人は意識するにせよ、意識しないにせよ、常に不安定の中で生きています。それが人の生の真実のありかたなのです。
当然ですが、不安を意識せず行動しているときは、不安を感じません。つまり意識しているか、意識していないかの感覚の違いにすぎません。寝ているときを考えみればわかります。不安は感じませんよね。不安を感じる意識が潜在しているからです。
この心のからくりが分かれば、不安をもちながら生きていけます。つまり不安を意識しないように生きればいいのです。感覚意識を不安を感じる対象から、意識を他に移せばよいのです。
しかし簡単に意識転換ができずに苦しむのが不安症傾向の人です。代表は、強迫観念、神経症症状(対人恐怖、社会不安、社交不安、パニック障害、乗り物恐怖など)です。これらは、意識を超えた潜在意識に記憶された恐怖などを契機に起こります。そして現実感覚・意識が潜在意識によって曇らせれてしまいます。
この潜在意識を浄化するには、心科学に通達した先達の手ほどきが必要になります。
回答
その気持ち、よくわかります。私は、そんな時、自然のよいところにでかけます。確かに人と接するのが一番疲れます。神経を遣い、気が張り緊張するからです。特に、自分だけの欲に生きている人と接すると、とても神経を遣い、嫌な気持ちになったりします。その時だけではなく、感情の余燼が残り、しばらく気が落ち着かなくなります。人間は感情の動物であり、考える葦(パスカルの言葉)でもあるからです。
山の中の、ぽつんとした一軒屋にでも住んだほうが、気が楽でいいのかもしれません。 また、思いやりに満ちた人々の住む世界があれば、そこで生活できでば長閑(のどか)な日々が送れるかもしれません。
しかし、この地上で生きるためには、人を避けるわけにはいきません。人と関わらずに生きていけないからです。嫌な人、自己中心的な人とも接しなければいけないからです。では、どうすればよいのでしょうか。
答えは、夏目漱石の「草枕」の冒頭に書かれています。果たして100年前も同じような人の世だったのでしょうか。
「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情にさおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安いところへひき越こしたくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、画ができる。
人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらする唯の人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからと、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりである。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛(くつろ)げて、つかの間の命を、束の間でも、住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」
つまり、人生を劇のように、詩のように音楽のように、画のように創りあげて生きる。芸術家のようにということてす。
聖者の言葉に「心は巧みなる絵師のごとし」とあります。つまり、心は、生命は自らが意図して描き創り上げる作品であり、作者は一人ひとりの私たちということになります。
人間関係も、かけがえのない一人一人の代替不可能な芸術作品なのです。それには巧みな智慧と力と明知が必要です。
文責 松岡敏勝
回答
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
江戸幕府を開いた徳川家康の言葉です。今川家の人質として青少年期を過ごし、長じては、気性の激しい信長に仕え、さらに秀吉の顔色を窺い、自分の思いを心に沈め、まさに重荷を背負って生き続け、関ヶ原の合戦で豊臣方の石田三成を破り、天下の足掛かりを作りました。その後も、豊臣秀頼の始末に苦悩の日々を過ごしました。天下人と言えども、苦しみの連続の人生だったようです。彼に幸せなひと時はあったのでしょうか。
果たして人生とは苦なのでしょうか。生きるとは苦しみの連続なのでしょうか。楽しさは少ないのでしょうか。仏教にも『四苦八苦」と言う言葉があり。お坊さんは、葬儀でよく苦の話をされます。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。
もちろん意味はあります。人生とは、生きる意味を生涯をかけて探す道のりとも言えます。昔の聖者や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちだと思います。
生きている今の瞬間の生命は連続し止まっていません。瞬間の一念には苦もなく楽もないのです。純粋な経験であり、苦楽を超えており、色付けできないものです。それを苦と感じるのは五感で感じた意識です。過去の記憶化された潜在意識の染色の結果なのです。本来の瞬間の一念は純粋経験であり、無色透明です。
古来より生命錬磨の修行をされた先人たちは、人間の欲望こそが苦の原因だと究明し、心を浄化させれば楽が得られると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、寒い中で水行したり、火の中に飛び込んだり、針の山のようなところを裸足で歩いたり、不眠の修業したり、異性を遠ざけたりして自らの欲望を断じようとしました。全て苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす欲望を克服した後に真の楽があると信じた行為でした。ブッタもその修行を一時期されたと言われています。
人の意識や感覚や行動のコントロールは難しいことなのです。人間が生きている、換言すれば、欲望に従って生きていると言えます。その欲望が苦にもなり、楽にもなるのです。つまり、苦楽は一念の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生が彩られます。
聖者は苦即楽、楽即苦と悟っりました。しかし、凡者は苦は苦と思い、苦を遠ざけようとして、楽ばかり追い求め、結果として苦しみの人生を生きています。ことわざに、楽あれば苦あり、苦あれば楽ありとあるります。至言であり人生の真実を穿った言葉だと思います。
楽を意識して強く一念を定て生きれば、一念は楽に染まります。そのように色付けするのは、今の意識であり一念なのです。意識を磨けば、どの瞬間も楽となり、楽しんでいけます。これが真の楽観主義です。
そこには磨き抜かれた意識が求められます。一念が研ぎ澄まされ、清らかになれば、その純粋な一念に宇宙の慈悲の波長が共鳴し、私たちの一念に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなるのです。我が一念が宇宙の慈悲の一念と一体となり歓喜に包まれるのです。それが最高の楽であり、聖者・賢人が求めた世界なのです。
そのためは、意識を純化させ、正しく感覚(感情)を磨き、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。それが聖者たちの修業だったようです。
具体的には、朝起きた時、「今日も生きている。ありがたい」と自分の心身の働きに素直に感謝できる心、地球や自然や太陽の恩恵に感謝できる心、一切の生き物、身近な人たちに心から感謝し恩恵に報いようとする純な心に、喜びがふつふつとわき起こってきます。それが宇宙の慈悲の波長に人が心を合わせる一つの方法だからです。
しかし世の中の欲に染まりきった人の心は、すべてを当然、当たり前と思い、自らの傲慢さに一念は濁り、それを感じることができません。だから欲望に踊らされ、浅い思想に生きることになり、純粋な心になれないのです。結果、深い楽しみも喜びもを味わえない苦の人生の軌道に入っていくことになります。
つまり苦も楽も自分で選んだ人生の道なのです。人生を歩んでいるのは、自分だからです。どの道を行くのか、分からなければ人生の先人に学ぶとよいでしょう。
質問
最近、親しくしていた親友に裏切られました。彼氏をめぐってのことです。出し抜かれた感じです。全くそんなそぶりを見せなかった人でしたから、正直驚くとともに、人の心が分からなくなり、人間不信になっています。思えば、中学校の時も、友達と思っていた人に外され、逆にその人に攻撃されたことがあります。そのときもその人の心の変化に傷つきました。人の心がわかりません。どうすれば、人の心が分かるようになるのでしょうか。それとも、人は自分の都合で平気で人を裏切る存在なのでしょうか。人が恐ろしくなりました。何かアドバイスをいただければ嬉しいです。
回答
人の心を知る、とても難しいことです。他人の心、自分の心がわからないから人は苦しむことになります。波風なく、平穏に生きている間は、そんなことは考えたり、思ったりりしませんが、何かあったときに、人は、人間の心について考えるようになります。
有史以来、あらゆる思想家、哲学者、宗教家、学者がこのことを探究してきました。しかし、物質科学のように解明されてはいません。なぜかといえば、心がどこにあるかわからないからです。苦しいとか、楽しいとか、嬉しい、悲しいなどの働きは感じられるのですが、その全体像はわかっていません。わかっているのは、ごく一部です。
心自体が見えない働きをもったものであり、つかみどころがないからです。現代科学の力では及ばない世界だからです。見えない心の世界は想像することによって接近できます。あくまで接近です。また、人の感情表現、パフォーマンスから心を読み取る努力をすることによって、やはり人の心に接近できるでしょう。
心は不可思議であり、科学で解明できず、見えない、わからない世界であるがゆえに、部分や一部からものをいう人たちが人々を惑わし、苦しみを倍増させたりします。心を対象にしたもの…その筆頭は宗教であり、占いなどです。次は、精神科領域(精神科や心理学)や心理カウンセラーの世界です。全ては部分の解明であり、心全体がわかってやっているわけではないのです。人間の不幸の一つは、部分を全体とみてしまう、認知バイアスであり、潜在意識の偏り、歪みにあります。
絶えず心の浄化作用をしていないと浅い部分観の思想にマインドコントロールされ不幸の坂を転げ落ち、生き地獄にはまってしまいます。現在テレビなどで報道され社会問題になっている宗教などもその一例と言ってよいでしょう。
人の心を知る方法を、ここでは二つ提案します。一つは、日常生活の現実的な人との関わりの中で人の心の本質に接近するやり方です。相手の言葉を深くかみ砕くことです。言葉自体は記号に過ぎません。記号と意味をもったものです。しかし、大事なことは、言葉にはその人の心が表れています。ですから表面的な記号的側面の言葉から、その人の心を読む訓練をしていくことです。そうすれば心が少しずつ読めるようになります。と同時に、言葉以外の振る舞い、パフォーマンスをよく観察し、そこに込められた心を読む努力をすることです。私も、これらのことを日々努力して心を磨いています。
もう一つ人間理解、人の心理解に役に立つのが古今の名作文学に触れることです。名作には人間の本質、人間の心が描かれています。私も若き日より名作に親しんできました。印象に残ってている作品がいくつかあります。夏目漱石の作品は、ほぼ全部読みました。彼の作品の中で心深く刻まれたのは、「こころ」という作品です。三島由紀夫も一時はって、ほぼ全作読了です。『金閣寺」が心に残っています。倉田百三は私の卒業論文の主題だったので、もちろん全作品を読破しました。「出家とその弟子」が印象に残っています。太宰治は中学校の教科書にのっていたこともあって興味を持ちました。「人間失格」「走れメロス」が人間の本質を描いた深い作品だと思っています。
その他の愛読書では、吉川英治の歴史小説で100冊以上は読みました。中でも、「三国志」「太閤記」「宮本武蔵」からは人間模様、人の欲望、美しい生き方、醜い生き方、私欲と奉仕の心など、人の心のありかたを多く学び考えさせられました。欧米文学にも親しみました。ヘミングウェイの「老人と海」や「誰がために鐘は鳴る」やヘルマンヘッセ「車輪の下」などの作品が心に残っています。
伝記は人間に生きる希望や努力の大切さを教えてくれます。ヘレンケラーや千円札の野口英世は今も私の生き方のモデルになっています。日本の臨床心理学者「河合氏」は昔話の大切を語っています。昔話や中国の故事には人間の心が描かれているからです。
文学や伝記や昔話には人間模様や人間の心の本質が多く描かれていますので、人間理解が大いに進むと思います。20歳、これからいろいろ学び、人格を高めていかれてください。人格の向上こそ幸福の門だからです。
文責 松岡俊子
自然の恵みを感性豊かに識(し)る生きものこそ、賢き生き物であり、人という教えがあります。
恩を知るのが人であり、恩を知らないものは動物以下であるとも言っています。確かに動物も恩を知り、親から受けた恩に報いています。
中国の歴史、三国時代を描いた「三国志」は多くの人に愛読された文学作品になっています。漫画やアニメ、テレビでも放映され、有名な登場人物、諸葛公明、玄徳、関羽、曹操、呂布などはゲームにも登場しています。私も若き日に、吉川栄治の『三国志」(8巻)を読み、多くを学びました。以来その文学に魅了され、今日まで、4回以上読んでいます。
文学ですから、史実が脚色され、美化されている面はありますが、三国志には様々な人間模様や人間の生きざま、人間の欲望や理想や正義や人倫や思想が描かれていて、人間を知る上での教科書的読み物になっています。自らの名誉や名声や強欲や利欲に走り、恩を忘れ、滅びていく人が多く描かれています。
なぜ、欲に負けてしまうのかも描写されています。逆に人間の道の正しい生き方、義と恩を知り、命をかけて恩に報いる義の人生も描かれています。特に玄徳・関羽・張飛が青年時代に誓った「桃園の誓い」を生涯貫いた「義」の人生、諸葛公明や関羽の恩愛と報恩の生き方は、人間の最も崇高さの表れであり、人間の美しさでもあります。その心が三国史の中でも最も美しい一幕であり涙なくして読めないロマンあふれる感動的場面になっています。人間の心の善悪、美醜が描かれた名作と言えるでしょう。
私たち人は、地球の恩恵、大自然の恩恵、太陽の恩恵に対してどのくらい恩を感じているのでしょうか?恩を感じないほど、心が欲望で濁っているのでしょうか。それとも意識が汚れているのでしょうか。世間の汚濁に染まった人間の心が、戦争を起こし、犯罪を起こし、人を傷つけ、自分だけ栄えようとし、大恩ある地球すら破壊しようとしています。傲慢(ごうまん)、癡(おろか)、限度を超えたあくなき欲のなせることでしょうか。
完全に人間の心が欲望にマインドコントロールされた状態になっているようです。マインドコントロールは何も宗教だけの専売特許ではありません。人間が自らの欲や恐怖や安楽や偏った思想に支配され自ら正しい意識、正しい思想を失った状態を指しているのです。
恩を知る磨かれた感性、そして恩に報いて生きる清らか心、そこに地球や太陽や自然を貫く慈悲と創造的な無限の生命の働きが共鳴し波長が合い、心は躍動し喜びを覚えるのです。フランスの哲学者ベルグソンの「生命の躍動・生の創造」の別表現でもあると思います。これが心の宝なのです。
その人こそ人らしい人といえるのではないでしょうか。 文責 松岡敏勝
私たち人は、この地球に生を受けて、地球や太陽や自然の恵みに守られて生きています。母から産まれ、いろいろな人に守られ育ってきました。多くの人たちの恵み、社会の恵み、あらゆる生物の恵み、そして自然の恵みを享受して生きています。
地球の恩恵は無限であり、無償の愛を注いでくれています。愛とは人知れず尽くすことであり、見返りを求めない行為であり、陰で支え、守る働きなのです。赤子に対する母の慈愛に近いものがあります。
地球は人知れず黙々と動き働いています。彼は地上の生物に見返りを求めることを決してしません。酸素代、水代、電気代、場所代を請求することもありません。無償です。それでいて、いつも最高のものを与えてくれています。地球はだれのものでもありません。地球自らのものです。地球は優しく、慈愛の体現者ですから、すべての生あるものを育み、受け入れています。その深く広い愛に気づかず、甘えてしまい、恩に報いるどころか、愚かな権力者や強欲者や利己主義者は自分のものでもない地球を私物化し、人を支配したりコントロールしたり、金儲けの手段や道具にしています。
とてもく悲しいことです。地球も泣いています。あるとき、地球は痛みに耐えかね、自然災害の形で、自己を表現しています。
地球は私たちを含めた無数の生物を乗せて一日で一回転し、1年で太陽の周りを正確に一周し、私たちの生命を守り育んでくれています。寸分の狂いもなく、休むこともなく、まるで自らの使命を忠実に果たすかのようです。もし地球が休み止まってしまったなら、大地震の比ではありません、私たちを含め、生物は、たちまち死滅してゆきます。その微妙な調和を保ちながら、宇宙空間に漂い、今生きていることの不思議さに厳粛さを感じるのは私一人ではないでしょう。
月や近くの惑星である金星や火星に、酸素や水があるでしょうか。太陽系では、地球だけが酸素が豊富にあり、水に恵まれているのです。この地球の愛、太陽の愛、自然の恵みや恩を私たち人間は、どれほど感じているのでしょうか。
文責 松岡敏勝
回答
依存症からの自立は、いずれも難問です。それは過去の習慣全体を背負っているからです。心身の全体と部分の関係を知らなけなりません。依存対象のみを問題にしても回復は困難です。アルコールやタバコや麻薬などの物質依存は、心と体からの強い慢性的欲求に曝され、辞めるにはかなりの苦労があります。ギャンブルや盗撮などのプロセスの快楽や強い刺激を伴うものも、やはり無意識層に蓄えられた記憶の発動から起き、体全身を揺さぶる感覚がありますので、それに抗することが難しく、辞めることがやり困難なものです。食べ物依存、買い物依存、人間関係依存(DV、虐待など)など、依存症はいずれも厄介ですが、本質を悟れば、治すことはできます。
もちろん治すのは、本人のあなたです。専門家は一支援者にすぎません。支援者や周囲の人に依存する弱い自分の心を知り、それと直面し、その心を変えなければ治せません。これはあらゆる病に対していえることです。特に心の病の作者はあなた本人なのですから、今の状況は、あなたの作品なのです。作品を変えるのは、作者のあなた次第なのです。
改善の本質について助言します。まず人間の意識と無意識の関係、心と体の関係を深く洞察しなければなりません。意識を変えるには、それを支えている無意識層に働きかけなければなりません。人間心理や身体に関する確かな洞察とそれに基づいた実践が必要になります。
最も単純な本質を穿った方法について助言します。強い行為への誘惑が起きるたびに、常に耐え続け、その行為をしなければ治せます。それには、闇を晴らすような明知と深い言葉と未来の楽しさをイメージする力をを伴った澄んだ意識が必要になります。換言するなら磨かれた六感覚識(目・耳・舌・鼻・身体と意識の六つ)をもった、誘惑転換の対処の智慧です。
私は、その方法でタバコ依存とギャンブル依存(パチンコ・競馬)を治しました。たばこは止めて30年になります。ギャンブルは止めて20年が経過しました。今はとぢちらも、全くやりたいと思わなくなっています。まず人生の時間がもったいないと悟りました。さらにお金ももったいないと骨身に染みてわかるようになりました、そしてどちらも価値的に使う方法を身につけました。止めることで、心の貧しさから解放され、心が豊かになっています。あなたも止められます。解決への意志がおありであれば、同道致します。シランの室を訪れてみてください。
あなたは賢明で、聡明で謙虚な人のようなので、少し難しい内容になるかもしれませんが、深い話をさせていただきます。
人は自らを知らないところから苦しみを作っています。自らを正しく知り、本来の自分の力に目覚めれば、心の苦悩は霧が晴れたように明らかになり、心は清らかになり健康になっていきます。
長い歴史の中、人間は心や生命や自然や物理などの解明を追究してきました。特に物質科学についての解明は、進み、現代科学の恩恵のもと、身体医学は急速な発展を遂げ、多くの身体疾患の原因も究明され、今日まで不治の病とされた感染症(結核など)も治療できるようになりました。しかし身体医学分野においても難病は増加し、原因不明の病気は増えていると言われています。
2000年以上前にギリシャ哲学者であり人類の教師とも言われているソクラテスは「汝自身を知れ」と叫び、「無知の知」を説きました。人間は、何もわかっていないのにあたかも知っているかのように傲慢に生きている。自分が生きていることの不可思議さ、自分の肉体、心、意識、なぜ、意識がおよばないのに生命活動をしているのか、自分の心身を動かしているのはなんなのか?
この命、この生命現象やその働きは一体どこからくるのかなど、知らないことばかりだというのです。
以来2000年の時が流れましたが、人間の心は、ほとんど解明されていないままです。脳と意識の関係、脳が先なのか、意識が先なのか?なぜ夢をみるのか、なぜ意識できない世界、無意識はあるのか…など。
心の世界は多くは未だに闇の中といってよいでしょう。もちろん心の病の原因も分かっていません。わかっているのは、症状に関する脳の部位とその関連性であり、心は把握できていません。
心の神秘さ、生命の神秘さゆえに宗教が人を惑わし、無知の人をマインドコントロールできるのです。生命や心の真実がわからないからできることなのです。
では、心を知るにはどうすればよいのか。過去の深遠な心の哲学者(日本では西田幾多郎の「善の研究」という名著があります)、ベルグソンなどの西洋の著名な哲学、また心を深く掘り下げたブッダの生命思想・竜樹菩薩や世親菩薩の心哲学としての唯識思想、中国の天台大師の内観の生命哲学、日本の最澄や日蓮の円融円満な生命思想など。わかりやすいものでは、宮沢賢治の思想などを研究すれば、真実に接近できると思います。私も真実の知や智慧の獲得もできていない一求道者にすぎません。
正しい知の獲得は、生命を賭けた壮絶な闘いであると夏目漱石は、「私の個人主義」という書で展開しています。心科学や生命の真実智は、一生をかけた闘いでもあるようです。その到達は真の生きがい、自己実現・自己完成そして真の喜びの獲得を伴うものと言われています。精進であり、絶えざる学びが求められる人間修業でもあります。
道半ばの一求道者ですが、先輩として修得したものを助言することはできます。関心があれは訪ねて来られるとよいでしょう。
回答
人の目が気になることは誰にでも起こることですが、普通は、それが一過性のものとして時間が立てば忘れてしまうものですが、あなたの場合は、既に囚われつつあるようです。
ひと目が気になり、自分の行動がままならなく、つまり行動が不自由になってしまうと、苦しくなってしまいます。今のあなたは、そうなりつつあるようですね。考えられる理由はいくつかあります。
まず一つは、環境の変化…高校生になり、学校も級友も変わり、今現在友達もいない。つまり今のあなたは、環境にうまくなじめず、とても不安定な状態にあります。孤立し、学級に安心した居場所がないようです。
二つ目は、青年期に起こりがちな他者を過剰に意識してしまう時期的なものです。この時期の人にありがちなことですが、それにとらわれてしまうと、人目に囚われ、行動が不自由になってしまいます。昼食を食べる時も、人から見られているようで、意識は人目に向いてしまい、本来の食べると言う行動に支障を来しています。
三つ目は、あなたは内向的になり、受動的になり、自己内省的になっていることです。積極的に人に関わるより、人からの関わりを待つような受動的姿勢になっています。人は受け身に回ると弱くなり本来の力が出せなくなってしまいます。
ではどうすればよいか…内向から外向、受け身から積極的・自発的に動けばよいのです。見られている自分から、人を見る自分に変っていくことです。人は、あなたが思っているほど、あなたのことを見ていないし、気にもしていません。逆の立場になってみたらよくわかることです。
勇気を出して、積極的に人と関わっていくことです、そのうち、あなたにふさわしい友達が見つかるでしょう。すべては、あなたの勇気ある行動で決まります。
今は、謙虚に人から学び、学校の勉強から学び、世の中から学び、あらゆるものから積極的に学び、自らを向上させ、あなたが立派な人間性のある人物になることです。あなたが人間的に向上していけば、あなたの周りに、あなたにふさわしい友達が出てくるものです。つまり、あなた本人と環境である友達は、本体と影のような関係であり、一体なのです。
自発的、積極的学びと向上心があれば、いつの間にか、人の目を気にすることさえ忘れているでしょう
質問
中学辺りから人間の醜さについて考え始め、
高校辺りではこの世が平和になる為には人間は絶滅するべきと絶対的に思うようになりました。
他の生物や自然をさぞ自分だけのもののように扱い、
他の生き物なんて平気で殺したり、実験台に使ったり、
はたまた育てられもしないくせに一時の寂しさを埋める為に
動物を引き取るけど育てられないから虐待したり捨てたり。
こんなに愚かで傲慢で強欲なのに、人間って素晴らしい!など何故思えるんですか?
自分の悪意や愚行に目を背けたり、被害者に謝罪もしないで自分の中で勝手に完結させ、
平気な顔してのうのうと生きてる恥ずかしくて汚い存在のくせに。
私はもう耐えられません。
人間でいる事も、人間社会で生きなきゃいけない事も耐えられません。
毎日トラウマのフラッシュバックが起こり死にたいし、
もう最近では報道されるぐらいの自殺をするか、
こういうクズ共をたくさん惨殺してから自殺して逃げるか。
ギリギリで踏みとどまってます。
回答
青年時代、私も社会や人間の醜悪さに絶望し、アルマゲドンの到来を願ったことがあります。
死は易く生きるのは難しです。死は苦しみからの逃避であり安易な選択です。なぜなら自分の生命も、死後もわからないまま、死の世界に行くことは、途方もなく危険なかけです。もし死の世界が今の苦の続きとすれば、どうしますか…。
あなたは心がきれいで純粋です。それゆえに自分のことしか考えない人に嫌悪感を抱くのでしょう…。心の汚れは何が原因で起きるのでしょうか。仏教哲学の祖ブッタは心の汚れは人間の煩悩・欲望にあると明らかにしました。しかし煩悩・執着は人間が生きている証であり、人は煩悩をなくすことはできません。
煩悩が自分のことだけに使われてしまうと、心は汚れていきます。地位、名声、お金、才能、異性、食べ物などに対する執着、それらを手に入れたいと追い求め、それらを得ることで幸せになれる、楽しい人生になると思っているからです。その結果、欲望達成のため、自己中心的な生き方になり、いつしか心が汚れていくのです。その心の汚れが、正常な思考や理性を曇らせ、ますます目先の快楽や心地よさに自分を忘れさせていきます。結果、心の汚れは深まり、本来の清らかな心は失われます。悲しいかないつの時代も人間は愚行や野蛮を繰り返してきました。
求めたものが得られないと、人は苦しさや怒りを感じ、それらを得ようと、後先考えずに他者を犠牲にしたり、傷つけたり、裏切ったりさえします。対象へのとらわれが心を濁らせ、汚していきます。
物事のとらえ方、見方、考え方という認知の深層に、これらの煩悩が渦巻いているので、認知では、これらの心の濁りや汚れを浄化することはできません。大学者、知識人、宗教家、医者とか関係ないのです。自分を飾る外面は力なりません。
精神医療の薬で煩悩の浄化はできません。薬は依存心という新たな煩悩を産み出し増加させ、悪化させることはあっても、好転は望めません。執着が依存を強め、正しい物事の見方や道理を曇らせるからです。依存すると人は、盲目になり物事が見えなくなってしまいます。
煩悩に効く薬は、生命の真実に迫った智慧であり、実践から生み出されるものです。正しい生き方から得られる実智です。
かつて仏教修行者が断食したり、肉食を禁じたり、女色や酒を遠ざけたり、世俗を離れ、社会的名声から離れたり、真冬に滝に打たれたりなど数多く欲への執着を断つ修行、心の清めの修行をしました。これらは悪しき煩悩を断ずる生き方であり、結果は煩悩を滅してしまい、生きる根本の欲望も低下させてしまいました。煩悩を健全な方向で活かすというブッタの教えではなかったのです。
欲への執着がなければ、人間の進歩も成長もありません。欲望は善にもなれば、悪にもなります。つまり、欲望をどのように使うのかが問題なのです。自らの欲望を明らかに見ていくことが肝心なのです。場合によっては、執着する対象から離れることも必要になります。
また自分の利益のためだけに欲望を使うと心は汚れていきます。太宰治の「走れ メロス」の主題は、このことを描いていると私は思っています。登場人物の王様は、私利私欲に執着する臣下を次々と殺していきます。きれいごと言う仮面の裏にある醜い人間のエゴが王様には見えていたからです。だからこそ、その醜悪さに我慢できなかったのです。王様は純粋なきれいな心をもっていました。それは研ぎ澄まされた太宰治の心眼でもあったのです。やがて王様は、友人のために自らの命さえ引き換えにするメロスの純粋なきれいな心に感動し心を開いていきます。そして、「私も友の仲間入りをさせてくれないか」とお願いします。
欲望を自分も利し、人も利していく方向で使っていく。つまり欲望を人に貢献するために使うと心は清められていくことを教えてくれています。執着対象の転換です。
こうした生き方が今の人間社会に欠けているといってよいでしょう。人間が自己中心的な欲望で濁り、社会にエゴが充満し汚れきっているのです。その結果、人々は迷いの苦海に漂っています。しかも、そのことに気付いていません。
また人間や社会の煩悩の濁りが、自然の種々の災害を呼び起こしているといってもよいでしょう。なぜなら、人間と環境は一体であり、身土不二だからです。
人間が本当の意味での共生、自分を利するとともに、人や自然も利していくという生き方。それはすべての生命あるものの本来の姿であり、人間の心の浄化をもたらします。そして心は解放され、自由になっていくのです。
地道で遠回りですが、私はそんな生き方を目指しています。ガンジーは言われました。「善きことはカタツムリの速度で進む」と。死ぬ前に、あなたもこのような生き方を試してみてはどうでしょうか。