相談室(ブログ)

人生の意味を問い続けた宮沢賢治の生き方に学ぶ。

2022.12.31

 宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」などの童話作家として、今でこそ有名になりましたが、生前は全く無名の人でした。
 裕福な家に生まれ、浄土真宗に縁がありましたが、18歳の頃、法華経の書物と出会い、以後日蓮の法華経に帰依していきます。そして法華経の心を文学の中で表現していこうとしました。また自然や動植物に親しみ、共生の思想を持ち、自然農業を実践し、晩年は自給自足の生活をしていたと言われます。

 「雨ニモマケズ 」という走り書きのメモに残された詩を私も小学校時代に学校で暗唱させられました。その詩には法華経の思想が色濃く反映されていると言われています。詩の終わりに追記されている菩薩や仏の名前、特に「南無妙法蓮華経」は衆生(人間)の仏性を表した言葉であり、一切の生き物、宇宙の仏性(無限の智慧と慈悲と福徳など)を表していると言われています。
 以下に賢治の詩を紹介します。原文はカタカナ表記ですが、読みやすくするために表記を「ひがなに」に編集しています。

雨ニモマケズ            
 宮澤賢治

雨にも負けず          
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ      
丈夫な体を持ち
欲はなく              
決して瞋(いか)らず
いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れずに
よく見ききしわかり そして忘れず

野原の松の林の蔭の 小さな茅葺きの小屋にいて
東に病気の子どもあれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し 
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなに木偶の坊(でくのぼう)と呼ばれ
褒められせず
苦もされず
そういうものに 
私はなりたい       

南無無辺行菩薩 
南無上行菩薩 
南無多宝如来  
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏 
南無浄行菩薩  
南無安立行菩薩

最後の法華経の専門語について、浅学ですが私なりに説明してみます。南無とは帰依ということです。宇宙生命の仏性に自らの生命をあずけ、その法に基づいて生きる、つまり宇宙の根源の法に自らの生命の律動・波長を合わせて生きるということになります。

南無多宝如来とは、私たちを取り巻く環境です。私たちの生命の発動は環境なしには表現できません。私たちの生命の最高の働きは、最善な環境のもとで発揮できるということです。
無辺行菩薩とは永遠の生命を悟った生命の働きを意味しています。生命は無始無終であり、通常の因果を超えた不可思議な働きをもつものです。

上行菩薩とは自立した自由な主体性を意味しています。どんな困難、逆境、苦悩、不幸をも乗り越えていく生命の働きを指しています。

南無釈迦牟尼仏はあらゆるものに適応する智慧の働きです。
南無浄行菩薩は煩悩に染まらない清らかな生命の働きです。強さと柔らかさ賢さを備えています。
南無安立行菩薩は最高の心の平穏、安心の働きを意味しています。

人間の本当の幸福を探求し、真剣に道を求め「小欲知足」に生きた賢治。「あらゆることを自分を勘定に入れず」自分のエゴと徹底的に向き合い克服しようと利他行に生きました。彼の生き方の目標は「でくのぼう」、つまり不軽菩薩の実践でした。

 それは法華経「常不軽品」に説かれています。不軽菩薩は、全ての人間を礼拝していきます。「人間は、みな仏性を持っている、菩薩道を行じれば、みんな作仏(仏性を開くことができる)する」と人間のもつ可能性としての仏性を礼拝していく修行をしました。これこそが、人間の「瞋恚・怒り」から真の解放の道だったのです。不軽菩薩の生き方こそ、賢治の理想だったのです。
 彼が37歳で亡くなる2年前に残した言葉です。

「全世界の人々が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」

ブッタの涅槃業には「一切衆生の異の苦をうくるは、ことごとく如来一人の苦」(すべての人々の苦しみは、如来(瞬間瞬間に来る生命の最も尊貴な働き=仏)一人の苦しみ。私・仏がすべての人々の苦しみを受ける)と言う意味です。賢治は如来の生き方に近づこうとしていたような気がしてなりません。

いずれにしても、死ぬまで菩薩の心に生きぬこうとした賢治を、かいま見る思いがします。