愛するとは その人のすべてを受け入れ どんなときも大事にし 守り 尽くし抜くことである
かつて、「世界の中心で愛を叫ぶ」という小説が大ヒットし、テレビ化され多くの人々に感動を与えました。その昔「愛と死を見つめて」という映画が大ヒットし、やはり多くの人たちの涙を誘いました。また最近では、24時間テレビで「愛は地球を救う」という番組が毎年のように報道されています。キリスト教の隣人愛や博愛など、愛という言葉には美しく神々しい響きがあり、人々の心のひだに入り込む言葉です。恋人同士で相手から「愛しています」と言われると、何ともいえない感動が全身を駆け巡ります。
愛の表現語…人類愛、家族愛、兄弟愛、夫婦愛、親子愛、動物愛、母性愛、母校愛、会社愛、スポーツ愛など、愛のつく言葉はたくさんあります。それぞれ意味は微妙に違っています。また使う人が自分なりの意味をこめることもあります。
しかし、その愛とは何なのかというと明確に答えられる人は少ないでしょう。日本にはもともとない言葉であり、欧米のLOVEの訳語だからです。翻訳語の曖昧さが日本で創作され美化された代表的な言葉が「愛」と言えます。
愛ほど抽象的なつかみどころがない言葉はありません。しかも快い響きを持った数少ない言葉です。それは「愛している」という関係の中で使われる抽象性をもった言葉だからです。どのようにも解釈できる幅のある言葉なのです。抽象的で幅があるからこそ、悪用されたり利用されたりする言葉になります。
愛とは本当の優しさの別表現です。見返りを求めることはしません。相手がどんな状況になっても、たとえ相手の姿かたちが変わり果ててしまっても、その人のすべてを受け入れ 守り、大事にし、尽くし抜く心、それが愛なのです。
愛の実践は、心の強さ、心の清らかさ、正しい心の持続が必要になります。つまり人間性の向上が求められます。愛する二人は限りなく向上し、周囲に美しさを放ちます。
そうした真の愛を持った人が増えていけば、地球も人類も救われていくと思います。
私はかつて国立医学部や東大を目指し、三年間浪人し、合格を目標に、かけがえのない青春期を受験一筋に生き抜いていました。その結果は、燃え尽き症候群、鬱症状、無気力、視力の極端な低下、神経症症状を伴った精神状態でした。以後の人生も比較優劣に染まった思想、成果主義、権威主義的思考に無意識層から蝕まれていたようです。深い哲学思想と出会い、それを学ぶことによって、偏差値的比較相対の思想から解放され、心の自由を得るようになりました。意識や思想を変えるには長い年数がかかることを知りました。
さて話は自身の反省からみた現代社会の様相について私見を少し述べてみたいと思います。
人の健康も数字で測定される世の中です。血圧130、血糖値は…その他、コレステロール値、脈拍数、脳波、白血球の好中球の数、癌のマーカー数値など数えあげたらきりがありません。数字という一基準で人全体の健康をはかろうとする危険性が見られます。
同じように人の価値も数字で測られるようになりつつあります。学校では成績偏重になって久しい感があります。入試の合否を左右するのは人間性ではなく点数であり、偏差値です。学校教育の成果は偏差値の高低がすべてになっています。小・中学校もそうなりつつあります。特に進学校では、既にそれがすべてになっているといってよいでしょう。
親も、その風潮に染まり、少しでもよい高校に進学させようと、塾に行かせたり、家庭教師をつけたりして少しでもわが子の成績を上げようとします。一生懸命パートで稼ぎ、子どもの未来のためと信じて勉強環境を作るために貢ぎます。最も大事である人間性を育てることは、二の次になっているようです。そうした教育観の中で生きる子どもは、不登校という無言の行動で反抗していますが、親も教師もその本質をみようとしていません。
人は偏差値という数字で評価され、人間性はどこかに追いやられています。東大や京大に何人合格とか国立医学部に何人合格したとかが、進学高校の評価のすべてになっています。
評価を得るための勉強、与えられた教材だけを学ぶ受動的な勉強に、本来の知の探究や主体的な学びはありません。本来の学びは、人間性を高めるために学び、自分の個性を開花させ、他人や社会や自然を知識することです。そして学びで得たものを生かし、他者や社会に貢献していくという真の幸福に至るための学びなのです。
しかし、偏頗な教育観のもと、人間性の開発という最も大事なことを置き去りにして、他者や社会が求める評価という一次元の数字を得るために血眼になっています。比較相対の競争の中で自身の可能性を矮小化させていることに気づいていません。
小さな狭い価値観、しかも人の一部分に過ぎない記憶化された知識量を換算した偏差値が学校教育の目的になっています。やがて社会人になったとき、偏差値教育は経済至上主義、成果主義の歯車に容易に組み込まれ、受動的人間になり、自ら考えることをしなくなります。結果大人になって、学ぶことをしなくなります。人は生涯を通して学び続け、自らを高めゆく中で、真の幸福境涯に近づくということを学んでいません。
多くの企業は数字に換算された利潤を問題にします。そこに人を見る視点はありません。成果を出せる人、業績を出す人、数字が出せる人が有能になるのです。そうした職場についていけず、会社を離れ、ひきこもりになる人を多く見てきました。偏差値教育の被害者とも言えます。
そうした社会風潮は、成果のため、儲けのために、不正やごまかしを横行させる土壌を作ります。私たちは、そうした悪事を毎日のようにテレビニュース目にします。
今の日本資本主義社会の行き詰まりは学校教育の目的観のずれに発しています。しかし、ここを指摘する専門家はいません。彼らも既に、世の濁流にどっぷりつかり、清流を忘れているからです。
現代人は大学に入ると勉強しなくなり、社会に出ると、さらに学ばなくなります。結果、大人が学ばない国、世界一日本(パーソナル総合研究所国際調査)という不名誉な結果になっています。それに比例するかのように浅く表面的な刹那的な人間が増加し、人間性は低下しています。日本は心の貧しい国となり、心の不健康な人が増え、真の幸福からどんどん遠ざかっています。
見えない心の探求者より
先日、私の同級生が癌治療の最中に急逝しました。二週間前までは元気に行動していたのです。癌の再発ということで亡くなる11日前に急きょ入院しました。入院後、わずか10日で死を迎えたのです。抗ガン剤治療中の最中のできごとでした。
この訃報に接した時、衝撃で夜も眠れず、一晩中思いを巡らしました。「あの元気だった彼が何故?…」「なぜ?…」と。
現在の癌治療の実態を垣間見たような気がし恐ろしくなりました。
そこには、病者という一人の尊厳な存在である人を診ず、再発がんの身体の一部を診て治療するというやり方があったのです。一人の病者を精神的側面、身体の他の状況など、多角的に診るという視点があれば、彼は、今も間違いなく生きていると確信しています。
病気は、病者の一部分の状態であり症状に過ぎません。人の顔が千差万別のように病気も千差万別です。病気は、人の一部分の故障や痛みなどの症状を固定的にとらえた言葉(概念)です。人は部分ではとらえらることが出来ない柔軟性・可塑性をもった存在であり、身体全体の調和した働きの中で常に変化し生を営んでいます。
病気を扱う医学は人を部分でとらえ分析しようとします。それに対して、病者という概念は、病める人というとらえ方で、どこまでも人間全体を診ます。病んでいるのは、その人の一部分というとらえ方をし部分観に陥ることをしません。
西洋医学は病気に焦点を当て、人間を部分に還元抽出し、最後は数値でデータ化します。人間全体を診ようとしない傾向にあります。病者という概念は医王釈尊(ブッタ)の病者の治療から生まれた言葉です。釈尊はどんな病気をも治した地上最高の名医と仰がれ、医王と言われています。
これは何も今始まったものではありません。身体医学は、まだましなほうだと思っています。精神医療はもっとひどい現実があると言われています。抗癌剤よりひどいのが、心の病に投与される「抗○○薬」などです。発達障害の子どもや幼児にも投薬されています。精神医学の先進国と言われているアメリカでは、抗不安薬などの服薬と自殺の関係性に疑問を持った患者遺族関係者から多数の裁判がもちかけられ、何度も製薬会社は敗訴しています。そして莫大な賠償金が支払われているとの報告がされています。「精神科臨床はどこへいく」(心の科学より)
胃が悪いと胃薬、目が悪いと目薬、これらはほとんど副作用もなく、標的に適合し治療効果をあげます。では、心の病は、どこを標的にしているでしょうか。心は見えません。心はほとんど解明されていません。ですから心の標的はわからないのです。精神病薬は、心の症状が起きているだろうと推定される脳の部位、またその働きをしているだろうと推測される神経伝達物質(セロトニン、ノルアドレナリン、アドレナリン、ドパミンなど)を標的に投薬します。あくまで推定であり、科学的に証明された事実ではありません。
服薬は、人体全部を通過するといってよいでしょう。舌、食道、胃、十二指腸、すい臓、肝臓、小腸、大腸、脾臓、腎臓、膀胱、肺、心臓、血管、リンパ管、ホルモン、そして大脳、小脳、脳幹・脊髄神経など部位を薬はかけ巡り、それなりに微妙に働きかけます。血液注射はもっと早く身体を巡ります。それらの働きを副作用と言っていますが、正しく言えば、薬の立派な作用の一部です。体全体の機能や働きを考えれば怖くなります。抗ガン剤より怖い薬と言えそうです。
現代医学は欧米医学、なかんずくアメリカ医学を崇拝しています。その医学は、病者という人間全体の視点を欠き、病気という人間の一部に過ぎない症状に焦点あて治療をしています。ここをよくよく考えないと、悲劇につながる結果を招きかねません。医者は責任はとりません。すべては治療を選択した患者の責任になるのです。ですから、患者一人一人が正しい知識を持ち賢くならなければならないのです。
銀河の旅人からの便り
私たちは生れた瞬間に同時に私たちの身体に死も誕生しています。生と死は常に同時に私たちの中に存在しています。私たちが、どんな成長を遂げ、どんな人間になっていくのか、幸福な人生を送るようになるのか、それとも不幸の人生になっていくのか、それは不確実で、その人の意志と努力で変っていきます。
しかし、死は努力や意志に関係なく誰人にも平等に確実に訪れます。人間の真の平等性は、すべての人は必ず死ぬということです。天皇も、総理大臣も、世界一の金持ちも、ノーベール受賞者も、金メダルを何個も受賞した有名なアスリートも、死は平等に訪れます。死はその人の外面を飾っていた名誉、財宝、地位などすべて剥ぎ取り、その人を裸にします。そして、私たちの生命は心に積んだ徳だけを持って、宇宙に帰ってゆくのです。死こそ、すべての人に平等に訪れる飾りなき厳粛な生命の不思議な働きです。
人にとって人生最大の難問は、自分がいつ死ぬのかがわからないことです。どんな科学者も哲学者も宗教者でもそれはわかりません。これを運命とか、宿命とか寿命とか言います。癌患者が医師から、余命○○か月とか宣告されることがありますが、科学的経験から推定された見立てであり、もちろん確実ではありません。ですから余命3か月と言われた癌患者が、10年以上生きているケースもたくさんあります。医師はその人の寿命を量ることはできないのです。
その人の寿命は、その人の生命に宿っていますが、自覚はできません。意識、無意識を統合した生命全体を覚知できれば自分の寿命が分かると言われています。世俗の欲に染まった生命では深層を流れる命を覚知できないからです。昔の修行者が世俗の欲を断つため、世間を出て修業し、生命の浄化を求めた理由もそこにあります。
深層の生命と交流できる時、人は安心立命の境涯を得ることができると言われています。安心立命の境涯は、三世にわたる幸福境涯への道と言われ修行者の最終目標だったのです。
動物でもやらない虐待やいじめを、なぜ人はすることができるのでしょうか。そこには人に潜む動物性と魔性があります。それは、人がそうした行為をするとき、心が何かに乗っ取られているからです。心が何者かにマインドコントロールされているからです。つまり人でありながら人としての道理や倫理規範から外れた生き方になっています。
正体の一つが自分の思うようにいかない時に発する怒りです。人間は簡単に怒りに良心を乗っ取られてしまいます。怒ると人間は冷静さを忘れ、最悪の場合、他の生命を破壊したり殺したりします。怒りは破壊につながる怖さを持っています。
しかし、相手が自分より強い人や立場が上の人に対しては、その怒りを出すことができません。自分の心の中にしまい込み、その怒りを出せる相手を見つけた時、自分より弱い立場の人にぶつけます。世に言う「八つ当たり」です。虐待は強い立場の親が弱い立場の子どもに向けられます。いじめも相手が自分より弱い立場にあると認識する時にできる行為です。その心は弱肉強食の畜生性ですが、「集団で一人の弱い立場ある人を卑劣なやり方で攻撃する」「幼児に熱湯をかける」などの過剰なやり方の残酷さは畜生以下の生物というしかありません。
子どもが思い通りにならず、一晩中泣き叫ぶ場合でも、虐待する人としない人がいます。その分かれ道はどこにあるのでしょうか。いじめも同じです。加担する人としない人に分かれます。それは人間性で決まります。
人生の中で心にしっかりと積んだ徳。弱い立場の人を守る、弱い立場の人を攻撃しない、自分が強い立場にあるだけで、相手にとって脅威の存在になっているということを自覚している人は虐待したり、人をいじめたりしません。
その根底には人としての正しい思想があります。自分も相手も、たとえ子どもや赤子であっても痛みや喜び感じる同じ人間存在であるという知識を持ち、怒ったときもそれを思い出し、行動を抑制できます。
こうした抑制力は環境の中で培われます。特に家庭環境に強い影響性を持つ親の存在は大きなものがあります。親の行動や声や言葉は、子どもの五体、毛穴からも染み込み、子どもの心に深く入り、子どもの思想を形成します。
虐待の連鎖、虐待は親から子に伝わるとは、このことを指しています。世にいう「アドルトチルドレン」とか「インナーチャイルド」とか「機能不全家族」とか「毒親」いう言葉は、これらを指しています。
いじめの場合は、本人にかかっているストレス解消などの要素があります。
しかし、虐待された子どもが、虐待する親に必ずしもなるわけではありません。連鎖の中に入るのは、ごく一部というが正確な事実です。私は、多くの虐待する親と、その子どもを見てきましたが、比率からすると、やはり3割以下といってよいでしょう。中には、虐待を受けた子どもが、自分の体験から学び、同じことを子どもにさせたくないと、立派な親になっている人も見てきました。一方、虐待の親よりも進化して、ひどくなる人もいます。その違いは、どこにあるのでしょうか。
ここが一番の重要な難所です。専門家もここが解けないので、適切な手立てが組めていないのが現状です。人が育っていく要因には、家庭環境要因、学校環境要因、社会環境要因、人的環境要因、素質的要因などが微妙にからみあっています。一つだけに特定すると部分観に陥ってしまいます。物であれば部分観が通用しますが、人間は常に全体という調和の中で生きているから部分観では解決できませんし、そうした部分の分析知では、間違いすら起きてしまいます。
これらの要因の中で大事なのは、人的要因と素質的要因です。なかんずく素質的要因が大事になります。これは心の深層と関係している難問であり、あらゆる病気や悲劇の要因の一つです。なぜ難問なのか、それは不可思議な生命そのもの真実性の解明が求められるからです。1ミリにも満たない精卵細胞に全ての種子が内在している事実は不思議というしかありません。ここにはあらゆる生命の持つ神秘性が隠されています。
つまり生命誕生のなぞと死後の生命のなぞ、そしてその二つをつなぐ生命の一貫性の謎です。今生きている生命が死後どうなっていくのか、今の生命が五つの感覚(眼・耳・鼻・舌・身)と意識という肉体を通して顕在する働きの感受と認識を失ったとき、つまり肉体の死=死ですべてが終わるのか、それとも記憶を貯蔵していた脳は焼失しますが、無意識層に蓄えられた行為の全体が死後も潜在して続き、今の生と似たような環境を得て顕在化するのか、この深層哲学が素質の解明につながります。
3000年前、インドの菩提樹の下での釈尊の哲学的悟りは、「自身の我は永遠である」「自身の我は、何ものかに作られたものでもなく、自信の我は永遠の昔から存在し、永遠に続いていく」「自身をつくったのは自身の内なるサ・ダルマである」というものでした。この哲学的悟りから東洋思想・東洋哲学・東洋医学は発展したと言われています。
次は飢餓感に似た欲望に支配された時です。そのとき人間は、見境なく欲望を達成するために対象に一直線に向かいます。思い通りにするために他者を利用します。相手が同じ人間であることなど、自分の欲望達成のためには毛頭も考えません。相手を傷つけても平気な精神状態になります。痛みも感じません。だから虐待やいじめが平気でできるのです。
最後は弱肉強食の畜生性です。弱い人や弱い立場にある人に本能的に向かいます。本能の力は強く、その時は良心が働かず鈍くなっています。だから弱い者を平気で傷つけることができるのです。
以上の三つの人間の持つ悪魔性をコントロールできれば虐待やいじめは防ぐことはできます。
銀河の旅人
今の日本人は日々人間性を低下させているように見えます。
生物種の一つである人と動物の違いはどこにあるのでしょうか。言葉や道具を使う、二本足歩行するなどという生物学観点の話ではありません。行動や他生物への影響性といった心の側面に視点を当てたお話です。
「あの人は獣もの以下だ」「彼は人を食い物にしている」「弱肉強食」「虎の威を借るキツネ」など、人の行為を動物に譬えた表現はたくさんあります。つまり人間も動物的側面をもった生物であり、動物と同じような行動をすることがあるということです。さらに知識があるだけに、動物以下の行動をすることもあります。このような生物は見かけは人面をもっていますが、およそ「人」とは言い難いと思います。
具体的にみてみましょう。地球上で最大の不幸は戦争です。その心は人間のもつ畜生性であり、本質は弱肉強食です。動物は自分よりも弱いものを生きるために食べます。食べられる動物は恐怖の中で苦しみを味わいながら死んでいきます。戦争も、食うか食われるかで、強い方が勝つまで続きます。その間、多くの人が殺され、地獄の世界が現出します。人々は不幸に泣きます。戦争の動機は、畜生性だけではありません。「自分が利を得たい」という利害心が大きな動機になっています。
「我田引水」という言葉は、もともとは水田に引く水の取り合いから始まりました。田んぼに水がなければ米は育ちません。死活問題です。ですから水を巡って争いが起きたのです。利害と弱肉強食がからんだ殺し合いまでしました。昔から自分の利のため、自分を守るために、人は人を殺しました。弱肉強食の動物の一種として…。
畜生は空腹感を満たすため、生き抜くために他を殺し食べたます。、満腹になれば、それ以上は食べません。人間は満腹になっても人を殺します。その殺し方も頭を使って残虐に、動物にない殺し方をします。地球上で最も恐ろしい生物なのです。
人が人になっていったのは、人しか持たない温かい心根でした。他人も自分と同じように喜怒哀楽をもった存在であると他人を思いやり、そうした感情に共感し他生物と共生する心から、人は動物を超えた心性を開花させました。そこには自分だけ利を得る、自分だけ栄えるという心はありません。等しく公平に利を分け与える心でした。恩を受けたら恩に報いるというの道理に生きるようになったのです。恩を知らない人を畜生以下というのはそうした意味なのです。
人とは徳を積んだ人間性の持ち主です。これを学ぶのが真の学問です。中国の偉大な思想家孔子は、生涯をかけてそれを探究しました。その中心思想の一つに「仁」(じん)があります。簡単にいえば他者を思いやる心です。人の痛みは自分の痛みであり、人の喜びは自分の喜びというように、人も自分と同じような大事な存在として接する心です。
現在はこうした心が少なくなり、自分だけという思いが先行し、どんどん人は自己中心性を強めています。自己中心性は他者とぶつかります。他者を攻撃します。他者を押しのけます。そして自分だけ栄えようとします。お互いがお互いのストレス源になっていることに気づいていません。その行きつく先は、人間社会の不調和です。不調和社会は、人間をいっそう不調和にしていきます。互いの発するストレスが心身の不調をもたらしているのです。それが心身の病の最大の原因です。
人の調和、社会の調和を説いたのが孔子の「仁・義・礼・知・信」です。まず「仁」を意識して生きてゆけば、人間性は向上し病も減少していくと思われます。
銀河の旅人
大人が学ばない国、世界一は日本ということを知っていますか。学び=知識の獲得は大学入試で終わってしまっている日本になっています。学びの本来の意味や目的が分かっていないのが日本人のようです。とても残念なことです。
人は死ぬまで学び自分を高めていく過程の中に心の充実、自己の実現、つまり絶対的な幸福郷にたどり着くことができます。これは生涯をかけて真実を探求し続けた覚者ブッタの悟りの一つです。
自らの心をコントロールするには、学び続けるという知の錬磨が必要です。欲望に負けない、自己制覇の闘いを絶えずしていくことが自らをコントロールする方法です。音楽、芸術、学問、スポーツ、教育、政治、経済界など、どの分野であれ、知識を磨き、心を鍛え続けること、そして自らをコントロールすること、自分の悪しき欲望に負けないことが、人生で幸福になれるかどうかの分岐になります。
まず重要なことは、マインドとは何かということです。この把握なしに、マインドコントロールはできません。マインド、つまり、心です。これがわからないと、根本解決は難しいでしょう。
心とは何か。これは今も謎多き存在でありますが、目には見えませんが確かにある働きです。この解明に最も接近したのは、東洋思想であり東洋哲学です。西洋思想・哲学では解けないと考えられるようになったからです。心理療法の世界でも、最先端のアメリカ精神医学会で認知行動療法の限界が見え始め、それを凌駕するものがマインドフルネスと言われています。これはブッタの教えのごく一部、仏教の禅を基にしています。
つまり東洋思想の根幹、仏教であり、ブッタの法です。
心を科学するには、老荘思想、孔子の思想、そしてブッタの哲学・思想を紐解くしかありまれせん。
人は甘い言葉、優しい言葉、とろけるような雰囲気、心地よさ、快感に酔う生きものです。動物(人)は本能的に心地よさを求めて生きています。心地よい快感なしに動物・人は生命を保つことはできません。もし食べる行為が、舌の器官がおいしいと感じず、まずく苦しみであるとしたら、動物・人は食べることを避け、死ぬことになります。また子孫を残す生殖行為も、苦を伴うものであれば、性行為はしないでしょう。そこに快感があるからこそ、人はその行為を求めます。それが生命の不思議な本来的にもった能力、つまり本能であり命の法則の一つなのです。
しかし心地よいものには、魔(命を奪う働き、仏教では奪命者と言う)が潜んでいます。「君子危うきに近寄らず」と、甘い誘惑を見抜いたのが孔子です。まず、甘いささやきの裏を見抜くことです。そして近寄らないことです。世間一般でも、「うまい話は詐欺」は本当です。それには、先を見通す「知の光」が必要です。知の力で行動を制止(コントロール)するのです。これができないのを愚痴(愚かな病んだ知)というです。
私の体験ですが、15歳の頃、同級生で麻薬を吸っていた人から、麻薬を誘われたことがありますが、そのとき、年上の人の「一度やったら、脳が破壊され、人生が終わる」という知識を思い出し、その場から逃げるように離れました。具体的には、これが知の行動制御の力です。無知は不幸行きになります。正しい知、正知をどれだけ身につけるかが大事になります。そのためにも先人、先輩、古人に学ぶ、書に触れ、正しい知識を得ることが大事なのです。
知識には正しい知識と悪知識があることを知らなければなりません。
悪知識は実に巧妙です。人間は甘い言葉に、どうしても脇があまくなり、たぶらかされてしまいます。この世にうまい話は絶対にありません。世間や人生や人間を知らない地方出身の若い女性が怖い歌舞伎町で毒グモの甘い心地よさの香りをもった密に絡まった話が最近マスコミで報道されました。
人の中に棲む魔は甘く、巧妙に演技し、あなたの歓心を誘い、喜ばせ、快感の絶頂を感じさせ夢心地のよさの中で徐々に蜘蛛の糸にはめてしまい身も心も奪っていくのです。後は蜘蛛の腋に溶かされ、少しずつ食べられ、命を奪われることになります。そして生き地獄に入ります。とても怖い話です。
これは詐欺などの甘い話だけではなく、専門家、権威ある人たちも巧妙に自らの私利私欲を心にしまい、無知な学ばない人をだまし自分だけ利益を貪るため愚かな人たちの心の隙間に這い込み利用します。善人を装い巧妙です。
常に学び、正しい知識を身につけ、善悪を見わけ、意識を磨くことが、正しいマインドをコントロールにつながっていきます。
銀河の旅人
充実した一日が幸せな眠りをもたらすように 充実した一生は幸福な死をもたらしてくれる
15世紀イタリアルネッサンス期に生きたレオナルド・ダ・ビィンチの名言です。「モナ・リザの微笑」「最後の晩餐」の絵画で有名ですが、実はダ・ビィンチはあらゆる学問に精通した万能の人と言われています。
彼の名言から充実した幸せな眠りに至る道を考察してみます。
充実した一日は、規則正しい生活習慣から生まれます。正しい生活習慣とは何か。昔からいわれるような、早寝早起き、腹八分の食事、ほどよさを身につけた、分をわきまえた行動が基本です。このほどよい感覚や分を知らない無理な生き方を続ければ病気になります。程よさは心身の全体のバランスある行動から生まれます。多くの人は部分に偏り、全体を忘れ、無理を重ねた生活をし、心身の一部分を壊しています。
睡眠は「眠ろう、眠ろう」と意識してもできない不思議な心の働きです。そこには心身全体の意識できない働きがあります。この無意識的活動に「眠り」は支えられています。
安眠を妨げる要素を一つ一つを見てみれば、心身全体の働きを考えない部分へとらわれた行動であることが分かります。つまり不調和な行動になっています。
まずストレスです。その筆頭は怒りです。種々の痛みや苦しみも睡眠の妨げになります。日中の出来事で生じた怒り。これも強度のレベルがありますが、いずれも神経を緊張興奮させ、脳に刻まれ、無意識層に蓄積され、睡眠に大きな影響を与えます。こうした怒りなどのストレスをなるべく早く緩和させることが安眠につながります。怒りの処理がうまくいかないと、心身に影響をもたらすようになります。怒りのコントロールはとても大事になります。
次はアルコールと睡眠薬について考えてみましょう。どちらも脳内神経物質に影響し、心地よさや安心、多幸感をもたらし入眠を楽にします。しかし、アルコールは適度であれば、あまり問題はありませんが、量を過ごせば、肝臓に多大な影響を与えます。
つまり一晩中、肝臓中心に消化器官が一生懸命働くため、脳にもその過労感が伝わり、睡眠は浅くなります。長い時間眠ったにもかかわらず、朝起きてみると、どことなく体がきつい、だるいなどの感じになります。それは肝臓の疲労から起きたものです。食べ過ぎ、遅い食事も同様に考えれば理解できると思います。
睡眠薬は安眠の一番手ではないかと意外に思う人も多いと思います。しかし睡眠薬は、脳内神経に直接働きかけ、入眠を誘いますが、やはり熟睡はできません。なぜなら、人工加工薬によるものだからです。睡眠薬に限らず、精神安定剤、抗不安薬、抗うつ薬などは標的にしている以外の部分にも作用します。それを副作用と専門家は言いますが、副作用はよけいな健康な部分まで作用する有害性があります。つまり副作用の有害性が睡眠を浅くします。薬を飲まない熟睡と、睡眠薬での眠りの差は、健康時代を思い出せば理解できると思います。物質科学は万能ではないのです。
アルコールも睡眠薬もやはり、熟睡・安眠はできません。まだ日中に太陽の光を浴び、軽い運動をするほうが安眠にはよいと言えます。
現在の心の不調や不登校の増加に影響をもたらしているもの一つが、過剰な視覚情報と電磁波の被曝です。スマホ動画、ゲームの長時間の視聴は脳、神経に悪影響を与え、不眠だけなく心の不調の原因にもなっています。半世紀前にはなかった現象です。
人間の生活は科学の進歩の恩恵のもと、人工化し、本来の自然がもつ素晴らしいものをどんどん失っています。不眠だけでなく、心の病や身体の病気にも科学万能主義による人工化の陰の部分が見えてなりません。
銀河の旅人
何も考えず 権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である アインシュタイン
今日まで、うつに対して多くの情報がマスコミ、ネットなどで流布されてきました。今もこの状況は変わっていません。それを受け取る人たちは、何が正しくて、何がまちがいなのかを考えることもせず、ただ権威ある人に従っています。
うつを大流行させた、うつ病バブル期がありました。それは1990年代のことです。あの有名なキャツチコピー「うつは心の風邪」という、うつ病キャンペーンです。医療の専門家と製薬会社の協同でのマーケティングでしたが、大成功をおさめました。精神科は、患者が来院しやすいように名を「心療内科」とか「心のクリニック」に改め、敷居を低くしていったのです。やがてうつ患者は激増し、それに比例するかのようクリニックや精神科医も激増したのです。30年たった今も、この傾向は続いています。興味ある方は、厚労省の統計調査を見れば事実を知ることができます。
キャンペーンは大当たりで、製薬会社と医療関係者・医師が利益を得る結果となりました。服薬を勧められた患者は、薬づけになったり、薬依存を強めたりして、最も肝心な自力で治すという精神を忘れていきました。結果、うつは必然的に遷延化し、なかなか治らない病気となっていったのです。精神科は苦肉の策として、薬の処方を変えたり、診断名を変えたりして対応してきたようです。
そうした背景もあってクリニックは患者で溢れ、どこの心療内科も予約は3か月待ち状態になりました。しかも診療と言えば、「薬を飲んで調子はどうですか?」「薬を変えましょうか?」「薬を増やしましょうか?」など薬に関することばかりです。
本来、心を見る専門家の医師が、患者本人の心そのものを見ることをしなくなっています。どこも5分間治療が普通になりました。こんな状態でも患者は真面目に通院します。10年も20年も言われた通りに…。
当時のキャツチコピーは、「うつ病は脳の病気」「薬を飲めばうつ病は治る」「新型抗うつ薬にはほとんど副作用はない」「それはうつです」などです。古典的うつは「大うつ」と呼ばれ、とても重篤な精神疾患でしたが、このうつキャンペーンで、うつは一般大衆のものとなり、誰でもかかる一過性の風邪のようなものになったのです。心の不調者は風邪をひいた感覚で、心療内科に通うようになりました。
うつと自殺は強い関連性があり、自殺者の多くにうつ病が見られます。私の大学時代の後輩は、うつで二度の自殺未遂の果てに、最後は自殺しました。40年経過した今も、彼のことは忘れることはできません。大うつの苦しみは、地獄を背負ったような、生きることが苦しくてしかたがないような苦悩を味わい、言葉では表現できないほど苦の状態を招くからです。
自殺との関連性という重大性を思うと「うつが心の風邪」など冗談でも言えることではありません。しかし1990年代には、テレビコマーシャルで流されていたのです。虚言でも何度も宣伝されると真実になり、不幸につながっていきます。ヒトラーの「嘘も100回繰り返せば、本当になる」との言葉は今も真実です。
正しい知識は人を救いますが、誤れる知識は人を地獄に落とします。テレビマスコミ、医療専門家は責任をとることはしません。責任は患者もちです。だからこそ正しい知識が必要なのです。学べば正しい知識を得ることができます。正しい知識による基準があれば、権威に騙されにくくなります。日本は悲しいかな、大人が世界で一番学ばない国になっています(女性は世界2位)。
病める人は、藁をもすがる思いで、厚生労働省の発信情報とか著名人、有名人や権威ある専門家の人たちの言葉を信じて、言われた通り精神科に通い、処方された抗うつ薬や抗不安薬を服用してきました。
ネットにはうつのチェックリストが今も載っています。そのチェックリストの根拠や科学性など吟味することもなく、人々は、やみくもにそれを盲信して自分をチェックします。まるで占い判断をするように…。「自分は何個当てはまる」とかで「自分はうつだ」「自分は○○障害だ」とか自己診断し、自分に暗示をかけていきます。暗示は催眠と同じ働きをし、本当に○○障害のようになっていきます。人は自らの言葉の暗示で気分を作り出すという心の不思議さを持っているからです。
その自己暗示にかかり、暗示にマインドコントロールされた人たちは、治療のため心療内科に行きます。これはうつだけでなく、発達障害や○○障害のチェックリストでも同様なことが起きています。日本人は権威や集団圧に弱く、権威者の言いなりになりやすく、暗示にかかりやすい民族なのです。
うつは脳の神経伝達物質、セロトニンの不足という仮説(モノアミン仮説ともいう)をもとに、抗うつ薬が処方されます。しかしあくまで仮説なのです。科学的実証性は乏しく、それは偽薬と抗うつ薬の服薬実験で効果はどちらも半々であったというプラセボ実験で証明されました。
脳とうつの関係、うつと神経伝達物質の関係はまだ不明確のままなのです。うつとホルモンの関係、うつと身体全体の関係について正しい知識を持つことにより、うつは改善していきます。うつは心身の全体の不調和がもたらす一時的現象です。最近、うつも生活習慣病として見立てられるようになりました。これは正しいと知見だと私は思います。
西洋科学は部分の分析知には長けています。しかし人間の身体、なかんずく心は部分の分析では解明できません。意識は広大な心の世界の一表現にしか過ぎません。現在の精神科の症状診断はDSMという操作的診断…簡単にいえば患者の訴える症状をもとに判断するという医師の主観性に委ねられたものになっています。つまり患者がその時に意識している世界という心の一部分をもとにしたものなのです。
「木を見ても森を見ず」
これは部分観に陥りやすい人間の傾向を指摘した名言です。部分を知って全体を知らないという偏った知識が、心の病では一番危険なことなのです。意識はあくまでも心の一部に過ぎません。その意識を支える心全体、命の働き全体を知ることなしに、本当の意味での心の病の解決はないのです。
銀河の旅人
私たちは何かを感じ、瞬間を生きています。ある人は何気なく、ある人は何も考えず、ある人は意識をもって、今を過ごしています。私たちは自分が感じている意識が、すべてと思い疑うこともありません。
しかし冷静に自分を観察し想像力を働かせてみると、私たちが意識できている世界は1%以下ということに気づきます。99%以上は意識できないところで身体は活動しています。人間は無意識的活動を意識できないため、それに気づきませんし、あり難さを感じることもありません。正しい知識に基づいた想像力によって、はじめて真実を識るようになります。
16世紀の有名な懐疑哲学者デカルトは、すべてを疑うが、疑っている自分の存在を真理と認め「我思う、故に我あり」との名言を残し近代合理主義哲学の祖とされています。
つまり、私たちが今、感じている意識こそすべであるという思想です。意識できない世界は、やがて闇に閉ざされることになりました。合理主義のもと部分を分析する物質科学はめまぐるしく発展を遂げ、原子爆弾や光速度の研究、やがて月にロケットが着陸するまでになりました。ウサギの餅つきつき神話もあっけなく崩されたのです。現実の月は、地上で見る月とは異なり、でこぼこだらけで美しいものではなかったのです。真実は知らないほうが幸せに生きれるのかもしれませんね。
やがて科学万能主義の時代が到来し、人間は神をも恐れない存在となり、科学を賛美盲信する科学信仰というべき時代を招きました。科学がすべてを解決してくれると…。体の病気も、心の病気までも…。
しかし置き去りにされてきた意識できない世界である心については、ほぼ16世紀のままと言っても過言ではないのです。深層心理学を開発したフロイトやユングが、その闇にかすかな光をともしました。ですが的実証性に乏しく、未だ心の世界は暗闇の中を彷徨(さまよ)っているのです。
話を私たちの身体に戻します。私たちが生きているのは、意識できる部分、意識できない部分の働きを合わせたもの全体が私たちの心身の活動の事実です。五つの感覚(眼・耳・舌・鼻・身)で刺激情報を感受し、それを意識が快・不快などの感情として受け取り、言語化して記憶していきます。こうして無意識層に記憶されたものが自動的に次の活動を生み出しています。
私たちが感覚し意識できるのは、体を動かす運動神経と感覚神経ぐらいで、実際に働いているものの1%以下にすぎません。私たちの体を俯瞰(ふかん)すれば、その事実に気が付きます。
少しだけ例を挙げてみます。呼吸で吸った酸素が気管から肺に入り、血管を通して心臓に送られ、心臓の一つの鼓動で血液は全身を約30秒で巡り、元に戻ってきます。
また食べたものは口で咀嚼(そしゃく)され、気管に入ることもなく、食道のぜん動運動によって、胃に送り届けられます。胃には食べ物を腐らないようにするため、胃酸を出し37度の温度で数時間保存し、空腹感を防ぎ、やがて十二指腸におくります。体のごく一部の活動ですが、こうした活動は、私たちは意識できません。痛みが生じた時のみ、その存在を意識する程度です。
体の中で毎日新しいがん細胞が成人の場合で約3000個生れているという事実があります。私たちはボーとしていますが、体の内部で白血球が熾烈(しれつ)な戦いをし、マクロファージという細胞が、がん細胞を食べたり、攻撃したりして、がん細胞を駆逐しています。そんな活動に対して私たちは、全く意識することもありませんし、意識できません。
風邪を引き発熱し、のどが腫れた時など、白血球が菌やウィルスと戦い、そこは戦場となり炎症を起こします。また赤くはれたり、発熱したりするのは激しい戦いの跡(あと)だからです。このような見える炎症や発熱は意識できます。
このように私たちの身体は、意識できない世界で、涙ぐましい戦いを至るところで展開しています。私たちが意識して指示しているわけではありません。体の各部分が、私たちの体を守るために、本来的使命に生きているのです。生き抜くための熾烈な戦いをしています。仮にウィルスに負けてしまうと、体は死ぬからです。破傷風などの菌(きん)に負けると、やはり命を保つことはできないからです。
弱肉強食が生物界の生体の秩序の一つのルールであることを知らなければなりません。人の体の内部も白血球が負ければ強いウィルスが勝ち、ウィルスが体を支配し、人は死に至ります。身体自体が壮絶な破壊と創造を織りなしているのが私たちの生きていることの現実です。
人は動きを止めればやがて弱り、死滅していくしかないのです。体の内部の戦いのように意識を磨き働かせ、動き、前進するしかありません。宇宙や自然は常に変化し流動しています。人間も宇宙の一部であり、変化に合わせなければ生き残ることができないのが自然の道理であり、正しい思想なのです。
銀河の旅人