苦しさは対象(自分の心の外にあるものや人、過去の自分やできごと)に執着することによって作られます。執着はやがて、心の濁りや汚れ、偏執となっていき、心は自由を失い、対象に縛られていきます。身体で例えるなら、腸や血液の汚れが体の病気の原因になっているようなものです。
思春期、青年期に生きる人は心がきれいで純粋です。それゆえに、自らの心の濁りや汚れに耐えられなくなります。また周囲の大人の欲に執着し、自分のことしか考えない生き方をする人に嫌悪感を抱くでしょう。それが心を苦しめる原因になったりします。
心の濁りや汚れは何が原因で起きるのでしょうか。それは仏教哲学(ブッタ=仏教の開祖釈迦・生命の真実を悟ったとされている)が探究してきた課題でした。ブッタは心の汚れは人間の煩悩(とらわれた欲望・秩序を失った欲望)にあると究明しました。しかし煩悩(欲への執着)は人間が生きている証でもあり、私たちは煩悩をなくすことはできません。
煩悩が自分のことだけに使われてしまうと、心は汚れていきます。地位、名声、富、お金、財宝、衣服、宝石、家、土地、健康、才能、人間関係、好きな異性、食べ物、酒などに対する執着、そういったものを手に入れたいと人は追い求め、執心してしまいます。なぜなら、それらを得ることができれば幸せになれる、楽しい人生になると思っているからです。その結果、欲望達成のため、自己中心的な生き方になり、いつしか心が汚れていくのです。その心の汚れが、正常な思考や理性を曇らせ、ますます目先の快楽や心地よさに自分を忘れさせていくのです。結果、心の汚れや濁りは深まり、本来の清らかな心は失われていくのです。
また求めたものが得られないと、人は苦しさや怒りを感じます。ですから求めたものを得ようと、後先考えずに他者を犠牲にしたり、傷つけたり、裏切ったりすることさえあります。その執着(対象へのとらわれ)が心を濁らせ、汚していきます。やがて、それが積み重なり苦しみの原因になっていき自縄自縛になっていきます。執着を解き放てば解放されるにもかかわらず。
物事のとらえ方、見方、考え方という知識する力、認知の深い心の深層に、実はこの煩悩が渦巻いているので、知識では、これらの心の濁りや汚れを浄化することはできないのです。有名大学をでているとか、政治家、大学者、著名な知識人とか宗教家、医者とか全く関係ないのです。自分を飾る外面は役に立ちません。つまり心の問題だからです。
ましてや、精神医療の薬などは論外といってよいでしょう。当然のことながら、薬で煩悩の浄化はできません。薬は依存心(執着)という新たな煩悩を産み出し増加させ、悪化させることはあっても、好転は望めません。執着が依存を強め、正しい物事の見方や道理を曇らせるのです。執着(依存)すると人は、盲目になり物事が見えなくなってしまうものです。
煩悩に効く薬は、生命の真実に迫った智慧(悟り)しかありません。それも実践から生み出された智慧です。生き方の転換から得られる智慧であり、修行で得られる体得なのです。
かつて仏教の修行者が断食したり、妻帯肉食を禁じたり、女色や酒を遠ざけたり、世俗(一般社会)を離れ、社会的名声から離れたり、真冬でも滝に打たれたりなど数多く欲への執着を断つ修行、心の清めの修行をしたとされています。しかし、これらの修業はブッタが説いた真の教えの部分観であり一部と言われています。これらは悪しき煩悩を断ずる生き方であり、修行の結果は煩悩を滅してしまい、生きる根本の煩悩(欲望)も低下させてしまいます。つまり煩悩を健全な方向で活かすというブッタの教えではないと言われています。
欲への執着がなければ、人間の進歩も成長もありません。欲望は善にもなれば、悪にもなります。つまり、欲望をどのように使うのかが問題なのです。自らの欲望(貪り)を明らかに見ていくことが肝心なのです。ある場合は、執着する対象から離れることも必要になります。「君子危うきに近かずかず」とはこのことを教えています。
また自分の利益のためだけに欲望を使うと心は汚れていきます。太宰治の「走れメロス」の主題は、このことを描いていると私は思っています。登場人物の王様は、私利私欲に執着する臣下を次々と殺していきます。きれいごと言う仮面の裏にある醜い人間のエゴが王様には見えていたからです。だからこそ、そのエゴの醜悪さに我慢がならなかったのです。王様はある面では青年の純粋なきれいな心をもっていたのです。それは研ぎ澄まされた太宰治の心眼でもあったのです。やがて王様は、友人のために自らの命さえ引き換えにするメロスの純粋なきれいな心に感動し心を開いていきます。そして、「私も友の仲間入りをさせてくれないか」とお願いします。
欲望を自分も利し人も利していく方向で使かっていく。つまり欲望を人に貢献するために使うと心は清められていくことを教えてくれています。執着対象の転換です。「走れメロス」は、人は何に執着すれば善になるのかを教えてくれているようです。
こうした生き方が今の人間社会に欠けているといってよいでしょう。人間が自己中心的な欲望(エゴ)で濁り、社会にエゴが充満し汚れきっているのです。その結果、人々は迷いの苦海に漂っているのです。しかも、そのことに気付いてさえいないのです。
また人間や社会の煩悩の濁りが、自然の種々の災害を呼び起こしているといってもよいでしょう。なぜなら、人間と環境は一体であり、身土不二(身=人間、土=人間が住む環境)だからです。つまり人間と環境は相依の関係で成り立っているのです。
人間が本当の意味での共生、つまり自分を利すとともに人をも利していくという生き方、それがすべての生命あるものの本来の姿であり、人間の心の浄化をもたらします。そして心は解放され、自由になっていくのです。