思考することで苦しみが生れる 思考をやめれば苦はなくなる
苦しさを感じ、生きるか死ぬかと考えられるのは、この地上で人間だけです。例えば事故などで脳の大脳皮質の思考野を損傷すれば、生きる苦しさなど考えることもなく、迎えがくるまで、ひたすら生きていることでしょう。その場合、人は動物的生に近くなります。動物は、苦しさより恐怖と快感の本能で行動しています。思考することはなく、快・不快の本能的反応行動が中心です。
考えるために、人間は悩み苦しみます。しかし、思考するがゆえに人間は進歩発展し、豊かな生活を享受しています。思考するという人間に与えられた特権をどう使うかが重要になります。思考は言葉によってなされます。言葉は過去の記憶・知識ですが、言葉には心の思い・感情が伴います。苦と感じるのは、知識・言葉よりも、それと一緒に生起する、思い・感情です。人間は思考する感情の生き物です。
生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある
生き続けていれば、よいことにも出遭えます。人生は空模様と似ています。いつも晴れではありません。雨や雪そして嵐であっても、いつまでも続きません。台風も一週間もすれば通り過ぎます。暗雲が垂れ込め重苦しい空模様の日でも、雲のかなたには太陽はいつも輝いています。目で見えなくとも、心を働かせば輝いている太陽を描くことができます。同じように、どんな辛い苦しみも、いつまでも続きません。空模様と同じです。そして見えなくとも心には、いつも太陽が存在しています。空の比喩が教えてくれるものを信じて、今を耐え、今日を生きるようにします。今日、しなければいけないことをします。今をとにかく生きればよいのです。そうすれば空模様が一定でないように、心模様も変わっていきます。だから、人は生きていけるのです。「冬来りなば 春 遠からじ」。ドイツの詩人シラーの言葉です。
楽しいことよりも苦しいことのほうが多いのが人生
楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦しみとの闘いです。なぜなら、生きることは常に新しい出来事・変化を経験することなのです。新しい経験であるためうまくいかないことは当然なのです。うまくいかないと人は苦しさを感じます。
筆者の失敗・苦の過去の体験
私の過去を例に話ます。七歳で母親と死別しました。兄弟7人、10年間の間に7人ですから、ほとんど年子状態です。父親は寂しさのためか、酒浸りとなり家に帰って来ず、子どもを放置した状態でした。小学生の頃は、生活苦に苦しめられました。食べるものがない、寝る布団がない、電気がない、年上の人たちからの不当な暴力やいじめ、暴言、罵倒されたり、地域の人から厄介視され、およそ人間の生活ではありませんでした。
私が5年生になったころ、私たち男兄弟4人は、児童養護施設に収容されます。今と違ってその施設は、弱肉強食の動物的な世界でした。児童に自由はほとんどなく、食べ物も粗食、量り飯、休みの日は奉仕作業という名のもとの強制労働です。現代の刑務所より劣悪環境で、地獄そのものでした。多くの児童の心は歪んでいきました。中学3年生の頃、親父に引き取られ叔母の家に同居しました。思春期、青年期になると、私は人と比較して自分を劣ったものと感じ自信を失なったり、自暴自棄になり横道にそれたり、自分の体形(身長の低さなど)に悩んだり、自分の弱さや劣等を隠すために、学校では服装違反、規律違反し、突っ張り、背伸びを続けました。また施設出身ということを気にしたり、性格を悩んだり、悩み・苦しみ、そして失敗の連続でした。ですが、なんとか生きていました。
20歳の頃、人生の善き先輩と出会い、正しい人生、生き方に徐々に目覚めてゆきました。自活しながらの浪人・学生時代は、自分の存在に煩悶したり、生きるとは何か、自分はどこからきて、どこへ行くのか、心とは何なのか、真理とは、神はいるのか、正しい生き方とは、幸福とはなど、大学の勉強はそっちのけで、心、生命、見えない世界、正しい社会の在り方などを探求し学問しました。そのせいで2年間留年しました。社会に出てからも苦悩は続きました。仕事、職場の人間関係、そして家族のことなど、青年期以上の苦悩の連続でした。
苦悩の先に楽しさや喜びを束の間 感じ やがて平穏な日々になる
今日まで多くの苦しみに向き合い、生き抜くたびに楽しさを感じることもありました。苦を乗り越えた先に、人生の喜びを味わいました。だから生き続けてこれたのかもしれません。しかし、その楽しさもつかの間、また苦が訪れます。その繰り返しですが、苦を乗り越えてゆくたびに強くなり賢くなったのも事実です。そして、いつの間にか、苦しみの日々より、平穏な日が増えたような気がします。生きる、それは苦楽であるということを先人は、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と訓えてくれています。それが、私たちの人生であり、生命の法則のようです。
生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人間生命
生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。動物は、子どもに生き抜く方法を教えるために、わが子を千仭(せんじん)の谷に突き落としたりして、生き抜くことを体に記憶させます。人間は、子どものときは親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。よいとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命を、どう生きていくかが大事になります。闘いに勝つ、つまり自分に負けないということで生き抜いていけます。
負けない自分作る 信念 目標 勇気 忍耐 そして希望
負けない自分を創るためには、正しい信念、目標、勇気、忍耐、行動、そして希望が必要です。何よりも「正しい」ということが大事です。例えば、強盗する勇気とか、人を殺す勇気とかは動物的勇気であり、人間の道に背いているため間違った勇気になります。お金持ちになりたいと言うのは正しい目標とは言えません。お金持ちになって、恵まれない人たちの役に立ちたいというのは正しい目標です。正しさの基準は、自分だけが栄えるのではなく、自分も他人も栄える、つまり、自他共存共栄の思想が正しい生き方の意味です。それには、正しい知識・思想が必要です。
青年釈迦の苦悩…自分は何のために生きるのか
ここで一人の人間、釈迦(注1)の例をあげてみます。釈迦は王子として生れ、王宮の中で何不自由のない生活をしていましたが、19歳の頃、心に湧きおこる虚しさに苦しんでいました。「私は何のために生きるのか」「私の心はなぜ、こんなにも空しいのか」と生存の意味を問う苦しみに悶々としていました。ある日、王宮の外に遊びに東門から出た時、老人を見、生あれば老いることを知り、南門から出た時、病人に会い、生あれば病があることを知り、西門から出た時、死人を見、生あれば死があることを知り、最後に北門から出た時、端然威儀具足した修行者に会い、姿も心も清浄なものを見て、出家得道の望みを起こしたと言われています。有名な「四門遊観」(注2)の話であり、釈尊が「生老病死」という人間の四苦と真正面から向き合った瞬間でした。釈迦は、その解決のため、王宮での恵まれた生活を捨てて、人生の真理を求めて、苦悩充満する娑婆世界(娑婆とは堪忍の意味、実社会は思いどおりにいかない世界という意味)に生命探求の旅に出ます。
人間の生きる意味…人間として存在する意味はあるのか
人生とは苦なのでしょうか。生きるとは苦しみの連続なのでしょうか。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。人間として存在する意義はどこにあるのでしょうか。人生とは、一面からすれば、生きる意味、存在の意義を、生涯をかけて探す道のりです。苦悩の人生は人の心を耕し深くしてくれ、苦しみは心を浄化させてくれる薬になります。苦悩の中で自分の心を見つめ、人生の真実の一部を見つめることができるようになります。昔の聖者や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちだと思います。
生きている今の瞬間の生命は常に変化し、同じところにとどまっていません。瞬間の生命には苦もなく楽もないとはブッタの悟りです。純粋な経験であり、色付けできないものです。それを苦と感じるのは五感で感じ、それを鮮明にし思考と言葉にした意識活動です。過去の記憶化された潜在意識の染色の結果なのです。本来の瞬間は純粋経験です。
古来より生命錬磨の修行をされた先人たちは、生きる意味を模索し、幸福な生き方を探究しまた。そして人間の欲望(正しくは煩悩)こそが苦の原因だと究明し、心を浄化させれば、幸福になれると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、不眠の修行をしたり、異性を遠ざけたりなどして苦の原因を断じようとしました。
生命の苦楽は硬貨の表と裏の関係
すべて苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす煩悩を克服した後に真の楽があると信じた修行でした。釈尊もその修行を一時期されましたが、苦行に徹しても幸福は得られないと悟り、独自の道を歩まれたと言われています。人間が生きていることは、煩悩に従って生きていることと言えます。その煩悩が苦にもなり、楽にもなります。つまり、苦楽は心の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生の存在の色が変わります。楽しい世界を心に描き、意識して強く心を定めて生きれば、心は楽に満ちてきます。そのようにこころを描くのは、今の意識です。意識を磨けば、どの瞬間も楽しんでいけるようになります(注3)。これが真の楽観主義であり、自己肯定であり釈尊の悟りと言われています。
善き先生・師匠の言葉・知識を指標にすれば正しい人生になる
釈尊は語ります。心を研ぎ澄まし(真の瞑想)、心が清らかになれば、その純粋な心に宇宙の慈悲の周波数が共鳴し、私たちの心に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなります。自己が宇宙の慈悲と一体になり、喜びに包まれます。それが最高の楽であり、聖人・賢人が求めた世界とされています。そのためは、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。釈尊は「八正道」(注4)を弟子たちに勧めたと言われています。
生きている。ありがたいと自分の身体の働きに手を合わせられる心、自分の存在を支えてくれる自然や地球や太陽のありがたさを知る心、一切の生き物、身近な人たちに心からありがたさを感じられる心、そんな純な崇高な心に、喜びが起こってきます。それは心が浄化されている証拠です、それが宇宙の慈悲の周波数に、人が心を合わせる一つの方法であると釈尊は教えてくれています。 苦楽は人生の表現の一つです。どちらを表現するのか、またどの道を行くのか、迷ったときは、人生の先人・賢人の生き方を指標にすればよいと思います。
(注1) 釈迦…悟りを開いた後、尊敬を込めて、釈尊とか、ブッタ、ゴータマシッダルタなどと呼ばれました。成道後(仏性を悟った後)の40年間の教えは、八万宝蔵と言われ、インド、中国、韓国、東南アジア諸国などに広がり、教の数は膨大です。日本では、最澄・日蓮の法華経や法然・親鸞の信奉した浄土の教えの依教である阿弥陀経やマインドフルネスに影響を与えた禅や般若心経、観音経などが知られています。
(注2)「四門遊観」の話…宮沢賢治の詩「雨にも負けず 風にも負けず…東に病気の子どもあれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいといい 北 に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい… 南無無辺行菩薩 南無多宝如来 …」 一部抜粋しましたが、ここには「四門遊観」の話になぞらえたものが書かれています。宮沢賢治は、法華経の信奉者であり、彼の文学の根底には法華経があったと言われています。詩のメモの最後の部分には、法華経に出てくる菩薩や如来が書かれていたそうです。
(注3)「どの瞬間も楽しんでいけるようになる」…釈尊は「衆生所遊楽・しゅじょうしょゆうらく」と法華経で説きました。衆生とは、細胞の集まりのあらゆる生命体という意味であり、人間と訳すこともあります。人間は、この世に、自在に自分を発揮し、楽しむために生まれて来たという意味です。
(注4)「八正道」…苦の原因は、生きる上で生じる煩悩にあると思惟し、苦の原因(自己中心的欲望への執着・渇愛)を乗り越え、生命の浄化をはかるための方途、修行法。具体的には以下の八つがあります。1、正見(正しく物事を見て正しく理解すること) 2、正志(正思惟・思考が正しいこと) 3、正語(言葉が正しいこと) 4、正業(行いが正しいこと) 5、正命(生活法が正しいこと) 6、正精進(修行法が正しいこと) 7、正念(観念の正しいこと) 8、正定(一切の悪を捨てること)「正しい」ということが重要になります。正しい、つまり正義ということです。生命・自然・宇宙を貫く法性に則るということですが、わかりやすく言えば、自己中心的に生きるのではなく、自分も他人も同時に潤し慈しむ生き方、自利と同時に利他という生き方になります。
芝蘭の便り