相談室(ブログ)

人間は過去の記憶という自動思考に生き思考停止し、今という豊かな瞬間を見過ごしています

2024.06.01

人の心の闇は破壊をもたらし、心の光は闇を照らし生命を輝かせます。

釈尊はそうした、人間の心の持つ闇や光を煩悩(五つの感覚器官が感じる快楽と苦)から生起すると分析し、その不調和・濁りが病の状態をもたらすと考察しました。

煩悩とは動物・人間が生きる上で本来的に持つ能力・働きです。その根本は快楽原則が基本になっています。一例ですが、空腹感がなければ食べることをしません。食べておいしいと感じる快感がなく、逆に不快を感じるようになれば食べなくなるでしょう。そうすれば死に至るかもしれません。食べるという本能的行為に快感がともなうのは、私たちはかんがえたこともありませんが、生命を支える不思議な慈悲の働きの一つなのです。

生きるための欲望(働き)が煩悩といえます。煩悩には明暗があります。例えば、煩悩が濁れば血液も濁り、万病の原因になります。煩悩が浄化され調和されれば、血行もよくなり、血液も淀みなく流れます。一例をあげれば怒りという煩悩は緊張をもたらし、血管を収縮させ血管を傷つけたりします。

煩悩の偏りや対象への執着や抑制できない欲望の噴出が生命を濁らせ、その濁りが本来持っている清らかな生命の働きを阻み、濁らせた結果が病の状態であると釈尊は洞察しました。

部分観に陥った修行者は、煩悩の滅失をはかり、断食、断眠、断苦等の修行を貫き、餓死した修行者もいました。餓死した修行者は解脱・涅槃(心身の苦から解放され、清らかな安らかな生命を得た)に至ったとされ渇仰されたと言います。釈尊もそうした修行を実践し、何十日も断食を実行し瞑想していた時期があったと言われています。苦行の果てに辿りついた釈尊の悟りは、煩悩は断じるものではなく、明らかに見て、調整し、それを活かすことであると悟ったのです。

最新の科学、特に量子力学等が後追いするかのように、釈尊の法の卓越した科学性を証明しています。釈尊の法も科学も現象に即して、現象を貫く因果や性質を洞察しました。

科学は、光や電磁波や物質の性質や働き(法)を発見し、人間社会に福利をもたらしました。この世界・宇宙はもともと、だれがつくったものでもなくもともと存在し、法に則り自ら創作し自ら演じています(ニコラテスラ・アインシュタイン、釈尊たちの覚知)。その法の一部一部を発見(悟る)したのが、諸科学といえます。釈尊は部分の発見・悟りではなく全体を覚知・発見した人なのです。

生命そのものを覚知された釈尊に、病の原因も治療法も太陽の光が闇を明るくするように、すべて明らかになりました。釈尊の覚知された法は、教えとして、八万宝蔵とも言われ、各時代の人師によって伝持されてゆきます。

時代の変化の中で、釈尊の教え(仏教)は玉石混交となり、何が正知識か正法か分からくなったのも事実です。その法や知識の見分けは、実践者の人間性・人格が最終的な判断になります。なぜなら、釈尊は人間の生き方、真の幸福道(無上菩提を修行の目的としていた)、つまり人格の完成、最高の人間性の成就でした。そしてそれは、人の振る舞いで表現されると断言されたのです。正法は、人を通して、正しい知識となり、正しい振る舞いとなり、心の優秀さとなって表現されます。その観点から見れば、今も昔も偽善者だらけといえます。