相談室(ブログ)

生まれた時点で家柄や財産、親、容姿などに差があるのは、なぜなのでしょうか?

2022.08.28

(質問)
私は恵まれない家に生まれました。家は貧しく両親のけんかは絶えず、私が小学校3年生の頃、両親は離婚しました。
母親と兄弟3人での生活でしたが、経済的に苦しかったこともあってか、母親は私たちを虐待していました。そうした環境で育った私は、同級生の恵まれた家庭を見るにつけ、「私だけ、なぜこんな家に、こんな親の元に生まれたのか」と何度も思い、親を恨み続け大人になりました。育った家庭環境のせいか、今なお、心に暗い影があるような気がします。人間は金持ちの家に生まれたり、愛情にあふれた親をもつ家に生まれたり、医者の子どもに生まれたり、虐待する親のもとに生まれたりするのは、何故なのでしょうか。これは、神にしか答えられない問題なのでしょうか。それとも、前世というものがあって、私が前世で悪いことをした結果なのでしょうか。何かしら回答していただければありがたく思います。

(回答)
とても難しい問題ですが、私たち人間にとって大事な本質的な問いになっています。人間「どこから来て、どこへ行くのか」という問いは古来、哲学の大事な命題の一つになっています。未だに万人が納得できる解答は出されていないというのが正直な答えです。

あなたの質問は、「生まれる前の自分はどこにいたのか?」という問いに置き換えられます。また、「人間死んだらどこへ行くのか?」という問いにもなり、生命とは何なのかという本質的な問いになっています。

私も青春の頃、そうした問いに悩み、ギリシア哲学のソクラテス、プラトン。そして中世キリスト神学。近世のデカルト、パスカル、ニーチェ、キルケゴール、ショウペンハイアー、カント、ハイディガー、サルトル。また生命の哲学のベルグソン、日本の哲学者西田幾大郎の「善の研究。」さらに、ユングの無意識心理学、聖書、仏教の唯識思想、生命論と読み漁りました。

その中でもっとも共鳴できたのは、仏教の唯識思想とユングの集合無意識という考え方でした。ここでは紙面の関係もあり、簡単に説明させていただきます。

仏教の無意識の世界とユングの無意識の世界には共通点があるように思えます。仏教の唯識思想派では、五感(眼、耳、鼻、舌、身)という感覚を意識が判断思考します。意識が六番目の「識」です。ここまでが意識の世界で、その下が無意識層で、七番目に「自我執着意識」があります。今の言葉で言いかえれば、「自己愛(自己に愛着する)」に近い意識があり、自己への限りない執着があります。これがともすれば「正しい生き方善悪」の足枷になり、人間に不幸をもたらすことになりかねません。

その下に、私たちが身体で行動したり、言葉で働きかけたり心で思ったりしたこと全てが8番目の行為の貯蔵庫に納められるというのです。行為の貯蔵庫の識をアラヤ識といいます。このアラヤ識=業・カルマの貯蔵庫は、生きているときも死後も「空」の状態で存在していると言うのです。(空…有無に偏しない存在の仕方、縁によって生起する存在の仕方、とても理解の難しい言葉です…この空が悟れれば、執着から脱することができ、本当の幸福に近づくことができると言われています。)

個の生命は、自分の業に応じた条件を選び、次の生を始めると説いています。つまり、今生きている行為の全体が、次の生につながるという考え方です。差別は生れる時、始まるのではなく、今世の終わり=死の段階で決まるのです。これがカルマの連続の法則です。エネルギー保存の法則に似ています。

金持ちとか、社会的な地位がそのまま続くと言うものではなく、行為の内容=善か悪か、つまり他者の生命を慈しみ、育む、守るという善の行いをどのくらいしたのか。また、他の生命を傷つけ、害したり、さげすんだり、馬鹿にしたり、だましたり、自分だけのことしか考えず、他の生命を利用するような生き方を悪といいます。「善悪」どちらの生き方が多かったのかが、死の瞬間に、自分が自分を裁く厳粛な時が訪れ(閻魔の裁きとも比喩的に言われている)、次の生が決まるというのです。

人間に生まれてくるには、やはり人間らしい生き方をしていないと人間には生まれてこれないと言われています。動物的な生き方(畜生的生き方…本能のまま、弱肉強食的生き方)であれば、次にふさわしい生命の形は動物かもしれないというのです。自分にふさわしい形や場所を選んで次の生を自らが選択するという考え方です。来世の生まれたときの差は、つまり今世の自分の生き方が作り決定するのです。

生命は死によって断絶するものでもなく、何かに生まれ変わるという転生ということでもありません。
今日の夜、眠る=死、明日の朝、生まれる=来世。全く自分は連続した我(七番目と八番目の無意識の世界)なのです。連続して一貫しています。これがカルマの法則です。生命の因果は見えませんが、無意識の中に確実に刻印される厳しい法則であり、おまけも割引もないと言われています。
社会の法、国法、世間法、人目は誤魔化せても、自らに内在する生命の因果はごまかしがききません。仏教では、こうした見方ができることを正見と言っています。不幸の原因は生命を正見できないところにあると生命の覚者ブッタは説きました。この考え方からすると、あなたは人間に生まれてきていますので、前世で人間らしい生き方(戒律=道理、倫理を守る生き方)をしていたからだと思います。親という環境をどう受け取り、どのようにいかしていくかで、生き方も変わり、価値も変わっていきます。つまり環境は一つでも関わり方一つで大きく開けるのです。あとは自分で学問し、探求され、自らを高められてください。