なぜ、ありのままの自分を生きることができないのでしょうか。
それは他人の存在を意識しすぎるからです。仮に無人島に一人で生きるとすれば、あなたは何も意識せず、ただひたすら生きることに一生懸命になるでしょう。しかし現実の社会では一人では生きていくことができません。お互いに守り合わなければ、自分の命を保つことすらできないからです。
これは動物種としての本能です。一人であれば餌を取ることも食べることも生き続けることにも限界があります。やはり他人との協働が必要になります。他者の中で生きるとき、どうしても人目を意識し始めます。それは自然なことです。さらに集団の中での自分の評価が気になります。それも持って生まれた人の性分でしかたのないことです。やがてそこには、人の比較や優劣が生まれることになります。
集団の中で生きていると、自分をありのままに表現することが難しくなります。集団にはルールが生まれ、やがて、それが常識になっていきます。人々は時代と集団の中で作られたきまり(価値観)に知らず知らずのうちに、影響されていきます。そこでの常識という物差しで人が評価され、価値づけが行われます。
人々は価値基準というものさしで個々の人間を比べ評価していきます。ものさしは人を測る基準となり、優劣をつけていきます。比べる対象と物差しは無数に存在します。成績、学歴、会社、給料、役職、容色容姿、財産財物、地位、名誉、健康、身体、性格、各種の能力など…
人よりも強い、弱い。金持ち貧乏、顔がいい、顔がよくない。背が高い、背が低いなど。これらは全部、比較から生まれています。ある基準で価値が位置づけられ違いが生まれます。これら現実社会の比較優劣の実態です。しかし、これらは変化するので安定しません。
こうした社会の中では、人は安定できず、不安の中で生きることになります。基準の物差しが、時の流れと場で変わっていくからです。例えば戦争になると、人を多く殺す人が英雄となり、価値のある人になります。逆に平和な国では、一人、殺せば、極悪犯罪人となり、人としての価値も認められなくなります。社会の評価や価値に生きる間、本来の自分を生きることも困難になっていきます。
比較・優劣社会では、人々の目は外に向き、いつしか物差しという基準ではかられた価値に振り回され、安定できません。たえず心は揺れ動き落ち着かなくなります。
こうした比較相対の優劣を基準とした社会に振り回されないためには、自分の目を内側に向け、優劣を超えた価値を探し、それに生きることが大事です。その価値こそ、私たち本来の自分がもつ無上の心の価値なのです。
自分内比較、自己評価を根本にして生きることです。例えば、今日の自分と昨日の自分、一週間前の自分と今の自分を比較するなどの生き方です。何を比較するのか、目的をもって、努力したかどうかを比較します。結果よりも過程(プロセス、たどった道のり)を重視します。結果も比較相対の一部ですが、努力したかどうか、成長できたかどうかを問題にします。それは、比較相対を超えた絶対的な心の安定力になり、自己信頼領域が広がってゆきます。その積み重ねが、自信となり、自己の肯定意識を高もてゆきます。それに比例するかのように心の自由度も拡大します。
芝蘭の便り56