相談室(ブログ)

自分ファーストと云う自己中心病が増加

2024.12.31

アメリカファースト、都民ファーストなどの思想は、自己中心者の心に適い、彼らはその思想の支持者になり、自己愛者を増やし、やがて一国みな哲学なき自分ファーストになってゆきます。

人間が自分を第一優先し、他者や他生物や自然や地球のことを二の次とし、ひたすら自己利益のために利用し、未来のことは眼中にないようです。人間の知性が私利私欲を満たすためだけに使われているようです。

どの国の政治家も、口を開けば「経済、国益」を、金科玉条のように叫びます。経済第一主義、換言すれば、お金第一主義であり、物が豊かにあることが幸福になる道だと叫びます。やがて、ものや土地や海域を巡り、国をあげて、他国民を殺し合う戦争まで発展します。自国ファースト、自分ファーストの思想は、他者の命を物質のように考え、殺傷することができるようになります。

あらゆる企業や組織や団体は功利主義であり、成果主義であり利潤・利益を血眼になって求めます。社員が過労死しても会社の利益が優先されます。会社・組織ファーストであり、一人の命はもののようにあつかわれてしまいます。成果、利潤、お金、株価はすべて数値化され、その数字は人間の命より大事にされます。お金は数字で表記されます。その数欲しさに、強盗し、平気で人を殺しています。

中学受験の過熱、それも将来の自己利益のためであり、私利私欲を満たす一つの手段になっています。本来の学問は、自分を知り、社会を知り、自然を知り、目に見えない無数の法則を探究し、自己実現し、その磨かれた知性で他者・社会・自然に貢献する、大きな志のある学びでした。

現在の学校教育は経済推進者の養成所であり、偏差値という非人間的数字を求めて加熱し、経済至上主義社会の歯車を作ってゆきます。学校は人間教育を忘れています。その場から離脱してゆく人たちが、ある意味、不登校者であり、引きこもり者であり、純粋な心を持った人たちなのかもしれません。

成熟した社会ては、自分のための学問は小人の学として軽蔑されていましたが、今は多くの人が小人の学を目指し、自分ファーストの道を進んでいます。今の子どもが大人になったとき、社会は自己中心者で溢れていることでしょう。

 生物種の一つである人と動物の違いはどこにあるのでしょうか。言葉や道具を使う、二本足歩行するなどという生物学観点の話ではありません。行動や他生物への影響性といった心の側面に視点を当てたお話です。

 動物は本来的に生命に具わっている能力、つまり本能に従って行動します。本能的行動は、他の存在を考えることはせず、自分勝手であり、自己中心であり、自分ファーストそのものです。自分ファーストは、つまり動物と同じレベルといえます。

「あの人は獣もの以下だ」「彼は人を食い物にしている」「弱肉強食」「虎の威を借るキツネ」など、人の行為を動物に譬えた表現はたくさんあります。つまり人間も動物的側面をもった生物であり、動物と同じような行動をすることがあるということです。さらに知識があるだけに、動物以下の行動をすることもあります。このような生物は見かけは人面をもっていますが、およそ「人」とは言い難いと思います。

  畜生は空腹感を満たすため、生き抜くために他を殺し食べたます。満腹になれば、それ以上は食べません。人間は満腹になっても人を殺します。その殺し方も頭を使って残虐に、動物にない殺し方をします。地球上で最も恐ろしい生物なのです。

 人が人になっていったのは、人しか持たない温かい心根でした。他人も自分と同じように喜怒哀楽をもった存在であると他人を思いやり、そうした感情に共感し他生物と共生する心から、人は動物を超えた心性を開花させました。そこには自分だけ利を得る、自分だけ栄えるという心はありません。等しく公平に利を分け与える心でした。恩を受けたら恩に報いるというの道理に生きるようになったのです。恩を知らない人を畜生以下というのはそうした意味なのです。

自分を大事にすることと同じように人や自然も大事にしていくという共存共栄の哲学を持った生き方こそ、本来の人の道です。また、人とは徳を積むための哲学を持った人間です。これを学ぶのが真の学問なのです。つまり学問は、人が人になるために生涯をかけて実践する修養の道なのです。

その果てにあるものは、人として成熟され、自己中心性を超えた人らしい人です。