姿勢で関わっても、相手から馬鹿にされたり、罵られ
たり、攻撃されたりします。それらの辱(はずかし)めに耐え、相手の仏性を信じて関わり続けることが忍
辱の修業なのです。その修業の中で瞋恚(瞋り・怒り)の生命は、浄化され、本来の清らかな生命が蘇って
くるとブッタは説きます。これは大変な修行ですが、この修行を貫く中で瞋りに振り回されない自在な
境地になるだけでなく、崩れない幸福境涯に近づくことができるとされています。
注3 仏性…仏の生命の心的側面。釈尊という場合、生命の身体的な側面を指し、仏と表現されます。仏の生命の心的な働きを指す場合は仏性と言います。この宇宙の森羅万象は仏性の働きとブッタは開悟されました。生命は自ら創造し自ら死滅する生滅の法です。また、宇宙のすべてを創る働きが生命に内在する仏性であり、慈悲を演じ生死を繰り返す無始無終の因果を内在する生命の働きです。キリスト教では、スピノザが汎神論を唱えました。自然や宇宙の神的な働き、人間や動物の神秘的な働き、そうしたものすべてが神であるという説です。アインシュタインは、両親の関係でキリスト教を信じていましたが、進化論を知って旧来のキリスト教から離れました。しかしスピノザの汎神論の神は信じていたと言われています。仏性は、汎神論で説く「神」に近い目に見えない生命の働きと考えてよいでしょう。
ブッタは能忍の人 人間世界は堪忍世界 能忍の修行が瞋り(怒り)を浄化させてくれる
この世のとらえ方を正しく見てゆく修行をします。この世を娑婆世界(しゃばせかい)と見ます。娑婆(梵
語、サーハの音写)は、堪忍(かんにん)、能忍(のうにん)と訳される言葉です。娑婆世界とは、苦悩が充満
している人間世界のことです。「この世界の衆生(人間)は、三毒およびもろもろの煩悩を堪え忍んで受け
るので娑婆世界という」(法華経巻五)。
思うようにいかないのが当然であり、自分のことを理解してくれない、わかってくれないのは当然であ
り、自分勝手な人ばかりが存在しているのが当然と、この世界をあるがままに見つめ受け入れ、堪忍し
て生きていきます。その生き方ができるようになれば、瞋りの対象を受け入れることができるようにな
ります。正しく言えば瞋りの対象が原因ととらえている自分を、原因は自分の中にあると見ていくと
き、忍耐することができるようになっていきます。その結果、生命の浄化が進みます。生命が浄化され
た分、瞋りの生命は消失していきます。釈尊・ブッタは能忍の人と言われています。釈尊自身、こうし
た修行の結果、悟りを得、ブッタになったと言われています。
瞋り(瞋恚・しんい)という感情が 人を不幸に導く元凶
人間の感情で、制御が難しいものが、怒り、恐怖・不安、悲しみ、ゆううつ・落ち込みです。
それらの中でも最も制御困難なものが、怒り(瞋恚、しんいと読む)です。
制御困難であるからこそ、人を地獄まで連れていきます。最悪は、殺人であり、自殺行為です。
波は振幅の大きさと周波数で強度や速度が変ります。瞋恚という瞋りの波は、振幅も大きく周波数も多
く波形も乱れていますので、自他を巻き込みます。自分や人を巻き込み、他害や自害という不幸のどん
底に人を追い込む危険性を孕んだ感情です。各地の戦争がそれを物語っています。すべて、瞋恚(瞋り・
怒り)が原因であり、それが連鎖し渦巻いています。瞋りの原因と対処としての智慧を獲得しない限り、
真の解決も平和も幸福もありません。
瞋り(怒り)の本態を知ることが 本質的な制御への第一歩
怒りは現代用語表記です。もともとは瞋りと漢語で表記していた仏教の言葉です。瞋りは正確には「瞋
恚・しんい」という心の働きであり、どんな人間にも具わっている煩悩(心の働き)であり、三毒(注1)の一
つです。
瞋恚とは、目を一杯にして対象を叩き攻撃しようとする心の働きです。自分の不利益になることに対し
て、目をいからす「忿」という心作用が起こります。自分にとって不利益になる、思いが通らない、思
い通りにならない、そんなとき、瞋恚の「忿・ふん」の心が湧き起こります。人は、生きるためには、
自分を守らなければなりません。そのためには、自分にとって脅威に感じる存在に対して、逃走か闘争
かを、瞬時に判断しなければなりません。闘争は瞋りであり、逃走は恐怖です。いずれも生き抜くため
の生命の本能(煩悩)敵防衛反応です。瞋りは、生き抜くための自分を守る本能であるため、制御が難しく
なります。
(注1) 三毒…貪、瞋り、癡(むさぼり、いかり、おろか)の人間生命の根本煩悩。煩悩とは、人間の心身を煩わし、悩ませる種々の精神作用の総称。根本煩悩(貪り、瞋り、癡、慢心、疑い)五つと随煩悩20種類に分別しています。(成唯識論、世親菩薩作)
瞋り(いかり)は 連鎖しながら心の奥深くに根付いてしまう
強くて深い瞋りは、「忿・ふん」恨(こん)「悩」「嫉・しつ」「害」(注2)と連鎖し、瞋りを増幅させ、
簡単にはほどけない、心的呪縛を演じます。反芻(はんすう)思考の本質の一つも、ここにありま
す。
(注2)「忿」は、自分にとって不利益な事柄に対して、忿発し、対象・相手を打ったり、罵ったりといった行為。恨(こん)は、「忿」の後に起こり、怨み(うらみ)を結んで解けないという心作用で、悔しさで熱悩する行為。「悩」は、「忿」と「恨」を追っかけ、懊悩し、他人を蟹(かに)のはさみでちくちくさすように働きかける行為。「嫉」は、自らの名利を求めて、他の栄えに耐え切れず、妬み、うらみ、憎む行為。「害」は、他人の生命を損じたり、悩ます行為。
感情は 意識の対象を 替えることで 制御できるようになる
波のように生まれた感情のエネルギーが、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしか感情の収束は
できません。それは、意識によって対象を替えてゆくということです。意識の転換とはエネルギー
が向かう対象を意識的に替えることになります。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒
りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーの内在力である感
情がすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したもの(感情と表現し
ている)の余情や余韻が自然に消えるを待たなければなりません。
マインドフルネスの指向するもの
マインドフルネスの意(こころ)は、評価せず今に集中して、目的に向かって生きることと、一応説明
できますが、先ほど述べた、意識対象の転換と同じことを指しているといってよいでしょう。
マインドフルネス的生き方が、注意の転換を可能にし、感情の囚われから脱する一つの道になるのは、
体得にあるからです。それは受容とも 南無(注1)とも表現されています。
このことを体得すれば どんな感情にも 振り回されなくなります。
注1 南無 ナムはサンスクリット語(古代のインド語)で、漢語では帰命と音訳されている仏教の重要な言葉の一つです。南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無八幡大菩薩、南無妙法蓮華経など、仏・菩薩や仏性を表現した言葉に冠された大事な文字です。本来は、仏・菩薩や仏性に自分の命を任せ、それに基づいて生きるという意味です。森田療法の創始者、精神科医の森田正馬氏は、自分の命をあるがままに、まかせて、今を生きることを南無というと著書「生の欲望」の中で述べています。
南無を「あるがまま」と同じ意味で使っています。つまりマインドフルネスの指向する世界と同意なのです。どちらも仏教を基盤にしたものだからです。森田療法の核心は「あるがまま」に生きることです。それは体得であり、悟りであると言っています。そうすれば、どんな嫌な感情にも振り回されなくなり、受け入れることができるようになり、苦しみは消えてゆくと言います。彼は、自らの強迫観念や神経症(心臓恐怖症)を治した経験をもとに、森田療法を創作し、当時、難治とされた「神経症」「強迫観念」「神経衰弱・抑うつ」を、薬を使用せず全治させた治療実績(90%以上)があります。
このエビデンスにより、森田療法は日本のみならず、世界に広がり、精神疾患の世界で注目されるようになりました。今、森田療法が下火になっているのは、真の弟子(師匠森田の教えを正しく体得した人)が徐々にいなくなっているからです。どの世界(芸術、宗教、学問、道の世界など)も師匠の精神の体得者がいなくなったとき、衰亡を遂げ、やがて風化し滅亡の道をたどります。これは歴史が語る真実です。
日本には、「感情」という言葉はもともとありません
日本には、「感情」という言葉はもともとありません。古来から日本では、「心」とか「気」「情け」などと表現していました。「感情」という言葉は16世紀にキポルトガルやスペインのキリスト宣教師がもたらした南蛮文化の言葉です。その翻訳語を「感情」として使用するようになりました。英語では「エモーション」(感情、情緒、情感、喜怒哀楽、情の意味)「フィーリング(感じ、感覚、気分、感じなどの意味)「センティメント」(感情、感傷、思い、情趣などの意味)と「感情「を表現しています。いずれの言葉も、曖昧であり、つかみどころがなく、本質をとらえることに苦慮しています。感情とは「心」に関連しています。そして心とは何かが分からないため「感情」も正しくとらえられません。ですから、感情の扱い方ができないのが現状です。感情はつかみどこのない心から発生している働きだからです。
感情は湖面に生まれた波と同じです
池に石を投げれば 波が起こります。その波を止めることはできません。無理に止めようとすれば、分
波したり 逆に波が大きくなったりします。
波を起こしているエネルギーが他に変り 消えるまで待つしかありません。
人の感情も波と同じです。
ある対象との関係で 起きた感情は 言葉・イメージや思考では その流れを止めることはできま
せん。
波が徐々に消えてゆくように 流れに心身をまかせ 消えるまで 待つしかないのです。
思考より 心の深いところに 位置する感情の心作用
感情の働きは、思考よりも心の深いところに位置しているため、表層の思考・言葉では、深層から生じ
る感情をコントロールできないのです。感情をコントロールするのなら、人間の深層の心の働き(西洋心
理学でいう無意識世界とは異なる)を正しく知ることが必須になります。
知識では 人は変われない 智慧が 人を変えます
以上のようなことを知ることは知識といますが、知識だけではこの感情の問題は解決できません。
「ハウトウーもの」の本や「トリセツ」や「講座」だけでは、感情などの心作用を解決できないのは、
そこに原因があります。自ら実践・経験して体得するしかありません。それを智慧といいます。その智
慧に至るためには、それを体得した師匠・先生・先輩の智慧の伝承が必要です。それは全人格対全人格
の中で伝承されると言われています。いわゆる師弟関係の中での修得です。
智慧の体得によって人は、よりよい生き方ができるようになります。智慧こそが幸福の源泉だからで
す。