幸不幸は自分の生き方の結果であり、自らの人生の作品のようなものです。
私たち生命は、どのようにして誕生したのでしょうか。この地球上の動物、昆虫、植物はどのようにして誕生したのでしょか。また、この地球、月、太陽、星々はどのようにして生まれたのでしょうか。わかっていることは、すべての存在は、やがて死滅してゆくということです。生まれては死んでいく、それが生命の因果律です。生と死という二つの変化相を演じるのが生命の真実の姿です。では、その生と死を貫くものは何なのでしょうか。
たとえば水を例に考えてみましょう。水の分子式はH2Oです。水は100度で、水蒸気になり、氷点下で氷となり、常温では水の姿をとります。この変化相を人間にあてはめて考えると、生きている状態が水であり、死んだ直後の体の状態か氷であり、肉体が焼却された状態が死であり、水蒸気にたとえることができるでしょう。分子式H2Oは変わらず、一貫しています。ただ見える形や状態が変化しただけです。
私たちの生命は死という変化相、生という変化相の二つをもちますが、生命そのものの我は一貫しているということです。その我は連続しているし、他の我になることはありません。
それは、無始無終と言われています。始めもなければ終わりもないというのです。つまり今の瞬間は永遠であり、生命は今しかないということです。無限という概念は、人間の知性ではとらえられない言語同断の世界なのです。
生命は、だれかに作られたものでもなく、もともと存在していたというのです。つまりあらゆる生命は、自らが作者であり、作品なのです。自分が願って人間に生れ、存在する場で劇を演じるように、作品を創っているというのです。
だれの責任でもありません。自分が願った人生を自分が生きているのです。これがわかれば、人は変っていけます。よりよい生き方ができ、名優のごとき人生を演じきっていけるようになるでしょう。
ある面から考察すれば、生命はリズムであり、振動している存在といえます。リズムの破調は病気であり、動きが止まると生命は活動力が弱り、やがて死を迎えます。人も生物も自然の本然のリズムの調べに則り、動くことが健全なあるべき姿なのです。
私たちの我は根源で、生命を創り出し、守り、育む、慈悲の働きをもつ宇宙我というべきものに支えられているのです。その宇宙を呼吸し、リズムを合わせていくところに喜びが湧き、生命は輝きをまし安定していくのです。
地球がリズム正しく動いているおかげで、地上の人間、動物、植物、全ての生物は生命活動を保つことができてます。地球は生きています。一つの偉大なる生命体であり、不思議な力を持った存在でもあります。地球は誰かが創ったものではなく、地球自らが自分を創ったのであり、その活動や姿は、彼の作品であり個性の表現といえます。
同じように、あらゆる生命、生物、人も自らが作者であり、自らの作品であり個性なのです。個々の生物や動物や人も不可思議な存在であり、人間の知では測れない因果の法が宇宙や自然や生物や人を貫いています。
これが自業自得の本来の意味です。自業、つまり自らの種子をもった因の願った意志の行為は、自らが果を受けるという因果律が生命の厳然たる法なのです。
この哲学こそ、歴史上の聖哲の一致した真実知であり悟りなのです。人生は自らの意識で、いくらでも自分を変えていくことができるのです。あなたがあなたの人生の作者であり、その結果があなたという作品になるからです。 それがあなたの人生なのです。
銀河の旅人
自分らしさを発揮するためにはどうすればよいのでしょうか。それは最も高い価値に生きることです。価値には、美の価値、利の価値、善の価値の三つの価値があるとした教育者がいます。カントの価値哲学(真・善・美)を実用化させました。
美の価値は、美醜という感覚・感情に訴えるものです。人は美しいもの、心地よいもの、快適なもの、きれいなものを求めます。また社会的名声が高ければ、承認欲求も満足でき心地よくなります。名誉・名声も人を心地よくさせます。人は好きなもの好み、嫌いなものを感覚的に遠ざけます。人の評価の一番はこの美醜の価値になりがちです。
今の情報社会は、この美の価値が人間の最高のものであるかのように人々を錯覚させています。コマシャールは人間のこの性分に上手に入り込んでいるといえるでしょう。
次は利の価値です。自分にとって何が得なのか、損なのかについての価値です。例えば働く場合、何を目的にしているかです。高い給与を得ることが目的で働いているのか、あるいは仕事を通して自分の能力を発揮することが目的なのか、もしくは職種のもつ社会的評価や名声を目的にしているのかです。
例えば、職場に嫌な人がいても、給料がよいので我慢するとします。これは嫌いという感覚的な美の価値より、利の価値を優先した結果と言えます。好き嫌いという感覚的価値で、生活全般を支える給料という利益を無視することはしません。美的価値より、利の価値のほうを人は優先します。そちらのほうが価値があると思うからです。
今、人々が自分の命の次に大事にしているのがお金です。社会的事件の多くは、お金が絡んでいます。お金があれば何でも手に入るからです。人はお金のためなら、人をだますし、人さえ殺します。今の地球上では、軍人はお金で雇われ、敵国の人々を殺しています。自分の利益を邪魔されれば人は怒り、邪魔する人を抹消したりします。
学校の勉強も利の価値追求指向になっています。いい高校、いい大学、給料が高く社会的評価のある会社に就くための勉強になっているような気がします。現代社会の経済優先社会がもたらしものは、利の追求こそ最大の価値だということです。しかし、美の価値、利の価値の達成は、あくまで自分のためであり、利己の範囲になります。
利己を通すことは、人を押しのけることにつながります。周囲との摩擦は避けられません。美・利の価値追求は比較相対に生きることになり、心の安定はありませんし、深い充実感はありません。では、それ以上の価値的なものはあるのでしょうか。あります。人の心を豊かにし、人の心を清らかにし、輝かせる価値ある生き方があります
それは自らの努力と向学心で自らを高める中で得られるものです。つまり美の価値を追求し、また利の価値も広げます。同時にそれらを周囲の人たちにも与えていく生き方です。
自然がそれを比喩的に教えてくれています。地球は多くの地上の生物に潤いや恩恵をもたらしています。同じように太陽もそうです。地上の花、木々、草木もすべてそうです。一生懸命自分を生きています。そして他の生命に恵みをもたらしています。
人間にもそれを見ることが出来ます。インドのガンジーは自らの人格を最高に発揮し、多くのインド民衆の人間性向上のために生きました。ヘレンケラーもしかりです。千円札の野口英世もそうです。歴史上の偉人は、みな自分らしさを最高に発揮し、その輝きで多くの人々を照らす行動をした人たちです。
こうした価値こそ善の価値です。善の中で、もっとも高いものが、人の生き方を高めるものです。例えば、飢えている人に食べ物を与えるのは、美利の価値を相手にもたらしますが、一時的です。最善は、食べ物を常に得る方法を教えることです。つまり生き方を高めることを教えることだと思います。
科学の進歩、溢れる 視覚優位の情報……テレビ、スマホ、SNSなどの広がり、それらの視覚、聴覚情報の感受は人間の脳の適応をはるかに超え、心・神経は既に疲弊状態にあります。人々は、それに気づかず、日々更新される新情報に飛びつき、依存し、踊らされているのが現状です。
感受する情報に多くの人が適応できず、神経系が炎症を起こし、病的状態になっている人も多くいます。それが今日増加している、全般性不安症状の大きな原因の一つと私は考えています。
青少年の不登校の原因の一つが、この原因不明の不安から起きています。不安が何によって起きているのかが分からない子どもが多く見られます。
「どうして学校に行かないの」と理由をたずねると、
子どもたちは、「学校に行きたくないから」「何が原因かわからない」「学校が面白くない」「楽しくない」などと答え、本当に原因がわからないようです。ですから、適切な対処もできなくなります。これは何も青少年だけではありません。20代、30代、40代、50代の成人にも起きている現象です。
このを解決には、神経・心、身体の相互関係を正しく知ることから始まります。自らの心身について正しい理解を持つことです。過度の情報収集を抑制することです。情報は全て脳に記憶され、無意識層に蓄積され、次の行動に影響を与えます。
このような心理の正しい理解が、正しい生き方につながり、安穏な生き方につながっていきます。
本来の自分を生きる2―他人の評価に振り回されない自分を築く
なぜ自分が自分らしく行動できないのかを考えてみましょう。
それは他人の存在を意識しすぎるからです。仮に無人島に一人で生きるとすれば、あなたはあなたらしくというか、何も意識せず、ただひたすら生きることに専念できるでしょう。しかし現実社会では一人では生きていくことができません。集団の中で守り合わなければ、自分の命を保つことすらできなくなるからです。
これは動物としての人の本能なのです。一人であれば餌を取ることも食べることも生き続けることにも限界があります。やはり他人の存在が必要になり、集団ができます。集団で生きるとき、どうしても他者の目を意識し始めます。それは自然なことです。さらに集団の中での自分の評価が気になります。それも持って生まれた人の性分でしかたのないことです。やがて集団には、人の比較や優劣が生まれることになります。
集団の中で生きていると、自分らしさの埋没が起こりがちになります。自分らしさが認められず、薄れていく傾向を孕(はら)んでいるからです。そこには集団の暗黙のルールが生まれ、それが集団の中での常識になっていきます。人々は時代と集団の中で作られた価値観に知らず知らずのうちに、刷り込まれていきます。集団の常識という物差しで人が評価され、価値づけが行われます。
戦争では、それが簡単に起こります。第二次世界対戦中、ナチスドイツ集団はユダヤ人を、人として劣った存在と価値づけ、彼らを虐殺していきました。そこには、同じ人間の尊厳はなく、偏見に満ちた価値基準で多くの人々が殺されていきました。現在のロシア・ウクライナの戦争にも、それが見られます。
社会の人々は価値基準というものさしで個々の人間を比べ評価していきます。ものさしは人を測る基準となり、優劣をつけていきます。比べる対象と物差しは無数に存在します。
成績、学歴、会社、給料、役職、容色容姿、財産財物、地位、名誉、健康、身体、性格、各種の能力など…
人よりも強い、弱い。能力があるかないか、金持ち貧乏、顔がいい、顔がよくない。背が高い、背が低い。運動能力はある、運動力が低い。性格が良い、性格が悪い。優しい、優しくない。これらは全部、比較から生まれています。ある基準で価値が位置づけられ、これらが現実社会の比較優劣の実態です。しかし、これらはすへて移ろいゆくものなのです。
こうした社会の中では、人は安定できず、不安の中で生きることになります。基準の物差しが、時の流れと場で変わっていくからです。例えば戦争になると、人を多く殺す人が英雄となり、価値のある人になります。逆に平和な日本では、一人でも殺せば、極悪犯罪人となり、人としての価値も認められなくなります。社会の評価や価値に生きる間、本来の自分を生きることも困難になっていきます。
比較・優劣社会では、人々の目は外に向き、いつしか物差しという基準ではかられた価値に振り回されてゆき、安定できません。たえず心は揺れ動き落ち着かなくなります。
こうした比較相対の優劣を基準とした社会に振り回されないためには、自分の目を内側に向け、自分の心、優劣を超えた価値を探し、それに生きることが大事です。その価値こそ、私たち本来の自分がもつ無上の価値なのです。
あなたは、本来の自分を生きているといえますか?
多くの人は、人の目に生き、人の評価に振り回され、親や先生、周囲の大人や社会で作られた自分を生きています。人は、環境に作られ、環境に合わせ、いつしか環境に依存し、本来の自分を生きることが難しくなります。
私たち人間は、本来の自分を生きることが難しいため、深い人生を生きることが出来ず、充実を感じることも少ないのです。その心の虚しさを埋めるように、私たちは、五つの感覚器官(目・耳・鼻・舌・身)で感じる世界の心地よさを求め、束の間の安らぎに身をゆだね、本来の自分から遠ざかりながら生きるようになっていきます。
その結果、私たち人間は、いしつか苦しみの人生を生きることになってしまいます。本来の自分の心の叫びが苦しみというメッセージとなり、ある人は身心の病という結果を受けるようになります。
では、自分らしく、本来の自分を表現して生きるにはどうすればよいのでしょうか。
本来の自分に目覚めることです。この地球で自分は唯一無二の存在であり、独創的存在であり、誰にも替われない個性を持った存在であることを知ることです。これこそが真の自己肯定意識なのです。
この地球のどこを探しても、あなたという個性をもった存在はいません。あなたの顔を持った存在は、地球のどこを探してあなたしかいないのです。同じように、あなたの身体、あなたの性格、あなたの能力も、あなただけのものであり、どこにもないのです。
自分という個性は他に存在しないのですから、他人の個性と比べることはできません。つまり、この地球上であなたは誰にも劣ってはないのです。優劣を超えた独自の存在だからです。
見るもよし 見ざるもよし されど我は咲くり (武者小路実篤・作家)
そう、あなたはあなたでいいのです。誰が見ていなくても、自分らしく自分を生きればよいのです。本来の自分を知れば、人の目、人の評価も怖くなくなります。のびのびと、堂々と自分を生きることが出来るようになります。このように本来の自分を信じて生きることが自己肯定力でなのです。
人は意識するにせよ、意識しないにせよ、常に不安定の中で生きています。それが人の生の真実のありかたなのです。
当然ですが、不安を意識せず行動しているときは、不安を感じません。つまり意識しているか、意識していないかの感覚の違いにすぎません。寝ているときを考えみればわかります。不安は感じませんよね。不安を感じる意識が潜在しているからです。
この心のからくりが分かれば、不安をもちながら生きていけます。つまり不安を意識しないように生きればいいのです。感覚意識を不安を感じる対象から、意識を他に移せばよいのです。
しかし簡単に意識転換ができずに苦しむのが不安症傾向の人です。代表は、強迫観念、神経症症状(対人恐怖、社会不安、社交不安、パニック障害、乗り物恐怖など)です。これらは、意識を超えた潜在意識に記憶された恐怖などを契機に起こります。そして現実感覚・意識が潜在意識によって曇らせれてしまいます。
この潜在意識を浄化するには、心科学に通達した先達の手ほどきが必要になります。
回答
その気持ち、よくわかります。私は、そんな時、自然のよいところにでかけます。確かに人と接するのが一番疲れます。神経を遣い、気が張り緊張するからです。特に、自分だけの欲に生きている人と接すると、とても神経を遣い、嫌な気持ちになったりします。その時だけではなく、感情の余燼が残り、しばらく気が落ち着かなくなります。人間は感情の動物であり、考える葦(パスカルの言葉)でもあるからです。
山の中の、ぽつんとした一軒屋にでも住んだほうが、気が楽でいいのかもしれません。 また、思いやりに満ちた人々の住む世界があれば、そこで生活できでば長閑(のどか)な日々が送れるかもしれません。
しかし、この地上で生きるためには、人を避けるわけにはいきません。人と関わらずに生きていけないからです。嫌な人、自己中心的な人とも接しなければいけないからです。では、どうすればよいのでしょうか。
答えは、夏目漱石の「草枕」の冒頭に書かれています。果たして100年前も同じような人の世だったのでしょうか。
「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情にさおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安いところへひき越こしたくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、画ができる。
人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらする唯の人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからと、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりである。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛(くつろ)げて、つかの間の命を、束の間でも、住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」
つまり、人生を劇のように、詩のように音楽のように、画のように創りあげて生きる。芸術家のようにということてす。
聖者の言葉に「心は巧みなる絵師のごとし」とあります。つまり、心は、生命は自らが意図して描き創り上げる作品であり、作者は一人ひとりの私たちということになります。
人間関係も、かけがえのない一人一人の代替不可能な芸術作品なのです。それには巧みな智慧と力と明知が必要です。
文責 松岡敏勝
回答
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
江戸幕府を開いた徳川家康の言葉です。今川家の人質として青少年期を過ごし、長じては、気性の激しい信長に仕え、さらに秀吉の顔色を窺い、自分の思いを心に沈め、まさに重荷を背負って生き続け、関ヶ原の合戦で豊臣方の石田三成を破り、天下の足掛かりを作りました。その後も、豊臣秀頼の始末に苦悩の日々を過ごしました。天下人と言えども、苦しみの連続の人生だったようです。彼に幸せなひと時はあったのでしょうか。
果たして人生とは苦なのでしょうか。生きるとは苦しみの連続なのでしょうか。楽しさは少ないのでしょうか。仏教にも『四苦八苦」と言う言葉があり。お坊さんは、葬儀でよく苦の話をされます。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。
もちろん意味はあります。人生とは、生きる意味を生涯をかけて探す道のりとも言えます。昔の聖者や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちだと思います。
生きている今の瞬間の生命は連続し止まっていません。瞬間の一念には苦もなく楽もないのです。純粋な経験であり、苦楽を超えており、色付けできないものです。それを苦と感じるのは五感で感じた意識です。過去の記憶化された潜在意識の染色の結果なのです。本来の瞬間の一念は純粋経験であり、無色透明です。
古来より生命錬磨の修行をされた先人たちは、人間の欲望こそが苦の原因だと究明し、心を浄化させれば楽が得られると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、寒い中で水行したり、火の中に飛び込んだり、針の山のようなところを裸足で歩いたり、不眠の修業したり、異性を遠ざけたりして自らの欲望を断じようとしました。全て苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす欲望を克服した後に真の楽があると信じた行為でした。ブッタもその修行を一時期されたと言われています。
人の意識や感覚や行動のコントロールは難しいことなのです。人間が生きている、換言すれば、欲望に従って生きていると言えます。その欲望が苦にもなり、楽にもなるのです。つまり、苦楽は一念の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生が彩られます。
聖者は苦即楽、楽即苦と悟っりました。しかし、凡者は苦は苦と思い、苦を遠ざけようとして、楽ばかり追い求め、結果として苦しみの人生を生きています。ことわざに、楽あれば苦あり、苦あれば楽ありとあるります。至言であり人生の真実を穿った言葉だと思います。
楽を意識して強く一念を定て生きれば、一念は楽に染まります。そのように色付けするのは、今の意識であり一念なのです。意識を磨けば、どの瞬間も楽となり、楽しんでいけます。これが真の楽観主義です。
そこには磨き抜かれた意識が求められます。一念が研ぎ澄まされ、清らかになれば、その純粋な一念に宇宙の慈悲の波長が共鳴し、私たちの一念に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなるのです。我が一念が宇宙の慈悲の一念と一体となり歓喜に包まれるのです。それが最高の楽であり、聖者・賢人が求めた世界なのです。
そのためは、意識を純化させ、正しく感覚(感情)を磨き、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。それが聖者たちの修業だったようです。
具体的には、朝起きた時、「今日も生きている。ありがたい」と自分の心身の働きに素直に感謝できる心、地球や自然や太陽の恩恵に感謝できる心、一切の生き物、身近な人たちに心から感謝し恩恵に報いようとする純な心に、喜びがふつふつとわき起こってきます。それが宇宙の慈悲の波長に人が心を合わせる一つの方法だからです。
しかし世の中の欲に染まりきった人の心は、すべてを当然、当たり前と思い、自らの傲慢さに一念は濁り、それを感じることができません。だから欲望に踊らされ、浅い思想に生きることになり、純粋な心になれないのです。結果、深い楽しみも喜びもを味わえない苦の人生の軌道に入っていくことになります。
つまり苦も楽も自分で選んだ人生の道なのです。人生を歩んでいるのは、自分だからです。どの道を行くのか、分からなければ人生の先人に学ぶとよいでしょう。
質問
最近、親しくしていた親友に裏切られました。彼氏をめぐってのことです。出し抜かれた感じです。全くそんなそぶりを見せなかった人でしたから、正直驚くとともに、人の心が分からなくなり、人間不信になっています。思えば、中学校の時も、友達と思っていた人に外され、逆にその人に攻撃されたことがあります。そのときもその人の心の変化に傷つきました。人の心がわかりません。どうすれば、人の心が分かるようになるのでしょうか。それとも、人は自分の都合で平気で人を裏切る存在なのでしょうか。人が恐ろしくなりました。何かアドバイスをいただければ嬉しいです。
回答
人の心を知る、とても難しいことです。他人の心、自分の心がわからないから人は苦しむことになります。波風なく、平穏に生きている間は、そんなことは考えたり、思ったりりしませんが、何かあったときに、人は、人間の心について考えるようになります。
有史以来、あらゆる思想家、哲学者、宗教家、学者がこのことを探究してきました。しかし、物質科学のように解明されてはいません。なぜかといえば、心がどこにあるかわからないからです。苦しいとか、楽しいとか、嬉しい、悲しいなどの働きは感じられるのですが、その全体像はわかっていません。わかっているのは、ごく一部です。
心自体が見えない働きをもったものであり、つかみどころがないからです。現代科学の力では及ばない世界だからです。見えない心の世界は想像することによって接近できます。あくまで接近です。また、人の感情表現、パフォーマンスから心を読み取る努力をすることによって、やはり人の心に接近できるでしょう。
心は不可思議であり、科学で解明できず、見えない、わからない世界であるがゆえに、部分や一部からものをいう人たちが人々を惑わし、苦しみを倍増させたりします。心を対象にしたもの…その筆頭は宗教であり、占いなどです。次は、精神科領域(精神科や心理学)や心理カウンセラーの世界です。全ては部分の解明であり、心全体がわかってやっているわけではないのです。人間の不幸の一つは、部分を全体とみてしまう、認知バイアスであり、潜在意識の偏り、歪みにあります。
絶えず心の浄化作用をしていないと浅い部分観の思想にマインドコントロールされ不幸の坂を転げ落ち、生き地獄にはまってしまいます。現在テレビなどで報道され社会問題になっている宗教などもその一例と言ってよいでしょう。
人の心を知る方法を、ここでは二つ提案します。一つは、日常生活の現実的な人との関わりの中で人の心の本質に接近するやり方です。相手の言葉を深くかみ砕くことです。言葉自体は記号に過ぎません。記号と意味をもったものです。しかし、大事なことは、言葉にはその人の心が表れています。ですから表面的な記号的側面の言葉から、その人の心を読む訓練をしていくことです。そうすれば心が少しずつ読めるようになります。と同時に、言葉以外の振る舞い、パフォーマンスをよく観察し、そこに込められた心を読む努力をすることです。私も、これらのことを日々努力して心を磨いています。
もう一つ人間理解、人の心理解に役に立つのが古今の名作文学に触れることです。名作には人間の本質、人間の心が描かれています。私も若き日より名作に親しんできました。印象に残ってている作品がいくつかあります。夏目漱石の作品は、ほぼ全部読みました。彼の作品の中で心深く刻まれたのは、「こころ」という作品です。三島由紀夫も一時はって、ほぼ全作読了です。『金閣寺」が心に残っています。倉田百三は私の卒業論文の主題だったので、もちろん全作品を読破しました。「出家とその弟子」が印象に残っています。太宰治は中学校の教科書にのっていたこともあって興味を持ちました。「人間失格」「走れメロス」が人間の本質を描いた深い作品だと思っています。
その他の愛読書では、吉川英治の歴史小説で100冊以上は読みました。中でも、「三国志」「太閤記」「宮本武蔵」からは人間模様、人の欲望、美しい生き方、醜い生き方、私欲と奉仕の心など、人の心のありかたを多く学び考えさせられました。欧米文学にも親しみました。ヘミングウェイの「老人と海」や「誰がために鐘は鳴る」やヘルマンヘッセ「車輪の下」などの作品が心に残っています。
伝記は人間に生きる希望や努力の大切さを教えてくれます。ヘレンケラーや千円札の野口英世は今も私の生き方のモデルになっています。日本の臨床心理学者「河合氏」は昔話の大切を語っています。昔話や中国の故事には人間の心が描かれているからです。
文学や伝記や昔話には人間模様や人間の心の本質が多く描かれていますので、人間理解が大いに進むと思います。20歳、これからいろいろ学び、人格を高めていかれてください。人格の向上こそ幸福の門だからです。
文責 松岡俊子
自然の恵みを感性豊かに識(し)る生きものこそ、賢き生き物であり、人という教えがあります。
恩を知るのが人であり、恩を知らないものは動物以下であるとも言っています。確かに動物も恩を知り、親から受けた恩に報いています。
中国の歴史、三国時代を描いた「三国志」は多くの人に愛読された文学作品になっています。漫画やアニメ、テレビでも放映され、有名な登場人物、諸葛公明、玄徳、関羽、曹操、呂布などはゲームにも登場しています。私も若き日に、吉川栄治の『三国志」(8巻)を読み、多くを学びました。以来その文学に魅了され、今日まで、4回以上読んでいます。
文学ですから、史実が脚色され、美化されている面はありますが、三国志には様々な人間模様や人間の生きざま、人間の欲望や理想や正義や人倫や思想が描かれていて、人間を知る上での教科書的読み物になっています。自らの名誉や名声や強欲や利欲に走り、恩を忘れ、滅びていく人が多く描かれています。
なぜ、欲に負けてしまうのかも描写されています。逆に人間の道の正しい生き方、義と恩を知り、命をかけて恩に報いる義の人生も描かれています。特に玄徳・関羽・張飛が青年時代に誓った「桃園の誓い」を生涯貫いた「義」の人生、諸葛公明や関羽の恩愛と報恩の生き方は、人間の最も崇高さの表れであり、人間の美しさでもあります。その心が三国史の中でも最も美しい一幕であり涙なくして読めないロマンあふれる感動的場面になっています。人間の心の善悪、美醜が描かれた名作と言えるでしょう。
私たち人は、地球の恩恵、大自然の恩恵、太陽の恩恵に対してどのくらい恩を感じているのでしょうか?恩を感じないほど、心が欲望で濁っているのでしょうか。それとも意識が汚れているのでしょうか。世間の汚濁に染まった人間の心が、戦争を起こし、犯罪を起こし、人を傷つけ、自分だけ栄えようとし、大恩ある地球すら破壊しようとしています。傲慢(ごうまん)、癡(おろか)、限度を超えたあくなき欲のなせることでしょうか。
完全に人間の心が欲望にマインドコントロールされた状態になっているようです。マインドコントロールは何も宗教だけの専売特許ではありません。人間が自らの欲や恐怖や安楽や偏った思想に支配され自ら正しい意識、正しい思想を失った状態を指しているのです。
恩を知る磨かれた感性、そして恩に報いて生きる清らか心、そこに地球や太陽や自然を貫く慈悲と創造的な無限の生命の働きが共鳴し波長が合い、心は躍動し喜びを覚えるのです。フランスの哲学者ベルグソンの「生命の躍動・生の創造」の別表現でもあると思います。これが心の宝なのです。
その人こそ人らしい人といえるのではないでしょうか。 文責 松岡敏勝