相談室(ブログ)

生きるって何なのですか? 生きることが苦しいのですが、それでも生きなくてはいけないのですか…(20歳、女性)

2025.07.03

回答 

私が人生で学び体験し感じたことを話します。結論を言えば、生きることはとても厳しく大変なことです。

楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦との闘いとも言えます。苦を乗り越えた先に楽があります。しかし、それもつかの間、また苦が訪れます。その生命の法則は細胞でできている人間の身体の働きに譬えられます。私たちの身体を作っているのは約40数兆個の細胞です。その細胞の一つ一つは、血液が運搬してくれる酸素・栄養を取り込み、自ら呼吸し、環境の刺激(菌やウィルス)と闘い、変化に適応し、成長するために生き抜き、老廃物を輩出し、病んだり老いたりして死滅してゆきます。私たちの身体はそれを繰り返していますが、私たちは、それを意識できません。組織の細胞が傷んだり、傷ついたりしたとき、痛みや苦として感じることがある程度です。実は心も同じなのです。

生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。子どものときは親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。よいとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命をどう生きていくかが大事になります。

ここで一人の人間、釈迦の例をあげてみます。釈迦は王子として生れ、王宮の中で何不自由のない生活をしていましたが、19歳の頃、心に湧きおこる虚しさに苦しんでいました。「私は何のために生きるのか」「私の心はなぜ、こんなにも空しいのか」と生存の意味を問う苦しみに悶々としていました。そして、王宮の外を散歩した時、実人生の苦悩の世界で苦しむ多くの人間を目の当たりにします。食べるものもなく飢えで苦しんだり、争い怒りで苦しむ人、病気で苦しむ人、老いてゆく体に苦しむ人、そして今にも死にそうな苦悩な人を見るのです。それが有名な「生老病死」という人間の免れなられない四苦を釈迦が悟った瞬間です。釈迦は、その解決のため、王宮での恵まれた生活を捨てて、人生の真理・意味を求めて、苦悩充満する娑婆世界(娑婆とは堪忍の意味、実社会は思いどおりにいかない世界という意味)に生命探求の旅に出ます。あなたも、自分の人生の意味、そして生命探求の旅をしてみてはどうでしょうか。

人間の生きる意味…人間として存在する意味はあるのか   

私は6歳で母と死別し、残された幼い兄弟は7人。頼みの父は寂しさからか酒浸りになり、子どもたちを放任放置し家に帰らず、私たちは食べものを求め、山野、畑、市場をさまよい、「乞食の子」と呼ばれたり、「汚い、近寄るな」などと言われたりし、地域の厄介者になっていました。

やがて兄弟の上から四人(全員男子でほぼ年子、私は三番目)は児童施養護設に収容されました。そこの生活は今と違って、いじめ、虐待が蔓延(はびこ)る弱肉強食の世界で、養護してくれる環境とはほど遠いものでした。施設生活に自由はなく、遊びも勉強も制限され、食べ物は粗食で朝はすいとん、自作自農の野菜が中心、魚・肉・卵は見たことがありませんでした。日曜日は奉仕作業との美辞麗句のもと、中身はみんなが嫌がる過酷な作業(農作業、肥汲み、開墾、清掃など)をさせられました。夏休みは奉仕作業の連続で最悪でした。私は、このとき子どもながら、「この生活が毎日続くのか、これが地獄というものか、早く家に帰りたい」と心で泣いていました。卒園後、ほぼ全員中卒で、男子は暴力団に、女子は夜の仕事に就職する者が多く見られました。

普通の親の元に生れていれば…。早く大人になりたい、大人になったら温かな家庭を築きたい、みんなを見返してやりたい、それが私の人生の目標となり、それに向かって前半生を生きてきたような気がします。いつしか私は、人一倍、愛情や正義に敏感になり、運命や宿命などについて考える青年になっていました。

苦悩の人生は人の心を耕し深くしてくれ、苦しみは心を浄化させてくれる薬だと思えるようになりました。苦悩の中で自分の心を見つめ、多少とも人生を見つめることができたからです。20歳のころから哲学書、仏教、キリスト教、天文学、物理学、深層心理学などを紐解き学びました。人間の心の不可解さ、万物の心の神秘さに惹かれ探究し続けた人生ともいえます。

人生とは苦なのでしょうか。生きるとは苦しみの連続なのでしょうか。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。人間として存在する意義はどこにあるのでしょうか。人生とは、一面からすれば、生きる意味、存在の意義を、生涯をかけて探す道のりと思っています。昔の聖者や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちだと思います。

 生きている今の瞬間の生命は常に変化し、同じところにとどまっていません。瞬間の生命には苦もなく楽もないとはブッタの悟りです。純粋な経験であり、色付けできないものです。それを苦と感じるのは五感で感じ、それを鮮明にし思考と言葉にした意識活動です。過去の記憶化された潜在意識の染色の結果なのです。本来の瞬間は純粋経験です。 

 古来より生命錬磨の修行をされた先人たちは、生きる意味を模索し、幸福な生き方を探究しまた。そして人間の欲望(正しくは煩悩)こそが苦の原因だと究明し、心を浄化させれば、幸福になれると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、不眠の修行をしたり、異性を遠ざけたりなどして苦の原因を断じようとしました。

すべて苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす煩悩を克服した後に真の楽があると信じた修行でした。ブッタもその修行を一時期されましたが、苦行に徹しても幸福は得られないと悟り、独自の道を歩まれたと言われています。人間が生きていることは、煩悩に従って生きていることと言えます。その煩悩が苦にもなり、楽にもなります。つまり、苦楽は心の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生の存在の色が変わります。楽を意識して強く心を定めて生きれば、心は楽に染まっていきます。そのように色付けするのは、今の意識です。意識を磨けば、どの瞬間も楽となり、楽しんでいけます。これが真の楽観主義であり、自己絶対肯定でありブッタの悟りと言われています。 

 心を研ぎ澄まし(真の瞑想)、清らかになれば、その純粋な心に宇宙の慈悲・愛の周波数が重なり、私たちの心に慈悲・愛が脈打ち、生きていることが楽しくなります。我が心が宇宙の慈悲・愛の心と一体になり、喜びに包まれるのです。それが最高の楽であり、聖人・賢人が求めた世界とされています。そのためは、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。ブッタは「八正道」(注)を弟子たちに勧めたと言われています。

 朝起きた時、生きている。ありがたいと自分の身体の働きに感謝できる心、自分の存在を支えてくれている自然や地球や太陽の恩恵に感謝できる心、一切の生き物、身近な人たちに心から感謝し報いようとする純な心に、喜びが起こってくるようになります。心が浄化されていくからです、それが宇宙の慈悲・愛の周波数に、人が心を合わせる一つの方法だからです。 苦楽は硬貨の表と裏の関係に似ています。どちらを選ぶかです。どの道を行くのか、迷ったときは、人生の先人賢人の生き方を紐解けば参考になると思います。

芝蘭の便り