不登校児はつぶやく
学校はつまらない
学校は緊張する 学校に不安を感じる
学校は居づらい
それに比べ 家は安心できる
なぜ、学校がそうなっているのでしょうか。
社会は時代が作る規範で成り立っています。その規範は常識とも言われます。
常識は、時代で変っていきます。戦争中であれば、相手の国を攻撃し、建物を破壊し、敵人を殺し、
領地を奪うことが当たり前、つまり常識になります。今のロシアもそうであり、90年前の日本もそうでした。常識やきまりに正義はありません。そのときの権力者が決め、人々がそれに従うとき、社会常識ができあがります。それは思想ともいえるものです。
歴史を見れば、常識が真実からかけ離れた間違いであり、悪であったことがいくつも証明されています。16世紀のことです。当時のヨーロッパでは、天動説(地球は不動で、太陽が動いているとの考え)が正しと権力者から民衆まで、それを信じていました。地動説が正しいと真実を訴えたガリレオは、ローマ教会から裁判にかけられ有罪になりました。このようなことは、歴史上きりがないほどであります。
小中の9年間は学校に行くことが義務つけられた期間になっています。国が学校教育法で決めたものです。親は子どもを学校に行かせることが義務化されました。これは今の日本国が作った決まりであり、疑うことのない常識になりました。学校に行くのは当然のことです。なぜ学校に行かないといけないのかは、問われません。法によって決められたものだからです。
国家という集団の中では、人はその集団の規律、規範に従わないと、悪人になります。かつて戦争に反対した人が、非国民と言われ、牢屋に入れられたようなものです。法はいつも正しいと限りません。戦時中の治安維持法は、正義の人をたくさん殺した法です。
日本に義務教育ができたのは、明治5年にさかのぼります。欧米が帝国主義の下、世界を植民地化し、アジアもその犠牲になっていました。その中で日本は、「富国強兵(国を強くする)」のもと、子どもの教育が義務化されました。当時、強制力はなく、およそ3~4年と規定されていました。今のような9年制になったのは終戦2年後の1947年のことで、約70年前のことです。
日本の教育は発生当時から、国家に役に立つ人を作るための教育制度でした。この制度の意図に異論を唱える人は幾人かいました。西洋の教育制度は、ペスタロッチの教育理念に代表されるように「一人の人間の可能性や人格の完成」を開くことに重点が置かれたものでした。社会のための教育ではなく、個人の幸福実現のための教育です。
1965年の頃、日本は高度経済成長政策のもと、中学卒は金の卵と言われ、経済の即戦力となり社会で働きました。世界の経済戦争に勝ち抜くため、それに対応するために高学歴社会が始まりました。1980年代には、高校進学は瞬く間に90%を超え、現在は98%(通信制も含む)になっています。韓国に次いで世界二位の高校進学率の高さです。中学生の不登校が5%いる現状を考えると矛盾を感じてしまいます。
現在、高校卒業で働くものは17%程度です。残りの83%は専門学校、短大、大学に進学し、多くの人が社会で働くのは20歳を過ぎてからになっています。
こうした高学歴社会では親の教育費の負担は大きくなり、子を持つ女性の労働時間は長くなり、子どもとかかわる時間は減少しています。
また高学歴社会ですが、多くの人が大学卒という学歴を持つため、その価値は低下しています。人々は有名大学という稀少価値を求めるようになり、有名校指向や偏差値教育は加熱してゆきます。
不登校を大量生産させているのは、こうした社会常識であり、経済優先社会のための教育、偏差値教育にあります。そこには一人一人の違いや個性は置き去りにされます。
こうした社会では、みんなと違っている個性的な人は集団になじめず、排除されていく傾向にあります。
「若者の自己肯定感、国際比較」で韓国や欧米諸国と比較して日本は最低水準にあります。戦後教育の学歴志向、経済のための教育は青少年の心の豊かさを減少させ、自己実現の道から遠ざけているような気がしてなりません。
見えない心の探求者より