木を見て森を見ず
森に入れば目の前の木しか見えなくなります。これは人間の感覚の現実です。私たちは主観で生きているため、意識することなしに客観視はできません。森全体を見ようとすれば知識をより所として、想像力を働かせなければ見えません。つまり主観を離れ、客観の世界に入らなければ、ものごとの全体は見えないということです。私たちは、見たり聞いたりする五感覚で感知できるごく一部の働きで、わかったつもりになり、全体を見ることをしていません。なぜなら私たちは過去の記憶による意識化作用によって、自動的に流れるように生きていけるからです。物事の全体を見るためには、想像力を働かせ、鳥瞰(ちょうかん)視するしかありません。それがかけがえのない、今という瞬間を大事に生きることにつながります。
想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ
アインシュタインの名言です。宇宙の物理的真理の一端、相対性理論を発見した彼の言葉は光彩を放っています。。かたちは異なりますが、彼は想像力・思考力を磨く瞑想をしていたと思われます。瞑想は、目を閉じて、座禅しながらやるだけのものではありません。宇宙や身体の働き・性質は、目に見えないため、表面的な言葉だけでは発見できません。見えない世界は、想像力を働かせ瞑想すれば実感できる世界です。瞑想は心を宇宙大にし、心を豊かに健全にしてくれます。
瞑想の本当の意味
マインドフルネス(注1)の影響もあって、瞑想という言葉が流行しました。その瞑想は、アメリカのジョン・カバットジン氏、発案のものです。彼は日本で禅を修業されました。瞑想は、日本が発祥の地(正確にはインドが源流)ですが、なぜかアメリカのカバット・ジン氏を模倣したものが、現在の日本に広がっています。本来の瞑想は、心を浄化させながら、想像力と思考力を磨き、自己の本地を直観する修行です。浄化された心の静慮のもと、本来の自己と宇宙的自己を貫く不思議な法(六感覚・注2では感知できない)が交流共鳴すること、それが真の瞑想であり、釈尊の直観瞑想と言われてます。
(注1)マインドフルネス…アメリカのジョン・カバットジン氏(現マサチューセッツ大学医学部名誉教授)が考案したストレス低減法。彼は日本で仏教の禅を修行し、それにヒントを得てマインドフルネス(生命力がよみがえる瞑想健康法ー心と体のリッフレッシュー著書「マインドフルネス・ストレス低減法」)という言葉で表現し、独自の瞑想法を開発しました。彼は心の中に流れるダルマ(法)の悟りを基本にし、人間の煩悩の一部を明らかにしたと言われています。その苦しみの軽減法を、マインドフルネスと称し、アメリカのみならず、日本や多くの国に広がり、病める人を救い、高い治療実績をあげています。
(注2)六感覚…眼根、耳根、舌根、鼻根、身根、意根の六つが現実世界を感知・認知する能力のこと。仏教唯識派の心の深層世界の解明したものによると、「根」とは能力を指します。六根清浄(ろっこんしょうじょう)という言葉がありますが、今風に言うと心身のデトックスを含んだ言葉であり、六根清浄された心身は思考も感情も欲も振る舞いも高度に洗練されたものになり、人としての最高のパフォーマンスを発揮できるようになるとされています。
地球・宇宙瞑想は 心を豊かにし 優しさを開発していく
私たちは地球という大地に棲んでいますが、地球上に存在していることを意識することはほとんどありません。大地が揺れる地震があっとき、ああ地球の大地にいるんだと意識する程度です。地球には、大気があり、気圧があり、熱があり、水蒸気があり、風があり、重力があります。それらの働きによって、ほぼ一気圧を保ち、宇宙に浮遊することもなく重力に守られ、程よい酸素で生物は呼吸し、気温も100度に上昇することもなく、現在の気温を維持しています。また、山あり、谷あり、丘あり、沙漠あり、平野あり、川あり、湖あり、生命の源でもある海もあります。空には、鳥や昆虫が飛び、大地には人間をはじめ、さまざな動物、植物、微生物が生息しています。海には魚、エビ、凧、藻類や海藻などが生を営んでいます。
地球の大気圏は、生物に有害なX線やガンマ線などの光を遮断してくれています。そして可視光線と言われる波長を届けてくれ、私たちは、太陽の光(一部は電気)の反射でものを見ることができています。また赤外線のおかげで地表の温度を保っています。現在のような温暖化現象による高温が続くと、少し地球の気温上昇を意識するかもしれませんが、これらのことを、日常考えることはありません。瞑想という想像力をつかえば、多くの自然現象や宇宙の現象の働きの不思議さを実感できるようになります。そして、インスピレーションのようなものが訪れてくることもあります。この瞑想を人類が実践するなら、戦争の愚かに気づき、人間のエゴは抑制され、人々は地球民族として、お互い助け合い共生できるようになります。
ニコラ・テスラの発明と瞑想
地球は月という兄弟衛星を伴い自ら回転し、太陽の重力に引っ張られて、その周りを一年かけて巡ります。また太陽系の中で他の惑星と協働し絶妙な調和と秩序を保っています。その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営んでいます。宇宙瞑想で数多くの発見をしたニコラ・テスラ(注3)(IQ300と一部で言われている科学者・哲学者・詩人)がいます。彼は、瞑想の中に訪れた瞬間(悟り・閃き・インスピレーション)を、発明ではなく、宇宙にもともと存在するものを受信したに過ぎないと表現しています。宇宙・自然にもともと存在するエネルギー、振動、周波数に共鳴したというのが、彼の思考・想像に基づいた瞑想で受信したものでした。瞑想とは、目に見えないが確かに働き、存在する法を発見することとも言えます。
(注3) ニコラ・テスラ…アインシュタインに比肩する20世紀最大の天才物理学者と言われています。交流電圧を発明し、300以上の発明、発見をしたと言われています。物理学者よりむしろ、詩人であり、哲学者であることが彼の卓越性を表しています。生涯独身を貫き、人類福祉のための発明に一生を捧げました。「私の脳は受信機に過ぎない。宇宙には中核となるものがあり、私たちはそこから、知識やインスピレーションを得ている。私は、この中核の秘密に立ち入ったことはないが、それが存在することは知っている。」「宇宙には始めもなければ終わりもない。だれも死んだ人はいない。死は元のエネルギーに戻った姿にすぎない」などの名言を残しています。アメリカのイーロン・マスク氏は、ニコラ・テスラの崇拝者として有名です。
痛みや苦しみは 細胞からのメッセージ
私たちの生命は、関係性で成り立ち、刺激がもたらす変化に適応し、心身の秩序を保つことによって生を保っています。刺激の強さ(注4)に、細胞組織の秩序が乱れるとき、痛みや苦しみというメッセージが脳に届きます。また刺激に対する執着や抵抗(注5)は神経の過剰な活動を招き細胞を壊すことにつながります。細胞の破壊が、病の原因です。さらに思考や感情の偏りは、心身に負荷をかけ過ぎ、調和を乱してゆきます。調和が限界を超えるとき、心身は疲弊し、病が発生します。しかし、人はその原因を見ようとせず、目に見える症状としての痛みや苦しみだけを除去しようとします。結果として、病は増幅し本質的な解決は難しくなります。
(注4)刺激の強さ…脅威を与える対象に対して、心身は恐怖や怒りに対処する神経・ホルモン反応が起こります。そして心身を守るために、闘争か逃走かを選択し、危機を乗り越えようとします。対象が強烈である場合は心身の破壊や破滅をもたらします。例えば、地震などの自然災害、戦争、傷害、事故、火災・などに遭遇すると、心身は一気に損傷、破壊されます。逆に強い快刺激をもたらす対象…ギャンブル・ゲーム、アルコール、麻薬、性的なもの、食べ物、宝石、お金、スマホ情報などの報酬的快感は反復行為(嗜癖・依存・くせになる)をまねき、その過剰神経反応が、心身の調和を乱し、病的になっていきます。専門家は、この症状を依存症と表現しています。
(注5)執着や抵抗…例えば、怒りの対象に対して、反復的思考や感情が繰り返され、不安を増長させ、うつの原因になったりします。その現象を反芻思考という学者もいます。また快刺激への執着は依存症を招き、心身を乱し疲弊させていきます。
身体瞑想で 体が健康になってゆく
私たち人間の身体は心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡ってゆきます。食べたものは口内で咀嚼(そしゃく)され、食道を経て胃に数時間38度の温度で保管消化され、十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進みます。小腸でさらに本格消化が始まり、肝臓に送られ、そこで加工・貯蔵され、血管を通して各臓器に栄養となって運ばれます。大腸では数十兆個の大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたものは約7メートルの消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、人間が生きるためのエネルギーになります。
腎臓は1分間で1リットルの血液を浄化し身体を守ります。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり約200の加工的な働きをしながら体を守り動かしています。ホルモンは炎症を抑えたり、体や臓器の調和をはかり、身体の恒常性を保ってくれています。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚を通して身体を守ります。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守る免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節してくれています。皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の細菌、ウィルスから体を守り、その総重量は10㌔を超えます。人間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美男などと私たちは言います。
意識は、体の働きの100分の1も 識ることができない
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で内・外世界の情報を得ていますが、それは身体の働きの100分の1以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識(し)る(注6)ことがではないのが人間の本来的な働きなのです。
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆個の細胞を新陳代謝させ、絶妙な調和と秩序を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。
もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが感覚の現実ですが、それは人の身体全体から見れば一万分の一程度の微小なことに過ぎませんが、苦になります。
(注6)識る…「知る」は、記憶に基づいて物事を判別するという、いわゆる知の働きを指します。「識る」は仏法の生命理論の中核をなす、唯識哲学の重要な概念の一つです。「識る」は「知る」と違って、心全体でわかるということです。「知る」が部分知であるのに対して、「識る」は全体知になり、ものごとの理解の深さが異なります。瞑想は、「知る」から「識る」に到(いた)る修行ともいえます。
生きる…それは関係性で成り立ち、変化に反応し、適応する闘いである
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。現代人の多くは視覚・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失う傾向にあります。それが様々な新しい心の病を作りだしていることに気づいていません
不安・適応障害や不登校、引きこもりは時代がつくった一時的産物に過ぎない
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っているからです。
磨かれた心の目には 肉眼では見えない世界が映し出される
「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」(シュレディンガー、20世紀の物理学者、波動力学を提唱、ノーベル物理学賞受賞)
磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には、見えないものまでが正しく見えるようになります。目に見える表面的なものではなく、その背後に隠された重大なものをみることができるようになります。何が幸福をもたらし、何が不幸にさせるのかを明晰に見分けることができます…。幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです。
心の濁りをつくる 四種の欲望と感情
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると、心の波は逆流し、自他を巻き込み、いたずらに消耗し、やがて苦しみの海に沈んでゆきます。限度を知らない過剰な欲望は、自らを焼き焦がし、周りを燃やし、炎の波にのまれてゆきます。快楽に耽け続けると 心は淀み、濁ってゆき善悪がわからなくなり、心の波長は間延びし、思考もとまります。人に勝りたい 人より優位に立ち、人を支配したいと思い続けると、心は歪んで、素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は、ほどよさの感覚を失うと調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。
福徳を持つ人が奏でる美しい振動
幸福になる音色を奏でる人は、心が素直で柔らかく、きれいに澄んで、美しい振動を奏でています。財産、社会的地位、名声、人気、才能、美貌、健康などは、幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが、時とともに色褪せ、壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは、空しく時と共に風化し、最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは、花火のようなもので、刹那的な陽炎(かげろう)のようなものです。
こころは流れる 執着の多くは停滞によるエネルギーの損失
ー祇園精舎の鐘の声 諸行無常(注7)の響きあり 沙羅双樹(注8)の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の言葉は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り、事物をありのままに見ることができないからです。
(注7) 諸行無常(しょぎょうむじょう)…中学時代、古典の平家物語で勉強された方も多いと思います。仏教で説かれた重要な思想の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は関係性(縁起という)によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は関係性で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と判別しているにすぎず、夢のようなものを実在していると思い込んでいます。認知症が進み、重度になり記憶機能が失われた場合、自分が自分であることも分からなくなりますが、生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による夢見現象のようなものです。
この世のものは全て流れており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の見解です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明するかたちになっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を鍛えることで可能になります。
(注8)沙羅双樹(さらそうじゅ)の花…釈尊(ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で潜在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相(しょほうじっそう)といいます。釈尊の究極の生命理論(法華経方便品で説かれている)とされています。それを悟ることができれば生命の永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は弟子たちに説かれました。
清浄化された心に病はなく 福徳爛漫になる
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識、五感、心根は時とともに輝きを増し、その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは、永遠性を孕(はら)んだ美しい調和された振動を持ちます。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる周波数であり、釈尊の共鳴した世界と言われています。
善い知識に親しみ 心を清浄にする 偈読誦(げどくじゅ)瞑想
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…。過去の聖人(釈尊・ブッタ)の生き方や思想哲学のこころをこころとすることです。そのためには、釈尊・ブッタの悟りの言葉を詩・偈(注9)に凝縮した世界に心を冥合させることです。その偈には、釈尊の悟りそのものの振動(受信した法・ダルマ)が流れているからです。不断に自己を磨き続け、内省し、浄化された自己の鏡に、偈にこめられた世界が共鳴します。そのとき、病は消滅し、真の安穏と喜びを得ることができます。それが瞑想の究極なのです。そのとき、本来の自己と宇宙的自己が共鳴しているとブッタは教えてくれました。
(注9)偈…宇宙や生命の真実を詩のかたちにした言葉。釈尊は八万宝蔵という膨大な教え(弟子たちによって経としてまとめられた)を説きましたが、釈尊晩年の八年に「今までの教えは、すべて方便であり、真実を説いていない。生命や現象の部分部分しか説いていないので、それらの教えに執着しては、生命全体を悟ることはできない」として、「今から、生命全体の円融円満の教えを説く」と弟子たちに告げ、妙法蓮華経・涅槃経を説きました。その究極の教えは、「妙法蓮華経如来寿量品」にあるとされ、なかんずく自我偈(510字)(付録)に凝縮されたと言われています。その偈は釈尊の悟りの世界を言語化したものですから、それを読誦することで、もとのままの本来の宇宙の働きと己心の我が生命が共鳴律動することができるとされています。それが偈読誦瞑想です。ニコラテスラが「私は科学者というより詩人です。宇宙にある真理を受信する」と言った意味は、言葉を洗練し凝縮した詩こそ、宇宙や生命の法や真理を比喩的に表現できる唯一のものと知っていたからです。過去の偉人たちは、詩や名言のかたちで真理を残している意味はそこにあると思います。
付録…自我偈(510字)…釈尊の妙法蓮華経は何人かの訳僧によって、5世紀頃の中国に広まり、やがて日本に渡ってきました。特に鳩摩羅什訳の妙法蓮華経訳が秀でていると言われています。彼の自我偈訳が、漢語で510 文字になります。「自我得佛來…速成就佛身」と五言の美しい調べの偈が続きます。「自」に始まり、「身」で締めくくられています。自我偈が「自身」の生命の仏性のすばらしさを讃嘆した詩・偈と言われ、今日まで多くの人々に読誦され、愛されてきました。
人間性を高める芝蘭の便り
◎当室はあらゆる思想・宗教団体とは関係ありません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・法華経に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、そして科学(量子力学)と釈尊・天台・日蓮の生命理論の関係を思索研鑽しています。学びの旅は、今も続いています。
生きる…それは我が身を守り 保つために 闘うという厳しい営み
苦に徹すれば珠となる 吉川英治(小説家)
生きるためにはエネルギー源として食べ物が必要です。それを確保しないと生きていけません。食べ物を得る活動をするためには、睡眠をとらないと活動できません。そこで安心して寝ることができる場所(住居)が必要になります。一人では食べ物を得ることに限界がありますので、他者との協力が必要になります。ここに組織が生れ、社会ができていきます。他者とうまくやっていかないと食物を得ることができなくなり、生きてゆけなくなるからです。さらに、種を存続させるという本能が、どの生命にも組み込まれていますので、人も本能に従って異性を求めます。
人間生活の基盤は 本能に基づく保身行動
つまり人は、食べる、眠る、生殖活動をするという本来的に持つ能力(本能という)で生きています。そして、その本能の活動には快感が伴います。だから食べようとしますし、眠ろうとします。また、恋愛をし、種を残すために、生殖活動をします。食べ物を食べて美味さを感じないと、食べなくなるかもしれません。安眠は、心地よさを伴います。また生殖行為には快楽が伴います。そうした快楽報酬があるから、人は本能行為をし生を保つことができるのです。逆に本能行動が満たされないと、不快、不満、怒りなどの苦しみを味わうことになります。さらに、人と協力活動をするという社会性が必要になります。ここに人間関係の苦しみが生れます。このようにして人間は自らの身を保ち守っていきます。これが人の生きる基本です。天皇も有名人も凡人も貧困者もみな、この基本的な本能的生を全うしながら生しかし、この本能的欲求の過剰追求が、社会的犯罪や戦争までもたらします。また本能が満たされない場合も、社会的犯罪につながります。こうした本能はだれもがみんな平等に持つものです。人間の平等性の証の一つです。そしてこの本能的欲望の抑制の有無が病と健康の分岐点になります。
人は、本能が満たされないと不快、不満、怒り、不安、恐怖、そして苦しみを感じる
ここまでは、他の動物にも見られる本能行動の基本ですが、人間も動物の一種であることを自覚することが大事です。人間苦しみの多くは、この本能行動に原因があるからです。食べ物を得る、現代では、お金を稼ぐことにつながります。お金は労働の対価です。お金を得るために仕事をし、人と関わらなければなりません。お金を多く稼ぐことができれば、富裕者となり、豊かな暮らしができ、快適、快感をほしいままにできます。逆にお金に窮すれば、貧困になり、生活が苦しくなり、家族を持つ場合は、子どもの養育にも影響してきます。社会的犯罪は、この人間の本能の過剰と不足に原因しています。お金の問題では、詐欺、強盗、殺人、窃盗、ギャンブル、貧困など多くの社会問題が起きます。また、生殖本能では、不倫、性的犯罪、ストーカー、殺人など多くの犯罪が見られます。社会的協働生活の必要性から、集団・組織の権力者が生れ、名誉名声を過剰に求め、人権を無視した行為が生れたり、ひきこもり・不登校が産み出されたりします。
人間の本能がもたらす現代の快・不快に偏向した行動原理。
人は生きるために不快・嫌悪・恐怖を避け身を守ります。そして安心、快適を求め、身を養います。つまり好きか嫌いかという感覚が生きるために最初に反応します。それは人間の行動原理の第一法則です。誰人も、この法則に則って生きています。今の苦楽は、人の目・耳・舌・鼻・身に発した五感覚の反応が言葉に置き換えた意識活動の結果です。思い通りであれば快感を味わえます。うまくいかないと不快感に支配され、怒りや嫌悪、恐れなどの苦しみになります。人が他の動物と異なるのは、二本足で歩行ができ、手が使えること、大脳皮質が発達し言葉が使え、記憶をもとに思考できる働きを持っていることです。
文明社会の人間の苦しみは 思考することで生れる
人間は自然のうちで最も弱い一本の葦(あし)にすぎない しかし、それは考える葦である(注1)
苦しさを感じ、生きるか死ぬかと考えるのは、この地上で人間だけです。例えば事故などで脳の大脳皮質の思考野を損傷すれば、生きる苦しさなど考えることもなく、迎えがくるまで、ひたすら生きていることでしょう。その場合、人は動物的生に近くなります。動物は、苦しさより恐怖と快感の本能で行動しています。思考することはほとんどなく、快・不快の本能的反応行動が中心です。
(注1)葦(あし)…水辺に生える植物で風に弱く、容易に倒れてしまうことから、人間の肉体的弱さやもろさを象徴しています。しかし、人間は、他の動物にはない思考力を持つため、自分の弱さを自覚し、宇宙の大きさを認識し、死を意識することができる、という点が強調された哲学者パスカルの名言です。
自分は自分と意識できるは記憶の働き
「われ思うゆえに我あり」とデカルトは言いました。思考し、それらを意識するために、自分は自分だと確認できます。考えることで、人間だけが自己認識できるのです。しかし、考えるために、人間は悩みと苦しみを引き受けることになりました。反面、思考することで人間は進歩発展し、物質的に豊かな生活を送ることができるようになりました。思考するという人間に与えられた特権をどう使うかが重要になります。
人間を苦しめるのは 思考よりも感情と気分
思考は言葉によってなされます。言葉は過去の記憶・知識ですが、言葉には心の思い・感情が伴います。苦と感じるのは、知識・言葉よりも、それと一緒に生起する、思い・感情です。苦からの解放は、感情をどうコントロールできるかにかかっていると言えます。人間は思考する感情の動物です。
感情・気分はコントロールできるのか
波のように生まれた感情は、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしか感情のコントロールはできません。それは、今感情に支配されている意識を他の対象にを替えることで可能になります。意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることになります。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーの内在力である感情がすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したもの(感情と表現している)の余情や余韻が自然に消えるを待たなければなりません。
強い刺激は 反芻(はんすう)思考の原因になる
強い刺激とは、前述した本能行動と関係しています。一番強い刺激は、自らの身が危機に瀕する時に生じる、恐怖と怒りです。恐怖場面に出遭ったとき、人も動物も、逃走か闘争かの二者択一を迫られます。闘争の場合は激しい攻撃的怒りを発します。逃走の場合は恐怖に支配されます。そして恐怖感情は深く心に刻まれます。闘争の場合も同様に心に残ります。そして、何かあるたびに心に浮かび、自らを苦しめます。トラウマ(心的外傷)という場合もあります。この繰り返しの想起現象を反芻思考と呼んでいます。心を病んでいる人に多く見受けられる心的現象です。
反芻思考は、記憶の働きがある限り、だれしもが経験するものです。ただ、その思考のため生活に不自由を感じ、ぐるぐる回り、頭から離れない思考を反芻思考(病的思考)と呼んでいます。侵入思考、自動思考、強迫観念とも重なる概念です。それは、ある時のある出来事が記憶され、反復することにより強化され、その記憶が無意識層に潜在、堆積されているからです。そこから 波のように何気に起きてきます。制御が難しいため苦しみます。
生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある
生き続けていれば、よいことにも出遭えます。人生は空模様と似ています。いつも晴れではありません。雨や雪そして嵐であっても、いつまでも続きません。台風も一週間もすれば通り過ぎます。暗雲が垂れ込め重苦しい空模様の日でも、雲のかなたには太陽はいつも輝いています。目で見えなくとも、心を働かせば輝いている太陽を描くことができます。同じように、どんな辛い苦しみも、いつまでも続きません。空模様と同じです。そして見えなくとも心には、いつも太陽が存在しています。空のたとえが教えてくれるものを信じて、今を耐え、今日を生きるようにします。今日、しなければいけないことをします。今をとにかく生きます。そうすれば空模様が一定でないように、心模様も変わっていきます。だから、人は生きていけるのです。「冬来りなば 春 遠からじ」(ドイツの詩人シラーの言葉) 冬は苦を象徴し、春は希望であり、楽を表しています。
楽しいことよりも苦しいことのほうが多いのが人生
楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦しみとの闘いです。なぜなら、生きることは常に新しい出来事・変化を経験することなのです。新しい経験であるためうまくいかないことは当然なのです。うまくいかないと人は苦しさを感じます。
筆者の苦しみ多き青少年期
私の過去を例に話してみます。七歳で母親と死別しました。兄弟7人、10年の間に7人ですから、ほとんど年子状態です。父親は寂しさのためか、酒浸りとなり家に帰って来ず、子どもを放置した状態でした。小学生の頃は、生活苦に苦しめられました。食べるものがない、寝る布団がない、服がない、電気がない、年上の人たちからの不当な暴力やいじめ、暴言、罵倒されたり、地域の人から厄介視され、およそ人間の生活ではありませんでした。
私が5年生になったころ、私たち男兄弟4人は、児童養護施設に収容されます。今と違ってその施設は、弱肉強食がものをいう動物的な世界でした。児童に自由はほとんどなく、食べ物も粗食、量り飯、休みの日は奉仕作業という名のもとの強制労働です。現代の刑務所より劣悪環境で、地獄そのものでした。多くの児童の心は歪んでいったようです。中学3年生の始めの頃に、親父に引き取られ叔母の家に同居しました。思春期、青年期になると、私は人と比較して自分を劣ったものと感じ自信を失なったり、自暴自棄になり横道にそれたり、自分の体形(身長の低さなど)に悩んだり、自分の弱さや劣等を隠すために、高校では服装違反、規律違反し、突っ張り、虚勢を張って生き続け、同級生やせんせいからも一目置かれる存在になっていました。しかし心は空虚で満たされず、ますます反社会的行動に走っていました。結果は高校中退です。また施設出身ということを気にしたり、性格を悩んだり、悩み・苦しみ、そして失敗の連続でした。ですが、なんとか生きていました。
20歳の頃、人生の善き先輩と出会い、正しい人生、生き方に徐々に目覚め、生き方の方向がかわってゆきました。自活しながらの浪人・学生時代は、自分の存在に煩悶したり、生きるとは何か、自分はどこからきて、どこへ行くのか、心とは何なのか、真理とは、神や仏がいて、なぜ人々は不公平なのか、神はいないのか、正しい生き方とは、幸福とはなど、大学の勉強はそっちのけで、心、生命、見えない世界、正しい社会の在り方などを探求し哲学しました。そのせいで2年間留年しました。社会に出てからも苦悩は続きました。仕事、職場の人間関係、そして家族のことなど、青年期以上の苦悩の連続でした。
苦悩の先に楽しさや喜びを束の間 感じ やがて平穏な日々になる
今日まで多くの苦しみに向き合い、生き抜くたびに楽しさを感じることもありました。苦を乗り越えた先に、人生の喜びを味わいました。だから生き続けてこれたのかもしれません。しかし、その楽しさもつかの間、また苦が訪れます。その繰り返しですが、苦を乗り越えてゆく度に強くなり賢くなったのも事実です。そして、いつの間にか、苦しみの日々より、平穏な日が増えたような気がします。それは私自身の生き方が変った結果だと気づきました。生きる、それは苦楽であるということを先人は、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と訓えてくれています。それが、私たちの人生であり、生命の真実のありようかもしれません。
生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人間生命
生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。動物は、子どもに生き抜く方法を教えるために、わが子を千仭(せんじん)の谷に突き落としたりして、生き抜くことを体に記憶させます。人間は、子どもの頃は親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。よいとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命を、どう生きていくかが大事になります。闘いに勝つ、つまり自分に負けないということで生き抜いていけます。
負けない自分作る 信念 目標 勇気 忍耐 そして希望
負けない自分を創るためには、正しい信念、目標、勇気、忍耐、行動、そして希望が必要です。何よりも「正しい」ということが大事です。例えば、強盗する勇気とか、人を殺す勇気とかは動物的勇気であり、人間の道に背いているため間違った勇気になります。お金持ちになりたいと言うのは正しい目標とは言えません。お金持ちになって、恵まれない人たちの役に立ちたいというのは正しい目標です。正しさの基準は、自分だけが潤うのではなく、自分も他人も潤っていく、つまり、自他共存共栄の思想が正しい生き方の意味です。そのためには、正しい知識・思想が必要です。
青年釈迦の苦悩…自分は何のために生きるのか
ここで一人の人間、釈迦(注2)の例をあげてみます。釈迦は王子として生れ、王宮の中で何不自由のない生活をしていましたが、19歳の頃、心に湧きおこる虚しさに苦しんでいました。「私は何のために生きるのか」「私の心はなぜ、こんなにも空しいのか」と生存の意味を問う苦しみに悶々としていました。
注2) 釈迦…悟りを開いた後、尊敬を込めて、釈尊とか、ブッタ、ゴータマシッダルタなどと呼ばれました。成道後(仏性を悟った後)の40年間の教えは、八万宝蔵と言われ、インド、中国、韓国、東南アジア諸国などに広がる中で釈尊の教えは伝承者により変化してゆきます。伝承過程の中で、釈尊の志から離れてしまった教えもあるとされています。日本では、最澄・日蓮の法華経や法然・親鸞の浄土教・阿弥陀経やマインドフルネスに影響を与えた禅、般若心経、観音経などが知られています。
人間釈迦は生きる意味を求めて、王宮を出て人生探求の旅に出た
ある日、王宮の外に遊びに東門から出た時、老人を見、生あれば老いることを知り、南門から出た時、病人に会い、生あれば病があることを知り、西門から出た時、死人を見、生あれば死があることを知り、最後に北門から出た時、端然威儀具足した修行者に会い、姿も心も清浄なものを見て、出家得道の望みを起こしたと言われています。有名な「四門遊観」(注3)の話であり、釈尊が「生老病死」という人間の四苦と真正面から向き合った瞬間でした。釈迦は、その解決のため、王宮での恵まれた生活を捨てて、人生の真理を求めて、苦悩充満する娑婆世界(娑婆とは堪忍の意味、実社会は思いどおりにいかない世界という意味)に生命探求の旅に出ます。
注3)「四門遊観」の話…宮沢賢治の詩「雨にも負けず 風にも負けず…東に病気の子どもあれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいといい 北 に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい… 南無無辺行菩薩 南無多宝如来 …」 一部の抜粋ですが、ここには「四門遊観」の話になぞらえたものが書かれています。宮沢賢治は、法華経の信奉者であり、彼の文学の根底には法華経があったと言われています。詩のメモの最後の部分には、法華経に出てくる菩薩や如来が書かれていたそうです。
日本で最初に法華経を弘めた人は、聖徳太子と言われています。彼は仏教の中で、法華経が最も優れた教えであると判断しました。彼が建立した法隆寺には法華経の解釈書として、法華経義疏(ぎしょ)が展示されています。聖武天皇時代には、法華経で当時の民衆を救済しようと、全国に国分寺、国分尼寺が建立されました。法華経はその後、最澄、日蓮によって弘められてゆきます。平安時代には、貴族の中に広まりました。源氏物語には、法華経の話が度々出ています。鎌倉時代以降、仏教は玉石混交状態となり多くの宗派に分かれてゆき、法華経もその波に呑まれ分派してゆきます。法華経は近世になって革命家によって社会変革の思想として利用されたこともありました。現代は、仏教も法華経も玉石混交状態で本源から分派してしまって何が正しいか分からない迷妄の世界になっています。本源(釈尊)に還れば、何が正しい教えかがわかると思います。
人間の生きる意味…人間として存在する意味はあるのか
人生とは苦なのでしょうか。生きるとは苦しみの連続なのでしょうか。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。人間として存在する意義はどこにあるのでしょうか。人生とは、一面からすれば、生きる意味、存在の意義を、生涯をかけて探す道のりです。苦悩の人生は人の心を耕し深くしてくれ、苦しみは心を浄化させてくれる薬になります。苦悩の中で自分の心を見つめ、人生の真実の一部を見つめることができるようになります。昔の聖者や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちだと思います。
生きている今の瞬間の生命は常に変化し、同じところにとどまっていません。瞬間の生命には苦もなく楽もないとは聡明な哲学者の悟りです。純粋な経験であり、色付けできないものです。それを苦と感じるのは五感で感じ、それを鮮明にし思考と言葉にした意識活動です。過去の記憶化された潜在意識の染色の結果なのです。本来の瞬間は純粋経験です。
古来より生命錬磨の修行をされた先人たちは、生きる意味を模索し、幸福な生き方を探究しまた。そして人間の欲望(正しくは煩悩)こそが苦の原因だと究明し、心を浄化させれば、幸福になれると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、不眠の修行をしたり、異性を遠ざけたりなどして苦の原因を断じようとしました。釈迦当時のインドは、そのような修行して悟りを得たいう六人の指導者(六師外道・ろくしげどう、外道は、因果を心の外に見出す思想)が支配していました。
宗教(偏った思想)は民衆のアヘンである カール・マルクス
そして悟りを得たと思い、自分の悟った思想を弘めていきます。宗教はこのような人たちによって作られ、その数は新興宗教も入れて膨大な数になります。マルクスが批判した(注)のは、当時のロシアのキリスト教でした。その教えに盲目的に従い、思考することをやめた民衆は、アヘンの毒に侵されているように愚かになっていると痛烈に批判したのです。すべての宗教を批判したわけではありません。宗教にアヘン性があるのは、最近社会問題になった宗教を見れば納得できると思います。
宗教の持つアヘン性の根本は、その宗教が持つ思想の高低浅深の問題にあります。つまり生命の把握の部分に偏った思想が問題なのです。そう考えると、アヘンは宗教だけ限るものではなく、学問、科学、医学、経済の中にも紛れ込んでいます。そして、アヘンのように思考力を失なわせ、人を愚かにしていく思想こそ毒と言わざるを得ません。
注 マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」によると、「反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない。…宗教への批判は、人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から覚めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがって、また自分の現実の太陽を中心として動くためである。…宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在であるという教えをもって終わる」(一部抜粋)この地上の宗教、思想、言葉はすべて人間が作ったものであり、人間を超えた存在はないとする人間の尊厳を訴えたのがマルクスの思想であり、釈尊の思想と重なるところが見られる。
何も考えず権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である アインシュタイン
物理の世界の真理を悟った人の言葉には重みがあります。アインシュタインの言うことも、先のマルクスの思想とほぼ同じと言えます。権威とは、政治家、指導者、各専門家、医師、弁護士、マスコミ、再生回数の多い動画などを指しています。アインシュタインは疑うこと、思考することで人は賢くなり、心が健康になり、本当の安穏な人生が送れると諭しています。
生命の苦楽は硬貨の表と裏の関係
すべて苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす煩悩を克服した後に真の楽があると信じた修行でした。釈尊もその修行を一時期されましたが、苦行に徹しても幸福は得られないと悟り、独自の道を歩まれたと言われています。人間が生きていることは、煩悩に従って生きていることと言えます。その煩悩が苦にもなり、楽にもなります。つまり、苦楽は心の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生の存在の色が変わります。楽しい世界を心に描き、意識して強く心を定めて生きれば、心は楽に満ちてきます。そのように心を描くのは、今の意識です。意識を磨けば、どの瞬間も楽しんでいけるようになります(注4)。これが真の楽観主義であり、自己肯定であり釈尊の悟りと言われています。
(注4)「どの瞬間も楽しんでいけるようになる」…釈尊は「衆生所遊楽・しゅじょうしょゆうらく」と法華経如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)で説きました。衆生とは、細胞の集まりのあらゆる生命体という意味であり、人間と訳すこともあります。人間は、この世に、自在に自分を発揮し、楽しむために生まれて来たという意味です。如来は瞬間瞬間、如如(にょにょ)として来る生命のことであり、仏性(ぶっしょう)の別名です。つまり私たちが今、生きているのは、仏性の働きです。これは釈尊の悟りの究極の哲理と言われています。
善き先生・師匠の言葉・知識を指標にすれば正しい人生になる
釈尊は語ります。心を研ぎ澄まし(真の瞑想)、心が清らかになれば、その純粋な心に宇宙の慈悲の周波数が共鳴し、私たちの心に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなると。自己が宇宙の慈悲と一体になり、喜びに包まれます。それが最高の楽であり、聖人・賢人が求めた世界とされています。そのためは、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。釈尊は「八正道」(注5)を弟子たちに教え、実践を勧めました。悟りは知識では得られない、実践の中での生命の体得だと、釈尊はことあるごとに弟子たちに諭しました。
(注5)「八正道」…苦の原因は、生きる上で生じる煩悩にあると思惟し、苦の原因(自己中心的欲望への執着・渇愛)を乗り越え、生命の浄化をはかるための方途、修行法。具体的には以下の八つがあります。1、正見(正しく物事を見て正しく理解すること) 2、正志(正思惟・思考が正しいこと) 3、正語(言葉が正しいこと) 4、正業(行いが正しいこと) 5、正命(生活法が正しいこと) 6、正精進(修行法が正しいこと) 7、正念(観念の正しいこと) 8、正定(一切の悪を捨てること)
「正しい」ということが重要になります。正しい、つまり正義ということです。生命・自然・宇宙を貫く法性(ほっしょう・仏性と同義)に則るということですが、わかりやすく言えば、自己中心的に生きるのではなく、自分も他人も同時に潤し慈しむ生き方、自利と同時に利他という生き方が宇宙の慈悲の法則です。それに則る生き方が正しいと言うことであり正義です。反面、則らず背く振る舞いが悪であり、不正といいます。
人間性薫る 芝蘭の便り
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と無関係です。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学理論、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、釈尊の教え、唯識・天台の生命論を中心に思索研鑽するなど、学問の旅は続いています。
直径0.1㎜の受精卵に 今の私たちになる設計図が 組み込まれていた
私たちの生命はどこから来たのか、とても大事なことですが、それは不可思議世界のことですから、ここでは横に置きます。射精時に父親の持つ約3億個の中の一つの精子が、母親の卵子に付着した時、私たちはこの世に誕生しました。その時の受精卵の大きさは直径0.1㎜ほどとされています。その中に既に、現在の私たちの身体になるプログラムが組み込まれていたのです。直径0.1㎜の微小なものの中に、今の私たちのかたちや心が既に設計されていたことになります。この不思議な力を神通の力と言います。私たちは誰びとも、この素晴らしい力を等しく潜在的に持っています。これが人間の尊厳性の根拠であり、人間の平等の真の意味です。そして人間の内在する可能性の無限性でもあります。
私たちは環境によって成長したり・成育不全を起こしたりしていく
環境因子を取り込みながら、もともと持っていた生来因が強化されたり、矮小化されたり歪められたりします。具体的には家庭養育環境が適切であれば、素質因は強化され良好な成長をとげてゆきますが、虐待、干渉などの環境のもとでは矮小化されたり歪められたりすることもあります。また学校環境、社会環境はそれらに拍車をかけていきます。つまり私たちの心は、変転する環境の中で生きるために一生懸命、適応・変化・反応し成長したり、発育不全を起こしたりしてゆきます。難信難解の生命の因果の世界のことですが、中心はもともと持っていた生来因によるものです。それが環境の選択(取り込み)まですると考えるほうが理にかなっているようです。ここには、私たちの生命誕生は、偶然か必然かという大問題が秘されていますが、紙面の都合上、その問いは別の機会に譲りたいと思います。
誰人も持つ 体の持つ不思議な働き
けがをして出血しても、多くの場合、血は自然に止まります。40度の熱を出しても安静していれば、特別の場合を除いて、熱は自然に下がります。体の働きに重要な役割を担っているものの一つに血液があります。血管の長さは、毛細血管までつなぎ合わせると約地球二周半になると言われています。血液は私たちの生命維持に欠かせない、酸素、栄養素、ホルモンなどを40数兆個の全細胞に運搬し、30秒ほどで心臓に還ります。また、免疫、体温の調整などの働きもしています。日常、意識することはありませんが、そうした働き(血液の働きは身体の働きのごく一部に過ぎない)のおかげで私たちは生を保つことができています。奇跡としかいいようがありませんが、それらの細胞の不思議な働きと力を意識する人はほとんどいません。想像力を働かせ、体の不思議な働きを瞑想できれば、人生は変わってゆきます。
これらの働きは目には見ませんが、体が本来持っている不思議な力(神通力)です。身体学では自然治癒力とか、恒常性機能(ホメオスタシス)と表現します。しかし、その働きが何によるのかは分かっていませんが、不思議な働きであり薬の役割を果たしています。体を一大製薬会社にたとえる細胞学者もいます。こうした体の不思議な働きは、誰人も平等に持っています。
心が持つ不思議な働きと力
強い怒りを感じても一週間もすれば、怒りは半分以下になります。愛する家族を亡くし、悲しみにうちひしがれていても、半年もすれば悲しみは半減し、時間の流れとともに、やがて思い出として心に収まっていきます。どんなに嫌な辛かったことも時間が立てば、日常生活が普通にできるように回復していきます。これは誰人も、持っている心の不思議な力によるのです。心には、どんな苦しみも辛さも癒し、もとに戻す力が具わっているのです。これを「神通力」とも「妙なる働き」とも言います。名医はこの法の一部を発見し、その働き(注1)を巧みに使って、病者を治します。現代でも、心臓や脳外科医の手術の技を「神の手」などと呼んだりします。
私たちの身体(細胞)は よりよく生きようと 常に闘っている
この法に則れば、すべての心病をなくすことができると言われています。40数兆個の細胞(その統一体が私たちの生命)は、よりよく生きよう生きようと新陳代謝し、環境の変化に適用し、常に闘い成長しています(注2)。闘いをやめれば、死滅するからです。生きるとは、闘いの異名です。また体(細胞)に即して現れる心も同じです。
注1 妙なる法(古代サンスクリット語で、サ・ダルマと釈尊は名づけました。中国4世紀の天才名訳者、鳩摩羅什・くまらじゅうは、妙法と漢訳しました)…釈迦は2600年前頃に、心(生命)の妙なる不可思議世界の法(ダルマ)を修行と瞑想で悟り、ブッタ(覚者)になったと言われています。ブッタになった人間釈尊は、あらゆる現象を貫く法(妙法)に精通した博学の人であり、万人の不幸や苦しみを抜き、健康、幸福にする道を説き実践し、医王と呼ばれました。竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ・ナーガールジュナ、インド200年ごろの天才・空観(くうかん)…認知できないが、確かに存在し、縁にふれて顕在と潜在を繰り返す空のこころ…などを説いた)は、その不思議な法を「治し難きをよく治す、故に妙と為す」「大薬師の毒を変じて薬と為す」(大智度論による)と解釈しました。本来の心(生命)に具わる不可思議(妙)な働き・法を悟ったと言われています。
(注2)細胞こそ生命…細胞は、その内部構造がバランスの取れた状態を維持している。(ホメオスタシス)。細胞の構造は、高度に組織化されている。細胞は、破壊、必要に応じてエネルギーの放出、保存、栄養を構築する。細胞は成長しなければならない。それは構造の変化を意味する。細胞は環境に適応しようとする。細胞は、必要に応じて、環境刺激に反応することができなければならない。細胞は、自分自身を再生、生殖することができる。(最新細胞学の研究より) 組織化された細胞の集まりが私たちです。
名医と言われた方の一人に、森田療法の開祖、慈恵医科大学の精神科初代教授、森田正馬氏(1874-1938)がいます。彼は自らの神経症体験の内省から「あるがまま」という不思議な心の働きを発見し、薬を使わず、神経症(強迫観念、パニック障害、対人恐怖症、睡眠恐怖症、不安症など)で苦しむ90%以上の方を完治させました。彼の療法は自覚療法と呼ばれ、心の中の法・ダルマに焦点を当てたものでした。(「神経衰弱と強迫観念の根治法」森田正馬著による)。
またアメリカのジョン・カバットジン氏(現マサチューセッツ大学医学部名誉教授)もその一人です。日本で仏教の禅を修行し、それにヒントを得てマインドフルネス(生命力がよみがえる瞑想健康法ー心と体のリッフレッシュー著書「マインドフルネス・ストレス低減法」)という言葉で表現し独自の療法を開発しました。心の中に流れるダルマ(法)の悟りを基本にした、その療法はアメリカのみならず、日本や多くの国に広がり、病める多くの人を救い、高い治療実績をあげています。
人間性を育む 芝蘭の便り
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と無関係です。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学理論、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、心理行動理論、詩音律学などを研鑽してきました。今は、人体学、意識論、量子力学、ニコラ・テスラの哲学、ブッタの教え、唯識・天台の生命論を中心に思索研鑽するなど、学問の旅は続いています。
わが子が不登校・引きこもりになったとき、親が 考えなければならないことは…
子どもが不登校・ひきこもり状態になったとき、親が考えないといけないことは、原点に戻ることです。この場合の原点とは、苦しんでいる子どもの心です。ですから、子どもの心と向き合い、子どもの心を知ろうと努めることが最初にやるべきことなのです。なぜ、このような状態になったのか。その要因はどこにあるのか。何が過不足だったのか、どこの部分を支援すれば、子どもが人間的な健全成長を遂げることができるのかを考えることです。子ども自身も、なぜ今の状態に陥ったのかがわからないこともよくあります。
不登校・ひきこもりという出来事は、ある視点から見れば、苦であり、毒に感じるかもしれませんが、視点を変えれば、親も子どもも一緒に、人間的に成長する、またとない機会を与えてくれたかけがえのない出来事と見ることができます。そのようにひきこもり・不登校という心のありさまを前向きにとらえることができれば、それは薬に変えていける因を積むことなり、本質的解決の道に入ることができます。
母親が持つ わが子に対する無条件の愛の力
子どもが、どんな状態になっても、子どもをそのまま受け入れ、大事に守っていくという無条件の愛(注2)を親が持つことができれば、子どもは必ず良い方向に向かっていきます。また、親自らが誠実に子どもの成長を願い行動している姿は、目に見えたかたちに現れなくとも、必ず子どもの心に届き、やがて心を開いてゆくようになります。苦悩する子どもにとって、親の真心の愛情に勝る良薬は、この世界にはありません。ユダヤのことわざに「母親は百人の教師に勝る」とあるのはこの意味です。
(注2) 無条件の愛…ヘレンケラーを世界的偉人に育てた陰の支援者はサリバン先生です。目が見えなくなり、三重苦から自暴自棄に荒れ狂うヘレンに対して、彼女は忍耐強く「無条件の愛・肯定的関心」を持ち続け、終生ヘレンに尽くし、彼女の持つ可能性を開いたとされています。ヘレンの偉業はサリバン先生なくしては成し遂げられなかったと言われています。ヘレンは「私を作ったのはサリバン先生です」と生涯サリバン先生の恩に報いる行動を貫いたと言われています。
付録1「子どもの心がみえるとき」荒れ狂う生徒たちに対して、無条件の愛を根本にして忍耐強くかかわり、心を開いていった中学教師のかかわりの記録の本。
専門機関の選択は慎重に考えるべき
短絡的に精神科や心療内科に連れていくのは考えものです。それは、結果的に、多くの場合、症状を長引かせたリ、悪化させたりしてしまいます。これは心療内科だけではなく、心の専門性の低い相談期間は同じことが言えます。芝蘭の室を訪れる長期不登校・ひきこもり者は心療内科にかかったものやカウンセリングルームに通所した経歴の持ち主がほとんどであり、それも数カ所を巡った人も少なくありません。ほとんどの人が、改善せず、逆に悪化させて、芝蘭の室に来所しています。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。
心そのものがわかっていないのが 最先端科学の現状
脳の神経伝達物質(セロトニン、ドーパーミン、アドレナリンなど)を標的にする精神病薬では、心の問題を解決することは困難であり、本質的な対処にはなりません。解熱剤ぐらいの一時的効能はあるかもしれませんが、あくまでも一時的な症状緩和であり、本質的解決をもたらしてくれるものではありません。なぜなら、心とは何か、意識とは何かが現在の最先端の量子力学・諸科学でも解明できていないからです。ただ分かっていることは、心は脳をはじめとした身体を通して、「苦しい、死にたい」「心が重たい、何もする気がしない」などの苦しみの言葉や気分、もろもろの症状として表現されるということだけです。その身体の主要な一部の働きを担っているが脳ですが、すべての細胞に心の働きがみられるのも事実です。だから難解なのです。
精神病薬の依存性と副作用の弊害
苦の原因は心から生じているので、精神病薬で苦の原因を根本的に取り除けないのは、理解できたと思います。服薬することで、依存性を高めたり、副作用による身体の不調を招いたりして、結果、不登校状態を長引かせるばかりか、二次的な症状(対人恐怖・社会不安・関係被害妄想)を強化していくかもしれません。それは複雑な心を診ようとしていないことの結果です。これは心の見立てができない相談期間も同じことが言えます。心の病は見立てと対処を間違うと悪化するのは、身体の病気の誤診と同じです。ただ心の場合は誤診していても、曖昧にすることができます(注3)。心自体が解明されていないからできることです。だからこそ慎重に賢明にならないと心を健全に守ることもできなくなります。
注3 ●「誤診」(心の科学、NO164…精神科臨床における誤診、薬物療法偏重と誤診、うつ状態の鑑別診断と誤診、大人の発達障害と誤診などが編集されている)
●「ブラック精神医療」(米田倫康著)‥知ってほしい精神医療現場の驚愕の真実 ●「発達障害のうそ」(米田倫康著)‥専門家、製薬会社、マスコミの罪を問う。 ●「精神科臨床はどこへ行く」(心の科学・井原裕編)‥薬を巡る諸問題、治療現場で起きていること、PTSDの乱発―心のケアのいかがわしさなど
不登校、ひきこもりは 環境順応能力の問題
一言で言えば、不登校、引きこもりの大多数は、時代の産物であり、現代の教育環境が作ったものであり、病気でも何でもありません。環境順応能力の問題です。わたしが子ども時代には、今のような不登校は一人もいませんでした。学年に1名程度、家の手伝いのため学校に行けなかったり、身体の病気の治療・入院のために行けないというのが理由でした。現在の不登校の理由は、全く異なっています。人間は変化する社会や時代の影響を受け、社会変化がもたらすものに教育され、なおかつその変化に順応して生きていくしかありません。人間が社会的存在である限り…。
不登校の原因の90%は 子どもの教育環境にある
人間は人間に教育されることによって、人間になっていきます。かつて狼に育てられた少女は、人間の行動や心が育たず、狼の習性を持ったまま、短命で命を終えました。彼女たちは人として生まれましたが、養育環境が狼社会であったため、狼の行動習性を身に付けてしまいました。この貴重な事例は教育の本質を教えてくれています。どんな教育環境にいるかで、子どもは変わります。子どもを取り巻く教育環境は大きく分けて、1、家庭環境 2、学校環境 3、社会・情報環境と私は考えています。ここでは持って生まれた生得的要因・遺伝的要因・素質は横に起きます。
教育は善悪にわたる
教育によって人は人にもなりますが、動物以下の生きものや魔物にもなります。戦時下のかつての学校・思想教育では、天皇は神に祀(まつ)られました。神である天皇のために死ぬことは、報国であり最高の美徳とされたのです。そのため、神風特攻隊や人間魚雷などで若き青年が命を落としました。背く者は非国民とされ、その思想に反対する者は獄につながれ、拷問を受けました。また多くの外国人を殺すことが英雄になったのです。すべては誤れる教育や神国思想が、人をそのように仕向けたのです。教育・思想の恐ろしさです。正しいものを見極める基準が大事になります。その基準とは、地球上のすべての人が幸福になれる思想・教育こそ、正しい教育であり、思想・宗教といえます。
不登校・引きこもりをつくりだす 家庭養育環境
不登校・ひきこもりで当室を訪れる家庭に共通している要因を挙げてみます。一番は母親の過干渉です。二番は虐待・無関心・子への愛情不足です。三番は親や祖父母の過保護です。四番目は母親の心の不調・うつなどの病気です。共通してよく見られる要因が夫婦の不和(家族の不和)です。少子化や核家族化や共稼ぎ、学歴偏重社会の影響を受けています。芝蘭の室で面接し改善した特徴的な事例を付録2に載せています。
不登校を産む 学校教育環境
子どもにとって学校とは学級を意味しています。家庭以外で自分が存在する場所です。その学級は日本人の行動様式の基本である、かつての「ムラ」意識が今も支配しています。「ムラ」は個や自律を認めません。「ムラ」は集団規範を守る人、集団規律に従う人で成り立ちます。集団は他律が成員を支配します。
学級のルールは「みんなの目」です。「みんな同じように」「みんながやっている」などが規範になります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という集団論理が生まれます。正しいかどうかは二の次です。集団の正しさとは集団の掟のことであり、集団に存在する暗黙の規範のことです。みんな平等という表面的な平等主義が学校を支配しています。本当の平等主義は、違いや異質という個を認めたうえで成り立ち、人間の尊厳性に基づく理念です。異質の排除の考えが、いじめや無視などの集団同質化行動を産み出します。また行き過ぎた管理教育が、自立を損ねていきます。これらが不登校を産み出していきます。以下詳細は、付録3
不登校を作る スマホ・パソコン情報教育社会
最後は社会・情報環境です。現代社会では、この社会・情報環境が一番の影響力を持っているかもしれません。中学生以上の国民の大半がスマホ依存という、異常なスマホ情報依存環境に生きていますが、その異常性に多くの人が気づいていません。スマホ、パソコン、テレビから流される情報に子どもも、大人も知識(最近はAIが多い)を得て教育されているのが現状です。その知識の真偽も精査せず、心に深く記憶化されていきます。それは以後の行動に無意識的に作動し、判断や選択に影響を与えることを自覚できている人はほとんどいません。また、このような情報環境を親も教師も制御することは困難です。
不登校・ひこもりの心…
不登校・ひきこもり状態にある人の多くは、心の不安定感(過度のストレス)に耐えられず、家という安心領域・癒しの空間に回避した状態です。そのこころは、人や場に対する恐怖や不安、行為の後に訪れる嫌悪感や恥ずかしさなどの不快や自責の念です。人は本能的に不快を避けます。不快への過敏感覚はストレスとなり重なると、心身の不安定を招きます。不快を避けるのは、生きるための生物・人の大事な保身行為の一つだからです。その心を、さらに詳しくみてみましょう。
便利で豊かな社会が 心を弱くしていく
日本は世界でも有数な安全平和社会であり物質的に豊かな便利社会です。それなのに、なぜ社会不安障害、適応障害、うつ、ひきこもり・不登校などの心の不調者が増加するのでしょうか。物質的豊かさの追求とその享受、便利社会の恩恵に反比例しているのが、心の豊かさの喪失現象です。便利さや不自由のない生活は、生きていく上での大事な忍耐する力、思考したり、想像したりする場を奪っていく面があります。つまり、心は貧しく、乏しく脆弱になっていくということです。
不快・嫌悪を避ける 不登校・引きこもり
不登校・引きこもり状態にある人は、不快感覚がもたらした恐怖や嫌悪というストレス状態の一つの解決策として家に籠った状態です。その引きこもり状態に大きく影響しているのが、人間だけが持つ知的な記憶力です。嫌な出来事を知的に記憶してしまうところが、他の動物と異なるところです。世間でいう、トラウマ(個々の傷体験の思い出)現象です。
過剰性が HSC(高度感受性反応…神経過敏)状態を招く
生き抜くため行動に潜む「癡・おろかさ」について述べてみましょう。痴…おろかとも表記します。知が病んでいる状態、間違った知識というのが言葉の意味です。ものごと、人間、自然の法、因果や道理がわからず、目先の感覚的欲求に抗しきれなく行動する心的状態です。
「飛んで火に入る夏の虫」暗闇の光を求め、火に入り、焼け死んでいく虫たち。このようなことは人間社会にもたくさんあります。お金のため、有名校に入るために大事な人の心・情緒を失うのも愚かさ、好きなものを食べ過ぎたり、飲み過ぎたりして病気になるのも愚かさ、専門家の誤った知識に騙されるのも愚かさ、人を傷つけることも、殺し合うのも愚かさが原因です。
すべて生き抜くために自分を守るための行動が発端になっています。生物・人間の本質の一つが自己中心です。自己中心を発動させないと生き残れないからです。しかし、自己中心性だけに生きると、弱肉強食(争い・戦争など)世界に生きる他の生物や動物と同じレベルになってしまい、共同生活ができなくなります。人間と動物の違い‥それは他者への思い遣りという思考・想像力を働かせた心の働きです。自己中心性を克服する鍵は、人の情緒の働き、優れた想像力のもたらす、思い遣りの振る舞いにあります。
刺激的な情報が 環境順応力に影響
世の中、偽りの情報、利己的金儲けのための巧みな情報など玉石混交状態になっています。無知な人たちをだます似非専門家たち。視覚情報に弱い人間心理につけ込むコマーシャルやユーチューブ動画など。見抜くのは大変なことです。甘言で人の保身を増長してゆきます。愚かさの病が現代人を覆っていると言えます。人々は表面的な浅い思想につかりきっているようです。仮初(かりそめ)の平和に守られ、便利さに忍耐心を失い、思考することを麻痺させられ、人々は自らの生をよりよく保とうと快適情報にますます依存し、生きる力を弱め、脆弱性(ぜいじゃくせい)を強めています。そのうち、あらゆる病気が生活習慣(基本は思考、行動、情緒の在り方)病と言われるようになるかもしれません。
正しい知識と対処力が 正しい人生を開く
その結果、心の病はますます増産されていきます。生きること、身を守ることに潜む愚かさが原因と気づかずに…。それを乗り越える方法は、まず正しい知識を身につけ、正しい情報を見抜く智慧を培うことから始まります。人の心の安心領域は、個人によってすべて異なります。個々の心的状態の把握なしに解決は難しくなります。心の在り方、感情と思考と行動の関連性、記憶と潜在意識など個人の反応のしかたを正しく知ることから、安心領域の拡大が可能になります。つまり自分の意識・心を、どこまで正しく明確に見ることができるかが重要になります。
正しい知識に導いてくれる師・先生の存在が必要
そのためには、正しい師・先生が必要になります。正しい師とは、病める人を確実に改善し、その人の人生を高め、幸福の方向へ導くことができる人です。例を挙げれば、ブッダ・釈尊のように多くの人を現実的に救い、幸福の人生に導く人です。現代社会に、そのような人がいるのかと思うでしょうが、います。私も何人かに出会い、そのおかげで今の私があると思っています。ブッタの志(注5)を実践している人はいますが、表に現れていないだけです。私利私欲なく無私の志を持って生きている人です。洞察眼を磨けば、自然もその一つであることがわかります。
(注5) ブッタの志…ブッタは菩薩道に終生生き抜きました。菩薩の道を行く人はブッタの志を生きる人です。最近では中村哲医師がいます。アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされました。彼のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らをかえりみず献身する母親もその一部)の一人だと思います。 中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」平安時代の人、最澄の言葉。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」この最澄の生き方は、菩薩道そのものです。
心、体、自然、ものとの相関性についての気付きが解決の良薬
自分の心をみつめ、正しく知識することがまず一番大事になります。自分の意識や感情を知ることです。自分の身体の働きについて正しく知識することです。生きていることの不思議を感じるように自己観察力を磨くことです。地球・宇宙や自然や環境や他者との関係性で生きていることを想像力を磨いて実感するようにしましょう。正しい人間観、社会観、自然観を身に付けることです。全体を網羅した知識がもたらすものが気づきを産み、行動を変えてゆくからです。それらが心の良薬なり、一回りも二回りも成長した人格に成長していくことになります。そのとき乗り越えられない心の壁はなくなり、不登校・ひきこもる必要がなくなり、社会・学校に適応順応できるようになります。
偉人が遺した名言に学ぶ
ニコラ・テスラ(注6)は「私の目的は 個々の人が自分の翼で飛ぶという意識を 取り戻すことを教えたい」と、自ら考え自立の人生を歩むことを教えてくれています。宮本武蔵の箴言(しんげん)「我以外、皆我師‥われいがい、みな、わがし」。ここで言う我(われ)は、人だけなく、すべての生命ある存在、万物を指しています。人間的に大成するためには、あらゆるの環境に謙虚に学ぶことの重要性を教えてくれます。アインシュタインは「想像力は知識より重要だ 知識には限界があるが、想像力は世界を包み込む」と自由に思考することで人間は心の自由を得ていくことを教えてくれます。偉人の名言は、人を正しい方向に導いてくれる指標になります。
注6 ニコラ・テスラ…アインシュタインに比肩する20世紀最大の天才物理学者。交流電圧を発明し、300以上の発明、発見をしたと言われています。物理学者よりむしろ、詩人であり、哲学者であることが彼の卓越性を表しています。生涯独身を貫き、人類福祉のための発明に一生を捧げました。彼も菩薩の一人と言えます。「私の脳は受信機に過ぎない。宇宙には中核となるものがあり、私たちはそこから、知識やインスピレーションを得ている。私は、この中核の秘密に立ち入ったことはないが、それが存在することは知っている。」「宇宙には始めもなければ終わりもない。だれも死んだ人はいない。死は元のエネルギーに戻った姿にすぎない」などの名言を残しています。アメリカのイーロン・マスク氏は、ニコラテスラの崇拝者として有名です。
付録1 「こどもの心がみえるとき」当時、市内一荒廃した中学校に赴任し、荒れ狂う生徒たちに真正面からかかわった一中学教師のノンフィックシヨン小説(松岡敏勝著・文芸社)。テーマは、荒れた子どもに対する「無条件の愛・可能性を信じる心・忍耐・誠実」。ペスタロッチ(教育の父と言われている)の志を胸に抱いて、2年間かかわり、苦闘の末、子どもの心を開き、共に大きく成長した物語。
付録2 〇いじめ事例。中学時代の部活コーチの度重なる暴言が心の傷になり、高校2年でトラウマを発症し、不登校になった女性の事例 〇親の過干渉事例 小学時代から一流大学進学路線に載せられ、大学入学後に挫折が始まり、社会に出て適応できず、数カ所転職後、長期の引きこもりになった男性事例。〇いじめ、親の放任事例。小学校の低学年のとき、いじめに遭い、人が怖くなり、以後不登校となり、中学校も全欠席、卒業後20歳まで引きこもっていた女性の事例。 〇親、祖母の過干渉と夫婦不和の事例。習い事や宿題、勉強を完璧にさせようと、親と祖母が指示、強制圧力をかけた結果、習い事をいかなくなり、学校も行かなくなる。小学校3年の秋から全欠席になった男児の事例。〇教師の高圧的言動の事例。担任教師の恐怖感を与える言動に怯え、不登校が始まった小1女児の事例。
付録3「不登校を量産する学校教育環境」
中学校が荒れていた頃、小学校も学級崩壊などが起こり、多くの学級は無秩序状態を経験しました。鎮静化のため、学校では管理体制が強化されました。荒れた中学校の矢面に立ったのが強面(こわもて)の体育会系教師で、暴れる生徒を取り押さえる力が求められました。
暴れていた生徒の大半は、低学力生徒か家庭崩壊傾向、愛情不足傾向の生徒たちでした。当時は「落ちこぼれ」と言われたりしました。かつて私が関わった生徒の中には算数の九九もできない非行グループの番長もいました。
彼らは、今風で言えば「知的障害傾向者」であり、「ADHD・ASD」傾向者と言われるでしょう。当時の学級は、そんな子どもが学級に混じり、学級自体の均質化・秩序化を妨げ、デコボコ状態を醸し出していました。今のように学級で緊張したり、人目を意識したりすることが少なく、失敗や異質を受け入れる容量が学級にはあったのです。
二度と荒れた学校にさせてはいけないと、学校の管理体制は強化され、秩序を乱す異質の存在は学校から排除されるようになりました。その頃、特別支援教育も学校に導入されます。かつて暴れていた低学力の子どもは、教室から影を潜めます。管理は強化され、教室は同質化された子どもだけが残りました。
異質の混在は、同質化の防波堤になっていました。しかし、それが減少していく中で、異質的存在は学級に居づらくなります。みんなと違う、普通でない子どもは、どこに行ってしまったのでしょうか…あるいは家で生活するようになったのでしょうか…
集団が作る同質性は、異質性をますます排除していきます。異質であることは控えなくてはいけません。「みんなと同じでないといけない」「みんなと違ってはいけない」「普通でないといけない」などと子どもは異質になることを恐れ、集団の中で無意識的に緊張しています。失敗を過度に気にします。失敗すれば集団から排除されるかもしれないからです。過剰に人目を気にします。排除されては、その集団の中で生きていけなくなるからです。
学級成員の神経過敏状態は強まり、HSC(ハイリー・センテンシィブ・チャイルド=高度感受性をもつ子ども)なる子どもが増産さます。
小学校に行くと、「学校は失敗するところ」などの掲示をよく目にします。しかし実際の教室は、学級成員によって、失敗は異質性の一つとして冷ややかに見られがちです。小中学生は過度に失敗を恐れるようになりました。かつての学級には、失敗しても平気な子、人に笑われても平気な子が混じっており、失敗に対して集団自体が寛大でした。外れた異質の子どもの存在が教室に笑いをもたらし、リラックスさせたり面白くしたりなどの潤滑油的役割をもたらし、異質性を持つ成員の居心地をよくしていたと私は思います。
子どもは異質になるまい、みんなと同じようにしようと、過剰に神経を遣いHSC状態になる子どももでてきます。ある子どもはストレスで一杯になり、他者に暴力を振るう形で発散させたりします。またある子どもは、その過剰さに神経を使い果たし疲弊し、学級に居れなくなります。そしてやむなく不登校という回避行動をとるようになるのです。小学生の暴力の急増の原因、不登校増加の原因の一つは、ここにあると考察しています。
人間性が薫る 芝蘭の便り
喜び、安心、躍動、智慧にあふれた生き生きとした健康のリズムが、人の心の奥に流れていると、ブッタは弟子たちに語りました。
スティーブジョブ氏 最後の言葉
一代で巨万の富を築き世界的名声を得た、アップル創業者のスティーブジョブ氏は、すい臓がんのため55歳でこの世を去りました。死の直前、病床で語ったこと…「富や名声は死に際して何の役にも立たない。いのちが大事だ、私の病気と替わってくれる人は、だれもいない。私は、まだ大事な書を読んでいない。それは、健康に生きるための本だ」
自然、生物、人、万物は リズムを奏でている
塵、花、木、川、海、山、生物、人間、地球、月、太陽、星々、銀河のすべてはリズムを奏でています。これは、量子物理学の発見であり、生命の不思議世界に接近しつつあると言われています。見えない心のリズムについては既に、2600年前にインドの釈尊・ブッタ(注1)によって直観知され、その真意を信解した正師たち(注2)に求道、研鑽され、発展を遂げてきました。
宇宙のあらゆる存在は周波数でかたちが決まり、それぞれが固有の振動を奏でています。天に昇るような喜びの振動もあれば、地の底に沈むようなリズムもあります。動物も生物も、そのかたちに応じた振動をしています。人は通常は平穏・平和なリズムを奏でています。それが人間のリズムの基本であるとブッタは言います。
人は 他の生命や自然のリズムに 振動・共鳴してしまう
生命の発するリズムは光の波のように四方八方の周囲に拡散されます。よい光や香りを放つ人もいれば、怒気や不愉快波を出す人や臭気を放つ人さえいます。目に見えない波ですが、周囲に広がります。いわゆる共鳴現象です。五感で感じられる共鳴と、感じられないものがあります。例えば、お腹の中の赤ちゃんが、母親の言葉を聞き、感情を受信しているようなものです。善も悪も共感・感染します。きれいな夕焼け空や朝焼けの振動、穏やかな言葉の持つリズム、癒される自然の波動、心惹かれるリズム、嫌な不協和音の攪乱波(かくらんは)など、すべての生命的存在は、心の境界(注3)に応じたリズムを奏でているとブッタは語りました。
生理的合わないの本当の意味
「あの人とは、生理的に合わない」は、その一つの例であり、その人の発するリズムを心身が受け入れられない反応です。しかし、それは固定化されたものではなく、こちらの心の境界が上がれば、生理的な回避反応も、受け入れられるようになり、その人に合わせることができるようになります。
自らの心の境界を高めることで、どんな人の波長にも適応できるようになる
また不登校・ひきこもる人の中には、人々の発する不愉快な波を避けるために安全空間に回避している人も少なくありません。他者や社会の持つ嫌な波を受け入れ、適応できるようになるためには、こちらの心の境界を高めるしかありません。心の境界が低いと周囲に振り回されますが、高くなると、逆に周囲・環境をリードすることができ、価値的に対処できるようなります。
善き人、善き言葉に触れると 善いリズムに目覚め 人格が高められていく
ブッタのような人格の香る人のそばにいると 共感現象により 心が浄化され、人間性の高みに引き上げられていきます。逆に朱に交われば赤くなるとのことわざのように、人間性の低い人のそばにいると、「類は類を呼ぶ」ように、そのリズムに感染し いつしか人格から悪臭を発するようになるかもしれません。人はその境界に即して振動し、波を出しているからです。人の心がわかることは大変な難事です。自分の心がわかっていないと、人の心も分からないからです。多くの人は本心を隠して生きています。心が澄んだ人は、他者のリズムを直感で感じとり、その人の本質を知ることができ、善き波動と悪しき波動の持ち主を見わけることができるようになります。人を見分ける基準は、その人の私欲私心(松下幸之助の言葉…私欲私心が会社をつぶす)の有無をみればわかります。人格者は清廉潔白であり、正義を行うことに正直な人です。
意識は光のようなものであり 粒子と波の二面性をもつと考えられる
意識とは何か、最新の脳科学も、またあらゆる科学をもってしても、意識を正確にとらえることはできていません。しかし、確実に言えることは、今、このように読んだりしていることは意識の働きよるということです。その働きは、脳内の細胞・ニューロン間の電子伝達によるものであり、電気信号によって、シナプスに記憶化された言葉(物質化されたもの)を蘇らせている作業です。しかしそれは、意識の一面的説明に過ぎません。
意識は言葉では説明できない世界のリズムです。比喩的に説明するなら、光に譬えるしかありません。細胞が微弱な光(バイオフォトン)を出していることが、最近明らかになりました。光は二つの側面を持っています。それは粒子と波という二面性です。人の意識は、言葉による思考や想像力と気分・情緒という二側面があると考えられます。言葉・イメージは固定化された物質であり粒子(質量は0です)と言えます。気分情緒は波に譬えられます。人間の意識は情緒・気分というリズムをもっていると推測でき、それは波のようなものであり、関係性によって起きるため、不確定性原理が示すように把握できないのです。
生命は関係性であり 生滅の変化を奏でている
量子力学などで、素粒子の世界や動きから周波数の一部は解析できている部分もありますが、ごく一部であり、ほとんどが闇の中です。あらゆる生物、物体、人間や動物も固有の周波数を出していますが、固定的なものではなく、絶えず変化し、相関性で生起しているのが真相です。関係性で生起しているゆえに、一方が変化すれば他方も変化することになり、固定化できず、観測も分析もできないのです(不確定性原理)。その意味では素粒子の究極の世界と意識・生命は似ているといえます。宇宙のすべての生命体は周波数によってかたちができ、その周波数も刻々と変化し生滅を繰り返し、相関性(縁起)で成り立っていると直感したのが釈尊です。
健康・幸福になるリズムは 意識を磨くことから始まる
波動を高めるとか運気をあげるとか、周波数を合わせるとかいっても、宇宙、生命の真相がわからないと、どこに周波数を合わせるかさえわかりません。指標なき盲目の方向は危険です。地獄行きの周波数や人をだまし(グルーミングなどの優しい言動など)、不幸を誘う周波数で満ちているのがこの世界の現実です。心が濁っていると、見る目が曇り、真実が見抜けなくなり、偽物を本物と見てしまいます。結果、不幸な人生をさまようことになります。思考を磨き、選択する力、判断力を高め、想像力を広げる意識の錬磨によって健康・幸福のリズムに乗ることができるようになります。
真実を悟っていない人の言動や振る舞いを見ぬく賢さが求められる
見えないリズムをあつかう、宗教やスピリチュアル系や思想・考え方の怖さはそこにあります。今、問題になっている宗教がそのよい例です。そもそもお金や営利の心がある人や団体には気を付けなくてはいけません。ユーチューブやサイトの情報は要注意です。そもそも閲覧数(利益・名誉になる)が目的であり、閲覧者の幸福などほとんど考えていません。正しい思想の人は、ブッタやその弟子たちのように、お金や名声名誉を求めず真実の探求を第一に誠実に生き、自他の救済に生きています。なぜなら真実の探求と悟りで心が喜びと充実感に満ちおり、既に心の宝を得ているからです。
生命の真実に最も近づいとされるブッタ
生命本来のリズムの解明は宇宙すべての生命現象の解明なくしては分からない難問です。生命の真相を求めて、この地球では有史以来あらゆる聖人、賢人、物理学者、数学者、哲学者、思想家、宗教家が格闘してきました。そして到達した世界を書物や対話などで残してきました。その数は膨大であり、一生かけても探究できないと言われています。最も生命の真実に迫った人たちは2600年前ぐらいのインドに端を発しているようです。自分のすべてをかけて生命の真実に迫ろうとしました。世俗の欲と闘い、迷いの生命と格闘し悟りを得たと言われています。その代表が釈尊・ブッタと言われています。
生命の悟りは知識・言葉・分析知では到達できない 修業実践の中に脈打つ直観智
生命を悟ることは、知的理解では到達できないと言われています。知識は生命の一部しか理解できません。ブッタの悟りは直観智であり、生命全体で識ることでした。それは心身全体をかけた実践・修行のなかで生命浄化の果てに到達できた生命の直観知です。
欲望に染まった生命を浄化することによって、本来の純粋な自己が発するリズムにはじめて冥合が可能になります。本来の自己、つまり宇宙本来の自己のリズムは、万物を創造し育み慈しむ慈悲の音律であり波であり光であり無分別の一法なのです。慈悲の修行実践者にして初めて到達できる悟りです。欧米世界やイスラム世界では、その存在を神と命名し、人間世界のはるかかなたに祭り上げてしまい、その存在の探求や思考をやめ、崇め信じることを第一義にしてしまいました。
最高のリズムに合わせて生きるためには、覚者の通った道に学び、覚者の言葉を師標(注4)にして修行実践するしかありません。言葉では表現できない不可思議な音律がもたらリズムは覚知であり実践修得しかないからです。
正しい知識・言葉は 詩的で 美しい響きを持っている
そのためには、正しい指標、正しい知識が必要になります。正しい知識とは、生命全体を基本にした上で、部分は部分として把握理解している知識です。逆に不幸を誘う知識は、部分をもって生命全体とする偏った知識です。実践行動してみて、100%の人が幸福を実感できるものこそ正しい知識の証といえます。正しい言葉は詩的で美しい響きがあります。以下は、私が読んだもので美しい響きを持つものと記憶しているものの一部です。
「論語」、万葉集などの短歌、平家物語の冒頭、ニーチェの「ツラツゥストラはかく語りき」、マルクスの「ヘーゲル法哲学批判」、ゲーテの「ファースト」、ペスタロッチ「隠者(いんじゃ)の夕暮れ」、日蓮の「立正安国論」、ベルグソンの「創造的進化」、西田幾多郎の「善の研究」、宮沢賢治の「雨にも負けず…」や高村光太郎やタゴールやホイットマンの韻文、偉人の名言、故事成語など…。
善き知識 善き書物、善き人 善き師、よき先生に出会えることこそ 人生最高の宝であり、智慧と福徳の源泉です。それらの存在が契機(縁)となって私たちの心の境界を高め、幸福リズムに導いてくれるからです。
(注1) ブッタ…一般的には2600年前頃にインドに生れ、生命の真理を悟った人を言う。釈迦族(しゃか)の王子であったことから、釈尊と敬称されるようになる。釈尊50年の教法は八万宝蔵(はちまんほうぞう)と言われ、日本では般若心経や法華経や禅(ヨガや森田療法やマインドフルネスに影響)が、わずかに知られている。ブッタは釈尊一人の呼称ではなく、生命の真実を悟った覚者の別名であり、宇宙には無数の覚者が存在し、仏は人的側面を指し、法的側面は仏性(ぶっしょう)と言う。その仏性が心の本来のリスムであるとブッタは悟達された。
(注2) 釈迦滅後1000年の間に、釈迦の教法(法蔵)を付属し布教した24人の正師のこと。釈尊10大弟子の一人、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)に始まり、14代目に竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ・ナーガールジュナ)がいる。「空・くう」「縁起・えんぎ」などの深遠な生命理論が展開され、その「関係性の理論」は、量子力学の発見と近似していると言われている。
(注3) 心の境界 …中国の天台大師(538年~597年)によると、天台は心を多面的に観念思惟し、釈尊の法華経の中に秘されていた「一念三千論」の生命論を体系化した。心の十境界・じっきょうかい(1地獄界「苦しみ」、2餓鬼界(がき)『貪り・執着する心」、3畜生界(ちくしょう)「癡、おろか・威張る・愧(はじ)ない心」、4修羅界・しゅら「傲慢・嫉妬・マウントする心」、5人界・にん『平穏・おもいやりる心」、6天界「満足・喜び」…この六つの境界は環境に左右されやすい。7声聞界・しょうもん(正しい知識を学び自分のものにする向学の心、向上する心)、8縁覚界・えんかく(見えない世界や法則を悟る、気付き)、9菩薩界・ぼさつ(自他ともの生命を高め慈しむ智慧の振る舞い)、10仏界・ぶっかい(ブッタ、覚者、生命の真実を悟り成りきる)…以上の四つの境界は環境・他者を価値的にリードすることができる)。天台の境界論は、のちの仏教界に大きな影響を与えた。すべての命(衆生)は十界を有し、それらは「空」の状態で存在し、縁によって生起するという関係性理論を展開し、心の境界は固定化されたものではなく、意識を磨き修行することで高め、変えることができると論じた。現在の量子力学は、その理論を証明しつつあると言われている。
(注4)釈尊が弟子たちに説いた最も大事な指標の一つに「六波羅蜜」(ろくはらみつ‥波羅蜜とは、迷いから悟りに至り、宇宙大の生命をくみとり、そのリズムに乗るための六つ項目) の修行実践がある。六波羅蜜を正しく実践すれば、あらゆる病は治るとされている。釈尊は医王との別名があり、治せない病気はなかったと言われている。
1,「布施波羅蜜(ふせはらみつ)」…この実践により、自己の慳貪・けんどん心(貪欲で人にものを与えず独り占めする心)を破すことができる。具体的な実践として、財施・ざいせ(財・お金を他者に施す)、法施・ほうせ(正しい生き方や知識を人に施す)、無畏施・むいせ(心からの安心感を人に与え、人々の恐怖を取り除く)がある。これを実践すれば、執着を明らかに見ることができるようになり、依存症(ギャンブル依存など)を治すことができるようになる。心の境界の「餓鬼界」を善の方向に転換できるようになる。
2,持戒波羅蜜(じかいはらみつ)‥悪を止め、善を行うこと。リズム的生命活動を破る行為を、再び人間らしい生命へ回復させる実践。これを実践すれば、反社会的行為を治すことができる。心の境界の畜生界を善の方向に転換できるようになる。
3,忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)‥忍耐のこと。瞋恚(しんい、各種の怒りの煩悩を破す効果がある。)他者の生命を高め、慈しむ菩薩行には、耐え忍んで他者を守るという努力が要請される。これを実践すれば、アンガーをマネジメントすることができるようになる。心の境界の地獄界を善の方向に転換できるようになる。
4,精進波羅蜜(しょうじはらみつ)‥喜んで慈悲を行い、いささかも怠けない。懈怠(人間完成に向かって努力することを怠る心)を破す。これを実践すれば、社会で、その道の一流になることができる。修羅界を善の方向に活かすことができるわうになる。
5,禅定波羅蜜(ぜんじょはらみつ)‥静慮ともいい、精神を集中して散乱せしめないこと。マインドフルネスは、これを重点的に実践している。これを実践すれば、不安障害など多くの心の病を治すことができる。人間界を強化し安心立命の心を得ることができるようになる。
6,般若波羅蜜(はんにゃはらみつ・般若とは、智慧の意味)一切の事柄、法理に通達して明瞭ならしめる智慧の獲得を目指す。愚痴・ぐち(物事の道理に暗く、因果律や善悪、正義がわからない心)を破す。これを実践すれば、崩れない幸福郷に至ることができる。六波羅蜜のほかに、大事な指標として「八正道・八賢聖道」があるが、ここでは割愛する。
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と無関係です。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学理論、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、心理行動理論、詩音律学などを研鑽してきました。今は、人体学、意識論、量子力学、ニコラ・テスラの哲学、ブッタの教え、唯識・天台の生命論を中心に思索研鑽するなど、学問の旅は続いています。
人間性薫る 芝蘭の便り 2025,6,14
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と無関係です。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学理論、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、心理行動理論、詩音律学などを研鑽してきました。今は、人体学、意識論、量子力学、ニコラ・テスラの哲学、ブッタの教え、唯識・天台の生命論を中心に思索研鑽するなど、学問の旅は続いています。
なぜ、ありのままの自分を生きることができないのでしょうか。
それは他人の存在を意識しすぎるからです。仮に無人島に一人で生きるとすれば、あなたは何も意識せず、ただひたすら生きることに一生懸命になるでしょう。しかし現実の社会では一人では生きていくことができません。お互いに守り合わなければ、自分の命を保つことすらできないからです。
これは動物種としての本能です。一人であれば餌を取ることも食べることも生き続けることにも限界があります。やはり他人との協働が必要になります。他者の中で生きるとき、どうしても人目を意識し始めます。それは自然なことです。さらに集団の中での自分の評価が気になります。それも持って生まれた人の性分でしかたのないことです。やがてそこには、人の比較や優劣が生まれることになります。
集団の中で生きていると、自分をありのままに表現することが難しくなります。集団にはルールが生まれ、やがて、それが常識になっていきます。人々は時代と集団の中で作られたきまり(価値観)に知らず知らずのうちに、影響されていきます。そこでの常識という物差しで人が評価され、価値づけが行われます。
人々は価値基準というものさしで個々の人間を比べ評価していきます。ものさしは人を測る基準となり、優劣をつけていきます。比べる対象と物差しは無数に存在します。成績、学歴、会社、給料、役職、容色容姿、財産財物、地位、名誉、健康、身体、性格、各種の能力など…
人よりも強い、弱い。金持ち貧乏、顔がいい、顔がよくない。背が高い、背が低いなど。これらは全部、比較から生まれています。ある基準で価値が位置づけられ違いが生まれます。これら現実社会の比較優劣の実態です。しかし、これらは変化するので安定しません。
こうした社会の中では、人は安定できず、不安の中で生きることになります。基準の物差しが、時の流れと場で変わっていくからです。例えば戦争になると、人を多く殺す人が英雄となり、価値のある人になります。逆に平和な国では、一人、殺せば、極悪犯罪人となり、人としての価値も認められなくなります。社会の評価や価値に生きる間、本来の自分を生きることも困難になっていきます。
比較・優劣社会では、人々の目は外に向き、いつしか物差しという基準ではかられた価値に振り回され、安定できません。たえず心は揺れ動き落ち着かなくなります。
こうした比較相対の優劣を基準とした社会に振り回されないためには、自分の目を内側に向け、優劣を超えた価値を探し、それに生きることが大事です。その価値こそ、私たち本来の自分がもつ無上の心の価値なのです。
自分内比較、自己評価を根本にして生きることです。例えば、今日の自分と昨日の自分、一週間前の自分と今の自分を比較するなどの生き方です。何を比較するのか、目的をもって、努力したかどうかを比較します。結果よりも過程(プロセス、たどった道のり)を重視します。結果も比較相対の一部ですが、努力したかどうか、成長できたかどうかを問題にします。それは、比較相対を超えた絶対的な心の安定力になり、自己信頼領域が広がってゆきます。その積み重ねが、自信となり、自己の肯定意識を高もてゆきます。それに比例するかのように心の自由度も拡大します。
芝蘭の便り56
私の目的は、個々の人が、自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい
ニコラ テスラ (20世紀の物理学者・詩人)
心の安心領域とは何か
心の安心領域とは、どこにいても、何をしていても どんな場であっても どんな人に会っても 自分は自分でいいのだ、自分は大丈夫だと思える心の在り方です。それはどんなに変化する場にも柔軟に対応する能力であり 嫌なことにに耐えることができる力であり 困難を乗り越える力であり 挑戦・経験し、失敗から学べる能力であり、自分はできるんだと自分の力を信じることができる能力です。それは知識量でも、学力でも、学歴でもありません。人間の「知・情・意」を総合した経験から生み出される磨かれた意識です。比喩的にいうなら、情緒力ともいえます。
心の安心領域を広げることが 不登校・引きこもりの 解決の良薬
会社や学校で嫌な出来事に遭っても、それに対する反応は人それぞれです。みんなが、そこから回避するわけではありません。では、引きこもりや不登校は、なぜ家という安心空間に回避したのでしょうか。その原因について考えることが大事です。そうすれば、その人独自の解決の道が見いだせるはずです。
本質的な原因の把握なしに学校・社会復帰させようとして、関係機関に相談し、子どもだけをなんとかしようとする無駄を繰り返しているのが現状です。的を外した対処に改善はありません。逆に悪化させ、ひきこもり・不登校を長期化させることになってしまいます。本質的要因の一つが心の安心領域の問題です。安心領域が狭いと、場の変化に安心感が得られなくなり、その場にいることが苦となり、そこから回避してしまいます。
自分が分からず どう生きてよいのかわからない
人間にとって最も大事なことは何があっても、自分らしく自分を表現し、どんな環境や出来事にも立ち向かっていける強い心、賢さ、そしてしなやかな心を持つことです。
この世界に、あなたの顔が一つしかないように、あなたの人生もあなた独自の道になります。ガイドラインやマニュアルは机上の知識です。残念ながら数学的な解答は人生にはありません。自分で解答を見つけるしかないのです。
環境の変化に うまく適応できていない
めまぐるしく変化する現代社会に大人も子どもも適応することに難しさを感じています。この世界の人も、ものも、自然も、すべては変化していますが、普段は意識できません。変化が小さいときは習慣的に自動反応し、今までの記憶化された心身の習慣力で適応できるからです。しかし変化の波が大きいと、適応できない人や生物や自然が増えてきます。それが、ひきこもり、不登校の一因になっています。
急速な変化に適応できず、自分でも原因が分からず、今まで普通にできていたことが出来なくなっていきます。専門家は社会不安障害、うつ、適応障害、ひきこもり・不登校という名前をつけることで解決したかのように錯覚していますが、その中身は曖昧であり、人間の部分しか見ていないため、的に当たっていないのが現状です。なぜなら生命現象(人間の心と体、自然、社会など)の全体が分かっていないからです。
物質的豊かさ 便利社会がもたらす 忍耐力の不足
科学技術の急速な発達により、物質的豊かさは年々増し、忍耐しなくてよい便利社会が到来し、過剰サービスが人間の忍耐力や思考力を脆弱化しています。人はすべてのことを当たり前と思うようになり、科学技術を盲信し、いつしか驕りという毒を飲まされ、人間の素朴な.心を失い、自分の外にあるものに感謝の念が持てなくなりつつあり、今生きていることの有り難さに鈍感になっています。
視聴覚という感覚反応中心の生き方は 情緒が育たない
スマホ・パソコン、テレビなどの電気製品の普及に、私たちの心身、脳は適応できず、心身のバランスを崩していることに気づいていません。見えたり聞いたりする情報に操作され、生きることが視聴覚という快感覚反応中心になりつつあり、思考や想像力を培う場を失い、嫌なことに耐える力が身に付かない生き方になっています。
想像力と忍耐力と思考力などの総合力である情緒の不足は、人間関係を難しくします。引きこもり・不登校は、環境適応できず、社会から逃走し、家という安心空間への回避した状態といってよいでしょう。そこには多くの場合、情緒の未熟さが見え隠れしています。
安心領域は愛情という心の栄養で育つ
安心領域の基礎を育てるのは、まず親の愛情です。なかんずく母親の無条件の愛情です。子どもを、丸ごと受け入れ、大事に守り育むことによって、子どもは人間信頼の基盤を築いていきます。いわゆる基本的信頼とか、こどもの安全基地と表現されるものです。この基本的安心領域ができていれば、成長と共に、子どもはあらゆる場での経験を糧にして、自ら安全領域を拡大していくことができます。この基本的信頼が脆弱であれば、変化しゆく場に不安を感じたりして、その場に適応することができなくなり、そこから回避することが起こります。
安心領域を広げるには 正しい知識と学びが必要
そうした場合は、特に親も子どももともに人間としての新たな学びが必要になります。学ぶことによって変化をもたらしている波を知り、変化の中で生きる自分を知り、変化する環境と自分への適応力に気づくことができるからです。つまり人生が変化の連続なら、幸福に生きるためには大人になっても学び続けるしか変化に対応できないからです。
学歴を得るために学ぶのではなく 自分を高めるために学ぶことが 人を賢くする
学校の学びは、学歴や社会的ステイタスを得ることが目標の知識偏重になり、知識がモノ化され現実の生きる力になっていないのが現状です。学校で学んだ知識は過去のものであり、多くは今の変化に対応できなくなっています。
「学べば学ぶほど、私は何も知らないことがわかる。自分が無知であると知れば知るほど
より一層 学びたくなる」(アインシュタイン)
人間の心を知る、身体と心の関連性を知る、自然や社会を知る、人との関わり方、人生を知ることを学びます。断片的知識ではなく、知識を全体につなげ、人間全体を知ることを学ぶことが大事です。そして、その人らしい個性を表現して輝いていける自分らしい生き方を知ることで、安心領域の広がりを自得していきます。正しい知識と智慧の獲得を目標に学び続けることです。智慧とは生きる最善の対処法です。どんな環境下にあっても自分に負けず、生き抜く力です。それこそがどんな場にあっても通用する安心領域なのです。
自分を高め 周囲の人を その光で照らす学びと生き方が 正しい生き方
最終目標は、人として「一隅を照らす」生き方ができるようになることです。それは、中村哲医師(注1)の生き方の指針でした。
アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされた中村哲医師のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らを省みず献身する母親もその一部)の一人だと思います。
注1 中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」平安時代の人、最澄の言葉。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」
芝蘭の便り 5月19日号
対人恐怖・場面不安を解決する具体的な行動 芝蘭の便り㉔
自分の内部で起こっていることや、「自分がどう、うまく振る舞うか」ということに焦点をあてはめないようにします。代わりに、自分が加わっている会話で、話に耳を傾け自分も参加することに集中するようにします。(話を聴くことに注意を向ける)
他人は、あなたがどれほど不安に感じていても、ほとんど気づかないことを覚えておきます。あなたが考えているほど、不安が目に見えて表れることはありません。(他者には、あなたの心の中は見えない)
他人は必ずしもあなたの言っていることに注意を払っているわけではありません。彼らの注意はほとんど自分自身のことに向けられていることが多く、自らの問題に、なによりも関心をもつものです。立場を変えればわかります。人は、基本的には、みんな自分中心です。自分が先です。それが人間の自然な姿なのです。
自分らしく自然体であればよいのです。ありのままの自分を受け入れることです。(自分に生きること)
人と関わるとき、不安感はあなたしかわからない体験であることを学びます。(心は見えない)
誰でも不安になることはあります。毎回の会話で全て完璧に振る舞う必要はありません。(実力以上には生きられない。背伸びしない。無理をしないこと。今の自分のありのままでいいのです。)
人前でのできが、思っている以上に悪くないことにも気づくことが大事です。実際、あなたよりスキルの低い人はたくさんいるからです。(自分を客観的に見てみる、メタ認知することです。)
ありのままの自分に生きるように心がけます。人目、人の思い、人が自分をどう思うのかという生き方から、自分の生き方、自分の行動、自分の考えという自分の外面に見える姿ではなく、内面の心を大事にする生き方…自分自身に生きることに努めます。
受動的な生き方から、能動的生き方に生き方の姿勢を変えます。受け身の生き方は、他人や環境に支配されやすくなります。能動的な生き方は、環境を変えていくことができます。
案ずるよりも産むがやすし‥頭の中であれこれ考えるよう、一つの行動が大事です。行動、つまり、新たな経験をすることです。
経験することが大事です。目的を達成する(成功する)ことより、やったかどうか、努力したかどうかが大事です。プロセスを大事にします。新しいことに挑戦することです。そして、うまくいかなかったことから学んでいくことが大事であり、それが本当の成長になります。
人の中で何か行動する時、行動そのものを重視し、その行動を精一杯やり、その行動がどうであったかを省みて、自分を高めていくようにします。
内向から外向、受け身から積極的・能動に動けばよいのです。見られている自分から、人を見る自分に変っていくことです。人は、あなたが思っているほど、あなたのことを見ていないし、気にもしていません。
謙虚に人から学び、世の中から学び、あらゆるものから積極的に学び、自らを向上させ、あなたが立派な人間になることです。あなたが人間的に向上していけば、あなたの周りに、あなたにふさわしい友達が出てくるものです。つまり、あなた本人と環境は、本体と影のような関係であり、一体なのです。
生きるということは、今の瞬間しかありません。その瞬間の連続なのです。過去も未来も、すべてこの瞬間にあります。今を絶えず「精一杯生きる」こと、そして、受け身ではなく能動的に行動すること、さらに学びと向上心があれば、いつの間にか、人目を気にすることさえ忘れている自分になっているでしょう。
痛み・苦しみはメッセージ
痛みや苦しみは心身の不調和から発するメッセージです。対象への執着は神経の過剰疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩します。心身の調和が乱れきった時、苦や痛みは限界を超え、心身は病んでしまいます。
しかし人は、その原因を見ようとせず、目に見える痛みの原因を除去しようとします。結果、病は増幅し本質的な解決に至ることが難しくなります。
木を見て森を見ず
森に入れば目の前の木しか見えません。これは人間の本能的感覚の現実であり、限界です。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たち人間は、見えたり耳に聞こえたりする五感覚で感知できるごく一部を見て行動し、わかったつもりになり、全体を見ることをしていません。物事の全体を見るためには想像力を働かさなければいけません。
正しい瞑想の在り方
最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本義もわからずやっている人がほとんどです。真の瞑想は意識、想像力を磨く修行なのです。想像力と思考を磨き本来の自己と宇宙的自己に冥合することが、ブッタ(覚者)の瞑想でした。
想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ
アインシュタインの名言です。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は光彩を放っています。今から述べる事柄は、感覚では理解できません。想像力を働かせれば見えてくる世界です。地球は月という兄弟衛星を伴い瞬時も休まず動き変化し 太陽系の中で絶妙な調和を保っています。その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営んでいます。
意識は1%しか感覚・認知できない 99%は無意識の活動
私たちの身体の働きの一部を知識に基づいて想像してみます。私たち人間の身体はリズムを奏でるように呼吸し心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡っています。食べたものは口内で咀嚼され、食道を経て十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進み小腸で、各血管を通じて各臓器に栄養となって運ばれます。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚で身体を守ってくれています。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守るため、免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節してくれています。
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で外部世界と交渉していますが、それは身体の働きの100分の一以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識ることがではないのが人間の本来的な働きなのです。
神経とは神の通り経(みち)という意味
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆の細胞を新陳代謝させ絶妙な調和を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の歯の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが人の身体の現実ですが、それは人の身体全体から見れば微小なことに過ぎません。
生きるとは変化であり 環境適応である
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。
思考しないことが 心の死を招く
現代人の多くは視聴・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失っています。それが様々な新しい心の病をつくりだしていることに誰も気づいていません。
現代病の多くは生活習慣、思考の誤りに起因している
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。
澄んだ心には 対象がありのままに見えてくる
人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っています。磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には すべてが正しく見えるようになります。何が幸福をもたらし 何が不幸にさせるのかを 明晰に見分けることができます…幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです。
心の不調和状態をつくる 四つの欲望と感情
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。一つ目は、瞋り(いかり)です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると 心の波は逆流し 自他を巻き込み いたずらに消耗し やがて苦しみの海に沈んでゆきます。二つ目は、限度を知らない過剰な欲望です。それは 自らを焼き焦がし 周りを燃やし 炎の波にのまれてゆきます。三つ目は本能的快楽を求めすぎることです。快楽に耽け続けると 心は淀み 濁り 善悪がわからなくなり 心の波は間延びし 思考もとまります。四つ目は、今風に言うとマウントの心です。人に勝りたい 人より優位に立ち 人を支配したいと思い続けると 心は歪んで 素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は ほどよさの感覚を失うと 調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。
幸福になる人は 心が素直で 柔らかく 心根が善い人
幸福になる音色を奏でる人は 心が素直で 柔らかく きれいに澄んで 美しい周波を演じています。財産 社会的地位 名声 人気 才能 美貌 健康などは 幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが 時とともに色褪せ 壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは 空しく時と共に風化し 最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは 花火のようなもので 刹那的な陽炎のようなものです。幸福になる人は、心の中に積む人間性や人格の光こそが大切だということを知っています。それが心根の善い人の特徴です。
この世のものは全て変化する お金や名声への執着は 最後はむなしさを招く
ー祇園精舎の鐘の声 (注)諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の詞は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り 心の真実相が見えないからです。
自分の心の底から湧き出る喜びこそ幸福の源泉
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識 五感 心根は時とともに輝きを増し その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは 永遠性を孕んだ美しい調和された波そのものです。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる調和波なのです。
偉人に学び それを素直に 日々実行していく人は 心が健康になり 幸福になっていく
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…自分や人の心が美しいと感じた時はどんな時だったのかを 振り返ってみてください…過去の聖人・賢人の生き方や 思想哲学や文学・芸術に学んでみましょう。不断に自己を磨き続け 内省し 浄化された自己の鏡に 真実も幸福も映し出されるでしょう。意識を磨き、研ぎ澄まされた精緻な思考の力、そして宇宙をも包む想像力を身につければ、あらゆる病は消滅し、真の安らぎを得ることができるでしょう。それがブッタが悟った真の瞑想行為です。
注 諸行無常…仏教で説かれた重要な思想の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は縁起によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は縁起で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と意識しているにすぎず、夢のようなものを実在していると記憶しているにすぎません。認知症になり記憶機能が失われてしまえば、自分が自分であることも分からなくなりますが生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による錯覚現象のようなものです。
この世のものは全て動いており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の発見です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明する形になっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実相を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を無限に広げることで可能になります。
沙羅双樹の花…釈迦(釈尊・ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で存在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相といいます。究極のブッタの哲理です。それを悟ることができれば永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は覚知されました。
―愛とは互いに見つめ合うことではなく 二人が同じ方向を見ることであるー
サンテグュペリ・星の王子様の作者
夫婦の愛情のない家庭に 不登校や子どもの問題行動が生まれやすくなります
二人の醸し出す人間の愛情の持つ周波数は、家庭の中に波となって漂い、同居家族である子どもに大きな影響を与えます。子どもは心の栄養である愛情を受け取れず、情緒が育たなくなり、健全な愛情を育てることができなくなります。その結果、人間関係の中で衝突や感情的トラブルを起こしやすくなり、集団に適応できなくなったりします。これは、私が関わった不登校児や問題行動を起こす子どもの家庭によく見られる風景です。
男女の愛情の序章 それは恋です
男女の愛の序章、それは恋です。恋なくして男女の愛の成立はありません。恋は好きという感情から始まり恋愛に発展していきます。恋愛感情の背後に、性的ホルモンの働きがあります。これは全ての動物・昆虫にも共通する種保存の生命が内在的に持つ法則です。本能的であるため、盲目性があり、暴走することもあります。その段階で結婚まで走ってしまえば、早期の破綻を迎えるかもしれません。
好きな相手も 時間が立てば 嫌になることが増えます
好きという感情は嫌いという感情と表裏ですから、相手の嫌な面を見ると、たちまち嫌いという感情に変っていき、やがて二人の間に嫌悪感が漂うことになります。例えば、どんなに好きな食べ物でも毎日食べれば飽きがきてしまい、おいしさを感じなくなります。同じように、どんなに好きな相手でも、いつも一緒にいれば飽きてしまい、新鮮さもなくなり、好きという感情も薄れていきます。これは、人間のもつ本能的生理感覚ですから、誰人も避けることができません。倦怠期と表現される状態です。
好き嫌いを超える一つの方法 利の価値に生きることです
これを乗り越える方法の一つが、相互の損得・利害関係を考える知です。離婚は、「世間の恥」とか「社会的信頼を失う」とか、「子どもの教育に良くない」とか、「経済的にやっていけない」とかで、二人が好きでもないのに一緒に生活している関係が損得関係を重視した知です。知によって好悪という感覚を克服しようとします。しかし、それだけでは、恋愛の親近性もなく、愛もないため、往々にして冷えた関係になり、家庭内別居状態になりがちであり、二人とも幸せを感じることはできません。
二人の心の向上によってもたらされる 新しい関係 それが愛です
これを乗り越えるのが、双方の努力によって育んでいく関係です。それは自己中心性と葛藤し、相手のことを考える心の成長が求められます。双方の心の向上なくして成就できません。愛は二人が紡ぎ出す、この世に二つとない美しい世界を表現します。その一端を私たちは恋愛小説やドラマに見ることができます。愛を育てていけば二人は終生、美しい絆をつくってゆけます。その二人に、離婚という文字はありません。
愛情に必須な条件は 相手をかけがえのない人間として 尊敬することです
愛に必須な条件は、相手を一人の人間として尊敬できるかどうかです。そのためには、相手をよく理解し、相手の良さを見出せるかどうかにかかっています。これは、好悪や利害を超える心の絆があります。人間信頼、人間尊敬ほど強い絆は、この世にないからです。
愛情は相手を大事に思う心であり 守り抜く行為です
愛は本当の優しさをともないます。また見返りを求めることはしません。相手がどんな状況になっても、たとえ相手の姿かたちが変わり果ててしまっても、その人のすべてを受け入れ 守り、大事にし、尽くし抜く心、それが愛です。
例えば、男性が新婚前後の女性に愛を捧げるのは難しくありませんが、10年、20年、そして相手が白髪になった70代、80代になっても愛を貫くことができれば、それは本物の愛です。そのパートナーは世界で最も幸福な人といえます。
スティーブジョブ氏最後の言葉 大事なのは 金でも 名誉でもなく パートナーへの愛情
愛はお金や財宝、名声、人気、地位で得ることができないとスティーブジョブ氏(アップル創業者・56歳で死去)は言いました。この世界の最高の宝なのです。生きているときも、そして死後にも持っていける美しい心の品性です。
愛の実践は人間の向上であり 人間完成であり 最高の幸福への道です
愛の実践には、心の強さ、心の清らかさ、正しい心を保つ品性が求められます。愛は二人を高め合います。高め合う愛こそ本物の愛です。愛は人間の品行の成長を伴います。愛する二人は限りなく向上し輝き、美しさを放ち、周囲をほのぼのとさせます。それが本物の愛の品格です。
愛は その人のすべてを受け入れ 大事にし たとえ相手が白骨になったとしても その人を 永久に 愛し続ける それがまことの愛です。
※以下に述べることを理解し、実行してゆけば、愛を育むことができ、夫婦関係は100%改善できます
◎愛情を育む具体的実践
スキンシップをこころがける
◎身体のスキンシップをこころがける…一日に一回は相手の体に触れるようにし、相手の温もりを感じ合うようにします…肩に触れたり、肩を抱いたりする、腕を組む、手を握るなど、できそうなことから行動にうつします。
◎心のスキンシップ(心の栄養を届けること)をこころがける…
・一日に一度は、相手に笑顔を贈る
・毎日、相手に優しい言葉、相手を尊敬している言葉、感謝の言葉を届ける(ありがとう、今日も一日お疲れ様など)
・毎日会話をする(5分、10分、20分…徐々に増やしていく)
・ときには、「愛しているよ」「好きだよ」などと相手に好意の言葉を贈る
以上のことが実行出来れば、二人は仲良くなれるし、愛を育んでゆけます。
さらに以下のことを理解し、実行していけば、人間理解が深まり、愛は深まっていきます。
人間の自己表現法は二つある。
1,言葉の表現…言葉は事物の比喩であり、共通の記号。 言葉の裏に込められた意味を読むためには心を遣わなければいけない。
2,言葉以外の表現(ノンバーバルコミュニケーション)から心を読む
※ノンバーバルコミュニケーション…顔の表情、服装、振る舞い、声色など
メラビアンの公式(好意の総計100%)‥人の印象に残る表現を知る
①言葉による表現(言語情報・話している内容)…7%
② 声による表現(聴覚情報…声の大きさ、声色、速さ、口調など) …38%、
③ 言語外による表現(視覚情報…見た目、視線、しぐさ、表情、服装など) …55%
※言語外表現が、最も人の心に好感として残る
会話における言葉には 三種類の機能があることを知る
1、言葉は共通の記号である
2、言葉の解釈…言葉の正しい意味
3、言葉にこめられたもの…言葉で表現しようとしている言葉以前の心、感情、気持ちという波動のようなもの」をキャッチする
※出来事を語る場合…人によって「出来事」の受け止め方は異なる。置かれた位置、立場、精神状況による。相手の背景、立場、認知の枠や癖を理解して出来事を再生し、想像し真実に迫る。
心を開く関係づくりは、無条件の肯定的な関心を持つことを知り、実行する
・相手に対して無条件の肯定的な配慮をもつこと。➡条件・限定をつけるということは、こちらの欲求を満足させる利己的愛情といえる。
・第一に、人間の意義と価値に対する心からの尊敬。⇒肯定的関心
・第二に、相手の自己指示(方向、選択、決定)の能力を信頼できるかという点であり、個人の人生を決めるのは、その人自身であることをどこまでも深くこちらが感じ取っているかである。
相手を総合的に理解するよう心を尽くす
①相手を取り巻く状況を多角的(時間・空間的)に知る
・長所短所などの特性、趣味、友人、今の置かれた状況、精神状態。
一つのカテゴリー・型にはめこまない。相手の現在を多角的に理解するメタ認知力を高める
②こちらの態度と人間性の与える影響力
・相手とどのようにつながるか、こちらの人間性、態度、言葉遣い、安心感、ほっとする雰囲気、こころを開く言動や振る舞い…総合力でつながること(コミット)を心がける。
・相手が心を開かなければ、こちらを信頼しなければ、関係はできない。
これは、すべての他者とのかかわりに共通したものである。「心を開く」「信頼関係」が大事になる。
・「心の思いを声にのせる。つまり、言葉や声、声色で心を知る。心を聴く努力。
・自分にとって相手は「鏡に浮かべる姿」 人は関係性で変わることを知る。
・悩んでいる人に対して大切なことは、心を軽くしてあげること、明るくしてあげること。相手の言うことに、じっくりと耳を傾ける。じっくりと話を聞いてあげる。それだけですっきりする心が軽くなることが多い。聞いてあげること自体が、苦しみを軽くすることになる。
メンタライゼーションを活用する…
メンタライゼーションとは、「行動の背後にある心理状態と意図を考慮に入れて、他者の行動の意味を解釈する能力である。」
⇒相手の心は理解できないという無知の姿勢が大事。だから相手を理解していこうという、相手に対して積極的な関心を持つようにする。信頼関係が築かれないと相手は心を開かない。心が開かないと、どんな言葉も相手の心に届かない。自分の心理状態を知ること。自分の心理状態が悪いと、相手の心を理解する余裕もなくなり、理解できなくなる。相手の心理状態を知り、相手の状況を知る努力をする。
心の健康のために…ストレスに負けないレジエンス力を日常から培うようにする
1 自分はできると信じる、自分に負けない心をもつ…あきらめない心が心を強くする。
2 失敗した時、新しい自分を見つけるようにする。人生・経験は、すべて教師である。失敗も成功も一つの出来事、全ては経験であり、自分や人生を教えてくれるかけがえのない教師である。
3 自分を支える人を持つ。 身近な人に感謝できる心を持つ。
4 良い習慣を身につける…規則正しい生活、良書に親しむ、笑いと感謝、積極的、前向き、楽観的、強気、出来事に意味を見出す生き方、未来を明るく想像する生き方、マインドフルな生き方など。
5 心の強さは、「苦」を乗り越える度に強化されることを知る。