相談室(ブログ)

コミュニケーションが下手。人との会話にはいっていけない。20代女性

2019.12.26

(質問)
現在新卒で入った会社で就労中なのですが、コミュニケーションが下手で、人と上手く付き合えません。
職場の同期は気がついたら(多分これも私の自業自得だとは思うのですが)私以外を抜いた状態で非常に親密になっていて、それでも優しい方がいて気を使ってランチに誘ってくれたりはしたのですが、全く会話が弾みませんでした。というよりも私抜きで会話が弾んでいて、その場にいるのが申し訳なくなりました。
同期以外にも、職場の同じ部署の同僚の方とランチに行く機会もあったのですが、やはり全然上手くコミュニケーションをとる事が出来ませんでした。そもそも私は非常に仕事の出来が悪く、そうやってコミュニケーションも上手く取れないということで段々職場で腫れ物扱いのようになっていって、仕事の不出来で同じ部署の方ともギクシャクするようになりました。
最終的にその部署からは異動になり、今の部署では仕事上の当たり障りない程度のコミュニケーションは何とか取れている、という状態です。今の部署の方とは親しくもないが仕事上の同僚として問題ない、という感じで、自分としては何とか上手くやれていると安心していたのですが、新人の指導方針で1度同僚の方と衝突して、結局私はまたコミュニケーションの問題を起こすのか、と暗澹とした気持ちになりました。
もともと高校3年の時も同じクラスに親しい友人が居らず、大学も友人作りに失敗して研究室にも馴染めず、先生とのコミュニケーションも上手くいかず、卒論もどうしてあれで卒業させて貰えたのかよく分からないような代物を1人で作りました。大学の時には中学からの友人ともギクシャクするようなことを起こして以来疎遠になってしまい、今はもう大学のサークル時の友人しか繋がりのある人はいません。彼女たちは非常に仲良くしてくれるのですが、中学からの友人の時のように、いつか呆れられるのでは、疎遠になるのではと考えてしまいます。最近会う人とも新たに関係を築くことが出来ません。コミュニケーションの問題、もしくは自分の自意識を変えなければ一生このことに悩まされるのではと思うのですが、どうやって努力したらいいのかわかりません。コミュニケーションはどうやって練習すればよいのでしょうか。

(回答)

臨床心理シランの室です。
話には目的を持った会話と目的のない会話があると思います。目的を持った会話は、あらかじめ話す内容も用意できますから、比較的簡単です。

目的のない会話…人が集まり自然と始まる話…だれが中心ということでもなく、きまりもなく、誰もが自由に発言し、話題にも目的性がなく、いろいろなものに変っていき、話は自由に流れていきます。臨機応援であり、気ままであり、自由です。その流れに入ると結構楽しめます。いわゆる雑談です。

しかし、誰でも簡単にできるものではありません。心の柔軟性や熟練が必要になります。アスペルガーや自閉症スペクトラム傾向の方は、雑談がうまくできません。こだわりが強く、柔軟性が不足しており、場の空気や人の心の流れを読むことが苦手だからです。また、冗談や譬えがわからないという傾向もあります。

会話の中でも、雑談が自然にできる人は会話の上手な人と言えます。雑談は簡単に見えて実は、かなりの会話術が要求されるのです。雑談の上手な人は、知識や情報通であり人間が柔軟な人です。また全体を見ています。また、自信を持っていたり、自己肯定が強かったりします。

雑談のような日常会話ができるようになるためには、自己肯定が高くなくてはいけません。自分が好きで、現在の自分に自信がないと、どんな人との会話にも入っていけません。また主体性が必要です。依存的であれば、会話の場に依存し、主体的に会話に入っていけないからです。

日本人に多いのは、非主張的な表現です。非主張的な人の特徴…弁解がましい。黙る。服従的。承認を期待。相手まかせ。他人本位。依存的。自己否定的。消極的。引っ込み思案。自分に否定的で他人に対しては肯定であり、自他の関係のバランスが崩れています。

自分の気持ちを伝えるという自己表現は、すぐには修得できないかもしれませんが、努力を重ねていけば身につくものです。そのためには、「今の自分でよい」という自己受容、自己信頼、自己肯定感の強さが必要です。つまり、自分が好きだという感覚です。

それは、人に否定されても、人から受け入れてもらえなくても、落ち込むこともない自分です。なぜなら、自分が自分を認めているからです。それが自己肯定の意味です。自分という存在を自分で認めて、わかってあげられるようにする…言い換えれば自己肯定できる自分です。

自己肯定感を高めるためには、人間観が必要です。「人間は、誰人も平等であり、かけがえのない個性をもち成長への可能性を秘めた存在である」という人間観です。

世の中は差別社会であり差異に満ちています。人はその中で自己肯定感が阻まれています。美醜、財産や地位や能力の有無など…比較相対で価値が位置づけられる社会です。人は、それらで人間の価値を評価する傾向があります。

そこからは、条件付きの評価が生まれがちです。「○○だから好き」などという条件付です。こうした○○だからという条件付き承認、つまり相対価値で人間評価をしている間は、自己肯定は高まりません。

「自分を認めること」は、価値の比較相対に左右されない心の問題だからです。「心でみなくちゃ ものごとはよく見えないってことさ 肝心なことは目に見えないんだ」(星の王子さま)とあるように、心が大事なのです。

ダイヤは、もともとは黒い石に過ぎませんが、磨きをかけていけば高価な宝石となります。黒の原石を否定すれば輝くダイヤの存在はありません。黒い石も輝くダイヤも同じ自分です。どちらの自分も「そのまま受け入れる」ことが自己肯定なのです。人は輝くダイヤは受け入れることは簡単ですが、黒い原石は受け入れがたいものです。「黒石もダイヤも同一の存在であり、どちらも自分であると、ありのままに受け入れる。」「黒石も磨けばダイヤになる」という信念に裏打ちされた努力が必要です。

目標を持ちその達成に向かって努力していく。結果がどうであれ、努力した自分を認めていくとき、自己肯定感は高まります。結果より、プロセスを大事にし、努力した自分を認めていくのです。