私たちは常日頃、生きているということを実感しないまま、無意識に習慣的に惰性で行動しています。
私たちが意識しなくても、体の99%の機能は自動操作状態で、無意識で動いています。脳の活動、呼吸、各神経機能、血液の全身の循環、内臓の消化、吸収、代謝活動など、意識していませんが人の生を保つために、一瞬も休む間もなく活動しているのです。
しかも絶妙に調和され、秩序を保っています。そうした身体の不思議な働きに対して、当たり前のように思い、不可思議な働きに対して敬虔な心を忘れて生きていることから多くの不調和状態が生まれています。心身の病の大半は、不調和状態の産物なのです。私たちが意識しているのは、生命活動の一部にすぎないにも関わらず、全体を見ることもなく、意識という一部で突っ走り、バランスを無視したような行動になっており、そこから多くの病も起きていると言えます。
健康状態は、自己の全体につながり、調和のとれた意識活動から創り出されます。心身の健康は、自らの本当の在り方を知ることから始まります。
人は昔から一人では生きることができない生き物です。拠り所となる集団に所属することで身を保ち、安心を得ることができます。それは集団が命を守ってくれるということを本能的に知っているからです。その場は家庭であり親です。無条件の愛情と言う保護があり、世界で最も安心できる場であり、安全基地なのです。
今の子どは、早ければ1歳前から、幼稚園や保育園に行かされる子もいます。そうした外の集団は、もともと自分の身を安全に守れる場ではありません。子どもなりに、無意識の中で目に見えない多くの脅威に対しての戦いをしています。意識をこえた心身全体をかけた戦いで、神経を使っています。具体的には脅威に対して自律神経系の反応による『逃走か闘争』によって対処しようとしています。それは身を守り生き続けるため本能的な自然の働きです。それはかなりのエネルギーを必要とします。学校や会社の中で安定を保つことに、意識、無意識を含めた人の持つ総合的な力が使われているのです。
うまく対処できると軌道に乗ったように、習慣の力(無意識的な力)で集団になじむ(適応する)ことができるようになります。しかし新たな脅威を感じること(いじめ、仲間はずしなど)が起きると、再び大きなエネルギーを使い、『逃走か闘争」かの選択の戦いが始まります。
引きこもりや不登校は、闘争にエネルギーを消耗させ、『逃走』という自分を守るための生き残るための行動であり選択の結果なのです。
では、その打開法はあるのでしょうか。
もちろんあります。人間は可変性に富み、変化成長する種子を心の奥底に持っているからです。その打開の道は、人間の感情と行動の関係、心のありよう全体を知ることから始まります。つまり自分の本来の姿を知ることで解決できるようになります。本来の自分には想像もできない力があり、行き詰まりはありません。その力を引き出すことができれば、どんな場や環境に対しても対処していく力や勇気や智慧が出てきます。
私の定義ですが、セルフとは意識する自我を含めた無意識に広がる自己のことです。換言すれば真実我とも本質我とも宇宙我とも表現できるものです。その自己(セルフ)を感じるとき、またはその自己にアクセスできるとき、癒し、勇気、智慧がふつふつと湧きあがり、あらゆる困難も乗り越えていくことができるようになります。人間の持つ潜在力は素晴らしいものがあるのです。
今やこどもから大人まで多くの人が不安を病んでいると言われています。10人に1人は不安障害といってよいかもしれません。なぜ、現代人は不安を増大させているのでしょうか。
それは、意識という概念が分かっていないことから起きています。近代哲学の祖といわれるデカルトは「我思う故にわれあり」と人間存在の認識を意識している自己にあるとしました。しかし、その意識の実態は科学で検証されず、曖昧なままなのです。
意識する自己を把握するには、内省の哲学が必要になります。しかし、現代人の目は外に向き、心を見ようしていません。内面の心の働きを省察せず、外の心地よい刺激を追いかけ続けています。おいしい食べ物、気に入った服や靴やカバンやアクセサリー、心地よい暮らし、好きな異性、車、家など。楽しめるスマホ、テレビ、ゲーム、推しやお気に入り。一日の苦しみを忘れさせるお酒など。目を内に向ける暇などないようです。心地よさの追求と不安の増大は比例しているようです。
人間は、意識と意識できていないが存在している働きがあり、多くは無意識的存在に支えられているのです。意識と無意識の相互関係を知ることが不安の解明につながります。
意識していることが私たちの全体ではなく、一部に過ぎないことが分かれば、不安は軽減していきます。それは哲学的実践で可能になります。
哲学とは何か。それは自分とは何か、人生とは何か、心とは何かなどを思索し、探索し続ける実践活動です。自分を知ろうとせず、表面的なものに心を奪われ生きても人生の充実、深い喜びを感じることはできません。
人間の目は、科学の進歩、経済的豊かさや物質主義がもたらす快楽、便利さに惑わされ、いつしか本然の生命のリズムから少しずつ外れていき、本物が見えなくなっているようです。それだけではなく、もっともこわいことは、全てが「あたりまえ」と思いこんでいる現代人の傲慢さです。
今この瞬間地球上で生きていること、それは当たり前のことではないのです。大不思議なことなのです。地球が回っていることも当たり前なことではありません。不思議な生命的な働きなのです。地球の軌道が少しずれただけで大変なことになります。
光、酸素、水、温度などがわずかでも変化すれば地上の生き物はたちまち病み、死滅の道になるかもしれません。私たちの体も絶妙な神秘的な働きで瞬間瞬間を生きています。それは当たり前ではないのです。不思議な働き支えられて生きているのです。人は病になったりして何かを失ったとき、その大切さを知り、有りがたさを知るというのが現代人のようです。それでは遅すぎます。もっと早く目覚めるべきではないでしょうか。
本当の自分を知るためには、目を自分の心に向けなければいけません。本当の自分を知らずしては本当の幸福はありません。心の底からふつふつと湧きあがってくる歓喜こそ、本当の幸福の実感なのです。
そこに到達するためには、哲学的実践が必要なのです。
症状を好転させる上で重要なポイントは、自分の健康状態を良くするために何かをしようという心がけです。
症状を見つめ、ありのままの自分を受け入れる姿勢が大事です。症状自体に意識を向け、それを現実の体験として受け入れることが大切です。注意を集中するとは、今、現在の自分を受け入れることになります。痛み、恐怖、苦しみ、歓迎できない状況、全て拒否するのではなく、この症状や苦しみは自分に何を伝えようとしているのか、心や体のどんな状態を伝えようとしているのかと問い直してみることが大事です。
健康状態を向上させるためには、自分が今いる場所から出発しなければいけません。症状や感情は心や体の状態のメッセージなのです。症状や苦しみは自分の一部です。症状と自分全体を同一視する態度を改めなければなりません。
集中力を発揮すれば冷静に痛みや苦しみの感覚を観察できます。自分は自分が体験している感覚とは完全に切り離されているのです。痛みは私の痛みではなく、ただの痛みであり、痛みは想像の産物なのです。
痛みや苦しみは体が送ってくるメッセジです。急性の痛みは、問題が起こっているから、そこに関心を向け状況を改善する行動を起こしなさいという警告なのです。
痛みや苦しみは先生です。何度も失敗しながら私たちは安全に暮らす技術を体得します。人は何年もかかって体や心の痛みを体験しながら、世の中の事や自分の体や心について学んでいきます。痛みはいろんなことを教えてくれる先生なのです。人は病気になったり、失ったりして初めて有りがたさを感じるものなのかもしれません。
60年前、昭和35年ごろ、どの学校にも不登校者はほとんどいませんでした。いたとしても、家が貧しくて家の仕事や子守のためか、病気のために学校を休んでいるのが理由でした。子どもの数は団塊世代と言われたように、中学校では、1クラス50名、一学年500名ぐらいは平均的に在籍していました。そんなに多くいたのに、今のようないじめも不登校もほとんどありませんでした。なぜ現在のようになったのでしょうか。
昭和55年ころになると、小中高で非行が増加し、社会や親に反抗する形で子どもたちは、不満を発散していきました。当時の不登校者は、外を徘徊したり、遊び回ったりている子どもが圧倒的でした。
平成になり、非行は徐々に減少し、外への反抗のエネルギーは個人の内面に向かっていきました。
その間、世界・社会は科学の進歩の恩恵を受け、便利社会が出現し、人間は快楽志向となり、快適さ便利さ、スピード化が進みました。それにつれ、人間は不快や不満、遅さに耐えられなくなり、人間の大事な要素である忍耐力は減少していきました。
科学の進歩、物質的豊かさと心の進歩は比例せず、むしろ反比例しています。精神不調者は増え、鬱、不安障害、適応障害、発達障害などバブルのように爆発的に増加し、精神科医療と製薬会社が大繁盛するようになり、心を病む人が増えていきます。ここにも情報化社会、コマーシャリズムの陰の部分があります。
情報は個人で正邪が判断できないほど溢れ、テレビ、ゲーム、スマホに人間の頭はハッキングされているような観さえあります。人々は、自分で考えることをせず、受け身に情報にさらされ、判断は快不快が基準になっていっています。結果人間の大事な部分である自立心が弱くなり、依存性を強め、メンタルを限りなく弱めています。あたかも情報や快楽やお金やスマモにマインドコントロールされているようにも見えます。
不登校は大人社会が作り出した産物なのです。子どもは未成熟であり、親や大人社会の中で模倣としての学びを続け、成熟していくからです。不登校を減少させるためには、迂遠に映るかもしれませんが、大人が生き方を変え、社会の在り方変えることが抜本的な解決になると思います。
不登校の多くの背後に得体の知れない不安が存在しています。その不安の正体は、人間のよりよく生きたいという本能的な欲求であり、誰人もが持っているものであり、特別なものではありません。言葉を変えれば「適者生存」という人類古来の生き抜くためのギリギリの選択が不登校という形をとっていると言えます。
不登校者にとって学校に行く事は得体の知れない不安との戦いになります。不安の強い中では、自分を守ることが精一杯であり、見えないものに対して無意識で構えているのです。いつ外敵から攻撃されるか分からないからです。みんなと一緒にいると自分も守られるという感覚が無意識にあるからです。そうした意識はしていないが確かに存在する所属感に伴う安心が薄れているところに不安は強まります。そうした所属に伴う安心がないと自分で自分を守ることが難しくなります。
そうした得たいのしれない感情は、五感と意識から緊張となって自分にささやくように言います「一人では自分を守れないだろう」と。そして不安に心が支配されてしまうのです。
もし自分を守ることができれば登校できるようになります。なぜ自分が登校できないのでしょぅか。生き残りたいという本質的な生存本能から不登校も起きています。それがわかれば不安解消の道も見えてきます。さあ始めましょう。どうしたら不安を乗り越えられるかを…その道を探してゆきましょう。それには自分を知ることです。自分の感情を知ることです。人間の感情と思考の関係を知ることです。人間の意識が、行動が、自分で制御できない感情や無意識につきうごされていることを知ることです。つまり人間そのものを知ることです。ソクラテスの、「汝自身を知れ」「自分が無知であることを知りなさい」という言葉が響いてくるようです。
それがわかればあなたの不登校は解決できるでしょう。つまり不登校というあなたの人生の一部が、あなたの学びを促しています。あなたの成長を願っているのです。不登校はあなたという人間全体が向上することへのメッセージなのです。
人間は、思考を持った感情の生きものです。「思考を持った感情のマシーン」と表現した神経学者もいます。つまり感情が人間全体をコントロールし、思考はその一部です。とすると思考や意識で感情はコントロールできないことになります。では感情をコントロールするにはどうしたらよいのか…。
それは今の瞬間を生きるということです。今の瞬間に意識を集中することです。人間は意識を含めた6つの感覚器官があり、この6つの感覚器官が感情を受信しています。特に5感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身)です。身体の感覚と脳の働きです。詳しく言えば、脳内の神経伝達物質が人間の感情を操作しているといえるでしょう。
人間が求める最高の気分、それは歓喜。ベートーベンは、それを「喜びの歌」で表現しようとしました。生命の中から沸き起こる喜び、歓喜に勝るものはないでしょう。つまり人間の感情の最高のものが歓喜という喜びなのです。もっとも、最低の感情が苦しみにまつわるものです。とするならば、感情は苦楽に集約されると言ってよいと思います。
怒りイライラ、焦り、満たされない、不満、不利益、馬鹿にされる、下に見られるなど。つまり、ブッタ(釈迦)が説かれた地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の生命が苦しみに最もかんけいしてきます。この生命感に入る感情を分類すれば、人が避けたい感情がはっきりします。心が沈む、心が締め付けられる、心が閉じ込められる、心が苦しい、心が思い通りにならないなどは地獄界の感情です。心が焼き付くように満たされない、心がとらわれる、これらは餓鬼界の感情です。不安や恐怖は畜生界。恥ずかしさ、馬鹿にされた、見下げられた、などは修羅界の感情です。これらが苦しみの主な感情であり、いずれも苦しさを伴います。
逆に楽しみの感情は嬉しい、天にも昇る気持ち、満足、ご満悦、充実感、満たされた思い、長く続く喜び、永続する喜び、快楽、気持ちがいい、気分が良いなど、人間が最も求めている感覚です。これらも多くは餓鬼、畜生、修羅から得られます。または自分に打ち克つことで得られます。それは人間界に伴うものであり、また天界に属するものになります。
これらの感情は、いずれも身体5つの感覚器官+意識が脳を通して感じるものなのです。しかし環境が変わると感情も変わります。今述べた世界をブッタは六道の世界と名付けました。これは、環境に左右されやすい世界ですが、自らの力で関係する環境(例えば、苦しい職場に行かない、嫌な人を避けるなど)を変えることもできます。
しかしどんな感情も長続きはしません。何かを達成した時、例えば合格や宝くじが当たったなど。その時は最高に嬉しく喜びの絶頂かもしれませんが、そのもすれば感情は数日も続くでしょうか。反対に怒り、この感情も1 日も続くものでしょうか。悲しみ、例えば愛する人が死んだとします。その悲しいみは、自然にしておけば3ヵ月でかなり薄れていきます。
つまり今の瞬間、目の前でやっていることに対して意識を集中していくと、感情は薄れていきます。なぜなら今、意識を向けている、それに伴う新しい感情が生起するからです。だから、嫌な感情から離れるには、その嫌な感情に伴ういろいろな雑念観念をそのままにして雑念の流れるに任せます。そして今やっていることに意識を集中します。それが習得できれば感情に支配される事なく、苦しみの感情から解き放たれていきます。
臨床心理シランの室の「セルフ感受療法」は、その修得を目指しています。
公立の小中学校の通常学級に、注意欠如多動性障がいなど発達障がいのある児童生徒が8,8%在籍していると推定されることが、文部科学省調査(令和4年12月)でわかったとマスコミで報道されました。2002年に実施された「全国実態調査」で、6%近くがLD、ADHD、高機能自閉症(今の自閉症スペクトラム)により、学習や生活に特別な支援が必要とされるという報告がなされことに端を発しています。それを受けて、2004年に「発達障害者支援法」が成立し、現在のような特別支援教育が始まりました。
この調査に科学的な根拠がない理由はいくつかあります。まず、この調査を実施しているのが、学校の担任教師です。専門家チームが作成した75項目を担任の主観で調査し報告するという方法をとっています。質問紙調査ですから、客観性より主観に依存します。
二つ目は、75項目のチェックリスト項目自体が、とてもあいまいであり、調査する人の解釈によって変わるということです。担任は心理の専門ではないので仕方のないことですが、この結果がマスコミを通して世間に拡散されるのですから、怖いことです。
三つは、「発達障害」自体の科学的根拠です。「脳の中枢神経に何らかの要因による機能不全があると推定される」と報告書に記載されていますが、「推定」は仮説であり、実験証明されたものではなく科学的根拠になりません。研究を重ねていますが、まだ真実はわからず、やはり「推測」「仮説」の域にとどまっていて、ただ似たような状態像、症状を呈しているという現象があるだけなのです。いくつかの症状が該当するかどうかの聞取りで多くの精神科医は「発達障害」を診断(診断マニュアル、DSM5…診断のための教科書のようなもの)していると言われています。
そもそも「発達障害」という言葉、カテゴリーのとらえ方が問題です。日本語では「障害」と翻訳していますが、アメリカ精神医学会の用語は「disorder」で翻訳すると、「変調や秩序の乱れ、正常な状態から外れていること」と言う意味になります。これを「身体障害」と同じ障害のように理解すると、いかにも重たいものに感じてしまいます。
また脳機能と発達障害の関係は科学的には解明されていないと言われています。それにも関わらず、医療業界、製薬会社、行政機関が一丸となって「患者を掘り起こす」「啓発」活動に力をいれていくという結果となり、発達障害は空前の流行となり、うつ病バブルに続き「発達障害バブル」期に入っています。つまり、科学的根拠がない、推定・仮説の領域で作られたものなのです。マスコミが拡散したといってよいでしょう。
恐ろしいのは、発達障害バブルによる早期予防教育が未熟で不完全な子どもたちの個性や可能性を伸ばす方向ではなく、こどもの異常をいかに見つけるかに重点が置かれている点です。私が最も恐ろしいと思うことは、脳の発達成長期にある子どもに対する精神病薬の服薬とその副作用です。副作用の影響性も実証結果はありません。精神科医や専門家を安易に信じる前に、親は真実を確かめる賢さが大事てす。それが子どもを守り育てる本当の愛情だと私は思います。
「何も考えず 権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である」 アインシュタイン
人は自らの本来のありのままの姿を知らないところから苦しみを招いています。自らを知り本来の自分に目覚めれば、不調は調和され、今まで以上に健康になっていきます。本来の生命は健康そのものだからです。
人間は長い歴史の中で、「よりよく生きる」ために生命の真実に迫り、その解明に取り組んできました。人の身体についての解明は、現代科学の恩恵のもと、実験、研究、分析の結果、多くの身体疾患の原因も究明され、今日まで不治の病とされた感染症(結核など) を始め多くの身体疾患が治療できるようになりました。一方、身体医学分野でも難病は増加し、原因不明の病気は数多く多くあります。世の中の変化、自然の変化、人間の変化に伴って新しい厄介な病気も増えています。結論すれば、新たな病気は全て人間が作り出していると言えます。その自覚に立てば、病の原因も見つかると思います。
2000年以上前に、ギリシャ哲学の祖であり人類の教師と言われているソクラテスは「汝自身を知れ」と叫び、「無知の知」を説きました。
人間は、何もわかっていないのに知ったように生きている。自分が生きていることの不可思議さ、自分の肉体、心、意識… なぜ、意識していないにもかかわらず私たちの生命は活動をしているのか。また自分の心身を動かしているのは、何なのか。 この命の働きは一体どこからくるのか。生とは、死とは?などなど、知らないことだらけだというのです。
以来2000年の時が流れましたが、人間の心は何一つ解明されていないといってよいでしょう。脳と意識の関係、脳が先なのか、意識が先なのか?
なぜ夢をみるのか、なぜ意識できない世界があるのか、人間の意識の指令はどこからきているのか、何故意識もしていないのに血液は全身を休むことなく巡っているのか?人間の意識を支配しているのは無意識なのか…など。
何一つ科学的解明、実験実証がなされていません。それなのに、なぜか精神疾患名だけが年々アメリカ精神医学会で新しいものが作られています。つまり精神障害名の増加です。その根拠は、症状判断です。○○障害と診断されるマニュアル基準によってなされるという、主観的曖昧診断であり、およそ科学的とはいえません。
さらに曖昧なのが、その診断のもとに投与される精神病薬です。心が解明されておらず、原因も分かっていないにも関わらず、どこを的にする治療薬なのでしょうか…。抗ガン剤はかつて「殺細胞剤」と医療界では呼ばれていたそうです。がん細胞も殺しますが同時に健全細胞も殺します。副作用とは、健全細胞を殺すということです。免疫力が下がるのは当然の帰結でしょう。
「医は算術なり」
悲しいかな、それが現状ではないでしょうか。潤っているのは、心療内科(精神にかかわるクリニックなど)、製薬会社、そして政治家。苦しんでいるのは精神不調の心を病んだ人です。大いなる矛盾ですね。
心の不調は、それを作り出した自分が治すしかありません。なぜ心の不調に陥ったのか。全ては自分の心の働きが原因なのです。つまり自分の生き方、自分の意識、自分の感情や欲望に原因はあるのです。ですから解答も解決策も治療法も全て自分の中に潜んでいます。自分を知れば心の病は治ります。本来人間生命には、いかなる病を治す力を秘めているのです。それを宗教的な言葉でいえば、「神の力」であり「仏の力」というのです。教育的表現をすれば「無限の可能性」とも言えます。
日本の哲学者西田幾多郎は「善の研究」の中で、それを「本源的欲望」と名付けました。また、フランスの生命の哲学者ベルグソンは「エラン・ビタール」(生の躍動)と表現しています。「神は死んだ」(書ツラツウストラ)という言葉で有名なニーチェは超人と比ゆ的に述べています。
その不思議な力は関係性によって内から発動してきます。人間は常に関係性(対境とも縁とも環境とも表現できます)の中で生きています。何に縁するのかが大事になります。自分の力を最大限に引き出すために、古来から師の存在の重要性が説かれてきました。人生の善き師、善き先生、善き先輩などの存在が自分を引き出してくれます。
例えば、あらゆる病を治したと言われる医王のブッタ(釈迦)、ソクラテスのような人類の教師と言われるような人、あるいは人の善き道を教えた孔子、老子…、 または古人の書が善縁となる人もいるでしょう。平凡な民衆の中にも優れた人格をもった善き人はいます。ほとんど無名の小欲知足の人ですから、社会的には目立たない人が多いと思います。本物の人物は、小欲であり、富を求めず名誉を求めず、人の喜びを喜びとし、人の苦しみを自分の苦しみとするような人です。
自分の潜在する力を引き出せるかどうか、それは善き人(善縁)に出会えるかどうかにかかっていると言えます。