相談室(ブログ)

人はどのように生きればよいのか? 人生に意味はあるのか?

2024.07.23

回答

人は生れ、親に守られながら、乳幼児期を過ごし、少年少女期の終わりごろから、自我に目覚めていきます。そのころから、人は「自分とは何だろう?」「人生どう生きればよいのか?」 「生きる意味とは?」など自分や人や人生について真剣に考えるようになります。私も小学校6年生のころから死の恐怖について考えるようになりました。

他の動物と違って人間だけが大脳皮質が発達し、知的活動能力に優れています。学者は霊長類と名付けました。ロダンの名彫刻「考える人」はそれを象徴しています。思考することは人間の宿命であり、優れた能力の一つです。

その知的活動のおかげで、数学、物理、医学、天文学、社会経済学などの万般の科学や医学が発達し、多くの発見発明があり、人間は物質的豊かさを享受し、医学、生理学などの発達の恩恵を受け健康に役立てています。反面知的優位さを武器にして、地球の支配者でもあるかのかのように他の生物や動物を支配しています。

しかし意識を通した知的活動のため、人は苦しみや不安を強めます。言葉によって病気を過剰に苦しみ、老いることに不安を持ち、死ぬことを考えて恐怖に震えます。動物にとって死の恐怖は瞬間的なものに過ぎませんが、人は言葉で考える度に死の恐怖を味わうことになります。

そして死とは何か、どのようにすれば死ぬことを受け入れることが出来るのか。裏返せば、生きるとは何か、人生の意味は、という問いになって跳ね返ってきます。その解決のためにあらゆる思想、哲学、宗教が生まれました。

あらゆる思想、哲学、宗教、科学は人間のもつ疑問の解決であり、意味の探求であり、知的好奇心の解決であり、生きる苦しみの解決であり、病の苦しみの解決であり、老いや死の恐怖の受容の仕方を知ることだったのです。

思想、哲学、宗教は地上の人間がつくったものであり、神や仏という概念・言葉も人間がつくったものです。この地上に存在する言葉は人間の産物なのです。つまり人間を超えたものはないということです。人間を超えたものを創作し、それを崇拝するところに思考は停止します。そして人は本当の人生の意味の探求を放棄します。その瞬間から、真の幸福から遠ざかっていきます。

どこまでも、現実の自分という人間に迫り、思考し、悩み、人間に内在する不可思議な働き、法を見出していくとき大いなる発見が訪れます。また人間を取り巻く、一切の生物、地球、宇宙の中に不可思議な法を見出し発見してきたのが自然科学であり、物理学であり生物身体学でした。このありのままの現実の中に疑問をもち、知的格闘をして、真理・法を見出してきたのです。

リンゴは昔から自然に木から落ちていました。多くの人は当たり前と思い何も考えず、その現象を見てきました。しかし、ニュートンはそこに万有引力という目には見えないが確かに働いている法を見出したのです。

 

私たち人間は、言葉を使って、自らの存在の意義を考え、自他と比較したりして生き方を模索したり心の在り方を考えたりします。さらに、自然、宇宙、社会などあらゆることに疑問を持ち、思考し、納得しようとします。

生きるとは、学ぶことであり、知的欲求を満たす行為であり、それは死ぬまで続きます。つまり人生の意味は、死ぬまぎわに、その人なりの人生の意味に回答が与えられるからです。厳密に言えば、自分の人生、生きざまが、その人固有の人生の意味になります。

意味ある人生とは、価値ある人生、充実した人生、幸福な人生という言葉に置き換えられます。その探究をしてきた地上の思想、哲学、科学、芸術、医学、宗教、つまり偉大とされた先覚者の歴史を参考にしながら模索したいと思います。(次回に続く)

 

 

 

視覚・スマホ情報の刺激に生きる人たちは、大事なものを失っている…

2024.07.15

生きる、それは五感覚の働きに支えられています。中でも危険から身を守り、生を保つ行動に一番重きをなしているのが、視覚です。

私たちは記憶化された視覚情報をもとに思考することもなく生きています。スマホ、パソコン、テレビに溢れる視覚情報を頼りに、思考という検閲もせず、盲信し生きています。便利であり、効率もよいからです。

テレビのコマーシャルはそうした人間の盲点を突き、物を売ろうとしています。多くのテレビ番組やユーチューブは視聴率や再生回数に血道をあげます。刺激的で、記憶に残るように操作し、見る人の視覚に焼き付けようとします。真実は二の次です。発信した視覚情報によって、人が不幸になろうと、悪に走ろうと関係ないのです。視聴されることが大事であり、視覚に強い刺激を与え、視聴率をあげる、再生回数の多さが一番なのです。発信者の利益、つまり金儲けになるからです。

刺激的視覚情報は記憶に深く入り、次の意識行動を左右します。思考は停止し、過去の記憶化された視覚情報で無意識的判断をし行動するようになります。一種の洗脳状態です。

こうして無知な人は増産され、思考停止する人は増え、マスコミという得体の知れない権力の奴隷になっていきます。一種のプロガバンダのようなものです。日本人の大半は、スマホ依存、ユーチューブ依存、テレビ依存、視覚情報依存となり思考停止状態になり洗脳されつつあります。その先に待っているのは、不幸な人生行路です。

人は悩み、思考し、より価値のある生き方をすることによって充実した深い人生を生きるようになるからです。多くの偉人が教えてくれているように、幸福は与えられるものではなく、自分で創り出すものなのです。

調和状態は健康であり喜び…マインドフルネス調和法

2024.07.11

人は楽しみを求めて生きています。楽しみが多ければ幸せだからです。幸福な人生とは楽しみの多い人生であり、不幸な人生は苦しみの連続とも言えます。苦しみはは長く、楽しみは短い。それが人生の織りなす現実かもしれません。

生命は苦楽というリズムを奏で常に変化し続けています。私たちの身体も心も太陽も地球も自然もあらゆる生物はすべてリズムを奏で一瞬も止まっていません。しかし人間の意識は、その変化を識ることができません。(知るは意識作用としての知識。識るは意識、無意識、五感覚でものごとをとらえることを指す言葉)

苦も楽も大海の波のようなものです。生じては消え、消えては生れます。波を生じさせる海そのものになれば苦も海の一部であり、楽も海の一部と自覚できます。苦楽は一体なのです。ただ海の別表現に過ぎません。苦も楽も仮の姿なのです。そのような自覚をもたらすものが心身調和法です。これは、カバットジンシ氏のマインドフルネスを深化させた当室独自の療法です。

マインドフルネスの淵源をたどっていくと釈尊の瞑想にたどり着きます。釈尊は瞑想で何を覚知されたのでしょうか。

釈尊自らの瞬間の生命の中に、宇宙、自然、一切の生命を貫く不可思議な法・ダルマを研ぎ澄まされた思惟力と一念集中で直観されました。

「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は世界を包み込む」

アインシュタイン博士の発見を貫いた内的世界を語る名言です。現象や出来事を想像力でつなぎ、想像で広がった世界を思考で精緻化し、組み合わせ、相対性理論を完成させました。既成の知識だけでは到達できない世界を可能にさせたのは集中力で研ぎ澄まされた思惟力・想像力だったのです。それが閃き・発見を産んだのです。完全な知識に裏打ちされた思考、それを内包した想像力こそ創造の源泉です。

それらの思考法と想像力をもとにしたものが、心身調和法です。心に感じる苦しみは、もともと楽しみをもたらす生命の働きを根源にしています。同じ根底から湧き出た苦しみという一表現であり、また楽しみという別表現なのです。根源の生命に還れば苦しみは、楽しみに変ります。厳密に言えば、苦もなく楽もない世界、苦楽を産み出す純粋世界です。釈尊の覚知・叡智の光はそこまで届いていたと思われます。その悟りの働きを弟子たちはブッタ・覚者・仏と言葉で表現しました。

ブッタ・仏は人間であり、人間を超えた特別な存在ではありません。この世界のあらゆる言葉を作ったのは人間だからです。神も仏も人間がつくった抽象語です。ブッタ・仏とは誰人の生命にも内在する不可思議な世界を悟る働きであり、修行により悟った人のことを表現した言葉なのです。

だから私もあなたも修行によってはブッタ・仏と開くことが出来るのです。それは誰人の生命の中に内在する不可思議な偉大な力であり智慧であり慈悲なのです。最も身近にありながら、それが見えないのは私たちが、五感覚がもたらす欲望に染められ、心の鏡が曇ってしまっているからです。曇りや汚れを取り、偏りという不調和を調和に転換していくのが心身調和法です。

釈尊はあらゆる病を治した医王と言われています。釈尊に会った人たちが病を治せたのはなぜでしょうか。苦からどのように解放されたのでしょうか。それは釈尊が森羅万象を貫く生命現象と、その目に見えない働き・性質を貫く法を覚知され鏡に映すように、病者の生命を明らかに見たからです。

太陽が昇れば、その光で地上の闇がなくなり一切が照らし出されるようなものでした。

物質科学の物理・天文、量子力学等は、あくまで物質を貫く法則の覚知です。全ての存在物は、光であり、電気であり、波であり、粒子であると覚知されたニコラ・テスラ博士も、可視化できず分析できない心的な働きに対しては、あまり語っていません。

釈尊は自分という存在(人のかたちをした肉体と思考したり感覚したり心を持つ不思議な存在)を通して、壮絶な禅定・三昧(瞑想)を繰り返され、分析知の及ばない心の働きを言葉を超え、ありのままの世界の働きそのものになりきったのです。(比ゆ的に言えば、波長と振動、周波数の重ね合いのようなものが起きたといえます)

偉大な科学者や哲学者や芸術家たちが、かいま見た宇宙の諸現象を現象たらしめている見えないが確かに存在する不思議な法。その全体を直観智されたといわれる釈尊の世界…生命と生命が共鳴・合奏したかのような世界に周波数をあわせることで、あらゆる生物や人も安穏安心、喜びのリズムを奏でてゆきます。その接近法の一つが心身調和法です。

 

「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」(シュレディンガー、20世紀の物理学者、波動力学を提唱、ノーベル物理学賞受賞)

 

ひきこもり・長期不登校から蘇る道ーそれは心に内在する安心空間に気づくこと

2024.07.05

「私の目的は、個々の人が、自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい」

ニコラテスラ(20世紀の物理学者・詩人)の名言です。

前回のブログで、引きこもり・長期不登校は、家という安心空間への回避であり巣ごもり状態と述べました。今回は、引きこもり・不登校の原因と蘇生・再生の道ついて考察します。

会社や学校で嫌な出来事に遭っても、それに対する反応は人それぞれです。みんなが、そこから回避するわけではありません。では、引きこもりや不登校者は、なぜ家という安心空間に回避したのでしょうか。その原因と蘇生の道について述べます。

一つは、本人の脆弱性の問題です。これは人として生きる総合的な力を指します。どんな困難、嫌なこと、辛いことがあっても立ち向かい乗り越えてゆく力です。いわゆる逞しさであり忍耐力であり挑戦する力です。こうした力がないと、変化し想定外のことが起きる世界では生きてゆけなくなります。ひきこもり・不登校者には、概してこの力が不足しています。身に付いていないといったほうがよいかもしれません。

この力は総合的な教育で培われる力です。ここでいう教育は学校教育という皮相的なものを指しているのではありません。かつて幼くして山に捨てられ、狼に育てられた二人の少女は、人間に発見された後、牧師に育てられましたが、人間の生き方ができず、下の少女は、数年後に亡くなりました。上の子は比較的長く生きましたが17歳で亡くなったそうです。上の子が身につけた言語は単語表現であり、100語以下だったそうです。

人間は人間らしい人間に育てられて人間になってゆきます。自己中心的な人間に育てられれば、養育者の言動や振る舞いは毛穴から入り、心身に染み込み、模倣するようになり、やがて同じような人間になってゆきます。

二つ目は、人間関係力、人間集団適応力、自己表現力(コミュニケーション力)の不足です。人に不安や恐怖を抱いたり、警戒心が強かったり、不信感を抱いたり、人の視線を過剰に気にしたりして、人とうまく関われなくなっています。これは本人の素質や過去の心的外傷体験とも関係しています。

三つ目は心的外傷体験の程度と、それが癒されていないことです。傷つきの程度は、主観による絶対的感覚です。他とは比較できないものです。いじめが見過ごされるのは、本人の主観的体験を周囲の大人が共感できないからです。他者の傷つきに共感できる力こそ想像力です。想像力を使って、傷ついた人の体験を疑似体験することで共感できるようになります。相手を外側から見るだけでは、すれ違ったままになります。知識をもとにした想像力の発動は、優れた人間性の一面です。現在の大人にはこの能力が不足しています。結果子どもは、「わたしのことはだれも分かってくれない」と寂しくつぶやき、個室にひきこもるようになります。

四つ目は、本人の生来的な素因によります。生まれながらの心身の疾患です。

五つ目は、人間に対する知識、人生の目的や意味、学ぶ意味、幸福とは何か、社会や自然に対する正しい知識などの有無です。ものごとのとらえ方や認知の偏りや低い価値観にとらわれ、欲望や感情抑制の方法を知らないなど、人間に対する無知、部分にとらわれて全体を見ない思考法が根底にあります。

六つ目は家庭環境(過保護、過干渉、虐待、放任など)がもたらした生きる力の不調和偏向(バランスの悪さ)と社会環境です。家庭や社会が与える情報や常識や便利さなどが教育の役割を担い大きな影響を子どもに与え続けます。ある意味、これが一番の要因かもしれません。

これらの要因は相互に関連しあって、回避の方向へ本人を向かわせ、この解決ができないと長く長くひきこもりを続けてくようになります。

 

こうした本質的な要因の把握なしに学校・社会復帰させようとして、関係機関に相談し、子どもだけをなんとかしようとする無駄を繰り返しているのが現状です。的を外した対処に改善はありません。逆に悪化させ、ひきこもり・不登校を長期化させることになってしまいます。

親も子どももともに人間としての新たな学びが必要になります。昔から、子育ては、親育てといわれたように、子どもの成長と親の人間的成長は同時に進みます。親が成長した分、子どもも確実に成長してゆきます。

「学べば学ぶほど、私は何も知らないことがわかる。自分が無知であると知れば知るほど

より一層 学びたくなる」(アインシュタイン)

当室では、人体の神秘を知る、心の不思議を知る、身体と心の相関性を知る、自然を知る、宇宙を知る、社会を知る、人生を知ることを学びます。

具体的には認知行動療法による行動活性化や認知の再構成、自他尊重の自己表現力の向上(アサーション)、マインドフルネス調和法(心身の統一・自己肯定・安心)を身につけながら、正しい知識と智慧の獲得を目指します。智慧とは生きる最善の対処法です。どんな環境下にあっても自分に負けず、開拓できる心の力、それが智慧です。

最終目標は、人として「一隅を照らす」生き方ができるようになることです。その言葉は、中村哲医師の生き方の指針でした。

アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされた中村哲医師のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らを省みず献身する母親もその一部)の一人だと思います。このような真の利他の振る舞いをする大人が増えれば、その国の民も心が潤い、自然や国土も潤い、災害も減少していくでしょう。

 

※中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」日本天台宗開祖最澄の言葉。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」

 

 

 

あなたの慈悲心は、あなたの人生を深め、真の安穏をもたらし、地球に平和をもたらします。

2024.06.26

先日、小学校五年生と面談しました。「地球の温暖化が心配です、地球の未来はどうなるのでしょうか?」「地球の破滅を防ぐ方法はありますか?」など、真剣に地球の未来を思う質問に感動しました。

私は次のように答えました。

「あなたの慈悲心が、地球の未来を救います」と…。

慈悲とは、苦しみに共感し苦しみを抜き、楽しみを与える行為です。命あるものを守り、育み、慈しむ心、それが慈悲です。

比喩的に表現するなら、太陽は慈悲の体現者であり、地球もそうですし、自然や植物もそうです。幼子の病を寝食を忘れ看病する母親も慈悲心の表れです。どんな生物や人にも慈悲心は内在しています。

慈悲こそ命あるものの本来の調和した美しい働きです。慈悲心で地球も宇宙もあらゆる生物も生きることができています。慈悲は産み出し創造する源泉です。私たちは慈悲心に守られ支えられて生きています。しかし、そんなことに気づく人は稀です。

無慈悲はその対極にある行為です。自己中心性に潜む魔性であり、破壊の働きです。命あるものは、この魔性・破壊心と慈悲心を併せ持っています。自己中心性を克服しなければ慈悲心は発動しません。

私たちの生命を慈悲心が支配するのか、魔性の破壊心が支配するのか、生命は常に闘っています。これが宇宙の真実の姿です。正義が勝利するとは限りません。歴史は残念ながら、破壊心の勝利で綴られています。一部の権力者の自己中心性に巣くう魔性の破壊心、殺行為が人類の歴史です。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」です。野蛮な武力による暴力支配でも勝てば、その世界の正義になります。生命の魔性は思想も常識もすべてを支配下に置き、思うがままに生きようとします。

日本の神風思想、ナチスの思想、帝国主義時代の侵略思想など、すべてが魔性に操られた思想です。その魔的な思想に、どれだけ多くの尊い命が奪われたことでしょう。この魔性は権力者に最も入り込み寄生するウィルスのようなものです。

地球上の人類は、「歴史は繰り返す」の言葉の通り、愚の歴史を今なお綴っています。ロシア・ウクライナ戦争、ガザ地区のイスラエルとハマスの破壊・殺人合戦、世界各地の紛争、経済戦争など…。経済戦争の被害者は数億に達し、今この瞬間も餓えや渇水や感染症に苦しんでいます。

これらの破壊性・生命に潜む魔性に対抗できるものこそ、私たち一人一人の命に内在する慈悲の心です。その慈悲心を勇気で沸き立たせるしかありません。それには自己中心性に伴う快感や快適さを乗り越え、苦を伴う闘いが求められます。慈悲の体現者が増えれば、人の心も豊かになり、地球も潤っていきます。

芝蘭の友より

地球は人間の所有物ではありません…その身勝手な思想が地球を破滅に導いています

2024.06.24

地球は人間が自由にあつすってよいものではありません。少し考えれば誰にもわかることです。地球は生きています。私たちと同じように…。地球は地球自身のものであり、自分らしく役割を演じて生きています。生きとして生けるものすべてが、生まれ、そして自分の役割を演じ、生を終えていきます。地球も生物も人も…。

地球の活動は慈悲そのものです。慈悲とは苦しみを抜き楽しみを与える働きです。地球上のあらゆる生物の苦しみを和らげ、楽しみを与えゆく愛の体現者、それが地球です。あらゆる生物は、地球の慈悲に呼吸を合わせ生きようとしているように思えます。

地球が動いているおかげで、私たちは生きることができています。当たり前のことではなく、とても不思議な地球の役割演技の恩恵の賜物なのです。

地球上には大気圏があり、宇宙空間からくる電磁波などから守られています。地上の生物や動物や人が生きていけるのは、地表近くに酸素がほどよく存在し、地上に海があり、人間の血管のように河川があり、血液が流れるように水が流れているからです。

地球の自公転や水が生物の生を保させています。私たち人間は、普段当たり前のこととしてそれらの恩恵を享受しています。

地球の働きを感じるのは、地震や気温の急激な上昇や線条降水帯発生などの時ぐらいでしょうか。そんなときも、地球そのものについて深く考えることはせず、自分たちが生き延びることしか考えていません。どこまでも自己中心的な欲望に生きているのが人間です。

地球の兄弟星、火星や月には酸素がほとんどありません。金星は温室効果ガスの影響て表面温度が460度の灼熱の惑星です。美しい輪を持つ土星の輪は、氷の粒と岩石の集まりです。太陽系では地球だけが生物が住める不思議な惑星です。

太陽からの距離が絶妙な位置にあるため、地球上では生物が生きていけます。太陽が光を程よく調和するかのように、可視光線、赤外線、紫外線などを届けてくれています…。太陽の光のおかげで、暗闇の宇宙に光が灯され、私たちはものを見ることが出来ます。絶妙な気圧のおかげで振動をキャッチし音や声を聞くことが出来ています。私たち生物は、とても不思議な働きに守られています。

地上の生物は、無料で地球に棲んでいます。人間は、地上のあらゆるものを勝手に使い、加工し破壊しています。地球全体の働きを考えず、自分の利益になる部分を切り刻み、自分たちの生を保とうとしています。

森林伐採と砂漠化、工場が出す煤煙と汚染水で海や川が汚れ、多くの生物が死滅しています。二酸化炭素の排出と気候の温暖化、食用のために動植物の殺、養殖。鳥瞰的客観的な目で見れば、人間のしていることの恐ろしさに唖然とするのではないでしょうか。

地球が生命ある存在ということを知らないようです。地球は傷つき、血を流しているのがみえないのでしょうか。科学が進歩し、物理天文学も日進月歩しています。何のための科学の進歩なのでしょうか。

気候変動、地震や自然災害、地球はSOSを出しています。しかし、そのサインをだれも読み取ろうとしていません。真の科学者はいますが、多くの自己愛者に消されているかのようです。

地球上の生物の90%は植物です。地球の主人公は植物ともいえます。地球は植物の惑星です。

残りの10%が動物・昆虫・微生物などです。動物の中でも人はごく微小で、人一人に対して、ありは一万五千匹の比率です。地球の動物の主役は昆虫です。

生物、特に動物は弱肉強食の本能の法則で生きています。最も限度を知らない自分勝手な動物が人です。少しばかり、脳が発達し、道具を開発し、言葉を持ち、記憶化した知識で、地球を支配するかのような錯覚に生きています。その錯覚がやがて地球を荒廃させ、生物が住めない惑星にしてしまうでしょう。

誰のものでもない地球、地球は地球自身のものです。「ここの土地は自分のものだ」と言い張り、人を平気で押しのけ殺す人たち…その極致が戦争です。戦争は自己中心性のもつ魔性の仕業です。

宇宙に浮かぶ地球を想像することができれば、地上の生物や人はみな地球号に乗った運命共同体と自覚できます。無知な自己中心的な政治家や権力者や富豪たちが、やがて地球を破滅させてゆくでしょう。

未来の地球に生きる人たち、今の子どもたち、他の生物、動物を思うと涙があふれてきます。

芝蘭の友より

 人はまず好き嫌いで評価します。感覚重視の生き方では幸福になれません。 

2024.06.21

日本は世界でも有数な安全平和社会であり物質的に豊かな便利社会です。それなのに、なぜ社会不安障害、適応障害、うつ、ひきこもり・不登校などの心の不調者が増加するのでしょうか。

物質的豊かさの追求とその享受、便利社会とその恩恵に反比例しているのが、心の豊かさの喪失です。つまり、心はますます貧しく、乏しく脆弱になっていきます。

 

人は生きるため快適さを欲し、安全を求めます。これはあらゆる生物、動物の持つ本能です。人も動物の一種です。本能とは本来的に持つ神経の働きです。1万メートルの上空をすいすい飛ぶ鳥、神業と言えます。また水圧に抗して生きる深海魚、やはり神秘としかいいようがありません。

人も、どんな動物にも負けていない不思議な本来的な生き抜く身体を持っています。

一例をあげれば、人は生き抜くために、空腹を感じる働きをもっています。空腹感がなければ、人は食べることをしなくなるでしょう。また舌の味覚がうまさを感じなければ、食べものを求めなくなるかもしれません。空腹も味覚も人に具わっている不思議な生き抜くための働きなのです。

人が他の動物と異なるのは、二本足で歩行ができ、手が使えること、大脳皮質が発達し言葉が使え、記憶をもとに思考できる働きをもっていることです。

人は生きるために不快を避けます。恐怖を避け安心を求めます。つまり好きか嫌いかという感覚が生きるために一番に反応します。それは人間の行動原理の第一法則です。誰人も、この法則に則って生きています。

今の苦しみや楽しみは、人の五感(目・耳・舌・鼻・身)に発した生きるための欲求の結果です。自らの欲求を知り、その調律の仕方を知ることが心の不調を改善する要諦になります。自らの心を明るい鏡に映せばわかるようになります。

人の生き抜くため行動に潜む「癡・おろか」さについて述べてみましょう。

痴…おろかとも表記します。ものごと、人間、自然の法、因果や道理がわからず、目先の感覚的欲求に抗しきれなく行動する心的状態です。

「飛んで火に入る夏の虫」暗闇の光を求め、火に入り、焼け死んでいく虫たち。このようなことは人間社会にもたくさんあります。お金のために大事なものを失うのも愚かさ、好きなものを食べ過ぎたり、飲み過ぎたりして病気になるのも愚かさ、専門家に騙されるのも愚かさ、人を傷つけることも、殺し合うのも愚かさが原因です。すべて生き抜くために自分を守るための行動が発端になっています。

病気の多くは、正しい知識の不足、道理や因果が分からないことから生じています。正しい知識や情報を身につけることが病気を予防します。「知は力なり」は真実を穿(うが)っています。

病の治療を重視する日本の医療界、既に後手に回っています。真の文明国は、病気にならないための予防に重点を置き、健康維持に先手を打ちます。

世の中、偽りの情報、利己的金儲けのための巧みな情報、偽善に満ちています。無知な人たちをだます似非専門家たち。視覚情報に弱い人間心理につけ込むコマーシャルやユーチューブ動画など。見抜くのは大変なことです。甘言で人の保身を増長しています。

この愚かさの病・痴病が現代人を覆っていると言えます。国民に本当の学びが少なく、表面的な浅い思想につかりきっているように思えます。拝金思想、刹那主義、コンビニ信者が文明国を席巻しているようです。

仮初(かりそめ)の平和に守られ、便利さに忍耐心を失い、人々は自らの生をよりよく保とうと快適情報にますます依存し、生きる力を弱め、脆弱性(ぜいじゃくせい)を強めています。

その結果、心の病はますます増産されていきます。生きること、身を守ることに潜む愚かさが原因と気づかずに…。それを乗り越える方法は、まず正しい知識を身につけ、正しい情報を見抜く智慧を培うことから始まります。

芝蘭の便り

 

 

 

 

 

不登校・ひきこもりは安心空間への巣ごもりです。

2024.06.13

学校や職場に安心した場がなくなると、人は自然に安心した空間に戻ります。それは巣であり、今のこどもにとっては家になります。それは動物・人の本能だからです。

一度不登校状態になった児童生徒は、所属する学級に戻ることが難しくなります。小学校の低学年であれば、学級に戻ることに対しては、そんなに困難は伴いませんが、小学校の高学年から中学校の全期間・思春期の時期の再登校が一番困難になります。

それは思春期特有の心身の不安定さや自意識・他者意識の過剰性も関係していますが、より本質的原因は人間がもつ生きること、つまり安全に身を保つということに起因しています。

これは、小中高生だけの問題ではなく、短大、専門学校、大学生、ひいては社会人の引きこもりも根本的には同じです。当芝蘭の室には、小学生から、30代の引きこもり者まで、多くの社会回避のひきこもり者が訪れます。その中から見える特徴を中心に述べてみます。

ある人は、小学校の低学年から中学校の全期間不登校になり、そのまま引きこもったまま20歳の成人となり、社会復帰を決意して当室を訪れました。

また中学生は男女を問わず、一度不登校状態に陥ったら、中学三年の進路の時期まで不登校が続く生徒が大半です。進路先決定の時期になると、将来に向き合わされ学校の特別教室などに出向き、進路先を決定します。そして、通信制の高校に進んだりしますが、そこでも困難を感じる生徒は少なくありません。なぜなら本人の根本的課題が解決できていないからです。

 

不登校、引きこもり者は、安全空間に籠る、つまり動物でいう巣ごもり活動に似ています。子どもは籠っている間、身体は成長しますが、心の発達は止まりがちになります。心の成長が止まった分、社会復帰・学校復帰がますます困難になっていきます。特に人間関係、人間集団の中で生きる能力の成長が止まりがちになります。結果、対人不安症傾向を呈してしまいます。

今から65年前の戦後のベビーブームの頃は病気以外の不登校は社会にいませんでした。まれに親の手伝いをさせられたり、子だくさんで、子どもの世話を手伝わされたりの理由で学校に行かせてもらえない子がいたくらいです。

今のように学校を休んでも家に居場所や安心して籠れる空間がなかったのです。逆に学校の方が安全で面白かったのです。

現在は、多くの家には個室という子どもの籠る安全な場所があります。籠っても食事はついています。テレビもあるし、漫画もスマホもあります。子どもにとって最もおもしろいゲームやユーチューブにも触れられます。最高に安全で、快適でおもしろい場、それが現在の多くの家なのです。

嫌なこと、脅威を感じる学校、おもしろくないところには足が向かないのは当然なことです。

将来を考えず、その日ぐらしに生きる多くの不登校者は、家こそ最高に安全快適な場所であり、学校は脅威に満ちた場なのです。中学卒業後の進路が頭を掠めることがありますが、先のこととして考えないようにし、今をごまかすように生きて大事なことを忘れようとします。

ですから、学校、勉強、将来のことに触れられると、不快と恐怖を覚え、怒り出したりします。立ち向かわなくてはいけない学校という脅威から逃げている自分を感じているからです。

 

そもそも不登校のきっかけになった出来事は、嫌な出来事、脅威に感じる出来事、不快を感じること(学級・学校内で起きた人間関係や失敗など心理的傷つき体験)の多さなどが考えられます。その結果、学校に行くという闘いをやめ、身を安全に守るため家に回避・逃走するように自室に籠ります。

一度、家の快適さを味わうと、あえて不快や脅威を感じる不安の場・学校には行けなくなります。人間も動物種の一種であり、身を守ることを第一に優先する生き物だからです。

 

心の苦しさは、どうすれば解放できますか…

2024.06.05

心の苦しみの多くは対象に執着する心の強さから起きています。執着対象を明らかに見きわめきれば 苦しみを解き放つことができます。

苦しみは六識(五つの感覚と意識)が対象としているものとの関係で生まれます。例えば麻酔を打たれて意識がなくなれば苦しみも痛みも感じません。しかし脳・神経活動がなければ、痛みも感じないかわりに楽しみも感じなくなり、すべての感覚反応がなくなります。結果として心身は痛みを感じなくなり、故障部分に気づかなくなり、その部分は悪化してゆき、やがて死に至ります。つまり痛みや苦しみは生きていく上で大事な働きをしているのです。

痛みや苦しみは、今をよりよく生きることを教えてくれる先生のような働きをしています。健康へのメッセーンジャーなのです。そのメッセージ―を、どのように読み解くかが苦しみから解放の鍵になります。

さて今回は、苦しみをもたらす自己執着、動物的生物がもつ保身(心身を保つ)という視点から考察してみます。

例えば、車の運転をしているとします。前から対向車線を越えて飛び込んでくる車に対して、運転者の私たちは、自分を守るために、とっさにハンドルを切ります。瞬間的に、隣や後部座席の同乗者のことは意識できません。人間は瞬間的に、自分を守るように心も体も、意識も無意識もすべて自我執着(自分を守る・保身)の働きをします。

生きるとは、自分の身を守ることと言えます。地上の動物は身を守るため、生を維持するために生きます。自分が生きることが最重要であり自己中心の動きをします。それが弱肉強食の法則です。

人間世界にも弱肉強食はあります。他者より強い立場になれば、楽に身を守ることが可能になります。そのため地位やお金や財宝を人よりたくさん得ようとします。また名声、人気を得ることで集団の中で優位に立とうとします。善悪は別にして、根底には弱肉強食本能が潜んでいます。

動物種である人間は、知識を使って、道具や機械、武器、戦闘機などを作り、弱い存在(人、動物、植物など)を殺しています。ですから、いじめは人が存在する限り発生します。なぜなら弱肉強食本能を生まれながら持っているからです。

太宰治は、この人間の自己中心性を誰よりも鮮烈に見抜き、そして絶望していたと思われます。

人は脳が発達しているため、地上で最も性質の悪い生物にもなります。この思想(本来的に身に具わった生き方=本能)は苦しみをもたらす大きな要因の一つになっています。こうした生命の働きをありのまま知ることが賢者や聖者の道でした。

 

大脳皮質部が発達し思考することができ、想像力を使える優れた人たちは、自然や宇宙や社会の中に法を発見しました。保身という動物的な自己中心性を超える生き方を見出したのです。彼らは、人の優れた生き方を探究するため世俗の執着から離れ、自己中心性と闘い生きる道を探究しました。歴史上、心の優れた人たちが、その道を究めたと言われています。

代表的な人を一部紹介します。釈尊、竜樹、天親、鳩摩羅什、イエスキリスト、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、老子、孔子、天台、最澄、日蓮、ダビンチ、ニュートン、ゲーテ、トルストイ、ユング、ヘレンケラー、ナイチンゲール、ガンジー、キング、野口英世、宮沢賢治、ニコラテスラ、アインシュタインなどなど…。彼らは人間の保身、自己中心性に潜む悪・魔性を見つめ、それを昇華させる法を自然や物理や量子や光や人間の深層心などから探究し、その一部を発見しました。

その道は自己中心的な道とは逆な方向、自分を育むように他の生命を育み守るという利他の道であり、痛みや辛さをともなう生き方です。自己中心性を本来的に持つ人にとっては、心の闘いが求められる厳しい生き方になっています。

人道を修めるための訓練であり修行といえます。その訓練という実践の中で苦しみの原因である執着は自然に溶けてゆき、苦は消滅していくのです。

釈尊は、人間の生きる道、人間生命の根本的法則の発見者と言われています。彼は人間の保身を調和させ、自己中心性と自分を取り巻く生物を利する道を慈悲という働きの中で調和融合させました。つまり、自己中心的自我と利他的自我の調和の道を見出したのです。全ての生物は等しく平等に、慈悲の働きに支えられて生きているという共生共存の本然的調和の姿を目指しました。

そして、その生き方の中にこそ、深い充実があり、喜びあり、人間道の完成があると彼は悟り、弟子たちに、その道を歩むことを勧めたのです。

マインドフルネス安穏法の究極の目的は、その生き方を目指しています。そこにこそ人生の真の安穏があるからです。

人間は過去の記憶という自動思考に生き思考停止し、今という豊かな瞬間を見過ごしています

2024.06.01

人の心の闇は破壊をもたらし、心の光は闇を照らし生命を輝かせます。

釈尊はそうした、人間の心の持つ闇や光を煩悩(五つの感覚器官が感じる快楽と苦)から生起すると分析し、その不調和・濁りが病の状態をもたらすと考察しました。

煩悩とは動物・人間が生きる上で本来的に持つ能力・働きです。その根本は快楽原則が基本になっています。一例ですが、空腹感がなければ食べることをしません。食べておいしいと感じる快感がなく、逆に不快を感じるようになれば食べなくなるでしょう。そうすれば死に至るかもしれません。食べるという本能的行為に快感がともなうのは、私たちはかんがえたこともありませんが、生命を支える不思議な慈悲の働きの一つなのです。

生きるための欲望(働き)が煩悩といえます。煩悩には明暗があります。例えば、煩悩が濁れば血液も濁り、万病の原因になります。煩悩が浄化され調和されれば、血行もよくなり、血液も淀みなく流れます。一例をあげれば怒りという煩悩は緊張をもたらし、血管を収縮させ血管を傷つけたりします。

煩悩の偏りや対象への執着や抑制できない欲望の噴出が生命を濁らせ、その濁りが本来持っている清らかな生命の働きを阻み、濁らせた結果が病の状態であると釈尊は洞察しました。

部分観に陥った修行者は、煩悩の滅失をはかり、断食、断眠、断苦等の修行を貫き、餓死した修行者もいました。餓死した修行者は解脱・涅槃(心身の苦から解放され、清らかな安らかな生命を得た)に至ったとされ渇仰されたと言います。釈尊もそうした修行を実践し、何十日も断食を実行し瞑想していた時期があったと言われています。苦行の果てに辿りついた釈尊の悟りは、煩悩は断じるものではなく、明らかに見て、調整し、それを活かすことであると悟ったのです。

最新の科学、特に量子力学等が後追いするかのように、釈尊の法の卓越した科学性を証明しています。釈尊の法も科学も現象に即して、現象を貫く因果や性質を洞察しました。

科学は、光や電磁波や物質の性質や働き(法)を発見し、人間社会に福利をもたらしました。この世界・宇宙はもともと、だれがつくったものでもなくもともと存在し、法に則り自ら創作し自ら演じています(ニコラテスラ・アインシュタイン、釈尊たちの覚知)。その法の一部一部を発見(悟る)したのが、諸科学といえます。釈尊は部分の発見・悟りではなく全体を覚知・発見した人なのです。

生命そのものを覚知された釈尊に、病の原因も治療法も太陽の光が闇を明るくするように、すべて明らかになりました。釈尊の覚知された法は、教えとして、八万宝蔵とも言われ、各時代の人師によって伝持されてゆきます。

時代の変化の中で、釈尊の教え(仏教)は玉石混交となり、何が正知識か正法か分からくなったのも事実です。その法や知識の見分けは、実践者の人間性・人格が最終的な判断になります。なぜなら、釈尊は人間の生き方、真の幸福道(無上菩提を修行の目的としていた)、つまり人格の完成、最高の人間性の成就でした。そしてそれは、人の振る舞いで表現されると断言されたのです。正法は、人を通して、正しい知識となり、正しい振る舞いとなり、心の優秀さとなって表現されます。その観点から見れば、今も昔も偽善者だらけといえます。