相談室(ブログ)

幸福は きれいな 澄んだ心が 大好きです

2024.10.06

澄んだ水の流れは 清らかで川の底まで きれいに見えます

磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります

心も同じです

きれいな澄んだ心には すべてが正しく見えるようになります

何が幸福をもたらし 何が不幸にさせるのかを 明晰に見分けることができます…

怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると 心が荒れ 苦しみの海に沈んでゆきます

限度をわきまえない強欲は 自らを焦がし 周りが見えなくなり 炎の火に焼かれてしまいます

快楽に耽け続けると 心は淀み 濁り 善悪がわからなくなり 蜘蛛の巣にからめとられてゆきます

人に勝りたい 人より優位に立ち 人を支配したいと思い続けると 心は歪んで 素直さを失い  

人としての優しさを失っていきます

人は 欲にとらわれ過ぎ ほどよさの感覚を失うと  調和がもたらす美しさと多幸感がなくなり

幸福からどんどん遠ざかってゆきます

幸福になる音色を奏でる人は 心が素直で 柔らかく きれいに澄んで 美しい周波を演じています

財産 社会的地位 名声 人気 才能 美貌 健康などは 幸福の一面的な要素で

束の間の喜びをもたらしてくれますが 時とともに色褪せ 壊れてゆきます

自分の外側を飾るものは 空しく時と共に風化し 最後は消えてしまいます

心の外側に求めた楽しさや喜びは 花火のようなもので 刹那的な陽炎のようなものです

ー祇園精舎の鐘の声 (注)諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすー

平家物語の冒頭の詞は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移

ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません

ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り 心の真実相が見えないからです

心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識 五感 心根は時とともに輝きを増し その人の

人格を照らし不滅になります 

心の底から湧き出る喜びは 永遠性を孕んだ美しい周波そのものです

なぜなら外側から与えられたものではなく 

自分の心の底から自然に湧き出たものだからです

この喜びこそ幸福の本質を奏でる周波数なのです

心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…

自分や人の心が美しいと感じた時はどんな時だったのかを 振り返ってみてください…

過去の聖人・賢人の生き方や 思想哲学や文学・芸術に学んでみましょう 

不断に自己を磨き続け 浄化された自己の鏡に 真実も幸福も映し出されるでしょう

注 諸行無常…仏教で説かれた重要な思想の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は縁起によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は縁起で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。

私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と意識しているにすぎず、夢のようなものを実在していると記憶しているにすぎません。認知症になり記憶機能が失われてしまえば、自分が自分であることも分からなくなりますが生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による錯覚現象のようなものです。

夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実相を覚知できません。

沙羅双樹の花…釈迦(釈尊・ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で存在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相といいます。究極のブッタの哲理です。それを悟ることができれば永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は覚知されました。