60年前、昭和35年ごろ、どの学校にも不登校者はほとんどいませんでした。いたとしても、家が貧しくて家の仕事や子守のためか、病気のために学校を休んでいるのが理由でした。子どもの数は団塊世代と言われたように、中学校では、1クラス50名、一学年500名ぐらいは平均的に在籍していました。そんなに多くいたのに、今のようないじめも不登校もほとんどありませんでした。なぜ現在のようになったのでしょうか。
昭和55年ころになると、小中高で非行が増加し、社会や親に反抗する形で子どもたちは、不満を発散していきました。当時の不登校者は、外を徘徊したり、遊び回ったりている子どもが圧倒的でした。
平成になり、非行は徐々に減少し、外への反抗のエネルギーは個人の内面に向かっていきました。
その間、世界・社会は科学の進歩の恩恵を受け、便利社会が出現し、人間は快楽志向となり、快適さ便利さ、スピード化が進みました。それにつれ、人間は不快や不満、遅さに耐えられなくなり、人間の大事な要素である忍耐力は減少していきました。
科学の進歩、物質的豊かさと心の進歩は比例せず、むしろ反比例しています。精神不調者は増え、鬱、不安障害、適応障害、発達障害などバブルのように爆発的に増加し、精神科医療と製薬会社が大繁盛するようになり、心を病む人が増えていきます。ここにも情報化社会、コマーシャリズムの陰の部分があります。
情報は個人で正邪が判断できないほど溢れ、テレビ、ゲーム、スマホに人間の頭はハッキングされているような観さえあります。人々は、自分で考えることをせず、受け身に情報にさらされ、判断は快不快が基準になっていっています。結果人間の大事な部分である自立心が弱くなり、依存性を強め、メンタルを限りなく弱めています。あたかも情報や快楽やお金やスマモにマインドコントロールされているようにも見えます。
不登校は大人社会が作り出した産物なのです。子どもは未成熟であり、親や大人社会の中で模倣としての学びを続け、成熟していくからです。不登校を減少させるためには、迂遠に映るかもしれませんが、大人が生き方を変え、社会の在り方変えることが抜本的な解決になると思います。
不登校の多くの背後に得体の知れない不安が存在しています。その不安の正体は、人間のよりよく生きたいという本能的な欲求であり、誰人もが持っているものであり、特別なものではありません。言葉を変えれば「適者生存」という人類古来の生き抜くためのギリギリの選択が不登校という形をとっていると言えます。
不登校者にとって学校に行く事は得体の知れない不安との戦いになります。不安の強い中では、自分を守ることが精一杯であり、見えないものに対して無意識で構えているのです。いつ外敵から攻撃されるか分からないからです。みんなと一緒にいると自分も守られるという感覚が無意識にあるからです。そうした意識はしていないが確かに存在する所属感に伴う安心が薄れているところに不安は強まります。そうした所属に伴う安心がないと自分で自分を守ることが難しくなります。
そうした得たいのしれない感情は、五感と意識から緊張となって自分にささやくように言います「一人では自分を守れないだろう」と。そして不安に心が支配されてしまうのです。
もし自分を守ることができれば登校できるようになります。なぜ自分が登校できないのでしょぅか。生き残りたいという本質的な生存本能から不登校も起きています。それがわかれば不安解消の道も見えてきます。さあ始めましょう。どうしたら不安を乗り越えられるかを…その道を探してゆきましょう。それには自分を知ることです。自分の感情を知ることです。人間の感情と思考の関係を知ることです。人間の意識が、行動が、自分で制御できない感情や無意識につきうごされていることを知ることです。つまり人間そのものを知ることです。ソクラテスの、「汝自身を知れ」「自分が無知であることを知りなさい」という言葉が響いてくるようです。
それがわかればあなたの不登校は解決できるでしょう。つまり不登校というあなたの人生の一部が、あなたの学びを促しています。あなたの成長を願っているのです。不登校はあなたという人間全体が向上することへのメッセージなのです。
人間は、思考を持った感情の生きものです。「思考を持った感情のマシーン」と表現した神経学者もいます。つまり感情が人間全体をコントロールし、思考はその一部です。とすると思考や意識で感情はコントロールできないことになります。では感情をコントロールするにはどうしたらよいのか…。
それは今の瞬間を生きるということです。今の瞬間に意識を集中することです。人間は意識を含めた6つの感覚器官があり、この6つの感覚器官が感情を受信しています。特に5感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身)です。身体の感覚と脳の働きです。詳しく言えば、脳内の神経伝達物質が人間の感情を操作しているといえるでしょう。
人間が求める最高の気分、それは歓喜。ベートーベンは、それを「喜びの歌」で表現しようとしました。生命の中から沸き起こる喜び、歓喜に勝るものはないでしょう。つまり人間の感情の最高のものが歓喜という喜びなのです。もっとも、最低の感情が苦しみにまつわるものです。とするならば、感情は苦楽に集約されると言ってよいと思います。
怒りイライラ、焦り、満たされない、不満、不利益、馬鹿にされる、下に見られるなど。つまり、ブッタ(釈迦)が説かれた地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の生命が苦しみに最もかんけいしてきます。この生命感に入る感情を分類すれば、人が避けたい感情がはっきりします。心が沈む、心が締め付けられる、心が閉じ込められる、心が苦しい、心が思い通りにならないなどは地獄界の感情です。心が焼き付くように満たされない、心がとらわれる、これらは餓鬼界の感情です。不安や恐怖は畜生界。恥ずかしさ、馬鹿にされた、見下げられた、などは修羅界の感情です。これらが苦しみの主な感情であり、いずれも苦しさを伴います。
逆に楽しみの感情は嬉しい、天にも昇る気持ち、満足、ご満悦、充実感、満たされた思い、長く続く喜び、永続する喜び、快楽、気持ちがいい、気分が良いなど、人間が最も求めている感覚です。これらも多くは餓鬼、畜生、修羅から得られます。または自分に打ち克つことで得られます。それは人間界に伴うものであり、また天界に属するものになります。
これらの感情は、いずれも身体5つの感覚器官+意識が脳を通して感じるものなのです。しかし環境が変わると感情も変わります。今述べた世界をブッタは六道の世界と名付けました。これは、環境に左右されやすい世界ですが、自らの力で関係する環境(例えば、苦しい職場に行かない、嫌な人を避けるなど)を変えることもできます。
しかしどんな感情も長続きはしません。何かを達成した時、例えば合格や宝くじが当たったなど。その時は最高に嬉しく喜びの絶頂かもしれませんが、そのもすれば感情は数日も続くでしょうか。反対に怒り、この感情も1 日も続くものでしょうか。悲しみ、例えば愛する人が死んだとします。その悲しいみは、自然にしておけば3ヵ月でかなり薄れていきます。
つまり今の瞬間、目の前でやっていることに対して意識を集中していくと、感情は薄れていきます。なぜなら今、意識を向けている、それに伴う新しい感情が生起するからです。だから、嫌な感情から離れるには、その嫌な感情に伴ういろいろな雑念観念をそのままにして雑念の流れるに任せます。そして今やっていることに意識を集中します。それが習得できれば感情に支配される事なく、苦しみの感情から解き放たれていきます。
臨床心理シランの室の「セルフ感受療法」は、その修得を目指しています。
公立の小中学校の通常学級に、注意欠如多動性障がいなど発達障がいのある児童生徒が8,8%在籍していると推定されることが、文部科学省調査(令和4年12月)でわかったとマスコミで報道されました。2002年に実施された「全国実態調査」で、6%近くがLD、ADHD、高機能自閉症(今の自閉症スペクトラム)により、学習や生活に特別な支援が必要とされるという報告がなされことに端を発しています。それを受けて、2004年に「発達障害者支援法」が成立し、現在のような特別支援教育が始まりました。
この調査に科学的な根拠がない理由はいくつかあります。まず、この調査を実施しているのが、学校の担任教師です。専門家チームが作成した75項目を担任の主観で調査し報告するという方法をとっています。質問紙調査ですから、客観性より主観に依存します。
二つ目は、75項目のチェックリスト項目自体が、とてもあいまいであり、調査する人の解釈によって変わるということです。担任は心理の専門ではないので仕方のないことですが、この結果がマスコミを通して世間に拡散されるのですから、怖いことです。
三つは、「発達障害」自体の科学的根拠です。「脳の中枢神経に何らかの要因による機能不全があると推定される」と報告書に記載されていますが、「推定」は仮説であり、実験証明されたものではなく科学的根拠になりません。研究を重ねていますが、まだ真実はわからず、やはり「推測」「仮説」の域にとどまっていて、ただ似たような状態像、症状を呈しているという現象があるだけなのです。いくつかの症状が該当するかどうかの聞取りで多くの精神科医は「発達障害」を診断(診断マニュアル、DSM5…診断のための教科書のようなもの)していると言われています。
そもそも「発達障害」という言葉、カテゴリーのとらえ方が問題です。日本語では「障害」と翻訳していますが、アメリカ精神医学会の用語は「disorder」で翻訳すると、「変調や秩序の乱れ、正常な状態から外れていること」と言う意味になります。これを「身体障害」と同じ障害のように理解すると、いかにも重たいものに感じてしまいます。
また脳機能と発達障害の関係は科学的には解明されていないと言われています。それにも関わらず、医療業界、製薬会社、行政機関が一丸となって「患者を掘り起こす」「啓発」活動に力をいれていくという結果となり、発達障害は空前の流行となり、うつ病バブルに続き「発達障害バブル」期に入っています。つまり、科学的根拠がない、推定・仮説の領域で作られたものなのです。マスコミが拡散したといってよいでしょう。
恐ろしいのは、発達障害バブルによる早期予防教育が未熟で不完全な子どもたちの個性や可能性を伸ばす方向ではなく、こどもの異常をいかに見つけるかに重点が置かれている点です。私が最も恐ろしいと思うことは、脳の発達成長期にある子どもに対する精神病薬の服薬とその副作用です。副作用の影響性も実証結果はありません。精神科医や専門家を安易に信じる前に、親は真実を確かめる賢さが大事てす。それが子どもを守り育てる本当の愛情だと私は思います。
「何も考えず 権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である」 アインシュタイン
人は自らの本来のありのままの姿を知らないところから苦しみを招いています。自らを知り本来の自分に目覚めれば、不調は調和され、今まで以上に健康になっていきます。本来の生命は健康そのものだからです。
人間は長い歴史の中で、「よりよく生きる」ために生命の真実に迫り、その解明に取り組んできました。人の身体についての解明は、現代科学の恩恵のもと、実験、研究、分析の結果、多くの身体疾患の原因も究明され、今日まで不治の病とされた感染症(結核など) を始め多くの身体疾患が治療できるようになりました。一方、身体医学分野でも難病は増加し、原因不明の病気は数多く多くあります。世の中の変化、自然の変化、人間の変化に伴って新しい厄介な病気も増えています。結論すれば、新たな病気は全て人間が作り出していると言えます。その自覚に立てば、病の原因も見つかると思います。
2000年以上前に、ギリシャ哲学の祖であり人類の教師と言われているソクラテスは「汝自身を知れ」と叫び、「無知の知」を説きました。
人間は、何もわかっていないのに知ったように生きている。自分が生きていることの不可思議さ、自分の肉体、心、意識… なぜ、意識していないにもかかわらず私たちの生命は活動をしているのか。また自分の心身を動かしているのは、何なのか。 この命の働きは一体どこからくるのか。生とは、死とは?などなど、知らないことだらけだというのです。
以来2000年の時が流れましたが、人間の心は何一つ解明されていないといってよいでしょう。脳と意識の関係、脳が先なのか、意識が先なのか?
なぜ夢をみるのか、なぜ意識できない世界があるのか、人間の意識の指令はどこからきているのか、何故意識もしていないのに血液は全身を休むことなく巡っているのか?人間の意識を支配しているのは無意識なのか…など。
何一つ科学的解明、実験実証がなされていません。それなのに、なぜか精神疾患名だけが年々アメリカ精神医学会で新しいものが作られています。つまり精神障害名の増加です。その根拠は、症状判断です。○○障害と診断されるマニュアル基準によってなされるという、主観的曖昧診断であり、およそ科学的とはいえません。
さらに曖昧なのが、その診断のもとに投与される精神病薬です。心が解明されておらず、原因も分かっていないにも関わらず、どこを的にする治療薬なのでしょうか…。抗ガン剤はかつて「殺細胞剤」と医療界では呼ばれていたそうです。がん細胞も殺しますが同時に健全細胞も殺します。副作用とは、健全細胞を殺すということです。免疫力が下がるのは当然の帰結でしょう。
「医は算術なり」
悲しいかな、それが現状ではないでしょうか。潤っているのは、心療内科(精神にかかわるクリニックなど)、製薬会社、そして政治家。苦しんでいるのは精神不調の心を病んだ人です。大いなる矛盾ですね。
心の不調は、それを作り出した自分が治すしかありません。なぜ心の不調に陥ったのか。全ては自分の心の働きが原因なのです。つまり自分の生き方、自分の意識、自分の感情や欲望に原因はあるのです。ですから解答も解決策も治療法も全て自分の中に潜んでいます。自分を知れば心の病は治ります。本来人間生命には、いかなる病を治す力を秘めているのです。それを宗教的な言葉でいえば、「神の力」であり「仏の力」というのです。教育的表現をすれば「無限の可能性」とも言えます。
日本の哲学者西田幾多郎は「善の研究」の中で、それを「本源的欲望」と名付けました。また、フランスの生命の哲学者ベルグソンは「エラン・ビタール」(生の躍動)と表現しています。「神は死んだ」(書ツラツウストラ)という言葉で有名なニーチェは超人と比ゆ的に述べています。
その不思議な力は関係性によって内から発動してきます。人間は常に関係性(対境とも縁とも環境とも表現できます)の中で生きています。何に縁するのかが大事になります。自分の力を最大限に引き出すために、古来から師の存在の重要性が説かれてきました。人生の善き師、善き先生、善き先輩などの存在が自分を引き出してくれます。
例えば、あらゆる病を治したと言われる医王のブッタ(釈迦)、ソクラテスのような人類の教師と言われるような人、あるいは人の善き道を教えた孔子、老子…、 または古人の書が善縁となる人もいるでしょう。平凡な民衆の中にも優れた人格をもった善き人はいます。ほとんど無名の小欲知足の人ですから、社会的には目立たない人が多いと思います。本物の人物は、小欲であり、富を求めず名誉を求めず、人の喜びを喜びとし、人の苦しみを自分の苦しみとするような人です。
自分の潜在する力を引き出せるかどうか、それは善き人(善縁)に出会えるかどうかにかかっていると言えます。
回答
人を見れば、悩みもなく苦しみもなく、幸せそうに生きているように見えます。なぜ、自分だけが苦しみの人生を送らなければならないのかと、自分が嫌になるかもしれません。周囲の人を責め、環境を責め、最後は自分の無力さを責めてしまう。自分や他者を責めれば責めるほど生きる気力はなくなっていくようです。
太陽は今日も地球上のすべての生き物を育むかのように平等に光を注ぎます。自然の山川や草木も本来、太陽と同じく他の生き物を育むように生きているように見えます。他の生命を育む…慈悲の働きと言われています。人間も本来、慈悲に包まれた存在と聴きました。母親は無償で子の命を守ることがあります。私たちも大事な人を大切にし守ろうとします。それは私たちにも慈悲の心があるからです。
私たちは生命の大地の源に潜む慈悲の働きに支えられているからこそ生きていると言われています。ただ環境の中で、それが発現されず眠ったままなのかもしれません。
三重苦の中でヘレンケラーは、サリバン先生と出会うことで、自らの心の中に眠っていた慈悲に気づき、将来、自分と同じような障害者のために命を注いだと言われています。ヘレンケラーは、障害を否定せず、障害を受け入れ、障害と共に生き、障害を持つ身でできることの可能性を見出し、自分を生きたのでした。その生きざまは、彼女の人生の意味でもあり、人間のもつ力のすばらしさを私たちに示してくれたようです。彼女は慈悲の体現者であり、慈悲に生き、それを多くの人々に気付かせ、私たち人間に限りない勇気と希望を与えてくれています。私も小学生の頃、彼女の自伝を涙ながら読んだことを昨日のように思い出します。
あなたの生きる意味は深いものがあります。かけがえのない意味があると思います。今の苦しみにも意味があります。あなたがあなたにとって大事な人のため、愛する人の役に立つために、今苦しんでいるともいえます。今のあなたは仮の姿ともいえます。本当の自分を生きる日が必ず来ます。そのとき、あなたはあなたの人生の意味を悟るでしょう。それは幾多の苦しみを乗り越えた先に見えるあなたの人生の意味なのかもしれませんね。あなたの人生の意味はあなたにしか解けない問題といえます。
世界の偉人もみな苦悩の連続の中で、その苦しみの辛さに耐え続け活路を見出し生き抜き、彼らなりに人生の意味を悟ったと思います。そうした苦悩を乗り越えたから、人の苦しみに涙することができ、他者の苦しみに共感できる人間になったと思います。
この世の全ては不確実で、安定したものは何一つありません。すべては移ろいゆき、変化していきます。いくら執着しても、すべては流れゆき、やがてなくなっていきます。それが人生の覚者が教えてくれた「諸行無常」の意味です。
しかし、確実なことが一つあります。それは、生まれたものは必ず死ぬということです。みんな、いつかは死にます。人間も地球も太陽も…。この世のものはすべてに差異や差別がありますが、死は誰人にとっても平等に訪れるものです。また今、生きているという生命のかけがえのない不思議さも平等です。私たちが持つ可能性も平等です。つまり生命のもつ内在的な力や働きはすべての人に平等に与えられているのです。それを知ることが生命の悟りなのです。多くの人は自分の心の中に内在する力を信じられず、見えるものや他者と比較し苦しんでいるとも言えます。それらは移ろいゆく、はかないものに過ぎないのですが、目先の欲が生命を曇らせるのか、執着が心をゆがませるのか…いずれにしても正見になっていないことが苦しみを招いているようです。
あなたは、あなたの過去が、心の苦しみとなり蓄積され、今のあなたを苦しめ、未来を閉ざしているかのようです。それらが、あなたの考えや気持ちに影響を与え、否定的な思いや感情をもたらしているように見えます。あなたの生きる力を奪い、可能性の芽を摘むかのような、自己不信に陥っているように思われます。
あなたの最大の敵は、あなたのあなたに対する不信ともいえます。安定できるはずはありませんね。安心もないでしょう。あなたの心の大地であり、心の拠り所であるあなた自身という自己を信じていないのですから、揺らぐのは当然です。
「明日は明日の風が吹く」という開き直り、なんとなく未来を信じるという楽観的な生き方こそ、今は大事かもしれませんね。そう、なんとかなるさという思いでいいのです。明日を信じて生き続けているうちに、自己に対する信がやがて培われていくでしょう。
今の自分をありのままに見つめ、受け入れ、時の流れに身を任せて、水が流れるように自然にまかせて生きていけばよいと思います。
あなたには、今、癒しが必要のようです。自然の慈悲の波長に心を合わせるとよいと思います。五感を使って心を癒すのもよいと思います。
目…心を癒すものを見る。朝焼け、夕焼け、海、空、花、自然、山、川、絵など…
耳…癒される音楽、鳥の鳴き声、せせらぎ、、好きな人の声など
舌…自然食、コーヒーや紅茶、ハーブティー、など
鼻…いい匂い、自然の草や木や花の匂いなど
身体(触)…自然のなかの散歩、複式呼吸、温泉、入浴、陶板浴など
意識…読書、友達との楽しい会話、日記を書くなど
あなたを理解してくれる人に、自分を語ることもよいでしょう。日記をつけ自分を見つめることも一つの方法です。良書・名作(自分を高めてくれる書)にふれるのもよいと思います。
一日も早く苦悩の闇から解放され心が晴れ、明るく前を向いて歩ける日を祈っています。
地獄は、想像もできないほどの苦しみの極致の世界をいいます。人間の能動性、自由は一切奪われ、ひたすら苦しみを味わう境地が地獄です。自分の生命の中にある地獄の世界から脱出することもできない境地、それが地獄です。自分の生命そのものが地獄の苦しみを受けているので、何をしても、どこにいても、地獄を味わうのです。他人には絶対に分からない苦しみの境地です。そんな境地は、だれしも避けたいし、なりたくないものです。
しかし、瞋り(いかり)が、私たちを地獄につれていくのです。
では、なぜ瞋りが地獄を誘うのでしょうか。
「怒り」正確には「瞋」(しん、いかりとも読む。目が怒りで一杯になる様子という意味)それは 苦しみをもたらすものに対して憎み、それをたたく、破壊する。害する。憎恚(ぞうい)することです。
瞋りは、あらゆる生命あるものを破壊していきます。戦争は瞋りから起こります。現在のロシアの戦争が、指導者の瞋りから端を発し、多くの瞋りを誘発し、今や、戦場は地獄絵図と化しています。
何も戦争だけではなく、争いの多くは瞋りから起きています。争いは地獄という苦しみをもたらします。
瞋りは自分に不利益をもたらすもの、思い通りにならないものに対して、憎み、攻撃し、恨み、害していく性質をもっています。瞋りが相手に向かえば、争いとなり、相手を傷つけ、相手を地獄の世界に巻き込みます。瞋りが自分に向かえば、自分を傷つけ、傷め、攻撃し、最後は自分を害する自殺まで追い込んでしまいます。
心の病、鬱などの根底に瞋りが渦巻いているのを私も経験から何度も目にしてきました。
「瞋り」はどうして起きるのか。また怒りにはレベルがあること。そして瞋りが善につながこともあること。さらに瞋りからの解放はどうすればよいのか。
怒りの原因の一つに、対象への強い執着があります。それも自分にとって利益をもたらすものに対して瞋りは生起します。例えば、お金、地位、好きな人などを手に入れたい、自由にものにしたい、支配したいなどの欲望です。それを阻止されたり、思いどおりにならなかったりした時、人は瞋ります。執着の強さによって、瞋りの強さも変わってきます。ですから、自らの執着の対象や強さを知しらなければいけません。同時に、思い通りにならなかったとき、どのようにして自分の瞋りを押さえるのかを身につけなければなりません。
飛んで火にいる夏の虫
夏の夜、多くの虫たちは灯りを求め、火とは知らずにその中に身を投じて死んでいきます。灯りの正体が火であることを知っていれば、そこに近づくこともなかったでしょう。つまり、灯りを求めた欲(本能)が先のことを考えずに行動し、その結果が招いた不幸です。これは、何も虫の世界のことだけとは言えません。
現代社会は、欲望追求社会であり、経済優先社会であり、「売ること」「利益を得ること」が至上の価値のようになってしまっています。例えば食べ物であれば、見栄えや味をよくする、加えて安価であればお客は寄ってきます。テレビコマシャールの視覚に訴えるための涙ぐましい努力の裏には「良く見せる」そして「売る」という心が見えています。多くの人たちは、操作された情報に疑うこともなく、商品の中身の実体も確かめることもほとんどありません。
食べ物の中に使用されているかもしれない添加物や素材の劣悪さなど知ろうしません。結果、食べ続け病気になっても、まだ真実に気づかない人は多くいます。食べ物に関して言えば、日本は添加物大国であり、世界でも添加物の規制がゆるい有数な国なのです。外国で危険性が高いということで禁止されている添加物も使用が許可されていると言われています。
節制を知らない食べ物への欲の強さが、ものごとを見極める目を曇らせ、まるで「とんで火にいる夏の虫」と同じ行動をとっています。目先の欲に振り回され、先を見ず、行動した結果、苦しみを味わう人を多く見てきました。
何も食欲だけではありません。人の金銭欲は凄まじいものがあります。現代社会は「拝金主義」の宗教信者で溢れていると言われています。金さえあれば何でもできる。金があれば人の心さえも買えるという浅薄な思想です。金が欲しさに、盗みや詐欺をしたり、賄賂をもらったり、平気でうそをついたりします。さらにお金のために親子や兄弟の醜い争いを引き起こし、大事な肉親を失う結果になることもよくあることです。様々な不正の根本の原因に、お金に対する目先のあくなき欲(貪欲)と執着が見られます。悪事が発覚したら、どうなるのかという先のことは、強欲が曇らせるのです、お金のもつ快感に理性が麻痺するからです。
仮に、社会の法律を潜り抜けたとしても、人間の行為は全て脳に記憶されると脳科学は教えています。そして人は、死ぬ瞬間に生前の行為のすべて見る儀式が訪れるとされています。つまり、自分が自分を裁く時間が死の世界の入口で行われるのです。これは厳しい瞬間です。人や社会は騙せても自分は欺けないということです。
社会的地位(管理職、課長、社長)を得るため、人を押しのけたり、傷つけたり、また自分を押し殺し、上司の言いなりになったりしている人は、まるで先のことは見ていないかのようです。そうした行為がいかに浅ましいことなのか。人間として恥ずかしいことなのかを考えていないような癡(おろか)な行為です。例え、地位を得たとしても、人間としての信頼を失ったり、自分らしさを失ったりし、周囲の人から軽蔑され、人間としての信頼はなくなってしまいます。小を得て大を失ったことに気付かないほど愚かにさせるのも目先の欲への執着なのです。欲のため「火の中に飛び込む虫」のように癡なことです。
異性に対する欲、性欲、不倫、盗撮、わいせつ行為、ギャンブル欲、DV、虐待、暴力、支配欲、名誉欲、など種々の欲で先が見えなくなる人間の愚かさが、自分も人も苦しみに誘い、地獄を味わうことすらなりかねません。
心が不調、あるいは子どもに発達障害の傾向がある、または不登校などの理由で、すぐに心療内科や精神科を受診する人がいます。これも目先の欲(精神科にかかれば治る、改善できると信じる。そして疑うこともなく、服薬し、副作用に苦しんだり、薬依存になり、根本的には治らず、病院通いが長期間にわたる)にかられた行動の一つです。まずは、自分や子どもの状態を正しく知ることが大事であり、精神科医療が何をするのかを知ること、さらに薬について知ること、そうしたことが無知による不幸を防ぐ賢明さなのです。精神医療を妄信せず、自分で確かめ考えることが依存を防ぐ自立の道にもつながります。
本当の知性(智慧)とは、行動をコントロールできる智慧であり、後先をきちんと見極められる智慧であり、行動を抑制できる知性なのてす。それは日々の欲とのせめぎあいの中で、立ち止まって先を見つめるという行為(知性の戦い)の積み重ねの中で磨かれ、身につけていくものなのです。机上の学問ではなく、実践知であり、体得智ともいうべきものです。こうした智慧が、目先の欲に潜む愚かさを見抜き、自立した人間を作っていくのです。
苦しさは対象(自分の心の外にあるものや人、過去の自分やできごと)に執着することによって作られます。執着はやがて、心の濁りや汚れ、偏執となっていき、心は自由を失い、対象に縛られていきます。身体で例えるなら、腸や血液の汚れが体の病気の原因になっているようなものです。
思春期、青年期に生きる人は心がきれいで純粋です。それゆえに、自らの心の濁りや汚れに耐えられなくなります。また周囲の大人の欲に執着し、自分のことしか考えない生き方をする人に嫌悪感を抱くでしょう。それが心を苦しめる原因になったりします。
心の濁りや汚れは何が原因で起きるのでしょうか。それは仏教哲学(ブッタ=仏教の開祖釈迦・生命の真実を悟ったとされている)が探究してきた課題でした。ブッタは心の汚れは人間の煩悩(とらわれた欲望・秩序を失った欲望)にあると究明しました。しかし煩悩(欲への執着)は人間が生きている証でもあり、私たちは煩悩をなくすことはできません。
煩悩が自分のことだけに使われてしまうと、心は汚れていきます。地位、名声、富、お金、財宝、衣服、宝石、家、土地、健康、才能、人間関係、好きな異性、食べ物、酒などに対する執着、そういったものを手に入れたいと人は追い求め、執心してしまいます。なぜなら、それらを得ることができれば幸せになれる、楽しい人生になると思っているからです。その結果、欲望達成のため、自己中心的な生き方になり、いつしか心が汚れていくのです。その心の汚れが、正常な思考や理性を曇らせ、ますます目先の快楽や心地よさに自分を忘れさせていくのです。結果、心の汚れや濁りは深まり、本来の清らかな心は失われていくのです。
また求めたものが得られないと、人は苦しさや怒りを感じます。ですから求めたものを得ようと、後先考えずに他者を犠牲にしたり、傷つけたり、裏切ったりすることさえあります。その執着(対象へのとらわれ)が心を濁らせ、汚していきます。やがて、それが積み重なり苦しみの原因になっていき自縄自縛になっていきます。執着を解き放てば解放されるにもかかわらず。
物事のとらえ方、見方、考え方という知識する力、認知の深い心の深層に、実はこの煩悩が渦巻いているので、知識では、これらの心の濁りや汚れを浄化することはできないのです。有名大学をでているとか、政治家、大学者、著名な知識人とか宗教家、医者とか全く関係ないのです。自分を飾る外面は役に立ちません。つまり心の問題だからです。
ましてや、精神医療の薬などは論外といってよいでしょう。当然のことながら、薬で煩悩の浄化はできません。薬は依存心(執着)という新たな煩悩を産み出し増加させ、悪化させることはあっても、好転は望めません。執着が依存を強め、正しい物事の見方や道理を曇らせるのです。執着(依存)すると人は、盲目になり物事が見えなくなってしまうものです。
煩悩に効く薬は、生命の真実に迫った智慧(悟り)しかありません。それも実践から生み出された智慧です。生き方の転換から得られる智慧であり、修行で得られる体得なのです。
かつて仏教の修行者が断食したり、妻帯肉食を禁じたり、女色や酒を遠ざけたり、世俗(一般社会)を離れ、社会的名声から離れたり、真冬でも滝に打たれたりなど数多く欲への執着を断つ修行、心の清めの修行をしたとされています。しかし、これらの修業はブッタが説いた真の教えの部分観であり一部と言われています。これらは悪しき煩悩を断ずる生き方であり、修行の結果は煩悩を滅してしまい、生きる根本の煩悩(欲望)も低下させてしまいます。つまり煩悩を健全な方向で活かすというブッタの教えではないと言われています。
欲への執着がなければ、人間の進歩も成長もありません。欲望は善にもなれば、悪にもなります。つまり、欲望をどのように使うのかが問題なのです。自らの欲望(貪り)を明らかに見ていくことが肝心なのです。ある場合は、執着する対象から離れることも必要になります。「君子危うきに近かずかず」とはこのことを教えています。
また自分の利益のためだけに欲望を使うと心は汚れていきます。太宰治の「走れメロス」の主題は、このことを描いていると私は思っています。登場人物の王様は、私利私欲に執着する臣下を次々と殺していきます。きれいごと言う仮面の裏にある醜い人間のエゴが王様には見えていたからです。だからこそ、そのエゴの醜悪さに我慢がならなかったのです。王様はある面では青年の純粋なきれいな心をもっていたのです。それは研ぎ澄まされた太宰治の心眼でもあったのです。やがて王様は、友人のために自らの命さえ引き換えにするメロスの純粋なきれいな心に感動し心を開いていきます。そして、「私も友の仲間入りをさせてくれないか」とお願いします。
欲望を自分も利し人も利していく方向で使かっていく。つまり欲望を人に貢献するために使うと心は清められていくことを教えてくれています。執着対象の転換です。「走れメロス」は、人は何に執着すれば善になるのかを教えてくれているようです。
こうした生き方が今の人間社会に欠けているといってよいでしょう。人間が自己中心的な欲望(エゴ)で濁り、社会にエゴが充満し汚れきっているのです。その結果、人々は迷いの苦海に漂っているのです。しかも、そのことに気付いてさえいないのです。
また人間や社会の煩悩の濁りが、自然の種々の災害を呼び起こしているといってもよいでしょう。なぜなら、人間と環境は一体であり、身土不二(身=人間、土=人間が住む環境)だからです。つまり人間と環境は相依の関係で成り立っているのです。
人間が本当の意味での共生、つまり自分を利すとともに人をも利していくという生き方、それがすべての生命あるものの本来の姿であり、人間の心の浄化をもたらします。そして心は解放され、自由になっていくのです。
そもそも病は、心身がバランスを崩した状態、不秩序の状態なのです。本来の人間の生命は、宇宙や自然と同じように深い部分で調和され秩序だった存在であり、健康そのものなのです。人間生命を含めた大自然は絶妙なリズムを奏でた一個の生命体であり、ハーモーにを演じています。心の不調はそのリズムから外れ、不秩序、不調和な状態になっているに過ぎません。心の偏りや歪みを正し本然のリズムに合わせ調律してゆけば自然に治癒していきます。
例えば発熱などの体の不調を起こした時、通常は休息していれば、自然にもとに戻ります。人間が本然的に持つ自然治癒力の働きが起こるからです。逆に早く治そうと、薬を多用すれば治るものも治らず、長引くことがあります。軽症の場合は、人間の持つ本然の力を信じ、時の流れに身を任せるが一番なのです。
心の病の場合、多くは考え方、物事の見方、とらえ方、煩悩(欲望)…怒り、貪り、癡か、憎しみ、嫉妬、執着、囚われなどが心の不調和をもたらしています。現代社会は、経済優先社会であり、人々は欲望に踊らされ、目は外に外に向かい目先の欲にかられ、心を見ようとしていません。科学や医学がすべてよくしてくれるという盲信に陥っている人が少なくありません。そうしたあくなき欲望や富や社会的名声・地位へなど心の外にあるものに対する執着が心の病を産み出し、医学への盲信と依存が心の病を増劇(ぞうぎゃく)させていると言われています。
しかし、多くの人が信じている科学信仰が心の世界には通用しないのです。心の世界は科学の力が及ばない世界なのです。科学は物質を扱う分析知には優れていますが、物質を離れた心の世界には手の施しようがないといってよいでしょう。心の世界は分析知ではなく直観智しか解けないとはブッタ(仏教の開祖、釈尊のこと、生命の真実を悟ったとされている)の言葉です。
自らの心の状態を知り、その本因を知っていくことで、自分の心を調和した状態に戻すことができます。つまり自分を知る、自分の心を知る、生命を知ることが心の病からの回復の道になります。
しかし、これがとても難問です。この難問に比べたら、ハーバード大学や東大に合格することなど朝飯前と言えるでしょう。この難問に立ち向かってきたのが、ギリシア哲学などあまたの思想哲学であり、宗教(仏教やキリスト教、イスラム教など)でした。しかし、説けてはいないようです。私も学生時代から、心の世界、思想哲学・宗教を探究してきました。今思うには、この問いの解明に最も肉薄しているのは、ユング心理学であり、唯識思想(仏教心理学)であり、法華経(釈尊の生命の全体を説いた真実の教えとされている)だと思うようになりました。
日本が生んだ偉大な森田療法(あるがままに生きることを目標とした療法)は、仏教なかんずく禅を根拠にしています。禅は20世紀にはアメリカ心理学の世界で大流行しました。現代のマインドフルネス(今の瞬間に集中する心身の在り方)も禅の考え方を根本にしています。これもアメリカからの逆輸入なのです。アメリカ人が開発し、日本人が学び、日本に取り入れているのです。禅宗という宗教はもともと1000年前、日本で武士の間に広まった仏教の一派(ブッタの部分観の教えとされている)なのです。
不可思議な生命に対して敬虔な心をもち、生命に対する深い洞察力を持ち、心のありかたに精通している人であれば、心の調律の手助けができるかもしれません。あくまで手助けであり、調律の主体者は本人です。本人が演奏するのです。そのためには、自らの生命について学ぶことが最も大事になります。人は死ぬまで学ぶ存在であり、自らを高めていく生き物です。そこにこそ本当の人としての幸福がもたらされるとブッタは説いています。それが畜(動物)との違いなのです。人は学び続けることによって人になっていくのです。病はそれを教えてくれていると言われています。