生きる…それは我が身を守り 保つために 闘うという厳しい営み
苦に徹すれば珠となる 吉川英治(小説家)
生きるためにはエネルギー源として食べ物が必要です。それを確保しないと生きていけません。食べ物を得る活動をするためには、睡眠をとらないと活動できません。そこで安心して寝ることができる場所(住居)が必要になります。一人では食べ物を得ることに限界がありますので、他者との協力が必要になります。ここに組織が生れ、社会ができていきます。他者とうまくやっていかないと食物を得ることができなくなり、生きてゆけなくなるからです。さらに、種を存続させるという本能が、どの生命にも組み込まれていますので、人も本能に従って異性を求めます。
人間生活の基盤は 本能に基づく保身行動
つまり人は、食べる、眠る、生殖活動をするという本来的に持つ能力(本能という)で生きています。そして、その本能の活動には快感が伴います。だから食べようとしますし、眠ろうとします。また、恋愛をし、種を残すために、生殖活動をします。食べ物を食べて美味さを感じないと、食べなくなるかもしれません。安眠は、心地よさを伴います。また生殖行為には快楽が伴います。そうした快楽報酬があるから、人は本能行為をし生を保つことができるのです。逆に本能行動が満たされないと、不快、不満、怒りなどの苦しみを味わうことになります。さらに、人と協力活動をするという社会性が必要になります。ここに人間関係の苦しみが生れます。このようにして人間は自らの身を保ち守っていきます。これが人の生きる基本です。天皇も有名人も凡人も貧困者もみな、この基本的な本能的生を全うしながら生しかし、この本能的欲求の過剰追求が、社会的犯罪や戦争までもたらします。また本能が満たされない場合も、社会的犯罪につながります。こうした本能はだれもがみんな平等に持つものです。人間の平等性の証の一つです。そしてこの本能的欲望の抑制の有無が病と健康の分岐点になります。
人は、本能が満たされないと不快、不満、怒り、不安、恐怖、そして苦しみを感じる
ここまでは、他の動物にも見られる本能行動の基本ですが、人間も動物の一種であることを自覚することが大事です。人間苦しみの多くは、この本能行動に原因があるからです。食べ物を得る、現代では、お金を稼ぐことにつながります。お金は労働の対価です。お金を得るために仕事をし、人と関わらなければなりません。お金を多く稼ぐことができれば、富裕者となり、豊かな暮らしができ、快適、快感をほしいままにできます。逆にお金に窮すれば、貧困になり、生活が苦しくなり、家族を持つ場合は、子どもの養育にも影響してきます。社会的犯罪は、この人間の本能の過剰と不足に原因しています。お金の問題では、詐欺、強盗、殺人、窃盗、ギャンブル、貧困など多くの社会問題が起きます。また、生殖本能では、不倫、性的犯罪、ストーカー、殺人など多くの犯罪が見られます。社会的協働生活の必要性から、集団・組織の権力者が生れ、名誉名声を過剰に求め、人権を無視した行為が生れたり、ひきこもり・不登校が産み出されたりします。
人間の本能がもたらす現代の快・不快に偏向した行動原理。
人は生きるために不快・嫌悪・恐怖を避け身を守ります。そして安心、快適を求め、身を養います。つまり好きか嫌いかという感覚が生きるために最初に反応します。それは人間の行動原理の第一法則です。誰人も、この法則に則って生きています。今の苦楽は、人の目・耳・舌・鼻・身に発した五感覚の反応が言葉に置き換えた意識活動の結果です。思い通りであれば快感を味わえます。うまくいかないと不快感に支配され、怒りや嫌悪、恐れなどの苦しみになります。人が他の動物と異なるのは、二本足で歩行ができ、手が使えること、大脳皮質が発達し言葉が使え、記憶をもとに思考できる働きを持っていることです。
文明社会の人間の苦しみは 思考することで生れる
人間は自然のうちで最も弱い一本の葦(あし)にすぎない しかし、それは考える葦である(注1)
苦しさを感じ、生きるか死ぬかと考えるのは、この地上で人間だけです。例えば事故などで脳の大脳皮質の思考野を損傷すれば、生きる苦しさなど考えることもなく、迎えがくるまで、ひたすら生きていることでしょう。その場合、人は動物的生に近くなります。動物は、苦しさより恐怖と快感の本能で行動しています。思考することはほとんどなく、快・不快の本能的反応行動が中心です。
(注1)葦(あし)…水辺に生える植物で風に弱く、容易に倒れてしまうことから、人間の肉体的弱さやもろさを象徴しています。しかし、人間は、他の動物にはない思考力を持つため、自分の弱さを自覚し、宇宙の大きさを認識し、死を意識することができる、という点が強調された哲学者パスカルの名言です。
自分は自分と意識できるは記憶の働き
「われ思うゆえに我あり」とデカルトは言いました。思考し、それらを意識するために、自分は自分だと確認できます。考えることで、人間だけが自己認識できるのです。しかし、考えるために、人間は悩みと苦しみを引き受けることになりました。反面、思考することで人間は進歩発展し、物質的に豊かな生活を送ることができるようになりました。思考するという人間に与えられた特権をどう使うかが重要になります。
人間を苦しめるのは 思考よりも感情と気分
思考は言葉によってなされます。言葉は過去の記憶・知識ですが、言葉には心の思い・感情が伴います。苦と感じるのは、知識・言葉よりも、それと一緒に生起する、思い・感情です。苦からの解放は、感情をどうコントロールできるかにかかっていると言えます。人間は思考する感情の動物です。
感情・気分はコントロールできるのか
波のように生まれた感情は、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしか感情のコントロールはできません。それは、今感情に支配されている意識を他の対象にを替えることで可能になります。意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることになります。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーの内在力である感情がすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したもの(感情と表現している)の余情や余韻が自然に消えるを待たなければなりません。
強い刺激は 反芻(はんすう)思考の原因になる
強い刺激とは、前述した本能行動と関係しています。一番強い刺激は、自らの身が危機に瀕する時に生じる、恐怖と怒りです。恐怖場面に出遭ったとき、人も動物も、逃走か闘争かの二者択一を迫られます。闘争の場合は激しい攻撃的怒りを発します。逃走の場合は恐怖に支配されます。そして恐怖感情は深く心に刻まれます。闘争の場合も同様に心に残ります。そして、何かあるたびに心に浮かび、自らを苦しめます。トラウマ(心的外傷)という場合もあります。この繰り返しの想起現象を反芻思考と呼んでいます。心を病んでいる人に多く見受けられる心的現象です。
反芻思考は、記憶の働きがある限り、だれしもが経験するものです。ただ、その思考のため生活に不自由を感じ、ぐるぐる回り、頭から離れない思考を反芻思考(病的思考)と呼んでいます。侵入思考、自動思考、強迫観念とも重なる概念です。それは、ある時のある出来事が記憶され、反復することにより強化され、その記憶が無意識層に潜在、堆積されているからです。そこから 波のように何気に起きてきます。制御が難しいため苦しみます。
生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある
生き続けていれば、よいことにも出遭えます。人生は空模様と似ています。いつも晴れではありません。雨や雪そして嵐であっても、いつまでも続きません。台風も一週間もすれば通り過ぎます。暗雲が垂れ込め重苦しい空模様の日でも、雲のかなたには太陽はいつも輝いています。目で見えなくとも、心を働かせば輝いている太陽を描くことができます。同じように、どんな辛い苦しみも、いつまでも続きません。空模様と同じです。そして見えなくとも心には、いつも太陽が存在しています。空のたとえが教えてくれるものを信じて、今を耐え、今日を生きるようにします。今日、しなければいけないことをします。今をとにかく生きます。そうすれば空模様が一定でないように、心模様も変わっていきます。だから、人は生きていけるのです。「冬来りなば 春 遠からじ」(ドイツの詩人シラーの言葉) 冬は苦を象徴し、春は希望であり、楽を表しています。
楽しいことよりも苦しいことのほうが多いのが人生
楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦しみとの闘いです。なぜなら、生きることは常に新しい出来事・変化を経験することなのです。新しい経験であるためうまくいかないことは当然なのです。うまくいかないと人は苦しさを感じます。
筆者の苦しみ多き青少年期
私の過去を例に話してみます。七歳で母親と死別しました。兄弟7人、10年の間に7人ですから、ほとんど年子状態です。父親は寂しさのためか、酒浸りとなり家に帰って来ず、子どもを放置した状態でした。小学生の頃は、生活苦に苦しめられました。食べるものがない、寝る布団がない、服がない、電気がない、年上の人たちからの不当な暴力やいじめ、暴言、罵倒されたり、地域の人から厄介視され、およそ人間の生活ではありませんでした。
私が5年生になったころ、私たち男兄弟4人は、児童養護施設に収容されます。今と違ってその施設は、弱肉強食がものをいう動物的な世界でした。児童に自由はほとんどなく、食べ物も粗食、量り飯、休みの日は奉仕作業という名のもとの強制労働です。現代の刑務所より劣悪環境で、地獄そのものでした。多くの児童の心は歪んでいったようです。中学3年生の始めの頃に、親父に引き取られ叔母の家に同居しました。思春期、青年期になると、私は人と比較して自分を劣ったものと感じ自信を失なったり、自暴自棄になり横道にそれたり、自分の体形(身長の低さなど)に悩んだり、自分の弱さや劣等を隠すために、高校では服装違反、規律違反し、突っ張り、虚勢を張って生き続け、同級生やせんせいからも一目置かれる存在になっていました。しかし心は空虚で満たされず、ますます反社会的行動に走っていました。結果は高校中退です。また施設出身ということを気にしたり、性格を悩んだり、悩み・苦しみ、そして失敗の連続でした。ですが、なんとか生きていました。
20歳の頃、人生の善き先輩と出会い、正しい人生、生き方に徐々に目覚め、生き方の方向がかわってゆきました。自活しながらの浪人・学生時代は、自分の存在に煩悶したり、生きるとは何か、自分はどこからきて、どこへ行くのか、心とは何なのか、真理とは、神や仏がいて、なぜ人々は不公平なのか、神はいないのか、正しい生き方とは、幸福とはなど、大学の勉強はそっちのけで、心、生命、見えない世界、正しい社会の在り方などを探求し哲学しました。そのせいで2年間留年しました。社会に出てからも苦悩は続きました。仕事、職場の人間関係、そして家族のことなど、青年期以上の苦悩の連続でした。
苦悩の先に楽しさや喜びを束の間 感じ やがて平穏な日々になる
今日まで多くの苦しみに向き合い、生き抜くたびに楽しさを感じることもありました。苦を乗り越えた先に、人生の喜びを味わいました。だから生き続けてこれたのかもしれません。しかし、その楽しさもつかの間、また苦が訪れます。その繰り返しですが、苦を乗り越えてゆく度に強くなり賢くなったのも事実です。そして、いつの間にか、苦しみの日々より、平穏な日が増えたような気がします。それは私自身の生き方が変った結果だと気づきました。生きる、それは苦楽であるということを先人は、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と訓えてくれています。それが、私たちの人生であり、生命の真実のありようかもしれません。
生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人間生命
生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。動物は、子どもに生き抜く方法を教えるために、わが子を千仭(せんじん)の谷に突き落としたりして、生き抜くことを体に記憶させます。人間は、子どもの頃は親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。よいとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命を、どう生きていくかが大事になります。闘いに勝つ、つまり自分に負けないということで生き抜いていけます。
負けない自分作る 信念 目標 勇気 忍耐 そして希望
負けない自分を創るためには、正しい信念、目標、勇気、忍耐、行動、そして希望が必要です。何よりも「正しい」ということが大事です。例えば、強盗する勇気とか、人を殺す勇気とかは動物的勇気であり、人間の道に背いているため間違った勇気になります。お金持ちになりたいと言うのは正しい目標とは言えません。お金持ちになって、恵まれない人たちの役に立ちたいというのは正しい目標です。正しさの基準は、自分だけが潤うのではなく、自分も他人も潤っていく、つまり、自他共存共栄の思想が正しい生き方の意味です。そのためには、正しい知識・思想が必要です。
青年釈迦の苦悩…自分は何のために生きるのか
ここで一人の人間、釈迦(注2)の例をあげてみます。釈迦は王子として生れ、王宮の中で何不自由のない生活をしていましたが、19歳の頃、心に湧きおこる虚しさに苦しんでいました。「私は何のために生きるのか」「私の心はなぜ、こんなにも空しいのか」と生存の意味を問う苦しみに悶々としていました。
注2) 釈迦…悟りを開いた後、尊敬を込めて、釈尊とか、ブッタ、ゴータマシッダルタなどと呼ばれました。成道後(仏性を悟った後)の40年間の教えは、八万宝蔵と言われ、インド、中国、韓国、東南アジア諸国などに広がる中で釈尊の教えは伝承者により変化してゆきます。伝承過程の中で、釈尊の志から離れてしまった教えもあるとされています。日本では、最澄・日蓮の法華経や法然・親鸞の浄土教・阿弥陀経やマインドフルネスに影響を与えた禅、般若心経、観音経などが知られています。
人間釈迦は生きる意味を求めて、王宮を出て人生探求の旅に出た
ある日、王宮の外に遊びに東門から出た時、老人を見、生あれば老いることを知り、南門から出た時、病人に会い、生あれば病があることを知り、西門から出た時、死人を見、生あれば死があることを知り、最後に北門から出た時、端然威儀具足した修行者に会い、姿も心も清浄なものを見て、出家得道の望みを起こしたと言われています。有名な「四門遊観」(注3)の話であり、釈尊が「生老病死」という人間の四苦と真正面から向き合った瞬間でした。釈迦は、その解決のため、王宮での恵まれた生活を捨てて、人生の真理を求めて、苦悩充満する娑婆世界(娑婆とは堪忍の意味、実社会は思いどおりにいかない世界という意味)に生命探求の旅に出ます。
注3)「四門遊観」の話…宮沢賢治の詩「雨にも負けず 風にも負けず…東に病気の子どもあれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいといい 北 に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい… 南無無辺行菩薩 南無多宝如来 …」 一部の抜粋ですが、ここには「四門遊観」の話になぞらえたものが書かれています。宮沢賢治は、法華経の信奉者であり、彼の文学の根底には法華経があったと言われています。詩のメモの最後の部分には、法華経に出てくる菩薩や如来が書かれていたそうです。
日本で最初に法華経を弘めた人は、聖徳太子と言われています。彼は仏教の中で、法華経が最も優れた教えであると判断しました。彼が建立した法隆寺には法華経の解釈書として、法華経義疏(ぎしょ)が展示されています。聖武天皇時代には、法華経で当時の民衆を救済しようと、全国に国分寺、国分尼寺が建立されました。法華経はその後、最澄、日蓮によって弘められてゆきます。平安時代には、貴族の中に広まりました。源氏物語には、法華経の話が度々出ています。鎌倉時代以降、仏教は玉石混交状態となり多くの宗派に分かれてゆき、法華経もその波に呑まれ分派してゆきます。法華経は近世になって革命家によって社会変革の思想として利用されたこともありました。現代は、仏教も法華経も玉石混交状態で本源から分派してしまって何が正しいか分からない迷妄の世界になっています。本源(釈尊)に還れば、何が正しい教えかがわかると思います。
人間の生きる意味…人間として存在する意味はあるのか
人生とは苦なのでしょうか。生きるとは苦しみの連続なのでしょうか。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。人間として存在する意義はどこにあるのでしょうか。人生とは、一面からすれば、生きる意味、存在の意義を、生涯をかけて探す道のりです。苦悩の人生は人の心を耕し深くしてくれ、苦しみは心を浄化させてくれる薬になります。苦悩の中で自分の心を見つめ、人生の真実の一部を見つめることができるようになります。昔の聖者や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちだと思います。
生きている今の瞬間の生命は常に変化し、同じところにとどまっていません。瞬間の生命には苦もなく楽もないとは聡明な哲学者の悟りです。純粋な経験であり、色付けできないものです。それを苦と感じるのは五感で感じ、それを鮮明にし思考と言葉にした意識活動です。過去の記憶化された潜在意識の染色の結果なのです。本来の瞬間は純粋経験です。
古来より生命錬磨の修行をされた先人たちは、生きる意味を模索し、幸福な生き方を探究しまた。そして人間の欲望(正しくは煩悩)こそが苦の原因だと究明し、心を浄化させれば、幸福になれると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、不眠の修行をしたり、異性を遠ざけたりなどして苦の原因を断じようとしました。釈迦当時のインドは、そのような修行して悟りを得たいう六人の指導者(六師外道・ろくしげどう、外道は、因果を心の外に見出す思想)が支配していました。
宗教(偏った思想)は民衆のアヘンである カール・マルクス
そして悟りを得たと思い、自分の悟った思想を弘めていきます。宗教はこのような人たちによって作られ、その数は新興宗教も入れて膨大な数になります。マルクスが批判した(注)のは、当時のロシアのキリスト教でした。その教えに盲目的に従い、思考することをやめた民衆は、アヘンの毒に侵されているように愚かになっていると痛烈に批判したのです。すべての宗教を批判したわけではありません。宗教にアヘン性があるのは、最近社会問題になった宗教を見れば納得できると思います。
宗教の持つアヘン性の根本は、その宗教が持つ思想の高低浅深の問題にあります。つまり生命の把握の部分に偏った思想が問題なのです。そう考えると、アヘンは宗教だけ限るものではなく、学問、科学、医学、経済の中にも紛れ込んでいます。そして、アヘンのように思考力を失なわせ、人を愚かにしていく思想こそ毒と言わざるを得ません。
注 マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」によると、「反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない。…宗教への批判は、人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から覚めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがって、また自分の現実の太陽を中心として動くためである。…宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在であるという教えをもって終わる」(一部抜粋)この地上の宗教、思想、言葉はすべて人間が作ったものであり、人間を超えた存在はないとする人間の尊厳を訴えたのがマルクスの思想であり、釈尊の思想と重なるところが見られる。
何も考えず権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である アインシュタイン
物理の世界の真理を悟った人の言葉には重みがあります。アインシュタインの言うことも、先のマルクスの思想とほぼ同じと言えます。権威とは、政治家、指導者、各専門家、医師、弁護士、マスコミ、再生回数の多い動画などを指しています。アインシュタインは疑うこと、思考することで人は賢くなり、心が健康になり、本当の安穏な人生が送れると諭しています。
生命の苦楽は硬貨の表と裏の関係
すべて苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす煩悩を克服した後に真の楽があると信じた修行でした。釈尊もその修行を一時期されましたが、苦行に徹しても幸福は得られないと悟り、独自の道を歩まれたと言われています。人間が生きていることは、煩悩に従って生きていることと言えます。その煩悩が苦にもなり、楽にもなります。つまり、苦楽は心の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生の存在の色が変わります。楽しい世界を心に描き、意識して強く心を定めて生きれば、心は楽に満ちてきます。そのように心を描くのは、今の意識です。意識を磨けば、どの瞬間も楽しんでいけるようになります(注4)。これが真の楽観主義であり、自己肯定であり釈尊の悟りと言われています。
(注4)「どの瞬間も楽しんでいけるようになる」…釈尊は「衆生所遊楽・しゅじょうしょゆうらく」と法華経如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)で説きました。衆生とは、細胞の集まりのあらゆる生命体という意味であり、人間と訳すこともあります。人間は、この世に、自在に自分を発揮し、楽しむために生まれて来たという意味です。如来は瞬間瞬間、如如(にょにょ)として来る生命のことであり、仏性(ぶっしょう)の別名です。つまり私たちが今、生きているのは、仏性の働きです。これは釈尊の悟りの究極の哲理と言われています。
善き先生・師匠の言葉・知識を指標にすれば正しい人生になる
釈尊は語ります。心を研ぎ澄まし(真の瞑想)、心が清らかになれば、その純粋な心に宇宙の慈悲の周波数が共鳴し、私たちの心に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなると。自己が宇宙の慈悲と一体になり、喜びに包まれます。それが最高の楽であり、聖人・賢人が求めた世界とされています。そのためは、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。釈尊は「八正道」(注5)を弟子たちに教え、実践を勧めました。悟りは知識では得られない、実践の中での生命の体得だと、釈尊はことあるごとに弟子たちに諭しました。
(注5)「八正道」…苦の原因は、生きる上で生じる煩悩にあると思惟し、苦の原因(自己中心的欲望への執着・渇愛)を乗り越え、生命の浄化をはかるための方途、修行法。具体的には以下の八つがあります。1、正見(正しく物事を見て正しく理解すること) 2、正志(正思惟・思考が正しいこと) 3、正語(言葉が正しいこと) 4、正業(行いが正しいこと) 5、正命(生活法が正しいこと) 6、正精進(修行法が正しいこと) 7、正念(観念の正しいこと) 8、正定(一切の悪を捨てること)
「正しい」ということが重要になります。正しい、つまり正義ということです。生命・自然・宇宙を貫く法性(ほっしょう・仏性と同義)に則るということですが、わかりやすく言えば、自己中心的に生きるのではなく、自分も他人も同時に潤し慈しむ生き方、自利と同時に利他という生き方が宇宙の慈悲の法則です。それに則る生き方が正しいと言うことであり正義です。反面、則らず背く振る舞いが悪であり、不正といいます。
人間性を開発する 芝蘭の便り
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と無関係です。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学理論、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、釈尊の教え、唯識・天台の生命論を中心に思索研鑽するなど、学問の旅は続いています。