相談室(ブログ)

心の病は心療内科の薬で治るものなのでしょうか? 10年以上薬を服用していますが、全く改善していません。

2022.12.28

質問
19歳で心療内科にかかり「よくうつ」と診断されました。そのとき薬を三種類処方されました。数年たっても改善しないので、大きな附属病院の精神科に行き診察してもらいました。そこではADHD、適応障害と言われ、新たに薬が処方され、合計6種類になりました。一年たっても改善しないので、他の心療内科に行くと「軽度知的障害」「うつ」と診断され、さらに薬が増え、現在8種類の薬になりました。初診から、12年、病院は三カ所になります。全然改善していません。そちらの「自然療法」「認知行動療法」で改善は可能ですか。

回答
 よくある疑問です。臨床心理シランの室の来談者はそのような方が半数近くを占めています。薬が増えることはよくある話ですが、診断がころころ変わるというのは酷い話ですね。正確な診断ができないと暴露しているようなものですね。
当室では、五度以上来談面接された方は、ほぼ全員改善し自立しています。

 心の病を治すには、その原因を正確に把握しないと改善することはできません。これは外科や内科のことを考えれば一目瞭然です。例えば骨折した場合、どこが骨折してるのか、レントゲン撮り問診をすれば正確な診断ができます。また骨折と捻挫や脱臼(だっきゅう)の違いもほぼレントゲンなどで判明しますから、それに応じた治療が可能になります。腹痛の場合、原因は何なのか、ウィルスなのか、食中毒なのか、それ以外なのか、それらは医師の経験知、問診や検査をすればわかります。ですからそれに応じた治療ができます。

 ところが心に関してはその原因を見立てるのは困難です。「死にたい」「心が苦しい」「人が怖い」「同じ観念が心を苦しめる」などなど。原因、つまり、その病の起こりは何なのか。それも表層的な原因と根本的な原因があるのですが、それがわからないんです。なぜなら、心に対する深い理解と洞察がないからです。

 この不可思議な心は、未だに正確なところはわかっていません。現代科学(医学)では脳の働きの一部はわかっていると言われていますが、あくまで一部であり、心との関係性は分かっていないのです。ですから、心の病に処方する薬、これは脳に働きかけて一時的な症状を緩和することが仮にできたとしても、根本的な治癒にはならないのは当然と言えるでしょう。むしろ、わかっていない部分が多いなかで服薬すれば、作用・副作用を含め危険性が高いと言うことが常識的にわかるはずです。
 
アメリカで大規模な精神病薬の実験が行われたことがあります。鬱に処方されていたSSRIの有名なプラセボ効果の実験がありました。重症を除いた鬱患者への実験では、ほんものの薬と偽薬では、効果はほぼ一緒の結果が出たというのは有名な話です。つまり、本物もにせものも一緒、信じれば効果があるということです。「イワシの頭も信心から」ということです。日本は薬大国であり、薬大好きな民族と欧米の専門家から言われているそうです。日本人は昔から、お上に服従的な民族であり、自分で考えることを放棄することが多いと言われています。結果、権威(医者や医療)を盲目的に信じる愚かさや依存心の強さが問題になっています。薬大国を支えているのは、そうした国民なのです。

 心の不思議さはわかっていないし、加えて医師の見立てが不正確だったら怖い話です。心を把握していくためには、やはり患者さんと面接し話を聞かないとできません。何度か面接を重ね、言葉以外の、その人の人生の物語、生き方、考え方、その人の持つ全体像、見えない波動を見抜きながら、どこが病の起こりなのかを見立てていきます。

 これは最低でも五度ぐらい面接しないと見立てはできないでしょう。これを一度で見立て症状からマニュアル的に診断するのは、あまりにも非科学的であり、心の不可思議さがわかっていない暴挙と言われても仕方ないでしょう。
 名治療者とは正確な見立てができる人であり、心の不思議さに精通した人のことなのです。

不快なこと、嫌なことに耐えられない子どもや大人が増えてきている

2022.11.11

 科学の進歩は暮らしに快適な環境をもたらしてきました。60年前は、ほとんどの家に電話はなく、連絡は実際に相手に会って話をするか、もしくは、手紙を書くかしていました。手紙の場合は、遠いところでは2、3日かかったものです。特に文通などは、その間、いろいろな気持ちが湧き上がったり、想像したり、待ち遠しい期間でもあり、気持ちを抑制したり耐えたりする時でもあったのです。手紙は、ある意味一方通行の要素があるため、相手のことを想像したり思いやったりなど優しさが醸成されるものでした。

 行楽地に出かける場合は、公共交通機関を調べ、時間をかけ、何度も乗り継いだりして、目的地にたどりついたものでした。楽しい目的のため、忍耐しながら途中の風景を楽しみ、行く先々で道を尋ねたり、人とちょっとした会話を交わしながらの旅でした。ところが今は、自家用車で家から目的地まで直行できます。途中で自然や人との交流はほとんどありません。

 寒い日は今は暖房のスイッチを押せば部屋が温かくなります。昔は練炭に日をつけ、炬燵で暖をとっていました。練炭がおきるまで時間がかかります。しかし、炬燵は家族が一堂に会し、自然にたわいのない話ができていました。
 洗濯、料理など、日々の家事も便利になり人の手がかからなくなっていきました。それに比例するように人の温もりや温かさが失われつつあります。

 スイッチ一つで多くの用をたすことができるようになりました。動かなくとも快適な生活ができます。スマホ一つで寝ころびながら心地よい時間を過ごすことができます。その裏には不快に耐える心、不便さに耐える心が徐々に失われています。
いつの間にか、不快・不便さがストレッサーに感じられるようになってきました。多くの人が待てなくなりました。また、ちょっとしたうまくいかないことにイライラするようになってきているのです。

 思い通りにならないのが人間生活なのですが、便利さと快適さに慣れた人は、少しの不快なこと、不便をもたらすものに、イライラしたり、怒ったりしてしまいます。また不快なことを受け入れることが苦手になり、それから回避したり、逃げたり、攻撃したりしてしまいます。

 不快の対象がものであればいいのですが、人間の場合、対処がさらに困難になります。そして多くは心の不調につながり、環境に適応できない状態になってしまいます。つまり、「不適応」もしくは「適応障害」となってしまいます。苦しみや不快は、まずそのまま受け入れることができれば、活路は開けるものです。

自然はあらゆる生命(人間)を慈しむ癒しの根源

2022.10.31

空には太陽が正しいリズムにのっとり、地上の生命に光を注いでくれています。また地上の調和された空気(酸素など)も私たちの生命をつないでくれています。海や川の水は私たちに大きな恩恵をもたらしています。山、木々、植物、花、昆虫、魚、動物、大地、農作物など、すべての生命あるものが、絶妙な調和を保って相互に恩恵をもたらしつつ生を保っています。言うまでもなく、人も自然の一部なのです。

これらのことは日常意識されることなく、ごく当たり前のことのように私たちは享受しています。しかし、地震、洪水、気温の異常な上昇、台風や線状降水帯などの頻繁な発生を目の当たりにした時、自然の力に畏敬の念をもったり、当たり前と思っていたことが実は、どれ一つとってもかけがえのない自然の恵みであったことに気づかされます。

便利さの追求が自然を人工化し壊しつつある
科学は日進月歩し、多くの発明が私たちの生活を便利にし、物質的な豊かさをもたらしてきました。その代償の一つが自然の人工化であり、温暖化であり、異常気象と言われています。つまり、便利さや物質的豊かさという明の部分と自然破壊という暗の部分が表裏一体をなしているということです。換言するなら、私たち人間の物質的豊かさを追い求める欲望が自然破壊を加速させているとも言えます。

四季折々(おりおり)の自然の奏(かな)でる美しさ
日本は世界の中でも四季(春夏秋冬)がはっきりした国と言われています。そうした風土の特徴もあって、昔から日本人は自然美を詩歌や絵画や音楽などに表現してきました。平安時代の有名な随筆「枕草子(まくらのそうし)」には、「春はあけぼの 夏は夜 秋は夕暮れ 冬はつとめて…」と四季のもたらす情趣を繊細に詠んでいます。
 秋の夕暮れが醸(かも)し出す美しさは、赤く染まった夕焼け空を背景にして飛ぶ鳥の群れ…それらはどんな絵も敵わない情感を私たちにもたらしてくれます。また夜になると、鈴虫やマツムシの鳴き声に、ともに生きていることを感じさせたります。さらに、夜空には日によって形が変わる月、星空…。澄み切った青空。風にそよぐコスモス、色づいた木々など…。
心を癒(いや)し豊かにしてくれる自然にふれあうことから自然を大事にする心も育ってくるのではないでしょうか。

自然に帰れ…フランスの哲学者ルソーの言葉
「自然は人間を善良、自由、幸福なものとしてつくったが、社会が人間を堕落させ、奴隷とし、悲惨に
した。それゆえ自然に帰らなければならない」また、「人間の内的自然、根源的無垢(むく)を回復すべき
だ」とルソーは言います。これは原始的未開状態への逆行を意味するものではありません。また一切の
悪を社会の罪にして、人間の責任を不問にするものでありません。ルソーはあくまでも社会を人為の所
産(つくりだしたもの)とみて、社会悪の責任を人間に問うたのでした。

地球に生きる私たちは、彼の言葉を深くかみしめることが求められているような気がしてなりません。
自然を私たち同じ生命的存在としてとらえ、共に支え合って生きていくという共生の思想が求められていると思います。

生と死は隣り合わせ…韓国イテウォンの転倒事故に思う

2022.10.30

 今日のニュースで報じられた韓国ソウルのイテウォンの転倒大惨事。楽しいお祭り気分で賑わっていたはずなのに…。この不慮の事故で多くの若者が亡くなったという事実。数時間前には誰も考えられなかった出来事でした。亡くなられた方々は10代、20代、今後の夢のある人生が待っていたと思うと胸が痛みます。心よりご冥福をお祈り致します。

 朝、元気で笑顔を見せていた人が、夜には帰らぬ人となる。いつ、だれがそのようになるのかは予測がつきません。明日は、このようなことを書いている私自身の身の上かもしれないのです。生きていることと死ぬこと…生と死は表裏の関係にあるというのが厳しいですが、現実のようです。

 生ある人間にとって、もっとも大事なことは、最も確実である死ぬということを真剣に考えることではないでしょうか。死ぬ存在としての自分を覚悟して生きる。その覚悟に、本当の深い生き方があるような気がします。大事なものは、お金なのか、地位なのか、有名になるのことなのか、健康に生きることなのか…。それとも何人の人の命を育んだのか、何人の人に対して思いやりをもち優しくできたのか、愛情を注げたのか、役に立つ生き方ができたのかなど…。 死ぬ存在の自分を考えることによって、生きる本当の意味を考え、深い人生を生きれるような気がします。

嫌な感情をためこんではいけない

2022.10.30

 ハーバード大学の心理学者マクレランド氏は、「もっとも深い感情を自分自身の心の中にしまっておく性向のある人は、危機に直面した際に、免疫系等の力を弱めるホルモンを放出する」ことを明らかにしました。
深い感情…嫌な感情、つまり現代的に言えば強いストレス状態といってよいでしょう。ストレスの蓄積は万病のもとともいえます。ストレス過多が免疫力をさげることは現代医学でも証明されています。

 ここでいう深い感情とは心的外傷体験でつくられた、深い傷をともなった体験のことです。心の中に癒えることなく抑え込まれた感情は折に触れて傷が痛むように好転することはなくとも、体験の反芻によって強められることはあります。つまり、抱え込んでいる深い感情が緊張をもたらし神経を過剰に使わさせているのです。ですから、いざというときに力がでません。当然内外から襲ってくるストレスに対しての免疫は下がるでしょう。心身ともに…。
 
人はリラックスし緊張を感じない時のほうが力が出せるのです。当然免疫力も高くなります。嫌な感情は上手に表出しなければなりません。人に話したり、芸術で昇華したり、美しい自然に波長を合わせたりすることが大事です。

どんなカウンセラー、どんな心理療法を選べばよいのか迷っています。

2022.09.12

(質問)
30代男性です。不安、イライラ、焦り、意欲がでない、人に会いたくない、トラウマなどに悩んでいます。
一番きついのは、自分をコントロールできなくなり他人に危害を加えたりしたらどうしようと毎日悩んで疲れます。
二か所の心療内科にも行きましたが、診断名が、二か所で異なっていて、薬も増えました。カウンセリングを受けたいと思っています。ネットで検索するのですが、カウンセリングの種類がたくさんあり、自分にあった治療法がわからなく疲れて毎日が終わります。また、カウンセラーを選ぶ基準も、いろいろなカウンセラー資格があり、何がよいのかわかりません。カウンセリングで、こじらせて悪化したらと思うと、引いてしまいます。なにかよい基準があれば教えてください。

(回答)
薬物治療は一時的に症状を抑える効果はありますが、本質的な改善は見込めないと言われています。自らの自然治癒力が発動するかどうかが根本的治癒のカギになります。自然治癒力の発動を阻害している心理・社会・生物的要因を取り除くことが大事になります。それを可能にするのが心理療法になるのですが、あなたが言われるように、何を選べばよいかわからないのが現状のようです。

大事なことは見立て力のあるカウンセラーを選ぶことです。正確な見立てがあって初めて、改善へのプランができるからです。これは内科・外科・心療内科・カウンセリングすべてにおいて当てはまることです。外科医が「骨折」と「捻挫」の見立てを誤れば、治療法も変わり、結果、治るのも治らなくなります。まず、「見立て」があって、初めて適切な治療法が選択できるのは当然でしょう。

心理的な問題の場合は、見立てるには、人間を総合的に診なければできません。外科や内科では、レントゲンやCT、血液検査などをして分析をし、症状を正確に見立て診断しようとします。名医とは正確な「見立て」つまり、病気の本質を見抜くことができる人のことを言います。

まして分析が困難な人間の心を診るわけですから、いくつかの心理検査は最低限、必要になってくるでしょう。問診だけで、その人の人生経験全体を背負っている心の病を見立てるのは無謀とも言えます。

いいカウンセラーを選ぶ条件をいくつか述べてみます。

1 カウンセラーの資格 2 経歴、経験  3 専門性  4 カウンセラーの人格、教養、理念の高さ 5 金額  

1 心理カウンセラーとして、どんな資格をもっているのかを、まず確認することです。開業カウンセラーの資格は玉石混交です。無資格から数か月で取れる資格まで、色々です。唯一の国家資格である公認心理師と民間資格ではありますが、社会的に信頼度が高い臨床心理士資格が、まず信頼性の高い安全な資格だと思います。

この二つの資格は、大学院で所定の心理学や実習を終え卒業して試験に合格して資格をとっています。病院、教育分野、福祉分野では、臨床心理士公認心理師以外の採用は皆無です。このことが、資格の重要さを語っています。この二つの資格は、倫理規定など厳しい倫理性や社会的な責任が課せられた重たい資格でありますから、いい加減カウンセリングはできないようになっています。罰則もあるからです。

2  心理職として、どんな経歴、経験、実績があるかを知る
次は、どんな経歴や経験があるのか、どこに勤め、どんな仕事をしてきたのかなどが一つの基準になります。精神科病院や福祉、司法分野、教育分野や大学などで少なくとも5年以上の勤務経験があり、修行を積んできたかどうかです。どんな資格をもっていても、現場のキャリア不足では、クライエントの病態の「見立て」はできないでしょうから。

3  カウンセラーの専門性・得意な心理療法を知る
心の病は多岐にわたっています。歴史があり、研究実績があり、治療実績(エビデンス)の高い著名なものを選択するほうが間違いは少ないと思います。問題解決力があるかどうかです。期間は半年以内、回数も15回以内の、短期療法(ブリーフセラピー)がよいでしょう。認知行動療法的なものや、解決志向セラピーのようなものがいいかもしれませんね。

4  カウンセラーの人格・人間性…誠実、教養の高さ、理念の高さなど
カウンセリングが人と人の関係の営みである以上、カウンセラーとクライエントの関係は症状の改善に大きな影響を与えます。
ネット上で、プロフィールや考え方、人間観などの欄を参考にするのもよいと思います。カウンセラーが書物から引用したものを載せているだけではなく、自分の実践から獲得したもの…考えや理念などを述べているかどうかが一つの選択基準になると思います。広い知識を持つ教養の深さ、私利私欲がなく、奉仕の心に富んでいる。生き方としての理念の高さや哲学性などがどの程度あるか。見栄えをよくしたり、飾ったり、商業主義(金儲け)主義には注意したほうがよいと思います。今は情報社会で、視覚優位社会で、目先の欲に幻惑される世の中です。騙しがネットやマスコミ上に溢れているため、本物を見抜くことが難しくなっています。

5 金額
理想は安くて質のよいカウンセリングです。心療内科は、保険適用ですから通常3割負担(障害枠を使えば1割負担)、ですからたぶん3割負担で一回1000円から3000円で安いと思われますが、実際は国民全員が税金という形で負担しています。それを考えると心療内科の医師は、5分間治療と言われていますので、10分時間を使ったとしても、10分で、3000円から9000円近くが実質収入です。一時間に換算したらかなりの金額になりそうですね。医者がほとんど話も聞いてくれず、心の状態に合わせて、薬の加減をするだけだとのぼやきをよく聞きます。
カウンセリングは一回の時間が60分くらいが多いと思います。金額は病院の保険点数がありませんので、各個人が独自に決めています。

昔の名医は、安くてよい治療を施していたと言われています。今でも、そんな治療者を私は知っています。金額も安く、宣伝は一切していません。もちろんホームページもありません。しかし、質の高い治療を施しています。私も肩と腰を治していただきました。整形外科では「治りません」と診断された症状でしたが、その方の施術で完治しました。患者の苦しみを抜くために、常に学び続けている人で、私利私欲を感じない方です。「医は算術なり」との風刺的な言葉がありますが、真逆を実践されている方で、私はその方をとても尊敬していますし、鏡にしています。

以上のことを賢く見極めれば、いいカウンセラー、心理療法に出会えると思います。

学校に行きたくありません。学校は行かなくてはいけないものなのですか?

2022.09.11

(質問)
中学三年生の男子です。二学期から学校にいっていません。学校に行かない日は、夜中遅くまでゲームをやっています。なぜか学校に行く気がしません。別にいじめられているとかではありません。友だちもいます。最近、勉強していい高校に入って、大学に行って、いい会社に入り、経済的に豊かになることに意味を見出せません。そんなことして何になるのだろうと疑問を感じています。僕の考えは間違っているのでしょうか。学校には行かなくてはいけないものなのでしょうか?

(回答)
 今、何を身につけ、何を学ばないといけないのかが何よりも大事だと思います。
明治時代以前は、ほとんどの子どもが学校に行っていません。一握りの武士の子どもが明倫館などの藩校のようなもので学んでいました。それは武家として藩の政治を行うために必要な学識(儒教…孔子の教えなど)を身につけるためのものであったと思います。90%以上は農業(漁業、林業など)に従事していたようです。子どもたちは、字の読み書きのできない状態でした。農業することに、読み書き計算は必要なかったのです。一部の武士に支配され、年貢を納め、被支配階級の人たちには学問は必要なかったのです。何も知らない無知な農民の方が、支配者から見れば、扱いやすかったと言えるでしょう。
 いつの時代も無知は権力者に利用され支配されてしまいますので、人間は無知であってはならないと思います。

明治に入り、世界に負けないような強い国にするために国家は、「富国強兵」に適した教育を始めました。あくまでも国のため、社会のための教育であり、人間個人のための教育ではなかったようです。つまり、学校は、社会をよりよくするため、強くするため、豊かにするために創られたようです。

現在の小中9年間の義務教育も、社会で生きていくための基礎知識や技能を身につけるために義務化されました。中学校も義務教育ですから、保護者は子どもを学校に行かせる義務を負っています。しかし、現実は不登校は増加の一途(2021年度、小中の不登校者数、19,6万人、全体の2%)をたどっており、社会問題になって久しい時間が経過しています。

人間は教育によってはじめて人間になっていくものです。狼に育てられた少女の話は知っていると思いますが、言葉もほとんど喋れず、行動も狼の習性が身に付いていて、死ぬまで人間らしい行動はできなかったと報告されています。人間は人間に教育されて始めて人間になっていけるのです。
学校の形態は社会のありようによって変わっていくものです。今のレジタル教育(オンラインなど)は、20年前には考えられなかったことです。

大事なことは、教育を通して、何を学び身につけていくかということです。教育を通して自分の持つ可能性を開花させていくことが一番大事なのです。ですから教育は一生続くものといってよいでしょう。中学生の頃に身につけることはたくさんあると思います。特に、やがて社会に出て生きていくということを考えれば、人間関係や他者との関わり方を学び、身につけることはとても大事なことだと思います。学校に行かなくとも、どこかの集団や組織でそれが身につけられるのであればよいと思いますが…。

今は、多角的に学び、多くのことを身につける時期だと思います。今何をしているかが大事だと思います。学びによって自分を素晴らしい人間へと向上させ、社会に出て、人の喜びに貢献し、自らも充実感を感じる生き方ができれば最高です。いい学校を卒業する目的が、経済的な豊かさ(金銭、物質)や社会的な地位獲得のためだけなら、あなたがいうように空しいものでしょう。あなたが疑問に感じるのも無理のないことだと思います。

人生何のために生きるのか、悩み、先人に学び、良書を読んだり、思索したりして自分の生き方を深められてください。人生、今から5年間ぐらいが一番大事な時です。青春は黄金の時と言われているからです。

天国や地獄は本当にあるのでしょうか?

2022.09.10

(質問)
よく「地獄に落ちる」とか「あの人は天国に行った」などという話を聴くことがあります。最近、祖父が亡くなりました。そんなこともあって、祖父が地獄に行ったのか、天国に行ったのか気になってしかたがありません。そもそも、天国や地獄は本当にあるのでしょうか? だれに聞いても、あいまいなことしか話してくれません。難しい問いとは思いますが、よろしくお願いします。

(回答)

私なりの考えを述べさせてもらいます。
地球の言葉はすべて人間の創造です。古来、言葉はありませんでした。文明が発達する段階で言葉が作り出され、どんどん増えていきました。地獄も天国も人間の思考が産み出したもので、宗教や思想に体系化された言葉(概念・がいねん)と言ってよいでしょう。

地獄は仏教用語の一つです。仏教では、八代地獄といって様々な地獄が紹介されています。大分の別府に行けば、地獄めぐりという温泉があるほどです。「坊主地獄、血の池地獄など」地獄は恐ろしく怖いというイメージをもたらしています。そんなイメージからすると死後に地獄に行くのはとてつもない恐怖を感じますね。

しかし、仏教では、地獄は死後に行くものだけではなく、今生きている人間の生命の中にもあると教えています。つまり地獄とは、苦しみに束縛された不自由な生命状態を指す言葉なのです。苦しみの極致であり、不自由な苦しみの状態です。身近な存在なのです。

人間は、生きている以上、様々な苦しみがあります。不治の病になった苦しみ、多大な借金苦、貧困や食べるものもない苦しみ、人間関係のうらみ、つらみ、にくしみなどの苦しみがあります。それらの苦しみに縛られ、どうすることもできない怒りのような状態が「地獄」なのです。仏教では死後の生命を説いていますから、死後も地獄があると言われています。
生きている人間は地獄という苦しみから逃れる方法を模索してきました。科学や医学や経済、あらゆる学問が、苦しみを取り除くために発展してきたと言ってもよいでしょう。

しかし、人間の苦しみは、地獄は果たして軽減されたのでしょうか。人間は新たな苦しみ、地獄を作り出しているような気がします。自己中心的な欲望が人を陥れ傷つけ、最悪の場合は殺人・戦争にまでつながる場合もあります。

では、天国はというと、何となくキリスト教的な響きのある言葉ですが、楽しさや喜びの極致の生命状態が「天国」なのです。仏教では「天界」という説明をしています。苦労して試合で優勝した。志望校に合格した。好きな人と結ばれた。つまり、自分の願いが叶い、「天にも昇るような心地」が天界であり天国といってよいでしょう。地獄同様、死後にもある世界と言われています。人間は地獄を避け、天界(願いの成就・欲望の充足)を求めて生きていると言えるでしょう。入試の合格祈願、縁結び、御払いなど、不幸を避け、所願満足のため、神社にお参りするのも、そうした人間心理を表していると言えます。

仏教では、地獄も天国(天界)も、その人の生き方で行き先が決まると教えています。善を多く成せば、生きてる時も死後も天国であり、悪を多く成せば、地獄の生命状態になると説いています。キリスト教では神を信じ、その教えを実践するかかどうかで決まるそうです。

あとは、書物などを読んで探究されてみてください。疑問を持ち、学び、思索するところに人間性の本当の向上があり、自己実現につながっていくからです。人間は、学ぶことによって人間完成に限りなく向かっていくと言われています。覚者ブッダも死ぬまで修行・学びを止めなかった人と言われています。

生まれた時点で家柄や財産、親、容姿などに差があるのは、なぜなのでしょうか?

2022.08.28

(質問)
私は恵まれない家に生まれました。家は貧しく両親のけんかは絶えず、私が小学校3年生の頃、両親は離婚しました。
母親と兄弟3人での生活でしたが、経済的に苦しかったこともあってか、母親は私たちを虐待していました。そうした環境で育った私は、同級生の恵まれた家庭を見るにつけ、「私だけ、なぜこんな家に、こんな親の元に生まれたのか」と何度も思い、親を恨み続け大人になりました。育った家庭環境のせいか、今なお、心に暗い影があるような気がします。人間は金持ちの家に生まれたり、愛情にあふれた親をもつ家に生まれたり、医者の子どもに生まれたり、虐待する親のもとに生まれたりするのは、何故なのでしょうか。これは、神にしか答えられない問題なのでしょうか。それとも、前世というものがあって、私が前世で悪いことをした結果なのでしょうか。何かしら回答していただければありがたく思います。

(回答)
とても難しい問題ですが、私たち人間にとって大事な本質的な問いになっています。人間「どこから来て、どこへ行くのか」という問いは古来、哲学の大事な命題の一つになっています。未だに万人が納得できる解答は出されていないというのが正直な答えです。

あなたの質問は、「生まれる前の自分はどこにいたのか?」という問いに置き換えられます。また、「人間死んだらどこへ行くのか?」という問いにもなり、生命とは何なのかという本質的な問いになっています。

私も青春の頃、そうした問いに悩み、ギリシア哲学のソクラテス、プラトン。そして中世キリスト神学。近世のデカルト、パスカル、ニーチェ、キルケゴール、ショウペンハイアー、カント、ハイディガー、サルトル。また生命の哲学のベルグソン、日本の哲学者西田幾大郎の「善の研究。」さらに、ユングの無意識心理学、聖書、仏教の唯識思想、生命論と読み漁りました。

その中でもっとも共鳴できたのは、仏教の唯識思想とユングの集合無意識という考え方でした。ここでは紙面の関係もあり、簡単に説明させていただきます。

仏教の無意識の世界とユングの無意識の世界には共通点があるように思えます。仏教の唯識思想派では、五感(眼、耳、鼻、舌、身)という感覚を意識が判断思考します。意識が六番目の「識」です。ここまでが意識の世界で、その下が無意識層で、七番目に「自我執着意識」があります。今の言葉で言いかえれば、「自己愛(自己に愛着する)」に近い意識があり、自己への限りない執着があります。これがともすれば「正しい生き方善悪」の足枷になり、人間に不幸をもたらすことになりかねません。

その下に、私たちが身体で行動したり、言葉で働きかけたり心で思ったりしたこと全てが8番目の行為の貯蔵庫に納められるというのです。行為の貯蔵庫の識をアラヤ識といいます。このアラヤ識=業・カルマの貯蔵庫は、生きているときも死後も「空」の状態で存在していると言うのです。(空…有無に偏しない存在の仕方、縁によって生起する存在の仕方、とても理解の難しい言葉です…この空が悟れれば、執着から脱することができ、本当の幸福に近づくことができると言われています。)

個の生命は、自分の業に応じた条件を選び、次の生を始めると説いています。つまり、今生きている行為の全体が、次の生につながるという考え方です。差別は生れる時、始まるのではなく、今世の終わり=死の段階で決まるのです。これがカルマの連続の法則です。エネルギー保存の法則に似ています。

金持ちとか、社会的な地位がそのまま続くと言うものではなく、行為の内容=善か悪か、つまり他者の生命を慈しみ、育む、守るという善の行いをどのくらいしたのか。また、他の生命を傷つけ、害したり、さげすんだり、馬鹿にしたり、だましたり、自分だけのことしか考えず、他の生命を利用するような生き方を悪といいます。「善悪」どちらの生き方が多かったのかが、死の瞬間に、自分が自分を裁く厳粛な時が訪れ(閻魔の裁きとも比喩的に言われている)、次の生が決まるというのです。

人間に生まれてくるには、やはり人間らしい生き方をしていないと人間には生まれてこれないと言われています。動物的な生き方(畜生的生き方…本能のまま、弱肉強食的生き方)であれば、次にふさわしい生命の形は動物かもしれないというのです。自分にふさわしい形や場所を選んで次の生を自らが選択するという考え方です。来世の生まれたときの差は、つまり今世の自分の生き方が作り決定するのです。

生命は死によって断絶するものでもなく、何かに生まれ変わるという転生ということでもありません。
今日の夜、眠る=死、明日の朝、生まれる=来世。全く自分は連続した我(七番目と八番目の無意識の世界)なのです。連続して一貫しています。これがカルマの法則です。生命の因果は見えませんが、無意識の中に確実に刻印される厳しい法則であり、おまけも割引もないと言われています。
社会の法、国法、世間法、人目は誤魔化せても、自らに内在する生命の因果はごまかしがききません。仏教では、こうした見方ができることを正見と言っています。不幸の原因は生命を正見できないところにあると生命の覚者ブッタは説きました。この考え方からすると、あなたは人間に生まれてきていますので、前世で人間らしい生き方(戒律=道理、倫理を守る生き方)をしていたからだと思います。親という環境をどう受け取り、どのようにいかしていくかで、生き方も変わり、価値も変わっていきます。つまり環境は一つでも関わり方一つで大きく開けるのです。あとは自分で学問し、探求され、自らを高められてください。

禁煙に挑戦しているのですが、うまくいきません。そちらで禁煙カウンセリングができるのであれば、お願いしたいのですが…。

2022.08.25

(質問)
現在39歳です。20歳からタバコを始めました。現在一日30本近く吸っています。30代になって、健康面、経済面、また会社環境などを考えて禁煙しようと何度も試みてきました。禁煙セラピーの病院に行き、薬ももらったことがあります。しかし、なかなかうまくいきません。ニコチン依存は治らないのでしょうか。依存症は認知行動療法が有効だと聞いたことがあります。そちらのカウンセリングルームで、認知行動療法をしているとホームページで知りました。禁煙について対応していたらカウンセリングを受けたいと思うのですが…。

(回答)
認知行動療法的アプローチでタバコ依存のカウンセリングをしています。まず、心理教育として、たばこの害や経済的側面などを知ることも大事です。                   

タバコがやめられなくなること…ニコチン依存について、少し所見を述べます。
・あるとき、たばこを吸うことを覚えます。はじめは、体が受け付けないくらい、不快なものであったものが、いつの間にか、心身がニコチンを求めるようになり、習慣化されてしまいます。

・そのうち、タバコがうまいと感じることを体感。それは、ニコチン受容体の働きであり、脳内に心地よさを感じる物質ドーパミンを出すからであり、それがおいしさを感じさせます。

・ニコチン依存症とは、血中のニコチン濃度が、ある一定以下になると不快感を覚え、喫煙を繰り返してしまう疾患です。たばこを吸うと肺からニコチンが取り込まれ、すぐに脳内のニコチン性アセチルコリン受容体に結合します。それにより、快楽にかかわる脳内神経伝達物質であるドーパミンが大量に放出され、強い快感がえられ依存が始まります。

・この依存には「身体依存」と「心理依存」があります。依存症に共通するのが、「心理依存」の「学習化・習慣化」を変えることの難しさです。この心理依存から解放されなければタバコはやめられません。つまり、心に刻み込まれた「快感」というイメージからの自由になることです。ここに「認知行動療法」的アプローチの出番になります。

・ストレスと依存症の関係を知ることも大事です。強いストレス環境下で快楽を求めて依存症になります。ドーパミンは、快楽物質に潜むからです。それは快感、達成感、驚き、新しいことを行った後の報酬などを伴うから癖になってしまいます。これも認知行動療法の学習理論的アプローチで習慣を変えていきます。

具体的な禁煙法については来所時のカウンセリングで、あなたの性格や置かれた背景や境遇を考慮しながら認知行動療法的アプローチを進めていきたいと思います。