私たちは意識するにせよしないせよ、今、生きています。生きているというのはまぎれもない現実です。それをよりよく生きるという方向に変えることによって、あらゆる苦しみ、不幸から脱却できます。よりよく生きるとは、どういうふうに生きることなのでしょうか。
多くの人は、過去の記憶やできごと、未来への不安、迷いなどが混在し無意識的な自動思考や観念に瞬間の意識は支配され、今の瞬間を何気なく生きています。
多くの人は、目に見える世界や五感で感じられる快適な感覚、便利さに流され、かけがえのない今の瞬間を惰性に過ごし、自らの深い世界を実感することなく表面的に生きているといってよいでしょう。
未来に対して頭の中で自動的に生起するネガティブな思いに支配され、いたずらに不安を生み出し、今の瞬間という新しい豊かな生命の働きを意識できていません。
生きることが、どちらの方向に意識が向いているのかが大事になります。過去の記憶やイメージに支配され、後ろ向き、消極的、受動的な生き方になっているのか。
それとも、何も意識せず感覚的・惰性な生き方、「慣性の法則」のような生き方なのか。
それとも今を明日に向け、前向き、積極的に希望を持って生きるのか。それによって人生は大きく変わります。よりよく生きるとは、今の瞬間を未来に向けて目的をもって積極的に生きることなのです。
今の瞬間に意識を集中し、目的をもって一生懸命生きることによっていつしか自らが持つ本来の素晴らしい力に気づき、それを湧現させることができます。自らの心身に対する正しい認識と覚知が、人間を高みに導いてくれ、自立と揺るぎない安心の確立、そして自己実現を可能にしてくれます。
今という瞬間に過去はなく未来もありません。過去は記憶に過ぎず、未来は想いに過ぎません。明日は永遠にありません。いつも今しかないのです。今日しかないのです。今の瞬間は常に変化しています。そして細胞の新陳代謝のように新鮮に呼吸しているのです。その瞬間には豊かな智慧の律動が秘められているのです。瞬間の生命の有り難がたさの認識から新たな人生が開かれます。
ヒマラヤの旅人
地球上の生物は全て生存をかけた闘いを行い、自分の身を守り、種族保存の熾烈な活動を演じています。
例えば、地球は一瞬の休みもなく自らものすごい速度で動いています。一日一回転する自転の速度は時速1500㌔、新幹線速度の6倍です。一年かけて太陽の周りを回る公転速度は時速10万キロ、新幹線速度の400倍で、想像すらできない神業です。また地球の内部の温度は6000度で、その高熱で地球はあらゆる活動ができるのです。地球の働きはまだたくさんありますが、地球は生きています。生きているとは動いていることであり、活動していることと言えます。地球が動き、闘っているおかげで、地上の生物や人間も生きていけるのです。決して当たり前のことではなく不思議なことなのです。
また人間が地球上で生きていけるのは、太陽が活動しているからです。太陽も一瞬の休みなく、水素やヘリウムの核融合を行い、熱や光を発し、それが地球まで届くことで、地球のあらゆる生物に愛を与えています。太陽も命ある存在なのです。もっと言えば宇宙のすべての存在が動き活動していてます。生きているとは、活動することであり、前に進むことであり、環境に適合する闘いをしている状態のことなのです。
古来、人間は地球上で、生き残りをかけて、あらゆるものと闘ってきました。またウィルスや細菌、自然の脅威から身を守るため、知恵を働かせ協働して闘い生き残ってきたのです。闘わなかったものは生き残れず死んでいきました。自分の身を守れなかったからです。
私たちの身体も同様に闘っています。私たちの身体は全て細胞からできています。その数は約600兆個と言われています。生きているとは、細胞が生きているから、私たちも生きていけるのです。細胞は、呼吸によって外から取り入れた酸素、そして口から摂りいれた栄養を血液が血管を通して全細胞にくまなく配り、老廃物を回収しています。細胞は新陳代謝を繰り返して生きているのです。細胞も生まれては、活動し死んでいくという生死を繰り返しています。もっとも短い寿命の細胞は腸壁の細胞で24時間の寿命と言われています。細胞は内外のいろんなものと闘って、その命を守っています。そのおかげで私たちは意識しなくとも生きているのです。私たちが意識できない活動、それを潜在意識の活動といいます。
潜在意識の活動のおかげで私たちは生きています。神秘であり有りがたいことです。生命活動は宇宙も地球も人間の心身もすべて神秘で不思議な働きなのです。私たちの意識は心身のごく一部の働きしか感じることができません。多くは潜在意識(無意識)が自動的に働いてくれているのです。生きているとは、潜在意識の活動とも言えます。私は心身のそうした神秘な働きに日々合掌し感謝の気持ちを伝えています。
私たち人間だけが自分を変えることができる意識(思考・言葉)を持っています。身体や自然の闘いに調和し、自らも闘うことが生物種としての人間の本来の正しい姿なのです。闘わないで逃げていると身心の持つ力は発揮できず、逆に衰えていくことになります。ではどのよに闘えばよいのか…それは、
まず自らの可能性…「自分はできる」「自分はやれる」と強く信じ念じることです。
今は過去の結果ではなく、今を未来の原因にする生き方をすることです。世の中は、思い通りにいかないことばかりです。だ
から忍耐が必要になります。古人は「石の上に三年」と言っています。人生の真実を知った言葉だと思います。忍耐こそ成功
の礎なのです。
勇気と、積極的な心で、環境(自分の外の世界)に関わり切り開いていくことです。それが闘うということであり、よりよく生
きることなのです。
生きている… それはどんな人にもある平等な命の不思議な働きであり現実です。
心身の絶妙な調和と秩序の織りなす神秘な世界です。
生きている…それは今の瞬間しかありません。今の瞬間をどう実感しているかです。
過去の記憶やできごとが混在し湧き起こる自動的な思いや観念に瞬間の意識は支配され、
かけがえのない今の瞬間を無駄に過ごしています。
また起きてもいない未来に対して頭の中で起きる思いや観念が不安となって
意識は今の瞬間という新しい生命の働きを享受していません。
今の瞬間に意識を集中し、意図をもって評価せず生きることによって
いつしか本来の自らが持つ偉大な力に気づいていきます。
自らの本質に対しての正しい認識と実感が、人間を高みに導いてくれる原動力です。
生きていること…それは身体の神秘と地上のどんな財宝にまさる心の宝庫なのです。
また心の無限さ 無量の生きる智慧の集まりなのです
まさに一人一人が神秘な宝庫を持つ小宇宙なのです。
今という瞬間に過去はなく未来もありません。過去は記憶に過ぎず、未来は想いに過ぎません。
今の瞬間は常に新しく、常に新鮮であり、創造力や智慧に満ちた豊かな律動なのです。
その瞬間の生命のかけがえのなさ、有りがたさの自覚から新たな人生が開かれます。
具体的には、心身の神秘さ…意識と無意識の関係 身体と心の関係についての学び。
今の瞬間に集中する 呼吸瞑想、身体観察瞑想、ヨーガ瞑想。
心身の調和やバランスを調整する感覚調律、感情調整など
を実践し、体感し修得していきます。
その先には 健康な喜びの心身(生命)という今まで以上の最高の自分に到達していきます。
以上ことを 臨床心理シランの室では、心理療法面接を通して体得していきます。
回答
長くなりますが、私の最近の思索をもとに説明致します。
最近の調査によると、精神疾患者は419万人、ひきこもり者は146万人、不登校者は年々増加し小中で24万人超(令和3年度調査)、小中発達障害8,8%(令和4年文科省調査)。少子化にもかかわらず、若者の精神疾患者は増え、引きこもりは増加、不登校も増加の一途をたどっています。一体、何が原因でこのような日本社会になっているのでしょうか。
健全な社会は、精神疾患者や不調者を出さない予防に力を入れた、心の健康社会を目指すものです。政治家は、口を開けば「経済、経済」そして「福祉」です。あたかも経済が豊かになり、お金があれば、そして「高齢者福祉」に力を入れれば、心の病も解消でき、健康な社会が到来するような口調です。しかし人間観や思想そして哲学の低い政治家や専門家(なぜ低いのかというと、自分の利益や名声が第一で国民は二の次と考えているから)と彼らに疑うこともなく盲従する国民が、現代社会の心の病を増産させている第一原因と私は思っています。
二つ目は軽薄、表面的な「売らんがための・儲け主義」に偏向した無責任な情報の垂れ流しです。そうした情報は何の規制もなく一方的に拡散されます。受け取る側が、よほど賢く見極めなければ情報に翻弄されてしまいます。現代人は、情報の真偽が分からず刺激的な情報に踊らされ、洗脳されています。視・聴覚優位な生き方にさせられ、想像力や思考力は低下しています。マインドコントールは何もカルト宗教(オウムや統一教会など)だけの専売特許ではありません。現代ではマスコミ(テレビ、週刊誌、ユーチューブなど) こそ、プロバガンダあり、人間の欲望や弱みに心理的に巧みに侵入し甘く語らって人の心を骨抜きにしている元凶かもしれません。
なかんずく、テレビやスマホは人間の最も弱点ともいえる視覚に訴え、巧みに人間をマインドコントロールしていると言えます。人間は視覚情報に本能的に弱く敏感に反応しますから思考が麻痺する部分があります。怖いのは、コントロールされていることすら感じないことです。情報を受動的に受信することに慣れ、疑うことをやめることは、思考の死につながります。それに気づいていないことが一番の問題なのです。以前「トイレットペーパーがなくなる」「マスクがなくなる」と報道されたとき、国民の多くが、雪崩を打ったように店に集中し、一時パニック状態になりました。冷静に真偽も確かめずに…。
「何も考えず、権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である」とはアインシュタインの言葉です。
三つ目は快楽・刹那主義、便利こそ豊かさという欲望の偏向や錯覚です。気持ちよさを求めれば求めるほど、不快に耐えられなくなります。便利さに慣れればなれるほど、不便に対して不満を感じるようになります。便利さが普通になると、この世の自然の現象や生きていることの「有りがたさ」が分からなくなり、心身の秩序を知らず知らずに失い、心の不調の原因を作ることになります。
便利さや物質的豊かさの過度の追究は、恐ろしいことに自然の加工や破壊をもたらし、病める地球を作り出しています。そのサインは、温暖化や異常気候や災害、最近では線状降水帯現象などになっています。自然や地球秩序の破壊は、地上に住む生物、人間の心身の秩序の破壊を伴います。なぜなら人間も自然の一部だからです。地球自然との絶妙な調和、神がかり的な秩序の中で人間も、その恩恵を受けて生きているからです。自然や地球や宇宙の恩恵さえ感じない人間の傲慢さ(当然のことと思っていること)が人間の不幸の源泉かもしれませんね。
ほんの一例ですが、私たちは酸素なしでは10分も生きることができません。もし地上の酸素が減少すればどうなるのでしょうか。酸素は植物や海の海藻、プランクトンが多大に作ってくれていますが、人間がそれらの植物を勝手に操作し続ければ、地上の酸素にも影響を与えることになるでしょう。
この影響は心身の病となって表れてくるのは当然の結果です。もしこのようなことがわからないということであれば、思考が曇り、欲望で心が濁っている証拠なのです。純粋な清らかな生命の働きを持たなければ物事の本質は見えないからです。
一面から言えば不快や不満や嫌なことに対する耐性の低くさから、心の不調は起きているのです。つまり人間や自然の生命現象・働きに対する無知(部分を全体と思い込む偏った思考)と偏った欲望への執心から心身の不健康は起きているのです。
最後は、専門家(精神科医)と製薬会社とマスコミが作り出す精神疾患(うつ、そううつ、発達障害など)の増産です。詳しく知りたい方は次の書物を読むとよいと思います。「ブラック精神医療」「発達障害のウソ」(いずれも、米田倫康著、扶桑社新書)「精神科臨床はどこへいく」(こころの科学、井原裕編、日本評論社)」「心の科学164、誤診」(日本評論社)「精神科は今日も、やりたい放題」(内海 聡著・三五館刊)
真実はいつも煙たがれ闇に葬られます。ガリレイは地球は回っているという真実を訴え、裁判に欠けられ死刑になりました。当時の大多数の人間は教会の天動説が生み出した常識を信じていたからです。現代から見れば非常識で、非科学的なものですが…。つまり、ガリレオは当時の無知な民衆とキリスト信教者によって死刑されたといってもよいでしょう。いつの時代も多数を占める無知の人間群が少数の真実派を迫害し、闇に葬ってしまうのです。そして知らず知らずの間に社会は、思想の毒(表面的にはきらびやかな薬が広がり)に染まり、社会に不幸は蔓延していくのです。
依存の心の強さが専門家を信じさせ、確かめることもしない愚かさが、精神疾患増産の最大の原因と私は思っています。真実に対する無知・愚かさは不幸の大きな原因です。賢くならなければだまされていることすら気づかず、いつしか不幸に沈むことになります。私たち一人一人が賢くなることこそが重要なことなのです。ギリシヤの大哲学者ソクラテスの「無知の知」「汝自身を知れ」という言葉が、私の心の中にこだまします。
回答
カウンセリングと心理療法を同じように理解している人が多いようですが、全く別のものです。
カウンセリングは相談という意味です。心理相談、進路相談、結婚相談、家族の相談、化粧品の相談など、話を聴いて何かアドバイスをするというぐらいの意味です。ですから、心理カウンセリングが心理状態の本格的な解決を目指すというものではありません。
一方、心理療法は、認知療法、認知行動療法、森田療法など、症状を見立て、解決の手立てや方法を持ったものです。本格的な心理状態の回復を目指すものです。ですから、研究され、科学的な効果的な治療実績(エビデンス)が問われるものです。
現在、科学的効果実績の高いものとして、認知療法、行動療法、認知行動療法、対人関係療法などがあげられます。また、不安症・神経症(パニック障害、強迫観念)などには、森田療法が効果実績が高いと証明されています。また、遷延化(なかなか治らない)鬱には、マインドフルネス認知療法の効果が高くなっています。
精神科医の治療は、精神療法と言われています。そもそも精神科医の治療は心理療法が中心でした。精神科医が行う心理療法は精神療法と言われています。日本で生れて世界的に広まった森田正馬氏の森田療法はまさに心理療法そのものです。40年前までは、精神科では心理療法(精神療法)が中心でした。行動療法や認知療法は精神科医が治療で使っていました。現在でも、行動療法の第一人者は精神科医が大半です。
しかし、30年前ぐらいから、精神科クリニックが急増し、その数も現在の4倍以上になり、名前も「精神科」という名前を使わず、「心療内科」「心理クリニック」、最近では「ストレスケアクリニック」「メンタルクリニック」など、誰でも利用できる親しみやすい名称で個人開業が急増しています。
精神科という敷居の高さはなくなり、誰でも気軽に利用できるようになり、どの心理クリニックも、今では予約がとれず、3か月待ちが当たり前になっています。精神疾患者が増えたのか、情報社会の結果なのか。正しくは、マスコミ操作により精神疾患者が急増された結果です。そして、精神科での薬物治療で改善できず、患者が通院し続け、患者が溜まっているからです。
テレビコマーシャルで製薬会社が流した「うつは心の風邪」というものが、大ヒットし、多くの人が心理クリニックを利用するようになりました。次の流行は「発達障害…薬治療」でした。今は、「大人の発達障害」が大流行しています。すべてマスコミと専門家と製薬会社の連携プレーの結果です。
精神科医から心理療法はなくなり、薬物療法一辺倒になってしまいました。私も北九州市で心理療法をやっている精神科医の存在を知りません。そのクリニックで心理療法をやっている人がいるとしたら、雇われ臨床心理士か公認心理師です。利用者に聞くと、心理療法というより、心理カウンセリングといった色彩の強い感じを受けます。
なぜそうなったのか、理由は大きく二つあります。一つは、現在の精神科医は、大学で薬理学を中心に学び、心理療法はほとんど修得していないと言われています。だから、心理療法ができないといってよいでしょう。(「ブラック精神医療」米田倫康著を参考)もう一つは、心理療法は一回50分近く時間がかかります。採算がとれません。薬物療法であれば、5分から10分で面接が終わります。「5分間治療」と揶揄されていますが、それが現実です。実際に心理クリニックに行かれた方は納得できると思います。
ですから、現在の精神科医の治療は患者への薬の投与が中心になります。
以上のことを考えれば、あなたが、どこにいけばよいのか判断できるのではないでしょうか。
回答
この問いには、今のあらゆる科学も宗教も推定でしか答えられないと思います。なぜなら死者は語らないし、実際に死なないとわからないからです。 以下に、私が50年近く学んだ科学や思想・宗教をもとに、この「死・来世」の問題について考察してみます。説明が、かなり難しくなりますが…。
来世があるかどうかは、つまり今の意識が考えていることですから、その意識を解明することから始まります。今の最新科学は一つの細胞すら作れません。つまり生命については説明できないのです。せいぜい、細胞の構造や働きが限界のようです。
この問いの解答は西洋科学では解明できないと言われています。キリスト教は神のみが知る世界です。その問いに、直観智で肉迫したのが、東洋思想、なかんずくブッタの思想が一番ではないかと思っています。なぜならブッタの悟りとは、「今の生命に永遠(前世・現世・来世に続く生命の真実の相)を覚知した」と言われているからです。つまり、今、この瞬間の生命は永遠であると悟ったのです。
しかし、永遠という概念は言葉で理解できできても、真の意味するものは理解できません。なぜなら分析知という知識ではとらえられない世界です。同様に生命は無始無終というブッタのとらえた世界も分析知てはとらえることはできません。その理解は直観智でしかとらえられないといわれています。実感の世界であり、それが悟達といわれるものです。
ですから以下の説明は比喩的な表現になります。
身体は滅びても生命の働きそのものは永遠に続いていくものだというエネルギー保存の考えに近いものです。これは、輪廻転生という考えではなく、個の生命の特性の連続性を教えているのです。つまり、あなたの我(真我)は、あなたのまま続くというのです。今、動物のように、本能のまま、弱肉強食的な生き方をして死ねば、その生命の個の継続は、来世は前世の生き方にもっと適した身体を選び、つまりこの場合は、動物として生まれてくるという生命思想です。
生命は三世に続くものですから、当然来世はあるという考えになります。それも個の生命の傾向、生命の働き、特性が継続するという考えです。人間らしい生き方をすれば再び人間に生まれてくるし、畜生(動物・昆虫など)の生き方をしていれば、来世は自らにふさわしい形の身体を選び、なんらかの畜生の種として生まれてくるというのです。ここには、厳しい生命の因果律があります。人の目はごまかせても、自分の生命は、生き方は因果として刻印され、誤魔化せないという考えです。
人間は意識して自分を高めたり、精神的に向上することができます。つまりこの地上の生命種の中で人間だけが自分を成長させることができます。動物は、それができません。本能のまま生きるのが精一杯です。しかも、強いものに呑まれ、食べられるという強烈な恐怖に晒されたうえ、強いものに食べられ、殺されるという「残害の苦」を味わうとされています。
あたかも、今の人間が多くの牛、豚、鶏、魚を殺しているように…。彼らは殺される前には、「残害の苦」という殺される恐怖におののいているのです。ですから、過去の仏教修行者は肉食をしなかったのです。この思想に照らせば、現代人の罪は計り知れないものがあるようです。
意識で自分を高め、変えていける人間の生命形態こそ地球上では最高の生命なのです。私たちが人間の生命を保っているということは、最高の宝を持っていることと言えます。「無上の宝珠 不求自得…むじょうのほうじゅ ふぐじとく」(無上の宝、この上ない宝を求めていないにもかかわらず、自然と自分に具わっているというブッタの教えです)
死ぬことを考えることは横において、ひとまず生き抜いて自らの宝を活かしたり、使ったりすることを考えたほうが価値的だと思いますが、どうでしょうか…。
(質問者)
今、19歳です。今年から専門学校に入学しましたが、何をしてもうまくいきません。友だちもできません。勉強もおもしろくありません。めんどくさくなり、やっていることをすぐに、あきらめてしまいます。自分のメンタルの弱さが嫌になります。ネットで調べて、メンタルトレーニングをやってみましたが、うまくいきません。どうすればメンタルを強くすることができますか?
何かよい方法があれば教えてください。
(回答者)
あなたは、メンタルと言う言葉を使っていますが、そもそもメンタルとはどういう意味なのでしょうか。
心や心理を表現する英語の訳語に「メンタル」のほか、「マインド」や「セルフ」などの言葉がありますが、それらの違いを理解されているでしょうか。言葉は人間の共通の記号ですが、その指している本来の事物や状態は何なのでしょうか…、それがつかめていなければ、正しい対応はできません。あなたの言う「メンタル」とはどういう意味なのでしょうか。
(質問者)
意味を真剣に考えたことは一度もありません。ただみんなが使っているような「メンタルが弱い」=「心が弱い」といった程度の意味にとっていました。それが何か問題になるでしょうか。
(回答者)
ものごと、できごとで大事なことは、因果関係であり、道理です。また、言葉の表面的な意味ではなく、言葉で表現できないものごとに迫ることです。メンタルは心理状態を指す言葉ですが、その心理とは、心とはということが分からなければ、対応はすべて表面的、皮相的になります。あなたは、まず、自分の心理、もっといえば、「心」を知ることに努めなければなりません。心に関する正しい知識を学ぶことから始まります。まず、自分の心とは何か、生命とは何かに対する謙虚な学びから始めることだと思います。
(質問者)
どのようにして、それを学べばよいのでしょうか。書物ですか、それとも専門的な人から学べばよいのでしょうか。そちらで、そのようなことは教えてくれるのでしょうか。
(回答者)
私は、大学入る前の浪人時代から、哲学者のプラントンの「イディア」(ものの真理)という言葉の指す意味を思索し続けていました。その探索は、やがて生命や心に関するあらゆる書物を読むことにつながっていき、ヨーガをする人、キリスト者や法華経実践者、東洋哲学や西洋哲学、あらゆる思想、心理学を今日まで学んできました。今も学び続けています。そうしたものから私なりに得たものを一緒に学ぶということであれば、いつでも訪ねて来てください。
私たち人間は、病気になったとき治そうとして医師を頼ります。野生の動物はどうでしょうか。もちろん病院には行きません。多くの病気を自然に治しています。(感染症や外傷は別です)自然に治す方法を知っているからです。その意味では、動物は自分が主治医であると言えます。
動物の治療薬は何なのでしょうか。それは動物自らが本然的に持つ「自然治癒力」「免疫力」です。それが最大限に働くように動物は自分の身を処します。洞穴で休んだり、草を食べたり、食べることを止めたり、水で体を洗ったりなど体のサインに応じて対処しているのです。それによって自然治癒力は最大限に働きます。動物は本然的に、自然の秩序と体内の秩序のバランスの取り方を知っています。バランス、調和、秩序が戻れば病気状態が回復することを知っっているからです。
動物は自らが医師となり自分の大半の病気を自然に治しています。人間も生物学的には動物と同じです。同じように自分の病気を自分で治せます。特に生活習慣に関するものの大半は自力で治せるのです。なぜなら、生活習慣を作ったのは自分だからです。もちろん感染症や出血多量の外傷事故などは別です。これは専門家(医師)の援助がなければ、元にもどすことは自力では困難ですが、感染症や事故を予防したりすることも、その人の生活習慣、生き方によります。
自分の心身をよく知ることです。自分の生きているという不思議に気づき、生命活動の奇跡を実感することです。自分を観察し、自分の心身のサインに敏感になることです。人間の身体は比喩的に言えば、偉大な優れた薬の宝庫であり、あらゆる優秀な名医の集まりなのです。それがうまく使えるかどうかは私たち次第なのです。それを教えてくれるの人こそが、本物の生命の覚者と私は思っています。
今日まで多くの失敗をしてきましたが、その中でも20年近く私が苦しめられた失敗体験を以下に述べてみます。
多くの人の不幸は一面から言えば、無知から起きていると言えます。その一つが、専門家ということで、確かめもせず盲信してしまうことです。特に怖いのは、命にかかわる専門家…医師への盲信です。全ての医師が正しい診断をし、正しい処方をしていると思ったら痛い目にあうことになります。
私はかつて、運動中に足首を傷め7度の手術をした経験があります。最初の診断をした整形外科の町医者は私に対して「たいしたことはありません。普段通り運動してもいいですよ」と言いました。それで、単純な私は、専門家の医師が間違えるはずはないと信じ、言われた通り運動を続けていたら、足首は大きく腫れ徐々に歩行困難になっていきました。
その間、整骨院などで数カ所の診療所で治療を受けましたが、悪化するばかりでした。そこで九州で有名な整形外科をもつ大病院で診察をしてもらいました。すると、そこの整形外科医は『治療法はありません。やがて歩けなくなるでしょう』との絶望的な言葉を私に投げかけのです。私は、有名な病院の医師の言葉だから正しいのだろうとその見立てを受け入れ、その医師の言葉の暗示にかかったように、やがて本当に歩けなくなり、松葉杖生活になってしまいました。「仕事ができない、経済的に家族を養なっていけなくなる」という人生の大きな危機に瀕し地獄を彷徨う日々が続きました。初診の町医者の誤診に始まり、次の医師の見立てと処置の悪さが重なり、脚の痛み、歩行困難という苦しみは既に10年近くになっていました。
医師は医師免許を持った専門家だから間違いないと思っていた私の安易な盲信に近い考えは間違いであると、その時に気づいたのですが、既に時遅しでした。人は失敗から一番多くを学ぶと言いますが、その通りでした。医師の診察、診断が人生を大きく変えてしまうことを骨身に染みて知った辛く苦しい経験でした。
苦しむのはいつも患者であり、診察診断した医者は、誤診であったとしても、責任をとることもありません。不幸に泣くのは患者なのです。だからこそ愚かであってはならないのです。賢明さが必要なのです。
話は戻りますが、当時の私は「藁をもすがる思い」で必死に、いろんな人に聞いて回り、情報を集めました。生き続けなければならなかったからです。特に家族を守るために、治療をしてくれる医師を探し回りました。ある人の紹介で、整形の名医に出会い診断してもらったところ、「大丈夫、歩けるようになりますと関節固定術」を勧められました。名医と評判の医師でしたが、途中誤診もありました。患者の私の症状の報告と申し出を受け入れてくれ結果、MRIでの撮影が正確な診断に結びつき、間違った手術を回避することができたのです。最終的には、その医師の六度の手術で痛みなく歩けるようになりました。
20年間苦しんだ、歩行に伴う痛みはなくなりました。走ったり、膝を深く曲げたりはできませんが、運動は50%できる状態に戻りました。痛みなく歩けることの素晴らしさを感謝できるようになりました。この足に対する長年の苦悩が私の身体に対する傲慢さを少し浄化してくれたようです。
この時私が知ったことは、患者も医師であるということでした。私こそが脚の痛み、痛みと全身の関係などの症状を熟知していたからです。その報告を参考にしてくれた整形の医師こそ名医たる所以であったと私は思っています。患者に学べる謙虚さを持った医師こそ、名医の条件の一つではないでしょうか。
外科や内科にはレントゲンやMRIなどの最先端の科学的な武器があり、さらに各種の検査があります。それでも誤診は少なくないと言われています。
心の不可思議な世界を扱う精神科には最先端の科学的な武器は何一つないのです。どのように診断するのでしょうか。ある著名な医科学の大家は「心理的な事柄の多くが科学的に解明されていない以上、診断することに無理がある。似たような症状群に対処するしかない」という趣旨のことを述べています。つまり心理的原因は分かっていないのです。わかっているのは患者の症状だけなのです。
医師の評価は、最終的に実際に何人の患者を治したかで決まります。病院設備がきれいとか、評判がよいとか、○○大医学部出身、専門指定医とか、博士号とか外国留学の経験とか、著名な人に師事していたとか、ホームページや宣伝がいいとか、口コミにいいことを書いているとか、別問題です。大事なのは優れた技術を持ち、見立ての正確さがあり、現実に何人の人を治したのか、それが全てです。
これは、心理士やカウンセラーも同じであり、すべての専門家に当てはまる真実だと私は思っています。
日本人は昔から権威(専門家)に弱く、権威(専門家)に盲信する傾向を持っています。「お上の言うことは絶対」などと。そうした風土の中で生きているからこそ、権威や専門家を正確に見る目を養わないと私のように苦しむことになります。
専門家を盲信せず、自分の目で確かめ、丁寧に吟味し学ぶ賢明さが必要です。最終的に苦しむのは患者なのですから。
私たちは常日頃、生きているということを実感しないまま、無意識に習慣的に惰性で行動しています。
私たちが意識しなくても、体の99%の機能は自動操作状態で、無意識で動いています。脳の活動、呼吸、各神経機能、血液の全身の循環、内臓の消化、吸収、代謝活動など、意識していませんが人の生を保つために、一瞬も休む間もなく活動しているのです。
しかも絶妙に調和され、秩序を保っています。そうした身体の不思議な働きに対して、当たり前のように思い、不可思議な働きに対して敬虔な心を忘れて生きていることから多くの不調和状態が生まれています。心身の病の大半は、不調和状態の産物なのです。私たちが意識しているのは、生命活動の一部にすぎないにも関わらず、全体を見ることもなく、意識という一部で突っ走り、バランスを無視したような行動になっており、そこから多くの病も起きていると言えます。
健康状態は、自己の全体につながり、調和のとれた意識活動から創り出されます。心身の健康は、自らの本当の在り方を知ることから始まります。