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人は生れた瞬間から、死というゴールに向かって進んでいると、ある哲学者が語っています。どのように生きれば、よいのでしょうか?20代男性

2024.08.13

回答

地球上に生を受けたあらゆる生物や人は、生まれた瞬間から死というゴールに向かって進み始めます。意識するにせよ、しないにせよ、それが厳しくも避けられない生命の因果律なのです。人生の最終目標は死です。古来、聖人や賢人は、この死という絶対的なゴールをいかに迎えるかに悩み苦しみ探究してきました。

死ぬ存在であるからこそ、私たちは生を考え、いかに生きるべきかを考えます。大事なかけがえのない人生の時を惜しみます。本当に大事なものは何なんのかを思索します。

死を考えることは生を深めさせつます。生と死を含んだ生命について思考するようになります。そして自分を見つめ、人生の在り方を考えるようになります。ギリシャの哲人ソクラテスは「汝自身を知れ」と青年に、本当の自分、そして生きることの真意を問いました。

生命は死と生という二つの相を含んだものというのがブッタ  -生命の真実を悟った人、インドの釈尊をはじめ、この宇宙にはたくさんの覚者がいて、その人達のことをブッタとよびます―  の悟りです。

瞬間瞬間、身体も心も生死を繰り返しています。身体の生死は、細胞について学べば理解できます。心の生死は、自身の心を深く観察すれば悟れます。ミクロの世界でも生死は繰り返されています、マクロの世界、つまり人生における生と死は必然なのです。

生と死は因果でつながり、環境という縁で発芽し、海の波のように、生じては消え流れていきます。今生きている現世の在り方を深く観察すれば、死後の生命も分かります。エネルギー保存の法則に比喩されるでしょう。

かつて中国の秦の始皇帝は不死の薬を求めましたが、果たせず死にました。幾多の宗教が不死を求め、永遠の王国、死後の復活などを求めました。その願いの底には、人間の現世への執着の強さが横たわっています。いずれも生命そのものがわからず迷いの苦しみの海に沈む部分観の思想とブッタは見抜きます。

瞬間瞬間、如如として来る私たちの生命…如来…それはどこから生じ発しているのでしょうか。その瞬間の生命を深く覚知する時、私たちは生命全体の不可思議境に到達できます。つまり生もなく死もない世界…生死不二の生命根源の世界です。生と死の二つの相を含んだ生命そのもの真実の秘境です。それは、釈尊、竜樹菩薩、天台大師、伝教大師、日蓮聖人らをはじめとした多くの覚者の悟りの世界と言われています。

どのような死を迎えるかは、どのように生きるかになると覚者は教えます。そして最高の生き方を私たちに示してくれています。