相談室(ブログ)

自己中心者は幸福になれますか?

2024.12.31

質問

大学1年生です。これまで19年生きてきましたが、人間の仮面をかぶったような偽善的行為をする大人の多さに失望しています。政治家は選挙になると、「国民のために、この身を捧げます」など美辞麗句を並べますが、当選後は、自分の利益、お金、名誉、権力、果ては不倫など私利私欲に走り、自分の欲望すら制御できていません。そうした政治家が日本の政治をしていると思うと悲しくなります。彼らは未来ある子どもたちに、人間は欲の塊で醜いものという毒を吹き込んでいる気がします。

一般の企業、会社の人から小さなお店の人まで、儲けという利益のために、平気で詐欺まがいの商法をしたりしています。購買した人の利や健康などに対する思いやりを感じません。過剰なキャッチコピーで不健康食品を平気で売ったり、自然環境を平気で壊したりしています。そうした商品を買う民衆が愚かではありますが…。

マスコミ、芸能界は視聴率アップという利益のためには何でもありの感じです。視聴者の心理的影響性や子どもの健全な教育など全く考えていません。マスコミ、スマホ、テレビ情報がいかに視聴者の心を不健康にしているか、特に子どもの教育に悪影響を及ぼしているか考えていません。自分たちの利益という今だけを見た自己中心の生き方であり、未来に生きる子どもの健全な心はどうなってもよいのでしょうか。

私は名門受験高校で学び、現在名門といわれる大学に通っています。思えば、私の受けた教育は、ただただ有名大学に進むためだけものでした。T大に何人入るか、国立医学部に何人入るか、その実績が高校の名誉になり、利益につながります。私は、その一齣に過ぎなかったようで、今虚しさを感じています。受験技術や受験知識は教授してくれましたが、果たして人らしい教師がいたでしょうか。人間はいかに生きるべきか、人はどうあるべきかという最も大事な人間について誰も教えてはくれませんでした。ただ私が有名大に入れるかどうかが、すべてでした。合格した私の心は彷徨っており、空虚感に苛まれています。

人間はみんな自己中心者なのでしょうか。自己中心性を乗り越えることはできますか?

自己中心的生き方では幸福になれないと思いますが、私の考えは間違っていますか?

今まで、だれも納得する回答を与えてくれませんでした。たまたま芝蘭の室のブログを見たので質問しました。思索するヒントをいただければうれしく思います。

回答

あなたは、真剣に人生を考えています。人間の生き方とは、人間とは何か、いかに生きるべきか、人は自己中心的存在なのか、それを乗り越える生き方はあるのかなど…。

生きるとは、一面から言えば、自分の身を守り、自分を保ち続けることです。それは生物としての本能です。その点から言えば、あなたも私も自分中心です。人間を含め、生物はすべて自己中心という一面をもっています。あくまで一面であり、すべてではありません。

これまで歴史に登場した偉人・賢人・哲人は、この自己中心性を脱し、人々の精神の向上に身を捧げてきた人たちです。その生き方は自己中心性とは逆方向であり、一面からすれば精神的苦を伴うものであり、よいとわかってもなかななか実践するのは困難な道だったようです。

話を動物・人の自己中心に戻します。

動物・人の場合、食べなければ死にます。寝なければ死にます。眠れる場所がなくては、睡眠がとれず身を保つことができなくなります。衣服をまとわなければ、外気や菌などから見を守ることができません。どんなきれいごとを言っても、生き抜くためには自分の身を保たなければなりません。まず、人も動物も自分ファースト、自己保身が第一になります。これは生物の本能の一つです。

しかし、ここに動物・人の他面をみることがあります。母親です。動物も人間もわが子を命をかけて守ります。自分が危険にさらされても、自分が食べなくとも、子どもを守り、まず子どもに食べさせます。これは自己中心性と逆の方向の働きであり、慈悲心といいます。人は母親のみならず、みな慈悲の心を本然的に持っています。この慈悲の心が発動されるとき、人は自己中心性を乗り越えることが可能になります。これも人間性の一面です。この心を耕し、人生を生き抜こうとした人たちを賢人といいます。

慈悲の心こそ自己中心性の対極にある心であり、それを乗り越える唯一の力です。

慈悲とは、苦しみに共感し苦しみを抜き、楽しみを与える行為です。命あるものを守り、育み、慈しむ心、それが慈悲です。

比喩的に表現するなら、太陽は慈悲の体現者であり、地球もそうですし、自然や植物もそうです。幼子の病を寝食を忘れ看病する母親も慈悲心の表れです。どんな生物や人にも慈悲心は内在しています。

慈悲こそ命あるものの本来の調和した美しい働きです。慈悲心で地球も宇宙もあらゆる生物も生きることができています。慈悲は産み出し創造する源泉です。私たちは慈悲心に守られ支えられて生きています。しかし、そんなことに気づく人は稀です。

無慈悲はその対極にある行為です。自己中心性に潜む魔性であり、破壊の働きです。命あるものは、この魔性・破壊心と慈悲心を本来的に持っていると賢人は説いています。自己中心性を克服しなければ慈悲心は発動しません。

私たちの生命を慈悲心が支配するのか、魔性の破壊心が支配するのか、生命は常に闘っています。これが宇宙の真実の姿です。正義が勝利するとは限りません。歴史は残念ながら、破壊心の勝利で綴られています。一部の権力者の自己中心性に巣くう魔性の破壊心、殺行為が人類の歴史です。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」です。野蛮な武力による暴力支配でも勝てば、その世界の正義になります。生命の魔性は思想も常識もすべてを支配下に置き、思うがままに生きようとします。

日本の神風思想、ナチスの思想、帝国主義時代の侵略思想など、すべてが魔性に操られた思想です。その魔的な思想に、どれだけ多くの尊い命が奪われたことでしょう。この魔性は権力者に最も入り込み寄生するウィルスのようなものです。今は、経済、お金が世界を支配しています。また科学万能という思想がその経済第一主義を支えています。

地球上の人類は、「歴史は繰り返す」の言葉の通り、愚の歴史を今なお綴っています。ロシア・ウクライナ戦争、ガザ地区のイスラエルとハマスの破壊・殺人合戦、世界各地の紛争、経済戦争など…。経済戦争の被害者は数億に達し、今この瞬間も餓えや渇水や感染症に苦しんでいます。

これらの破壊性・生命に潜む魔性に対抗できるものこそ、私たち一人一人の命に内在する慈悲の心と個から発する智慧です。その慈悲心を勇気で沸き立たせるしかありません。それには自己中心性に伴う快感や快適さを乗り越え、苦を伴う闘いが求められます。慈悲の体現者が増えれば、豊かな智慧が湧き、人の心も平和になり、地球も潤っていきます。

今回は自己中心性と、それを乗り越える道としての慈悲の心について述べてみましたが、人間性のごく一部しか語っていません。なぜ人は、慈悲の心が発動できないのか、自己中心的欲望に生きてしまうのか。この解決には人間の心の解明、宇宙万物の現象と、現象を現象として生起させている法則の究明なくしては不可能です。機会があれば、一緒に学んでみませんか。

自分ファーストという自己中病が増加している

アメリカファースト、都民ファーストなどの思想は、自己中心者の心に適い、彼らはその思想の支持者になり、自己愛者を増やし、やがて一国みな哲学なき自分ファーストになってゆきます。

人間が自分を第一優先し、他者や他生物や自然や地球のことを二の次とし、ひたすら自己利益のために利用し、未来のことは眼中にないようです。人間の知性が私利私欲を満たすためだけに使われているようです。

どの国の政治家も、口を開けば「経済、国益」を、金科玉条のように叫びます。経済第一主義、換言すれば、お金第一主義であり、物が豊かにあることが幸福になる道だと叫びます。やがて、ものや土地や海域を巡り、国をあげて、他国民を殺し合う戦争まで発展します。自国ファースト、自分ファーストの思想は、他者の命を物質のように考え、殺傷することができるようになります。

あらゆる企業や組織や団体は功利主義であり、成果主義であり利潤・利益を血眼になって求めます。社員が過労死しても会社の利益が優先されます。会社・組織ファーストであり、一人の命はもののようにあつかわれてしまいます。成果、利潤、お金、株価はすべて数値化され、その数字は人間の命より大事にされます。お金は数字で表記されます。その数欲しさに、強盗し、平気で人を殺しています。

中学受験の過熱、それも将来の自己利益のためであり、私利私欲を満たす一つの手段になっています。本来の学問は、自分を知り、社会を知り、自然を知り、目に見えない無数の法則を探究し、自己実現し、その磨かれた知性で他者・社会・自然に貢献する、大きな志のある学びでした。

現在の学校教育は経済推進者の養成所であり、偏差値という非人間的数字を求めて加熱し、経済至上主義社会の歯車を作ってゆきます。学校は人間教育を忘れています。その場から離脱してゆく人たちが、ある意味、不登校者であり、引きこもり者であり、純粋な心を持った人たちなのかもしれません。

成熟した社会ては、自分のための学問は小人の学として軽蔑されていましたが、今は多くの人が小人の学を目指し、自分ファーストの道を進んでいます。今の子どもが大人になったとき、社会は自己中心者で溢れていることでしょう。

 生物種の一つである人と動物の違いはどこにあるのでしょうか。言葉や道具を使う、二本足歩行するなどという生物学観点の話ではありません。行動や他生物への影響性といった心の側面に視点を当てたお話です。

 動物は本来的に生命に具わっている能力、つまり本能に従って行動します。本能的行動は、他の存在を考えることはせず、自分勝手であり、自己中心であり、自分ファーストそのものです。自分ファーストは、つまり動物と同じレベルといえます。

「あの人は獣もの以下だ」「彼は人を食い物にしている」「弱肉強食」「虎の威を借るキツネ」など、人の行為を動物に譬えた表現はたくさんあります。つまり人間も動物的側面をもった生物であり、動物と同じような行動をすることがあるということです。さらに知識があるだけに、動物以下の行動をすることもあります。このような生物は見かけは人面をもっていますが、およそ「人」とは言い難いと思います。

  畜生は空腹感を満たすため、生き抜くために他を殺し食べたます。満腹になれば、それ以上は食べません。人間は満腹になっても人を殺します。その殺し方も頭を使って残虐に、動物にない殺し方をします。地球上で最も恐ろしい生物なのです。

 人が人になっていったのは、人しか持たない温かい心根でした。他人も自分と同じように喜怒哀楽をもった存在であると他人を思いやり、そうした感情に共感し他生物と共生する心から、人は動物を超えた心性を開花させました。そこには自分だけ利を得る、自分だけ栄えるという心はありません。等しく公平に利を分け与える心でした。恩を受けたら恩に報いるというの道理に生きるようになったのです。恩を知らない人を畜生以下というのはそうした意味なのです。

自分を大事にすることと同じように人や自然も大事にしていくという共存共栄の哲学を持った生き方こそ、本来の人の道です。また、人とは徳を積むための哲学を持った人間です。これを学ぶのが真の学問なのです。つまり学問は、人が人になるために生涯をかけて実践する修養の道なのです。

その果てにあるものは、人として成熟され、自己中心性を超えた人らしい人です。