回答
私も興味をもって読みましたが、現実味の薄さを感じました。書の中で、仏教の般若心教(注1)の「空即是色」や唯識思想の「阿頼耶識」(注2)、法華経の「如来寿量品」(注3))の永遠の生命についての一部説明がありましたが、いずれも各経典の表層をさらった感じです。なぜなら仏教の深意は修行なくして覚知できないものだからです。
さらに最先端の量子力学を引き合いに出して説明していますが、量子力学はあくまで物質の究極の世界の話で、心とは別問題です。筆者はゼロポイントフィールドという言葉を使って、神や仏の別表現のような仮説を述べていますが、ますます曖昧であり、あなたの言う通り、私も同感で雲のように疑問が湧き起こる次第でした。
私は、哲学、思想、心理学、物理学、宗教を50年近く学んできました。死や生命や宇宙、そして神秘な心に興味があったこともあり、法華経には特に力をいれて学んできました。
結論を言えば、生命の真実は観念や知識では理解できないとブッタは、法華経方便品で智慧第一の舎利弗(注4)を叱責したほどです。つまり生命の真理は知識で理解できるものではないということです。仏教は、釈尊の全生命をかけた壮絶な戦いの中での悟りを基に、当時の弟子たちに語ったものが伝承されたものです。当時、書はなく、釈尊の教えは弟子たちの実践体得の中で悟りを得た弟子たちによって伝承されました。その教えは八万宝蔵と言われ、膨大なものであり、釈尊一人の悟りではなく、正しい弟子たちの総結集の悟達の集まりなのです。
釈尊滅後、その教えは付法蔵といわれる正法行者によって伝承されました。なかんずく、インドの竜樹菩薩は大智度論等に「中観…生命の真実相、空観など」を体系的に究明され論じています。また天親・世親菩薩は「唯識思想」を体系化され、阿頼耶識の業思想(注5)や死後の生命について究められました。
その最後の伝承者が、中国天台宗開祖とされる天台智顗です。仏教を精査され、釈尊の教えの真意を汲み時系列、内容で体系化されました。そして、その最高峰の生命哲学を法華経の中に見出し、一念三千論として完成させました。法華経が生命の全体を悟りの境涯から説いた最高峰とされ、他の教えは人間の理解や境涯に応じて説いた方便・部分観の教えとされました。例えば、般若心経は生命のもつ智慧の不思議な働きを述べた教えです。般若はサンスクリット語であり、智慧と訳されます。智慧は生命の働きの部分です。
天台大師の教えを学ぶために、当時の日本の僧侶、最澄、空海、道元上人をはじめとした僧侶は中国の天台山まで赴き、修行されました。帰国した道元は禅を、空海は真言密教を最澄は法華経を伝え弘めました。その後、法華経は日蓮に継承されていきます。700年の歳月の中で日蓮の法華経も解釈がまちまちとなり、多岐に枝分かれし、何が真の教えかわからなくなりました。
宮沢賢治も日蓮の信奉者の一人ですが田中智学の国注会で法華経を学んだとされています。また道元の禅の教えの一部は、アメリカのカバットジン氏によって、世界にマインドフルネスとして広まり、日本にも逆輸入されています。仏教の哲学思想、つまり仏法は玉石混交となり、仏法用語は顛倒し、正しい心が失われつつあります。釈尊・ブッタは、そうした時代を末法と3000年前に予言していました。
さて本題の「死は存在しない」について私見を述べます。
これは「死とは何か」ということになります。つまり死は生の終着点であり、来世への出発の種子を秘めた重大儀式です。生老病死の四苦は人間の避けられない苦悩です。もっとも強く激しい苦は私たちが死ぬ存在であることです。死は誰人も避けられない厳然たる恐怖をもった現実です。必ず死ぬ人間は、その死と向き合い解決の道を求め、いかに生きるかに昇華させてきたのです。
それが幾多の宗教思想となり、今日に結実しています。死は厳然たる事実であり、誰人も避けられない人生最後の試練であり、解答なき難題なのです。なぜなら、今生きている人間は誰一人死んではいないからです。その意味では、あらゆる死についての考えは仮説と言えます。
釈尊は苦行の末、何を悟られたのでしょうか。その悟りの全体は法華経28品に凝縮されています。
なかんずく如来寿量品には、生死不二(仏法には不二の説明がたくさんあります。不二とは二つであるが二つでないという意味です。空観がわからないと理解できません。)が説かれています。つまり生命は生と死という二つの相を本来的にもっているのです。生は法であり、死は妙です(注6)。生死の二法の生命を妙法(サンスクリットでサダルマという。ダルマは有名ですが、法という意味です。サは妙、思議できない不可思議境という意味です)覚知したのです。瞬間の生命に過去も未来も現在もすべてが包含され、その瞬間の生命がそのまま海の波の上下運動のように続くというのです。正確に言えば、続くのではなく、永遠に、今の瞬間しかないということです。
寿量とは生命の寿命が無量であること、つまり生命が永遠であることを説いています。その生命とは如来のことであり、瞬間瞬間、如如として来る生命のリズム・波動なのです。またありとあらゆる生命体、すべての物質が如来であり、仏性をもった存在と説かれています。こうした生命の真実は知識という生命の一部分の働きでは悟ることはできないとされています。修行における体得、つまり全生命という全体をかけた覚知なのです。もちろん、私も知識でしかわかっていません。修業が足りないからです。
詳しくは当室のブログや特別講座の内容などを参照されるとよいと思います。
(語注) 芝蘭の室 室長の解釈説明。
注1 般若心教の「空即是色」…正式には「魔訶般若波羅蜜多心経」のことであり、約3万字の教である。二世紀ごろの竜樹菩薩の作と言われている。生命の「空観」「縁起」を説いている。般若心教は後世、この経を300字に短縮されたとされている。空即是色、色即是空は有名であるが「空」や「縁起」という生命現象が理解できれば解読できる。
注2 唯識思想の「阿頼耶識」…生命の心性を唯識派が考察。生命とは心の働きであり、心だけがあるという見解。心を八に分け、眼識、耳識、舌識、鼻識、身識といういわゆる五感に、六番目として意識。七番目として無意識に潜在する末那識(自我執着識)八番目を心王として阿頼耶識を説く。心はすべて阿頼耶識でつくられ、蓄えられるとする。詳しくは「阿頼耶識の発見」横山紘一著を参照されるとよい。
注3 法華経の「如来寿量品」…法華経はインドの釈尊・釈迦・ブッタが約3000年前に説かれた教えであり、50年の説法の中で、晩年8年の教え。それ以前の42年の教えは、生命の部分を説いた教えであり、方便とされる。真言、禅、般若、念仏等は部分観の教えであり方便教とされた。法華経は生命全体の悟りからの教えであり、実教とされ生命の真実が説かれた。法華経は28品にまとめられ、如来寿量品第16には、釈尊の永遠の生命が説かれ、一切衆生(人間も含む)の永遠の生命も説かれている。さらに生と死は生命の二つの表現法と説かれている。
注4 舎利弗 釈尊10大弟子の一人。智慧第一とされた当時の最高級の知識と智慧の持ち主。方便品の対告衆とされた。方便品は生命の真実相の理論、十世界や十如是などが説かれている。仏の悟りは知識では覚知できないと釈尊は舎利弗を諭し、「信」より入ることを強調された。
注5 業思想 業とは衆生(人間)が言葉、心、行動でつくるものの総体。その業の因果か次の行為につながり、死後は生前の行為の総体、業によって生命の形(人間、動物、植物、細菌などの身体形状)が決まるとされる。
注6 生は法であり、死は妙です。生死の二法が妙法であり生命の真実相。生は現象であり、法則に貫かれています。死は不可思議で空の状態で潜在しています。思議できない働きなので「妙」なのです。比喩的に言えば、電磁波は見えません(死)が、周波数を合わせれば形(生)になります。