先日、私の同級生が癌治療の最中に急逝しました。二週間前までは元気に行動していたのです。癌の再発ということで亡くなる11日前に急きょ入院しました。入院後、わずか10日で死を迎えたのです。抗ガン剤治療中の最中のできごとでした。
この訃報に接した時、衝撃で夜も眠れず、一晩中思いを巡らしました。「あの元気だった彼が何故?…」「なぜ?…」と。
現在の癌治療の実態を垣間見たような気がし恐ろしくなりました。
そこには、病者という一人の尊厳な存在である人を診ず、再発がんの身体の一部を診て治療するというやり方があったのです。一人の病者を精神的側面、身体の他の状況など、多角的に診るという視点があれば、彼は、今も間違いなく生きていると確信しています。
病気は、病者の一部分の状態であり症状に過ぎません。人の顔が千差万別のように病気も千差万別です。病気は、人の一部分の故障や痛みなどの症状を固定的にとらえた言葉(概念)です。人は部分ではとらえらることが出来ない柔軟性・可塑性をもった存在であり、身体全体の調和した働きの中で常に変化し生を営んでいます。
病気を扱う医学は人を部分でとらえ分析しようとします。それに対して、病者という概念は、病める人というとらえ方で、どこまでも人間全体を診ます。病んでいるのは、その人の一部分というとらえ方をし部分観に陥ることをしません。
西洋医学は病気に焦点を当て、人間を部分に還元抽出し、最後は数値でデータ化します。人間全体を診ようとしない傾向にあります。病者という概念は医王釈尊(ブッタ)の病者の治療から生まれた言葉です。釈尊はどんな病気をも治した地上最高の名医と仰がれ、医王と言われています。
これは何も今始まったものではありません。身体医学は、まだましなほうだと思っています。精神医療はもっとひどい現実があると言われています。抗癌剤よりひどいのが、心の病に投与される「抗○○薬」などです。発達障害の子どもや幼児にも投薬されています。精神医学の先進国と言われているアメリカでは、抗不安薬などの服薬と自殺の関係性に疑問を持った患者遺族関係者から多数の裁判がもちかけられ、何度も製薬会社は敗訴しています。そして莫大な賠償金が支払われているとの報告がされています。「精神科臨床はどこへいく」(心の科学より)
胃が悪いと胃薬、目が悪いと目薬、これらはほとんど副作用もなく、標的に適合し治療効果をあげます。では、心の病は、どこを標的にしているでしょうか。心は見えません。心はほとんど解明されていません。ですから心の標的はわからないのです。精神病薬は、心の症状が起きているだろうと推定される脳の部位、またその働きをしているだろうと推測される神経伝達物質(セロトニン、ノルアドレナリン、アドレナリン、ドパミンなど)を標的に投薬します。あくまで推定であり、科学的に証明された事実ではありません。
服薬は、人体全部を通過するといってよいでしょう。舌、食道、胃、十二指腸、すい臓、肝臓、小腸、大腸、脾臓、腎臓、膀胱、肺、心臓、血管、リンパ管、ホルモン、そして大脳、小脳、脳幹・脊髄神経など部位を薬はかけ巡り、それなりに微妙に働きかけます。血液注射はもっと早く身体を巡ります。それらの働きを副作用と言っていますが、正しく言えば、薬の立派な作用の一部です。体全体の機能や働きを考えれば怖くなります。抗ガン剤より怖い薬と言えそうです。
現代医学は欧米医学、なかんずくアメリカ医学を崇拝しています。その医学は、病者という人間全体の視点を欠き、病気という人間の一部に過ぎない症状に焦点あて治療をしています。ここをよくよく考えないと、悲劇につながる結果を招きかねません。医者は責任はとりません。すべては治療を選択した患者の責任になるのです。ですから、患者一人一人が正しい知識を持ち賢くならなければならないのです。
銀河の旅人からの便り