相談室(ブログ)

生きるとは苦しみのほうが多いのでしょうか。(女子高校生)

2023.12.09

回答
 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
江戸幕府を開いた徳川家康の言葉です。今川家の人質として青少年期を過ごし、長じては、気性の激しい信長に仕え、さらに秀吉の顔色を窺い、自分の思いを心に沈め、まさに重荷を背負って生き続け、関ヶ原の合戦で豊臣方の石田三成を破り、天下の足掛かりを作りました。その後も、豊臣秀頼の始末に苦悩の日々を過ごしました。天下人と言えども、苦しみの連続の人生だったようです。彼に幸せなひと時はあったのでしょうか。

 果たして人生とは苦なのでしょうか。生きるとは苦しみの連続なのでしょうか。楽しさは少ないのでしょうか。仏教にも『四苦八苦」と言う言葉があり。お坊さんは、葬儀でよく苦の話をされます。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。
 もちろん意味はあります。人生とは、生きる意味を生涯をかけて探す道のりとも言えます。昔の聖者や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちだと思います。

 生きている今の瞬間の生命は連続し止まっていません。瞬間の一念には苦もなく楽もないのです。純粋な経験であり、苦楽を超えており、色付けできないものです。それを苦と感じるのは五感で感じた意識です。過去の記憶化された潜在意識の染色の結果なのです。本来の瞬間の一念は純粋経験であり、無色透明です。
 
 古来より生命錬磨の修行をされた先人たちは、人間の欲望こそが苦の原因だと究明し、心を浄化させれば楽が得られると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、寒い中で水行したり、火の中に飛び込んだり、針の山のようなところを裸足で歩いたり、不眠の修業したり、異性を遠ざけたりして自らの欲望を断じようとしました。全て苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす欲望を克服した後に真の楽があると信じた行為でした。ブッタもその修行を一時期されたと言われています。
 
 人の意識や感覚や行動のコントロールは難しいことなのです。人間が生きている、換言すれば、欲望に従って生きていると言えます。その欲望が苦にもなり、楽にもなるのです。つまり、苦楽は一念の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生が彩られます。
 
 聖者は苦即楽、楽即苦と悟っりました。しかし、凡者は苦は苦と思い、苦を遠ざけようとして、楽ばかり追い求め、結果として苦しみの人生を生きています。ことわざに、楽あれば苦あり、苦あれば楽ありとあるります。至言であり人生の真実を穿った言葉だと思います。
 
 楽を意識して強く一念を定て生きれば、一念は楽に染まります。そのように色付けするのは、今の意識であり一念なのです。意識を磨けば、どの瞬間も楽となり、楽しんでいけます。これが真の楽観主義です。
 
 そこには磨き抜かれた意識が求められます。一念が研ぎ澄まされ、清らかになれば、その純粋な一念に宇宙の慈悲の波長が共鳴し、私たちの一念に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなるのです。我が一念が宇宙の慈悲の一念と一体となり歓喜に包まれるのです。それが最高の楽であり、聖者・賢人が求めた世界なのです。 
 そのためは、意識を純化させ、正しく感覚(感情)を磨き、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。それが聖者たちの修業だったようです。

 具体的には、朝起きた時、「今日も生きている。ありがたい」と自分の心身の働きに素直に感謝できる心、地球や自然や太陽の恩恵に感謝できる心、一切の生き物、身近な人たちに心から感謝し恩恵に報いようとする純な心に、喜びがふつふつとわき起こってきます。それが宇宙の慈悲の波長に人が心を合わせる一つの方法だからです。
 
 しかし世の中の欲に染まりきった人の心は、すべてを当然、当たり前と思い、自らの傲慢さに一念は濁り、それを感じることができません。だから欲望に踊らされ、浅い思想に生きることになり、純粋な心になれないのです。結果、深い楽しみも喜びもを味わえない苦の人生の軌道に入っていくことになります。
 つまり苦も楽も自分で選んだ人生の道なのです。人生を歩んでいるのは、自分だからです。どの道を行くのか、分からなければ人生の先人に学ぶとよいでしょう。                      

文責  松岡敏勝