相談室(ブログ)

自分らしく輝いて生きるためのフィロソフィー(注1) 

2025.02.02

人は本来の自己(注2)に生きるとき 心は安定し最高の充実を得ることができます。 それが真の人生の目的であり、本来的自己の実現です。

人は生れてから死ぬまで、自分らしく生きることを望んでいます。本来の自分を生きたいと願い 自分らしさを探すように生きています。それは個人の深い本源的欲求(注3)に根差しています。その到達点には、喜びにあふれた幸福郷が待っているのを知っているからです。自分はこの宇宙で、どの生物や人間にも代替できないかけがえのない個性の持ち主であり「天上天下唯我独尊」(注4)の存在だということを自己本来が心の深いところで識っている(注5)からです。

古今のあらゆる思想、哲学、文学、芸術、音楽、宗教、科学が本来の自己を探究してきました。「汝自身を知れ」(注6)といったギリシャの哲人ソクラテスもその一人です。夏目漱石(注7)は「足下を掘れ」と自分の内面を探求することの大切さを教えてくれました。

「私の目的は 個々の人が自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい」といった科学者のニコラ・テスラ(注8)。彼らは、みんな本来の自分を探し、本来の自分に生きることの大切さを教えてくれています。

自分らしさは抽象的な言葉であり知識であり、どのようにも解釈される曖昧言語の一つです。「○○らしさ」は、偽りの多様化社会では、差別用語になっています。「男らしく行動しなさい」「あなたは親らしくない」…。つまり「○○らしさ」のなかには、既に社会に流布された価値観が染み込んでいます。つまり本当の自分らしさではなく、環境や社会常識によってつくられた自分らしさになります。

例えば、いつも嘘をつく人が、たまたま本当のことを言ったとき、周囲の人は「君らしくないね」と言ったりします。いつも嘘をつくことが、その人らしさになっています。その人の自分らしさとは、うそをつく自分ということになります。自分らしさとは、習慣的に意識的・無意識的に行動しているパターン化された自分をさしています。つまり「○○らしさ」は大人社会の規制の価値観が作った、その時代に通用する常識なのです。

では本当の自分らしさとは何なのでしょうか。この問いに答えられる人を、今の社会に見つけることは困難を極めます。なぜなら自分という人間存在の真実が分かっていないからです。真実が分かっていないのに、わかったように説明する詭弁者に溢れ、真面目な人は混乱し、迷妄の闇にさまよう結果になっています。

自分らしさとは、本来の自己を生きることなのです。では本来の自己とは何かを知ることが、本当の自分らしさの発揮につながります。

自分らしく生きるためには スティーブ・ジョブズ氏(注9)が語るように、「大人が作った価値観や常識を一度見直し、再思考し、価値あるものとないもの、本物と偽物を精査し、自分のものとして、取り入れられるものは取り入れるという取捨選択をし、その中から独自のものを創り出していくこと」が本当の自分を作ることにつながります。

自分らしさの獲得は、ある意味、茨の道です。楽に到達できるものではなく、思考を磨き意識を磨きながら、日常生活の中で錬磨された思想を実践という体験の中で検証しながら、肉化していくという魂の闘いが要求されます。そのためには正しい哲学に導いてくれる師や善友が必要になります。

道を求める困難さを避け楽な道や偏った思想や価値観に生きた人たちは、大人が作った過去の常識に埋没し、利用され、本来の自分を見失い、迷える自分を生きることになり、充実した人生も味わえなくなり、本当の幸福を感じることもできなくなります。

明治、大正、昭和初期まで、思想や哲学や文学の世界では、本当の自分を探求する魂の壮絶な闘いの書がありました。しかし、昨今はハウトウーものや表面的、コンビニ的知識が広がり、偽物や軽薄が幅をきかせ、本物が埋没しています。書物は発行部数と売り上げ至上主義となり、残念ながら中身は問われなくなりつつあります。

多くの情報が経済至上主義思想という欲望づけにされ、巧みな宣伝力で、人間の弱点である視覚(注10)を刺激し、快感覚のもと知性を麻痺させるかのように広がっています。そんな商業主義の、軽薄ものは中身がなく、本当の自分らしさを見つけることにつながらないどころか、悪(注11)になっているものも少なくありません。

芝蘭之室(しらんのしつ)では、本来の自分を識ることをフイロソフィー(哲学)します。興味関心のあるかたは、来訪され、ともに真実を学んでゆきましょう。

※当芝蘭之室はいかなる宗教・思想団体にも所属していません。室長は、18歳の頃から「自分とは何か」を探求し、あらゆる思想、哲学、文学、宗教、心理学、諸科学、人体学などを研鑽してきました。今もその旅は続き、現在はブッタ(釈尊以外の生命の覚者も含む)の最高の教えとされる仏法と量子力学等を中心に研究しています。

注1 フィロソフィー…日本語に訳すと哲学になります。哲学とは、人間とは何か、自分とは何か、心とは何か、人間いかに生かるべきか、生とは何か、死とは何か、自分はどこからきたのか、宇宙は無限なのか有限なのか、時間とは何か、真理とは何か、正義とは何か、人間は善なのか、悪なのか、愛とは何か、幸福に生きるためには、どう生きればよいのか、など人生、社会、自然、宇宙万般を対象に思索し探求する学の世界です。

ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ニーチェ、ベルグソン、キルケゴール、ショウペンハウアー、サルトル、ハイディガ―などが有名ですが、近代は量子力学などの諸科学の陰に隠れた感があります。しかし、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ニコラ・テスラなど一流の科学者の真理探求過程と悟り・考え方は哲学そのものです。

これは科学者だけでなく、夏目漱石、森鴎外、吉川英治、ゲーテ、トルストイ、ドフトフエスキーなどの文学者、ベートベーン、バッハ、モーツアルトなどの音楽家、ダビィンチ、ミケランジェロなどの芸術家、ヘレンケラー、ナイチンゲール、ガンジー、キング博士などの人道主義者、老子、孔子などの思想家、イエスキリスト、マホメット、ブッタなどの宗教者など、その道の一流を極めた人は、みなそれなりの優れた普遍性に満ちた哲学を持っていますし、表現する言葉が美しく読んだり誦したりするだけで心が浄化され、深い触発を受け正しい生き方に導いてくれます。彼らは優れた詩人といえます。

(注2) 本来の自己 自己とは意識層と無意識層を含めた自分全体を指しています。それに対して、自分とは、習慣化・記憶化されたパターン化された自分を指し、自己からみれば部分的なもの・意識になります。

(注3) 本源的欲求 西田幾多郎の代表作「善の研究」の中で使っている重要な言葉。本来の自己、「純粋経験」とほぼ同義と考えてよいでしょう。

(注4 )「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんがゆいがどくそん) 釈尊の言葉とされていますが、真意が曲解されて伝わっています。唯我独尊の「我」とは個の我だけを指すのではなく、この宇宙全体にはただ一つの我、宇宙もすべての生物、人間も、存在するものすべては一つの「我」という意味です。釈尊の悟達によれば「我」とは仏性、法性、如来という意味です。この「我」が、すべてを創り出す生滅の法で尊く永遠に存在しているというのが真意です。

注5 識る 筆者は「知る」と「識る」を区別して使っています。知るは感覚で感受したものを意識することであり、ものごとの一部分しか受取れていません。識るは感覚、意識、記憶化された無意識を統合して感受することであり、ものごとの全体をわかろうとする働きであり、真の受容になります。

例えばタバコやギャンブルは害になるのでよくないから、やめようと頭の中で「知って」いても繰り返します。それは人間の心身の部分知だから、人間の全体をコントロールできないのです。識るとは、タバコは悪いので吸わないという行動ができることを指します。つまり識るは体得であり、「悟り」といえます。知識と感情全体を抑制できるのが「識る」であり、生命全体でわかることであり、覚者はこれを「悟り」という言葉で表現しています。これが修得できれば、心の悩みや心の病は治り、苦から解放されていきます。

(注6)「汝自身を知れ」ソクラテスの名言と言われています。あなたはあなたのことを全くわかっていない。自ら無知を自覚し、大いに学んでいきなさいと言う意味になります。ここで言う無知とは、本来の自己に対する無知のことです。

(注7) 夏目漱石「私の個人主義」という書の中で展開している言葉。「足下を掘れ」とは自分の心の深くまで探求し、本来の自己を探りなさいという意味になります。

(注8)ニコラ・テスラ…1856~1943年 交流電気を発明、約300の発明をしたとされる、天才物理・電気学者。現在のイーロン・マスクはニコラテスラを信奉していると言われています。彼の設立した車の会社の名前は「テスラ」です。

ニコラテスラの哲学の一部を紹介します「存在とは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによってすへての生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き産み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一、一つの状態から別の状態に移ることだけです。これがすべての秘密の回答です」

(注9)アップルを設立したその会社の共同経営者。スティーブ・ジョブズの「スタンフォード大学の講演」「最後の言葉」の要点を筆者がまとめたもの。

(注10)視覚を刺激…人間の感覚反応は9割は視覚に依存しています。それは二本足歩行し、体力的には他の動物より圧倒的に弱いため、視覚と記憶・知識の優位さで生き抜くために発達しています。反応の基準は、快・不快、好き・嫌い、好ましい・好ましくないという過去の記憶化された習慣的に作り上げた価値観で自分を守るために反応します。その基準は好き・嫌いという感覚反応ですから、本当の利害は得られず、また善悪など度外視しています。コンビニ感覚社会では、見た目が勝負ですから、人間の弱点にもなる視覚に訴える広告宣伝、テレビ、ユーチューブに溢れ、真偽も利害も善悪も二の次になり、思考しない人間を増産し、人間の質の低下を加速させています。

(注11)悪…ここでは人の精神を高める向上させたり、順益させるるものを善といい、逆に人の精神や生き方を低下させたり、自他を違損するものを悪という使い方をしています。古来、哲学や思想や科学は善悪を巡って魂の闘いをしてきました。一例をあげれば、地球は回っていると唱えたコペルニクスは当時の社会から裁かれ、死刑になりました。当時の善思想は天・太陽が回っているといことであり、地球が回っていると言う考えは悪で人を惑わすものとされたのです。当時の善は、真理が究明された現在からみれば悪です。真理は権威社会が作り、当時の社会常識は今の科学からすれば、悪になります。コペルニクスが善だったのです。つまり社会常識や思想は時代の民衆や権力者が作り出すものであり、真実とは限らないと言うことです。だからこそ、真理・真実を見抜く正しく賢い目が大事なのです。

善を生涯探求し実行した哲学の祖ソクラテスは当時の詭弁家知識人の悪に毒を飲まされたのです。いつの世も悪は多く、善は少ないようです。悪は楽であり、善は困難を伴うので、人々は容易に悪思想に染まってしまうのです。悪は一時的に栄えたように錯覚しますが、末路は苦しみであり、地獄の世界になります。世の中を俯瞰するに、あらゆる商売、品物、企業団体、医療・心療内科やカウンセリングも商業主義・経済優位に毒されていのが現実で、残念ながら善は少なく、本物は砂浜の一粒の砂のようなものです。人々が賢くなるしかありません。

何も考えず権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である アインシュタイン