不登校児はつぶやく
学校には行かなくてはいけない…
でも、なぜか学校に行けない
理由は… わからない
人目が気になる…
学校は耐えられそうにない…
みんなと同じようにしないと変に思われる…
子どもにとって学校とは学級を意味しています。家庭以外で自分が存在する場所です。その学級は日本人の行動様式の基本である、かつての「ムラ」意識が今も支配しています。
「ムラ」は個や自律を認めません。「ムラ」は集団規範を守る人、集団規律に従う人で成り立ちます。集団は他律が成員を支配します。
学級のルールは「みんなの目」です。「みんな同じように」「みんながやっている」などが規範になります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という集団論理が生まれます。正しいかどうかは二の次です。集団の正しさとは集団の掟のことであり、集団に存在する暗黙の規範のことです。みんな平等という表面的な平等主義が学校を支配しています。本当の平等主義は、違いや異質という個を認めたうえで成り立ち、人間の尊厳性に基づく理念です。しかし日本のどこの組織集団にも、そんなものは存在していないといってよいでしょう。2000年以上前から続いている日本の行動様式の一つだからです。
中学校が荒れていた頃、小学校も学級崩壊などが起こり、多くの学級は無秩序状態を経験しました。鎮静化のため、学校では管理体制が強化されました。荒れた中学校の矢面に立ったのが強面(こわもて)の体育会系教師で、暴れる生徒を取り押さえる力が求められました。
暴れていた生徒の大半は、低学力生徒か家庭崩壊傾向、愛情不足傾向の生徒たちでした。当時は「落ちこぼれ」と言われたりしました。かつて私が関わった生徒の中には算数の九九もできない非行グループの番長もいました。
彼らは、今風で言えば「知的障害傾向者」であり、「ADHD・ASD」傾向者と言われるでしょう。当時の学級は、そんな子どもが学級に混じり、学級自体の均質化・秩序化を妨げ、デコボコ状態を醸し出していました。今のように学級で緊張したり、人目を意識したりすることが少なく、失敗や異質を受け入れる容量が学級にはあったのです。
二度と荒れた学校にさせてはいけないと、学校の管理体制は強化され、秩序を乱す異質の存在は学校から排除されるようになりました。その頃、特別支援教育も学校に導入されます。かつて暴れていた低学力の子どもは、教室から影を潜めます。管理は強化され、教室は同質化された子どもだけが残りました。
異質の混在は、同質化の防波堤になっていました。しかし、それが減少していく中で、異質的存在は学級に居づらくなります。みんなと違う、普通でない子どもは、どこに行ってしまったのでしょうか…あるいは家で生活するようになったのでしょうか…
集団が作る同質性は、異質性をますます排除していきます。異質であることは控えなくてはいけません。「みんなと同じでないといけない」「みんなと違ってはいけない」「普通でないといけない」などと子どもは異質になることを恐れ、集団の中で無意識的に緊張しています。失敗を過度に気にします。失敗すれば集団から排除されるかもしれないからです。過剰に人目を気にします。排除されては、その集団の中で生きていけなくなるからです。
学級成員の神経過敏状態は強まり、HPC(ハイリー・センテンシィブ・チャイルド=高度感受性をもつ子ども)なる子どもが増産さます。
小学校に行くと、「学校は失敗するところ」などの掲示をよく目にします。しかし実際の教室は、学級成員によって、失敗は異質性の一つとして冷ややかに見られがちです。小中学生は過度に失敗を恐れるようになりました。かつての学級には、失敗しても平気な子、人に笑われても平気な子が混じっており、失敗に対して集団自体が寛大でした。外れた異質の子どもの存在が教室に笑いをもたらし、リラックスさせたり面白くしたりなどの潤滑油的役割をもたらし、異質性を持つ成員の居心地をよくしていたと私は思います。
子どもは異質になるまい、みんなと同じようにしようと、過剰に神経を遣います。ある子どもはストレスで一杯になり、他者に暴力を振るう形で発散させたりします。またある子どもは、その過剰さに神経を使い果たし疲弊し、学級に居れなくなります。そしてやむなく不登校という回避行動をとるようになるのです。小学生の暴力の急増の原因、不登校増加の原因の一つは、ここにあると考察しています。
見えない心の探求者より
先日、同級生が急逝しました。突然のことで驚くと同時に、生前の彼の言動で気になることが思い出されました。彼も私も同窓会の幹事をしていたのですが、打ち合わせの度に、「今回の同窓会で最後です」ということを彼はしきりに繰り返し述べ、同窓会ではだれよりも一番精力的に動いていました。彼にとってまさかの最後の同窓会になり、今思えば、とても不思議な感じを受けます。まるで死の予兆だった気がしてなりません。
このような話はよく耳にします。事故で急逝した人が、前日に机の中や持ち物をきちんと整理していたという話を聞いたことがあります。彼らの潜在意識の所作だったのかもしれません。人の命は測りがたいものです。これが分かる人は多分いないでしょう。しかし自分の潜在意識だけはそれを知っていると言えます。
なぜなら、生きるも死ぬのもすべてあなたの所作だからです。それを決めるのは、意識、無意識を統合したあなたなのです。ですが意識で自覚できないところにいのちの不可思議さがあり、人は生きていくこともできるのだと思います。
私たちが意識して行為したことや無意識で行たったこと…口で言ったこと、心で思ったこと、行動したこと、また無意識的活動すべては、私たちの脳に記憶され、心の深い部分、無意識界に蓄積されます。私たちの無意識界は、私たちのすべてを知っています。
人の目は欺くことができても、自分の無意識界は欺けません。脳におまけも割引もなく厳然と記憶されるからです。善い行いをしている人は、未来に幸いをもたらします。一方、悪い行いをしている人は、無意識界に貯蔵されたものが、あなたの未来に暗雲をもたらします。その悪行が未来に発芽し、あなたにとって不幸な結果をもたらします。
つまり、悪い行いは、いつの日かあなたの人生や意識できる世界に悪い結果をもたらすということです。これを因果応報といい、自業自得とも言います。この見えない生命の因果律を知ることが大事てす。
よい行いと何か。人の心を高める、人の生き方を向上させる、卑近な言葉で言えば、人の人生を正しい方向に向かわせ、人の幸福に貢献する行動を善い行いと言います。悪い行いは、その反対の行いです。人を不幸に導く思想や考えや生き方です。一見、甘い言葉や振る舞いで人の心を誘い、人の心や命をコントロールし、やがて破壊していきます。
現代社会は、善悪混淆で、悪は実に巧みに人の心の中に入り込み、心地よさを与えながら語りかけ、人の善心を破っていきます。専門家、有名人、著名人、マスコミ情報、宣伝、コマーシャルの中に悪が巧みに入り込みます。これを偽善といいます。善は人知れず尽くす行為であり、目立たず縁の下の力持ちのような働く行いで、偽善とは正反対です。人に理解されることも少なく、陽にもあたりませんが、善をなす人の心の中には崩れない宝が蓄積されていきます。善を成せば、人は必ず栄えるという意味です。反対に悪を成せば、長い目で見ていくと、必ず滅びていきます。
簡単にいえば、自分だけの利益や栄え、つまり利己主義的な生き方は悪につながるということです。逆に善なる行為は、自分も栄え他者も栄えるという共栄・共存の生き方を目指すものです。
これは人間世界だけのことではありません。自然、あらゆる動植物と、人は共存、共栄の道を歩むことが正しい生き方なのです。今、地球上で、人間が自然や動植物を思うままに利用し支配して生きていますが、これは人間の傲慢性のあらわれであり、目先の欲にかられた愚かな行為です。自然は見ています、地上の生物や人の行いを…。地球にも心があります。痛みも喜びも感じています。人にはその心は見えないかもしれませんが、覚者は地球の波動から心を見ています。
今、人類は天災というしっぺ返しを自然から受けていますが、その原因に気づいていません。多くの人は経済至上主義、拝金主義、科学主義、物や名誉が幸福をもたらすという砂上の楼閣的思想を信じ、それに血道を上げて束の間の楽園の快楽・快感に酔っているようです。砂の上にいくら立派な1000階以上の建物を建てたとしても、いつ壊れるかわかりせん。それよりも善なる行為をして、自らの心の中に壊れない宝の城を建てたほうが賢い生き方なのです。
人間の行為の結果は厳しい因果律に則り、宇宙の法則の網の目から逃れることはできません。自らの行いの結果は、自らが受けるのが道理なのです。結果は幸不幸という厳然としたものとして目の前に必ず現れてきます。
いつ死んでもよい生き方を常日頃からしていれば、死が突然訪れたとしても受け入れることが出来るでしょう。
見えない世界の探求者
不登校児はつぶやく
学校はつまらない
学校は緊張する 学校に不安を感じる
学校は居づらい
それに比べ 家は安心できる
なぜ、学校がそうなっているのでしょうか。
社会は時代が作る規範で成り立っています。その規範は常識とも言われます。
常識は、時代で変っていきます。戦争中であれば、相手の国を攻撃し、建物を破壊し、敵人を殺し、
領地を奪うことが当たり前、つまり常識になります。今のロシアもそうであり、90年前の日本もそうでした。常識やきまりに正義はありません。そのときの権力者が決め、人々がそれに従うとき、社会常識ができあがります。それは思想ともいえるものです。
歴史を見れば、常識が真実からかけ離れた間違いであり、悪であったことがいくつも証明されています。16世紀のことです。当時のヨーロッパでは、天動説(地球は不動で、太陽が動いているとの考え)が正しと権力者から民衆まで、それを信じていました。地動説が正しいと真実を訴えたガリレオは、ローマ教会から裁判にかけられ有罪になりました。このようなことは、歴史上きりがないほどであります。
小中の9年間は学校に行くことが義務つけられた期間になっています。国が学校教育法で決めたものです。親は子どもを学校に行かせることが義務化されました。これは今の日本国が作った決まりであり、疑うことのない常識になりました。学校に行くのは当然のことです。なぜ学校に行かないといけないのかは、問われません。法によって決められたものだからです。
国家という集団の中では、人はその集団の規律、規範に従わないと、悪人になります。かつて戦争に反対した人が、非国民と言われ、牢屋に入れられたようなものです。法はいつも正しいと限りません。戦時中の治安維持法は、正義の人をたくさん殺した法です。
日本に義務教育ができたのは、明治5年にさかのぼります。欧米が帝国主義の下、世界を植民地化し、アジアもその犠牲になっていました。その中で日本は、「富国強兵(国を強くする)」のもと、子どもの教育が義務化されました。当時、強制力はなく、およそ3~4年と規定されていました。今のような9年制になったのは終戦2年後の1947年のことで、約70年前のことです。
日本の教育は発生当時から、国家に役に立つ人を作るための教育制度でした。この制度の意図に異論を唱える人は幾人かいました。西洋の教育制度は、ペスタロッチの教育理念に代表されるように「一人の人間の可能性や人格の完成」を開くことに重点が置かれたものでした。社会のための教育ではなく、個人の幸福実現のための教育です。
1965年の頃、日本は高度経済成長政策のもと、中学卒は金の卵と言われ、経済の即戦力となり社会で働きました。世界の経済戦争に勝ち抜くため、それに対応するために高学歴社会が始まりました。1980年代には、高校進学は瞬く間に90%を超え、現在は98%(通信制も含む)になっています。韓国に次いで世界二位の高校進学率の高さです。中学生の不登校が5%いる現状を考えると矛盾を感じてしまいます。
現在、高校卒業で働くものは17%程度です。残りの83%は専門学校、短大、大学に進学し、多くの人が社会で働くのは20歳を過ぎてからになっています。
こうした高学歴社会では親の教育費の負担は大きくなり、子を持つ女性の労働時間は長くなり、子どもとかかわる時間は減少しています。
また高学歴社会ですが、多くの人が大学卒という学歴を持つため、その価値は低下しています。人々は有名大学という稀少価値を求めるようになり、有名校指向や偏差値教育は加熱してゆきます。
不登校を大量生産させているのは、こうした社会常識であり、経済優先社会のための教育、偏差値教育にあります。そこには一人一人の違いや個性は置き去りにされます。
こうした社会では、みんなと違っている個性的な人は集団になじめず、排除されていく傾向にあります。
「若者の自己肯定感、国際比較」で韓国や欧米諸国と比較して日本は最低水準にあります。戦後教育の学歴志向、経済のための教育は青少年の心の豊かさを減少させ、自己実現の道から遠ざけているような気がしてなりません。
見えない心の探求者より
私の人生は失敗の連続でした。その一つが二度の不登校経験と不良少年の日々です。一回目の不登校は小学校の時です。
3年生の初めから5年生の終わりまで、一日も登校していません。約660日間連続欠席し、小川、山野、市場、海など何かありそうなところを毎日のように兄弟で放浪しました。食べ物と遊び場を求めての不良生活の日々です。
母は私が6歳の時、39歳の若さで他界しました。残された父親と6人の兄弟での生活が始まりました。当時、長男小3、次男小2、私は三男で小1、四男の弟5歳、妹は3歳、2歳の幼子家族でしたが、母はいません。父は大工で、毎日のように酒を飲み歩き、家に帰らず、子ども放置していました。
家には食べ物が徐々になくなっていきました。布団も破れ、火の気も電燈もなくなりました。残ったのは、夜は真っ暗な、ぼろほろ家だけです。服も夏冬兼用の擦り切れたもの、靴は劣化し破れ、履けなくなると裸足で歩いていました。いつも下を見て歩きました。5円や10円玉が落ちていないかと探しながら…。
私たち兄弟は、「汚い」とか「ほいとの子」(乞食の子という意味)と、地域の人に罵られ、冷たい目で見られました。ぼろぼろな服をまとい、落ちているものを拾って食べたり、裕福な家のごみ箱を漁ったり、風呂は一、二か月以上入っていなかったので、そのように見えたのですが、好きでそうなったのではありません。子どもなりに必死に生きていたのです…。
そんな大人の差別的な冷たい目にさらされた私たちはの心は傷付き、私は少しずつぐれていきました。
大人の心を敏感に読み取り、冷たい大人に敵愾心を持つなど、素直さは影を潜め、心は曲がり、不良になっていきました。心の優しい人の見わけがつくようになったのも、そのころからです。
家は、いつしか不良中学生数名が自由に出入りするたまり場になり、荒らされました。保護者の父親が家に帰ってこないからです。不良中学生は私たち兄弟を、使い走りにしたり、遊びのおもちゃにしたり、奴隷のように扱い、畳の上でタバコを吸い、唾を吐き、土足で上がり、虐待し殴るけるの暴力を好きなだけ振るい、「学校に行くな」と命令し、何日も休むことを強制したのです。
それがきっかけで、私の長い不登校生活が始まりました。その間、学校の先生とは一度も会っていません。不登校生活が3年を経過したころ、地域の人たちの働きかけで、私たち男兄弟は、児童養護施設に収容されました。そこは弱肉強食、修羅の社会で、力がすべてでした。卒園生の男子はやくざ、暴力団員になる人も少なくなく、女子は夜の仕事に就く人も多かったようです。
そんな畜生・修羅社会の中で、弱者になるまいと私は腕力を人知れず磨き、一定の地位にのしあがっていました。また、運がよかったのか保母さんや中学校の担任の先生に恵まれ、勉強や読書に興味を持つことが出来ました。そのころの勉強や読書が基礎になり、後年の自学・独学を可能にしてくれました。
二回目の不登校は、高校2年のときです。小学校時代の不登校経験、養護施設生活での修羅の世界で身につけた、ぐれた生き方が蘇ってきたのです。バイク狂の同級生と親しくなり、暴走行為や非行を重ねました。気がつくと70日間の不登校日数でした。校則違反を繰り返し反省もせず、指導する教師とけんかになり高校を辞めました。
高校中退後は「自分で食べていけ!」と家を追い出され、単身で東京に行き、牛乳配達の仕事に就きました。そこで運よく定時制高校に編入できましたが、修羅根性は抜けず、人生を斜めに見て、突っ張って生きていました。そんな時、5歳年上の一人の青年に出会いました。彼は、私を一個の人間としてまともに見てくれ、接してくれました。そんな彼に私は心を開いたのです。彼が勧める本を次から次に読みました。そして人生を真面目に生きようとグレから足を洗ったのです。その時を機に少しずつ生き方が変っていきました。
人生は面白いものです。そんな私が中学教師になり、かつての不良経験を活かすことができるようになったのです。非行少年少女やグレル人の気持ちが自然と理解できました。誰にも心を開かなかった突っ張りの彼らが、私にだけ心を開いてくれることもよくありました。私の不登校と不良生活の経験がこんなところで活きてきたのです。(「こどものこころがみえるとき」実話物語に詳細記述・文芸社刊)
私は校長から非行少年少女担当である生徒指導担当教師に任命されました。不登校経験の不良が、中学校の生徒指導教師になるとは、人生は本当におもしろいものです。
「人生塞翁が馬」
まさにそう通りだと実感しています。(松岡敏勝著「失敗もいいものだよ」自伝的小説 文芸社に詳細記載)
愛するとは その人のすべてを受け入れ どんなときも大事にし 守り 尽くし抜くことである
かつて、「世界の中心で愛を叫ぶ」という小説が大ヒットし、テレビ化され多くの人々に感動を与えました。その昔「愛と死を見つめて」という映画が大ヒットし、やはり多くの人たちの涙を誘いました。また最近では、24時間テレビで「愛は地球を救う」という番組が毎年のように報道されています。キリスト教の隣人愛や博愛など、愛という言葉には美しく神々しい響きがあり、人々の心のひだに入り込む言葉です。恋人同士で相手から「愛しています」と言われると、何ともいえない感動が全身を駆け巡ります。
愛の表現語…人類愛、家族愛、兄弟愛、夫婦愛、親子愛、動物愛、母性愛、母校愛、会社愛、スポーツ愛など、愛のつく言葉はたくさんあります。それぞれ意味は微妙に違っています。また使う人が自分なりの意味をこめることもあります。
しかし、その愛とは何なのかというと明確に答えられる人は少ないでしょう。日本にはもともとない言葉であり、欧米のLOVEの訳語だからです。翻訳語の曖昧さが日本で創作され美化された代表的な言葉が「愛」と言えます。
愛ほど抽象的なつかみどころがない言葉はありません。しかも快い響きを持った数少ない言葉です。それは「愛している」という関係の中で使われる抽象性をもった言葉だからです。どのようにも解釈できる幅のある言葉なのです。抽象的で幅があるからこそ、悪用されたり利用されたりする言葉になります。
愛とは本当の優しさの別表現です。見返りを求めることはしません。相手がどんな状況になっても、たとえ相手の姿かたちが変わり果ててしまっても、その人のすべてを受け入れ 守り、大事にし、尽くし抜く心、それが愛なのです。
愛の実践は、心の強さ、心の清らかさ、正しい心の持続が必要になります。つまり人間性の向上が求められます。愛する二人は限りなく向上し、周囲に美しさを放ちます。
そうした真の愛を持った人が増えていけば、地球も人類も救われていくと思います。
私はかつて国立医学部や東大を目指し、三年間浪人し、合格を目標に、かけがえのない青春期を受験一筋に生き抜いていました。その結果は、燃え尽き症候群、鬱症状、無気力、視力の極端な低下、神経症症状を伴った精神状態でした。以後の人生も比較優劣に染まった思想、成果主義、権威主義的思考に無意識層から蝕まれていたようです。深い哲学思想と出会い、それを学ぶことによって、偏差値的比較相対の思想から解放され、心の自由を得るようになりました。意識や思想を変えるには長い年数がかかることを知りました。
さて話は自身の反省からみた現代社会の様相について私見を少し述べてみたいと思います。
人の健康も数字で測定される世の中です。血圧130、血糖値は…その他、コレステロール値、脈拍数、脳波、白血球の好中球の数、癌のマーカー数値など数えあげたらきりがありません。数字という一基準で人全体の健康をはかろうとする危険性が見られます。
同じように人の価値も数字で測られるようになりつつあります。学校では成績偏重になって久しい感があります。入試の合否を左右するのは人間性ではなく点数であり、偏差値です。学校教育の成果は偏差値の高低がすべてになっています。小・中学校もそうなりつつあります。特に進学校では、既にそれがすべてになっているといってよいでしょう。
親も、その風潮に染まり、少しでもよい高校に進学させようと、塾に行かせたり、家庭教師をつけたりして少しでもわが子の成績を上げようとします。一生懸命パートで稼ぎ、子どもの未来のためと信じて勉強環境を作るために貢ぎます。最も大事である人間性を育てることは、二の次になっているようです。そうした教育観の中で生きる子どもは、不登校という無言の行動で反抗していますが、親も教師もその本質をみようとしていません。
人は偏差値という数字で評価され、人間性はどこかに追いやられています。東大や京大に何人合格とか国立医学部に何人合格したとかが、進学高校の評価のすべてになっています。
評価を得るための勉強、与えられた教材だけを学ぶ受動的な勉強に、本来の知の探究や主体的な学びはありません。本来の学びは、人間性を高めるために学び、自分の個性を開花させ、他人や社会や自然を知識することです。そして学びで得たものを生かし、他者や社会に貢献していくという真の幸福に至るための学びなのです。
しかし、偏頗な教育観のもと、人間性の開発という最も大事なことを置き去りにして、他者や社会が求める評価という一次元の数字を得るために血眼になっています。比較相対の競争の中で自身の可能性を矮小化させていることに気づいていません。
小さな狭い価値観、しかも人の一部分に過ぎない記憶化された知識量を換算した偏差値が学校教育の目的になっています。やがて社会人になったとき、偏差値教育は経済至上主義、成果主義の歯車に容易に組み込まれ、受動的人間になり、自ら考えることをしなくなります。結果大人になって、学ぶことをしなくなります。人は生涯を通して学び続け、自らを高めゆく中で、真の幸福境涯に近づくということを学んでいません。
多くの企業は数字に換算された利潤を問題にします。そこに人を見る視点はありません。成果を出せる人、業績を出す人、数字が出せる人が有能になるのです。そうした職場についていけず、会社を離れ、ひきこもりになる人を多く見てきました。偏差値教育の被害者とも言えます。
そうした社会風潮は、成果のため、儲けのために、不正やごまかしを横行させる土壌を作ります。私たちは、そうした悪事を毎日のようにテレビニュース目にします。
今の日本資本主義社会の行き詰まりは学校教育の目的観のずれに発しています。しかし、ここを指摘する専門家はいません。彼らも既に、世の濁流にどっぷりつかり、清流を忘れているからです。
現代人は大学に入ると勉強しなくなり、社会に出ると、さらに学ばなくなります。結果、大人が学ばない国、世界一日本(パーソナル総合研究所国際調査)という不名誉な結果になっています。それに比例するかのように浅く表面的な刹那的な人間が増加し、人間性は低下しています。日本は心の貧しい国となり、心の不健康な人が増え、真の幸福からどんどん遠ざかっています。
見えない心の探求者より
先日、私の同級生が癌治療の最中に急逝しました。二週間前までは元気に行動していたのです。癌の再発ということで亡くなる11日前に急きょ入院しました。入院後、わずか10日で死を迎えたのです。抗ガン剤治療中の最中のできごとでした。
この訃報に接した時、衝撃で夜も眠れず、一晩中思いを巡らしました。「あの元気だった彼が何故?…」「なぜ?…」と。
現在の癌治療の実態を垣間見たような気がし恐ろしくなりました。
そこには、病者という一人の尊厳な存在である人を診ず、再発がんの身体の一部を診て治療するというやり方があったのです。一人の病者を精神的側面、身体の他の状況など、多角的に診るという視点があれば、彼は、今も間違いなく生きていると確信しています。
病気は、病者の一部分の状態であり症状に過ぎません。人の顔が千差万別のように病気も千差万別です。病気は、人の一部分の故障や痛みなどの症状を固定的にとらえた言葉(概念)です。人は部分ではとらえらることが出来ない柔軟性・可塑性をもった存在であり、身体全体の調和した働きの中で常に変化し生を営んでいます。
病気を扱う医学は人を部分でとらえ分析しようとします。それに対して、病者という概念は、病める人というとらえ方で、どこまでも人間全体を診ます。病んでいるのは、その人の一部分というとらえ方をし部分観に陥ることをしません。
西洋医学は病気に焦点を当て、人間を部分に還元抽出し、最後は数値でデータ化します。人間全体を診ようとしない傾向にあります。病者という概念は医王釈尊(ブッタ)の病者の治療から生まれた言葉です。釈尊はどんな病気をも治した地上最高の名医と仰がれ、医王と言われています。
これは何も今始まったものではありません。身体医学は、まだましなほうだと思っています。精神医療はもっとひどい現実があると言われています。抗癌剤よりひどいのが、心の病に投与される「抗○○薬」などです。発達障害の子どもや幼児にも投薬されています。精神医学の先進国と言われているアメリカでは、抗不安薬などの服薬と自殺の関係性に疑問を持った患者遺族関係者から多数の裁判がもちかけられ、何度も製薬会社は敗訴しています。そして莫大な賠償金が支払われているとの報告がされています。「精神科臨床はどこへいく」(心の科学より)
胃が悪いと胃薬、目が悪いと目薬、これらはほとんど副作用もなく、標的に適合し治療効果をあげます。では、心の病は、どこを標的にしているでしょうか。心は見えません。心はほとんど解明されていません。ですから心の標的はわからないのです。精神病薬は、心の症状が起きているだろうと推定される脳の部位、またその働きをしているだろうと推測される神経伝達物質(セロトニン、ノルアドレナリン、アドレナリン、ドパミンなど)を標的に投薬します。あくまで推定であり、科学的に証明された事実ではありません。
服薬は、人体全部を通過するといってよいでしょう。舌、食道、胃、十二指腸、すい臓、肝臓、小腸、大腸、脾臓、腎臓、膀胱、肺、心臓、血管、リンパ管、ホルモン、そして大脳、小脳、脳幹・脊髄神経など部位を薬はかけ巡り、それなりに微妙に働きかけます。血液注射はもっと早く身体を巡ります。それらの働きを副作用と言っていますが、正しく言えば、薬の立派な作用の一部です。体全体の機能や働きを考えれば怖くなります。抗ガン剤より怖い薬と言えそうです。
現代医学は欧米医学、なかんずくアメリカ医学を崇拝しています。その医学は、病者という人間全体の視点を欠き、病気という人間の一部に過ぎない症状に焦点あて治療をしています。ここをよくよく考えないと、悲劇につながる結果を招きかねません。医者は責任はとりません。すべては治療を選択した患者の責任になるのです。ですから、患者一人一人が正しい知識を持ち賢くならなければならないのです。
銀河の旅人からの便り
私たちは生れた瞬間に同時に私たちの身体に死も誕生しています。生と死は常に同時に私たちの中に存在しています。私たちが、どんな成長を遂げ、どんな人間になっていくのか、幸福な人生を送るようになるのか、それとも不幸の人生になっていくのか、それは不確実で、その人の意志と努力で変っていきます。
しかし、死は努力や意志に関係なく誰人にも平等に確実に訪れます。人間の真の平等性は、すべての人は必ず死ぬということです。天皇も、総理大臣も、世界一の金持ちも、ノーベール受賞者も、金メダルを何個も受賞した有名なアスリートも、死は平等に訪れます。死はその人の外面を飾っていた名誉、財宝、地位などすべて剥ぎ取り、その人を裸にします。そして、私たちの生命は心に積んだ徳だけを持って、宇宙に帰ってゆくのです。死こそ、すべての人に平等に訪れる飾りなき厳粛な生命の不思議な働きです。
人にとって人生最大の難問は、自分がいつ死ぬのかがわからないことです。どんな科学者も哲学者も宗教者でもそれはわかりません。これを運命とか、宿命とか寿命とか言います。癌患者が医師から、余命○○か月とか宣告されることがありますが、科学的経験から推定された見立てであり、もちろん確実ではありません。ですから余命3か月と言われた癌患者が、10年以上生きているケースもたくさんあります。医師はその人の寿命を量ることはできないのです。
その人の寿命は、その人の生命に宿っていますが、自覚はできません。意識、無意識を統合した生命全体を覚知できれば自分の寿命が分かると言われています。世俗の欲に染まった生命では深層を流れる命を覚知できないからです。昔の修行者が世俗の欲を断つため、世間を出て修業し、生命の浄化を求めた理由もそこにあります。
深層の生命と交流できる時、人は安心立命の境涯を得ることができると言われています。安心立命の境涯は、三世にわたる幸福境涯への道と言われ修行者の最終目標だったのです。
動物でもやらない虐待やいじめを、なぜ人はすることができるのでしょうか。そこには人に潜む動物性と魔性があります。それは、人がそうした行為をするとき、心が何かに乗っ取られているからです。心が何者かにマインドコントロールされているからです。つまり人でありながら人としての道理や倫理規範から外れた生き方になっています。
正体の一つが自分の思うようにいかない時に発する怒りです。人間は簡単に怒りに良心を乗っ取られてしまいます。怒ると人間は冷静さを忘れ、最悪の場合、他の生命を破壊したり殺したりします。怒りは破壊につながる怖さを持っています。
しかし、相手が自分より強い人や立場が上の人に対しては、その怒りを出すことができません。自分の心の中にしまい込み、その怒りを出せる相手を見つけた時、自分より弱い立場の人にぶつけます。世に言う「八つ当たり」です。虐待は強い立場の親が弱い立場の子どもに向けられます。いじめも相手が自分より弱い立場にあると認識する時にできる行為です。その心は弱肉強食の畜生性ですが、「集団で一人の弱い立場ある人を卑劣なやり方で攻撃する」「幼児に熱湯をかける」などの過剰なやり方の残酷さは畜生以下の生物というしかありません。
子どもが思い通りにならず、一晩中泣き叫ぶ場合でも、虐待する人としない人がいます。その分かれ道はどこにあるのでしょうか。いじめも同じです。加担する人としない人に分かれます。それは人間性で決まります。
人生の中で心にしっかりと積んだ徳。弱い立場の人を守る、弱い立場の人を攻撃しない、自分が強い立場にあるだけで、相手にとって脅威の存在になっているということを自覚している人は虐待したり、人をいじめたりしません。
その根底には人としての正しい思想があります。自分も相手も、たとえ子どもや赤子であっても痛みや喜び感じる同じ人間存在であるという知識を持ち、怒ったときもそれを思い出し、行動を抑制できます。
こうした抑制力は環境の中で培われます。特に家庭環境に強い影響性を持つ親の存在は大きなものがあります。親の行動や声や言葉は、子どもの五体、毛穴からも染み込み、子どもの心に深く入り、子どもの思想を形成します。
虐待の連鎖、虐待は親から子に伝わるとは、このことを指しています。世にいう「アドルトチルドレン」とか「インナーチャイルド」とか「機能不全家族」とか「毒親」いう言葉は、これらを指しています。
いじめの場合は、本人にかかっているストレス解消などの要素があります。
しかし、虐待された子どもが、虐待する親に必ずしもなるわけではありません。連鎖の中に入るのは、ごく一部というが正確な事実です。私は、多くの虐待する親と、その子どもを見てきましたが、比率からすると、やはり3割以下といってよいでしょう。中には、虐待を受けた子どもが、自分の体験から学び、同じことを子どもにさせたくないと、立派な親になっている人も見てきました。一方、虐待の親よりも進化して、ひどくなる人もいます。その違いは、どこにあるのでしょうか。
ここが一番の重要な難所です。専門家もここが解けないので、適切な手立てが組めていないのが現状です。人が育っていく要因には、家庭環境要因、学校環境要因、社会環境要因、人的環境要因、素質的要因などが微妙にからみあっています。一つだけに特定すると部分観に陥ってしまいます。物であれば部分観が通用しますが、人間は常に全体という調和の中で生きているから部分観では解決できませんし、そうした部分の分析知では、間違いすら起きてしまいます。
これらの要因の中で大事なのは、人的要因と素質的要因です。なかんずく素質的要因が大事になります。これは心の深層と関係している難問であり、あらゆる病気や悲劇の要因の一つです。なぜ難問なのか、それは不可思議な生命そのもの真実性の解明が求められるからです。1ミリにも満たない精卵細胞に全ての種子が内在している事実は不思議というしかありません。ここにはあらゆる生命の持つ神秘性が隠されています。
つまり生命誕生のなぞと死後の生命のなぞ、そしてその二つをつなぐ生命の一貫性の謎です。今生きている生命が死後どうなっていくのか、今の生命が五つの感覚(眼・耳・鼻・舌・身)と意識という肉体を通して顕在する働きの感受と認識を失ったとき、つまり肉体の死=死ですべてが終わるのか、それとも記憶を貯蔵していた脳は焼失しますが、無意識層に蓄えられた行為の全体が死後も潜在して続き、今の生と似たような環境を得て顕在化するのか、この深層哲学が素質の解明につながります。
3000年前、インドの菩提樹の下での釈尊の哲学的悟りは、「自身の我は永遠である」「自身の我は、何ものかに作られたものでもなく、自信の我は永遠の昔から存在し、永遠に続いていく」「自身をつくったのは自身の内なるサ・ダルマである」というものでした。この哲学的悟りから東洋思想・東洋哲学・東洋医学は発展したと言われています。
次は飢餓感に似た欲望に支配された時です。そのとき人間は、見境なく欲望を達成するために対象に一直線に向かいます。思い通りにするために他者を利用します。相手が同じ人間であることなど、自分の欲望達成のためには毛頭も考えません。相手を傷つけても平気な精神状態になります。痛みも感じません。だから虐待やいじめが平気でできるのです。
最後は弱肉強食の畜生性です。弱い人や弱い立場にある人に本能的に向かいます。本能の力は強く、その時は良心が働かず鈍くなっています。だから弱い者を平気で傷つけることができるのです。
以上の三つの人間の持つ悪魔性をコントロールできれば虐待やいじめは防ぐことはできます。
銀河の旅人
今の日本人は日々人間性を低下させているように見えます。
生物種の一つである人と動物の違いはどこにあるのでしょうか。言葉や道具を使う、二本足歩行するなどという生物学観点の話ではありません。行動や他生物への影響性といった心の側面に視点を当てたお話です。
「あの人は獣もの以下だ」「彼は人を食い物にしている」「弱肉強食」「虎の威を借るキツネ」など、人の行為を動物に譬えた表現はたくさんあります。つまり人間も動物的側面をもった生物であり、動物と同じような行動をすることがあるということです。さらに知識があるだけに、動物以下の行動をすることもあります。このような生物は見かけは人面をもっていますが、およそ「人」とは言い難いと思います。
具体的にみてみましょう。地球上で最大の不幸は戦争です。その心は人間のもつ畜生性であり、本質は弱肉強食です。動物は自分よりも弱いものを生きるために食べます。食べられる動物は恐怖の中で苦しみを味わいながら死んでいきます。戦争も、食うか食われるかで、強い方が勝つまで続きます。その間、多くの人が殺され、地獄の世界が現出します。人々は不幸に泣きます。戦争の動機は、畜生性だけではありません。「自分が利を得たい」という利害心が大きな動機になっています。
「我田引水」という言葉は、もともとは水田に引く水の取り合いから始まりました。田んぼに水がなければ米は育ちません。死活問題です。ですから水を巡って争いが起きたのです。利害と弱肉強食がからんだ殺し合いまでしました。昔から自分の利のため、自分を守るために、人は人を殺しました。弱肉強食の動物の一種として…。
畜生は空腹感を満たすため、生き抜くために他を殺し食べたます。、満腹になれば、それ以上は食べません。人間は満腹になっても人を殺します。その殺し方も頭を使って残虐に、動物にない殺し方をします。地球上で最も恐ろしい生物なのです。
人が人になっていったのは、人しか持たない温かい心根でした。他人も自分と同じように喜怒哀楽をもった存在であると他人を思いやり、そうした感情に共感し他生物と共生する心から、人は動物を超えた心性を開花させました。そこには自分だけ利を得る、自分だけ栄えるという心はありません。等しく公平に利を分け与える心でした。恩を受けたら恩に報いるというの道理に生きるようになったのです。恩を知らない人を畜生以下というのはそうした意味なのです。
人とは徳を積んだ人間性の持ち主です。これを学ぶのが真の学問です。中国の偉大な思想家孔子は、生涯をかけてそれを探究しました。その中心思想の一つに「仁」(じん)があります。簡単にいえば他者を思いやる心です。人の痛みは自分の痛みであり、人の喜びは自分の喜びというように、人も自分と同じような大事な存在として接する心です。
現在はこうした心が少なくなり、自分だけという思いが先行し、どんどん人は自己中心性を強めています。自己中心性は他者とぶつかります。他者を攻撃します。他者を押しのけます。そして自分だけ栄えようとします。お互いがお互いのストレス源になっていることに気づいていません。その行きつく先は、人間社会の不調和です。不調和社会は、人間をいっそう不調和にしていきます。互いの発するストレスが心身の不調をもたらしているのです。それが心身の病の最大の原因です。
人の調和、社会の調和を説いたのが孔子の「仁・義・礼・知・信」です。まず「仁」を意識して生きてゆけば、人間性は向上し病も減少していくと思われます。
銀河の旅人