質問
僕は今、23歳のニート高卒なのですが
高校を卒業してからはなるべく人と関わらないようにしてきました。
今まで、最近は人と自分を比べたり人の顔色を気にしたり
とにかく嫌われないようにを意識して生きてきたため
結果的に今は親や誰かに言われないと何もできなくなってしまいました
また、自分が自分がの性格だと気づき周りの人に迷惑かけているのが申し訳ない気持ちが強いのですが
こんな自分にも生きていく価値がありますか?こんな卑屈な人間なのに他の人のために何かできる事を考えている偉そうな自分にも腹が立ちます。
回答
臨床心理シランの室です。
あなたの生きる価値は絶対なのです。
受動的な生き方は環境に支配され、何かあると不安定になり、もろく壊れていくものです。それに対して積極的、能動的な生き方は環境を支配し、自らを律し、安定した生き方、充実をもたらしてくれます。
「どう生きていけばよいのか」というあなたの質問…自分が自分がという生き方が周囲に迷惑になっているのではないか、申し訳なく思うという気持ち、そんな人生に生きる価値があるのかという人間存在の本質への問いになっているようです。
人間は、自分が自分がという利己主義的側面を誰人も持っています。あなただけではありません。しかし、その生き方だけでは、世界は利益や物質や富を求めて争いが絶え間なく起こり、戦争にさえなります。また、現在の地球環境破壊は人間の「自分が自分が」という生き方の結果でもあります。
「他の人のために何かできる事を考えている偉そうな自分」と嘆き卑下する必要は全くありません。立派な考えなのです。それが実行できる自分になればよいのです。
人間は利己的な生き方だけでは共存・共生できません。利他的な生き方が必要なのです。自分も栄え、他者も栄えるという共生、共存、自他の幸福を目指す生き方が必要なのです。
人間の幸福、生き方や人生の価値は古来、思想・宗教・哲学のテーマとなり、偉人はそれを追求してきました。イエス、釈迦、マホメット、ソクラテス、デカルトなど歴史上数多くの偉人がその道を探究したようです。
人間の生きる価値…私も大学時代に自分がわからなくなり、「人は何のために生きるのか…」と悩み、哲学、思想宗教、人生論の本を読みあさったことがあります。
その一つに仏教思想がありますので、少し紹介します。
仏教の開祖、釈迦(ブッタ)は何不自由のない王子として生まれ育ちましたが、人生に悩んでいたと言われています。
有名な四門遊観…王宮の東門で老人を見て、人は老いる苦しみを免れないと知ります。西門に病人を見ては、人は病気の苦しみを避けられないと知ります。南門に死人を見ては、人は死ぬ存在という苦しみを持っていることを知ります。そして北門で高徳の人を見て、19歳で、全てを捨てて出家したと言われています。
人生の意味を探究し修行を続けた結果、釈迦は生命の真実、宇宙の実相を悟ったと言われています。
釈迦の悟り…生老病死という四苦は無常ですが、その背後に常住不変の生命を悟ったといわれています。
釈迦の生命観…誰人の中にも等しく内在する可能性の生命…創造的で幸福になっていける生命と智慧が具わっている。自らも幸福になるとともに、周囲の人(自然も含めて)も幸福にしていくという共生、共存共栄の生命観と言われています。いかなる運命や宿命をも転換できる生命の働きをもつという哲学です。
一日の人の命は、宇宙の宝すべてよりも尊いとも説いています。なぜなら、人間だけが、自らを変えていける尊い存在とも言われています。確かに動物や植物は、自らを変えることもできず、本能のまま、生態系に従って生きています。
その尊い人間の生命として誕生してくる可能性をガンジス川の無数の砂の一粒という譬えで説いています。つまり人間生命はかけがえのない尊さをもった存在ということです。しかも、どんな境遇、運命も宿命も、自らの生命に具わる可能性を信じていけば、転換できるとも説かれています。
自らに内在する尊い生命を信じられるかどうか。釈迦は自己を信じるという信を強調されたと言われています。簡単に言えば、自分の生命の可能性を信じて行動し生き抜きなさいと教えたのです。
充実した生き方は環境から与えられるものでもなく、目標に向かって主体的に生きる生き方の中に生まれると言われています。その生き方も他者貢献につながる生き方とされています。
あなたは20代、人生これからです。あなたが自分を築いた分、人生の意味は明らかになってくるでしょう。幸福は環境から受動的に与えられるものではなく、自分で積極的に築くものだからです。
具体的な目標を持ち、努力を重ね自分を向上させるために学び、周囲の人たちの役に立っていく…そうした生き方の中に人生の意味や充実感がもたらされることを先人は教えてくれています。
正しい価値観や思想に生きるためには善友が必要です、また教えてくれる先輩が必要です。よい出会いがあることを祈っています。