心の苦しみの多くは対象に執着する心の強さから起きています。執着対象を明らかに見きわめきれば 苦しみを解き放つことができます。
苦しみは六識(五つの感覚と意識)が対象としているものとの関係で生まれます。例えば麻酔を打たれて意識がなくなれば苦しみも痛みも感じません。しかし脳・神経活動がなければ、痛みも感じないかわりに楽しみも感じなくなり、すべての感覚反応がなくなります。結果として心身は痛みを感じなくなり、故障部分に気づかなくなり、その部分は悪化してゆき、やがて死に至ります。つまり痛みや苦しみは生きていく上で大事な働きをしているのです。
痛みや苦しみは、今をよりよく生きることを教えてくれる先生のような働きをしています。健康へのメッセーンジャーなのです。そのメッセージ―を、どのように読み解くかが苦しみから解放の鍵になります。
さて今回は、苦しみをもたらす自己執着、動物的生物がもつ保身(心身を保つ)という視点から考察してみます。
例えば、車の運転をしているとします。前から対向車線を越えて飛び込んでくる車に対して、運転者の私たちは、自分を守るために、とっさにハンドルを切ります。瞬間的に、隣や後部座席の同乗者のことは意識できません。人間は瞬間的に、自分を守るように心も体も、意識も無意識もすべて自我執着(自分を守る・保身)の働きをします。
生きるとは、自分の身を守ることと言えます。地上の動物は身を守るため、生を維持するために生きます。自分が生きることが最重要であり自己中心の動きをします。それが弱肉強食の法則です。
人間世界にも弱肉強食はあります。他者より強い立場になれば、楽に身を守ることが可能になります。そのため地位やお金や財宝を人よりたくさん得ようとします。また名声、人気を得ることで集団の中で優位に立とうとします。善悪は別にして、根底には弱肉強食本能が潜んでいます。
動物種である人間は、知識を使って、道具や機械、武器、戦闘機などを作り、弱い存在(人、動物、植物など)を殺しています。ですから、いじめは人が存在する限り発生します。なぜなら弱肉強食本能を生まれながら持っているからです。
太宰治は、この人間の自己中心性を誰よりも鮮烈に見抜き、そして絶望していたと思われます。
人は脳が発達しているため、地上で最も性質の悪い生物にもなります。この思想(本来的に身に具わった生き方=本能)は苦しみをもたらす大きな要因の一つになっています。こうした生命の働きをありのまま知ることが賢者や聖者の道でした。
大脳皮質部が発達し思考することができ、想像力を使える優れた人たちは、自然や宇宙や社会の中に法を発見しました。保身という動物的な自己中心性を超える生き方を見出したのです。彼らは、人の優れた生き方を探究するため世俗の執着から離れ、自己中心性と闘い生きる道を探究しました。歴史上、心の優れた人たちが、その道を究めたと言われています。
代表的な人を一部紹介します。釈尊、竜樹、天親、鳩摩羅什、イエスキリスト、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、老子、孔子、天台、最澄、日蓮、ダビンチ、ニュートン、ゲーテ、トルストイ、ユング、ヘレンケラー、ナイチンゲール、ガンジー、キング、野口英世、宮沢賢治、ニコラテスラ、アインシュタインなどなど…。彼らは人間の保身、自己中心性に潜む悪・魔性を見つめ、それを昇華させる法を自然や物理や量子や光や人間の深層心などから探究し、その一部を発見しました。
その道は自己中心的な道とは逆な方向、自分を育むように他の生命を育み守るという利他の道であり、痛みや辛さをともなう生き方です。自己中心性を本来的に持つ人にとっては、心の闘いが求められる厳しい生き方になっています。
人道を修めるための訓練であり修行といえます。その訓練という実践の中で苦しみの原因である執着は自然に溶けてゆき、苦は消滅していくのです。
釈尊は、人間の生きる道、人間生命の根本的法則の発見者と言われています。彼は人間の保身を調和させ、自己中心性と自分を取り巻く生物を利する道を慈悲という働きの中で調和融合させました。つまり、自己中心的自我と利他的自我の調和の道を見出したのです。全ての生物は等しく平等に、慈悲の働きに支えられて生きているという共生共存の本然的調和の姿を目指しました。
そして、その生き方の中にこそ、深い充実があり、喜びあり、人間道の完成があると彼は悟り、弟子たちに、その道を歩むことを勧めたのです。
マインドフルネス安穏法の究極の目的は、その生き方を目指しています。そこにこそ人生の真の安穏があるからです。