反芻思考からの解放 臨床心理シランの室
1 反芻思考とは、だれしもが経験する嫌な繰り返される思考と感情のことである。ただ、その思考のため生活に不自由を感じ、ぐるぐる回り、頭から離れない思考を反芻思考と呼んでいる。侵入思考、自動思考、強迫観念とも重なる概念である。
それは、ある時のある出来事が記憶され、反復することにより強化され、その記憶が無意識層に潜在、堆積される。そこから 何気に起きる。波のように。➡自動思考は強化された記憶から生起し自動操作状態で意識化されてしまう。
2 自分の心の状態、反応傾向、思考傾向、感情の受け止め方の特徴を知る。
3 感情と思考はセットで意識を構成している。感情は波動で、言葉というイメージをもつ。
4 その記憶は消えないが、操作しなければ薄れていく。新しいものが入ってくると、そちらが優先される。➡マインドフルネス、今の瞬間に目的をもって評価せず集中して生きる生き方につとめる⇒新しい記憶をつくる。意識の転換を自然に行う(森田療法) 瞬間、瞬間生まれる波動・不可思議な生命の働きとつながるようにする。
5 負の思考感情に襲われ、パニックになる時。
・リラクセーションする(丹田呼吸法・筋弛緩法・気分転換行動⇒動いて、どこかに行く。(コーヒタイム・トイレなど))
・その思考に向き合う。思考で払うのではない。前向きに思考を位置づけていく。➡受容
・今生きていること、瞬間に集中する。目的がないときは、今生きている意識、呼吸に集中する。
・感情・気分は・自然に任せれば流れていく。今の不快気分を受け入れる。気分を思考で操作できないことを知る。
(思想の矛盾にらないようにする)
・気分という主観から離れ、自分を客観化する。「ああ、またとらわれている」など。メタ認知力をつける。
6 記録をつけ自分の事実を知る。自分を客観視する。森田療法、マインドフルネス、認知行動療法すべてで実施している。
7 今の自動思考・意識は自分の一部。全体ではない。自分の全体とのつながりを知る。➡自然な心・純な心になる(森田療法・マインドフルネス)
8 悲観的未来思考の内容をよいものに替える。➡言葉と気分の不思議な関係。新しい波動と気分を産み出す方法。言葉の不思議な力を知る。
➡言葉は波動。悪い言葉はマイナス感情をもたらす。よい言葉は+感情をもたらす。(東洋医学・気の思想)
言葉を良い言葉に置き換える。生きているのは、言葉とともにある。その言葉・思考をすべてよいものに変えていく努力をする。「自分はできる」「大丈夫」と自分に語りかけるだけで、力が出てくる。リフレーミングする(見方やとらえ方の思考や感情の枠組みを別のものにに変えてみる方法)
リフレーミングの例「どうせできない・失敗したらどうしよう」➡やってみないとわからない。でたとこころ勝負と開き直る。経験が大事。うまくいかなかったら学べばよい。成功につながるじゃないか。失敗も成功も価値がある。失敗から学ぶと成長できる。経験すること自体が有り難い。
・「今の自分は自信がない」➡人は新ことに挑戦することで成長する。まずやることだ。
※意識に上がってくる、言葉を良い言葉で表現するのか、それとも悪い言葉で表現するのかで気分が大きく変わることを体験的に知る。無意識はすべてを知っている。記憶している。
※軽い運動をする。ヨガ体操はとてもよい。自然の善いところを歩いたり空気を吸ったりする。波動を高める趣味を持つ。良書の読書、音楽、楽器演奏、歌う。
つまり反芻思考からの解放は、生き方の向上と比例して改善してゆき、今まで以上の自分へと脱皮していきます。
紙面では理解できないとこもありますので、正しく理解できない方や解決できない方は、来所され、面接を受けると改善が早くなります。
銀河の詩人より
うつが長引き治らない人に対して、最近マインドフルネス認知療法が治療法として取りいれられているようです。また、生き方などにも応用展開され、企業研修にも使われていると聞きます。今の瞬間に評価せず意識を集中して生きるというマインドフルネスは簡単なようですが、奥がとても深く生半可な知識は、けがのもとになります。
そもそも、マインドフルネスは、アメリカのジョン・カバットジン氏による西洋医学では、お手上げの人たちの苦痛低減治療として、約30前に産み出されました。彼は日本で禅の大家について禅を学んでいます。その治療法は「マイドフルネスストレス低減法」(直訳は、生命力が蘇る瞑想健康法…こころとからだのリフレッシュ)という本で日本にも紹介されました。
禅は仏教の一部の教えであり、ブッタのある時期の真実に至る入口のような教えでした。6世紀ごろ中国の達磨(ダルマ)によって考案された教えは、日本の鎌倉時代に武士の間に禅として広がりました。この教えを究めることは困難であり、アメリカ人のジョン・カバットジン氏の展開は驚嘆に値すると私は思っています。
ブッタの教えの真実に迫らないとマインドフルネスも心の部分観に終わり、治療としては効果が得にくくなります。アメリカ人の彼は、彼独自の解釈と悟りを基本にしています。日本の禅の教えがアメリカで加工修正されたのちに逆輸入され、日本で広まっていることに、皮肉な感じを受けます。
なぜそのようなことが起きるのかといいますと、日本人に本当のブッタの教えと実践がなくなっているからです。日本の仏教は一部の世俗化された僧侶の職業になってしまい、檀徒は葬祭をお願いするという形式になっています。そこにはブッタの精神もないし、本物の仏道修行もありません。ゆえに仏教の教えがわからないし、マインドフルネス(禅の瞑想)をありがたがれるのです。
ブッタの教えは宗教と言うより、人生における苦しみの解決法であり、思想であり医学と言えます。、当時のインドで最大の医師といわれていたギバはブッタに教えを受けたと言われ、ブッタは万病を治す医王と呼ばれていたそうです。その思想の根本は、修行で得た体得であり智慧であり知識ではありません。心に対する、命に対する厳格な克己を課した修行なしには体得できないものなのです。マインドフルネスを体得できれば、自らのマインドコントロールができるようになり、生き方が楽になります。苦しみの乗り越え方ができるようになるからです。
知識で心の病が解決できないようにマインドフルネスも知識では悟れません。実践・体験修得、修業という実践の中で身につけるものです。つまり生き方そのものの質を高めることと同じなのです。
東洋医学は、仏教医学を源流としています。その目指すものは、自らの苦と徹底的に向き合い、厳格な修練の中で得られる智慧です。不断の努力を怠れば、その悟りも通用しなくなります。地球が自転公転し、太陽が銀河系の中を動き、万物は生々流転してゆくように、人も動き、変化に則っとていくためには、自らを絶えず向上させゆくしかありません。これが生きるということの真実でり、健康の本当の意味です。
西洋医学で心の病の完治ができないことは、前ブログで述べました。その理由は、心そのものが解明できていないからです。心は直観智で悟るしかないとは東洋医学のは教えです。言葉での意識化や分析を超え、時間や空間を超えた世界が心の世界だからです。不可思議でつかみどころがない世界を対象にしているから、迷信や宗教や浅薄な心理療法がはびこります。心が見えないだけに、また解明されていないがゆえに視聴覚情報が流行を作り、あたかも本物のように真理を知らない人たちを煽り、拝金思想の人たちに利用されていきます。
最近の東洋医学で心の病をかなりの確率で改善している人は、おそらく以下の二名と思われます。それは、森田療法の創始者慈恵医大の精神科医森田正馬氏とマインドフルネスの開発者ジョン・カバットジン氏です。彼らは療法も卓越していますが、何よりも人格が秀でていて、心が優れた人たちです。名誉やお金を求めず、苦しむ人たちを救うことを第一義にしている菩薩(他者の苦しみを抜き、楽を与えることを第一義している人のこと)のような人たちです。
かつて神経症(現、抑うつ神経症、各種対人不安症、パニック障害、強迫性障害など)を全治させたのは、森田正馬の治療法であり、現在も森田療法として引き継がれています。その治療において、森田氏は薬を使うことを愚かなことと考え、薬は一切使っていません。
森田正馬氏著「神経衰弱と強迫観念の根治法」に「薬の広告が、いかにあわれなる患者を毒していることだろう」とはっきり書かれています。また薬の投薬は無知な医者のすることであり、もっと心のことを学びなさいと厳しく述べ、神経過敏から起こる神経症治療に薬を使えば、患者の依存性を強め、かえって病は酷くなると断言しています。
森田氏のこうした信念に基づいた療法は、当時の医学界から一斉に反撃されましたが、森田氏を論破できた医療専門家はいませんでした。なぜかというと森田氏が患者を治し、他の医師は治せなかったという結果がすべてでした。今なお森田療法が神経症の治療で世界に展開されている事実が彼の信念の正しさを証明しているといってよいでしょう。
彼の治療は、対話療法的アプローチで本人の自覚を促すものでした。患者本人が自らの心、心身の理解を深め、病因の根本を洞察し悟ることで、正しい対処ができるようになり、完治していったのです。森田療法における入院治療は悟るための修行でした。森田氏の療法は自覚療法とも言われ、仏教医学の実践だったのです。彼の療法は、彼自身が強迫観念と心臓神経症(現パニック障害)を自ら治癒した経験からの洞察から生まれたものです。死の恐怖と向き合い、地獄の苦しみの中での悟りであり体得でした。
森田氏の治療法の究極は自らの心身に「あるがまま」になることであり、無為自然であり、自らの尊い生命に「南無」することでした。つまり自らの本然のいのちに則って生きることを目標としたのです。彼は仏教の禅に精通していたと思われます。その悟りはマインドフルネスのカバットジン氏の目指すものと同じように思えます。森田療法は修行なくしては使えない療法なのです。
なぜ西洋医学は、心の病を完治することが難しいのでしょうか。それは西洋医学が物質科学を基本にしているからです。量子力学に見られるように物質の研究、分析はかなり進み、宇宙にもロケットが飛び、スマホをはじめとした電子機器、AI技術などの進化など神業ともいえる進歩を遂げています。その恩恵を受け、身体医学はかなり進歩してきましたが、まだ多くの身体病も原因がわからず、対処法もわかっていない病は多く、医学では、それを難病と名付けています。
西洋医学は、身体や物質の一部を分析し、そこに対応しています。その科学性や分析力や精密さは素晴らしいものがありますが、あくまで生命の一部分を対象にしているため、生命全体への洞察に欠けてる傾向にあります。
身体医学に比べ、心の病の解明は遅れています。なぜなら、心は物質ではなく、科学では分析できないからです。心の病の治療は、症状から推測し、その症状を起こしているとされる脳を対象に薬が投与されます。あくまで脳の働きから起きるとされる症状からの推測であり、それは科学とはいえません。科学は、仮説、実験、実証に基づいたものであり、西洋医学の実証性は低いとされています。
かつて鬱に対するプラセボ(偽薬)実験が、それを証明しています。偽薬も、本物の薬も効果は、ほぼ同じだったという驚く結果が証明されました。まるで占いの「当るも八卦、当たらないのも八卦」と似ています。心についての医科学は闇の中を彷徨っている状態なのです
心の病は専ら、脳に働きかける薬物治療に依存していますが、心の解明が進んでいないので、危険性があります。多くの心ある専門家はその弊害に警鐘を鳴らしてます。中でも米田倫康氏の「ブラック精神医療」は、精神科治療で苦しめられ泣いている患者の告発を基に調査されたものが述べられていますが、そのようなお上にたてつくような本は書店にも置かれていないし、多くの人は存在すら知りません。正義はいつの世でも煙たがれ闇に葬られるのが宿命なのでしょうか。
また精神科医、内海聡氏は、早くから精神科治療に対して実態に基づく批判を続けています。「精神科医は、今日もやりたい放題」という書に詳しく述べられていますが、これも書店で見かけることはありません。
東洋医学は仏教やインド哲学が源流であり、3000年前から、人間の病や苦しみを解決する方法や心を研究探求してきました。仏教の創始者釈尊(ブッタ)は病の原因を解明し、万病を治し、医王と言われました。ブッタの教えは、ちまたに言われる宗教というより思想であり苦を解決しゆく哲学実践であり、よりよい生き方を目指す指標のようなものです。東洋医学は、ブッタの医学を根本に発展し続けてきました。老子や孔子、今、はやりのヨガにもその一部を見ることができます。
質問
感情の変化が乏しいと感じられることも感じることも頻繁にあります。
特に初対面の人や、そこまでお話したことの無い人に対して強く出る傾向にあると思っています。
自分ですら何を考えているのか分からない時があります。家の中で、感情を押し殺すようなことをしていました。
幼少期から両親とコミュニケーションをとる事が少なかったです。人の顔色を伺いながら過ごしていました。それは小学校に入学してから今まで、変わることはありませんでした。なにかしらアドバイスをよろしくお願いします。
回答
もちろんありますし、あなたにもできます。
あなたの悩みは青年期特有の他者意識を強く持つことから起きている悩みの一つと思われます。私にもそうした時期がありました。自己をどのように表現するか。それは、過去の世界や日本の名作文学作品のテーマの一つでもあったのです。太宰治の書「人間失格」は自己表現に最後まで苦悩した主人公が描かれています。
三島由紀夫も文学を通して、自己表現をテーマにしていたように見えます。武者小路実篤の文学は、人間の自己表現の陽性部分描いています。時間があれば、古今の名作(名作は深い人間観が描写されているから名作といわれている)を読まれるとよいと思います。私は19歳の頃、夏目漱石の「こころ」というものを読んで、人のこころについての考えが大きく変わったことを記憶しています。もちろん以後の自分の人生に役立っていきました。
文学には、そうした人生を疑似体験し学び自分の精神の向上につながる良さがあると思っています。あなたは若いし、これから、どんな人生を歩むこしもできる可能性を秘めているのですから大いに学び自分を高めていってください。。
自分を表現する。感情や気持ちの表現、考えや思いの表現、これらは言葉によって表現する方法です。もう一つは、言葉以外で自分を表現する方法、ノンバーバールコミュニケーションと言われるものです。笑顔、怖い顔などの顔の表現、また動作で表現したり、言葉の調子で表現したりすることも自己表現の一つです。何も言葉でしゃべることだけが表現ではありません。表現力のある人は、自分の能力のすべてを活用して自分を表現しています。
なぜ自分の気持ちや考えが自由に表現できないのでしょうか。
これまで生きてきた環境によって作られた自分なりの表現の仕方を身につけているからです。
虐待、いじめ、両親間のDV、過干渉などの家庭環境では、自分の身を守るため、大人・親などに自分の気持ちや考えを出せなくなっていきます。自分を表現すると攻撃されるかもしれないという恐怖心から自分を守るようになっていくものです。自分の気持ちを表現しなくなっていきます。
このような環境の中で育つと、他者不信、他者不安が強くなり、人の中で安定できなくなります。
また、自分の気持ちがわからなくなります。他者に自分を出してよいのかがわからなくなり、自己表現の仕方が未熟のままに育ち、大人になっていきますが、どこかで行きずまります。
解決方法は、自分は自分でよい、自分の尊い存在、だから自分を表現してもよいと言い聞かせ、勇気をもって自己開示してゆきます。また潜在意識下にある記憶(恐怖体験)を知り、それが今の生き方に影響していることを自覚することです。
さらに侵入してくる過去の記憶をそのままにして、今の瞬間を、目的をもって誠実に丁寧に生きることによって、新しい記憶を作っていき、過去の記憶が自然と薄れていくようにしていくことです。
本来の自分を知り、その自分に生きることです。また他者比較の生き方から、自分対自分という自己評価に生きる自分を創ることです。詳細は、このブログの内容「本来の自分に生きる」を参考にされるとよいでしょう。
幸不幸は自分の生き方の結果であり、自らの人生の作品のようなものです。
私たち生命は、どのようにして誕生したのでしょうか。この地球上の動物、昆虫、植物はどのようにして誕生したのでしょか。また、この地球、月、太陽、星々はどのようにして生まれたのでしょうか。わかっていることは、すべての存在は、やがて死滅してゆくということです。生まれては死んでいく、それが生命の因果律です。生と死という二つの変化相を演じるのが生命の真実の姿です。では、その生と死を貫くものは何なのでしょうか。
たとえば水を例に考えてみましょう。水の分子式はH2Oです。水は100度で、水蒸気になり、氷点下で氷となり、常温では水の姿をとります。この変化相を人間にあてはめて考えると、生きている状態が水であり、死んだ直後の体の状態か氷であり、肉体が焼却された状態が死であり、水蒸気にたとえることができるでしょう。分子式H2Oは変わらず、一貫しています。ただ見える形や状態が変化しただけです。
私たちの生命は死という変化相、生という変化相の二つをもちますが、生命そのものの我は一貫しているということです。その我は連続しているし、他の我になることはありません。
それは、無始無終と言われています。始めもなければ終わりもないというのです。つまり今の瞬間は永遠であり、生命は今しかないということです。無限という概念は、人間の知性ではとらえられない言語同断の世界なのです。
生命は、だれかに作られたものでもなく、もともと存在していたというのです。つまりあらゆる生命は、自らが作者であり、作品なのです。自分が願って人間に生れ、存在する場で劇を演じるように、作品を創っているというのです。
だれの責任でもありません。自分が願った人生を自分が生きているのです。これがわかれば、人は変っていけます。よりよい生き方ができ、名優のごとき人生を演じきっていけるようになるでしょう。
ある面から考察すれば、生命はリズムであり、振動している存在といえます。リズムの破調は病気であり、動きが止まると生命は活動力が弱り、やがて死を迎えます。人も生物も自然の本然のリズムの調べに則り、動くことが健全なあるべき姿なのです。
私たちの我は根源で、生命を創り出し、守り、育む、慈悲の働きをもつ宇宙我というべきものに支えられているのです。その宇宙を呼吸し、リズムを合わせていくところに喜びが湧き、生命は輝きをまし安定していくのです。
地球がリズム正しく動いているおかげで、地上の人間、動物、植物、全ての生物は生命活動を保つことができてます。地球は生きています。一つの偉大なる生命体であり、不思議な力を持った存在でもあります。地球は誰かが創ったものではなく、地球自らが自分を創ったのであり、その活動や姿は、彼の作品であり個性の表現といえます。
同じように、あらゆる生命、生物、人も自らが作者であり、自らの作品であり個性なのです。個々の生物や動物や人も不可思議な存在であり、人間の知では測れない因果の法が宇宙や自然や生物や人を貫いています。
これが自業自得の本来の意味です。自業、つまり自らの種子をもった因の願った意志の行為は、自らが果を受けるという因果律が生命の厳然たる法なのです。
この哲学こそ、歴史上の聖哲の一致した真実知であり悟りなのです。人生は自らの意識で、いくらでも自分を変えていくことができるのです。あなたがあなたの人生の作者であり、その結果があなたという作品になるからです。 それがあなたの人生なのです。
銀河の旅人
自分らしさを発揮するためにはどうすればよいのでしょうか。それは最も高い価値に生きることです。価値には、美の価値、利の価値、善の価値の三つの価値があるとした教育者がいます。カントの価値哲学(真・善・美)を実用化させました。
美の価値は、美醜という感覚・感情に訴えるものです。人は美しいもの、心地よいもの、快適なもの、きれいなものを求めます。また社会的名声が高ければ、承認欲求も満足でき心地よくなります。名誉・名声も人を心地よくさせます。人は好きなもの好み、嫌いなものを感覚的に遠ざけます。人の評価の一番はこの美醜の価値になりがちです。
今の情報社会は、この美の価値が人間の最高のものであるかのように人々を錯覚させています。コマシャールは人間のこの性分に上手に入り込んでいるといえるでしょう。
次は利の価値です。自分にとって何が得なのか、損なのかについての価値です。例えば働く場合、何を目的にしているかです。高い給与を得ることが目的で働いているのか、あるいは仕事を通して自分の能力を発揮することが目的なのか、もしくは職種のもつ社会的評価や名声を目的にしているのかです。
例えば、職場に嫌な人がいても、給料がよいので我慢するとします。これは嫌いという感覚的な美の価値より、利の価値を優先した結果と言えます。好き嫌いという感覚的価値で、生活全般を支える給料という利益を無視することはしません。美的価値より、利の価値のほうを人は優先します。そちらのほうが価値があると思うからです。
今、人々が自分の命の次に大事にしているのがお金です。社会的事件の多くは、お金が絡んでいます。お金があれば何でも手に入るからです。人はお金のためなら、人をだますし、人さえ殺します。今の地球上では、軍人はお金で雇われ、敵国の人々を殺しています。自分の利益を邪魔されれば人は怒り、邪魔する人を抹消したりします。
学校の勉強も利の価値追求指向になっています。いい高校、いい大学、給料が高く社会的評価のある会社に就くための勉強になっているような気がします。現代社会の経済優先社会がもたらしものは、利の追求こそ最大の価値だということです。しかし、美の価値、利の価値の達成は、あくまで自分のためであり、利己の範囲になります。
利己を通すことは、人を押しのけることにつながります。周囲との摩擦は避けられません。美・利の価値追求は比較相対に生きることになり、心の安定はありませんし、深い充実感はありません。では、それ以上の価値的なものはあるのでしょうか。あります。人の心を豊かにし、人の心を清らかにし、輝かせる価値ある生き方があります
それは自らの努力と向学心で自らを高める中で得られるものです。つまり美の価値を追求し、また利の価値も広げます。同時にそれらを周囲の人たちにも与えていく生き方です。
自然がそれを比喩的に教えてくれています。地球は多くの地上の生物に潤いや恩恵をもたらしています。同じように太陽もそうです。地上の花、木々、草木もすべてそうです。一生懸命自分を生きています。そして他の生命に恵みをもたらしています。
人間にもそれを見ることが出来ます。インドのガンジーは自らの人格を最高に発揮し、多くのインド民衆の人間性向上のために生きました。ヘレンケラーもしかりです。千円札の野口英世もそうです。歴史上の偉人は、みな自分らしさを最高に発揮し、その輝きで多くの人々を照らす行動をした人たちです。
こうした価値こそ善の価値です。善の中で、もっとも高いものが、人の生き方を高めるものです。例えば、飢えている人に食べ物を与えるのは、美利の価値を相手にもたらしますが、一時的です。最善は、食べ物を常に得る方法を教えることです。つまり生き方を高めることを教えることだと思います。
科学の進歩、溢れる 視覚優位の情報……テレビ、スマホ、SNSなどの広がり、それらの視覚、聴覚情報の感受は人間の脳の適応をはるかに超え、心・神経は既に疲弊状態にあります。人々は、それに気づかず、日々更新される新情報に飛びつき、依存し、踊らされているのが現状です。
感受する情報に多くの人が適応できず、神経系が炎症を起こし、病的状態になっている人も多くいます。それが今日増加している、全般性不安症状の大きな原因の一つと私は考えています。
青少年の不登校の原因の一つが、この原因不明の不安から起きています。不安が何によって起きているのかが分からない子どもが多く見られます。
「どうして学校に行かないの」と理由をたずねると、
子どもたちは、「学校に行きたくないから」「何が原因かわからない」「学校が面白くない」「楽しくない」などと答え、本当に原因がわからないようです。ですから、適切な対処もできなくなります。これは何も青少年だけではありません。20代、30代、40代、50代の成人にも起きている現象です。
このを解決には、神経・心、身体の相互関係を正しく知ることから始まります。自らの心身について正しい理解を持つことです。過度の情報収集を抑制することです。情報は全て脳に記憶され、無意識層に蓄積され、次の行動に影響を与えます。
このような心理の正しい理解が、正しい生き方につながり、安穏な生き方につながっていきます。
本来の自分を生きる2―他人の評価に振り回されない自分を築く
なぜ自分が自分らしく行動できないのかを考えてみましょう。
それは他人の存在を意識しすぎるからです。仮に無人島に一人で生きるとすれば、あなたはあなたらしくというか、何も意識せず、ただひたすら生きることに専念できるでしょう。しかし現実社会では一人では生きていくことができません。集団の中で守り合わなければ、自分の命を保つことすらできなくなるからです。
これは動物としての人の本能なのです。一人であれば餌を取ることも食べることも生き続けることにも限界があります。やはり他人の存在が必要になり、集団ができます。集団で生きるとき、どうしても他者の目を意識し始めます。それは自然なことです。さらに集団の中での自分の評価が気になります。それも持って生まれた人の性分でしかたのないことです。やがて集団には、人の比較や優劣が生まれることになります。
集団の中で生きていると、自分らしさの埋没が起こりがちになります。自分らしさが認められず、薄れていく傾向を孕(はら)んでいるからです。そこには集団の暗黙のルールが生まれ、それが集団の中での常識になっていきます。人々は時代と集団の中で作られた価値観に知らず知らずのうちに、刷り込まれていきます。集団の常識という物差しで人が評価され、価値づけが行われます。
戦争では、それが簡単に起こります。第二次世界対戦中、ナチスドイツ集団はユダヤ人を、人として劣った存在と価値づけ、彼らを虐殺していきました。そこには、同じ人間の尊厳はなく、偏見に満ちた価値基準で多くの人々が殺されていきました。現在のロシア・ウクライナの戦争にも、それが見られます。
社会の人々は価値基準というものさしで個々の人間を比べ評価していきます。ものさしは人を測る基準となり、優劣をつけていきます。比べる対象と物差しは無数に存在します。
成績、学歴、会社、給料、役職、容色容姿、財産財物、地位、名誉、健康、身体、性格、各種の能力など…
人よりも強い、弱い。能力があるかないか、金持ち貧乏、顔がいい、顔がよくない。背が高い、背が低い。運動能力はある、運動力が低い。性格が良い、性格が悪い。優しい、優しくない。これらは全部、比較から生まれています。ある基準で価値が位置づけられ、これらが現実社会の比較優劣の実態です。しかし、これらはすへて移ろいゆくものなのです。
こうした社会の中では、人は安定できず、不安の中で生きることになります。基準の物差しが、時の流れと場で変わっていくからです。例えば戦争になると、人を多く殺す人が英雄となり、価値のある人になります。逆に平和な日本では、一人でも殺せば、極悪犯罪人となり、人としての価値も認められなくなります。社会の評価や価値に生きる間、本来の自分を生きることも困難になっていきます。
比較・優劣社会では、人々の目は外に向き、いつしか物差しという基準ではかられた価値に振り回されてゆき、安定できません。たえず心は揺れ動き落ち着かなくなります。
こうした比較相対の優劣を基準とした社会に振り回されないためには、自分の目を内側に向け、自分の心、優劣を超えた価値を探し、それに生きることが大事です。その価値こそ、私たち本来の自分がもつ無上の価値なのです。
あなたは、本来の自分を生きているといえますか?
多くの人は、人の目に生き、人の評価に振り回され、親や先生、周囲の大人や社会で作られた自分を生きています。人は、環境に作られ、環境に合わせ、いつしか環境に依存し、本来の自分を生きることが難しくなります。
私たち人間は、本来の自分を生きることが難しいため、深い人生を生きることが出来ず、充実を感じることも少ないのです。その心の虚しさを埋めるように、私たちは、五つの感覚器官(目・耳・鼻・舌・身)で感じる世界の心地よさを求め、束の間の安らぎに身をゆだね、本来の自分から遠ざかりながら生きるようになっていきます。
その結果、私たち人間は、いしつか苦しみの人生を生きることになってしまいます。本来の自分の心の叫びが苦しみというメッセージとなり、ある人は身心の病という結果を受けるようになります。
では、自分らしく、本来の自分を表現して生きるにはどうすればよいのでしょうか。
本来の自分に目覚めることです。この地球で自分は唯一無二の存在であり、独創的存在であり、誰にも替われない個性を持った存在であることを知ることです。これこそが真の自己肯定意識なのです。
この地球のどこを探しても、あなたという個性をもった存在はいません。あなたの顔を持った存在は、地球のどこを探してあなたしかいないのです。同じように、あなたの身体、あなたの性格、あなたの能力も、あなただけのものであり、どこにもないのです。
自分という個性は他に存在しないのですから、他人の個性と比べることはできません。つまり、この地球上であなたは誰にも劣ってはないのです。優劣を超えた独自の存在だからです。
見るもよし 見ざるもよし されど我は咲くり (武者小路実篤・作家)
そう、あなたはあなたでいいのです。誰が見ていなくても、自分らしく自分を生きればよいのです。本来の自分を知れば、人の目、人の評価も怖くなくなります。のびのびと、堂々と自分を生きることが出来るようになります。このように本来の自分を信じて生きることが自己肯定力でなのです。