相談室(ブログ)

生きることが苦しい。死ねば苦しさから解放されますか?

2022.12.29

 これはとても難しい問いです。なぜなら、未だ解決されていない人間にとっての最重要な問いだからです。
古来あらゆる哲学、宗教がこの問いを模索し解決の道を探究してきました。 しかし死んだ人は語らず、未だ生きている人は死を経験していないので、この問題に対する解答はすべて仮説でしかありません。
 
 最近「死は存在しない」(田坂広志著)という本が量子力学的視点から書かれ出版されています。題名は逆説的な表現をしていますが、その書の中で死ぬと、意識が宇宙生命に帰る、言い換えれば、ゼロポイントフィールド(宗教でいうところの神や仏)というところに帰ると仮説を述べています。しかしあくまで仮説に過ぎません。

 死を解くには、今生きている生命とは何かを解明しないとわかりません。この問いに最も肉薄したのは法華経ではないかと私は思います。宮沢賢治は若くして当時不治の病と言われた肺結核にかかり、仏教を探究しました。最初は浄土の阿弥陀経の信奉者でしたが、最後は法華経に帰依したと言われています。有名な「雨にも負けず 風にも負けず…」で始まる詩には、法華経の不軽菩薩(ふきょうぼさつ)の精神(あらゆる生命は仏性を宿しており、菩薩の行(ぎょう)を行えば、だれでも仏になれる。つまり覚者になり、最高の幸福境涯に至れるという教え)が詠われています。彼も不治の病の苦しみの中で、死を見つめていたようです。賢治は惜しくも37歳で夭折しました。

 法華経の生命観。生と死という二つの相(そう)は生命のもつ二面性であり、生命は生と死という両者を含んだものであるという考え方です。生死不二(しょうじふに)つまり、二(に)にして二ではない。これは「空」(くう)という概念が理解できないと悟れません。般若心教の「色即是空」(しきそくぜくう)で表現しようとしている「空」の概念です。「色」(しき)つまりこの世の、分析できる世界、目に映る世界、心の種々の欲望などは、すべて「空」つまり、分析できない、目には見えないが確かに存在しているという世界と同時に存在しているというのが「色即是空」の意味です。難解です。
 
 私たちは生きている間にさまざまな行為、口で言ったり、心で思ったり、行動したり、あるいは体でいろんな行為を行ないます。善いことも、悪いことも。これらの行為の集積をカルマといいます。これは今の脳科学では脳に全て私たちの生前の行為は記憶されていると言われています。仏教で言えば、「空」という世界に。そして、死ぬ瞬間に人間は、全ての生前の行為を走馬灯のように自分が見て、自分を評価する(裁く)時が訪れるといわれています。厳粛でもあり、厳しい瞬間です。他人や法律は欺くことができても、最終的には自分は欺けず、自分は全てを知っていると言うことです。これが「自業自得」の本当の意味なのです。
 
 深層心理学では、生前の行為は、すべて心の奥底に記憶されていると言われます。仏教で言うと阿頼耶識(あらやしき)という無意識世界の深いところにすべて存在しているというのです。つまり業(ごう、行為、カルマ)が死後も続くと言うのです。この阿頼耶識の中に蓄積されたものが、次の生命誕生のときに、それにふさわしい縁を得て生まれてくるというのが法華経の智慧です。自己の連続性を説いているのです。
 
 つまり苦しみは、死んでなくなるものではないということです。例えば、今日1億円の借金があるとします。そして眠ります。次の日、借金が消えたかというと、そのまま1億円の借金が残ったまま、続きを生きるのです。つまり寝るというのが死と考えると、翌日起きるというのが新たな生のたとえになっています。つまり死んでも、今の苦しみはそのまま続くということです。エネルギー保存の法則という物理学のたとえを考えれば理解しやすいかもしれませんね。決して生まれ変わるというものではなく、自己が連続していく、続きをやるということです。
  
 結論すると、死によって苦しさは解放できないということになります。つまり苦しさの開放は、今生きている中で開放するしかありません。生きる苦しさの解放の根本的解決法は、苦しみの原因を明らかにみることから始まります。それが、真の哲学の開始でもあります。ギリシャの哲学者ソクラテスの「汝自身を知れ」(みずから生命に対する無知を自覚せよ、そこからすぺてが始まる)という言葉が響いてきます。
 生命を明らかに見る、自分の心を明らかに知れば、心の苦しさから解放されます。なぜなら、全ては自分の生命の働きであり、自分の心が作った苦しみだからです。これはブッダ(生命の覚者)の悟りの言葉の一つです。こうした生命に関することが、人間にとって最も大事ながくもん