地獄は、想像もできないほどの苦しみの極致の世界をいいます。人間の能動性、自由は一切奪われ、ひたすら苦しみを味わう境地が地獄です。自分の生命の中にある地獄の世界から脱出することもできない境地、それが地獄です。自分の生命そのものが地獄の苦しみを受けているので、何をしても、どこにいても、地獄を味わうのです。他人には絶対に分からない苦しみの境地です。そんな境地は、だれしも避けたいし、なりたくないものです。
しかし、瞋り(いかり)が、私たちを地獄につれていくのです。
では、なぜ瞋りが地獄を誘うのでしょうか。
「怒り」正確には「瞋」(しん、いかりとも読む。目が怒りで一杯になる様子という意味)それは 苦しみをもたらすものに対して憎み、それをたたく、破壊する。害する。憎恚(ぞうい)することです。
瞋りは、あらゆる生命あるものを破壊していきます。戦争は瞋りから起こります。現在のロシアの戦争が、指導者の瞋りから端を発し、多くの瞋りを誘発し、今や、戦場は地獄絵図と化しています。
何も戦争だけではなく、争いの多くは瞋りから起きています。争いは地獄という苦しみをもたらします。
瞋りは自分に不利益をもたらすもの、思い通りにならないものに対して、憎み、攻撃し、恨み、害していく性質をもっています。瞋りが相手に向かえば、争いとなり、相手を傷つけ、相手を地獄の世界に巻き込みます。瞋りが自分に向かえば、自分を傷つけ、傷め、攻撃し、最後は自分を害する自殺まで追い込んでしまいます。
心の病、鬱などの根底に瞋りが渦巻いているのを私も経験から何度も目にしてきました。
「瞋り」はどうして起きるのか。また怒りにはレベルがあること。そして瞋りが善につながこともあること。さらに瞋りからの解放はどうすればよいのか。
怒りの原因の一つに、対象への強い執着があります。それも自分にとって利益をもたらすものに対して瞋りは生起します。例えば、お金、地位、好きな人などを手に入れたい、自由にものにしたい、支配したいなどの欲望です。それを阻止されたり、思いどおりにならなかったりした時、人は瞋ります。執着の強さによって、瞋りの強さも変わってきます。ですから、自らの執着の対象や強さを知しらなければいけません。同時に、思い通りにならなかったとき、どのようにして自分の瞋りを押さえるのかを身につけなければなりません。
飛んで火にいる夏の虫
夏の夜、多くの虫たちは灯りを求め、火とは知らずにその中に身を投じて死んでいきます。灯りの正体が火であることを知っていれば、そこに近づくこともなかったでしょう。つまり、灯りを求めた欲(本能)が先のことを考えずに行動し、その結果が招いた不幸です。これは、何も虫の世界のことだけとは言えません。
現代社会は、欲望追求社会であり、経済優先社会であり、「売ること」「利益を得ること」が至上の価値のようになってしまっています。例えば食べ物であれば、見栄えや味をよくする、加えて安価であればお客は寄ってきます。テレビコマシャールの視覚に訴えるための涙ぐましい努力の裏には「良く見せる」そして「売る」という心が見えています。多くの人たちは、操作された情報に疑うこともなく、商品の中身の実体も確かめることもほとんどありません。
食べ物の中に使用されているかもしれない添加物や素材の劣悪さなど知ろうしません。結果、食べ続け病気になっても、まだ真実に気づかない人は多くいます。食べ物に関して言えば、日本は添加物大国であり、世界でも添加物の規制がゆるい有数な国なのです。外国で危険性が高いということで禁止されている添加物も使用が許可されていると言われています。
節制を知らない食べ物への欲の強さが、ものごとを見極める目を曇らせ、まるで「とんで火にいる夏の虫」と同じ行動をとっています。目先の欲に振り回され、先を見ず、行動した結果、苦しみを味わう人を多く見てきました。
何も食欲だけではありません。人の金銭欲は凄まじいものがあります。現代社会は「拝金主義」の宗教信者で溢れていると言われています。金さえあれば何でもできる。金があれば人の心さえも買えるという浅薄な思想です。金が欲しさに、盗みや詐欺をしたり、賄賂をもらったり、平気でうそをついたりします。さらにお金のために親子や兄弟の醜い争いを引き起こし、大事な肉親を失う結果になることもよくあることです。様々な不正の根本の原因に、お金に対する目先のあくなき欲(貪欲)と執着が見られます。悪事が発覚したら、どうなるのかという先のことは、強欲が曇らせるのです、お金のもつ快感に理性が麻痺するからです。
仮に、社会の法律を潜り抜けたとしても、人間の行為は全て脳に記憶されると脳科学は教えています。そして人は、死ぬ瞬間に生前の行為のすべて見る儀式が訪れるとされています。つまり、自分が自分を裁く時間が死の世界の入口で行われるのです。これは厳しい瞬間です。人や社会は騙せても自分は欺けないということです。
社会的地位(管理職、課長、社長)を得るため、人を押しのけたり、傷つけたり、また自分を押し殺し、上司の言いなりになったりしている人は、まるで先のことは見ていないかのようです。そうした行為がいかに浅ましいことなのか。人間として恥ずかしいことなのかを考えていないような癡(おろか)な行為です。例え、地位を得たとしても、人間としての信頼を失ったり、自分らしさを失ったりし、周囲の人から軽蔑され、人間としての信頼はなくなってしまいます。小を得て大を失ったことに気付かないほど愚かにさせるのも目先の欲への執着なのです。欲のため「火の中に飛び込む虫」のように癡なことです。
異性に対する欲、性欲、不倫、盗撮、わいせつ行為、ギャンブル欲、DV、虐待、暴力、支配欲、名誉欲、など種々の欲で先が見えなくなる人間の愚かさが、自分も人も苦しみに誘い、地獄を味わうことすらなりかねません。
心が不調、あるいは子どもに発達障害の傾向がある、または不登校などの理由で、すぐに心療内科や精神科を受診する人がいます。これも目先の欲(精神科にかかれば治る、改善できると信じる。そして疑うこともなく、服薬し、副作用に苦しんだり、薬依存になり、根本的には治らず、病院通いが長期間にわたる)にかられた行動の一つです。まずは、自分や子どもの状態を正しく知ることが大事であり、精神科医療が何をするのかを知ること、さらに薬について知ること、そうしたことが無知による不幸を防ぐ賢明さなのです。精神医療を妄信せず、自分で確かめ考えることが依存を防ぐ自立の道にもつながります。
本当の知性(智慧)とは、行動をコントロールできる智慧であり、後先をきちんと見極められる智慧であり、行動を抑制できる知性なのてす。それは日々の欲とのせめぎあいの中で、立ち止まって先を見つめるという行為(知性の戦い)の積み重ねの中で磨かれ、身につけていくものなのです。机上の学問ではなく、実践知であり、体得智ともいうべきものです。こうした智慧が、目先の欲に潜む愚かさを見抜き、自立した人間を作っていくのです。
苦しさは対象(自分の心の外にあるものや人、過去の自分やできごと)に執着することによって作られます。執着はやがて、心の濁りや汚れ、偏執となっていき、心は自由を失い、対象に縛られていきます。身体で例えるなら、腸や血液の汚れが体の病気の原因になっているようなものです。
思春期、青年期に生きる人は心がきれいで純粋です。それゆえに、自らの心の濁りや汚れに耐えられなくなります。また周囲の大人の欲に執着し、自分のことしか考えない生き方をする人に嫌悪感を抱くでしょう。それが心を苦しめる原因になったりします。
心の濁りや汚れは何が原因で起きるのでしょうか。それは仏教哲学(ブッタ=仏教の開祖釈迦・生命の真実を悟ったとされている)が探究してきた課題でした。ブッタは心の汚れは人間の煩悩(とらわれた欲望・秩序を失った欲望)にあると究明しました。しかし煩悩(欲への執着)は人間が生きている証でもあり、私たちは煩悩をなくすことはできません。
煩悩が自分のことだけに使われてしまうと、心は汚れていきます。地位、名声、富、お金、財宝、衣服、宝石、家、土地、健康、才能、人間関係、好きな異性、食べ物、酒などに対する執着、そういったものを手に入れたいと人は追い求め、執心してしまいます。なぜなら、それらを得ることができれば幸せになれる、楽しい人生になると思っているからです。その結果、欲望達成のため、自己中心的な生き方になり、いつしか心が汚れていくのです。その心の汚れが、正常な思考や理性を曇らせ、ますます目先の快楽や心地よさに自分を忘れさせていくのです。結果、心の汚れや濁りは深まり、本来の清らかな心は失われていくのです。
また求めたものが得られないと、人は苦しさや怒りを感じます。ですから求めたものを得ようと、後先考えずに他者を犠牲にしたり、傷つけたり、裏切ったりすることさえあります。その執着(対象へのとらわれ)が心を濁らせ、汚していきます。やがて、それが積み重なり苦しみの原因になっていき自縄自縛になっていきます。執着を解き放てば解放されるにもかかわらず。
物事のとらえ方、見方、考え方という知識する力、認知の深い心の深層に、実はこの煩悩が渦巻いているので、知識では、これらの心の濁りや汚れを浄化することはできないのです。有名大学をでているとか、政治家、大学者、著名な知識人とか宗教家、医者とか全く関係ないのです。自分を飾る外面は役に立ちません。つまり心の問題だからです。
ましてや、精神医療の薬などは論外といってよいでしょう。当然のことながら、薬で煩悩の浄化はできません。薬は依存心(執着)という新たな煩悩を産み出し増加させ、悪化させることはあっても、好転は望めません。執着が依存を強め、正しい物事の見方や道理を曇らせるのです。執着(依存)すると人は、盲目になり物事が見えなくなってしまうものです。
煩悩に効く薬は、生命の真実に迫った智慧(悟り)しかありません。それも実践から生み出された智慧です。生き方の転換から得られる智慧であり、修行で得られる体得なのです。
かつて仏教の修行者が断食したり、妻帯肉食を禁じたり、女色や酒を遠ざけたり、世俗(一般社会)を離れ、社会的名声から離れたり、真冬でも滝に打たれたりなど数多く欲への執着を断つ修行、心の清めの修行をしたとされています。しかし、これらの修業はブッタが説いた真の教えの部分観であり一部と言われています。これらは悪しき煩悩を断ずる生き方であり、修行の結果は煩悩を滅してしまい、生きる根本の煩悩(欲望)も低下させてしまいます。つまり煩悩を健全な方向で活かすというブッタの教えではないと言われています。
欲への執着がなければ、人間の進歩も成長もありません。欲望は善にもなれば、悪にもなります。つまり、欲望をどのように使うのかが問題なのです。自らの欲望(貪り)を明らかに見ていくことが肝心なのです。ある場合は、執着する対象から離れることも必要になります。「君子危うきに近かずかず」とはこのことを教えています。
また自分の利益のためだけに欲望を使うと心は汚れていきます。太宰治の「走れメロス」の主題は、このことを描いていると私は思っています。登場人物の王様は、私利私欲に執着する臣下を次々と殺していきます。きれいごと言う仮面の裏にある醜い人間のエゴが王様には見えていたからです。だからこそ、そのエゴの醜悪さに我慢がならなかったのです。王様はある面では青年の純粋なきれいな心をもっていたのです。それは研ぎ澄まされた太宰治の心眼でもあったのです。やがて王様は、友人のために自らの命さえ引き換えにするメロスの純粋なきれいな心に感動し心を開いていきます。そして、「私も友の仲間入りをさせてくれないか」とお願いします。
欲望を自分も利し人も利していく方向で使かっていく。つまり欲望を人に貢献するために使うと心は清められていくことを教えてくれています。執着対象の転換です。「走れメロス」は、人は何に執着すれば善になるのかを教えてくれているようです。
こうした生き方が今の人間社会に欠けているといってよいでしょう。人間が自己中心的な欲望(エゴ)で濁り、社会にエゴが充満し汚れきっているのです。その結果、人々は迷いの苦海に漂っているのです。しかも、そのことに気付いてさえいないのです。
また人間や社会の煩悩の濁りが、自然の種々の災害を呼び起こしているといってもよいでしょう。なぜなら、人間と環境は一体であり、身土不二(身=人間、土=人間が住む環境)だからです。つまり人間と環境は相依の関係で成り立っているのです。
人間が本当の意味での共生、つまり自分を利すとともに人をも利していくという生き方、それがすべての生命あるものの本来の姿であり、人間の心の浄化をもたらします。そして心は解放され、自由になっていくのです。
そもそも病は、心身がバランスを崩した状態、不秩序の状態なのです。本来の人間の生命は、宇宙や自然と同じように深い部分で調和され秩序だった存在であり、健康そのものなのです。人間生命を含めた大自然は絶妙なリズムを奏でた一個の生命体であり、ハーモーにを演じています。心の不調はそのリズムから外れ、不秩序、不調和な状態になっているに過ぎません。心の偏りや歪みを正し本然のリズムに合わせ調律してゆけば自然に治癒していきます。
例えば発熱などの体の不調を起こした時、通常は休息していれば、自然にもとに戻ります。人間が本然的に持つ自然治癒力の働きが起こるからです。逆に早く治そうと、薬を多用すれば治るものも治らず、長引くことがあります。軽症の場合は、人間の持つ本然の力を信じ、時の流れに身を任せるが一番なのです。
心の病の場合、多くは考え方、物事の見方、とらえ方、煩悩(欲望)…怒り、貪り、癡か、憎しみ、嫉妬、執着、囚われなどが心の不調和をもたらしています。現代社会は、経済優先社会であり、人々は欲望に踊らされ、目は外に外に向かい目先の欲にかられ、心を見ようとしていません。科学や医学がすべてよくしてくれるという盲信に陥っている人が少なくありません。そうしたあくなき欲望や富や社会的名声・地位へなど心の外にあるものに対する執着が心の病を産み出し、医学への盲信と依存が心の病を増劇(ぞうぎゃく)させていると言われています。
しかし、多くの人が信じている科学信仰が心の世界には通用しないのです。心の世界は科学の力が及ばない世界なのです。科学は物質を扱う分析知には優れていますが、物質を離れた心の世界には手の施しようがないといってよいでしょう。心の世界は分析知ではなく直観智しか解けないとはブッタ(仏教の開祖、釈尊のこと、生命の真実を悟ったとされている)の言葉です。
自らの心の状態を知り、その本因を知っていくことで、自分の心を調和した状態に戻すことができます。つまり自分を知る、自分の心を知る、生命を知ることが心の病からの回復の道になります。
しかし、これがとても難問です。この難問に比べたら、ハーバード大学や東大に合格することなど朝飯前と言えるでしょう。この難問に立ち向かってきたのが、ギリシア哲学などあまたの思想哲学であり、宗教(仏教やキリスト教、イスラム教など)でした。しかし、説けてはいないようです。私も学生時代から、心の世界、思想哲学・宗教を探究してきました。今思うには、この問いの解明に最も肉薄しているのは、ユング心理学であり、唯識思想(仏教心理学)であり、法華経(釈尊の生命の全体を説いた真実の教えとされている)だと思うようになりました。
日本が生んだ偉大な森田療法(あるがままに生きることを目標とした療法)は、仏教なかんずく禅を根拠にしています。禅は20世紀にはアメリカ心理学の世界で大流行しました。現代のマインドフルネス(今の瞬間に集中する心身の在り方)も禅の考え方を根本にしています。これもアメリカからの逆輸入なのです。アメリカ人が開発し、日本人が学び、日本に取り入れているのです。禅宗という宗教はもともと1000年前、日本で武士の間に広まった仏教の一派(ブッタの部分観の教えとされている)なのです。
不可思議な生命に対して敬虔な心をもち、生命に対する深い洞察力を持ち、心のありかたに精通している人であれば、心の調律の手助けができるかもしれません。あくまで手助けであり、調律の主体者は本人です。本人が演奏するのです。そのためには、自らの生命について学ぶことが最も大事になります。人は死ぬまで学ぶ存在であり、自らを高めていく生き物です。そこにこそ本当の人としての幸福がもたらされるとブッタは説いています。それが畜(動物)との違いなのです。人は学び続けることによって人になっていくのです。病はそれを教えてくれていると言われています。
宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」などの童話作家として、今でこそ有名になりましたが、生前は全く無名の人でした。
裕福な家に生まれ、浄土真宗に縁がありましたが、18歳の頃、法華経の書物と出会い、以後日蓮の法華経に帰依していきます。そして法華経の心を文学の中で表現していこうとしました。また自然や動植物に親しみ、共生の思想を持ち、自然農業を実践し、晩年は自給自足の生活をしていたと言われます。
「雨ニモマケズ 」という走り書きのメモに残された詩を私も小学校時代に学校で暗唱させられました。その詩には法華経の思想が色濃く反映されていると言われています。詩の終わりに追記されている菩薩や仏の名前、特に「南無妙法蓮華経」は衆生(人間)の仏性を表した言葉であり、一切の生き物、宇宙の仏性(無限の智慧と慈悲と福徳など)を表していると言われています。
以下に賢治の詩を紹介します。原文はカタカナ表記ですが、読みやすくするために表記を「ひがなに」に編集しています。
雨ニモマケズ
宮澤賢治
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
欲はなく
決して瞋(いか)らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れずに
よく見ききしわかり そして忘れず
野原の松の林の蔭の 小さな茅葺きの小屋にいて
東に病気の子どもあれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなに木偶の坊(でくのぼう)と呼ばれ
褒められせず
苦もされず
そういうものに
私はなりたい
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
最後の法華経の専門語について、浅学ですが私なりに説明してみます。南無とは帰依ということです。宇宙生命の仏性に自らの生命をあずけ、その法に基づいて生きる、つまり宇宙の根源の法に自らの生命の律動・波長を合わせて生きるということになります。
南無多宝如来とは、私たちを取り巻く環境です。私たちの生命の発動は環境なしには表現できません。私たちの生命の最高の働きは、最善な環境のもとで発揮できるということです。
無辺行菩薩とは永遠の生命を悟った生命の働きを意味しています。生命は無始無終であり、通常の因果を超えた不可思議な働きをもつものです。
上行菩薩とは自立した自由な主体性を意味しています。どんな困難、逆境、苦悩、不幸をも乗り越えていく生命の働きを指しています。
南無釈迦牟尼仏はあらゆるものに適応する智慧の働きです。
南無浄行菩薩は煩悩に染まらない清らかな生命の働きです。強さと柔らかさ賢さを備えています。
南無安立行菩薩は最高の心の平穏、安心の働きを意味しています。
人間の本当の幸福を探求し、真剣に道を求め「小欲知足」に生きた賢治。「あらゆることを自分を勘定に入れず」自分のエゴと徹底的に向き合い克服しようと利他行に生きました。彼の生き方の目標は「でくのぼう」、つまり不軽菩薩の実践でした。
それは法華経「常不軽品」に説かれています。不軽菩薩は、全ての人間を礼拝していきます。「人間は、みな仏性を持っている、菩薩道を行じれば、みんな作仏(仏性を開くことができる)する」と人間のもつ可能性としての仏性を礼拝していく修行をしました。これこそが、人間の「瞋恚・怒り」から真の解放の道だったのです。不軽菩薩の生き方こそ、賢治の理想だったのです。
彼が37歳で亡くなる2年前に残した言葉です。
「全世界の人々が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」
ブッタの涅槃業には「一切衆生の異の苦をうくるは、ことごとく如来一人の苦」(すべての人々の苦しみは、如来(瞬間瞬間に来る生命の最も尊貴な働き=仏)一人の苦しみ。私・仏がすべての人々の苦しみを受ける)と言う意味です。賢治は如来の生き方に近づこうとしていたような気がしてなりません。
いずれにしても、死ぬまで菩薩の心に生きぬこうとした賢治を、かいま見る思いがします。
独特の音色が心に染みわたる「除夜の鐘」。除夜の鐘とは、大晦日の深夜0時をはさんでつく鐘のことを言います。
人には百八つの煩悩(ぼんのう)があると言われ、その煩悩を祓うために、除夜の鐘をつく回数は108回とされています。煩悩とは、人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきのことを言い、仏教における考え方からきています。一種の御払いです。このようなことで、果たして人間の心の苦しさや心の汚れがきれいになるのでしょうか。
そうなれば、みんなもっともっと幸福になっているような気がします。しかし、今の世界の人間の多くは煩悩に覆われ、その濁りから、戦争、飢餓、貧困、経済戦争、コロナウィルス感染症、気候変動による地球の病気化を招いています。全て、地球人の煩悩の汚れが原因とも言えるでしょう。
除夜の鐘が煩悩を浄化してくれれば、これほど簡単なことはありません。気ままに好き放題に自分勝手に生き、除夜の鐘で汚れを落とす。とても楽な発想ですね。
これは他力本願の教え(神や仏などの力あるものに依存する)に基づいた発想です。自らの煩悩は、自ら浄化し、コントロールするというのが、ブッダ(生命を悟った覚者)の真意です。ブッタは八万宝蔵という膨大な教えを残したと言われています。ブッタの真意、真実の教えは、晩年の八年で説かれた法華経という隋随意(ずいじい・自力本願)の教えにあるとされています。
他力本願の教えは、幸不幸(罰や利益)はすべて外からくるという教えになっています。そうなると、聖職者をありがたく敬う思想になってしまいます。今世間で問題になっている宗教もこのような危険性を持っています。
ブッダが説いた煩悩とは何か。それを正確に把握することが肝要です。ブッダは最終的に煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい。生命活動そのものを煩悩とといってよいでしょう。自己中心的欲望に生きると、煩悩は汚れます。他者の生命を育み、活かす方向に煩悩を使えば、浄化されます。そのとき煩悩は菩提となり、悟りになります)を説きました。しかし、これは修行で得られる智慧であり体得なのです。煩悩の浄化は修行という実践でしか体得できないとブッタは説きました。
自分の汚れた心を自分以外の何かによって浄化しようということ自体が間違いなのです。どこまでも、ブッダは自力本願「自己変革」を教えているのです。それには、自らの生命に対する正しい知識、智慧、そして正しい修行が求められます。悪知識(誤った安易な思想や考えや知識)こそ、人を不幸にさせる根本原因とブッタは厳しく諭されました。
これはとても難しい問いです。なぜなら、未だ解決されていない人間にとっての最重要な問いだからです。
古来あらゆる哲学、宗教がこの問いを模索し解決の道を探究してきました。 しかし死んだ人は語らず、未だ生きている人は死を経験していないので、この問題に対する解答はすべて仮説でしかありません。
最近「死は存在しない」(田坂広志著)という本が量子力学的視点から書かれ出版されています。題名は逆説的な表現をしていますが、その書の中で死ぬと、意識が宇宙生命に帰る、言い換えれば、ゼロポイントフィールド(宗教でいうところの神や仏)というところに帰ると仮説を述べています。しかしあくまで仮説に過ぎません。
死を解くには、今生きている生命とは何かを解明しないとわかりません。この問いに最も肉薄したのは法華経ではないかと私は思います。宮沢賢治は若くして当時不治の病と言われた肺結核にかかり、仏教を探究しました。最初は浄土の阿弥陀経の信奉者でしたが、最後は法華経に帰依したと言われています。有名な「雨にも負けず 風にも負けず…」で始まる詩には、法華経の不軽菩薩(ふきょうぼさつ)の精神(あらゆる生命は仏性を宿しており、菩薩の行(ぎょう)を行えば、だれでも仏になれる。つまり覚者になり、最高の幸福境涯に至れるという教え)が詠われています。彼も不治の病の苦しみの中で、死を見つめていたようです。賢治は惜しくも37歳で夭折しました。
法華経の生命観。生と死という二つの相(そう)は生命のもつ二面性であり、生命は生と死という両者を含んだものであるという考え方です。生死不二(しょうじふに)つまり、二(に)にして二ではない。これは「空」(くう)という概念が理解できないと悟れません。般若心教の「色即是空」(しきそくぜくう)で表現しようとしている「空」の概念です。「色」(しき)つまりこの世の、分析できる世界、目に映る世界、心の種々の欲望などは、すべて「空」つまり、分析できない、目には見えないが確かに存在しているという世界と同時に存在しているというのが「色即是空」の意味です。難解です。
私たちは生きている間にさまざまな行為、口で言ったり、心で思ったり、行動したり、あるいは体でいろんな行為を行ないます。善いことも、悪いことも。これらの行為の集積をカルマといいます。これは今の脳科学では脳に全て私たちの生前の行為は記憶されていると言われています。仏教で言えば、「空」という世界に。そして、死ぬ瞬間に人間は、全ての生前の行為を走馬灯のように自分が見て、自分を評価する(裁く)時が訪れるといわれています。厳粛でもあり、厳しい瞬間です。他人や法律は欺くことができても、最終的には自分は欺けず、自分は全てを知っていると言うことです。これが「自業自得」の本当の意味なのです。
深層心理学では、生前の行為は、すべて心の奥底に記憶されていると言われます。仏教で言うと阿頼耶識(あらやしき)という無意識世界の深いところにすべて存在しているというのです。つまり業(ごう、行為、カルマ)が死後も続くと言うのです。この阿頼耶識の中に蓄積されたものが、次の生命誕生のときに、それにふさわしい縁を得て生まれてくるというのが法華経の智慧です。自己の連続性を説いているのです。
つまり苦しみは、死んでなくなるものではないということです。例えば、今日1億円の借金があるとします。そして眠ります。次の日、借金が消えたかというと、そのまま1億円の借金が残ったまま、続きを生きるのです。つまり寝るというのが死と考えると、翌日起きるというのが新たな生のたとえになっています。つまり死んでも、今の苦しみはそのまま続くということです。エネルギー保存の法則という物理学のたとえを考えれば理解しやすいかもしれませんね。決して生まれ変わるというものではなく、自己が連続していく、続きをやるということです。
結論すると、死によって苦しさは解放できないということになります。つまり苦しさの開放は、今生きている中で開放するしかありません。生きる苦しさの解放の根本的解決法は、苦しみの原因を明らかにみることから始まります。それが、真の哲学の開始でもあります。ギリシャの哲学者ソクラテスの「汝自身を知れ」(みずから生命に対する無知を自覚せよ、そこからすぺてが始まる)という言葉が響いてきます。
生命を明らかに見る、自分の心を明らかに知れば、心の苦しさから解放されます。なぜなら、全ては自分の生命の働きであり、自分の心が作った苦しみだからです。これはブッダ(生命の覚者)の悟りの言葉の一つです。こうした生命に関することが、人間にとって最も大事ながくもん
回答
人に心の悩みを相談する。簡単なようでなかなかできないことです。だれにも相談できず、死を選ぶ人もいるくらいですから。深刻な問題になればなるほど、人に相談することは難しいようです。
なぜ人に相談できないのでしょうか。理由の一つは、相談する人が見つからないということがあります。それは相手が自分の悩みを受け止めてくれるのかという不安があるからです。その背景には、今まで見たり関わってきたりした人に対する不信感があります。過去の経験から人は信用できない存在なのだとの思いを強めているからです。特に、いじめや虐待、裏切りなど人間の醜さ、残酷さを目の当たりに見たり、そうした仕打ちを経験してきた人は、簡単に人を信用することができなくなります。そうした人にとって、信じられる人を探すのはとても難しいことなのです。
もう一つは、自分の悩みを相手に打ち明けることは、自分をさらけだすということであり、なかなかできることではありません。その理由は人には自尊心や羞恥心があるからです。いじめられている人が誰にも相談できないということはよくあります。その理由の一つに親に迷惑をかけられない、かけたくない。それといじめられている自分というのは、自尊心が傷つけられているので、みじめな状態におかれているのです。それを人にさらすというのは、さらに自分が惨めになってしまい、恥ずかしいことなんです。悩みを解決できずに悩んでいる自分、弱い立場にある自分、惨めに感じる自分を、人に見せることは、とても辛いことであり、勇気のいることなのです。もし相手が受け止めてくれなかったら、人間不信は倍増し、心はますます病むことになるかもしれないからです。
深刻な問題になればなるほど人に相談するというのが難しくなります。誰に相談したらいいのか、やはり、その道の専門家に相談するのがよいでしょう。それも距離のある人が秘密保持の点からしてもよいと思います。心の問題であれば、私設のカウンセリングルームのホームページでカウンセラーの人柄や資格やブログなどを参考にして誠実な人かどうかを判断するとよいかもしれません。世の中には、悪人も多くいますが、善い人もいるものなのです。
最後は踏み出す勇気、自分を曝す勇気が求められると思います。自分の心の中にある恐怖を勇気を出して取り払うことから始まります。希望と勇気、それがが人を強くしていきます。
(質問)
中・高校時代に特定の人にいじめられた経験があります。そのためか、最近人が怖くなりました。人から話しかけられたら応答することはできますが、自分から人に話しかけることがなかなかできません。そんなことから大学にも通学困難になりました。本当は、いろんな人と親しくなりたいのですが…。どうすればよいのでしょうか?
(回答)
自分を表現する事は難しいことかもしれません。
相手が発信したことに対して応答する、これはできている。できていないのは、自分から人に発信すること。特に自分の気持ち、自分の考えなどを人に伝えることがうまくできない。
その理由はいろいろあります。一つは自分の自分に対する評価。自分に自信がもてないので、自分が発信したことを相手が認めてくれるか受け入れてくれるかという不安が絶えず起こります。
ですから、自分に対する自信のなさ、という不安を乗り越えるためにはどうすればよいかということになります。一つは自分の考えや自分の気持ちを相手がどのように受け止めるかということには注意を払わず、自分が伝えたいことを一生懸命伝える。つまり会話の目的、方向性の転換です。
今までは自分が話したら、相手は自分をどのように見るのか、どのように受け止めるかということに注意をしてしまう。注意をすればするほど萎縮してしまいます。小さくなってしまいます。そうではなく、相手がどのように受け止めるかと言う事は、横に置きます。自分の伝えたいこと、言いたいことを、とにかく発信することに注意を集中します。評価は相手がします。
ですが、人の評価というのは、猫の目のようにコロコロ変わります。価値観によってかわります。ですから、人の評価価値観を根本にするのではなくて、自分の価値観、自分の評価を大事にします。
具体的な会話についてです。発信するときの声、喋り方というものがあります。気持ちは発信してるけど、相手に届いてるかどうか。それが一番大事ですよね。いくら発信しても届いていないと意味がない。受け取る方としては、
声が小さいと聞いてない人もいます。聞いたようなふりをする人もいるし、誠実に聞こうとする人は、「もう一度言って下さい」みたいな事は言うでしょうけど…。
友達との会話、職場でもそうですけど、声が小さいとあなたの言ってることを理解していないということが起こってきます。ですから、声はとても大事です。まず大きさ、それからはっきりゆっくりという速度、言葉も選んで使う。これは次の段階です。とりあえずは声は普通位の大きさ普通位の速さ、そしてはっきり言う。やっぱ振り返って自分を変えていくことが大事です。
自分の中に不安があったり、人が自分をどう見るんだろうか、受け止めるんだろうか、というようなものにとらわれると、早口になったり、丁寧にしゃべると言うことを忘れたり、声が小さくなります。ですから発信するときはいつも自分の考えをきちっと伝えることを目標にしてます。人の評価ではなく、大きい声で伝えるんだ、ゆっくり丁寧にはっきりと伝えるんだって言うことをいつも意識して伝える。自分の気持ちや考えを伝えるといういう事を心がけます。
人の評価よりも、そちらを目的にして行動します。人の目や評価を気にすると行動が、萎縮してしまいます。逆に自分の目的を果たすんだと意識が向くと、行動が積極的になり、能動的になります。
人間はみんな他の人の事はそんなに見たり関心を持っていたりしていません。みんな自分のことで精一杯であり、自分中心なのです。集団の中であなたの行動をどのぐらい人が注視しているか、チラッと見る位でほとんど自分のことが中心なのです。ひとのことにはかまっていられないのです。自分を見てるとか、自分を評価してるみたいな錯覚に囚われ、執着しています。それを取り払ったらすごく楽になります。ですから人目への過剰な意識が不安恐怖を強めてしまいます。
あなたの場合は、過去のいじめとか、他者との関わりの中で恐怖体験があったので、どうしても人に対する恐れって言うものが、心の奥から湧き出てくるのかもしれません。いわゆる無意識のバイアス。それも意識して行動していくこが、現状を打開していく大きなポイントなります。それからあなた自身の人に対する考え方。多くのいろんな人と仲良くなりたい、話ができるようになりたい。無理をしている。あなたは親しい人とは話ができる。優しい人とは話ができる。それでいいんですよ。無理しなくて。たくさんのいろんな人と友達になったり、話ができるようになったりしたい。これ自体が無理な考えです。自分自身にプレッシャーをかけてしまいます。誰しも。そんなことはできるわけないんです。
仮面をつけたり自分を偽ったりしています。例えばスターはいろんな人と嫌な顔をせず話をしないといけない。嫌な人、苦手な人でも合わせます。人気に関係しますから。本当は嫌であっても笑顔で話したりします。無理すると心の不調に陥るかもしれません。また学校の先生は自分のクラスの子どもたちと仲良くしないといけません。苦手な人もたくさんいるはずです。耐えられず、職員室で、愚痴がでたりします。
自分と目的があった人。自分と価値観があった人、自分と気が合う、人そういう人と話ができればいいんです。例えば授業のグループとかで話をせざるをえない時は、最低限の会話で必要なことだけを発信すればいい。それ以上の事は無理して意見を言う必要もない。無理に何かを言おうとするとおかしくなる。その無理してやろうというのは、自分をよく見せよう、よく見られたい、悪く思われたくない。そういう気持ちがあるのでそうなってしまうんです。ですからやっぱりよく思われたいとか、他者の評価、人の目を気にしてしまう。自分の評価に生きる自分で変わっていくっていうことが大事です。
つまり、ありのままの自分でいい。ありのままの自分でありながら、成長していくためにいろんなことを学び、身につけ、自分を磨いていくことです。そのためにも自分の「振り返り」が必要です。
質問
19歳で心療内科にかかり「よくうつ」と診断されました。そのとき薬を三種類処方されました。数年たっても改善しないので、大きな附属病院の精神科に行き診察してもらいました。そこではADHD、適応障害と言われ、新たに薬が処方され、合計6種類になりました。一年たっても改善しないので、他の心療内科に行くと「軽度知的障害」「うつ」と診断され、さらに薬が増え、現在8種類の薬になりました。初診から、12年、病院は三カ所になります。全然改善していません。そちらの「自然療法」「認知行動療法」で改善は可能ですか。
回答
よくある疑問です。臨床心理シランの室の来談者はそのような方が半数近くを占めています。薬が増えることはよくある話ですが、診断がころころ変わるというのは酷い話ですね。正確な診断ができないと暴露しているようなものですね。
当室では、五度以上来談面接された方は、ほぼ全員改善し自立しています。
心の病を治すには、その原因を正確に把握しないと改善することはできません。これは外科や内科のことを考えれば一目瞭然です。例えば骨折した場合、どこが骨折してるのか、レントゲン撮り問診をすれば正確な診断ができます。また骨折と捻挫や脱臼(だっきゅう)の違いもほぼレントゲンなどで判明しますから、それに応じた治療が可能になります。腹痛の場合、原因は何なのか、ウィルスなのか、食中毒なのか、それ以外なのか、それらは医師の経験知、問診や検査をすればわかります。ですからそれに応じた治療ができます。
ところが心に関してはその原因を見立てるのは困難です。「死にたい」「心が苦しい」「人が怖い」「同じ観念が心を苦しめる」などなど。原因、つまり、その病の起こりは何なのか。それも表層的な原因と根本的な原因があるのですが、それがわからないんです。なぜなら、心に対する深い理解と洞察がないからです。
この不可思議な心は、未だに正確なところはわかっていません。現代科学(医学)では脳の働きの一部はわかっていると言われていますが、あくまで一部であり、心との関係性は分かっていないのです。ですから、心の病に処方する薬、これは脳に働きかけて一時的な症状を緩和することが仮にできたとしても、根本的な治癒にはならないのは当然と言えるでしょう。むしろ、わかっていない部分が多いなかで服薬すれば、作用・副作用を含め危険性が高いと言うことが常識的にわかるはずです。
アメリカで大規模な精神病薬の実験が行われたことがあります。鬱に処方されていたSSRIの有名なプラセボ効果の実験がありました。重症を除いた鬱患者への実験では、ほんものの薬と偽薬では、効果はほぼ一緒の結果が出たというのは有名な話です。つまり、本物もにせものも一緒、信じれば効果があるということです。「イワシの頭も信心から」ということです。日本は薬大国であり、薬大好きな民族と欧米の専門家から言われているそうです。日本人は昔から、お上に服従的な民族であり、自分で考えることを放棄することが多いと言われています。結果、権威(医者や医療)を盲目的に信じる愚かさや依存心の強さが問題になっています。薬大国を支えているのは、そうした国民なのです。
心の不思議さはわかっていないし、加えて医師の見立てが不正確だったら怖い話です。心を把握していくためには、やはり患者さんと面接し話を聞かないとできません。何度か面接を重ね、言葉以外の、その人の人生の物語、生き方、考え方、その人の持つ全体像、見えない波動を見抜きながら、どこが病の起こりなのかを見立てていきます。
これは最低でも五度ぐらい面接しないと見立てはできないでしょう。これを一度で見立て症状からマニュアル的に診断するのは、あまりにも非科学的であり、心の不可思議さがわかっていない暴挙と言われても仕方ないでしょう。
名治療者とは正確な見立てができる人であり、心の不思議さに精通した人のことなのです。