私の人生は失敗の連続でした。その一つが二度の不登校経験と不良少年の日々です。一回目の不登校は小学校の時です。
3年生の初めから5年生の終わりまで、一日も登校していません。約660日間連続欠席し、小川、山野、市場、海など何かありそうなところを毎日のように兄弟で放浪しました。食べ物と遊び場を求めての不良生活の日々です。
母は私が6歳の時、39歳の若さで他界しました。残された父親と6人の兄弟での生活が始まりました。当時、長男小3、次男小2、私は三男で小1、四男の弟5歳、妹は3歳、2歳の幼子家族でしたが、母はいません。父は大工で、毎日のように酒を飲み歩き、家に帰らず、子ども放置していました。
家には食べ物が徐々になくなっていきました。布団も破れ、火の気も電燈もなくなりました。残ったのは、夜は真っ暗な、ぼろほろ家だけです。服も夏冬兼用の擦り切れたもの、靴は劣化し破れ、履けなくなると裸足で歩いていました。いつも下を見て歩きました。5円や10円玉が落ちていないかと探しながら…。
私たち兄弟は、「汚い」とか「ほいとの子」(乞食の子という意味)と、地域の人に罵られ、冷たい目で見られました。ぼろぼろな服をまとい、落ちているものを拾って食べたり、裕福な家のごみ箱を漁ったり、風呂は一、二か月以上入っていなかったので、そのように見えたのですが、好きでそうなったのではありません。子どもなりに必死に生きていたのです…。
そんな大人の差別的な冷たい目にさらされた私たちはの心は傷付き、私は少しずつぐれていきました。
大人の心を敏感に読み取り、冷たい大人に敵愾心を持つなど、素直さは影を潜め、心は曲がり、不良になっていきました。心の優しい人の見わけがつくようになったのも、そのころからです。
家は、いつしか不良中学生数名が自由に出入りするたまり場になり、荒らされました。保護者の父親が家に帰ってこないからです。不良中学生は私たち兄弟を、使い走りにしたり、遊びのおもちゃにしたり、奴隷のように扱い、畳の上でタバコを吸い、唾を吐き、土足で上がり、虐待し殴るけるの暴力を好きなだけ振るい、「学校に行くな」と命令し、何日も休むことを強制したのです。
それがきっかけで、私の長い不登校生活が始まりました。その間、学校の先生とは一度も会っていません。不登校生活が3年を経過したころ、地域の人たちの働きかけで、私たち男兄弟は、児童養護施設に収容されました。そこは弱肉強食、修羅の社会で、力がすべてでした。卒園生の男子はやくざ、暴力団員になる人も少なくなく、女子は夜の仕事に就く人も多かったようです。
そんな畜生・修羅社会の中で、弱者になるまいと私は腕力を人知れず磨き、一定の地位にのしあがっていました。また、運がよかったのか保母さんや中学校の担任の先生に恵まれ、勉強や読書に興味を持つことが出来ました。そのころの勉強や読書が基礎になり、後年の自学・独学を可能にしてくれました。
二回目の不登校は、高校2年のときです。小学校時代の不登校経験、養護施設生活での修羅の世界で身につけた、ぐれた生き方が蘇ってきたのです。バイク狂の同級生と親しくなり、暴走行為や非行を重ねました。気がつくと70日間の不登校日数でした。校則違反を繰り返し反省もせず、指導する教師とけんかになり高校を辞めました。
高校中退後は「自分で食べていけ!」と家を追い出され、単身で東京に行き、牛乳配達の仕事に就きました。そこで運よく定時制高校に編入できましたが、修羅根性は抜けず、人生を斜めに見て、突っ張って生きていました。そんな時、5歳年上の一人の青年に出会いました。彼は、私を一個の人間としてまともに見てくれ、接してくれました。そんな彼に私は心を開いたのです。彼が勧める本を次から次に読みました。そして人生を真面目に生きようとグレから足を洗ったのです。その時を機に少しずつ生き方が変っていきました。
人生は面白いものです。そんな私が中学教師になり、かつての不良経験を活かすことができるようになったのです。非行少年少女やグレル人の気持ちが自然と理解できました。誰にも心を開かなかった突っ張りの彼らが、私にだけ心を開いてくれることもよくありました。私の不登校と不良生活の経験がこんなところで活きてきたのです。(「こどものこころがみえるとき」実話物語に詳細記述・文芸社刊)
私は校長から非行少年少女担当である生徒指導担当教師に任命されました。不登校経験の不良が、中学校の生徒指導教師になるとは、人生は本当におもしろいものです。
「人生塞翁が馬」
まさにそう通りだと実感しています。(松岡敏勝著「失敗もいいものだよ」自伝的小説 文芸社に詳細記載)