「私の目的は、個々の人が、自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい」
ニコラ テスラ (20世紀の物理学者・詩人)の名言です。
人間にとって大事なことは何があっても、どんな環境にあっても、それらに適応する力を持ち自立して生きる力を持つことです。
めまぐるしく変化する社会に大人も子どもも適応することに困難を感じています。それが、社会不安障害、うつ、適応障害、ひきこもり・不登校という心の不調を増産しています。
科学技術の急速な発達により、便利、物質的豊かさは年々加速し、人間の忍耐力や思考力を脆弱化しています。人は全てのことを当たり前と思い、科学技術に盲信し、いつしか驕りという毒を飲まされ、自分の外にあるものに感謝の念が持てなくなり、素直な純粋な心を失い、今の瞬間の生の有り難さを享受できなくなっています。
スマホ・パソコン、テレビなどの電磁気製品の普及に人間の心身、脳は適応できず、人は心身のバランスを崩していることに気づいていません。見える情報、聞こえる情報に、いしつか操作され、思考力や想像力、忍耐力を培う場を失っています。
想像力と忍耐力の不足は人間関係を難しくします。
引きこもり・不登校は、環境適応できず、社会から逃走し、家という安心空間への回避した状態です。
会社や学校で嫌な出来事に遭っても、それに対する反応は人それぞれです。みんなが、そこから回避するわけではありません。では、引きこもりや不登校者は、なぜ家という安心空間に回避したのでしょうか。その原因について考察してみます。
一つは、個の脆弱性の問題です。これは人として生きる総合的な力を指します。どんな困難、嫌なこと、辛いことがあっても立ち向かい乗り越えてゆく力です。いわゆる逞しさであり忍耐力であり挑戦する力です。こうした力がないと、変化し想定外のことが起きる世界では生きてゆけなくなります。ひきこもり・不登校者には、概してこの力が不足しています。身に付いていないといったほうがよいかもしれません。
この力は総合的な教育で培われる力です。ここでいう教育は学校教育という皮相的なものを指しているのではありません。かつて幼くして山に捨てられ、狼に育てられた二人の少女は、人間に発見された後、牧師に育てられましたが、人間の生き方ができず、下の少女は、数年後に亡くなりました。上の子は比較的長く生きましたが17歳で亡くなったそうです。上の子が身につけた言語は単語表現であり、100語以下だったそうです。
人間は人間らしい人間に育てられて人間になってゆきます。自己中心的な人間に育てられれば、養育者の言動や振る舞いは毛穴から入り、心身に染み込み、模倣するようになり、やがて同じような人間になってゆきます。
二つ目は、人間関係力、人間集団適応力、自己表現力(コミュニケーション力)の問題です。人に不安や恐怖を抱いたり、警戒心が強かったり、不信感を抱いたり、人の視線を過剰に気にしたりして、人とうまく関われなくなっています。これは本人の素質や過去の心的外傷体験とも関係しています。
三つ目は意識できないストレス蓄積でです。ストレスは主観による絶対的感覚です。他とは比較できないものです。いじめが見過ごされるのは、本人の主観的体験を周囲の大人が共感できないからです。他者の傷つきに共感できる力こそ想像力です。想像力を使って、傷ついた人の体験を疑似体験することで共感できるようになります。相手を外側から見るだけでは、すれ違ったままになります。知識をもとにした想像力の発動は、優れた人間性の一面です。現在の大人にはこの能力が不足しています。結果子どもは、「わたしのことはだれも分かってくれない」と寂しくつぶやき、個室にひきこもるようになります。
四つ目は、人間に対する知識、人生の目的や意味、学ぶ意味、幸福とは何か、社会や自然に対する正しい知識などの有無です。ものごとのとらえ方や認知の偏りや低い価値観にとらわれ、欲望や感情抑制の方法を知らないなど、人間に対する無知、部分にとらわれて全体を見ない思考法が根底にあります。
五つ目は家庭環境(過保護、過干渉、虐待、放任など)がもたらした生きる力の不調和偏向(バランスの悪さ)と社会環境です。家庭や社会が与える情報や常識や便利さなどが教育の役割を担い大きな影響を子どもに与え続けます。ある意味、これが一番の要因かもしれません。
六つ目は、感覚情報の氾濫による脳の汚染現象です。スマホ、パソコン、テレビから流れる過剰な刺激の強い視覚・聴覚情報は感覚を狂わせ、正常なホメオスタシスを壊していきます。そして疲労し病的な状態を創産み出しますが、人はこれを意識できてません。この疲労は、不安となり、不登校・ひきこもり大きな原因をつくり出しています。
これらの要因は相互に関連しあって、回避の方向へ本人を向かわせ、この解決ができないと長く長くひきこもりを続けてくようになります。
こうした本質的な要因の把握なしに学校・社会復帰させようとして、関係機関に相談し、子どもだけをなんとかしようとする無駄を繰り返しているのが現状です。的を外した対処に改善はありません。逆に悪化させ、ひきこもり・不登校を長期化させることになってしまいます。
親も子どももともに人間としての新たな学びが必要になります。昔から、子育ては、親育てといわれたように、子どもの成長と親の人間的成長は同時に進みます。親が成長した分、子どもも確実に成長してゆきます。
「学べば学ぶほど、私は何も知らないことがわかる。自分が無知であると知れば知るほど
より一層 学びたくなる」(アインシュタイン)
当室では、心理教育を重視し、人体、心を知る、身体と心の相関性を知る、自然や宇宙と人間の関係を知る、社会を知る、人生を知ることを学びます。
具体的には認知行動療法による行動活性化や認知の再構成、自他尊重の自己表現力の向上(アサーション)、マインドフルネス調和法(心身の統一・自己肯定・安心)を身につけながら、正しい知識と智慧の獲得を目指します。智慧とは生きる最善の対処法です。どんな環境下にあっても自分に負けず、開拓できる心の力、それが智慧です。
最終目標は、人として「一隅を照らす」生き方ができるようになることです。その言葉は、中村哲医師の生き方の指針でした。
アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされた中村哲医師のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らを省みず献身する母親もその一部)の一人だと思います。このような真の利他の振る舞いをする大人が増えれば、その国の民も心が潤い、自然や国土も潤い、災害も減少していくでしょう。
※中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」日本天台宗開祖最澄の言葉。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」
痛みや苦しみは心身の不調和から発するメッセージです。
執着は神経の過剰疲労を招き細胞を壊します
思考や感情の偏りはバランスを崩します
心身の調和が乱れきった時、苦や痛みは限界を超え、心身は病んでしまいます。
しかし人は、その原因を見ようとせず、目に見える痛みの原因を除去しようとします
結果、病は増幅し本質的な解決に至ることが難しくなります
木を見て森を見ず
森に入れば目の前の木しか見えません。これは人間の本能的感覚の現実であり、限界です。森全体を見
ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たち人間は、見えたり耳に聞こえたりする五感覚
で感知できるごく一部を見て行動し、わかったつもりになり、全体を見ることをしていません。物事の
全体を見るためには想像力を働かさなければいけません。
最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本義もわからずやっている人がほとんどです。真の瞑想は想像
力を磨く修行なのです。想像力と思考を磨き本来の自己と宇宙的自己に冥合することが、ブッタ(覚者)の
瞑想でした。
「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ」
アインシュタインの名言です。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は光彩を放っています。
今から述べる事柄は、感覚では理解できません。想像力を働かせれば見えてくる世界です。
地球は月という兄弟衛星を伴い瞬時も休まず動き変化し 太陽系の中で絶妙な調和を保っています。
その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営ん
でいます。
私たち人間の身体はリズムを奏でるように呼吸し心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで
巡っています。
食べたものは口内で咀嚼され、食道を経て十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素
によって消化が進み小腸で、各血管を通じて各臓器に栄養となって運ばれます。さらに大腸で数十兆の
大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたも
のは約7メートルの消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、人間が生きるためのエネルギーになりま
す。腎臓は一分間で一リットルの血液を浄化し生を守ります。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり
約100の加工的な働きをしながら人体を守り動かしています。
ホルモンは炎症を抑えたり、体や臓器の調和をはかり、身体の恒常性を作ってくれています。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚で身体を守ってくれています。
リンパ管やリンパ節は外敵から身を守るため、免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守りま
す。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節てくれています。
皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の最近、ウィルスから守り、その総重量は10㌔を超えています。人
間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美
男などと私たちは錯覚しています。
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で外部世界と交渉していますが、それは身体の働
きの100分の一以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識ることがではないのが人間の本来的な働き
なのです。
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞も
なく、動き変化し、数十兆の細胞を新陳代謝させ絶妙な調和を保っています。不思議であり神秘です。
神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。もともと神経とは「神の通り
経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。
例えば、体のほんの一部の歯の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが人の身体の現実ですが、そ
れは人の身体全体から見れば微小なことに過ぎません。
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。
生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。
現代人の多くは視聴・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、
精神の死を招き変化への適応力を失っています
それが様々な新しい心の病をつくりだしていることに誰も気づいていません
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な
不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題な
のです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。
人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っています
磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります
心も同じです
きれいな澄んだ心には すべてが正しく見えるようになります
何が幸福をもたらし 何が不幸にさせるのかを 明晰に見分けることができます…
幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です
怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると 心の波は逆流し 自他を巻き込み いたずらに消耗し やがて苦しみの海に沈んでゆきます
限度を知らない過剰な欲望は 自らを焼き焦がし 周りを燃やし 炎の波にのまれてゆきます
快楽に耽け続けると 心は淀み 濁り 善悪がわからなくなり 心の波は間延びし 思考もとまります
人に勝りたい 人より優位に立ち 人を支配したいと思い続けると 心は歪んで 素直さを失い
心の波は屈折してしまいます
人は ほどよさの感覚を失うと 調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります
幸福になる音色を奏でる人は 心が素直で 柔らかく きれいに澄んで 美しい周波を演じています
財産 社会的地位 名声 人気 才能 美貌 健康などは 幸福の一面的な要素で
束の間の喜びをもたらしてくれますが 時とともに色褪せ 壊れてゆきます
自分の外側を飾るものは 空しく時と共に風化し 最後は消えてしまいます
心の外側に求めた楽しさや喜びは 花火のようなもので 刹那的な陽炎のようなものです
ー祇園精舎の鐘の声 (注)諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の詞は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移
ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません
ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り 心の真実相が見えないからです
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識 五感 心根は時とともに輝きを増し その人の
人格を照らし不滅になります
心の底から湧き出る喜びは 永遠性を孕んだ美しい調和された波そのものです
なぜなら外側から与えられたものではなく
自分の心の底から自然に湧き出たものだからです
この喜びこそ幸福の本質を奏でる調和波なのです
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…
自分や人の心が美しいと感じた時はどんな時だったのかを 振り返ってみてください…
過去の聖人・賢人の生き方や 思想哲学や文学・芸術に学んでみましょう
不断に自己を磨き続け 内省し 浄化された自己の鏡に 真実も幸福も映し出されるでしょう
意識を磨き、研ぎ澄まされた精緻な思考の力、そして宇宙をも包む想像力を身につければ、あらゆる病
は消滅し、真の安らぎを得ることができるでしょう。
注 諸行無常…仏教で説かれた重要な思想の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は縁起によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は縁起で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と意識しているにすぎず、夢のようなものを実在していると記憶しているにすぎません。認知症になり記憶機能が失われてしまえば、自分が自分であることも分からなくなりますが生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による錯覚現象のようなものです。
この世のものは全て動いており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の発見です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明する形になっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実相を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を無限に広げることで可能になります。
沙羅双樹の花…釈迦(釈尊・ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で存在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相といいます。究極のブッタの哲理です。それを悟ることができれば永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は覚知されました。
回答
清澄な響き、そして喜びと安心に満ちた永遠性を奏でる周波数です。
宇宙のあらゆる存在は周波数でかたちが決まり、それぞれが固有の周波数を奏でています。天にも昇る喜びの周波数もあれば、地の底に閉じ込められる苦しみの周波数もあります。動物もその個に応じた周波数を出しています。人は通常は穏やかな周波数を出しています。それが人間界の特徴の一つとも言われています。
人面を持ちながら、弱い者をいじめ支配し、強いものにこびへつらう動物以下の周波数が基本になっている人もいます。人の発する周波数は言葉や外面で操作することはできません、心が澄んだ人は、他者の周波数を直感で正しく感じとり、その心を見ぬくことができます。
この質問に対して、まず比喩的に説明します。例えば光は二つの側面を持っています。それは粒子と波という二面性です。以下は私の仮説ですが、人間の心の表現としての意識は、言葉・イメージと気分感情いう二側面があります。言葉・イメージは粒子であり、気分感情は波に譬えられます。人間の意識表現としての言葉は感情・気分という波動性をもっていると推測でき、そこに人の周波数の秘密が潜在しています。
生物・人間の波動・周波数の種類は八万四千波と言われています。それを解明すれば、不可思議な周波数の問いや喜びの周波数のなぞは解けるでしょう。
この地球上、そして宇宙には生物、無生物、物質、塵などあらゆる存在、見えないが存在しているものなどが発する様々な波、光、闇波、電磁波、声、声なき声などが飛び交い無数の周波数に満ちています。
最新の量子力学などで、素粒子の世界や動きから周波数の一部は解析できている部分もありますが、ごく一部であり、ほとんどが闇の中です。あらゆる生物、物体、人間や動物も固有の周波数を出しているからです。しかもそれが固定的なものではなく、絶えず変化し、相関性の原理で生起しているのが真相だから分析できないのです。その意味では素粒子の究極の世界と似ています。
つまり宇宙の物体は周波数によってかたちができ、その周波数も刻々と変化し、相関性(縁起)で成り立っています。
あなたは、今の瞬間、あなた独自の周波数を出して生きています。しかも刻々と、対境(縁)によって変化する周波数なのです。その周波数の持ち主は、この宇宙であなたしかいません。持ち主のあなた自身、各細胞が発する周波数の組織化された総合波を瞬間にあなたの意識が感知しているに過ぎません。細胞は40数兆個あります。人間も動物も植物も地球も太陽も、みんな独自の周波数を出しています。
波動を高めるとか運気をあげるとか、周波数を合わせるとかいっても、宇宙、生命の真実相がわからないと、どこに周波数を合わせるかさえわかりません。指標なき盲目の方向は危険です。苦海行きの周波数や人をだまし(グルーミングなどの優しい言動など)苦しみを誘う周波数で満ちているのが地球世界の真実相です。心が濁っていると、見る目が曇り、真実が見抜けなくなり、偽物を本物と見てしまいます。結果、不幸な人生をさまようことになります。
見えない世界をあつかう、宗教やスピリチュアル系や思想・考え方の怖さはそこにあります。今、問題になっている宗教がそのよい例です。そもそもお金や営利の心がある人や団体には気を付けなくてはいけません。正しい思想の人は、お金や名声名誉を求めず真実の探求を第一に誠実に生きています。なぜなら真実の探求と悟りで心が喜びと充実感に満ちているからです。
周波数の解明は宇宙すべての生命現象の解明なくしては分からない難問です。生命の真実相を求めてこの地球では有史以来あらゆる聖人、賢人、物理学者、数学者、医学者、哲学者、思想家、宗教者が格闘してきました。そして到達した世界を書物や対話などで残してきました。その数は膨大であり、一生かけても探究できません。
最も生命の真実に迫った人たちは3000年前ぐらいのインドに端を発しているようです。自分のすべてをかけて生命の真実に迫ろうとしていました。世俗の欲を絶って生命の真実と格闘しました。その代表が釈迦(釈尊・ブッタとも言われている)です。
世俗の欲は、どうしても生命の濁りをもたらします。その濁りを浄化しないと、本来的清浄の自己に合致できないからです。世俗の欲とは人間が生きるための欲望です。五感覚がもたらす快不快、好き嫌い、他者支配欲や承認欲などを基本にした生きるため生命に本来的に具わっている本能であり智慧です。
生命の欲がもたらす必然的な濁りを浄化するのが釈迦をはじめとした修行者の課題でした。具体的には生きものを殺さない、肉食しない、妻帯しない、他者を傷つけたり支配したりしない、悪口を言わない、ウソをつかないなどの行為を守ることで生命の濁りを断とうとしたのです。現代人には、とても不可能な実践です。
ブッタとは、生命の覚者、宇宙の真実相の覚者と言われています。知的理解では到達できないのです。知識は生命の一部しか理解できません。ブッタの悟りは直観智であり、生命全体で識ることでした。それは心身全体をかけた実践・修行のなかで生命浄化の果てに訪れる生命の直観知なのです。
欲望に染まった生命を浄化することによって、本来の純粋な自己が発する周波数にはじめて冥合が可能になります。本来の自己つまり宇宙本来の自己の周波数は、万物を創造し育み慈しむ慈悲の音律であり波であり光なのです。慈悲の実践者にして初めて可能になります。欧米世界やイスラム世界では、その存在を神と命名し、人間世界のはるかかなたに祭り上げ、その存在の探求や思考をやめ、崇め信じることを第一義にしてしまいました。
最高の周波数に合わせて生きるためには、覚者の通った道に学び、覚者の言葉を師標として修行実践するしかありません。マインドフルネス蘇生法の周波数は、その師標に基づいた実践体得なのです。言葉では表現できない不可思議な音律がもたらす周波数です。
回答
遷延化・重症化の方の代表的な改善事例(プライバシー保護のため、属性を少しだけ変えています)
令和5年~令和6年の事例について簡潔に概要を紹介します。
1 男性20代後半 大学在学中に自殺未遂を数回経験する。卒業後就職するも、転職を繰り返し。離職、引きこもりを繰り返す。鬱と診断され、心療内科を数カ所変わるも好転せず。当室来所時 は、引きこもって既に3年になり、親に対する暴力がひどくなっていた。心理検査、心理教育、認知行動療法、対話療法による2年間の面接を経て、心の健康を取り戻し就職、社会復帰を果たした。
2 男性30代前半 大卒 一流会社在籍 うつ、双極性、うつと心療内科を四度変わるたびに診断名も変わり、薬も変わる。休職を二度繰り返し 追い詰められた状態で当室に来所。心理教育、認知行動療法、マインドフルネス蘇生法により、約一年の面接を経て、心の健康を取り戻し、前向きに人生を送っている。
3 女性30代前半 高校2年の頃から自傷行為を繰り返し、心療内科にかかる。親の過干渉、虐待傾向の心的外傷が癒えないまま、結婚。結婚後子どものことで悩みが絶えずいろんなところでカウンセリングを受けるも好転せず、当室の女専科カウンセラーの対話療法面接2年間で心が蘇生し、生活態度、子ども、夫、親に対する態度が変わり前向きに生きるようになる。
4 男性 20代後半引きこもり歴7年。専門学校卒業、3年間働くも会社の人間関係でつまずき、以後引きこもる。心理検査、心理教育、マインドフルネスによる半年の面接後、就職し社会復帰する。
5 男性30代前半 アルコール依存症の父親からの虐待を受ける。20代前半より、精神科、心療内科を転々とする。ADHD、うつ、適応障害などの診断を受け、薬は8種類服用しているが、いっこうに改善せず、他県よりホームページをみて当室に来所。心理教育、森田療法、認知行動療法による10回の面接で改善し希望を持って生きるようになる
6男性20代前半 ギャンブル依存 母親のメール相談に始まり、他県より保護者、本人来所。依存症の矯正療法を三か月受けるも好転せず。心理教育、認知行動療法による当室数回の面接で改善する。
7 男性30代前半、援助職の仕事に従事。 15年前から、戸締り確認恐怖や火元確認などの強迫観念に悩まされ、朝仕事に行くまで数時間確認行動をしてしまう。自力で森田療法を学んだり、認知行動療法を試みたがうまくいかない。令和五年の夏から、マインドフルネスの8週間集中実践講座に参加したが改善されず、当室を訪れる。マインドフルネス認知療法を実践し、数回で習得し改善した。
各種強迫観念、パニック障害、対人不安症、各種恐怖症の遷延化した人は、マインドフルネス認知療法で100%改善している。
回答
心の病が長引き遷延化している方が当室に来談しています。5年、10年と病み続け、心療内科や精神科を巡ったり、病院を変える度に診断名も変わった方も少なくなくありません。薬で改善できない方がマインドフルネス・認知行動療法を求めて来ます。
芝蘭之室のマインドフルネスは来談者の心の状態に合わせて対処します。
初級はアメリカのカバットジン氏が創成され日本に逆輸入したマインドフルネスストレス低減法です。これは日本各地のカウンセリングで実施されています。今の瞬間を評価せず、ありのままという禅の瞑想の応用展開です。評価せずありのままという瞑想は、指標がなく、自己撞着に終わる危険性もあります。症状の軽い人や予防には、集中力が高まるでしょう。
中級、上級は、芝蘭之室独自の創成でマインドフルネス健康法す。
中級は瞑想に身体学、自然学を加味させたものです。中程度の心の病の方、向きです。とらわれや偏りから心身がアンバランス状態になったものを調和させ、心をリフレッシュさせます。
上級はかなりの重症化された難治者の方が対象です。10年近く心の不調や病に苦しんだ人が実践し改善しています。この段階の方は知識や気づきだけでは自分の心的状態を変えることはできません。生命全体の覚知が求められます。つまり心の錬磨が必要になります。
人間の深い本来的心の働き、それは宇宙の慈悲と智慧の律動であり周波数です。その律動に心を合わせるとき、いかなる重症化した心の病も本来的な浄化された心に蘇ります。 生物学や物理学、自然学、音声学、詩学、量子力学等の諸学と仏法を円融させたものです。
真の瞑想とは禅定であり、心を一所に研ぎ澄ませ意識を磨き高め、瞬間の意識を超えた深い生命全体に意識を融合させることです。思想は生を支えている無意識から起きる言葉であり、経験・記憶で構成され感情を伴っています。
人生はどんな思想に生きるかで幸福不幸も決まります。人は部分観にとらわれた思想に生きているため苦しみます。真の瞑想・禅定は部分の囚われを脱し生命全体に生きる思想を産み出し心を蘇生させ、心を本来の健康状態に戻します。
そのとき、どんな重症化した心の状態も本来の健康状態に蘇ります。
回答
私も興味をもって読みましたが、現実味の薄さを感じました。書の中で、仏教の般若心教(注1)の「空即是色」や唯識思想の「阿頼耶識」(注2)、法華経の「如来寿量品」(注3))の永遠の生命についての一部説明がありましたが、いずれも各経典の表層をさらった感じです。なぜなら仏教の深意は修行なくして覚知できないものだからです。
さらに最先端の量子力学を引き合いに出して説明していますが、量子力学はあくまで物質の究極の世界の話で、心とは別問題です。筆者はゼロポイントフィールドという言葉を使って、神や仏の別表現のような仮説を述べていますが、ますます曖昧であり、あなたの言う通り、私も同感で雲のように疑問が湧き起こる次第でした。
私は、哲学、思想、心理学、物理学、宗教を50年近く学んできました。死や生命や宇宙、そして神秘な心に興味があったこともあり、法華経には特に力をいれて学んできました。
結論を言えば、生命の真実は観念や知識では理解できないとブッタは、法華経方便品で智慧第一の舎利弗(注4)を叱責したほどです。つまり生命の真理は知識で理解できるものではないということです。仏教は、釈尊の全生命をかけた壮絶な戦いの中での悟りを基に、当時の弟子たちに語ったものが伝承されたものです。当時、書はなく、釈尊の教えは弟子たちの実践体得の中で悟りを得た弟子たちによって伝承されました。その教えは八万宝蔵と言われ、膨大なものであり、釈尊一人の悟りではなく、正しい弟子たちの総結集の悟達の集まりなのです。
釈尊滅後、その教えは付法蔵といわれる正法行者によって伝承されました。なかんずく、インドの竜樹菩薩は大智度論等に「中観…生命の真実相、空観など」を体系的に究明され論じています。また天親・世親菩薩は「唯識思想」を体系化され、阿頼耶識の業思想(注5)や死後の生命について究められました。
その最後の伝承者が、中国天台宗開祖とされる天台智顗です。仏教を精査され、釈尊の教えの真意を汲み時系列、内容で体系化されました。そして、その最高峰の生命哲学を法華経の中に見出し、一念三千論として完成させました。法華経が生命の全体を悟りの境涯から説いた最高峰とされ、他の教えは人間の理解や境涯に応じて説いた方便・部分観の教えとされました。例えば、般若心経は生命のもつ智慧の不思議な働きを述べた教えです。般若はサンスクリット語であり、智慧と訳されます。智慧は生命の働きの部分です。
天台大師の教えを学ぶために、当時の日本の僧侶、最澄、空海、道元上人をはじめとした僧侶は中国の天台山まで赴き、修行されました。帰国した道元は禅を、空海は真言密教を最澄は法華経を伝え弘めました。その後、法華経は日蓮に継承されていきます。700年の歳月の中で日蓮の法華経も解釈がまちまちとなり、多岐に枝分かれし、何が真の教えかわからなくなりました。
宮沢賢治も日蓮の信奉者の一人ですが田中智学の国注会で法華経を学んだとされています。また道元の禅の教えの一部は、アメリカのカバットジン氏によって、世界にマインドフルネスとして広まり、日本にも逆輸入されています。仏教の哲学思想、つまり仏法は玉石混交となり、仏法用語は顛倒し、正しい心が失われつつあります。釈尊・ブッタは、そうした時代を末法と3000年前に予言していました。
さて本題の「死は存在しない」について私見を述べます。
これは「死とは何か」ということになります。つまり死は生の終着点であり、来世への出発の種子を秘めた重大儀式です。生老病死の四苦は人間の避けられない苦悩です。もっとも強く激しい苦は私たちが死ぬ存在であることです。死は誰人も避けられない厳然たる恐怖をもった現実です。必ず死ぬ人間は、その死と向き合い解決の道を求め、いかに生きるかに昇華させてきたのです。
それが幾多の宗教思想となり、今日に結実しています。死は厳然たる事実であり、誰人も避けられない人生最後の試練であり、解答なき難題なのです。なぜなら、今生きている人間は誰一人死んではいないからです。その意味では、あらゆる死についての考えは仮説と言えます。
釈尊は苦行の末、何を悟られたのでしょうか。その悟りの全体は法華経28品に凝縮されています。
なかんずく如来寿量品には、生死不二(仏法には不二の説明がたくさんあります。不二とは二つであるが二つでないという意味です。空観がわからないと理解できません。)が説かれています。つまり生命は生と死という二つの相を本来的にもっているのです。生は法であり、死は妙です(注6)。生死の二法の生命を妙法(サンスクリットでサダルマという。ダルマは有名ですが、法という意味です。サは妙、思議できない不可思議境という意味です)覚知したのです。瞬間の生命に過去も未来も現在もすべてが包含され、その瞬間の生命がそのまま海の波の上下運動のように続くというのです。正確に言えば、続くのではなく、永遠に、今の瞬間しかないということです。
寿量とは生命の寿命が無量であること、つまり生命が永遠であることを説いています。その生命とは如来のことであり、瞬間瞬間、如如として来る生命のリズム・波動なのです。またありとあらゆる生命体、すべての物質が如来であり、仏性をもった存在と説かれています。こうした生命の真実は知識という生命の一部分の働きでは悟ることはできないとされています。修行における体得、つまり全生命という全体をかけた覚知なのです。もちろん、私も知識でしかわかっていません。修業が足りないからです。
詳しくは当室のブログや特別講座の内容などを参照されるとよいと思います。
(語注) 芝蘭の室 室長の解釈説明。
注1 般若心教の「空即是色」…正式には「魔訶般若波羅蜜多心経」のことであり、約3万字の教である。二世紀ごろの竜樹菩薩の作と言われている。生命の「空観」「縁起」を説いている。般若心教は後世、この経を300字に短縮されたとされている。空即是色、色即是空は有名であるが「空」や「縁起」という生命現象が理解できれば解読できる。
注2 唯識思想の「阿頼耶識」…生命の心性を唯識派が考察。生命とは心の働きであり、心だけがあるという見解。心を八に分け、眼識、耳識、舌識、鼻識、身識といういわゆる五感に、六番目として意識。七番目として無意識に潜在する末那識(自我執着識)八番目を心王として阿頼耶識を説く。心はすべて阿頼耶識でつくられ、蓄えられるとする。詳しくは「阿頼耶識の発見」横山紘一著を参照されるとよい。
注3 法華経の「如来寿量品」…法華経はインドの釈尊・釈迦・ブッタが約3000年前に説かれた教えであり、50年の説法の中で、晩年8年の教え。それ以前の42年の教えは、生命の部分を説いた教えであり、方便とされる。真言、禅、般若、念仏等は部分観の教えであり方便教とされた。法華経は生命全体の悟りからの教えであり、実教とされ生命の真実が説かれた。法華経は28品にまとめられ、如来寿量品第16には、釈尊の永遠の生命が説かれ、一切衆生(人間も含む)の永遠の生命も説かれている。さらに生と死は生命の二つの表現法と説かれている。
注4 舎利弗 釈尊10大弟子の一人。智慧第一とされた当時の最高級の知識と智慧の持ち主。方便品の対告衆とされた。方便品は生命の真実相の理論、十世界や十如是などが説かれている。仏の悟りは知識では覚知できないと釈尊は舎利弗を諭し、「信」より入ることを強調された。
注5 業思想 業とは衆生(人間)が言葉、心、行動でつくるものの総体。その業の因果か次の行為につながり、死後は生前の行為の総体、業によって生命の形(人間、動物、植物、細菌などの身体形状)が決まるとされる。
注6 生は法であり、死は妙です。生死の二法が妙法であり生命の真実相。生は現象であり、法則に貫かれています。死は不可思議で空の状態で潜在しています。思議できない働きなので「妙」なのです。比喩的に言えば、電磁波は見えません(死)が、周波数を合わせれば形(生)になります。
回答
私がこれまでの人生で接してきた人の中で、二人だけ幸福な素敵な人がいました。その人の持っていた特徴を並べてみます。
一つ、心が澄んで振る舞いが素敵で奇麗な人
二つ、自分のこと以上に、身近な人を大事にする友愛の心を持っている人
三つ、何があっても自分に負けない不動な心の強さをもっている人
四つ、自分は地球や自然や多くの人に支えられて生きていることを実感し、謙虚で感謝の心を持っている人
五つ、すべては変化しゆくものと自覚し、今にとらわれず、常に学びの心を持っている人
六つ、自分というものをわきまえ、身の丈にあった生き方をしている人
七つ、正しい思想を持ち、正しい言葉、行動をこころがけている人
八つ、自分を超えたものに畏敬の念を持ち、自らの驕りを戒めしめ、偉大なものを尊敬する心もっている人
九つ、よい友をもち、常に自分を向上させることに努めている人
幸福になる人は、以上のような特徴を持って生きていました。人の心をよく観察すればわかってきます。
一言で言えば、心根がよく、正しい思想と行動をもった人間性に溢れた人、このような人と一緒にいたいと思わせる人です。何度か接すれば大体わかりますが、このような人と出会うことは稀です。もし出会うことができれば、それ自体、幸福なことです。親しく交わり、その人に学べば、あなたも幸福になれます。
幸福は環境から与えられるものではなく、自分で創り上げていくものです。同じように、恋愛は相手が与えてくれますが、深い愛は双方の努力と向上心で創りあげていくものです。相互の深い愛も幸福の一条件です。
回答
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
江戸幕府を開いた徳川家康の言葉です。今川家の人質として青少年期を不自由に過ごし、長じては、気性の激しい信長に忍耐づくめで仕え、さらに秀吉の顔色を窺い、自分の思いを心に沈め、重荷を背負って生き続けました。天下を支配し統一した家康ですが、果たして彼は幸福だったのでしょうか?
生きるとは苦しみなのでしょうか。仏教に『四苦八苦…生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみを四苦という。さらに求めても得られない苦しみ、嫌いな人と会い接しなければならない苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、自分の性格・気性がもたらす苦しみを合わせて八苦」という言葉があります。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。
反面、人生とは、生きる意味を生涯をかけて探す道のりとも言えます。それは苦を楽に転換する生き方の探求でもあります。昔の聖者や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちです。
生きている今の瞬間の生命は絶えず変化し止まっていません。瞬間の一念には苦もなく楽もなく、過去も未来もありません。あるのは今の瞬間だけです。それは純粋な経験であり、苦楽を超えており、善悪で評価できないものです。それを苦と感じるのは五感覚で感じた意識です。過去の記憶化された潜在意識が意識を染色した結果なのです。本来の瞬間の一念は純粋経験であり、清く澄んでいます。
古来より生命錬磨の修行をされた先人たちは、人間の欲望こそが苦の原因だと究明しました。その三大欲…貪り(利へのあくなき執着)、癡・おろか(後先考えず、目先の欲に走る本能的な心)、瞋り・いかり(思い通りにならないことがらを攻撃し憎む心)を三毒としました。
毒は苦しみをもたらし、不幸にさせます。この三毒に加え、四つ目を慢としました。自分は優れていると慢ずる心、傲慢な心、現代的な言葉を借りれば「マウントする心」です。これも不幸の原因になります。これら四つを悪趣といい、悪への行為につながるものとし、自戒、抑制の道を求めたのです。
心を浄化させれば楽が得られると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、寒い中で水行したり、火の中に飛び込んだり、針の山のようなところを裸足で歩いたり、不眠の修業したり、異性を遠ざけたりして自らの欲望を断じようとしました。
全て苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす欲望を克服した後に真の楽があると信じた行為でした。ブッタ(釈尊=釈迦)もその修行を一時期されたと言われています。
人の意識や感覚や行動のコントロールは難しいことなのです。人間が生きている、換言すれば、欲望に従って生きていると言えます。その欲望が苦にもなり、楽にもなります。つまり、苦楽は一念の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生が彩られます。
聖者は苦即楽(苦はそのまま楽になる)、楽即苦と悟っりました。しかし、凡者は苦は苦と思い、苦を遠ざけようとして、楽ばかり追い求め、結果として苦しみの人生を生きています。ことわざに、楽あれば苦あり、苦あれば楽ありとあるります。人生の真実を穿った言葉だと思います。
楽を意識して強く一念を定て生きれば、一念は楽に染まります。そのように色付けするのは、今の意識であり一念なのです。意識を磨けば、どの瞬間も楽となり、楽しんでいけます。これが真の楽観主義です。ブッタ(生命を悟った人)の覚知でした。
そこには磨き抜かれた意識が求められます。一念が研ぎ澄まされ、清らかになれば、その純粋な一念に宇宙の慈悲の波が共鳴し、私たちの一念に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなります。我が一念が宇宙の慈悲の一念と重なり共鳴する時、歓喜の周波数に包まれます。それが最高の楽であり、聖者・賢人が求めた世界なのです。
そのためは、意識を純化させ、正しく感覚・感情を磨き、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。それが聖者たちの修業でした。
「生きている。ありがたい」と自分の心身の働きに素直に感謝できる心、地球や自然や太陽の恩恵に感謝できる心、一切の生き物、身近な人たちに心から感謝し恩恵に報いようとする澄んだ心に、喜びがわき起こってきます。それが宇宙の慈悲の周波数に人が心を合わせる一つの方法だからです。宇宙の働きは本来慈悲の周波数なのです。
しかし、人々は世の中の快適を誘うものに対して、過剰に反応し、とらわれ、心身を偏らせ、バランスを失い、少しずつ生命を濁らせ、ぎこちない周波数を出し、自然のその周波数と重なり苦海に入ります。
その人たちは、自然や社会の恩恵を当然、当たり前と思い、自らの驕りに気づいていません。結果として欲望に翻弄されている自分を見つめない浅い思想に生きることになります。思想は日々生きることを支えている無意識から自動的に起きる言葉であり、感情を伴っています。人生はどんな思想に生きるかで、幸福不幸も決まるとブッタは看破しました。
本当の幸福は澄んだ清らかな心田に種を下ろし、発芽し実ってゆくようなものです。真の幸福は清らかな澄んだ生命、欲や障壁に負けない強い心に宿ります。それを目指しているのが当室のマインドフルネス心身調和法であり、深い思想哲学に根差したものです。一緒に学んでみませんか。
回答
今日、8月15日は日本の終戦記念日です。一部の指導者に操られた当時の日本人は、どの戦場でも地獄を生き、国内で待つ人々も地獄の日々を送っていました。戦争は利を貪る人の心から起こり、弱肉強食の動物性で弱者を攻撃し、反撃されれば怒りに支配され、憎しみを募らせ、悪循環の地獄絵図に染まっていきます。
貪欲に利益を求め、弱者を攻撃し、思い通りにならないと怒る…そんな人間共通の欲望・感情が地上で殺し合いを続けさせます。
そこには理性も正義も道徳も人間性もありません。平和な社会では考えも及ばないことですが、戦争状態では、相手を殺すことが正義になります。人は環境によって変わる生きものである証拠です。戦争下で、人間性を貫くことがいかに難しいことなのかを物語っています。
以来79年の歳月が流れました。しかし世界の多くの地域で暴力による殺し合い、紛争、戦争が今なお繰り返えされています。「多くの利を得たい」という欲望から始まった泥沼地獄です。悲しいかな、この79年間、人間の心は全く進歩していないといえます。人間性はなぜ深められないのか?という問いが私の心にこだまします。
今日、妻に同行し癌センターに行きました。そこで目にしたのは、癌に苦しめられながらも、ひたすら生きようとしている人たちの姿でした。
生きる。いや生き抜く。意識しなくとも無意識的にそれが使命でもあるかのように苦しみを背負い一生懸命生き続けようとしていました。ウクライナやガザ地区の人々も、全く同じと思います。
生きる意味とは何なのでしょうか…。生きるとは苦しみなのでしょうか。人間は、やはり性悪説の通り、悪には勝てない生き物なのでしょうか。人類の歴史は暴力支配であり、より多く人を殺す者が勝者になり、国を治めてきました。それが人類のたどってきた歴史です。
今の日本は一見平和に見えますが、経済・お金という代替戦争をしています。殺し合いの戦争も経済の利潤追求もどちらも、「あくなき利」の追求であり、「利」への貪欲が引き金になった闘いなのです。
人はなんのために生きるのでしょうか…。利の追求、利を得れば幸福になれる、それが人生の目的なのでしょうか…。
回答
地球上に生を受けたあらゆる生物や人は、生まれた瞬間から死というゴールに向かって進み始めます。意識するにせよ、しないにせよ、それが厳しくも避けられない生命の因果律なのです。人生の最終目標は死です。古来、聖人や賢人は、この死という絶対的なゴールをいかに迎えるかに悩み苦しみ探究してきました。
死ぬ存在であるからこそ、私たちは生を考え、いかに生きるべきかを考えます。大事なかけがえのない人生の時を惜しみます。本当に大事なものは何なんのかを思索します。
死を考えることは生を深めさせつます。生と死を含んだ生命について思考するようになります。そして自分を見つめ、人生の在り方を考えるようになります。ギリシャの哲人ソクラテスは「汝自身を知れ」と青年に、本当の自分、そして生きることの真意を問いました。
生命は死と生という二つの相を含んだものというのがブッタ -生命の真実を悟った人、インドの釈尊をはじめ、この宇宙にはたくさんの覚者がいて、その人達のことをブッタとよびます― の悟りです。
瞬間瞬間、身体も心も生死を繰り返しています。身体の生死は、細胞について学べば理解できます。心の生死は、自身の心を深く観察すれば悟れます。ミクロの世界でも生死は繰り返されています、マクロの世界、つまり人生における生と死は必然なのです。
生と死は因果でつながり、環境という縁で発芽し、海の波のように、生じては消え流れていきます。今生きている現世の在り方を深く観察すれば、死後の生命も分かります。エネルギー保存の法則に比喩されるでしょう。
かつて中国の秦の始皇帝は不死の薬を求めましたが、果たせず死にました。幾多の宗教が不死を求め、永遠の王国、死後の復活などを求めました。その願いの底には、人間の現世への執着の強さが横たわっています。いずれも生命そのものがわからず迷いの苦しみの海に沈む部分観の思想とブッタは見抜きます。
瞬間瞬間、如如として来る私たちの生命…如来…それはどこから生じ発しているのでしょうか。その瞬間の生命を深く覚知する時、私たちは生命全体の不可思議境に到達できます。つまり生もなく死もない世界…生死不二の生命根源の世界です。生と死の二つの相を含んだ生命そのもの真実の秘境です。それは、釈尊、竜樹菩薩、天台大師、伝教大師、日蓮聖人らをはじめとした多くの覚者の悟りの世界と言われています。
どのような死を迎えるかは、どのように生きるかになると覚者は教えます。そして最高の生き方を私たちに示してくれています。