相談室(ブログ)

偏差値や数字に踊らされると、どうなっていくのか

2024.02.16

 私はかつて国立医学部や東大を目指し、三年間浪人し、合格を目標に、かけがえのない青春期を受験一筋に生き抜いていました。その結果は、燃え尽き症候群、鬱症状、無気力、視力の極端な低下、神経症症状を伴った精神状態でした。以後の人生も比較優劣に染まった思想、成果主義、権威主義的思考に無意識層から蝕まれていたようです。深い哲学思想と出会い、それを学ぶことによって、偏差値的比較相対の思想から解放され、心の自由を得るようになりました。意識や思想を変えるには長い年数がかかることを知りました。
 さて話は自身の反省からみた現代社会の様相について私見を少し述べてみたいと思います。

 人の健康も数字で測定される世の中です。血圧130、血糖値は…その他、コレステロール値、脈拍数、脳波、白血球の好中球の数、癌のマーカー数値など数えあげたらきりがありません。数字という一基準で人全体の健康をはかろうとする危険性が見られます。
 
 同じように人の価値も数字で測られるようになりつつあります。学校では成績偏重になって久しい感があります。入試の合否を左右するのは人間性ではなく点数であり、偏差値です。学校教育の成果は偏差値の高低がすべてになっています。小・中学校もそうなりつつあります。特に進学校では、既にそれがすべてになっているといってよいでしょう。

 親も、その風潮に染まり、少しでもよい高校に進学させようと、塾に行かせたり、家庭教師をつけたりして少しでもわが子の成績を上げようとします。一生懸命パートで稼ぎ、子どもの未来のためと信じて勉強環境を作るために貢ぎます。最も大事である人間性を育てることは、二の次になっているようです。そうした教育観の中で生きる子どもは、不登校という無言の行動で反抗していますが、親も教師もその本質をみようとしていません。
 
 人は偏差値という数字で評価され、人間性はどこかに追いやられています。東大や京大に何人合格とか国立医学部に何人合格したとかが、進学高校の評価のすべてになっています。
 評価を得るための勉強、与えられた教材だけを学ぶ受動的な勉強に、本来の知の探究や主体的な学びはありません。本来の学びは、人間性を高めるために学び、自分の個性を開花させ、他人や社会や自然を知識することです。そして学びで得たものを生かし、他者や社会に貢献していくという真の幸福に至るための学びなのです。
 
 しかし、偏頗な教育観のもと、人間性の開発という最も大事なことを置き去りにして、他者や社会が求める評価という一次元の数字を得るために血眼になっています。比較相対の競争の中で自身の可能性を矮小化させていることに気づいていません。

 小さな狭い価値観、しかも人の一部分に過ぎない記憶化された知識量を換算した偏差値が学校教育の目的になっています。やがて社会人になったとき、偏差値教育は経済至上主義、成果主義の歯車に容易に組み込まれ、受動的人間になり、自ら考えることをしなくなります。結果大人になって、学ぶことをしなくなります。人は生涯を通して学び続け、自らを高めゆく中で、真の幸福境涯に近づくということを学んでいません。

 多くの企業は数字に換算された利潤を問題にします。そこに人を見る視点はありません。成果を出せる人、業績を出す人、数字が出せる人が有能になるのです。そうした職場についていけず、会社を離れ、ひきこもりになる人を多く見てきました。偏差値教育の被害者とも言えます。
 そうした社会風潮は、成果のため、儲けのために、不正やごまかしを横行させる土壌を作ります。私たちは、そうした悪事を毎日のようにテレビニュース目にします。
 
 今の日本資本主義社会の行き詰まりは学校教育の目的観のずれに発しています。しかし、ここを指摘する専門家はいません。彼らも既に、世の濁流にどっぷりつかり、清流を忘れているからです。
 
 現代人は大学に入ると勉強しなくなり、社会に出ると、さらに学ばなくなります。結果、大人が学ばない国、世界一日本(パーソナル総合研究所国際調査)という不名誉な結果になっています。それに比例するかのように浅く表面的な刹那的な人間が増加し、人間性は低下しています。日本は心の貧しい国となり、心の不健康な人が増え、真の幸福からどんどん遠ざかっています。

見えない心の探求者より