相談室(ブログ)

死んだら無になると思うと辛くなります

2020.04.17

質問
最近死について考えてしまいます。僕は死後の世界があると思います。でも死んだら無になると考えると家族や友達と一生会えないのかと思いとても辛くなります。どうしたらいいんですか。
死の恐怖について

回答
はじめまして 臨床心理シランの室です。

あなたの質問は、生ある人間にとって一番大事な問題だと思います。なぜなら、生ある人間は必ず死ななければならないからです。人生は不可解なことがいっぱいあります。わからないこともたくさんあります。しかし、はっきりしていることは生ある人は必ず死ぬということです。有名な哲学者は次のように言いました。「生とは死への行進である」と…。

人間にとって「死」は最も重要なことでありながら、現代の人間は生に驕り、死ぬことに蓋をし、欲望の海に呑み込まれたかのように生きています。

あなたの質問に正解を与えられる人は残念ながらいないと思います。なぜなら、死者は語らいからです。死後の世界から誰人も生還していないので、真実はわかりません。

ただ、死について真剣に命を懸けて模索探究してきたのは宗教です。
ここでは、世界三大宗教の一つ、仏教につして少し説明してみます。仏教に、カルマの思想があります。カルマとは業ということであり、行為という意味です。今の世界(今世)で行った個人の行為の集積がカルマになります。そのカルマは、心の無意識世界に貯蔵され、今世を左右するだけでなく、来世の生を規定すると言われています。

例えるならば、ある人が前の日(前世)に苦しんで、1億円の借金をもって眠った(死)とします。眠っている間は借金のことは忘れていますが、眠りから覚めれば(今世・新たな生)、一億円の借金はそのまま残っています。

つまり個人の業は連続しています。割引もおまけもなく、あくまでも自己の行為の責任なのです。自分の行為の責任は自分が担う。それが業思想であり、転生の基本になっています。このことを生命物理学者は生命保存の法則から、連続性を説いています。

苦しんで死ねば、苦しんだ姿で生まれると言われています。楽しく今世を終えて死ねば、次はまた楽しみの姿で生まれると言うのです。動物的な生き方をすれば、動物に転生するかもしれないのです。怖いことです。これが、転生の正しい仏教の因果のカルマの教えなのです。

臨死体験1000名近くの方のデーターを基に死の世界を探究されたアメリカの医学者にキューブラー・ロスという有名な方がいます。名著「死ぬ瞬間」「続死ぬ瞬間」という本を著しています。そこには、人間の死ぬ過程が描かれています。一度読まれるとよいと思います。彼女は、仏教の業思想(カルマの法則)を信じると言われています。業思想とは、自分の生き方や行為に責任をとるという生き方なのです。

 仏教の開祖、釈迦(ブッタ)は王子として生まれ育ちましたが、心に煩悶を抱き、人生に悩んでいたと言われています。

人生は生老病死(生きる・老いる・病になる・死ぬ)という四つの苦しみから逃げることはできない。その四苦に代表される人間の苦しみ…死すべき存在…生と死の解決のために、釈迦は出家し求道の旅に出たのでした。

人生の意味(死)を探究し修行を続けた結果、釈迦は生命の真実、つまり生と死の真相を悟ったと言われています。
釈迦の悟り…生老病死という四苦は無常(一定のところにとどまっておらず、絶えず変化していく)ですが、その背後に常住の生命の法を悟ったといわれています。それが法華経に説かれ、奈良時代、平安時代に貴族の間に広がり、紫式部の「源氏物語」などにも登場しています。

釈迦の生命観…誰人の中にも等しく内在する不可思議な生命の法…創造的で幸福になっていく生命と知恵と慈悲が具わっている法…自らも幸福になるとともに、周囲の人(自然も含めあらゆる存在)も幸福にしていくという共生、連帯の生命の法とも言われています。いかなる運命や宿命をも転換できる生命の働きをもつという生命哲学です。

人の命は、宇宙の宝すべてよりも尊いとも説いています。この世界で、人間だけが、自らの可能性を信じて自らを変えていける「聖道正器」の存在とも言われています。確かに動物や植物は、自らを変えることもできず、本能のまま、生態系に従って生きているようですから。

その尊い人間の生命として誕生してくる可能性をガンジス川の無数の砂の一粒という譬えで説いています。つまり人間生命はかけがえのない尊さをもった存在ということです。

自らに内在する尊極の生命を信じられるかどうか。釈迦は信を強調されたと言われています。簡単に言えば、自分の生命の不可思議な法を信じて行動し生き抜きなさいと教えたのです。

生命は断絶するものではなく、永遠に続いていくものです。今の生き方がそのまま来世につながる。生きたように死に、そして朝になれば昨日の続きのように生まれると言うのです。

また「袖触れ合うも他生の縁」と言われるように、今、縁して関わっている人、親兄弟、友人などとも、また来世で会えるというのです。カルマの思想からすれば納得ができることです。

あなたは、自分に偽りなく、自分の幸福のため、同時に他者の幸福のために、正しく生きていくことです。その生き方を貫いていけば、死の恐怖も和らいでいくことでしょう。