私たちは何かを感じ、瞬間を生きています。ある人は何気なく、ある人は何も考えず、ある人は意識をもって、今を過ごしています。私たちは自分が感じている意識が、すべてと思い疑うこともありません。
しかし冷静に自分を観察し想像力を働かせてみると、私たちが意識できている世界は1%以下ということに気づきます。99%以上は意識できないところで身体は活動しています。人間は無意識的活動を意識できないため、それに気づきませんし、あり難さを感じることもありません。正しい知識に基づいた想像力によって、はじめて真実を識るようになります。
16世紀の有名な懐疑哲学者デカルトは、すべてを疑うが、疑っている自分の存在を真理と認め「我思う、故に我あり」との名言を残し近代合理主義哲学の祖とされています。
つまり、私たちが今、感じている意識こそすべであるという思想です。意識できない世界は、やがて闇に閉ざされることになりました。合理主義のもと部分を分析する物質科学はめまぐるしく発展を遂げ、原子爆弾や光速度の研究、やがて月にロケットが着陸するまでになりました。ウサギの餅つきつき神話もあっけなく崩されたのです。現実の月は、地上で見る月とは異なり、でこぼこだらけで美しいものではなかったのです。真実は知らないほうが幸せに生きれるのかもしれませんね。
やがて科学万能主義の時代が到来し、人間は神をも恐れない存在となり、科学を賛美盲信する科学信仰というべき時代を招きました。科学がすべてを解決してくれると…。体の病気も、心の病気までも…。
しかし置き去りにされてきた意識できない世界である心については、ほぼ16世紀のままと言っても過言ではないのです。深層心理学を開発したフロイトやユングが、その闇にかすかな光をともしました。ですが的実証性に乏しく、未だ心の世界は暗闇の中を彷徨(さまよ)っているのです。
話を私たちの身体に戻します。私たちが生きているのは、意識できる部分、意識できない部分の働きを合わせたもの全体が私たちの心身の活動の事実です。五つの感覚(眼・耳・舌・鼻・身)で刺激情報を感受し、それを意識が快・不快などの感情として受け取り、言語化して記憶していきます。こうして無意識層に記憶されたものが自動的に次の活動を生み出しています。
私たちが感覚し意識できるのは、体を動かす運動神経と感覚神経ぐらいで、実際に働いているものの1%以下にすぎません。私たちの体を俯瞰(ふかん)すれば、その事実に気が付きます。
少しだけ例を挙げてみます。呼吸で吸った酸素が気管から肺に入り、血管を通して心臓に送られ、心臓の一つの鼓動で血液は全身を約30秒で巡り、元に戻ってきます。
また食べたものは口で咀嚼(そしゃく)され、気管に入ることもなく、食道のぜん動運動によって、胃に送り届けられます。胃には食べ物を腐らないようにするため、胃酸を出し37度の温度で数時間保存し、空腹感を防ぎ、やがて十二指腸におくります。体のごく一部の活動ですが、こうした活動は、私たちは意識できません。痛みが生じた時のみ、その存在を意識する程度です。
体の中で毎日新しいがん細胞が成人の場合で約3000個生れているという事実があります。私たちはボーとしていますが、体の内部で白血球が熾烈(しれつ)な戦いをし、マクロファージという細胞が、がん細胞を食べたり、攻撃したりして、がん細胞を駆逐しています。そんな活動に対して私たちは、全く意識することもありませんし、意識できません。
風邪を引き発熱し、のどが腫れた時など、白血球が菌やウィルスと戦い、そこは戦場となり炎症を起こします。また赤くはれたり、発熱したりするのは激しい戦いの跡(あと)だからです。このような見える炎症や発熱は意識できます。
このように私たちの身体は、意識できない世界で、涙ぐましい戦いを至るところで展開しています。私たちが意識して指示しているわけではありません。体の各部分が、私たちの体を守るために、本来的使命に生きているのです。生き抜くための熾烈な戦いをしています。仮にウィルスに負けてしまうと、体は死ぬからです。破傷風などの菌(きん)に負けると、やはり命を保つことはできないからです。
弱肉強食が生物界の生体の秩序の一つのルールであることを知らなければなりません。人の体の内部も白血球が負ければ強いウィルスが勝ち、ウィルスが体を支配し、人は死に至ります。身体自体が壮絶な破壊と創造を織りなしているのが私たちの生きていることの現実です。
人は動きを止めればやがて弱り、死滅していくしかないのです。体の内部の戦いのように意識を磨き働かせ、動き、前進するしかありません。宇宙や自然は常に変化し流動しています。人間も宇宙の一部であり、変化に合わせなければ生き残ることができないのが自然の道理であり、正しい思想なのです。
銀河の旅人