相談室(ブログ)

不登校を助長する学校 同質集団が異質を排除し神経過敏や過剰適応を産み出していることに気づいていない

2024.02.29

不登校児はつぶやく
学校には行かなくてはいけない…
でも、なぜか学校に行けない
理由は… わからない
人目が気になる…
学校は耐えられそうにない…
みんなと同じようにしないと変に思われる…

子どもにとって学校とは学級を意味しています。家庭以外で自分が存在する場所です。その学級は日本人の行動様式の基本である、かつての「ムラ」意識が今も支配しています。
「ムラ」は個や自律を認めません。「ムラ」は集団規範を守る人、集団規律に従う人で成り立ちます。集団は他律が成員を支配します。

 学級のルールは「みんなの目」です。「みんな同じように」「みんながやっている」などが規範になります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という集団論理が生まれます。正しいかどうかは二の次です。集団の正しさとは集団の掟のことであり、集団に存在する暗黙の規範のことです。みんな平等という表面的な平等主義が学校を支配しています。本当の平等主義は、違いや異質という個を認めたうえで成り立ち、人間の尊厳性に基づく理念です。しかし日本のどこの組織集団にも、そんなものは存在していないといってよいでしょう。2000年以上前から続いている日本の行動様式の一つだからです。

 中学校が荒れていた頃、小学校も学級崩壊などが起こり、多くの学級は無秩序状態を経験しました。鎮静化のため、学校では管理体制が強化されました。荒れた中学校の矢面に立ったのが強面(こわもて)の体育会系教師で、暴れる生徒を取り押さえる力が求められました。
 暴れていた生徒の大半は、低学力生徒か家庭崩壊傾向、愛情不足傾向の生徒たちでした。当時は「落ちこぼれ」と言われたりしました。かつて私が関わった生徒の中には算数の九九もできない非行グループの番長もいました。

 彼らは、今風で言えば「知的障害傾向者」であり、「ADHD・ASD」傾向者と言われるでしょう。当時の学級は、そんな子どもが学級に混じり、学級自体の均質化・秩序化を妨げ、デコボコ状態を醸し出していました。今のように学級で緊張したり、人目を意識したりすることが少なく、失敗や異質を受け入れる容量が学級にはあったのです。

 二度と荒れた学校にさせてはいけないと、学校の管理体制は強化され、秩序を乱す異質の存在は学校から排除されるようになりました。その頃、特別支援教育も学校に導入されます。かつて暴れていた低学力の子どもは、教室から影を潜めます。管理は強化され、教室は同質化された子どもだけが残りました。

 異質の混在は、同質化の防波堤になっていました。しかし、それが減少していく中で、異質的存在は学級に居づらくなります。みんなと違う、普通でない子どもは、どこに行ってしまったのでしょうか…あるいは家で生活するようになったのでしょうか…

 集団が作る同質性は、異質性をますます排除していきます。異質であることは控えなくてはいけません。「みんなと同じでないといけない」「みんなと違ってはいけない」「普通でないといけない」などと子どもは異質になることを恐れ、集団の中で無意識的に緊張しています。失敗を過度に気にします。失敗すれば集団から排除されるかもしれないからです。過剰に人目を気にします。排除されては、その集団の中で生きていけなくなるからです。
 学級成員の神経過敏状態は強まり、HPC(ハイリー・センテンシィブ・チャイルド=高度感受性をもつ子ども)なる子どもが増産さます。

 小学校に行くと、「学校は失敗するところ」などの掲示をよく目にします。しかし実際の教室は、学級成員によって、失敗は異質性の一つとして冷ややかに見られがちです。小中学生は過度に失敗を恐れるようになりました。かつての学級には、失敗しても平気な子、人に笑われても平気な子が混じっており、失敗に対して集団自体が寛大でした。外れた異質の子どもの存在が教室に笑いをもたらし、リラックスさせたり面白くしたりなどの潤滑油的役割をもたらし、異質性を持つ成員の居心地をよくしていたと私は思います。

 子どもは異質になるまい、みんなと同じようにしようと、過剰に神経を遣います。ある子どもはストレスで一杯になり、他者に暴力を振るう形で発散させたりします。またある子どもは、その過剰さに神経を使い果たし疲弊し、学級に居れなくなります。そしてやむなく不登校という回避行動をとるようになるのです。小学生の暴力の急増の原因、不登校増加の原因の一つは、ここにあると考察しています。

見えない心の探求者より