痛みや苦しみは 心を浄化させてくれる薬に変わる
私たちの生命は、関係性で成り立ち、刺激がもたらす変化に適応し、心身の秩序を保つことによって生を保っています。刺激の強さ(注1)に、細胞組織の秩序が乱れるとき、痛みや苦しみというメッセージが脳に届きます。また刺激に対する執着や抵抗(注2)は神経の過剰な活動を招き細胞を壊すことにつながります。細胞の破壊が、病の原因です。さらに思考や感情の偏りは、心身に負荷をかけ過ぎ、調和を乱してゆきます。調和が限界を超えるとき、心身は疲弊し、病が発生します。しかし、人はその原因を見ようとせず、目に見える症状としての痛みや苦しみだけを除去しようとします。結果として、病は増幅し本質的な解決は難しくなります。病のもたらすものを知れば、それを薬に変えることができます。
(注1)刺激の強さ…脅威を与える対象に対して、心身は恐怖や怒りに対処する神経・ホルモン反応が起こります。そして心身を守るために、闘争か逃走かを選択し、危機を乗り越えようとします。対象が強烈である場合は、その刺激の強さに抗しきれず、心身は破壊や破滅につながることもあります。例えば、地震などの自然災害、戦争、傷害、事故、火災・などに遭遇すると、心身は一気に損傷、破壊されます。逆に強い快刺激をもたらす対象…ギャンブル・ゲーム、アルコール、麻薬、性的なもの、食べ物、宝石、お金、スマホ情報などの報酬的快感は反復行為(嗜癖・依存・くせになる)をまねき、その過剰神経反応が、心身の調和を乱し、病的になっていきます。専門家は、この状態を依存症と表現しています。
(注2)執着や抵抗…例えば、怒りの対象に対して、反復的な考えや思いが繰り返され、不安や嫌な感情を増長させ、うつの原因になったりします。その現象を反芻(はんすう)思考という学者もいます。また快刺激への執着は依存症を招き、心身を乱し疲弊(ひへい)させていきます。
身体瞑想で 体が健康になってゆく
私たち人間の身体は心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡ってゆきます。食べたものは口内で咀嚼(そしゃく)され、食道を経て胃に数時間38度の温度で保管消化され、十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進みます。小腸でさらに本格消化が始まり、肝臓に送られ、そこで加工・貯蔵され、血管を通して各臓器に栄養となって運ばれます。大腸では数十兆個の大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたものは約7メートルの消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、人間が生きるためのエネルギーになります。
腎臓は1分間で1リットルの血液を浄化し身体を守ります。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり約200の加工的な働きをしながら体を守り動かしています。ホルモンは炎症を抑えたり、体や臓器の調和をはかり、身体の恒常性を保ってくれています。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚を通して身体を守ります。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守る免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節してくれています。皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の細菌、ウィルスから体を守り、その総重量は10㌔を超えます。人間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美男などと私たちは言います。
意識は、体の働きの1000分の1も 識ることができない
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で内・外世界の情報を得ていますが、それは身体の働きの100分の1以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識(し)る(注3)ことがではないのが人間の本来的な働きなのです。
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆個の細胞を新陳代謝させ、絶妙な調和と秩序を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。
もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが感覚の現実ですが、それは人の身体全体から見れば一万分の一程度の微小なことに過ぎませんが、苦になります。
(注3)識る…「知る」は、記憶に基づいて物事を判別するという、いわゆる知の働きを指します。「識る」は仏法の生命哲学の中核をなす、唯識派の重要な概念の一つです。「識る」は「知る」と違って、心全体でわかるということです。「知る」が部分知であるのに対して、「識る」は全体知・直観智になり、ものごとの理解の深さが異なります。瞑想は、「知る」から「識る」に到(いた)る修行です。
生きる…それは関係性で成り立ち、変化に反応し、適応する闘いである
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。現代人の多くは視覚・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失う傾向にあります。それが様々な新しい心の病を作りだしていることに気づいていません
不安・適応障害や不登校、引きこもりは時代がつくった一時的産物に過ぎない
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っているからです。
磨かれた心の目には 肉眼では見えない世界が映し出される
「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」(シュレディンガー、20世紀の物理学者、波動力学を提唱、ノーベル物理学賞受賞)
磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には、見えないものまでが正しく見えるようになります。目に見える表面的なものではなく、その背後に隠された重大なものをみることができるようになります。何が幸福をもたらし、何が不幸にさせるのかを明晰に見分けることができます…。幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです。
心の濁りをつくる 四種の欲望と感情
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると、心の波は逆流し、自他を巻き込み、いたずらに消耗し、やがて苦しみの海に沈んでゆきます。限度を知らない過剰な欲望は、自らを焼き焦がし、周りを燃やし、炎の波にのまれてゆきます。快楽に耽け続けると 心は淀み、濁ってゆき善悪がわからなくなり、心の波長は間延びし、思考もとまります。人に勝りたい 人より優位に立ち、人を支配したいと思い続けると、心は歪んで、素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は、ほどよさの感覚を失うと調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。
福徳の人が奏でる きれいに澄んだ波動
幸福になる音色を奏でる人は、心が素直で柔らかく、きれいに澄んで、美しい振動を奏でています。財産、社会的地位、名声、人気、才能、美貌、健康などは、幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが、時とともに色褪せ、壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは、空しく時と共に風化し、最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは、花火のようなもので、刹那的な陽炎(かげろう)のようなものです。
こころは流れる 執着・とらわれの多くは停滞によるエネルギーの損失
ー祇園精舎の鐘の声 諸行無常(注4)の響きあり 沙羅双樹(注5)の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の言葉は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り、事物をありのままに見ることができないからです。
(注4) 諸行無常(しょぎょうむじょう)…中学時代、古典の平家物語で勉強された方も多いと思います。仏教で説かれた重要な哲学の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は関係性(縁起という)によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は関係性で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と判別しているにすぎず、夢のようなものを実在していると思い込んでいます。認知症が進み、重度になり記憶機能が失われた場合、自分が自分であることも分からなくなりますが、生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による夢見現象のようなものです。
この世のものは全て流れており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の見解です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明するかたちになっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を鍛えることで可能になります。
(注5)沙羅双樹(さらそうじゅ)の花…釈尊(ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で潜在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相(しょほうじっそう)といいます。釈尊の究極の生命理論(法華経方便品で説かれている)とされています。それを悟ることができれば生命の永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は弟子たちに説かれました。
清浄化された心に病はなく 福徳は爛漫に香る
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識、五感、心根は時とともに輝きを増し、その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは、永遠性を孕(はら)んだ美しい調和された振動を持ちます。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる周波数であり、釈尊の共鳴した世界と言われています。
善い知識に親しみ 心を清浄にする 偈読誦(げどくじゅ)瞑想
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…。過去の聖人(釈尊・ブッタ)の生き方や思想哲学のこころをこころとすることです。そのためには、釈尊・ブッタの悟りの言葉を詩・偈に凝縮した世界に心を冥合できるようにします。その偈には、釈尊の悟りそのものの振動(受信した法・ダルマ)が息づいているからです。不断に自己を磨き続け、内省し、浄化された自己の鏡に、偈にこめられた世界が共鳴・振動し始めます。そのとき、病は消滅し、真の安穏と喜びを得ることができるとブッタは教えます。それが瞑想の究極です。そのとき、本来の自己と宇宙的自己が共鳴しているとブッタは教えてくれました。
◎当室はあらゆる思想・宗教団体とも関係ありません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・法華経の生命論に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、そして科学(量子力学)と釈尊・天台・日蓮の法華経生命哲学の関係を思索研鑽しています。学びの旅は、今も続いています。