瞋りの連鎖を解く方法はあるのか
瞋りの連鎖を解くためには、まず自分を知ることです。瞋りの対象への強度と深さを知らなければ
なりません。また瞋りの習慣化された自分の内省も必須です。瞋りを発しても、数日以内で、その瞋り
から解放される人もいます。逆に、瞋りを発しやすく、その瞋りに振り回され、簡単に瞋りから解放
されず、何日も、何年も怒りが、怨み憎しみとなり、心の奥に固着する人もいます。その人は、一日の
大半を地獄を住みかにしている人といってよいでしょう。問題は、根深い瞋りを心の奥に持っている人
の瞋りの解放です。この傾向の人は、アンガーマネジメントの講習を受けても、いっこうに解決するこ
とができません。なぜなら知識や言葉を超えた奥深くに宿っている、瞋恚の塊りの心作用だ
からです。その塊りを少しずつ溶かし、浄めるしかありません。
ブッタの悟りが教える六波羅蜜(ろくはらみつ)の実践修行
ブッタ(注1)は人間の持つ煩悩が不幸に導く元凶であることを悟りました。前回のブログで説明したよう
に、三毒という煩悩をもっとも制御困難なものとしています。人間の本能に根付いているものだからで
す。脳科学の知見で言えば、大脳皮質の言葉や感覚受容の奥にある、大脳辺縁系に端を発しているから
です。正確に言えば、大脳辺縁系にあるのではなく、瞋りはそこに顕在する心作用です。脳科学で解決
できない世界ですから、心科学(ブッタの仏法科学)に基づくしか解決はありません。
六波羅蜜(注2)の実践は、煩悩の迷いを悟りと開き、苦を楽に替え、暗を明に転じ、人を幸福に到達させ
る実践・修行です。
注1 ブッタ…覚者、生命の真理を悟った人という意味。一般的には、約2600年前ごろのインドに生まれた釈迦を指しますが、生命現象の三世を俯瞰すると生命の真実を悟った人のことをブッタと言います。いわゆる仏・如来のことです。釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、多宝如来、大日如来など、この宇宙には無数の仏が存在すると言われています。
注2 六波羅蜜…波羅蜜は、到彼岸、仏の生命へと到り、宇宙大の生命をくみ取るための六つの項目。布施波羅蜜(財物や幸福になる生き方や安心感を人に施す修行)。持戒波羅蜜(悪を止めて善を行う修業)。忍辱波羅蜜(忍耐しながら慈悲行をし、人を救うこと)。精進波羅蜜(喜んで人の善に尽くし、少しも怠けない修行)。禅定波羅蜜(精神を集中して散乱させない修行…マインドフルネスはこの修行法にヒントを得ている)。智慧波羅蜜(一切の事柄、法理に通達して明了ならしめる智慧の開発を目指す修行)
瞋りの煩悩を転換する実践は 忍辱波羅蜜にある
忍辱波羅蜜の修行は生命的存在をどのようにとらえるかから始まります。
自分を含め、すべての生命的存在は慈愛すべきものと見ます。
なぜなら、すべての生命的存在は仏性(注3)を持つ存在だからです。どんな人も根底に仏性を内在させて
いると信じ、相手を守り尽くしていきます。その姿勢で関わっても、相手から馬鹿にされたり、罵られ
たり、攻撃されたりします。それらの辱(はずかし)めに耐え、相手の仏性を信じて関わり続けることが忍
辱の修業なのです。その修業の中で瞋恚(瞋り・怒り)の生命は、浄化され、本来の清らかな生命が蘇って
くるとブッタは説きます。これは大変な修行ですが、この修行を貫く中で瞋りに振り回されない自在な
境地になるだけでなく、崩れない幸福境涯に近づくことができるとされています。
注3 仏性…仏の生命の心的側面。釈尊という場合、生命の身体的な側面を指し、仏と表現されます。仏の生命の心的な働きを指す場合は仏性と言います。この宇宙の森羅万象は仏性の働きとブッタは開悟されました。生命は自ら創造し自ら死滅する生滅の法です。また、宇宙のすべてを創る働きが生命に内在する仏性であり、慈悲を演じ生死を繰り返す無始無終の因果を内在する生命の働きです。キリスト教では、スピノザが汎神論を唱えました。自然や宇宙の神的な働き、人間や動物の神秘的な働き、そうしたものすべてが神であるという説です。アインシュタインは、両親の関係でキリスト教を信じていましたが、進化論を知って旧来のキリスト教から離れました。しかしスピノザの汎神論の神は信じていたと言われています。仏性は、汎神論で説く「神」に近い目に見えない生命の働きと考えてよいでしょう。
ブッタは能忍の人 人間世界は堪忍世界 能忍の修行が瞋り(怒り)を浄化させてくれる
この世のとらえ方を正しく見てゆく修行をします。この世を娑婆世界(しゃばせかい)と見ます。娑婆(梵
語、サーハの音写)は、堪忍(かんにん)、能忍(のうにん)と訳される言葉です。娑婆世界とは、苦悩が充満
している人間世界のことです。「この世界の衆生(人間)は、三毒およびもろもろの煩悩を堪え忍んで受け
るので娑婆世界という」(法華経巻五)。
思うようにいかないのが当然であり、自分のことを理解してくれない、わかってくれないのは当然であ
り、自分勝手な人ばかりが存在しているのが当然と、この世界をあるがままに見つめ受け入れ、堪忍し
て生きていきます。その生き方ができるようになれば、瞋りの対象を受け入れることができるようにな
ります。正しく言えば瞋りの対象が原因ととらえている自分を、原因は自分の中にあると見ていくと
き、忍耐することができるようになっていきます。その結果、生命の浄化が進みます。生命が浄化され
た分、瞋りの生命は消失していきます。釈尊・ブッタは能忍の人と言われています。釈尊自身、こうし
た修行の結果、悟りを得、ブッタになったと言われています。