痛みや苦しみは心身の不調和から発するメッセージです。
執着は神経の過剰疲労を招き細胞を壊します
思考や感情の偏りはバランスを崩します
心身の調和が乱れきった時、苦や痛みは限界を超え、心身は病んでしまいます。
しかし人は、その原因を見ようとせず、目に見える痛みの原因を除去しようとします
結果、病は増幅し本質的な解決に至ることが難しくなります
木を見て森を見ず
森に入れば目の前の木しか見えません。これは人間の本能的感覚の現実であり、限界です。森全体を見
ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たち人間は、見えたり耳に聞こえたりする五感覚
で感知できるごく一部を見て行動し、わかったつもりになり、全体を見ることをしていません。物事の
全体を見るためには想像力を働かさなければいけません。
最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本義もわからずやっている人がほとんどです。真の瞑想は想像
力を磨く修行なのです。想像力と思考を磨き本来の自己と宇宙的自己に冥合することが、ブッタ(覚者)の
瞑想でした。
「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ」
アインシュタインの名言です。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は光彩を放っています。
今から述べる事柄は、感覚では理解できません。想像力を働かせれば見えてくる世界です。
地球は月という兄弟衛星を伴い瞬時も休まず動き変化し 太陽系の中で絶妙な調和を保っています。
その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営ん
でいます。
私たち人間の身体はリズムを奏でるように呼吸し心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで
巡っています。
食べたものは口内で咀嚼され、食道を経て十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素
によって消化が進み小腸で、各血管を通じて各臓器に栄養となって運ばれます。さらに大腸で数十兆の
大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたも
のは約7メートルの消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、人間が生きるためのエネルギーになりま
す。腎臓は一分間で一リットルの血液を浄化し生を守ります。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり
約100の加工的な働きをしながら人体を守り動かしています。
ホルモンは炎症を抑えたり、体や臓器の調和をはかり、身体の恒常性を作ってくれています。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚で身体を守ってくれています。
リンパ管やリンパ節は外敵から身を守るため、免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守りま
す。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節てくれています。
皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の最近、ウィルスから守り、その総重量は10㌔を超えています。人
間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美
男などと私たちは錯覚しています。
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で外部世界と交渉していますが、それは身体の働
きの100分の一以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識ることがではないのが人間の本来的な働き
なのです。
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞も
なく、動き変化し、数十兆の細胞を新陳代謝させ絶妙な調和を保っています。不思議であり神秘です。
神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。もともと神経とは「神の通り
経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。
例えば、体のほんの一部の歯の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが人の身体の現実ですが、そ
れは人の身体全体から見れば微小なことに過ぎません。
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。
生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。
現代人の多くは視聴・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、
精神の死を招き変化への適応力を失っています
それが様々な新しい心の病をつくりだしていることに誰も気づいていません
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な
不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題な
のです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。
人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っています
磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります
心も同じです
きれいな澄んだ心には すべてが正しく見えるようになります
何が幸福をもたらし 何が不幸にさせるのかを 明晰に見分けることができます…
幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です
怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると 心の波は逆流し 自他を巻き込み いたずらに消耗し やがて苦しみの海に沈んでゆきます
限度を知らない過剰な欲望は 自らを焼き焦がし 周りを燃やし 炎の波にのまれてゆきます
快楽に耽け続けると 心は淀み 濁り 善悪がわからなくなり 心の波は間延びし 思考もとまります
人に勝りたい 人より優位に立ち 人を支配したいと思い続けると 心は歪んで 素直さを失い
心の波は屈折してしまいます
人は ほどよさの感覚を失うと 調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります
幸福になる音色を奏でる人は 心が素直で 柔らかく きれいに澄んで 美しい周波を演じています
財産 社会的地位 名声 人気 才能 美貌 健康などは 幸福の一面的な要素で
束の間の喜びをもたらしてくれますが 時とともに色褪せ 壊れてゆきます
自分の外側を飾るものは 空しく時と共に風化し 最後は消えてしまいます
心の外側に求めた楽しさや喜びは 花火のようなもので 刹那的な陽炎のようなものです
ー祇園精舎の鐘の声 (注)諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の詞は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移
ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません
ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り 心の真実相が見えないからです
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識 五感 心根は時とともに輝きを増し その人の
人格を照らし不滅になります
心の底から湧き出る喜びは 永遠性を孕んだ美しい調和された波そのものです
なぜなら外側から与えられたものではなく
自分の心の底から自然に湧き出たものだからです
この喜びこそ幸福の本質を奏でる調和波なのです
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…
自分や人の心が美しいと感じた時はどんな時だったのかを 振り返ってみてください…
過去の聖人・賢人の生き方や 思想哲学や文学・芸術に学んでみましょう
不断に自己を磨き続け 内省し 浄化された自己の鏡に 真実も幸福も映し出されるでしょう
意識を磨き、研ぎ澄まされた精緻な思考の力、そして宇宙をも包む想像力を身につければ、あらゆる病
は消滅し、真の安らぎを得ることができるでしょう。
注 諸行無常…仏教で説かれた重要な思想の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は縁起によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は縁起で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と意識しているにすぎず、夢のようなものを実在していると記憶しているにすぎません。認知症になり記憶機能が失われてしまえば、自分が自分であることも分からなくなりますが生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による錯覚現象のようなものです。
この世のものは全て動いており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の発見です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明する形になっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実相を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を無限に広げることで可能になります。
沙羅双樹の花…釈迦(釈尊・ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で存在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相といいます。究極のブッタの哲理です。それを悟ることができれば永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は覚知されました。