回答
その気持ち、よくわかります。私は、そんな時、自然のよいところにでかけます。確かに人と接するのが一番疲れます。神経を遣い、気が張り緊張するからです。特に、自分だけの欲に生きている人と接すると、とても神経を遣い、嫌な気持ちになったりします。その時だけではなく、感情の余燼が残り、しばらく気が落ち着かなくなります。人間は感情の動物であり、考える葦(パスカルの言葉)でもあるからです。
山の中の、ぽつんとした一軒屋にでも住んだほうが、気が楽でいいのかもしれません。 また、思いやりに満ちた人々の住む世界があれば、そこで生活できでば長閑(のどか)な日々が送れるかもしれません。
しかし、この地上で生きるためには、人を避けるわけにはいきません。人と関わらずに生きていけないからです。嫌な人、自己中心的な人とも接しなければいけないからです。では、どうすればよいのでしょうか。
答えは、夏目漱石の「草枕」の冒頭に書かれています。果たして100年前も同じような人の世だったのでしょうか。
「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情にさおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安いところへひき越こしたくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、画ができる。
人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらする唯の人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからと、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりである。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛(くつろ)げて、つかの間の命を、束の間でも、住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」
つまり、人生を劇のように、詩のように音楽のように、画のように創りあげて生きる。芸術家のようにということてす。
聖者の言葉に「心は巧みなる絵師のごとし」とあります。つまり、心は、生命は自らが意図して描き創り上げる作品であり、作者は一人ひとりの私たちということになります。
人間関係も、かけがえのない一人一人の代替不可能な芸術作品なのです。それには巧みな智慧と力と明知が必要です。
文責 松岡敏勝