質問
中学辺りから人間の醜さについて考え始め、
高校辺りではこの世が平和になる為には人間は絶滅するべきと絶対的に思うようになりました。
他の生物や自然をさぞ自分だけのもののように扱い、
他の生き物なんて平気で殺したり、実験台に使ったり、
はたまた育てられもしないくせに一時の寂しさを埋める為に
動物を引き取るけど育てられないから虐待したり捨てたり。
こんなに愚かで傲慢で強欲なのに、人間って素晴らしい!など何故思えるんですか?
自分の悪意や愚行に目を背けたり、被害者に謝罪もしないで自分の中で勝手に完結させ、
平気な顔してのうのうと生きてる恥ずかしくて汚い存在のくせに。
私はもう耐えられません。
人間でいる事も、人間社会で生きなきゃいけない事も耐えられません。
毎日トラウマのフラッシュバックが起こり死にたいし、
もう最近では報道されるぐらいの自殺をするか、
こういうクズ共をたくさん惨殺してから自殺して逃げるか。
ギリギリで踏みとどまってます。
回答
青年時代、私も社会や人間の醜悪さに絶望し、アルマゲドンの到来を願ったことがあります。
死は易く生きるのは難しです。死は苦しみからの逃避であり安易な選択です。なぜなら自分の生命も、死後もわからないまま、死の世界に行くことは、途方もなく危険なかけです。もし死の世界が今の苦の続きとすれば、どうしますか…。
あなたは心がきれいで純粋です。それゆえに自分のことしか考えない人に嫌悪感を抱くのでしょう…。心の汚れは何が原因で起きるのでしょうか。仏教哲学の祖ブッタは心の汚れは人間の煩悩・欲望にあると明らかにしました。しかし煩悩・執着は人間が生きている証であり、人は煩悩をなくすことはできません。
煩悩が自分のことだけに使われてしまうと、心は汚れていきます。地位、名声、お金、才能、異性、食べ物などに対する執着、それらを手に入れたいと追い求め、それらを得ることで幸せになれる、楽しい人生になると思っているからです。その結果、欲望達成のため、自己中心的な生き方になり、いつしか心が汚れていくのです。その心の汚れが、正常な思考や理性を曇らせ、ますます目先の快楽や心地よさに自分を忘れさせていきます。結果、心の汚れは深まり、本来の清らかな心は失われます。悲しいかないつの時代も人間は愚行や野蛮を繰り返してきました。
求めたものが得られないと、人は苦しさや怒りを感じ、それらを得ようと、後先考えずに他者を犠牲にしたり、傷つけたり、裏切ったりさえします。対象へのとらわれが心を濁らせ、汚していきます。
物事のとらえ方、見方、考え方という認知の深層に、これらの煩悩が渦巻いているので、認知では、これらの心の濁りや汚れを浄化することはできません。大学者、知識人、宗教家、医者とか関係ないのです。自分を飾る外面は力なりません。
精神医療の薬で煩悩の浄化はできません。薬は依存心という新たな煩悩を産み出し増加させ、悪化させることはあっても、好転は望めません。執着が依存を強め、正しい物事の見方や道理を曇らせるからです。依存すると人は、盲目になり物事が見えなくなってしまいます。
煩悩に効く薬は、生命の真実に迫った智慧であり、実践から生み出されるものです。正しい生き方から得られる実智です。
かつて仏教修行者が断食したり、肉食を禁じたり、女色や酒を遠ざけたり、世俗を離れ、社会的名声から離れたり、真冬に滝に打たれたりなど数多く欲への執着を断つ修行、心の清めの修行をしました。これらは悪しき煩悩を断ずる生き方であり、結果は煩悩を滅してしまい、生きる根本の欲望も低下させてしまいました。煩悩を健全な方向で活かすというブッタの教えではなかったのです。
欲への執着がなければ、人間の進歩も成長もありません。欲望は善にもなれば、悪にもなります。つまり、欲望をどのように使うのかが問題なのです。自らの欲望を明らかに見ていくことが肝心なのです。場合によっては、執着する対象から離れることも必要になります。
また自分の利益のためだけに欲望を使うと心は汚れていきます。太宰治の「走れ メロス」の主題は、このことを描いていると私は思っています。登場人物の王様は、私利私欲に執着する臣下を次々と殺していきます。きれいごと言う仮面の裏にある醜い人間のエゴが王様には見えていたからです。だからこそ、その醜悪さに我慢できなかったのです。王様は純粋なきれいな心をもっていました。それは研ぎ澄まされた太宰治の心眼でもあったのです。やがて王様は、友人のために自らの命さえ引き換えにするメロスの純粋なきれいな心に感動し心を開いていきます。そして、「私も友の仲間入りをさせてくれないか」とお願いします。
欲望を自分も利し、人も利していく方向で使っていく。つまり欲望を人に貢献するために使うと心は清められていくことを教えてくれています。執着対象の転換です。
こうした生き方が今の人間社会に欠けているといってよいでしょう。人間が自己中心的な欲望で濁り、社会にエゴが充満し汚れきっているのです。その結果、人々は迷いの苦海に漂っています。しかも、そのことに気付いていません。
また人間や社会の煩悩の濁りが、自然の種々の災害を呼び起こしているといってもよいでしょう。なぜなら、人間と環境は一体であり、身土不二だからです。
人間が本当の意味での共生、自分を利するとともに、人や自然も利していくという生き方。それはすべての生命あるものの本来の姿であり、人間の心の浄化をもたらします。そして心は解放され、自由になっていくのです。
地道で遠回りですが、私はそんな生き方を目指しています。ガンジーは言われました。「善きことはカタツムリの速度で進む」と。死ぬ前に、あなたもこのような生き方を試してみてはどうでしょうか。