生きていることは 有り難い できごと
今、生きている、そのことについて、多くの人は、昨日の続きで惰性的に生きています。生きていることに対して、当たり前と思い、考えもしないし、気にもとめないでしょう。人は、人間としての生の有り難も知らず、深い人生を生きることもなく、一生を終えてしまいがちです。ブッタ(釈尊)は人として生まれてくる可能性は、ガンジス川にある無数の砂の一粒に過ぎないと言われ、人間として生れ、生きていることの有り難さを弟子たちに説かれました。地球上には無数の生物が存在しています。その生物の中で、人の存在確率は、大雑把に推定しても、一兆分の一以下と思われ、ブッタの言われる通りです。地球上に生きている無数無限の生物の中で人間だけが、自分を高め変えていく知と智慧を持っています。だから人間は素晴らしいのです。有り難き存在なのです。人として生れ、生きていることの有り難さの自覚が芽生えれば、人は大きく変わってゆきます。ブッタは弟子たちに、人として生きていることの尊さ、有り難さを教えました。では、なぜ私たちは、生きていることの有り難さが分からないのでしょうか。
木を見て森を見ずが 人の感覚の現実
森に入れば目の前の木しか見えなくなります。これは人間の視覚の現実であり限界です。私たちは主観で生きているため、意識して努力することなしに客観視することができません。森全体を見ようとすれば記憶(獲得してきた知識)をより所として、想像力を働かせる必要があります。つまり主観を離れ、メタ認知(客観的・鳥瞰的認知)の世界に入らなければ、ものごとの全体は見えないということです。私たちは、普段、見たり聞いたりする五感覚で感知できるごく一部の心身の働きに頼り、全体を見ることをしていません。なぜなら私たちは過去の記憶による感覚・意識作用によって、自動的に反応して生きていけるからです。物事の全体をしるためには、想像力を遣い、思考を磨くしかありません。それがかけがえのない、今という瞬間の生命(注1)のもつ慈悲と智慧・光(注2)の境地に入る必須の条件なのです。
想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ
アインシュタインの名言です。宇宙の物理的真理の一端、相対性理論を発見した彼の言葉は光彩を放っています。かたちは異なりますが、彼は想像力・思考力を磨く瞑想をしていたと思われます。瞑想は、目を閉じて、座禅しながらやるだけのものではありません。瞑想を深める不可欠の要素が、研ぎ澄まされた想像力と混ざり気のない思考力と浄化された心の働きです。宇宙や身体の働き・性質は、目に見えないため、言葉だけでは覚知できません。すべての言葉は人間が創ったものであり、あくまでも事物の比喩であり、ものごとそのものではありません。見えない世界は、想像力を働かせ瞑想すれば、言葉のもともととらえようとした事物に接近できるようになります。瞑想・想像力は心を宇宙大に広げ、心を豊かにしてくれるとアインシュタインは教えてくれています。
瞑想の本当の意味
マインドフルネス(注3)の影響もあって、瞑想という言葉が流行しているようです。その瞑想は、アメリカのジョン・カバットジン氏、発案のものです。彼は日本で禅を修業されました。瞑想は、日本が発祥の地(正確にはインドが源流)ですが、なぜかアメリカのカバット・ジン氏を模倣したものが、現在の日本に広がっています。本来の瞑想は、心を浄化させながら、想像力と思考力を磨き、自己の本地を直観する修行です。浄化された心の静慮のもと、本来の自己と宇宙的自己を貫く不思議な法(六感覚・注4では感知できない)が交流共鳴すること、それが真の瞑想であり、釈尊の直観瞑想と言われてます。深い瞑想に入るには、曇った心を浄化することが必須になります。汚れた鏡には映像が正しく映らないからです。マインドフルネス瞑想は、今に集中することによって、生命の純一化をはかり、広大な慈悲と智慧の世界に接近しようとした試みのように筆者には思えます。
(注1)「今という瞬間の生命」…釈尊(ブッタ)は、私たちの生命は今の瞬間しかない、この瞬間の生命は、無限であり、無量であり無始無終である(法華経如来寿量品による)と覚知されたと言われています。アインシュタインは「私の永遠は、今、この瞬間なんだ」という言葉を残しています。釈尊は瞬間の生命現象を「如来・にょらい」と表現しました。如如(にょにょ)として来る、言葉では表現できない(言語道断)不可思議な生命のできごとという意味です。釈尊は、この如来を、仏性(ぶっしょう…サ・ダルマ・フンダリキャ・ソタランと表し、名訳者の鳩摩羅什・くまらじゅうは妙・法・蓮華・経と漢訳しました)と名付けたのです。この宇宙・森羅万象は「如来」であり「妙法蓮華経であり、智慧と慈悲の働きを持つ生命の永遠のエネルギーであり、光と闇」であると釈尊は覚知されたと言われています。ニコラ・テスラは「この世のすべては光である。宇宙には、もともとエネルギーがあり、それは光となり、物質を作り、やがてエネルギーに戻る。この世は光の無限の形象である。闇にはエネルギーが潜んでいる。宇宙には始めも終わりもない。」(趣旨)と、宇宙や生命の永遠性の一端を垣間見ていたようです。それは釈尊の悟りと一部、重なっているように思えます。
(注2)智慧と慈悲の光…生命の持つ最高のパフォーマンス、振る舞いを表す言葉です。慈悲とは抜苦与楽という意味です。苦しみを抜き楽をもたらす生命に本来的に具わった働きです。智慧は、瞬間瞬間変化する今に最適に対処する力です。知識が過去の固定化されたものであるのに対して、智慧は、今をもっともよく生きようとする適応力といえます。それは慈悲の発動とともに発揮されます。太陽が光を放つのも慈悲であり智慧です。地球が自公転し、地上の生物を守り支えているのも慈悲であり智慧です。雨が降るのも…空が晴れるのも、花が咲くのも、穀物が実るのも、地上に空気があり、重力があり、水があるのも慈悲であり智慧です。慈悲とは、生命を守り、慈しむ働きです。智慧と慈悲が生命を創造しているといえます。ニコラ・テスラがとらえたエネルギーという表現と重なります。慈悲は利他の行動を伴います。それは自己中心性と反対の働きです。慈悲と智慧が崩れざる幸福(絶対的不動の幸福)の源泉です。逆に無慈悲と悪知識(悪智慧)は生命を破壊し、不幸の種子になってゆくとブッタは説いています。
(注3)マインドフルネス…アメリカのジョン・カバットジン氏(現マサチューセッツ大学医学部名誉教授)が考案したストレス低減法。彼は日本で仏教(開祖は釈尊)の禅を修行し、それにヒントを得てマインドフルネス(生命力がよみがえる瞑想健康法ー心と体のリッフレッシュー著書「マインドフルネス・ストレス低減法」)という言葉で表現し、独自の瞑想法を開発しました。彼は心の中に流れるダルマ(法)の悟りを基本にし、人間の煩悩の一部を明らかにしたと言われています。その苦しみの軽減法を、マインドフルネスと称し、アメリカのみならず、日本や多くの国に広がり、病める人を救い、高い治療実績をあげていると言わています。
(注4)六感覚…眼根、耳根、舌根、鼻根、身根、意根の六つの現実世界を感知・認知する能力のこと。仏教唯識哲学派が、心の深層世界を解明したものによると、「根・こん」とは能力を指します。唯識(ゆいしき)哲学は、根(能力)―境(対象・縁)ー識(判別する、分別する、知る)という三つの認識過程を詳細に解明しています。六根清浄(ろっこんしょうじょう)という言葉がありますが、今風に言うと心身のデトックス(浄化)を含んだ言葉であり、六根清浄された心身は思考も感情も欲望も振る舞いも高度に洗練されたものになり、人としての最高のパフォーマンスを発揮できるようになるとされています。通常の欲望充足に伴う満足感や快感を「欲楽」といい、それは、比較相対評価を伴い、はかなく消えゆくものですが、六根清浄の果報に伴う満足感は「法楽」とされ、深く壊れにくく絶対的であり、永遠性(付録1)があると言われています。法楽は当時の仏道修行者たちのあこがれの世界であり、修行の最終目標でした。
地球瞑想は 心を豊かにし 優しさを開発していく
私たちは地球という大地に棲んでいますが、地球上に存在していることを意識することはほとんどありません。大地が揺れる地震があっとき、ああ地球の大地にいるんだと意識する程度です。地球には、大気があり、気圧があり、熱があり、水蒸気があり、風があり、重力があります。それらの働きによって、ほぼ一気圧を保ち、宇宙に浮遊することもなく重力に守られ、程よい酸素で生物は呼吸し、気温も100度に上昇することもなく、現在の気温を維持しています。また、山あり、谷あり、丘あり、沙漠あり、平野あり、川あり、湖あり、生命の源でもある海もあります。空には、鳥や昆虫が飛び、大地には人間をはじめ、さまざな動物、植物、微生物が生息しています。海には魚、エビ、凧、藻類や海藻などが生を営んでいます。
地球の大気圏は、生物に有害なX線やガンマ線などの光を遮断してくれています。そして可視光線と言われる波長を届けてくれ、私たちは、太陽の光(一部は電気)の反射でものを見ることができています。また赤外線のおかげで地表の温度を保っています。現在のような温暖化現象による高温が続くと、少し地球の気温上昇を意識するかもしれませんが、これらのことを、日常考えることはありません。瞑想という想像力をつかえば、多くの自然現象や宇宙の現象の働きの不思議さを実感できるようになります。そして、インスピレーションのようなものが訪れてくることもあります。この瞑想を人類が実践するなら、戦争の愚かに気づき、人間のエゴは抑制され、人々は地球民族として、お互い助け合い共生できるようになります。
ニコラ・テスラの発明と瞑想
地球は月という兄弟衛星を伴い自ら回転し、太陽の重力に引っ張られて、その周りを一年かけて巡ります。また太陽系の中で他の惑星と協働し絶妙な調和と秩序を保っています。その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営んでいます。宇宙瞑想で数多くの発見をしたニコラ・テスラ(注5)(IQ300と一部で言われている科学者・哲学者・詩人)がいます。彼は、瞑想の中に訪れた瞬間(悟り・閃き・インスピレーション)を、発明ではなく、宇宙にもともと存在するものを受信したに過ぎないと表現しています。宇宙・自然にもともと存在するエネルギー、振動、周波数に共鳴したというのが、彼の思考・想像に基づいた瞑想で受信したものでした。瞑想とは、目に見えないが確かに働き、存在する法を発見することとも言えます。
(注5) ニコラ・テスラ…アインシュタインに比肩する20世紀最大の天才物理学者と言われています。交流電圧を発明し、300以上の発明、発見をしたと言われています。物理学者よりむしろ、詩人であり、哲学者であることが彼の卓越性を表しています。生涯独身を貫き、人類福祉のための発明に一生を捧げました。「私の脳は受信機に過ぎない。宇宙には中核となるものがあり、私たちはそこから、知識やインスピレーションを得ている。私は、この中核の秘密に立ち入ったことはないが、それが存在することは知っている。」などの名言を残しています。彼は、クンダリーニ・ヨガを通じて感情を制御する方法を学んだと述懐しています。アメリカのイーロン・マスク氏は、ニコラ・テスラの崇拝者として有名です。
痛みや苦しみは 心身の浄化作用
私たちの生命は、関係性で成り立ち、刺激がもたらす変化に適応し、心身の秩序を保つことによって生を保っています。刺激の強さ(注6)に、細胞組織の秩序が乱れるとき、痛みや苦しみというメッセージが脳に届きます。また刺激に対する執着や抵抗(注7)は神経の過剰な活動を招き細胞を壊すことにつながります。細胞の破壊が、病の原因です。さらに思考や感情の偏りは、心身に負荷をかけ過ぎ、調和を乱してゆきます。調和が限界を超えるとき、心身は疲弊し、病が発生します。しかし、人はその原因を見ようとせず、目に見える症状としての痛みや苦しみだけを除去しようとします。結果として、病は増幅し本質的な解決は難しくなります。病のもたらすものを知れば、それを薬に変えることができます。
(注6)刺激の強さ…脅威を与える対象に対して、心身は恐怖や怒りに対処する神経・ホルモン反応が起こります。そして心身を守るために、闘争か逃走かを選択し、危機を乗り越えようとします。対象が強烈である場合は、その刺激の強さに抗しきれず、心身は破壊や破滅につながることもあります。例えば、地震などの自然災害、戦争、傷害、事故、火災・などに遭遇すると、心身は一気に損傷、破壊されます。逆に強い快刺激をもたらす対象…ギャンブル・ゲーム、アルコール、麻薬、性的なもの、食べ物、宝石、お金、スマホ情報などの報酬的快感は反復行為(嗜癖・依存・くせになる)をまねき、その過剰神経反応が、心身の調和を乱し、病的になっていきます。専門家は、この状態を依存症と表現しています。
(注7)執着や抵抗…例えば、怒りの対象に対して、反復的な考えや思いが繰り返され、不安や嫌な感情を増長させ、うつの原因になったりします。その現象を反芻(はんすう)思考という学者もいます。また快刺激への執着は依存症を招き、心身を乱し疲弊(ひへい)させていきます。
身体瞑想は 体を健康にする
私たち人間の身体は心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡ってゆきます。食べたものは口内で咀嚼(そしゃく)され、食道を経て胃に数時間38度の温度で保管消化され、十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進みます。小腸でさらに本格消化が始まり、肝臓に送られ、そこで加工・貯蔵され、血管を通して各臓器に栄養となって運ばれます。大腸では数十兆個の大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたものは約7メートルの消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、人間が生きるためのエネルギーになります。
腎臓は1分間で1リットルの血液を浄化し身体を守ります。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり約200の加工的な働きをしながら体を守り動かしています。ホルモンは炎症を抑えたり、体や臓器の調和をはかり、身体の恒常性を保ってくれています。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚を通して身体を守ります。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守る免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節してくれています。皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の細菌、ウィルスから体を守り、その総重量は10㌔を超えます。人間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美男などと私たちは言います。
意識は、体の働きの1000分の1も 感知することができない
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で内・外世界の情報を得ていますが、それは身体の働きの100分の1以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識(し)る(注8)ことがではないのが人間の本来的な働きなのです。
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆個の細胞を新陳代謝させ、絶妙な調和と秩序を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。
もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが感覚の現実ですが、それは人の身体全体から見れば一万分の一程度の微小なことに過ぎませんが、苦になります。
(注8)識る…「知る」は、記憶に基づいて物事を判別するという、いわゆる知の働きを指します。「識る」は仏法の生命哲学の中核をなす、唯識派の重要な概念の一つです。「識る」は「知る」と違って、心全体でわかるということです。「知る」が部分知であるのに対して、「識る」は全体知・直観智になり、ものごとの理解の深さが異なります。瞑想は、「知る」から「識る」に到(いた)る修行です。
生きる…それは変化しく関係性で成り立っている
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。現代人の多くは視覚・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失う傾向にあります。それが様々な新しい心の病を作りだしていることに気づいていません
不安・適応障害は時代がつくった産物
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っているからです。
磨かれた心の目には 肉眼では見えない世界が映し出される
「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」(シュレディンガー、20世紀の物理学者、波動力学を提唱、ノーベル物理学賞受賞)
磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には、見えないものまでが正しく見えるようになります。目に見える表面的なものではなく、その背後に隠された重大なものをみることができるようになります。何が幸福をもたらし、何が不幸にさせるのかを明晰に見分けることができます…。幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです。
心を汚す 四種の欲望と感情
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると、心の波は逆流し、自他を巻き込み、いたずらに消耗し、やがて苦しみの海に沈んでゆきます。限度を知らない過剰な欲望は、自らを焼き焦がし、周りを燃やし、炎の波にのまれてゆきます。快楽に耽け続けると 心は淀み、濁ってゆき善悪がわからなくなり、心の波長は間延びし、思考もとまります。人に勝りたい 人より優位に立ち、人を支配したいと思い続けると、心は歪んで、素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は、ほどよさの感覚を失うと調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。
慈愛の人がかもす 穏やかな雰囲気
幸福になる音色を奏でる人は、心が素直で柔らかく、きれいに澄んで、美しい振動を奏でています。財産、社会的地位、名声、人気、才能、美貌、健康などは、幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが、時とともに色褪せ、壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは、空しく時と共に風化し、最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは、花火のようなもので、刹那的な陽炎(かげろう)のようなものです。
こころは流れる 執着・とらわれの多くは停滞によるエネルギーの損失
ー祇園精舎の鐘の声 諸行無常(注9)の響きあり 沙羅双樹(注10)の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の言葉は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り、事物をありのままに見ることができないからです。
(注9) 諸行無常(しょぎょうむじょう)…中学時代、古典の平家物語で勉強された方も多いと思います。仏教で説かれた重要な哲学の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は関係性(縁起という)によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は関係性で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と判別しているにすぎず、夢のようなものを実在していると思い込んでいます。認知症が進み、重度になり記憶機能が失われた場合、自分が自分であることも分からなくなりますが、生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による夢見現象のようなものです。
この世のものは全て流れており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の見解です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明するかたちになっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を鍛えることで可能になります。
(注10)沙羅双樹(さらそうじゅ)の花…釈尊(ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で潜在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相(しょほうじっそう)といいます。釈尊の究極の生命理論(法華経方便品で説かれている)とされています。それを悟ることができれば生命の永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は弟子たちに説かれました。
清浄化された心に行き詰まりはなくなり 幸(さち)の風が香る
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識、五感、心根は時とともに輝きを増し、その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは、永遠性を孕(はら)んだ美しい調和された振動を持ちます。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる周波数であり、釈尊の共鳴した世界と言われています。
善い知識に親しみ 心を清浄にする 詩の読誦瞑想
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…。過去の聖人(釈尊・ブッタ)の生き方や思想哲学のこころをこころとすることです。そのためには、釈尊・ブッタの悟りの言葉を詩・偈(注11)に凝縮した世界に心を冥合できるようにします。その詩・偈には、釈尊の悟りそのものの振動(受信した法・ダルマ)が韻律として息づいているからです。不断に自己を磨き続け、内省し、浄化された自己の鏡に、偈にこめられた世界が共鳴・振動し始めます。そのとき、行き詰まりや病は消え、真の安穏と喜びを得ることができるとブッタは教えます。それが瞑想の究極です。そのとき、本来の自己と宇宙的自己が合しているとブッタは教えてくれました。
(注11)偈…宇宙や生命の真実を詩韻のかたちにした言葉。釈尊は八万宝蔵という膨大な教え(弟子たちによって経としてまとめられた)を説きましたが、釈尊晩年の八年に「今までの教えは、すべて方便であり、真実を説いていない。生命や現象の部分部分しか説いていないので、それらの教えに執着しては、生命全体を悟ることはできない」として、「これから、生命全体の円融円満の教えを説きます」と弟子たちに告げ、妙法蓮華経(28品)を説きました。その究極の教えは、「妙法蓮華経如来寿量品第16」にあるとされ、なかんずく自我偈(510字)(付録2)に凝縮されたと言われています。その偈は釈尊の悟達の究極の生命の真理の世界を比喩・言語化したものです。ですから、それを読誦することで、もとのままの本来の宇宙の働きと己心の我が生命が感応道交することができるとされています。それが偈読誦瞑想です。ニコラテスラが「私は科学者というより詩人です。宇宙にある真理を受信する」と言った意味は、言葉を洗練し凝縮した詩こそ、宇宙や生命の法や真理を比喩的に表現できる唯一のものと知っていたからです。真理は、言葉という比喩でしか、人に伝授できないと言われています。過去の偉人たちが、詩や名言(注10)のかたちで真理を残している意味はそこにあります。
宮沢賢治の「雨にも負けず…」という詩を紐解(ひもと)いてみたいと思います。
雨ニモマケズ (原文はカタカナ書きのメモ) 宮沢賢治
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち
欲はなく 決して瞋らず いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れずに (あらゆることに、自分の欲を優先しないという意味)
よく見ききしわかり そして忘れず 野原の松の林の蔭の 小さな茅葺(かやぶ)きの小屋にいて
東に病気の子どもあれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負ひ
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいといい
北に喧嘩(けんか)や訴訟があれば つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなに木偶の坊と呼ばれ 褒められせず 苦もされず
そういうものに 私はなりたい (以下は一般的には省略されています)
南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) 南無浄行菩薩(じょうぎょう) 南無安立行菩薩(あんりゅうぎょう)
以上が、ノートにメモされていた全てです。
以下は筆者の解釈です。南無とは帰依ということです。宇宙生命の仏性に自らの生命をあずけ、その法に基づいて生きる、つまり宇宙の根源の法に自らの生命の律動・波長を合わせて生きるということになります。無辺行菩薩とは永遠の生命を悟る生命の働きを意味しています。生命は無始無終であり、(自らが作者であり、人生という作品を作っていく)通常の因果を超えた不可思議さをもつものとの意味です。上行菩薩とは自立した自由な主体性を意味しています。どんな困難、逆境、苦悩、不幸をも乗り越えていく生命の働きを指しています。南無釈迦牟尼仏はあらゆるものに適応する最善の智慧の働きです。南無浄行菩薩は煩悩や社会悪に染まらない清らかな生命の働きです。強さと柔らかさ賢さを備えています。南無安立行菩薩は心の平穏、絶対的安心の生命の働きを意味しています。
人間の真実の生き方を探求し、人生を真剣に求め「小欲知足」に生きた賢治。「あらゆることを自分を勘定に入れず」自分のエゴと徹底的に向き合い克服しようと利他行に生きました。彼の生き方の目標は「でくのぼう」、つまり法華経に説かれている不軽菩薩の実践でした。彼の文学は法華経思想の展開でもあったと思われます。
不軽菩薩は、全ての人間を礼拝していきます。「人間は、みな仏性を持っている、菩薩道を行じれば、みんな仏性を開くことができると人間のもつ可能性としての仏性を礼拝していく修行をしました。これこそが、人間の不幸の原因の一つの「瞋恚・怒り」から真の解放の道だったのです。不軽菩薩の生き方こそ、賢治の生きる意味だったようです。
彼が37歳で亡くなる2年前に残した言葉です。
「全世界の人々が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」
(付録1)「法楽は深く壊れにくく絶対的であり永遠性をもつ」…宇宙生命や個々の生命現象は無限無量であり、個の生命も無量無限と釈尊は説かれました。「無量義は一法から生じる」(森羅万象は一つの法から生まれる、無量義経)と説かれます。その一法とは妙法蓮華経であると悟られたのです。個の生命も無限・永遠と言われました。生きているときの行為の総量(カルマという、基準は善悪の量)によって、次の生命のかたち(人、動物、魚、熊、虫、ゴキブリ、植物、花、樹木、惑星、星、太陽など)が決まり、業にふさわしいかたちを得る。その生ごとにかたちを変えて、エネルギー不変の法則のように個の生命も永遠に続いていくと説かれたのです。人に生まれるのは、ガンジス川の砂の一粒の確率であると釈尊は説かれ、人と生まれた生を大事に生きることを教えられました。生物の中で、人だけが知性が発達し、その知のおかげで自らを高め、変えてゆくことができる唯一の存在であると教えてくれています。植物にも動物にもそれはできません、また絶対的法楽の境涯を得た生命は、次の生もそのかたちを(福智に富み徳がある人)得ると説かれました。(法華経比喩品による)。人としてのかたちを得るには、人として生涯を生きなければかなわないとされています。「三帰五戒」は人に生まれると説かれています。簡潔に言えば、自分も他人も大事にする思い遣りの行動を貫くことと言えます。当時の修行者たちは、命をかけて、「法楽」にいたる修業をされたと言われています。
付録2…自我偈(510字)…釈尊の妙法蓮華経は何人かの訳僧によって、5世紀頃の中国に広まり、やがて日本に渡ってきました。特に鳩摩羅什訳(くまらじゅうゆく)の妙法蓮華経訳が秀でていると言われています。彼の自我偈訳が、漢語で510 文字になります。「自我得佛來(じがとくぶつらい)…速成就佛身(そくじょうじゅうぶっしん)」と五言の美しい調べの偈が続きます。「自」に始まり、「身」で締めくくられています。自我偈が「自身」の生命に内在する仏性の讃嘆詩・偈と言われ、今日まで多くの人々に読誦され、愛されてきたと言われています。
(注11)詩や名言
〇「我々は自らの心を変え、勇敢に声を発することによってのみ 他者の心を変えることができる」「精神は鍛錬なしには 堕落する」「他の人の喜びを喜び 他の人とともに苦しむ これが人間にとって 一番の指針です」「私の永遠は、今、この瞬間なんだ」(以上はアインシュタイン)
〇「宇宙には始めもなければ終わりもない。だれも死んだ人はいない。死は元のエネルギーに戻った姿にすぎない」「私は光の一部であり、それは音楽です。光が私の六感を満たします。私は見る、閃(ひらめ)く、感じる、嗅(か)ぐ、触れる、そして考える、それについて考えることが私の第六感です。光の粒子は書かれた音符です。人間の心臓の鼓動は、地球の交響曲の一部です。」(以上はニコラテスラ)
〇「心を空・からにしなさい。水のように、形態やかたちをなくしなさい。水をカップに入れるとカップになる。水をボトルに入れると、ボトルになる。水をティーポットに入れるとティーポットになる。水は流れることができ、衝突することもできる。水になりなさい。わが友よ。」「友よ水になれ」「柔軟であれ、人は生きているときは柔軟である。死ねば人は固くなる。人の肉体であれ、心であれ、魂であれ、柔軟が生であり、硬直は死である」(以上は、ブルス・リー)
〇「恐怖とは、マラリヤや黒熱病よりも恐ろしい病気である。マラリヤや黒熱病は体を蝕(むしば)む。しかし、恐怖は精神を蝕む。」「精神性の最大の要素は、恐れない心である。」(マハトマ・ガンジー)
芝蘭の便り 59
◎当室はあらゆる思想・宗教団体とも関係ありません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・唯識哲学、法華経の生命論に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、そして科学(量子力学)と釈尊・天台・日蓮の法華経生命哲学の関係を思索研鑽しています。学びの旅は、今も続いています。