自然の恵みを感性豊かに識(し)る生きものこそ、賢き生き物であり、人という教えがあります。
恩を知るのが人であり、恩を知らないものは動物以下であるとも言っています。確かに動物も恩を知り、親から受けた恩に報いています。
中国の歴史、三国時代を描いた「三国志」は多くの人に愛読された文学作品になっています。漫画やアニメ、テレビでも放映され、有名な登場人物、諸葛公明、玄徳、関羽、曹操、呂布などはゲームにも登場しています。私も若き日に、吉川栄治の『三国志」(8巻)を読み、多くを学びました。以来その文学に魅了され、今日まで、4回以上読んでいます。
文学ですから、史実が脚色され、美化されている面はありますが、三国志には様々な人間模様や人間の生きざま、人間の欲望や理想や正義や人倫や思想が描かれていて、人間を知る上での教科書的読み物になっています。自らの名誉や名声や強欲や利欲に走り、恩を忘れ、滅びていく人が多く描かれています。
なぜ、欲に負けてしまうのかも描写されています。逆に人間の道の正しい生き方、義と恩を知り、命をかけて恩に報いる義の人生も描かれています。特に玄徳・関羽・張飛が青年時代に誓った「桃園の誓い」を生涯貫いた「義」の人生、諸葛公明や関羽の恩愛と報恩の生き方は、人間の最も崇高さの表れであり、人間の美しさでもあります。その心が三国史の中でも最も美しい一幕であり涙なくして読めないロマンあふれる感動的場面になっています。人間の心の善悪、美醜が描かれた名作と言えるでしょう。
私たち人は、地球の恩恵、大自然の恩恵、太陽の恩恵に対してどのくらい恩を感じているのでしょうか?恩を感じないほど、心が欲望で濁っているのでしょうか。それとも意識が汚れているのでしょうか。世間の汚濁に染まった人間の心が、戦争を起こし、犯罪を起こし、人を傷つけ、自分だけ栄えようとし、大恩ある地球すら破壊しようとしています。傲慢(ごうまん)、癡(おろか)、限度を超えたあくなき欲のなせることでしょうか。
完全に人間の心が欲望にマインドコントロールされた状態になっているようです。マインドコントロールは何も宗教だけの専売特許ではありません。人間が自らの欲や恐怖や安楽や偏った思想に支配され自ら正しい意識、正しい思想を失った状態を指しているのです。
恩を知る磨かれた感性、そして恩に報いて生きる清らか心、そこに地球や太陽や自然を貫く慈悲と創造的な無限の生命の働きが共鳴し波長が合い、心は躍動し喜びを覚えるのです。フランスの哲学者ベルグソンの「生命の躍動・生の創造」の別表現でもあると思います。これが心の宝なのです。
その人こそ人らしい人といえるのではないでしょうか。 文責 松岡敏勝
私たち人は、この地球に生を受けて、地球や太陽や自然の恵みに守られて生きています。母から産まれ、いろいろな人に守られ育ってきました。多くの人たちの恵み、社会の恵み、あらゆる生物の恵み、そして自然の恵みを享受して生きています。
地球の恩恵は無限であり、無償の愛を注いでくれています。愛とは人知れず尽くすことであり、見返りを求めない行為であり、陰で支え、守る働きなのです。赤子に対する母の慈愛に近いものがあります。
地球は人知れず黙々と動き働いています。彼は地上の生物に見返りを求めることを決してしません。酸素代、水代、電気代、場所代を請求することもありません。無償です。それでいて、いつも最高のものを与えてくれています。地球はだれのものでもありません。地球自らのものです。地球は優しく、慈愛の体現者ですから、すべての生あるものを育み、受け入れています。その深く広い愛に気づかず、甘えてしまい、恩に報いるどころか、愚かな権力者や強欲者や利己主義者は自分のものでもない地球を私物化し、人を支配したりコントロールしたり、金儲けの手段や道具にしています。
とてもく悲しいことです。地球も泣いています。あるとき、地球は痛みに耐えかね、自然災害の形で、自己を表現しています。
地球は私たちを含めた無数の生物を乗せて一日で一回転し、1年で太陽の周りを正確に一周し、私たちの生命を守り育んでくれています。寸分の狂いもなく、休むこともなく、まるで自らの使命を忠実に果たすかのようです。もし地球が休み止まってしまったなら、大地震の比ではありません、私たちを含め、生物は、たちまち死滅してゆきます。その微妙な調和を保ちながら、宇宙空間に漂い、今生きていることの不思議さに厳粛さを感じるのは私一人ではないでしょう。
月や近くの惑星である金星や火星に、酸素や水があるでしょうか。太陽系では、地球だけが酸素が豊富にあり、水に恵まれているのです。この地球の愛、太陽の愛、自然の恵みや恩を私たち人間は、どれほど感じているのでしょうか。
文責 松岡敏勝
回答
依存症からの自立は、いずれも難問です。それは過去の習慣全体を背負っているからです。心身の全体と部分の関係を知らなけなりません。依存対象のみを問題にしても回復は困難です。アルコールやタバコや麻薬などの物質依存は、心と体からの強い慢性的欲求に曝され、辞めるにはかなりの苦労があります。ギャンブルや盗撮などのプロセスの快楽や強い刺激を伴うものも、やはり無意識層に蓄えられた記憶の発動から起き、体全身を揺さぶる感覚がありますので、それに抗することが難しく、辞めることがやり困難なものです。食べ物依存、買い物依存、人間関係依存(DV、虐待など)など、依存症はいずれも厄介ですが、本質を悟れば、治すことはできます。
もちろん治すのは、本人のあなたです。専門家は一支援者にすぎません。支援者や周囲の人に依存する弱い自分の心を知り、それと直面し、その心を変えなければ治せません。これはあらゆる病に対していえることです。特に心の病の作者はあなた本人なのですから、今の状況は、あなたの作品なのです。作品を変えるのは、作者のあなた次第なのです。
改善の本質について助言します。まず人間の意識と無意識の関係、心と体の関係を深く洞察しなければなりません。意識を変えるには、それを支えている無意識層に働きかけなければなりません。人間心理や身体に関する確かな洞察とそれに基づいた実践が必要になります。
最も単純な本質を穿った方法について助言します。強い行為への誘惑が起きるたびに、常に耐え続け、その行為をしなければ治せます。それには、闇を晴らすような明知と深い言葉と未来の楽しさをイメージする力をを伴った澄んだ意識が必要になります。換言するなら磨かれた六感覚識(目・耳・舌・鼻・身体と意識の六つ)をもった、誘惑転換の対処の智慧です。
私は、その方法でタバコ依存とギャンブル依存(パチンコ・競馬)を治しました。たばこは止めて30年になります。ギャンブルは止めて20年が経過しました。今はとぢちらも、全くやりたいと思わなくなっています。まず人生の時間がもったいないと悟りました。さらにお金ももったいないと骨身に染みてわかるようになりました、そしてどちらも価値的に使う方法を身につけました。止めることで、心の貧しさから解放され、心が豊かになっています。あなたも止められます。解決への意志がおありであれば、同道致します。シランの室を訪れてみてください。
あなたは賢明で、聡明で謙虚な人のようなので、少し難しい内容になるかもしれませんが、深い話をさせていただきます。
人は自らを知らないところから苦しみを作っています。自らを正しく知り、本来の自分の力に目覚めれば、心の苦悩は霧が晴れたように明らかになり、心は清らかになり健康になっていきます。
長い歴史の中、人間は心や生命や自然や物理などの解明を追究してきました。特に物質科学についての解明は、進み、現代科学の恩恵のもと、身体医学は急速な発展を遂げ、多くの身体疾患の原因も究明され、今日まで不治の病とされた感染症(結核など)も治療できるようになりました。しかし身体医学分野においても難病は増加し、原因不明の病気は増えていると言われています。
2000年以上前にギリシャ哲学者であり人類の教師とも言われているソクラテスは「汝自身を知れ」と叫び、「無知の知」を説きました。人間は、何もわかっていないのにあたかも知っているかのように傲慢に生きている。自分が生きていることの不可思議さ、自分の肉体、心、意識、なぜ、意識がおよばないのに生命活動をしているのか、自分の心身を動かしているのはなんなのか?
この命、この生命現象やその働きは一体どこからくるのかなど、知らないことばかりだというのです。
以来2000年の時が流れましたが、人間の心は、ほとんど解明されていないままです。脳と意識の関係、脳が先なのか、意識が先なのか?なぜ夢をみるのか、なぜ意識できない世界、無意識はあるのか…など。
心の世界は多くは未だに闇の中といってよいでしょう。もちろん心の病の原因も分かっていません。わかっているのは、症状に関する脳の部位とその関連性であり、心は把握できていません。
心の神秘さ、生命の神秘さゆえに宗教が人を惑わし、無知の人をマインドコントロールできるのです。生命や心の真実がわからないからできることなのです。
では、心を知るにはどうすればよいのか。過去の深遠な心の哲学者(日本では西田幾多郎の「善の研究」という名著があります)、ベルグソンなどの西洋の著名な哲学、また心を深く掘り下げたブッダの生命思想・竜樹菩薩や世親菩薩の心哲学としての唯識思想、中国の天台大師の内観の生命哲学、日本の最澄や日蓮の円融円満な生命思想など。わかりやすいものでは、宮沢賢治の思想などを研究すれば、真実に接近できると思います。私も真実の知や智慧の獲得もできていない一求道者にすぎません。
正しい知の獲得は、生命を賭けた壮絶な闘いであると夏目漱石は、「私の個人主義」という書で展開しています。心科学や生命の真実智は、一生をかけた闘いでもあるようです。その到達は真の生きがい、自己実現・自己完成そして真の喜びの獲得を伴うものと言われています。精進であり、絶えざる学びが求められる人間修業でもあります。
道半ばの一求道者ですが、先輩として修得したものを助言することはできます。関心があれは訪ねて来られるとよいでしょう。
回答
人の目が気になることは誰にでも起こることですが、普通は、それが一過性のものとして時間が立てば忘れてしまうものですが、あなたの場合は、既に囚われつつあるようです。
ひと目が気になり、自分の行動がままならなく、つまり行動が不自由になってしまうと、苦しくなってしまいます。今のあなたは、そうなりつつあるようですね。考えられる理由はいくつかあります。
まず一つは、環境の変化…高校生になり、学校も級友も変わり、今現在友達もいない。つまり今のあなたは、環境にうまくなじめず、とても不安定な状態にあります。孤立し、学級に安心した居場所がないようです。
二つ目は、青年期に起こりがちな他者を過剰に意識してしまう時期的なものです。この時期の人にありがちなことですが、それにとらわれてしまうと、人目に囚われ、行動が不自由になってしまいます。昼食を食べる時も、人から見られているようで、意識は人目に向いてしまい、本来の食べると言う行動に支障を来しています。
三つ目は、あなたは内向的になり、受動的になり、自己内省的になっていることです。積極的に人に関わるより、人からの関わりを待つような受動的姿勢になっています。人は受け身に回ると弱くなり本来の力が出せなくなってしまいます。
ではどうすればよいか…内向から外向、受け身から積極的・自発的に動けばよいのです。見られている自分から、人を見る自分に変っていくことです。人は、あなたが思っているほど、あなたのことを見ていないし、気にもしていません。逆の立場になってみたらよくわかることです。
勇気を出して、積極的に人と関わっていくことです、そのうち、あなたにふさわしい友達が見つかるでしょう。すべては、あなたの勇気ある行動で決まります。
今は、謙虚に人から学び、学校の勉強から学び、世の中から学び、あらゆるものから積極的に学び、自らを向上させ、あなたが立派な人間性のある人物になることです。あなたが人間的に向上していけば、あなたの周りに、あなたにふさわしい友達が出てくるものです。つまり、あなた本人と環境である友達は、本体と影のような関係であり、一体なのです。
自発的、積極的学びと向上心があれば、いつの間にか、人の目を気にすることさえ忘れているでしょう
質問
中学辺りから人間の醜さについて考え始め、
高校辺りではこの世が平和になる為には人間は絶滅するべきと絶対的に思うようになりました。
他の生物や自然をさぞ自分だけのもののように扱い、
他の生き物なんて平気で殺したり、実験台に使ったり、
はたまた育てられもしないくせに一時の寂しさを埋める為に
動物を引き取るけど育てられないから虐待したり捨てたり。
こんなに愚かで傲慢で強欲なのに、人間って素晴らしい!など何故思えるんですか?
自分の悪意や愚行に目を背けたり、被害者に謝罪もしないで自分の中で勝手に完結させ、
平気な顔してのうのうと生きてる恥ずかしくて汚い存在のくせに。
私はもう耐えられません。
人間でいる事も、人間社会で生きなきゃいけない事も耐えられません。
毎日トラウマのフラッシュバックが起こり死にたいし、
もう最近では報道されるぐらいの自殺をするか、
こういうクズ共をたくさん惨殺してから自殺して逃げるか。
ギリギリで踏みとどまってます。
回答
青年時代、私も社会や人間の醜悪さに絶望し、アルマゲドンの到来を願ったことがあります。
死は易く生きるのは難しです。死は苦しみからの逃避であり安易な選択です。なぜなら自分の生命も、死後もわからないまま、死の世界に行くことは、途方もなく危険なかけです。もし死の世界が今の苦の続きとすれば、どうしますか…。
あなたは心がきれいで純粋です。それゆえに自分のことしか考えない人に嫌悪感を抱くのでしょう…。心の汚れは何が原因で起きるのでしょうか。仏教哲学の祖ブッタは心の汚れは人間の煩悩・欲望にあると明らかにしました。しかし煩悩・執着は人間が生きている証であり、人は煩悩をなくすことはできません。
煩悩が自分のことだけに使われてしまうと、心は汚れていきます。地位、名声、お金、才能、異性、食べ物などに対する執着、それらを手に入れたいと追い求め、それらを得ることで幸せになれる、楽しい人生になると思っているからです。その結果、欲望達成のため、自己中心的な生き方になり、いつしか心が汚れていくのです。その心の汚れが、正常な思考や理性を曇らせ、ますます目先の快楽や心地よさに自分を忘れさせていきます。結果、心の汚れは深まり、本来の清らかな心は失われます。悲しいかないつの時代も人間は愚行や野蛮を繰り返してきました。
求めたものが得られないと、人は苦しさや怒りを感じ、それらを得ようと、後先考えずに他者を犠牲にしたり、傷つけたり、裏切ったりさえします。対象へのとらわれが心を濁らせ、汚していきます。
物事のとらえ方、見方、考え方という認知の深層に、これらの煩悩が渦巻いているので、認知では、これらの心の濁りや汚れを浄化することはできません。大学者、知識人、宗教家、医者とか関係ないのです。自分を飾る外面は力なりません。
精神医療の薬で煩悩の浄化はできません。薬は依存心という新たな煩悩を産み出し増加させ、悪化させることはあっても、好転は望めません。執着が依存を強め、正しい物事の見方や道理を曇らせるからです。依存すると人は、盲目になり物事が見えなくなってしまいます。
煩悩に効く薬は、生命の真実に迫った智慧であり、実践から生み出されるものです。正しい生き方から得られる実智です。
かつて仏教修行者が断食したり、肉食を禁じたり、女色や酒を遠ざけたり、世俗を離れ、社会的名声から離れたり、真冬に滝に打たれたりなど数多く欲への執着を断つ修行、心の清めの修行をしました。これらは悪しき煩悩を断ずる生き方であり、結果は煩悩を滅してしまい、生きる根本の欲望も低下させてしまいました。煩悩を健全な方向で活かすというブッタの教えではなかったのです。
欲への執着がなければ、人間の進歩も成長もありません。欲望は善にもなれば、悪にもなります。つまり、欲望をどのように使うのかが問題なのです。自らの欲望を明らかに見ていくことが肝心なのです。場合によっては、執着する対象から離れることも必要になります。
また自分の利益のためだけに欲望を使うと心は汚れていきます。太宰治の「走れ メロス」の主題は、このことを描いていると私は思っています。登場人物の王様は、私利私欲に執着する臣下を次々と殺していきます。きれいごと言う仮面の裏にある醜い人間のエゴが王様には見えていたからです。だからこそ、その醜悪さに我慢できなかったのです。王様は純粋なきれいな心をもっていました。それは研ぎ澄まされた太宰治の心眼でもあったのです。やがて王様は、友人のために自らの命さえ引き換えにするメロスの純粋なきれいな心に感動し心を開いていきます。そして、「私も友の仲間入りをさせてくれないか」とお願いします。
欲望を自分も利し、人も利していく方向で使っていく。つまり欲望を人に貢献するために使うと心は清められていくことを教えてくれています。執着対象の転換です。
こうした生き方が今の人間社会に欠けているといってよいでしょう。人間が自己中心的な欲望で濁り、社会にエゴが充満し汚れきっているのです。その結果、人々は迷いの苦海に漂っています。しかも、そのことに気付いていません。
また人間や社会の煩悩の濁りが、自然の種々の災害を呼び起こしているといってもよいでしょう。なぜなら、人間と環境は一体であり、身土不二だからです。
人間が本当の意味での共生、自分を利するとともに、人や自然も利していくという生き方。それはすべての生命あるものの本来の姿であり、人間の心の浄化をもたらします。そして心は解放され、自由になっていくのです。
地道で遠回りですが、私はそんな生き方を目指しています。ガンジーは言われました。「善きことはカタツムリの速度で進む」と。死ぬ前に、あなたもこのような生き方を試してみてはどうでしょうか。
質問
学校の授業やバスや電車などで、沈黙になると気分的に落ち着かなくなり、そわそわして人目を気にしてしまいます。こういう時って何を考えればいいのでしょうか。また、学校で前の席になると自分が注目をあびているのではないかと授業中ずっと緊張してしまい、逃げ出したくなるのですがどうすればいいでしょうか。外に出ると人目を気にすることが多くて困っています。学校の集団が怖くていちいち反省したり失敗したことを思い出して思わずわーっと言ったりしてしまいます。どうすれば人の目を気にしなくなり、不安や緊張もなくなるのでしょうか。一人でいる自分に自信を持ちたいです…。何かいい解決策があったら教えていただけると嬉しいです
回答
辛い日々を送られていますね。結論から言えば、あなたの意識のありかたを変えれば克服できます。心身の発達上起きる苦しみの一つです。あなたの心身の正しいあり方を知ることによって克服できます。あなたの自意識過剰傾向は思春期・青年期によく起こります。あなたの場合は、それに強くとらわれているから抜け出せなくなっているのです。意識のバランスの問題です。意識をどこに向けるかの問題です。あなたの意識は、自動的に常に自分の心身に向けられています。それがあなたを苦しめている張本人なのです。よく言われる視野狭窄状態です。視野を広げ意識の方向を変えればよいのです。
私たちの意識できる世界は、心身全体のごく一部であり、99%以上は無意識の活動に支えられています。私たちは意識しない時も呼吸をしています。生きているとは呼吸をしていることです。7分間呼吸が止まれば人間は脳死します。空気が肺に入り、それが心臓に入り、心臓の鼓動で血液は脳から足の先まで、血管の流れの中で細胞に酸素と栄養がいきわたり生きているのです。呼吸が止まれば人間を構成している細胞は死に、私たちも死にます。こうした呼吸や心臓、肺、血液などの働きは、意識せずに働いています。つ まり無意識の働きなのです。
私たちは意識するにせよしないせよ、生きています。よりよく生きるという方向に意識を変えることによって、あらゆる苦しみ、不幸から脱却できます。多くの人は、過去の記憶やできごと、未来への不安、迷いなどが混在し無意識的な自動思考や観念に瞬間の意識は支配され、今の瞬間を何気なく生きています。私たちは、目に見える世界や五感で感じられる快適な感覚、便利さを追い求め、今の瞬間を惰性に流れ、深い世界を実感することなく表面的に生きているといってよいでしょう。
未来に対して頭の中で自動的に生起するネガティブな思いに支配され、いたずらに不安を生み出し、今の瞬間という新しい豊かな生命の働きを意識できていません。
生きることが、どこに意識が向いているのかが大事になります。過去の記憶やイメージに支配され、後ろ向き、消極的、受動的な生き方になっているのか。それとも、何も意識せず感覚的・惰性な生き方なのか。それとも今を明日に向け、前向き、積極的に希望を持って生きるのか。それによって人生は大きく変わります。よりよく生きるとは、今の瞬間を未来に向けて目的をもって積極的に生きることなのです。
あなたの場合は、過去の経験が記憶として無意識下に蓄積され、他者と接する時、自動的に蘇り自分を守るという働きをしています。自分を安全に守るために、絶えず自分を意識してしまいます。この意識を転換するためには、今という瞬間に集中し目的をもって一生懸命生きることです。
今という瞬間に過去はなく未来もありません。過去は記憶に過ぎず、未来は想いに過ぎません。明日は永遠にありません。いつも今しかないのです。今日しかないのです。今の瞬間は常に変化しています。そして細胞の新陳代謝のように新鮮に呼吸しているのです。瞬間の生命の有り難がたさの認識から新たな人生が開かれます。
具体的には、人はあなたのことをそんなに見ていません。人は、基本的には自己中心的に生きています。あなたも人のことを意識はしていますが、人を見てはいませんよね。あなたが気にしているのは、「人が自分をどう見ているか」ということであり、人を観察しているわけではありませんよね。みんなそうなんです。人を見ている暇なんかありません。自分のことで精一杯なのです。
次に、見られる自分(受動的・保身)の姿勢から、他者を見る自分という積極的・能動的な自分になれば、人の心も分かる様になり、他者に対する恐怖も薄れていきます。
自分の心理状態を知り、調整していくことが大事です。睡眠、運動(体操、徒歩程度で可)正しい食事、スマホ依存、ストレス解消法としての趣味をもつなどし、ストレスをためこまない生活を身につけることです。人目を気にしすぎる人は、自律神経のみだれがあり、緊張状態をくつくりやすい体質になっています。緊張場面では、複式呼吸をしましょう。
一番大事なのは、「自分は何があっても自分でいい」という信念をもつことです。人がどう評価しようが、どのように見ようが、あなたは変わりません。雨が降っても、晴れても富士山は富士山です。あなたは、何があってもあなたなのです。人の評価より、自分を磨き、学び自立することが大事です。勇気ある行動と学びが重要です。人は学ぶことによって人間になっていきます。学びは生涯続くものです。人間の自己実現は、学びの先に達成されるものだからです。
私たちは意識するにせよしないせよ、今、生きています。生きているというのはまぎれもない現実です。それをよりよく生きるという方向に変えることによって、あらゆる苦しみ、不幸から脱却できます。よりよく生きるとは、どういうふうに生きることなのでしょうか。
多くの人は、過去の記憶やできごと、未来への不安、迷いなどが混在し無意識的な自動思考や観念に瞬間の意識は支配され、今の瞬間を何気なく生きています。
多くの人は、目に見える世界や五感で感じられる快適な感覚、便利さに流され、かけがえのない今の瞬間を惰性に過ごし、自らの深い世界を実感することなく表面的に生きているといってよいでしょう。
未来に対して頭の中で自動的に生起するネガティブな思いに支配され、いたずらに不安を生み出し、今の瞬間という新しい豊かな生命の働きを意識できていません。
生きることが、どちらの方向に意識が向いているのかが大事になります。過去の記憶やイメージに支配され、後ろ向き、消極的、受動的な生き方になっているのか。
それとも、何も意識せず感覚的・惰性な生き方、「慣性の法則」のような生き方なのか。
それとも今を明日に向け、前向き、積極的に希望を持って生きるのか。それによって人生は大きく変わります。よりよく生きるとは、今の瞬間を未来に向けて目的をもって積極的に生きることなのです。
今の瞬間に意識を集中し、目的をもって一生懸命生きることによっていつしか自らが持つ本来の素晴らしい力に気づき、それを湧現させることができます。自らの心身に対する正しい認識と覚知が、人間を高みに導いてくれ、自立と揺るぎない安心の確立、そして自己実現を可能にしてくれます。
今という瞬間に過去はなく未来もありません。過去は記憶に過ぎず、未来は想いに過ぎません。明日は永遠にありません。いつも今しかないのです。今日しかないのです。今の瞬間は常に変化しています。そして細胞の新陳代謝のように新鮮に呼吸しているのです。その瞬間には豊かな智慧の律動が秘められているのです。瞬間の生命の有り難がたさの認識から新たな人生が開かれます。
ヒマラヤの旅人
地球上の生物は全て生存をかけた闘いを行い、自分の身を守り、種族保存の熾烈な活動を演じています。
例えば、地球は一瞬の休みもなく自らものすごい速度で動いています。一日一回転する自転の速度は時速1500㌔、新幹線速度の6倍です。一年かけて太陽の周りを回る公転速度は時速10万キロ、新幹線速度の400倍で、想像すらできない神業です。また地球の内部の温度は6000度で、その高熱で地球はあらゆる活動ができるのです。地球の働きはまだたくさんありますが、地球は生きています。生きているとは動いていることであり、活動していることと言えます。地球が動き、闘っているおかげで、地上の生物や人間も生きていけるのです。決して当たり前のことではなく不思議なことなのです。
また人間が地球上で生きていけるのは、太陽が活動しているからです。太陽も一瞬の休みなく、水素やヘリウムの核融合を行い、熱や光を発し、それが地球まで届くことで、地球のあらゆる生物に愛を与えています。太陽も命ある存在なのです。もっと言えば宇宙のすべての存在が動き活動していてます。生きているとは、活動することであり、前に進むことであり、環境に適合する闘いをしている状態のことなのです。
古来、人間は地球上で、生き残りをかけて、あらゆるものと闘ってきました。またウィルスや細菌、自然の脅威から身を守るため、知恵を働かせ協働して闘い生き残ってきたのです。闘わなかったものは生き残れず死んでいきました。自分の身を守れなかったからです。
私たちの身体も同様に闘っています。私たちの身体は全て細胞からできています。その数は約600兆個と言われています。生きているとは、細胞が生きているから、私たちも生きていけるのです。細胞は、呼吸によって外から取り入れた酸素、そして口から摂りいれた栄養を血液が血管を通して全細胞にくまなく配り、老廃物を回収しています。細胞は新陳代謝を繰り返して生きているのです。細胞も生まれては、活動し死んでいくという生死を繰り返しています。もっとも短い寿命の細胞は腸壁の細胞で24時間の寿命と言われています。細胞は内外のいろんなものと闘って、その命を守っています。そのおかげで私たちは意識しなくとも生きているのです。私たちが意識できない活動、それを潜在意識の活動といいます。
潜在意識の活動のおかげで私たちは生きています。神秘であり有りがたいことです。生命活動は宇宙も地球も人間の心身もすべて神秘で不思議な働きなのです。私たちの意識は心身のごく一部の働きしか感じることができません。多くは潜在意識(無意識)が自動的に働いてくれているのです。生きているとは、潜在意識の活動とも言えます。私は心身のそうした神秘な働きに日々合掌し感謝の気持ちを伝えています。
私たち人間だけが自分を変えることができる意識(思考・言葉)を持っています。身体や自然の闘いに調和し、自らも闘うことが生物種としての人間の本来の正しい姿なのです。闘わないで逃げていると身心の持つ力は発揮できず、逆に衰えていくことになります。ではどのよに闘えばよいのか…それは、
まず自らの可能性…「自分はできる」「自分はやれる」と強く信じ念じることです。
今は過去の結果ではなく、今を未来の原因にする生き方をすることです。世の中は、思い通りにいかないことばかりです。だ
から忍耐が必要になります。古人は「石の上に三年」と言っています。人生の真実を知った言葉だと思います。忍耐こそ成功
の礎なのです。
勇気と、積極的な心で、環境(自分の外の世界)に関わり切り開いていくことです。それが闘うということであり、よりよく生
きることなのです。
生きている… それはどんな人にもある平等な命の不思議な働きであり現実です。
心身の絶妙な調和と秩序の織りなす神秘な世界です。
生きている…それは今の瞬間しかありません。今の瞬間をどう実感しているかです。
過去の記憶やできごとが混在し湧き起こる自動的な思いや観念に瞬間の意識は支配され、
かけがえのない今の瞬間を無駄に過ごしています。
また起きてもいない未来に対して頭の中で起きる思いや観念が不安となって
意識は今の瞬間という新しい生命の働きを享受していません。
今の瞬間に意識を集中し、意図をもって評価せず生きることによって
いつしか本来の自らが持つ偉大な力に気づいていきます。
自らの本質に対しての正しい認識と実感が、人間を高みに導いてくれる原動力です。
生きていること…それは身体の神秘と地上のどんな財宝にまさる心の宝庫なのです。
また心の無限さ 無量の生きる智慧の集まりなのです
まさに一人一人が神秘な宝庫を持つ小宇宙なのです。
今という瞬間に過去はなく未来もありません。過去は記憶に過ぎず、未来は想いに過ぎません。
今の瞬間は常に新しく、常に新鮮であり、創造力や智慧に満ちた豊かな律動なのです。
その瞬間の生命のかけがえのなさ、有りがたさの自覚から新たな人生が開かれます。
具体的には、心身の神秘さ…意識と無意識の関係 身体と心の関係についての学び。
今の瞬間に集中する 呼吸瞑想、身体観察瞑想、ヨーガ瞑想。
心身の調和やバランスを調整する感覚調律、感情調整など
を実践し、体感し修得していきます。
その先には 健康な喜びの心身(生命)という今まで以上の最高の自分に到達していきます。
以上ことを 臨床心理シランの室では、心理療法面接を通して体得していきます。