相談室(ブログ)

 偽物が氾濫する現代社会 偽物はマスコミ・SNSを巧みに使い、人々の甘心を誘い、思考を停止させ、善心を破っていく

2024.11.29

生きる、それは五感覚の働きに支えられています。中でも危険から身を守り、生を保つ行動に一番重きをなしているのが、視覚です。

私たちは記憶化された感覚情報をもとに反応し、多くの場合、思考することもなく刺激に応答して脳内で生起する言葉によって反応し生きています。

スマホ、パソコン、テレビに溢れる視聴覚情報を頼りに、思考という検閲もせず、盲信して生きています。便利であり、効率もよいからです。それが脳の働きの一面とも言われています。

テレビのコマーシャルはそうした人間の盲点を突き、ものを売っています。多くのテレビ番組やユーチューブは視聴率や再生回数に血道をあげます。刺激的で、記憶に残るように操作し、見る人の視聴覚に焼き付けようとします。

真実は二の次です。発信した視覚情報によって、人が不幸になろうと、悪に走ろうと関係ありません。視聴されることが大事であり、視聴覚に強い刺激を与え、視聴率をあげる、再生回数の多さが一番なのです。発信者の利益、つまり金儲けになるからです。

刺激的視聴覚情報は記憶に深く入り、次の行動を左右します。思考は停止し、過去の記憶化された視聴覚情報で無意識的判断をし行動するようになります。一種の自動操作状態です。洗脳状態とも言えます。

こうして無知な人は増産され、思考停止する人は増え、マスコミという得体の知れない権力の奴隷になっていきます。一種のプロガバンダのようなものです。日本人の大半は、スマホ依存、ユーチューブ依存、テレビ依存、視覚情報依存となり思考停止状態になり、洗脳されつつあります。その先に待っているのは、不幸な人生行路です。

人は悩み、思考し、より価値のある生き方をすることによって充実した深い人生を生きるようになります。多くの偉人が教えてくれているように、幸福は与えられるものではなく、自分で創り出すものなのです。

本物を探し、本物に学び、本物を摂りいれることです。過去にはそうした本物の偉人がたくさんいました。ソクラテス、アリストテレス、イエスキリスト、釈尊、竜樹・天親菩薩、天台智顗、最澄、老子、孔子、日蓮、レオナルド・ダビィンチ、ベルグソン、トルストイ、アインシュタイン、ニコラテスラ、ナイチンゲール、ヘレンケラー、野口英世、優れた文学・芸術作品など…歴史を紐解けば多くの偉人・賢人・書物や作品に出会えます。そこにはハウトウーものの軽薄(一時的流行品で、時間とともに消えていく)ものではなく、人生を賭け築いた心の宝が潜んで心の栄養になるでしょう。

不登校・ひきこもりの増加は 大人社会が作っています  

2024.11.20

マスコミで不登校の増加を騒ぐ前に、大人がしなければいけないことは、時代はいつも大人が中心になって作っていると言うことを自覚することです。不登校・引きこもりの減少を本当に願うなら、今の社会を深く洞察することです。今の社会や学校が子どもの心を成長する場になっているかどうかです。子どもの成長に貢献する教育や学校や社会になっているのか、専門家や政治家は深く賢い知見で、自らの私利私欲を見つめ世相を見極めることです。

不登校児の心理と大人の引きこもり、適応障害などの心の不調者には共通点があります。私たち人間は、環境の中で生を営んでいます。環境と自分は相互に影響し合い、持ちつ持たれつの相互関係で保たれています。私たちが、今どんな環境に生きているのかを知ることで、心の不調を健康にすることができるようになります。不登校の心理は、大人の心の不調者の心理と同じといってもよいと思います。同じ社会環境に生きていれば当然と言えば当然なのですが…。

 最近の調査によると、精神疾患者は419万人、ひきこもり者は146万人、不登校者は年々増加し小中で約34万人、小中発達障害8,8%(令和4年文科省調査)。少子化にもかかわらず、若者の精神疾患者は増え、引きこもりは増加、不登校も増加の一途をたどっています。

これは身体の病気も同じです。癌患者は2人に1人であり、認知症は高齢者の4人に1人、アトピー患者、アレルギー患者、糖尿病、各種難病等は年々、増加しています。感染症はウイルスや菌がもたらす一時的な疾病ですが、その他の身体病は、本人の生き方や社会環境と大きな関連があります。

今や、癌やうつなどは生活習慣病などと言われるようになりました。つまり本人の生き方、考え方、行動の仕方が病気を作っといるとする考え方です。

一体、何が原因なのでしょうか。

 健全な社会は、心の不調者を出さない予防に力を入れた、健康社会を目指すものです。政治家は、口を開けば「経済、経済」そして「福祉」です。あたかも経済が豊かになり、お金があれば、心の病も解消でき、健康な社会が到来するような口調です。このような政治家や専門家に、疑いを持つこともなく従う国民が、病を増産させている一因と思います。

 二つ目の原因は軽薄、表面的なもうけ主義に偏った無責任な情報の氾濫です。そうした情報は何の規制もなく一方的に流布されます。受け取る側が、よほど賢く見極めなければ情報に翻弄されます。情報の真偽が分からず刺激的な情報に踊らされ、洗脳されています。視・聴覚優位な生き方にさせられ、気付かないうちに想像力や思考力は低下していきます。

 なかんずく、テレビやスマホは人間の最も弱点ともいえる視覚に訴え、巧みに人間を操作します。人間は視覚情報に本能的に弱く敏感に反応しますから思考が麻痺する部分があります。怖いのは、操作されていることすら感じないことです。情報を受動的に受信することに慣れ、疑うことをやめることは、思考の死につながります。それに気づいていないことが一番の問題なのです。

 スマホ・ユーチューブから繰りだされる視覚情報の洪水は、感覚過敏をもたらし、強いストレス源になっていることに気づいていません。それらの氾濫情報は私たちの感覚受容力をはるかに超え、強いストレス状態に置かれていることを私たちは意識できていません。なぜ、すぐイライラするのか、不満になるのか、傷つくのかわかっていません。まさかスマホ・パソコン・テレビなどの過剰な視覚聴覚情報の摂取に原因があるとは思いもよらないと思います。 

 三つ目は快楽・刹那主義、便利こそ豊かさという欲望の偏向や錯覚です。気持ちよさを求めれば求めるほど、不快に耐えられなくなります。便利さに慣れればなれるほど、不便に対して不満を感じるようになります。便利さが普通になると、この世の自然の現象や生きていることの「有りがたさ」が分からなくなり、心身の秩序を知らず知らずに失い、心の不調の原因を作ることになります。便利さは、当たり前感覚を強め、少しの不便に出会うとイライラしたり、不満を感じたり、怒ったりして、心の状態を悪くしていきます。

 便利さや物質的豊かさの過度の追究は、恐ろしいことに自然の加工や破壊をもたらし、病める地球を作り出しています。自然や地球秩序の破壊は、地上に住む生物、人間の心身の秩序の破壊を伴います。なぜなら人間も自然の一部だからです。地球自然との絶妙な調和、秩序の中で人間も、その恩恵を受けて生きているからです。自然や地球や宇宙の恩恵さえ感じない人間の当たり前と思う心が、人間の不幸の源泉かもしれません。 

 依存心の強さが専門家を信じさせ、確かめることもしない愚かさが、心の不調者を増加させている最大の原因ではないでしょうか。真実に対する無知は不幸の原因です。賢くならなければだまされていることすら気づかず、いつしか不幸に沈むことになります。私たち一人一人が賢くなることこそが重要です。ギリシヤの哲学者ソクラテスの「無知の知…正しいことを何も知っていないということを知りなさい」「汝自身を知れ…本当のあなたの素晴らしさを知れ」という言葉を今こそかみしめるときです。

何も考えず 権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である  アインシュタイン博士

心の病は 思考の偏りや執心による秩序の乱れ

2024.11.08

痛みや苦しみは心身の不調和から発するメッセージです。執着は神経の過剰疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩します。心身の調和が乱れきった時、苦や痛みは限界を超え、心身は病んでしまいます。しかし、人はその原因を見ようとせず、目に見える痛みの原因を除去しようとしますその。結果、病は増幅し本質的な解決に至ることが難しくなります

木を見て森を見ず

森に入れば目の前の木しか見えません。これは人間の本能的感覚の現実であり、限界です。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たち人間は、見えたり耳に聞こえたりする五感覚で感知できるごく一部を見て行動し、わかったつもりになり、全体を見ることをしていません。物事の全体を見るためには想像力を働かさなければいけません。

瞑想の真の意味

最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本義もわからずやっている人がほとんどです。真の瞑想は想像力と思考力を磨く修行なのです。想像力と思考を磨き本来の自己と宇宙的自己に冥合することが、釈尊の瞑想でした。

アインシュタインの名言に学ぶ

「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ」 アインシュタインの名言です。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は光彩を放っています。今から述べる事柄は、感覚では理解できません。想像力を働かせれば見えてくる世界です。

宇宙を瞑想する

地球は月という兄弟衛星を伴い瞬時も休まず動き変化し 太陽系の中で絶妙な調和を保っています。その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営んでいます。

身体を瞑想する

私たち人間の身体はリズムを奏でるように呼吸し心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡っています。食べたものは口内で咀嚼され、食道を経て十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進み小腸で、各血管を通じて各臓器に栄養となって運ばれます。さらに大腸で数十兆の大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたものは約7メートルの消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、人間が生きるためのエネルギーになります。腎臓は一分間で一リットルの血液を浄化し生を守ります。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり約100の加工的な働きをしながら人体を守り動かしています。ホルモンは炎症を抑えたり、体や臓器の調和をはかり、身体の恒常性を作ってくれています。脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚で身体を守ってくれています。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守るため、免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節てくれています。皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の最近、ウィルスから守り、その総重量は10㌔を超えています。人間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美男などと私たちは錯覚しています。

私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で外部世界と交渉していますが、それは身体の働きの100分の一以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識ることがではないのが人間の本来的な働き

なのです。私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆の細胞を新陳代謝させ絶妙な調和を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の歯の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが人の身体の現実ですが、それは人の身体全体から見れば微小なことに過ぎません。

生きるとは変化であり 調和である

生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。現代人の多くは視聴・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失っています。それが様々な新しい心の病をつくりだしていることに誰も気づいていません

不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象

不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っています。

磨かれた心は すべてを明らかに見ることができる

磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には すべてが正しく見えるようになります。何が幸福をもたらし 何が不幸にさせるのかを 明晰に見分けることができます…。幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです

不調和状態を産み出す四種の欲望・感情

不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると 心の波は逆流し 自他を巻き込み いたずらに消耗し やがて苦しみの海に沈んでゆきます。限度を知らない過剰な欲望は 自らを焼き焦がし 周りを燃やし 炎の波にのまれてゆきます。快楽に耽け続けると 心は淀み 濁り 善悪がわからなくなり 心の波は間延びし 思考もとまります。人に勝りたい 人より優位に立ち 人を支配したいと思い続けると 心は歪んで 素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は ほどよさの感覚を失うと  調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。

幸福になる人が奏でる振動

幸福になる音色を奏でる人は 心が素直で 柔らかく きれいに澄んで 美しい周波を演じています。財産 社会的地位 名声 人気 才能 美貌 健康などは 幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが 時とともに色褪せ 壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは 空しく時と共に風化し 最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは 花火のようなもので 刹那的な陽炎のようなものです。

すべての生命現象は流れる 多くの執着は逆流現象によるエネルギーの消耗

ー祇園精舎の鐘の声 諸行無常(注1)の響きあり 沙羅双樹(注2)の花の色 盛者必衰の理をあらわすー    平家物語の冒頭の詞は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り 心の真実相が見えないからです。

浄化された心に病はなく 福徳が重なりゆく

心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識 五感 心根は時とともに輝きを増し その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは 永遠性を孕んだ美しい調和された波そのものです。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる調和波なのです。

善知識に親近し 心を磨いてゆくことが大事

心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…。自分や人の心が美しいと感じた時はどんな時だったのかを 振り返ってみてください…。過去の聖人・賢人の生き方や 思想哲学や文学・芸術に学んでみましょう。不断に自己を磨き続け 内省し 浄化された自己の鏡に 真実も幸福も映し出されるでしょう。意識を磨き、研ぎ澄まされた精緻な思考の力、そして宇宙をも包む想像力を身につければ、あらゆる病は消滅し、真の安らぎを得ることができるでしょう。

注1 諸行無常…仏教で説かれた重要な思想の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は縁起によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は縁起で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。

私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と意識しているにすぎず、夢のようなものを実在していると記憶しているにすぎません。認知症になり記憶機能が失われてしまえば、自分が自分であることも分からなくなりますが生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による錯覚現象のようなものです。

この世のものは全て動いており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の発見です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明する形になっています。

夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実相を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を無限に広げることで可能になります。

(注2)沙羅双樹の花…釈尊(ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で存在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相といいます。釈尊の究極の哲理(法華経方便品で説かれている)です。それを悟ることができれば永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は覚知されました。

人間性薫る芝蘭の便り

 

マインドフルネス歓喜法は、宇宙万物の素粒子の奏でる因果俱時の不可思議なリズムに心身を冥合させる瞑想法です

2024.09.15

清澄な響き、そして喜びと安心に満ちた永遠性を奏でる周波数を持つ振動がマインドフルネス歓喜法の

振動です。

宇宙のあらゆる存在は周波数でかたちが決まり、それぞれが固有の周波数を奏でています。天にも昇る喜びの周波数もあれば、地の底に閉じ込められる苦しみの周波数もあります。動物もその個に応じた周波数を出しています。人は通常は穏やかな周波数を出しています。それが人間界の特徴の一つとも言われています。

人面を持ちながら、弱い者をいじめ支配し、強いものにこびへつらう動物以下の周波数が基本になっている人もいます。人の発する周波数は言葉や外面で操作することはできません、心が澄んだ人は、他者の周波数を直感で正しく感じとり、その心を見ぬくことができます。

この質問に対して、まず比喩的に説明します。例えば光は二つの側面を持っています。それは粒子と波という二面性です。以下は私の仮説ですが、人間の心の表現としての意識は、言葉・イメージと気分感情いう二側面があります。言葉・イメージは粒子であり、気分感情は波に譬えられます。人間の意識表現としての言葉は感情・気分という波動性をもっていると推測でき、そこに人の周波数の秘密が潜在しています。

生物・人間の波動・周波数の種類は八万四千波と言われています。それを解明すれば、不可思議な周波数の問いや喜びの周波数のなぞは解けるでしょう。

この地球上、そして宇宙には生物、無生物、物質、塵などあらゆる存在、見えないが存在しているものなどが発する様々な波、光、闇波、電磁波、声、声なき声などが飛び交い無数の周波数に満ちています。

最新の量子力学などで、素粒子の世界や動きから周波数の一部は解析できている部分もありますが、ごく一部であり、ほとんどが闇の中です。あらゆる生物、物体、人間や動物も固有の周波数を出しているからです。しかもそれが固定的なものではなく、絶えず変化し、相関性の原理で生起しているのが真相だから分析できないのです。その意味では素粒子の究極の世界と似ています。

つまり宇宙の物体は周波数によってかたちができ、その周波数も刻々と変化し、相関性(縁起)で成り立っています。

あなたは、今の瞬間、あなた独自の周波数を出して生きています。しかも刻々と、対境(縁)によって変化する周波数なのです。その周波数の持ち主は、この宇宙であなたしかいません。持ち主のあなた自身、各細胞が発する周波数の組織化された総合波を瞬間にあなたの意識が感知しているに過ぎません。細胞は40数兆個あります。人間も動物も植物も地球も太陽も、みんな独自の周波数を出しています。

波動を高めるとか運気をあげるとか、周波数を合わせるとかいっても、宇宙、生命の真実相がわからないと、どこに周波数を合わせるかさえわかりません。指標なき盲目の方向は危険です。苦海行きの周波数や人をだまし(グルーミングなどの優しい言動など)苦しみを誘う周波数で満ちているのが地球世界の真実相です。心が濁っていると、見る目が曇り、真実が見抜けなくなり、偽物を本物と見てしまいます。結果、不幸な人生をさまようことになります。

見えない世界をあつかう、宗教やスピリチュアル系や思想・考え方の怖さはそこにあります。今、問題になっている宗教がそのよい例です。そもそもお金や営利の心がある人や団体には気を付けなくてはいけません。正しい思想の人は、お金や名声名誉を求めず真実の探求を第一に誠実に生きています。なぜなら真実の探求と悟りで心が喜びと充実感に満ちているからです。

周波数の解明は宇宙すべての生命現象の解明なくしては分からない難問です。生命の真実相を求めてこの地球では有史以来あらゆる聖人、賢人、物理学者、数学者、医学者、哲学者、思想家、宗教者が格闘してきました。そして到達した世界を書物や対話などで残してきました。その数は膨大であり、一生かけても探究できません。

最も生命の真実に迫った人たちは3000年前ぐらいのインドに端を発しているようです。自分のすべてをかけて生命の真実に迫ろうとしていました。世俗の欲を絶って生命の真実と格闘しました。その代表が釈迦(釈尊・ブッタとも言われている)です。

世俗の欲は、どうしても生命の濁りをもたらします。その濁りを浄化しないと、本来的清浄の自己に合致できないからです。世俗の欲とは人間が生きるための欲望です。五感覚がもたらす快不快、好き嫌い、他者支配欲や承認欲などを基本にした生きるため生命に本来的に具わっている本能であり智慧です。

生命の欲がもたらす必然的な濁りを浄化するのが釈迦をはじめとした修行者の課題でした。具体的には生きものを殺さない、肉食しない、妻帯しない、他者を傷つけたり支配したりしない、悪口を言わない、ウソをつかないなどの行為を守ることで生命の濁りを断とうとしたのです。現代人には、とても不可能な実践です。

ブッタとは、生命の覚者、宇宙の真実相の覚者と言われています。知的理解では到達できないのです。知識は生命の一部しか理解できません。ブッタの悟りは直観智であり、生命全体で識ることでした。それは心身全体をかけた実践・修行のなかで生命浄化の果てに訪れる生命の直観知なのです。

欲望に染まった生命を浄化することによって、本来の純粋な自己が発する周波数にはじめて冥合が可能になります。本来の自己つまり宇宙本来の自己の周波数は、万物を創造し育み慈しむ慈悲の音律であり波であり光なのです。慈悲の実践者にして初めて可能になります。欧米世界やイスラム世界では、その存在を神と命名し、人間世界のはるかかなたに祭り上げ、その存在の探求や思考をやめ、崇め信じることを第一義にしてしまいました。

最高の周波数に合わせて生きるためには、覚者の通った道に学び、覚者の言葉を師標として修行実践するしかありません。マインドフルネス歓喜法の周波数は、その師標に基づいた実践体得なのです。言葉では表現できない不可思議な音律がもたらす周波数です。

芝蘭之室のマインドフルネス蘇生法で困難事例の改善はありますか? 20代後半男性

2024.09.07

回答

遷延化・重症化の方の代表的な改善事例(プライバシー保護のため、属性を少しだけ変えています)

令和5年~令和6年の事例について簡潔に概要を紹介します。

1 男性20代後半 大学在学中に自殺未遂を数回経験する。卒業後就職するも、転職を繰り返し。離職、引きこもりを繰り返す。鬱と診断され、心療内科を数カ所変わるも好転せず。当室来所時 は、引きこもって既に3年になり、親に対する暴力がひどくなっていた。心理検査、心理教育、認知行動療法、対話療法による2年間の面接を経て、心の健康を取り戻し就職、社会復帰を果たした。

2 男性30代前半 大卒 一流会社在籍 うつ、双極性、うつと心療内科を四度変わるたびに診断名も変わり、薬も変わる。休職を二度繰り返し 追い詰められた状態で当室に来所。心理教育、認知行動療法、マインドフルネス統一法により、約一年の面接を経て、心の健康を取り戻し、前向きに人生を送っている。

3 女性30代前半 高校2年の頃から自傷行為を繰り返し、心療内科にかかる。親の過干渉、虐待傾向の心的外傷が癒えないまま、結婚。結婚後子どものことで悩みが絶えずいろんなところでカウンセリングを受けるも好転せず、当室の女専科カウンセラーの対話療法面接2年間で心が蘇生し、生活態度、子ども、夫、親に対する態度が変わり前向きに生きるようになる。

4 男性 20代後半引きこもり歴7年。専門学校卒業、3年間働くも会社の人間関係でつまずき、以後引きこもる。心理検査、心理教育、マインドフルネスによる半年の面接後、就職し社会復帰する。

5 男性30代前半 アルコール依存症の父親からの虐待を受ける。20代前半より、精神科、心療内科を転々とする。ADHD、うつ、適応障害などの診断を受け、薬は8種類服用しているが、いっこうに改善せず、他県よりホームページをみて当室に来所。心理教育、森田療法、認知行動療法による10回の面接で改善し希望を持って生きるようになる

6男性20代前半 ギャンブル依存 母親のメール相談に始まり、他県より保護者、本人来所。依存症の矯正療法を三か月受けるも好転せず。心理教育、認知行動療法による当室数回の面接で改善する。

7 男性30代前半、援助職の仕事に従事。 15年前から、戸締り確認恐怖や火元確認などの強迫観念に悩まされ、朝仕事に行くまで数時間確認行動をしてしまう。自力で森田療法を学んだり、認知行動療法を試みたがうまくいかない。令和五年の夏から、マインドフルネスの8週間集中実践講座に参加したが改善されず、当室を訪れる。マインドフルネス統一療法を実践し、数回で習得し改善した。

各種強迫観念、パニック障害、対人不安症、各種恐怖症の遷延化した人は、マインドフルネス調和法で100%改善している。

マインドフルネス蘇生法は心療内科で改善できない心の病を改善すると聞きましたが本当ですか? 30代後半男性

2024.08.31

回答

心の病が長引き遷延化している方が当室に来談しています。5年、10年と病み続け、心療内科や精神科を巡ったり、病院を変える度に診断名も変わった方も少なくなくありません。薬で改善できない方がマインドフルネス・認知行動療法を求めて来ます。

芝蘭之室のマインドフルネスは来談者の心の状態に合わせて対処します。

初級はアメリカのカバットジン氏が創成され日本に逆輸入したマインドフルネスストレス低減法です。これは日本各地のカウンセリングで実施されています。今の瞬間を評価せず、ありのままという禅の瞑想の応用展開です。評価せずありのままという瞑想は、指標がなく、自己撞着に終わる危険性もあります。症状の軽い人や予防には、集中力が高まるでしょう。

中級、上級は、芝蘭之室独自の創成でマインドフルネス蘇生法す。

中級は瞑想に身体学、自然学を加味させたものです。中程度の心の病の方、向きです。とらわれや偏りから心身がアンバランス状態になったものを調和させ、心をリフレッシュさせます。

上級はかなりの重症化された難治者の方が対象です。10年近く心の不調や病に苦しんだ人が実践し改善しています。この段階の方は知識や気づきだけでは自分の心的状態を変えることはできません。生命全体の覚知が求められます。つまり心の錬磨が必要になります。

人間の深い本来的心の働き、それは宇宙の慈悲と智慧の律動であり周波数です。その律動に心を合わせるとき、いかなる重症化した心の病も本来的な浄化された心に蘇ります。 生物学や物理学、自然学、音声学、詩学、量子力学等の諸学と仏法を円融させたものです。

真の瞑想とは禅定であり、心を一所に研ぎ澄ませ意識を磨き高め、瞬間の意識を超えた深い生命全体に意識を融合させることです。思想は生を支えている無意識から起きる言葉であり、経験・記憶で構成され感情を伴っています。

人生はどんな思想に生きるかで幸福不幸も決まります。人は部分観にとらわれた思想に生きているため苦しみます。真の瞑想・禅定は部分の囚われを脱し生命全体に生きる思想を産み出し心を蘇生させ、心を本来の健康状態に戻します。

そのとき、どんな重症化した心の状態も本来の健康状態に蘇ります。

「死は存在しない」という本を読みましたが、詭弁と思いますが、どう考えますか? 22歳・男性

2024.08.25

回答

私も興味をもって読みましたが、現実味の薄さを感じました。書の中で、仏教の般若心教(注1)の「空即是色」や唯識思想の「阿頼耶識」(注2)、法華経の「如来寿量品」(注3))の永遠の生命についての一部説明がありましたが、いずれも各経典の表層をさらった感じです。なぜなら仏教の深意は修行なくして覚知できないものだからです。

さらに最先端の量子力学を引き合いに出して説明していますが、量子力学はあくまで物質の究極の世界の話で、心とは別問題です。筆者はゼロポイントフィールドという言葉を使って、神や仏の別表現のような仮説を述べていますが、ますます曖昧であり、あなたの言う通り、私も同感で雲のように疑問が湧き起こる次第でした。

私は、哲学、思想、心理学、物理学、宗教を50年近く学んできました。死や生命や宇宙、そして神秘な心に興味があったこともあり、法華経には特に力をいれて学んできました。

結論を言えば、生命の真実は観念や知識では理解できないとブッタは、法華経方便品で智慧第一の舎利弗(注4)を叱責したほどです。つまり生命の真理は知識で理解できるものではないということです。仏教は、釈尊の全生命をかけた壮絶な戦いの中での悟りを基に、当時の弟子たちに語ったものが伝承されたものです。当時、書はなく、釈尊の教えは弟子たちの実践体得の中で悟りを得た弟子たちによって伝承されました。その教えは八万宝蔵と言われ、膨大なものであり、釈尊一人の悟りではなく、正しい弟子たちの総結集の悟達の集まりなのです。

釈尊滅後、その教えは付法蔵といわれる正法行者によって伝承されました。なかんずく、インドの竜樹菩薩は大智度論等に「中観…生命の真実相、空観など」を体系的に究明され論じています。また天親・世親菩薩は「唯識思想」を体系化され、阿頼耶識の業思想(注5)や死後の生命について究められました。

その最後の伝承者が、中国天台宗開祖とされる天台智顗です。仏教を精査され、釈尊の教えの真意を汲み時系列、内容で体系化されました。そして、その最高峰の生命哲学を法華経の中に見出し、一念三千論として完成させました。法華経が生命の全体を悟りの境涯から説いた最高峰とされ、他の教えは人間の理解や境涯に応じて説いた方便・部分観の教えとされました。例えば、般若心経は生命のもつ智慧の不思議な働きを述べた教えです。般若はサンスクリット語であり、智慧と訳されます。智慧は生命の働きの部分です。

天台大師の教えを学ぶために、当時の日本の僧侶、最澄、空海、道元上人をはじめとした僧侶は中国の天台山まで赴き、修行されました。帰国した道元は禅を、空海は真言密教を最澄は法華経を伝え弘めました。その後、法華経は日蓮に継承されていきます。700年の歳月の中で日蓮の法華経も解釈がまちまちとなり、多岐に枝分かれし、何が真の教えかわからなくなりました。

宮沢賢治も日蓮の信奉者の一人ですが田中智学の国注会で法華経を学んだとされています。また道元の禅の教えの一部は、アメリカのカバットジン氏によって、世界にマインドフルネスとして広まり、日本にも逆輸入されています。仏教の哲学思想、つまり仏法は玉石混交となり、仏法用語は顛倒し、正しい心が失われつつあります。釈尊・ブッタは、そうした時代を末法と3000年前に予言していました。

さて本題の「死は存在しない」について私見を述べます。

これは「死とは何か」ということになります。つまり死は生の終着点であり、来世への出発の種子を秘めた重大儀式です。生老病死の四苦は人間の避けられない苦悩です。もっとも強く激しい苦は私たちが死ぬ存在であることです。死は誰人も避けられない厳然たる恐怖をもった現実です。必ず死ぬ人間は、その死と向き合い解決の道を求め、いかに生きるかに昇華させてきたのです。

それが幾多の宗教思想となり、今日に結実しています。死は厳然たる事実であり、誰人も避けられない人生最後の試練であり、解答なき難題なのです。なぜなら、今生きている人間は誰一人死んではいないからです。その意味では、あらゆる死についての考えは仮説と言えます。

釈尊は苦行の末、何を悟られたのでしょうか。その悟りの全体は法華経28品に凝縮されています。

なかんずく如来寿量品には、生死不二(仏法には不二の説明がたくさんあります。不二とは二つであるが二つでないという意味です。空観がわからないと理解できません。)が説かれています。つまり生命は生と死という二つの相を本来的にもっているのです。生は法であり、死は妙です(注6)。生死の二法の生命を妙法(サンスクリットでサダルマという。ダルマは有名ですが、法という意味です。サは妙、思議できない不可思議境という意味です)覚知したのです。瞬間の生命に過去も未来も現在もすべてが包含され、その瞬間の生命がそのまま海の波の上下運動のように続くというのです。正確に言えば、続くのではなく、永遠に、今の瞬間しかないということです。

寿量とは生命の寿命が無量であること、つまり生命が永遠であることを説いています。その生命とは如来のことであり、瞬間瞬間、如如として来る生命のリズム・波動なのです。またありとあらゆる生命体、すべての物質が如来であり、仏性をもった存在と説かれています。こうした生命の真実は知識という生命の一部分の働きでは悟ることはできないとされています。修行における体得、つまり全生命という全体をかけた覚知なのです。もちろん、私も知識でしかわかっていません。修業が足りないからです。

詳しくは当室のブログや特別講座の内容などを参照されるとよいと思います。

(語注) 芝蘭の室 室長の解釈説明。

注1    般若心教の「空即是色」…正式には「魔訶般若波羅蜜多心経」のことであり、約3万字の教である。二世紀ごろの竜樹菩薩の作と言われている。生命の「空観」「縁起」を説いている。般若心教は後世、この経を300字に短縮されたとされている。空即是色、色即是空は有名であるが「空」や「縁起」という生命現象が理解できれば解読できる。

注2  唯識思想の「阿頼耶識」…生命の心性を唯識派が考察。生命とは心の働きであり、心だけがあるという見解。心を八に分け、眼識、耳識、舌識、鼻識、身識といういわゆる五感に、六番目として意識。七番目として無意識に潜在する末那識(自我執着識)八番目を心王として阿頼耶識を説く。心はすべて阿頼耶識でつくられ、蓄えられるとする。詳しくは「阿頼耶識の発見」横山紘一著を参照されるとよい。

注3  法華経の「如来寿量品」…法華経はインドの釈尊・釈迦・ブッタが約3000年前に説かれた教えであり、50年の説法の中で、晩年8年の教え。それ以前の42年の教えは、生命の部分を説いた教えであり、方便とされる。真言、禅、般若、念仏等は部分観の教えであり方便教とされた。法華経は生命全体の悟りからの教えであり、実教とされ生命の真実が説かれた。法華経は28品にまとめられ、如来寿量品第16には、釈尊の永遠の生命が説かれ、一切衆生(人間も含む)の永遠の生命も説かれている。さらに生と死は生命の二つの表現法と説かれている。

注4  舎利弗   釈尊10大弟子の一人。智慧第一とされた当時の最高級の知識と智慧の持ち主。方便品の対告衆とされた。方便品は生命の真実相の理論、十世界や十如是などが説かれている。仏の悟りは知識では覚知できないと釈尊は舎利弗を諭し、「信」より入ることを強調された。

注5 業思想  業とは衆生(人間)が言葉、心、行動でつくるものの総体。その業の因果か次の行為につながり、死後は生前の行為の総体、業によって生命の形(人間、動物、植物、細菌などの身体形状)が決まるとされる。

注6  生は法であり、死は妙です。生死の二法が妙法であり生命の真実相。生は現象であり、法則に貫かれています。死は不可思議で空の状態で潜在しています。思議できない働きなので「妙」なのです。比喩的に言えば、電磁波は見えません(死)が、周波数を合わせれば形(生)になります。

 

幸福になる人は、どんな特徴をもっていますか? 19歳女性

2024.08.22

回答

私がこれまでの人生で接してきた人の中で、二人だけ幸福な素敵な人がいました。その人の持っていた特徴を並べてみます。

一つ、心が澄んで振る舞いが素敵で奇麗な人

二つ、自分のこと以上に、身近な人を大事にする友愛の心を持っている人

三つ、何があっても自分に負けない不動な心の強さをもっている人

四つ、自分は地球や自然や多くの人に支えられて生きていることを実感し、謙虚で感謝の心を持っている人

五つ、すべては変化しゆくものと自覚し、今にとらわれず、常に学びの心を持っている人

六つ、自分というものをわきまえ、身の丈にあった生き方をしている人

七つ、正しい思想を持ち、正しい言葉、行動をこころがけている人

八つ、自分を超えたものに畏敬の念を持ち、自らの驕りを戒めしめ、偉大なものを尊敬する心もっている人

九つ、よい友をもち、常に自分を向上させることに努めている人

幸福になる人は、以上のような特徴を持って生きていました。人の心をよく観察すればわかってきます。

一言で言えば、心根がよく、正しい思想と行動をもった人間性に溢れた人、このような人と一緒にいたいと思わせる人です。何度か接すれば大体わかりますが、このような人と出会うことは稀です。もし出会うことができれば、それ自体、幸福なことです。親しく交わり、その人に学べば、あなたも幸福になれます。

幸福は環境から与えられるものではなく、自分で創り上げていくものです。同じように、恋愛は相手が与えてくれますが、深い愛は双方の努力と向上心で創りあげていくものです。相互の深い愛も幸福の一条件です。

苦しみの人生を、楽しく生きる方法はありますか? 20代男性

2024.08.16

回答

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
江戸幕府を開いた徳川家康の言葉です。今川家の人質として青少年期を不自由に過ごし、長じては、気性の激しい信長に忍耐づくめで仕え、さらに秀吉の顔色を窺い、自分の思いを心に沈め、重荷を背負って生き続けました。天下を支配し統一した家康ですが、果たして彼は幸福だったのでしょうか?

生きるとは苦しみなのでしょうか。仏教に『四苦八苦…生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみを四苦という。さらに求めても得られない苦しみ、嫌いな人と会い接しなければならない苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、自分の性格・気性がもたらす苦しみを合わせて八苦」という言葉があります。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。

反面、人生とは、生きる意味を生涯をかけて探す道のりとも言えます。それは苦を楽に転換する生き方の探求でもあります。昔の聖者や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちです。

生きている今の瞬間の生命は絶えず変化し止まっていません。瞬間の一念には苦もなく楽もなく、過去も未来もありません。あるのは今の瞬間だけです。それは純粋な経験であり、苦楽を超えており、善悪で評価できないものです。それを苦と感じるのは五感覚で感じた意識です。過去の記憶化された潜在意識が意識を染色した結果なのです。本来の瞬間の一念は純粋経験であり、清く澄んでいます。

古来より生命錬磨の修行をされた先人たちは、人間の欲望こそが苦の原因だと究明しました。その三大欲…貪り(利へのあくなき執着)、癡・おろか(後先考えず、目先の欲に走る本能的な心)、瞋り・いかり(思い通りにならないことがらを攻撃し憎む心)を三毒としました。

毒は苦しみをもたらし、不幸にさせます。この三毒に加え、四つ目を慢としました。自分は優れていると慢ずる心、傲慢な心、現代的な言葉を借りれば「マウントする心」です。これも不幸の原因になります。これら四つを悪趣といい、悪への行為につながるものとし、自戒、抑制の道を求めたのです。

心を浄化させれば楽が得られると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、寒い中で水行したり、火の中に飛び込んだり、針の山のようなところを裸足で歩いたり、不眠の修業したり、異性を遠ざけたりして自らの欲望を断じようとしました。

全て苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす欲望を克服した後に真の楽があると信じた行為でした。ブッタ(釈尊=釈迦)もその修行を一時期されたと言われています。

人の意識や感覚や行動のコントロールは難しいことなのです。人間が生きている、換言すれば、欲望に従って生きていると言えます。その欲望が苦にもなり、楽にもなります。つまり、苦楽は一念の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生が彩られます。

聖者は苦即楽(苦はそのまま楽になる)、楽即苦と悟っりました。しかし、凡者は苦は苦と思い、苦を遠ざけようとして、楽ばかり追い求め、結果として苦しみの人生を生きています。ことわざに、楽あれば苦あり、苦あれば楽ありとあるります。人生の真実を穿った言葉だと思います。

楽を意識して強く一念を定て生きれば、一念は楽に染まります。そのように色付けするのは、今の意識であり一念なのです。意識を磨けば、どの瞬間も楽となり、楽しんでいけます。これが真の楽観主義です。ブッタ(生命を悟った人)の覚知でした。

そこには磨き抜かれた意識が求められます。一念が研ぎ澄まされ、清らかになれば、その純粋な一念に宇宙の慈悲の波が共鳴し、私たちの一念に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなります。我が一念が宇宙の慈悲の一念と重なり共鳴する時、歓喜の周波数に包まれます。それが最高の楽であり、聖者・賢人が求めた世界なのです。
そのためは、意識を純化させ、正しく感覚・感情を磨き、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。それが聖者たちの修業でした。

「生きている。ありがたい」と自分の心身の働きに素直に感謝できる心、地球や自然や太陽の恩恵に感謝できる心、一切の生き物、身近な人たちに心から感謝し恩恵に報いようとする澄んだ心に、喜びがわき起こってきます。それが宇宙の慈悲の周波数に人が心を合わせる一つの方法だからです。宇宙の働きは本来慈悲の周波数なのです。

しかし、人々は世の中の快適を誘うものに対して、過剰に反応し、とらわれ、心身を偏らせ、バランスを失い、少しずつ生命を濁らせ、ぎこちない周波数を出し、自然のその周波数と重なり苦海に入ります。

その人たちは、自然や社会の恩恵を当然、当たり前と思い、自らの驕りに気づいていません。結果として欲望に翻弄されている自分を見つめない浅い思想に生きることになります。思想は日々生きることを支えている無意識から自動的に起きる言葉であり、感情を伴っています。人生はどんな思想に生きるかで、幸福不幸も決まるとブッタは看破しました。

本当の幸福は澄んだ清らかな心田に種を下ろし、発芽し実ってゆくようなものです。真の幸福は清らかな澄んだ生命、欲や障壁に負けない強い心に宿ります。それを目指しているのが当室のマインドフルネス心身調和法であり、深い思想哲学に根差したものです。一緒に学んでみませんか。

 

人は、なぜ戦争(殺し合い)をするのでしょうか…小学校5年生女子

2024.08.15

回答

今日、8月15日は日本の終戦記念日です。一部の指導者に操られた当時の日本人は、どの戦場でも地獄を生き、国内で待つ人々も地獄の日々を送っていました。戦争は利を貪る人の心から起こり、弱肉強食の動物性で弱者を攻撃し、反撃されれば怒りに支配され、憎しみを募らせ、悪循環の地獄絵図に染まっていきます。

貪欲に利益を求め、弱者を攻撃し、思い通りにならないと怒る…そんな人間共通の欲望・感情が地上で殺し合いを続けさせます。

そこには理性も正義も道徳も人間性もありません。平和な社会では考えも及ばないことですが、戦争状態では、相手を殺すことが正義になります。人は環境によって変わる生きものである証拠です。戦争下で、人間性を貫くことがいかに難しいことなのかを物語っています。

以来79年の歳月が流れました。しかし世界の多くの地域で暴力による殺し合い、紛争、戦争が今なお繰り返えされています。「多くの利を得たい」という欲望から始まった泥沼地獄です。悲しいかな、この79年間、人間の心は全く進歩していないといえます。人間性はなぜ深められないのか?という問いが私の心にこだまします。

今日、妻に同行し癌センターに行きました。そこで目にしたのは、癌に苦しめられながらも、ひたすら生きようとしている人たちの姿でした。

生きる。いや生き抜く。意識しなくとも無意識的にそれが使命でもあるかのように苦しみを背負い一生懸命生き続けようとしていました。ウクライナやガザ地区の人々も、全く同じと思います。

生きる意味とは何なのでしょうか…。生きるとは苦しみなのでしょうか。人間は、やはり性悪説の通り、悪には勝てない生き物なのでしょうか。人類の歴史は暴力支配であり、より多く人を殺す者が勝者になり、国を治めてきました。それが人類のたどってきた歴史です。

今の日本は一見平和に見えますが、経済・お金という代替戦争をしています。殺し合いの戦争も経済の利潤追求もどちらも、「あくなき利」の追求であり、「利」への貪欲が引き金になった闘いなのです。

人はなんのために生きるのでしょうか…。利の追求、利を得れば幸福になれる、それが人生の目的なのでしょうか…。