(問い)
何かをするとき「自信がない」、「自信が持てない」などと言う人がいます。自信は対象や物事に対して変わっていくような気がするのですが、いつも自信をもって物事に当たることは可能なのでしょうか。
(回答)
自信は成功や勝利や達成や成就体験の積み重ねで得られる感情や気持ちです。仕事、試合、技術、能力などの自信を支える対象や要素が必要になります。成功体験ややり遂げた体験があればあるほども次のものごとに向かうとき、自信を持つことができます。逆に大きな失敗で、能力が発揮できなかったり、怪我をしたりという理由で、能力が発揮できなくなると自信は一気に失われます。つまり自信は置かれた状況により変わるものであり、相対的なものであり恒常的なものではないということです。
(問い)
確かに、今まで経験し、うまくいったことに似たようなものごとに対しては自信をもって望むことができますが、未知の分野や強い相手に遭ったときなど、自信が持てなくなってしまいます。つまり、自信は相手や対象、物事の内容によって変わると言う意味では、相対であり、対象が変れば自信も変わるということなのですね。では安定した自信、不動の自信というものはないのでしょうか。
(回答)
敢えて、換言するなら、何があっても自分を維持できる自信とは自己肯定感の強弱によるとも言えます。
(問い)
自己肯定感ですか…具体的に説明してもらえますか。
(回答)
どんな自分も肯定できる自分です。成功したときも失敗したときも、人に認められている自分も、認められず批判されている自分も、自分の好きな部分も、嫌いな部分も、全て同じ自分であると受け入れられる自分のことです。
つまり、自分というありのままの存在そのものを、絶対価値として無条件に受け入れることになります。
例えば、ダイヤは、もともとは黒い石に過ぎませんが、磨いていけば高価な宝石となります。黒の原石を否定すれば輝くダイヤの存在はありません。原石が人間にとって価値のあるダイヤにもなるし、価値のない単なる黒い石にもなります。つまり、黒い石もダイヤも本体は同一のものです。どちらの面が出ても、そのまま受け入れることが自己肯定なのです。あるがままの自分を受け入れるということでは自己受容とも言えます。
ものの存在の価値は関係性で決まります。「猫に小判」という言葉が、それを物語っています。猫にとって小判は無価値です。魚一尾のほうが大きな価値をもつでしょう。しかし、人間には小判のほうが価値になります。ダイヤと原石も同様の関係です。価値は関係性で決まるものなのです。
人間存在そのもの、生命そのものに絶対価値を見出してきたのが、歴史上の多くの思想であり哲学であり、なかんずく仏教思想です。もともと、人間にはダイヤのように輝く可能性や能力を存在的にもっていると教えています。
(問い)
つまり存在そのものには、善と悪、長所と短所などの二面を持っているとの考え方なのでしょうか。では、良い面を表出させるためには、どうすればよいのでしょうか。
(回答)
黒い石であっても、正しい方法で磨いていけば珠になるという考え方です。
それを可能にするのが「教育」なのです。人間は教育によってはじめて人になるのです。狼に育てられた少女を例に出すまでもないでしょう。
ある教育者は「教育とは人間の可能性を最大に引き出し、人間の本当の幸福を成就させるものである」と言っています。だからこそ、生涯学び続け、人格を完成させていくことが必要になります。
(問い)
つまり、潜在的な可能性があるので、それを信じて努力していけば、良い面が出るようになるということでよいのでしょうか。
(回答)
その通りです。正しい思想への信念と努力という行動が必要になります。