(質問)
心も神も見えません。神秘的なものを信じる宗教と心理療法(カウンセリング)は、共通点があると思います。どちらも見えないものを対象として、また見えない世界を信じるという点で。信じるに足りる宗教とはどのようなものなのでしょうか。また、信じられる心理療法とは、どのようなものなのでしょうか。
(回答)
とても、よい質問ですね。しかしこれに答えるのはとても難しいことだと思います。なぜなら、心の究明、つまり生命の究明がなされないと答えることは難しいでしょう。
古来、人間は生きる苦しみ、死ぬことへの恐怖や苦しみ、病気の苦しみ、また年老いていく苦しみ、貧困、人間関係など、あらゆる苦しみを乗り越えるために、人間を超えた何かの力を頼り、信じることから宗教が生まれてきました。つまり、宗教は、人間の苦しみの解決から生まれたものといってよいでしょう。つまり、宗教は人間が作ったものです。仏教しかり、キリスト教しかり、イスラム教しかり、ユダヤ教しかり、あまたの新興宗教も人間がつくったものです。
すべては、人間が作ったものでありながら、いつしか、人間を離れたもの(神のようなもの)が人間を支配するように変わっていきました。そのようにしたのも人間です。この点を明確しておけば、人間生命の正しい解明や理解が大事だということがわかります。
心理学も難解な心の世界を究明する学問ではありますが、まだ人間生命の心理的部分は、未解決でわからないところだらけです。ただ、信じられるものかどうかの基準は、それを実践した時の実証性です。エビデンスで100名実践して、100名すべてよくなれば、完璧といえるでしょう。しかし、鬱の治療にしても、「認知行動療法」がエビデンスが高いと言われていますが、果たして50%の治癒率があるかどうかといったところでしょうか…。次は理論性、科学性です。理論があらゆる科学を網羅していれば、それだけ治療の確実性も高いと言えるでしょう。身体医学は、精緻な分析知と高度な科学的究明の成果もあって、かなりの高い治癒率を誇っています。
心理療法も「心の解明」「生命の解明」に比例して、精度もあがってくると思われます。生命や心を解明していくためには、あらゆる学問を究め尽くし、広範な学問や社会のあらゆる知識に精通することが求められます。そうした広範囲の教養と知性を備えた心理療法家は優れたカウンセラーの要件を満たす人といってよいでしょう。
(質問)
10代後半のころから嫌な考えが頭をよぎることが多いです。普段からマイナス思考というか、危機感が強すぎるあまり、家族が運転中に事故に巻き込まれていたらどうしよう。」「自分ではつまらない考えだとわかっていても、ふとした瞬間に頭によぎってきます。中でも辛いのが、殺人衝動が出ることです」。「ふと頭をよぎると、必死にやらないように頭で色々と考えながら戦います。
強迫性障害傾向による症状と推測します。その見立てにそった対処法を述べてみますね。
あなたと似たような症状で苦しんできた人を、これまで数多く面接してきました。
〇20代前半男性の事例…友だちと二人で自分のアパートで寝ていたとき、突然、隣に寝ている友達に対して「首を絞めろ!」という言葉が浮かび、恐ろしくなり、その言葉に抵抗し戦い、数時間を費やし、心がくたくたになっていしつか眠っていた。それ以降、人に害を加える言葉が次々に浮かび、自分を苦しめた。
〇10代男性の事例…あるとき、「母親なんか死んでしまえ!」という言葉が浮かび、自分では全く思っていないことなので、おそろしくなって、その言葉を打ち消そうとしても、なかなか消えずに苦しむ。数日後「父親なんか死んでしまえ」という言葉に変わった。一週間後には、「お前なんか死んでしまえ」という言葉が浮かぶようになり、道路に出て、車に突っ込もうかと考えたが怖くなって、思いとどまった。
◎解決方法について…認知行動療法的アプローチと森田療法的自覚療法が有効と考えます。当室で面接をした人たちは、そのアプローチで克服していきました。
〇心理的からくり。
・嫌な思いが浮かぶ⇒緊張・興奮⇒「闘争か逃走か」…さらに神経は過敏になる。
・「闘争」嫌な思いを打ち消す、考えないようにする、意識して他の行動をしようとする…やりくりすること。「逃走」嫌な思いから回避…やり直し。
・どちらも学習の強化(心理学でいう学習、行為することで、それが習慣化され、自動的な侵入思考の反応になる)につながる。不快感や嫌な思いを受け入れて、消去の学習をすること。
〇では、嫌なことが浮かんだときはどうするのか。
◎直面する⇒受け入れる⇒浮かんで通る⇒時の流れにまかせる。
※暴露、ありのまま、感情のまま、心をさらしたまま、行動する。あるがままにすること…。
「受け入れ、そのままにする。つまり浮かんで通る」ところが、毎回の修行のようなものです。実践の中で体得するしかありません。
※仕事中であれば、仕事をとにかくやり続ければいい。ただ、ぼーとして、何もしていない時や、テレビなど見ているような受動的な場面で起きた時は、リラクセーションとしての「呼吸法」を数分するとよいでしょう。
丹田式呼吸…へその下を丹田といいます。そこを意識した呼吸法。鼻から息を吸う。口から息をゆっくり吐く。ゆっくり長くは吐くこと(20秒~30秒)が肝心です。人間の呼吸は、「吸うとき」緊張しています。「息を吐くとき」はリラックスしています。ですから、吐くことに重点をおきます。
※受動的な時、観念の侵入も受けやすくなります。そのとき、自然な注意の転換をすることがよいでしょう。「今に集中できることをすることが大事になります。何か目の前に、能動的なもの、集中しやすいものがあるとよいと思います。意識を集中しやすいものとしては、運動する。家事や雑事をする。声を出して歌う。音読する。楽器を演奏するなど。身体の一部を動かし、行為の一つ一つに集中…「今に集中」するとよいでしょう。
呼吸法は、体内に酸素がゆきわたることをイメージし、呼吸に集中すると注意の転換がはかられると思います。
気になったまま、不安のまま進む。五里霧中の中を進む。一つ一つの乗り越えた経験知、積み重ねが「大丈夫」という自信につながり、安心立命の自分をつくっていきます。
◎神経過敏にならないように気をつけましょう。ストレスをためない。無理をしない。自然の生活リズム、規則正しい睡眠リズム、食生活。スマホゲームをし過ぎて、電磁波やブルーライトを浴び過ぎないようにします。
〇自責と反省。反省は事実中心。自責は自分に対する攻撃中心。自責は不安を強め、強迫観念を助長します。失敗には、苦み、嫌な気持ちが伴もないますが、慚愧(自分を恥じること)は次の成長につながるので大事な心理行為ですが、罪悪感(自責)は害になります。反省は事実本位です。自責から反省に切り替えるコツは、反省したら、行動することです。
安心感と自立について
安心感の量が少ないまま、思春期・青年期に差しかかると、自立することが難しくなります。そのようなときに、友達関係や勉強・学習で躓(つまづ)くと、その場から回避(かいひ)し引きこもったりすることがあります。それは、本人にとって意味のあることであり、戻るためのエネルギーを補給しているともいえます。回避することによって安心感を蓄えることができれば、再び自立に向かって歩み出すことが可能になるからです。
安心感の量が不足している状況で学習やしつけを優先しすぎると、心のエネルギーは低下し続け不適応状態が進んでしまいます。やがて心の不調を訴えるようになってしまいます。
安心感の低下がささやかれる今日、友達の顔色を気にしながら、必死にはずれないようにしている子どもたちの疲労感は大人が思っている以上に大きなものがあるようです。そのような現象は子どもたちのみならず、大人社会においても起きていると言われています。
安心感を育む「聞き上手」
人間は自発的な表現を受け止めてもらうことで、自分の存在を確かめていると思われます。このことは甘えとも通じるところです。「安心して甘えられるとは、評価や圧力が存在しない場であり、ありのままの自発的な表現が認められる場と言えます。速さや効率が優先される社会では、「早くして!」「急いで!」という言葉が先行し、大人も自発的な表現が待てなくなっているようです。
人の気持ちを知る…聞き上手…そのための三つのポイント
1 待つこと
自分以外の相手とのコミュニケーションの基礎となるやりとりは、授乳時の母親と赤ちゃんのやりとりから始まっていると言われています。それは、赤ちゃんの表出する信号を母親が注意深く受け止めた後、母親が自分の信号を赤ちゃんに返すということです。つまり相手の信号(自発的な表現)を注意深く受け止めるために「待つこと」が大事なのです。
2 相手の感情を受け入れること
「人間は感情の動物である」と言われることがあります。自分が表現した感情(特に負の感情…不安・怒り・悲しみ・辛さなど)を受け取ってもらえると、自分自身の存在をも受け取ってもらえたような気持になり、安心感は増してくると思われます。(例:「つかれたのね」「きつかったね」「辛かったね」「悲しかったね」「気になるのね」「悔(くや)しかったよね」「頭に来たのね」など感情に寄り添(そ)います)
3 声なき声に耳を傾け、心を感じること(共感的理解)
子どもや思春期の心の中は混沌(こんとん)としており、自分の感情を素直に言葉で表現することは難しくなります。また、これまでの育ちの中で抑圧(よくあつ)された感情は、具体的な言語などで表現されることは少なく、抽象的(ちゅうしょうてき)なイメージなので表現されます。言葉にならない言葉あることに留意(りゅうい)し、相手の信号を注意深く受け取り、相手の心(こころ)模様(もよう)を感じることが大切です。人生とは物語であり、人間は日々いろんな表現手段を用いて、自分を物語(ものがた)っています。その語(かた)りにそっと寄り添い耳を傾ける時にのみ聴(き)こえてくる魂(たましい)の響きや心の振動などを感じ取ることが大切です。「泣いてばかりいないで言葉で表現しなさい」と言いがちですが、あふれ出る涙の中こそ、いろいろな語りや気持ちの表出があるのです。
回答
自信について以下に説明します。
相談室を訪れる青少年の中で、心の不調(ひきこもり、不登校、社会不安など)を起こしている人と面談して感じることは、「自分に自信がない」という人が多いことです。「自信について」三つの角度から述べてみます。
まず一つ目の自信は、「自分は、この世に生きていてもいい」と思えることです。
この感覚は乳幼児から大人に至るまで、親や周囲の人から大切にされることで育ちます。自分に対する基本的な信頼感のようなものです。この自分を受け入れることができる自信は、自己肯定の基礎にもなっています。
「人に対してNO」と言えることから「自立」は始まります。
二つ目の自信は、「自分は周りの世界に有効に働きかけができる」という感覚や「自分が感じていることや考えていることは信頼できる」という自信です。この感覚は、関心をもったことを追求することや自分が嫌なことに対して「NO」と言うことが許容されることで育まれます。家族の中で、「NO」ということが気持ちよく受け入れられた経験や、嫌なことが起こったときに「NO」ということで避けられた経験を持っているかどうかです。
こうした言動が目立つ時期は一般的に反抗期と呼ばれています。自分はこれをやってみたいという願望や「NO」ということが尊重される環境の中で、この感覚は培われ自発性が育っていきます。
心の不調を訴える人に多く見られることの一つが、「人に対してNO」と言えずに、自分の気持ちを我慢したり、抑え込んだりしていることです。「NOと言ったら嫌われるかもしれない」「断ったら相手を嫌な気持ちにさせるかもしれない」などの思いから、自分に無理をしてしまい、心が容量オーバーになって心身に不調をきたしている人が多く見受けらます。自分の気持ちに無理をせず「NO」と言うことは、日常の人間関係の中で身につける大事な能力の一つなのです。
以上述べた二つの自信が育っていると、自分という存在には意味があり、不都合が生じたときに自分の力で自分を守ったり、周囲に働きかけて状況を変化させたりする能力が育ちます。先の二つが十分に定着していないと、自分は誰からも相手にされない、取るに足りない迷惑な存在であると感じ、世界は不都合が生じたときに、守るすべがないという不安や恐怖に満ちた場所であると感じるようになる可能性があります。
三つめの自信は、特技や長所をもっていることです。ところが、この自信は相対的なもので、自分より優れた存在が現われたり、けがなどで「特技」が発揮できなかったりすると、劣等感に変わる不安定なものです。
いくら優れたところがあっても、先の二つの自信がなければ安定した自信になりません。
結果や成果よりプロセスを大切にしましょう
成果や結果だけをみたり、ほめたりするのではなく、努力の過程や挑戦したことをみてあげると、質の良い自信につながっていきます。また「挑戦したこと」や「がんばったこと」に対して、「がんばったね」「よくやったね」と自分自身に語りかけるようにするのもよいと思います。
日々刻々と変化する世界
地球上のあらゆるものが刻々と変化し流動しています。私たちを取り巻く世界や社会も日々変化し続けています。私たち人間にとって、好ましい変化もあれば、不利益をもたらす変化もあります。今、世界はコロナウィルス感染症という、今までなかった変化のもたらす禍(わざわい)に苦しめられています。
コロナ禍によって人の生活も変わり、社会も変化への適応に苦慮しています。今では「WITHコロナ」というコロナ感染症と共存して生きるという生き方が叫ばれるようになりました。
「変化」に対して「一定を保とうとする力」…ホメオスタシス(恒常性)
様々な変化が私たち人間に影響を与えています。例えば、季節の変化もそうです。冬になれば気温の変化に伴う寒さ対策をして適応しようとします。うまく防寒しないと病気になったり、寒さの厳しい地域では凍死したりすることもあるからです。
人間の心も変化に対して適応をしようとしています。私たちの心身は、変化(外圧)によって歪められた部分を常に一定に保とうとする働き…恒常性(ホメオスタシス)機能が備わっています。例えば真夏の暑さの中でも、真冬の暑さの中でも、私たちの体温は36度前後を保っています。心身を一定に保つ力のおかげで、私たちは健康を維持しているといえるでしょう。
しかし、この一定を保つ力は個人差があります。すぐに風邪をひく人もいれば、お腹をこわしやすい人もいます。免疫力の差とも言われています。同じようなことは心の世界でも起こります。同じ状況や出来事に遭遇(地震などの自然災害)したにもかかわらず、精神的回復力には個人差があると言われています。
レジリエンス…「外力による歪み」を跳ね返す力…困難を乗り越える力。
変化の激しい時代は、ストレスの大きい社会とも言われています。このような社会を乗り越える力として、
今、「レジリエンス」(精神的回復力)という言葉の必要性が求められるようになりました。これは「ストレス」を一時的に和らげるストレス解消法とは異なり、より根本的なストレス対処力になります。「精神的回復力」「自発的治癒力」「抵抗力」「耐久力」「再起力」とも訳されている言葉です。つまり困難を乗り越える力…心の強さのもとになる力なのです。次にレジリエンスを高める方法を以下に紹介します。
レジリエンス(困難を乗り越える力)を高めるには
1 自分はできると信じる、自分に負けない心をもつ…あきらめない心が心を強くする
2 失敗した時、新しい自分を見つけるようにする
3 自分を支える人を持つ
4 肯定的な未来志向、未来を明るく想像する
5 柔軟な考えをもつ(〇〇しないといけない。
〇〇すべきはという考え方は、心を固くするおそれがあります。)
試験(面接)での緊張や不安を軽くするためのもっとも簡単な方法です。
入学試験や面接試験が近づいてくると、だれしも不安が強くなったり、緊張や興奮したりするのが人間の普通の感情です。そうした緊張を軽くし、目の前の試験や面接に集中するのには個人差があります。
ここでは、だれでも簡単にできる方法を紹介します。それは丹田呼吸をすることです。丹田とは、御臍の下の部分です。
御臍の下を意識し長く吐くことをこころがける深い呼吸法です。
人は「息(いき)を吸う(すう)」とき緊張します。逆に「息(いき)を吐(は)く」ときリラックス します。人は緊張するとき呼吸が
浅くなっています。例えば、怒りで興奮した時に「深呼吸する」と少し落ち着くのはこのためです。
以下に方法を簡単に説明します。
・椅子に座って、少し目を閉じ気味で行う。
・吐くことに注意して呼吸を始める(へその下から息を吐ききるようにこころがける)
・新鮮な空気が鼻から入って、それが全身に広がっていくことをイメージする。
・鼻から大きく腹部まで吸い込み、口からゆっくり長く吐く。(20秒~30秒と長く吐き出せるようにする。)
・一度に数回繰り返すとよい。
これは、座ってしないと効果がないというものではありません。極端に言うと、いつでもどこでも、歩きながらでもできる呼吸法です。なぜなら私たちは、いつも呼吸をしていめるからです。呼吸が止まると死ぬからです。ですから意識して少しでよい呼吸をすることです。それは酸素を一杯取り入れる呼吸なのです。
試験前夜など、緊張・興奮で寝付けないときも実行してみるとよいでしょう。
受験生のみなさん、ありのままの自分で試験に臨んでください。
自分は自分以上でも、自分以下でもないのですから…。
質問
気持ちの切り替えが上手な人とはどんな人ですか
回答
新型コロナ感染症が急拡大する中、私たちにも不安の波が押し寄せているようです。生きるということはさまざまな感情を体験する過程であるといってよいでしょう。その感情は心地よい、心が躍るようなものだけではなく、辛い苦しい不安な感情も日常的に経験しています。あることで傷つき、強い怒りを感じ、その処理に困っている人もいます。人生に行き詰まり、深く落ち込んでいる人もいます。人をおそれ、不完全をおそれ、失敗をおそれ、身動きが出来なくなっている人もいるかもしれません。また、いつまでも続く嫌な感情に悩んでいる人もいるかもしれません。しかし、それらの感情はすべて人間の自然な感情なのです。
とらわれやすい人の感情の特徴
一般にとらわれやすい人、苦悩に陥(おちい)りやすい人は感情に関して特徴があると言われています。一つはもともと激しい感情の持ち主であるということです。そのため人よりも激しく強い感情を体験します。人よりも激しく怒り、喜び、傷つきます。これはこの人の個性と言ってよいでしょう。また激しく悩む人の感情は一般に長く続きます。つまり感情へのとらわれが強くなります。結果、自分の気分や感情が変化せず、特に不快な感情が持続し、そのぶん苦しむことになります。結果、心の不調をきたすこともあります。(社会不安や強迫性など)
気持ちの切り替えが上手な人…嫌な不快な感情をそのまま受け入れられる人
感情は、そのままにし、自然の流れのままに従えば、その経過は山形の曲線をなして、ついには時間の経過とともに自然に消失します。強い不安、恐怖などの感情は、それをそのまま放置することができれば、自然に消えてゆくものす。つまり感情は、元来つねに流動し、変化しているものです。人はその感情がどんなに激しく辛いもの(例えば失敗した時の恥ずかしさや怒りなどの感情)であっても、それが一時のものと見きわめれば、その感情に耐えやすくなります。そしてそのまま受け止めることができるようになります。「気持ちの切り替えが上手な人」は、こうした感情の流れを経験から体得している人といってよいでしょう。
(質問)
大変自業自得なのですが…過去に犯してしまった罪の罪悪感によりこの先 生きる希望が見いだせません…。時期は曖昧ですが、中学3年〜高校1年の間?にやってしまった盗撮、
痴漢に近しい行為(盗撮動画は盗撮後すぐに消去していたため、
自首するかとても悩んだのですが、盗撮痴漢、どちらも被害者の方はこの事に気づいておらず、打ち明けても、盗撮、痴漢されたという不快極まりない事実を知らせてしまうだけだと思い、この事は誰にも言わずに、自分自身の中のみで戒めとすることにしました…
何も知らない家族から、「優しいね」や「偉いね」って言われる度、
家族にこの事を黙っているのが酷く、辛く感じます。
家族から見た僕は普通の僕ですが、僕から見た僕は、偽りの仮面を被った僕なのです…
全てが嘘で塗り固められた、薄汚い人物なんです…
僕は一体、どうすれば、前を向くことができるのでしょうか…?
(回答)
ありのままの現実を綴られた告白の文章…葛藤もあり、辛さもあったと思いますが、勇気を出されてありのまま自分をさらけ出されたことに、一歩前進した心を見る思いです。
過去の受け入れがたい醜く感じる自分を曝すことは、等身大の自分を受け入れることにつながると思います。
もし、人の心が透視される機械ができたとしたら、ほとんどの人が人の中で生きていくことができなくなるでしょう。
例えば、人間の体も様々な臓器があります。糞も尿も体の中にあります。ありのままにそれらが、外に出たら、見えるとしたら、美人はいなくなるでしょう。外側の皮膚が中を隠し覆ってくれているからこそ、人に自分を見せることができます。
心の中も同じです。動物的な心、渦巻く種々の欲望、人を憎んだり、嫉妬したり、淫欲があったり、貪る心があったりなど、それらは口に出すこともなく、心の中にひそかにしまい込まれています。それらが、外に出ないように自制しているだけです。
悪につながる欲望を自制することが人間の智慧なのです。動物は、空腹を感じれば、他の動物を殺して食べます。本能的なさかりがくれば、みさかいなく交尾をします。人間は、それらの欲望をうまく抑制しているので、社会の中で生きていけるのです。
誰しも人に話せない欲望や思いや醜い心の一つや二つ持っているし、人に話せない、過去の失敗を持っています。それらを心の中に包み込み、しまい込んで生きています。
それらの苦い過去の出来事は、確かに時間とともに薄れていくものですが、決してなくなるものではありません。忘れているだけなのです。また、時間がたつにつれ、痛みも不思議と薄れていきますので、耐えていけるのです。
青春時代は心も純粋です。理想も高いものです。それゆえに、過ちが許せなくなることもあります。理想が高ければ高いほど、完全指向が強ければ強いほど、自分を苦しめます。
その解決や昇華のため、文学が生まれ、芸術が生まれ、宗教的な心が芽生え、哲学者にもなれるのです。著名な宗教者、親鸞もそうした一人のようです。
過去の出来事は、意識するしないにかかわらず、何かに触れて頭に蘇ったり、侵入したりしてきます。受動的に、求めもしないのに…。人はその過去の出来事やイメージに、ある時は縛られ、またある時は執着し、またある時は、苦しみ、またある時は絶望すら感じたりします。
諸行無常は仏の智慧です。流れゆき、一定したものはないにも関わらず、それが同じようにあると思う誤れるものの見方を糾しているのが「諸行は無常」という智慧ではないでしょうか。
人はともすれば、心に描いた理想とかけ離れている現実の自分を、なかなか受け入れられないものです。観念と現実の不一致…
そこに、人間は苦しみ、不満、怒り、罪悪すら感じるようです。
苦しみは苦しみとして受け入れ、今を誠実に生きるしかあなたを救済する道はないと思います。希望の未来を豊かにイメージしながら…。
(質問)
私が小学四年生の頃に親が離婚しました。離婚した理由は簡単に言うと母親の浮気です。
難しく言うと母のパート先で母にストーカーをしてくる人がいました。その人は昔捕まっていたこともありました。その人から「今の旦那とわかれて俺と住まないとお前の子供二人とも殺してやる」と言われたそうです。
そして母はとても私たちのことを大事にしていたので別れてそのストーカーと私と私の兄と4人で住むことになりました。一緒に住むにつれて私の日常は地獄になっていきました。毎日のように母にDVをする光景を見せられてきました。殴ったり、蹴ったり、根性焼きを入れられたり。私達に危害が加わらないように母は私たちを守ってくれました。
ある日母が首を絞められ殺されそうになったので「助けて」と叫び続けました。そしたらあいつが「それ以上叫んだらお前を最初に殺すから」と言われました。7年経った今でもその光景は鮮明に覚えています。その後の記憶は全くなくて、なんとか全員生きてきました。
中学生時代は小学校時代の自分の生活を必死に忘れていましたが、高校生になり、また思い出してしまいました。そこから毎日晩に泣いてしまい、学校に行く気力もまったくでてこず、集中も出来ません。友達にも「どうして、貴方だけが幸せそうに暮らせるの?」と思ってしまいます。過去のトラウマはどのように忘れたらよろしいのでしょうか?
回答
辛い思いをしたてきたあなたは、きっと人の心のわかる優しさを持つ人だと思います。朝の来ない夜はありません。生き抜いて、優しさの少ない今の社会の中で、恵まれない環境にいる人たちの味方になってください。そのためにも、今の苦境を乗り越えられ、心の強い賢明な人となり、前を向いて生き続けてください。
世界の偉人もみな酷いいじめ(迫害・虐待)に遭い、逆境の中で、それを乗り越えたからこそ、心が鍛えられ強く賢い人間になってとも言われています。
ガンジーしかり、ヘレンしかりです。あなたの生きる権利は絶対であり、幸福になる権利も絶対です。
「汝の運命の星は汝の胸中にあり」(シラーの名言)
あなたの運命を決するものは、あなたの心の中にあるという意味です。幸福・不幸もあなたの今後の生き方にかかっています。環境は私たち人間に大きな影響を与えます。とくに子供時代は環境の大きな影響から免れることは困難です。周囲の大人に頼られないと生きていけないのも事実です。
あなたの子ども時代…悲惨な家庭環境、そして養父のDV。
それらの出来事は、心の傷となり、消化されることなく、あなたの心に沈んでいるかのようです。そして、時折疼き、あなたの行動に負の影響をもたらしているような気がします。
私的な事例で恐縮ですが、私は母親を6歳で亡くし、父親は酒まみれの生活を送り、酔っては子どもに包丁を振り回したりしていました。兄弟は7人。家に食べ物もなく、ほったらかされ、食物を求め山野や市場をさまよい、学校にも行けなくなりました。やがて養護施設収容になりました。当時の養護施設は弱肉強食の世界であり、暴力いじめはひどく、職員の体罰や差別は露骨であり、学校でも「施設の子ども、汚い、近寄るな」などと暴言を浴びせられました。
いつしか、私の心は屈折していたようです。しかし、そんな少年にも、ある保母が目をかけてくれました。また、中学校の先生が私を信じ期待してくれる人もいました。そのおかげで人間を信じることができたようです。施設を出て自由になったにもかかわらず、高校時代に自分がわからなくなり、非行に走り、高校中退しました。
東京で一人で再出発をはかりましたが、目標もなくパチンコ、競馬にふける日々でした。そんなとき仕事先の牛乳店で、ある青年に出会いました。彼は虚勢を張った私を認め、人間として尊重してくれたのです。私は彼に心を開くようになりました。それ以降、私の人生は大きく転換していきました。後年、私は大学に入り中学教師になったのも、彼との出会いがあったからでした。拙著「失敗もいいものだよ」ノンフイックション自伝小説に詳細は記載しています。
もとより、生きている時代も性別も異なります。ですが基本は変わらないと思います。人は人によって傷つきもし、人間不信になったりするのも事実です。しかし、逆に人によって人間の温かさ、優しさ、温もり、この世界の美しさなどを知り、心を開き、人を信じることを覚えます。それらは、生きる活力となり、希望となっていきます。
あなたも、生きていれば、きっとよい出会いが訪れると思います。そのためにも、前を向き、今を誠実に真心こめて生きていくことだと思います。
トラウマの癒し…自己治癒について少し説明します。
長期間の虐待による複雑的心的外傷体験は、ある意味「冷凍された体験」のようなものです。冷凍されているが故に、心はその体験を過去のものとすることができず、いつまでも新鮮なままで抱えることになります。いわば「現在に生き続ける過去」として、さまざまな心理的な機能に影響を与え続けています。心的外傷を癒すということは、その凍りついた体験を解凍し消化吸収していくことだと考えられます。自力で難しいのであれば、スクールカウンセラーに相談するとよいと思います。
幸せで快適な出来事は心的外傷の癒しに重要な役割を果たします。楽しく、未来が展望できるような、積極的生き方ができるようなできごとを日常生活の中で作ることが大事です。
自己治癒力を高めるいくつかの方法をのべてみます。できることからやってみるとよいでしょう。
・親戚や友人らと良好な関係を維持する。
・危機やストレスに満ちた出来事でも、それを耐えがたい問題とみないようにする。
・変えられない状況を受け入れるようにする。
・現実的な目標を立てて、それに向かって進む。
・不利な状況であっても、決断し行動する。
・長期的な視点を持つ。
・希望的な見通しを維持し、よいことを期待し、希望を思い描く(イメージする)
・心と体をケアし、定期的に運動し、自分の気持ちに注意を払うようにする。
質問
私は高校生です。クラスでいじめられている子が居て、その子は毎日とても辛そうでした。でも、私は例えどんな人でも簡単に傷つけたらいけないと思います。だから、その子の味方になろうと思いました。今、クラスの中で私とその子は皆から悪口を言われたり、馬鹿にされたりしています。勉強を真面目に頑張っても、やさしい気持ちで誰かに接しても、いつも私達の事を傷付けようとする人がいます。でも、私は絶対に間違ってないはずです。
だけど、先生に相談しても上手くいかなくて、散々後ろ指を刺されて、どうしても我慢出来なくなった時がありました。私は元々、絵を描くのが好きだったのですが、その時はじめて死体の絵を描きました。
私はどんなに傷つけられても、けしてその人たちの事を陰で貶したりせず、良い所も少なからずあると信じていました。でも、怒りの気持ちが我慢できなくて、クラスメイトの何人かの絵を描きました。
私はこれが悪い事なんじゃないかと悩んでいます。酷いことをしてしまったかもしれないという気持ちと、絶対にこれからも人を傷つけたりしないから、この絵を描く事だけは許して欲しいという気持ちがぶつかります。
死体の絵を描くのはやめた方がいいですか?また、こんな事をしていては優しい人間とは言えませんか。
回答
あなたの葛藤、本当に辛いと思います。
いじめられている同級生に寄り添い、味方になり、二人でいじめと戦っていることは、
あなたが言うように絶対に間違っていないし、正しいことだと思います。また、あなたの優しさの表れだと思います。
先生に相談したが、「うまくいかない」、いじめ解決の難しさをみる思いがします。だからといって、いじめという悪に対して、泣き寝入りをすべきではないというのは同感です。
いじめをしている人に対する怒りを相手に向けるか、自分に向けるか…。あなたは、相手に向けるべき怒りを間接的に絵で表現しました。絵の中で、相手を徹底的に攻撃し痛めつける…「死体の絵」という表現方法で。
人間の相手に対する表現は、実際の行動(殴る、無視するなど、目や体でわかる)つまり「身(しん)」、言葉(傷つける言葉を相手にぶつけるつまり「口(く)」)、それと心の中で思うこと「意(い)」の三つがあります。あなたの絵の表現は、「心の思い」(意)であり、実際には相手には伝わっていないかもしれませんが、あなたの心の中の動きは、『意』で相手を傷つけています。つまり実際に相手を傷つけていなくとも、そのような絵を描くことで、あなたの善性は傷ついていきます。そして意識の下に沈められていくでしょう…悪の行いとして。
善とは、「人の命を活かしたり、育んだり、幸福をもたらす」身・口・意に対して、悪は「人の命を傷つけ、委縮させ、不幸にする」身・口・意になります。
善を人に向ければ、自分の善が育まれます。逆に、悪を人に向ければ、そのまま自分の心の悪が蓄積されます。まさに鏡の原理です。全部、自分に還ってきます。今、いじめをしている人たちは、悪の行為を重ね、それは彼らの無意識層の貯蔵庫に貯められ、やがて、本人たちを苦しめることになるでしょう。悲しいかな、すぐに結果がでないだけに、人間は悪を重ねてしまうものです。人間の心の因果に対する無知のなせる業であり、心の妙法が見えないからできることです。
せっかく、絵を描くのであれば、表現の仕方を変えて、世の中に発信してみたらどうでしょうか。例えば、「〇〇高校でのいじめのイメージを絵に描いてみました」と、いじめている人といじめられている人、周りの傍観者や先生などを取り入れた絵を描いて、SNSやユーチューブなどに発信し、世の善なる人たちに訴えてみるのです。「怒り」を「公憤」に変え、同じようなことで苦しんでいる人たちを助けていくのです。
あなたの絵の能力がそのように活かされていけば、最高の善なる行いになると思いますが、どうでしょうか。