相談室(ブログ)

生きることが辛い… 生きる意味はありますか?

2024.08.02

回答

人は生れ、親に守られながら、乳幼児期を過ごし、少年少女期の終わりごろから、自我に目覚めていきます。そのころから、人は「自分とは何だろう?」「人生どう生きればよいのか?」 「幸せな人生とは?」など自分や人や人生について真剣に考えるようになります。私も小学校6年生のころから自分は死ぬ存在だと知りました。同時に人生を考えるようになり、幸せの人生を願うようにもなりました。

他の動物と違って人間は大脳皮質が発達し、知的活動能力に優れています。学者は霊長類と名付けました。ロダンの名彫刻「考える人」はそれを象徴しています。思考することは人間の宿命であり、優れた能力の一つであり、新しいものを創り出す要素であり、幸福を創り出す源でもあります。

その知的活動のおかげで、数学、物理、医学、天文学、社会経済学などの万般の科学や医学が発達し、多くの発見発明があり、人間は物質的豊かさを享受し、医学、生理学などの発達の恩恵を受け健康に役立てています。反面知的優位さを武器にして、地球の支配者でもあるかのように他の生物や動物を支配しています。

しかし意識を通した知的活動のため、人は苦しみや不安を強めます。言葉によって病気を過剰に苦しみ、老いることに不安を持ち、死ぬことを考えて恐怖に震えます。動物にとって死の恐怖は瞬間的なものに過ぎませんが、人は言葉で考える度に死の恐怖を味わう知的優位さの暗部を背負うことになりました。

死とは何か、どのようにすれば死ぬことを受け入れることが出来るのか。裏を返せば、生きるとは何か、人生の意味は、という問いになって跳ね返ってきます。その解決のために人は、思想、哲学、宗教を創りました。

あらゆる思想、哲学、宗教、科学は人間のもつ疑問の解決であり、意味の探求であり、知的好奇心の解決であり、生きる苦しみの解決であり、病の苦しみの解決であり、老いや死の恐怖の受容の仕方を知ることだったのです。

思想、哲学、宗教は地上の人間がつくったものであり、神や仏という概念・言葉も人間がつくったものです。この地上に存在する言葉は人間の産物なのです。つまり人間を超えたものはないということです。人間を超えたものを創作し、それを崇拝するところに思考は停止します。そして人は本当の人生の意味の探求を放棄します。その瞬間から、真の幸福から遠ざかっていきます。

どこまでも、現実の自分という人間に迫り、思考し、悩み、人間に内在する不可思議な働き、法を見出していくとき大いなる発見が訪れます。また人間を取り巻く、一切の生物、地球、宇宙の中に不可思議な法を見出し発見してきたのが自然科学であり、物理学であり生物身体学でした。このありのままの現実の中に疑問をもち、知的格闘をして、真理・法を見出してきたのです。

リンゴは昔から自然に木から落ちていました。多くの人は当たり前と思い何も考えず、その現象を見てきました。しかし、ニュートンはそこに万有引力という目には見えないが確かに働いている法を見出したのです。

 

私たち人間は、言葉を使って、自らの存在の意義を考え、自他と比較したりして生き方を模索したり心の在り方を考えたりします。さらに、自然、宇宙、社会などあらゆることに疑問を持ち、思考し、納得しようとします。

生きるとは、学ぶことであり、知的欲求を満たす行為であり、それは死ぬまで続きます。つまり人生の意味は、死ぬまぎわに、その人なりの人生の意味に回答が与えられるからです。厳密に言えば、自分の人生、生きざまが、その人固有の人生の意味になります。

意味ある人生とは、価値ある人生、充実した人生、幸福な幸せな人生という言葉に置き換えられます。その探究をしてきた地上の思想、哲学、科学、芸術、医学、宗教、つまり偉大とされた先覚者の思想(生き方の総体を支える思考・思惟の在り方=哲学・信念)を参考にしながら模索したいと思います。(次回に続く)