相談室(ブログ)

自分らしく 輝いて生きるための 智慧 

2025.02.02

自分らしく輝いて生きるためには 哲学(注1)することが大事になります。そこには先人の人生をかけて得た智慧が貯蔵されているからです。

人は本来の自己(注2)に生きるとき 心が安定し最高の充実を得ることができます。 それが生きる本当の意味であり、本来の自己が奥底で望んでんでいるこころなのです。

人は生れてから死ぬまで、自分らしく生きることを心の深層で望んでいます。そして本来の自分を生きたいと願い 自分らしさを探すように生きています。それは個人の深い本源的欲求(注3)に根差していて、その到達点にある、喜びに満ちた幸福郷という心の故郷に還る道を探しているのです。

自分はこの宇宙で、どの生物や人間にも代替できないかけがえのない個性の持ち主であり「天上天下唯我独尊」(注4)の存在だということを自己本来が心の深いところで識って(注5)います。

古今のあらゆる思想、哲学、文学、芸術、音楽、宗教、科学が本来の自己を探究してきました。「汝自身を知れ」(注6)といったギリシャの哲人ソクラテスもその一人です。夏目漱石(注7)は「足下を掘れ」と自分の内面を探求することの大切さを教えてくれました。

私の目的は 個々の人が自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい

物理学者のニコラ・テスラ(注8)の言葉です。テスラのいう「自分の翼」とは自分しか持たない翼であり、自分らしい自己のことです。彼らは、みんな本来の自己を探し、本来の自分に生きることの大切さを教えてくれています。

自分らしさは抽象的な言葉であり知識であり、どのようにも解釈される曖昧言語の一つです。「○○らしさ」は、偽りの多様化社会では、差別用語で使われることも少なくありません。「男らしく行動しなさい」「あなたは親らしくない」…。つまり「○○らしさ」のなかには、既に社会に広がった価値観が染み込んでいます。つまり本当の自分らしさではなく、時代の社会常識によってつくられた自分らしさになります。

例えば、いつも遅刻する人が、たまたま早く来たとき、周囲の人は「君らしくないね」と言ったりします。いつも遅刻することが、その人らしさになっています。その人の自分らしさとは、この場合、遅刻する自分ということになります。自分らしさとは、習慣的に意識的・無意識的に行動しているパターン化された自分を指しています。つまり「○○らしさ」は大人社会の既成の価値観が作った、その時代に通用する常識になってしまっています。そうした風潮が、「自分らしく生きる」ということを迷いの世界に誘っていきます。

では本当の自分らしさとは何なのでしょうか。この問いに答えられる人を、今の社会に見つけることは困難を極めます。なぜなら自分という人間存在、心の真実が分かっていないからです。現代社会は過度の情報化、視覚化された社会のため、真実が分かっていないのに、わかったように説明する詭弁者や偽善者に溢れ、真面目な人は混乱し、迷妄の闇にさまよう結果になっています。

自分らしさとは、本来の自己を生きることなのです。では本来の自己とは何かを知ることが、本当の自分らしさの発揮につながります。

自分らしく生きるためには スティーブ・ジョブズ氏(注9)が語るように、「大人が作った価値観や常識を一度見直し、再思考し、価値あるものとないもの、本物と偽物を精査し、自分のものとして、取り入れられるものは取り入れるという取捨選択をし、その中から独自のものを創り出していくこと」が本当の自分を作ることにつながると言います。

自分らしさの獲得は、ある意味、茨の道です。楽に到達できるものではなく、思考を磨き、意識を磨き、想像力(=創造力)と格闘しながら、日常生活の中で錬磨された思想を実践という体験の中で検証しながら、肉化していくという魂の闘いが要求されます。そのためには正しい哲学に導いてくれる師や善き友が必要になります。

道を求める困難さを避け楽な道や偏った思想や価値観に生きた人たちは、大人が作った過去の常識に埋没し、利用され、本来の自分を見失い、迷える自分を生きることになり、充実した人生も味わえなくなり、本当の幸福を感じることもできなくなります。

明治、大正、昭和初期まで、思想や哲学や文学の世界では、本当の自分を探求する魂の壮絶な闘いの人による書がありました。しかし、昨今はハウトウーものや表面的、コンビニ的知識が広がり、偽物や軽薄が幅をきかせ、本物が埋没しています。このような著者に共通しているのは、独自の哲学がなく、実践がなく科学的実証性が伴っていないことです。書物は発行部数と売り上げ至上主義となり、残念ながら中身は問われなくなりつつあります。

多くの情報が経済至上主義思想という欲望づけにされ、巧みな宣伝力で、人間の弱点である視覚(注10)を刺激し、快感覚に潜む麻薬的力で、思考を停止させ、知性を麻痺させるかのように広がっています。そんな商業主義の、軽薄ものは中身がなく、本当の自分らしさを見つけることにつながらないどころか、悪(注11)になっているものも少なくありません。悲しいかな、人を不幸に導く最大のものが悪知識(注12)であるということに、現代人は気づいていません。

芝蘭之室(しらんのしつ)では、本来の自分を識ることを哲学し、濁りに染まった現代社会や思想を乗り越える智慧の獲得を目指しています。

※当芝蘭之室はいかなる宗教・思想団体にも所属していません。室長は、18歳の頃から「自分とは何か」を探求し、あらゆる思想、哲学、文学、宗教、心理学、諸科学、人体学などの書物に向きあい、真実を探求し研鑽してきました。今もその旅は続き、現在はブッタ(釈尊以外の生命の覚者も含む)の最高の教えとされる仏法と量子力学等を中心に研究しています。

注1 哲学… 哲学は、思考の究極世界であり、瞑想の極致です。生命とは何か、自分とは何か、心とは何か、人間いかに生かるべきか、生とは何か、死とは何か、自分はどこからきたのか、宇宙は無限なのか有限なのか、時間とは何か、真理とは何か、正義とは何か、人間は善なのか、悪なのか、愛とは何か、幸福に生きるためには、どう生きればよいのか、など人生、社会、自然、宇宙万般を対象に思索し探求する学の世界です。

ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ニーチェ、ベルグソン、キルケゴール、ショウペンハウアー、サルトル、ハイディガ―などが有名ですが、近代は量子力学などの諸科学の陰に隠れた感があります。しかし、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ニコラ・テスラなど一流の科学者の真理探求過程と悟り・考え方は哲学そのものです。

これは科学者だけでなく、夏目漱石、森鴎外、吉川英治、ゲーテ、トルストイ、ドフトフエスキーなどの文学者、ベートベーン、バッハ、モーツアルトなどの音楽家、ダビィンチ、ミケランジェロなどの芸術家、ヘレンケラー、ナイチンゲール、ガンジー、キング博士などの人道主義者、老子、孔子などの思想家、イエスキリスト、マホメット、ブッタなどの宗教者など、その道の一流を極めた人は、みなそれなりの優れた普遍性に満ちた哲学を持っていますし、表現する言葉が美しく読んだり誦したりするだけで心が浄化され、深い触発を受け正しい生き方に導いてくれます。彼らは優れた詩人といえます。

(注2) 本来の自己 自己とは意識層と無意識層を含めた自分全体を指しています。それに対して、自分とは、習慣化・記憶化されたパターン化された自分を指し、自己からみれば部分的なもの・意識になります。

(注3) 本源的欲求 西田幾多郎の代表作「善の研究」の中で使っている重要な言葉。本来の自己、「純粋経験」とほぼ同義と考えてよいでしょう。

(注4 )「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんがゆいがどくそん) 釈尊の言葉とされていますが、真意が曲解されて伝わっています。唯我独尊の「我」とは個の我だけを指すのではなく、この宇宙全体にはただ一つの我、宇宙もすべての生物、人間も、存在するものすべては一つの「我」という意味です。釈尊の悟達によれば「我」とは、瞬間瞬間、如如として来る、仏性、法性、如来という意味です。この「我」が、すべてを創り出す生滅の法で、永遠に存在しているというのが真意です。

注5 識る 筆者は「知る」と「識る」を区別して使っています。知るは感覚で感受したものを意識することであり、ものごとの一部分しか受取れていません。識るは感覚、意識、記憶化された無意識を統合して感受することであり、ものごとの全体をわかろうとする働きであり、真の受容になります。

例えばタバコやギャンブルは害になるのでよくないから、やめようと頭の中で「知って」いても繰り返します。それは人間の心身の部分知だから、人間の全体をコントロールできないのです。識るとは、タバコは悪いので吸わないという行動ができることを指します。つまり識るは体得であり、「悟り」といえます。知識と感情全体を抑制できるのが「識る」であり、生命全体でわかることであり、覚者はこれを「悟り」という言葉で表現しています。これが修得できれば、心の悩みや心の病は治り、苦から解放されていきます。

(注6)「汝自身を知れ」ソクラテスの名言と言われています。あなたはあなたのことを全くわかっていない。自ら無知を自覚し、大いに学んでいきなさいと言う意味になります。ここで言う無知とは、本来の自己に対する無知のことです。

(注7) 夏目漱石「私の個人主義」という書の中で展開している言葉。「足下を掘れ」とは自分の心の深くまで探求し、本来の自己を探りなさいという意味になります。

(注8)ニコラ・テスラ…1856~1943年 交流電気を発明、約300の発明をしたとされる、天才物理・電気学者。現在のイーロン・マスクはニコラテスラを信奉していると言われています。彼の設立した車の会社の名前は「テスラ」です。

ニコラテスラの哲学の一部を紹介します「存在とは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによってすへての生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き産み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一、一つの状態から別の状態に移ることだけです。これがすべての秘密の回答です」

(注9)アップルを設立したその会社の共同経営者。スティーブ・ジョブズの「スタンフォード大学の講演」「最後の言葉」の要点を筆者がまとめたもの。

(注10)視覚を刺激…人間の感覚反応は9割は視覚に依存しています。それは二本足歩行し、体力的には他の動物より圧倒的に弱いため、視覚と記憶・知識の優位さで生き抜くために発達しています。反応の基準は、快・不快、好き・嫌い、好ましい・好ましくないという過去の記憶化された習慣的に作り上げた価値観で自分を守るために反応します。その基準は好き・嫌いという感覚反応ですから、本当の利害は得られず、また善悪など度外視しています。コンビニ感覚社会では、見た目が勝負ですから、人間の弱点にもなる視覚に訴える広告宣伝、テレビ、ユーチューブに溢れ、真偽も利害も善悪も二の次になり、思考しない人間を増産し、人間の質の低下を加速させています。

(注11)悪…ここでは人の精神を高める向上させたり、順益させるるものを善といい、逆に人の精神や生き方を低下させたり、自他を違損するものを悪という使い方をしています。古来、哲学や思想や科学は善悪を巡って魂の闘いをしてきました。一例をあげれば、地球は回っていると唱えたガリレオの地動説は当時の社会から裁判にかけられ有罪になりました。

当時の善思想は天・太陽が回っているといことであり、地球が回っていると言う考えは悪で人を惑わすものとされたのです。当時の善は、真理が究明された現在からみれば悪です。真理は権威社会が作り、当時の社会常識は今の科学からすれば、悪になります。ガリレオが善だったのです。つまり社会常識や思想は時代の民衆や権力者が作り出すものであり、真実とは限らないと言うことです。だからこそ、真理・真実を見抜く正しく賢い目が大事であり、そこに導いてくれる正しい師・先哲の存在が不可欠になります。

善を生涯探求し実行した哲学の祖ソクラテスは当時の詭弁家知識人の悪に毒を飲まされたのです。いつの世も悪は多く、善は少ないようです。悪は楽であり、善は困難を伴うので、人々は容易に悪思想に染まってしまうのです。悪は一時的に栄えたように錯覚しますが、末路は苦しみであり、地獄の世界になります。世の中を俯瞰するに、あらゆる商売、品物、企業団体、医療・心療内科やカウンセリングも商業主義・経済優位に毒されていのが現実で、残念ながら善は少なく、本物は砂浜の一粒の砂のようなものです。人々が賢くなるしかありません。

(注12)悪知識…生命全体、心全体、身体全体をみるという全体観の把握なしに、部分だけを見て、生命現象、心の働きや身体の働きを決めつける偏った知識、思想のことを指しています。わたしたちの普通の五感覚では、地球は動いていなくて、太陽が動いていると感じる中世キリスト教の常識(悪知識)が陥った天動説を信じてしまいます。

天文物理学の発見という根拠をもとに、想像力の目で太陽系全体を見れば、地球も太陽も動いていることを知ります。これを正見といいます。つまり正見とは、全体を観るということ、真実を見極めるということです。全体を知る、つまり真実を知ることで正しい対処ができるようになり、幸福な人生を生きることができるようになると言われています。

何も考えず権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である アインシュタイン

死の瞬間が 物語る その人の人生の 真実

2025.01.19

今、生きている人たちは、120年後には、誰一人この地球上には存在していません。みんな死んでいます。人生は不確実ですが、死だけは誰人にも確実に訪れてきます。生まれたものは必ず死ぬというのが生住異滅(注1)という変化を持つ生命の真実相だからです。だからこそ、死ぬ存在の自分を真剣に考えることが大事になります。それは、この人生をどう生きるのかという問いにもなります。

死ほど厳しいものはありません。人生をどのように生きたのか、その総決算が臨終の場面です。そして、その人の生きざまが死相に現れ、その人の人生の本性を語ることになります。人生は長さではなく、深さであり、何を為したかが問われるのが臨終の儀式です。

アップル社を設立し一代で巨額の富を築いたスティーブ・ジョブズ(注2)は、すい臓がんのため55歳でこの世を去りました。彼の「最後の言葉」の中に、人生で大事なものは、「家族に、パ―トナーに、友人にどれだけ愛情を与えたのか、やさしくしたのか、よい人間関係をつくることができたのか」であり、富、お金、名声は死後持っていけないと言っています。彼のような富と名声を得た人だから言えた言葉かもしれません。

死の瞬間に、人は生きているときの虚飾の衣は剥がされ裸一貫の人間にされ、生きざまが明らかにさらされます。生まれてから死ぬまで身口意(身体、言葉、心)の三つの行為でしたことを、すべて自己検証する儀式が臨終です。社会的地位や財産や名誉や人気など全く役に立ちません。それらは今世を飾る一次的なものであり、執着すれば来世の足枷・苦しみになるとブッタ(注3)は警告しています。

人の目はごまかすことができても自分を欺くことはできません。死の瞬間は自分が自分の人生全部を評価し裁く厳粛な時なのです。仏教説話などで比喩的に説く三途の河や奪衣婆(だつえば)、縣衣翁(けんねおう)や閻魔大王の責めなどの儀式のことです。これらは分かりやすい比喩であり、真実は自分の身体が死滅し、身体と心が乖離(かいり)する瞬間に自分の生きざま(主として善悪の行為の総量)を自分が検証し、心の深層(阿頼耶識・貯蔵識、注4)に整理して刻印し、空の状態で存在します。そして次の自分の業にふさわしいかたちを決める時なのです。そのかたちは業によって決まり、植物、昆虫、鳥、動物、人など様々です。

身体は消滅しても、その働きを支えていた心法・心の働き(注4)は、そのまま「空」(空…くうと読む。竜樹・世親らの生命観)の状態で続くと竜樹菩薩(注5)は大智度論で展開されています。そして初七日(最初の七日間)で次の生のかたちが決まる生命もあります。長くても49日内に次の生命のかたちが決まると聖人は説いています。

人生で、善の行為が多かったのか、悪の行為が多かったのか、もしくは善悪に関係しない生き方が多かったのかなどが自己検証の基準になります。

善とは、他者や他生物の命を慈しみ、育み、守る慈悲の行為であり自己中心性とは逆方向の、ある意味自己犠牲(自己中心性を抑制したり昇華したりすること)を伴う行為です。

悪とは、他者や他生物を傷つけ、支配し、壊し、憎み、攻撃し、破壊したりする自己中心のままに生きる行為です。

善を多く成した人は、死相が安らかで、眠るような表情になります。体も軽く、色は白くなり、死後硬直もなく体は生きているように柔らかく弾力性があり、腐敗も三日以上はありません。そのような死相の人は人間界以上の世界(人界、天界、菩薩界、仏界)(注5)に旅立つと聖人は説いています。

逆に悪の多い人生だった人は、死後まもなく硬直し、顔の表情は苦渋に染まり、悔しさ、などの表情になり、体も重くなったり、顔色も黒ずんだりし、見るのも恐かったり辛くなったりします。体の腐敗も早くなります。そして、地獄の世界、餓鬼の世界、畜生の世界、修羅の世界(注6)に赴くと聖人は説いています。

これらは私が多くの人生やその臨終を実際に見てきた事実からも言えますが、聖人が説いています。人生は長さではなく、何を為したかが大事なのです。

最近最愛の妹が70歳で亡くなりました。生前は、人のため、子どもたちのため、孫のため、婿のため、病弱を省みず誠実に真心こめて行動し尽くしていました。がん闘病で、余命半年と言われていましたが、約3年生きました。そのうちの2年半は普通に生活していました。亡くなる前の半年前から入退院を繰り返していました。

辛い闘病期間もあったようですが、臨終後、顔は穏やかで安らかになり、体も白くなりました。もともと色の白い人であったようですが、若返り、きれいになりました。葬儀、火葬までの三日間、私もまじかで接し、指や腕に触れましたが、柔らかく、腹部はかすかに上下し、呼吸をしているような感じで安らかに眠っているようでした。

硬直もなく腐敗もありません。孫たちは祖母に手をつないだりして何度も触れていました。柔らかく、手が握れるのです。腕の脇の部分などは、火葬の日まで温かでした。このような死相の人は、そうたくさん見たことがありません。その人の母親も同じような状態であったと記憶しています。私がまじかで見た死相で、このような状態で臨終を迎えたの人はわずかです。いずれも人に誠実に尽くすように生きてきた人たちです。それ以外の人は、死に顔を見るのも辛くなるような状態の人の方が多かったような気がします。

「臨終のことを まず学びて、他事を学ぶべし」と聖人は言われました。死にゆく存在であるわたしたち人間。私たちはいかに死ぬのか、それはいかに生きるのかの問いになります。最高に価値ある生き方、意味のある生き方、充実した人生とは、人の幸福に貢献する生き方、つまり菩薩道(注7)にあると、ブッタは教えました。

◎当室はいかなる宗教団体とも無関係です。室長は若き日から、万般の哲学、思想、宗教、心理学、文学、科学を研鑽し、最近は法華経と量子力学の関係性を研究しています。

注1 生住異滅 じょうじゅういめつと読む。仏法哲学の生命観の一つ。この世界のすべての存在は、生れ、安定した形で住み、やがて老化したり壊れたりする異なる形になり、すべて滅していくという過程をたどります。生物、無生物すべてに当てはまる。地球や太陽、石や塵、植物、動物、人間、すべて生住異滅の法則に則っています。つまり、すべての存在は常に変化していると言うことであり、「諸行無常」と同じ世界を指しています。

注2 アップルを設立したその会社の共同経営者。スティーブ・ジョブズの「最後の言葉」の要点を筆者がまとめたもの。一代で大富豪になった人。

注3  ブッタ・聖人… 法華経正統継承者の中では、三世の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人をブッタ・覚者・聖人と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドの釈尊、中国の天台智顗、日本の最澄と日蓮の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来世を予言し、それを的中させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹・天親菩薩がいます。彼らは人間生命の深層を探り、空観や唯識思想や死後の世界を究明したと言われています。

注4 阿頼耶識・貯蔵識…唯識思想では意識の下に、無意識層として、第七識として末那識(自我執着意識)、その下に第八識、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在していますが、縁に触れて生起し、意識に影響を与えます。脳に記憶化されたものと考える理解しやすいかもしれません。天台智顗は八識下に根本浄識としての九識を覚知されました。それを法性・仏性といい、あらゆる生命、万物の根底の生命であり釈尊の妙法蓮華経や如来と同義であると説かれています。

生命の深層の第八識・阿頼耶識に貯蔵された業(カルマ)の主として善悪が次の生のかたちを決めるとされ、楞伽経(弥勒菩薩、無著菩薩の教えとされている)では、初七日から七日間ごとに行き先が決まるとされ、49日目には、どんな人も行き先が決まると説かれています。

注5 心法…生命は色法と心法の二面性をもつと天台大師は理論づけています。色法とは、簡単にいえば肉体的側面で分析可能な部分です。心法とは、簡単にいえば心性です。色法の働きを可能にする性分・性質であり、分析不可能な不可思議な働きで「空」の状態で存在しています。色心不二が究極の生命の真実相とされ、仏性や如来と表現されることもあります。

注6 龍樹菩薩… 2世紀ごろのインドに生れた仏教僧。ナーガールジュナという。空(くう)は龍樹菩薩の中心思想の一つ。存在するものを「有」存在しないものを「無」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「縁・対境」によって生起し有のかたちになる。「空」は有無の二つの在り方をとる生命現象なのです。

注7 人間界以上の世界(天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界) 注7 地獄の世界、餓鬼の世界、畜生の世界、修羅の世界

釈尊以前のバラモンの教えは、六道輪廻といって、人間は六つの世界を巡るとされていました。その六つとは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天界でした。天界が最高位です。世間で言われるところの欲望が満足された極楽のような世界です。しかし、生命の真実を覚知された釈尊は、生命の境界は十境界あるとして、それを法華経如来寿量品で説きました。中国の天台大師は、それを一念三千論として体系化され、生命の十境界を明確に説明しています。

「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、諂曲なるは修羅、平らかなるは人、喜ぶは天…」と

分かりやすく現代的に説明します。

〇地獄の世界…苦しみ・地獄の世界―地下の牢獄(ナラカという、サンスクリット語)―最低の生命境涯
・生きていることが苦しい、何も見ても不幸、どうにもならないうめき声。生命力の枯渇。
・思い通りにならない苦しみ、怒り、憤りの世界。

・怒りがもたらす破壊の働き…自傷や他傷、殺人や戦争の原因
・焼けつくような苦しみ、求めても得られない苦しみ。強いものに巻かれる苦しみ
・苦の波長…本来の波長が失われ、逆流し、混乱し生命は限りなく疲弊し生のエネルギーを奪う

※死後に赴く世界…地下深くにある八大地獄に象徴される間断なく苦が充満する世界。

〇餓鬼の世界…「〇〇したい、○○がほしい」 充たされない焼けるような枯渇した世界-餓鬼の世界―
・欲望の過剰やとらわれ、執着に心がつながれ、不自由になり苦を感じる。
・ギャンブル依存などあらゆる依存は欲望の執着がもたらしている
・飢餓的欲望の波長…一時的に速度を増し、竜巻のように自己破壊を伴う。

※死後に赴く世界…地下深くにある渇しても渇しても得られない、生命が焦がれ焼かれるような苦しみの世界。

〇畜生の世界…先を見ず目先で行動する愚かさの世界…畜生の世界…残害の苦…強いものに食べられる苦 しみ
・生きるための本能、食べる、生殖活動、自分を安全に守る働き。
・弱肉強食の世界、自分の中に規範がない。強いものに巻かれたり、食べられたりする恐怖の世界。
・後先を考えない本能に支配されて行動する愚かさ。
・波長は、どんよりして遅々として進む。けだるい感じ。以上の三つの世界を三毒とも三悪道ともいう

※死後に赴く世界…残害の苦を伴う世界(強いものに食べられる苦しみのある世界)

〇修羅の世界…他者と比較し、常に他者に勝ろうとし、心が休まらず安定しない修羅の世界
・他人と比べ、自分が優れ、他人が劣っていると思う心。優れた人に嫉妬し、引きずり落とそうとする心。
・自分は素晴らしいと思う自己像を持ち、その自己像を壊さないためにエネルギーを費やす。
 外面は善い人…仁・義・礼・知の振る舞いで本心を隠し偽り、人に諂う。素直でない。
 内面と外面が異なる。偽りの自分を守り、保つためにエネルギーをつかう。心は安定しない。
・自分の優位性を保ち、劣等を隠すため、心は戦々恐々として休まるところはなく不安定。

※死後に赴く世界…海の波が間断なく打ち寄せ、戦々恐々とした安心できない世界。

〇人の世界…平穏な境地、人間らしい境涯…自分に勝つ生き方の第一歩…人間の世界
・正しい人生の軌道を歩むことによって心が安定してくる、内面化された規範に生きる。人らしさを保つには努力が必要になる、人間を超えたものに畏敬の念を持ち、尊敬することで自分を豊かにする。「三帰五戒…人間らしい生き方」は人に生れると唯識哲学は教える。
・欲望のコントロール、抑制する努力、倫理や道徳を守る。教育によって、人は人になる。教育が大事になる。

※死後に赴く世界…安らかで穏やかな平和な世界。

〇天の世界…欲望が充足された喜びの世界…天の世界
・人々は天を仰ぎ、敬い、憧れた。 自分に打ち勝つ先に得られる喜びの世界。
・欲望世界・精神的な充実の世界。しかし砂上の楼閣であり、永続できない。

※死後に赴く世界…満ち足りた満足を感じる世界。

〇声聞の世界 反省、内省的自我…諸行無常を探究。存在の有無、真理を追究し自分を高める世界
 一切のもの、一切の生物、人、社会に学び、人間完成を目指す心。見えないが確かに存在する心を見る。空や縁起を学ぶ。

※死後に赴く世界…充実を感じる世界。

〇縁覚の世界…「空」を悟る境涯。諸法は無我と悟る。色即是空を悟る世界。代表的な人に、夏目漱石、吉川英治などの文豪、ベートベーンなどの音楽家、アインシュタイン、ニコラテスラ、ニュートン、アリストテレス、ゲーテ、トルストイ、ダビィンチなどの覚りを得た人たちの世界。

※死後に赴く世界…深い充実感のある世界。

〇菩薩の世界…他者を守り、支え、育む慈悲・愛の心に満ちた世界。自然や宇宙の根本法則、慈悲の周波数に自分の周波数を重ね合わせるようにして生きる。…菩薩の世界
その慈悲の周波数に生き続けるとき、あらゆる生命、人間は本来の調和を奏で最高の自分を発揮し充実し安定する。真の幸せ郷に至る。代表的な人に、孔子、老子、イエスキリスト、キング博士、ガンジー、中村医師、ヘレンケラー、ナイチンゲール、観世音菩薩、弥勒菩薩、不軽菩薩などの無数の菩薩がいる

※死後に赴く世界…喜びに満ちた深い充実に満ちた世界。仏国土や寂光土、霊山浄土などと表現されている。死後赴く世界で、最高の境界の世界。生前、菩薩道を実践し、菩薩の心が定着した人が赴く世界とされている。

注8 菩薩道 人々に内在する仏性(最高の生命状態、智慧、生命力を持つ、妙法蓮華経ともいう)を礼拝し、仏性を開くために、相手に尽くす生き方。人のすべての面を受け入れ、守り、大事にし、生の向上・成長のために尽くす生き方。お腹の中の子を守る母親の生き方は菩薩道そのものとされています。

母親の菩薩の行為(少なくとも胎内にいる9か月あまり)を考えると、毒親という考え方は生命の真実の在り方に反する言葉になり、その言葉を発する人自体の考え方が、逆に毒を飲むような行為になり、不幸になっていくというのが生命の因果の法則です。その考え方を煽る人たちも同罪です。

  生きている  どんな財宝や 名声にも まさる  不可思議な 有り難き 心の流れ 

2025.01.01

私たちの新進は 24時間 意識できない世界で 変化し続けている

私たちは何かを感じ何かを考え、瞬間を生きています。ある人は何気なく、ある人は何も考えず、ある人は意識をもって、今を生きています。私たちは今の自分が感じている意識が、自分のすべてと思っています。そのことを深く考えることは、ほとんどありません。今の瞬間の命が 常に一定のところにとどまることなく 流れ続けていることを 意識することはできません。

意識できている世界は1%以下、99%以上は意識できていない

冷静に自分を観察し想像力を働かせてみると、私たちが意識できている世界は1%以下なのです。99%以上は意識できないところで心身は活動しています。私たちは無意識的活動を意識できないため、その活動に気づきません。その働きの、あり難さを感じることもありません。正しい知識に基づいた想像力によって、はじめて真実の把握ができ、心身の働きの偉大さに気づくようになります。

「想像力は知識より大事である 知識には限界があるが 想像力は無限である」 アインシュタイン

(われ)思う、(ゆえ)に我あり

16世紀の有名な懐疑(かいぎ)哲学者(てつがくしゃ)デカルトは、すべてを疑うが、疑っている自分の存在を真理と認め「(われ)思う、(ゆえ)に我あり」との名言を残し近代合理主義哲学の()とされています。

つまり、私たちが今、感じている意識こそすべであるということです。意識できない世界は(やみ)に閉ざされることになりました。合理主義のもと物質科学はめまぐるしく発展を()げ、原子爆弾や光速度の研究、やがて月にロケットが着陸するという、ウサギの(もち)つきつき神話もあっけなく(くず)されることになりました。現実の月は、地上で見る月とは異なり、でこぼこだらけで美しいものではなかったのです。

科学万能主義の時代が 心の世界を置き去りにした

やがて科学万能主義の時代が到来(とうらい)し、人間は神をも恐れない存在となり、科学を崇拝(すうはい)する科学信仰を招きました。科学がすべてを解決してくれると…。

しかし置き去りにされてきた、意識できない世界である心については、ほぼ16世紀のままと言ってよいでしょう。深層(しんそう)心理学のフロイトやユングがその闇にかすかな光をともしましたが、科学性には(とぼ)しいとされ看過されています。

今生きているのは、心身に記憶されたものが自動再生しているに過ぎない

ところで私たちが生きているのは、意識できる部分、意識できない部分の働きを合わせたもの全体が私たちの心身の活動の事実です。五つの感覚(眼・耳・舌・鼻・身)で刺激情報を感受し、それを意識が快・不快などの感情として受け取り、言語化して記憶していきます。こうして無意識層に記憶されたものが自動的に次の活動を生み出します。

今、生きていることはこれまでの人生で習得した記憶が意識化されて生きていることなのです。つまり、心身全体の過去の記憶が自動的に再生されたもので生きています。 

私たちが感覚し意識できるのは、体を動かす運動神経と感覚神経ぐらいで、実際に働いているものの1%以下にすぎません。私たちの体を俯瞰(ふかん)すれば、その事実に気付きます。

身体の働きは神そのもの

少しだけ例を挙げてみます。呼吸で吸った酸素は気管支を通り、肺にある約4億個ある肺胞に入ります。その肺胞の中は、それぞれ湿度100%を保っています。一つ一つの肺胞の周囲にめぐらされている毛細静脈と毛細動脈でガス交換を行います。そして心臓を経て全身の細胞を巡り酸素を配り、二酸化炭素を持ち帰ります。心臓の一回の鼓動で約70mlの血液が送り出され、約30秒で全身を巡り、心臓に戻ってきます。こうして、酸素と栄養は全細胞に配られ、私たちは生を保っています。止まれば死にます。

また食べたものは口で咀嚼(そしゃく)され、気管に入ることもなく、食道のぜん動運動によって、胃に送り届けられます。胃には食べ物を(くさ)らないようにするため、胃酸を出し37度の温度で数時間保存し、空腹感を防ぎ、やがて十二指腸におくります。体のごく一部の活動ですが、こうした活動は、私たちは意識できません。

生きるために、私たちの身体は瞬間瞬間、熾烈な闘いをしている 

体の中で毎日新しいがん細胞が成人の場合で約3000個生れているという事実があります。私たちはボーとしていますが、体の内部で白血球が熾烈(しれつ)な戦いをし、マクロファージという細胞が、がん細胞を食べたり、攻撃したりして、がん細胞を駆逐(くちく)しています。そんな活動に対して私たちは、全く意識することもできません。

風邪を引き発熱し、のどが()れた時など、白血球が菌やウィルスと戦い、そこは戦場となり炎症(えんしょう)を起こします。また赤くはれたり、発熱したりするのは激しい戦いの(あと)だからです。

このように私たちの身体は、意識できない世界で、涙ぐましい戦いを(いた)るところで展開しています。私たちが意識して指示しているわけではありません。体の各部分が、体を守るために、本来的使命に生きているのです。生きぬくための熾烈な戦いをしています。仮にウィルスに負けてしまうと、体は死ぬからです。破傷風(はしょうふう)などの(きん)に負けると、やはり命を保つことはできません。

弱肉強食が生物界の生体の秩序(ちつじょ)の一つのルールです。人の体の内部も白血球が負ければ強いウィルスが勝ち、体を支配し、人は死にます。身体自体が壮絶(そうぜつ)破壊(はかい)と創造を()りなしているのが生の現実です。

私たちは 動きを止めれば死滅する

人は動きを止めればやがて弱り、死滅していくしかないのです。体の内部の戦いのように動き、前進するしかありません。宇宙や自然は常に変化し流動(りゅうどう)しています。人間も宇宙の一部であり、変化に合わせなければ生き残ることができないのが自然の道理(どうり)なのです。

地球は生きている それを神通力という

地球は生きています。私たち生物と同じように…。地球は地球自らのものであり、自分の役割を誠実に果たしながら 自分の使命を果たしています。

地上の大気中には、私たちの生命活動の根本である呼吸に必要な酸素がほどよく存在しています。また各惑星、月、太陽との絶妙なバランスと、ほどよい距離感と大きさによって重力や引力が均衡し、今の領域を正確に保つため一日で一回転し、太陽の周りを高速度で一年をかけて一周します。だれの指示でもなく、自らの本然の力で回っています。

そうした神秘的な智慧のおかげで、私たちは宇宙に浮遊せず、大地に足をつけ、太陽光の強烈な紫外線にさらされることもなく、適度な水と温度、湿度の恩恵に浴し、生きていくことが出来ています。

生きとして生けるものすべてが、生まれ、そして自分の役割を演じ、生を終えていきます。地球も生物も人も同じ生命体です。これを生命現象の「生住異滅」といいます。

地球の営みは慈悲を根本にした智慧の発動

地球の活動は慈悲を根本にした智慧の律動に支えられています。慈悲とは苦しみを抜き楽しみを与える働きです。地球上のあらゆる生物の苦しみを和らげ、楽しみを与えゆく慈悲の実行者にして慂出する力それが智慧です。あらゆる生物は、地球の恩恵に浴し、慈悲と神秘な智慧に守られながら生きることが出来ているのです。

地球上には大気圏が地上から、約10万キロmまであり、宇宙空間からくる電磁波などから守られています。地上の生物や動物や人が生きていけるのは、酸素が存在し、海があり、人間の血管のように河川があり、血液が流れるように水が流れているからです。

地球の自公転や水が生物の生を支えています。私たちは、普段当たり前のこととして、それらの恩恵を享受していますが、けっして当たり前のことではなく、奇跡なのです。

地球の有り難さの一部を感じるのは、地震や気温の急激な上昇や線状降水帯発生などの時ぐらいでしょうか。そんなときも、地球そのものについて深く考えることはせず、自分たちが生き延びることしか考えていません。どこまでも自己中心的な欲望に生きているのが人間です。

地球の兄弟星、火星や月には酸素がほとんどありません。金星は温室効果ガスの影響て表面温度が460度の灼熱の惑星です。美しい輪を持つ土星の輪は、氷の粒と岩石の集まりでありガスの惑星です。太陽系では地球だけが生物が住める不思議な惑星です。

太陽からの距離が絶妙な位置にあるため、地球上では生物が生きていけます。太陽が光を程よく調和するかのように、可視光線、赤外線、紫外線などを届けてくれています…。太陽の光のおかげで、暗闇の宇宙に光が灯され、私たちはものを見ることが出来ます。絶妙な気圧のおかげで振動をキャッチし音や声を聞くことが出来ています。私たち生物は、とても不思議な働きに守られています。

私たちは無料で地球に棲んでいる

地上の生物は、無料で地球に棲んでいます。人間は、地上のあらゆるものを勝手に使い、加工し破壊しています。地球全体の働きを考えず、自分の利益になる部分を切り刻み、自分たちの生を保とうとしています。他の生物に比べ知能が発達しているため、自己中心的欲望にまかせ、他の生物の生態系を壊し、母船である地球そのものを壊しつつあります。このままの愚行が進めば、生物は少しずつ絶滅し、人類も滅びてゆくことになります。今しか考えない、救いようのない愚かさが、拍車をかけています。

地球を傷つけているのは人間の自己中心的欲望

森林伐採と砂漠化、工場が出す煤煙と汚染水で海や川が汚れ、多くの生物が死滅しています。二酸化炭素の排出と気候の温暖化、食用のために動植物の殺、養殖。鳥瞰的客観的な目で見れば、人間のしていることの恐ろしさに唖然とするのではないでしょうか。

地球が生命ある存在ということを知らないようです。地球は傷つき、血を流しているのが見えないのでしょうか。科学が進歩し、物理天文学、量子力学も日進月歩しています。スマホ一つで、用が足せる便利社会になり、子どもから大人まで、楽しさやおもしろさに溢れる視覚快適感覚に脳が麻痺し思考する苦労をしなくなり、自己中心的に快楽を追い求め、生物や地球環境のことを思いやることを忘れています。

何のための科学の進歩なのでしょうか。見えるものしか追いかけず、大事な心を見ようとしない人間の生命の濁りが社会や時代の濁りを生み、あらゆる心身の病気を招き、応急対処的な症状除去の医療に身をまかせ、根本を見ることをせず、人類や生物を破滅に導いているのです。

気候変動、地震や自然災害、地球はSOSを出しています。しかし、そのサインをだれも読み取ろうとしていません。真の科学者はいますが、多くの自己保身者や自己中心者に消されているかのようです。

地球上の生物の90%は植物です。地球の主人公は植物ともいえます。地球は植物の惑星です。

残りの10%が動物・昆虫・微生物などです。動物の中でも人はごく微小で、人一人に対して、ありは一万五千匹の比率です。地球の動物の主役は昆虫です。

生物、特に動物は弱肉強食の本能の法則で生きています。最も限度を知らない自分勝手な動物が人です。少しばかり、脳が発達し、道具を開発し、言葉を持ち、記憶化した知識で、地球を支配するかのような錯覚に生きています。その錯覚がやがて地球を荒廃させ、生物が住めない惑星にしてしまうでしょう。

誰のものでもない地球、地球は地球自らのものです。「ここの土地は自分のものだ」と言い張り、人を平気で押しのけ殺す人たち…その極致が戦争です。戦争は自己中心性のもつ人間魔性の仕業です。

宇宙に浮かぶ地球を想像することができれば、地上の生物や人はみな地球号に乗った運命共同体と自覚できます。無知な自己中心的な政治家や権力者や富豪たちが、やがて地球を破滅させてゆくでしょう。

地球の恩恵を感じる心が地球や人類を救う

未来の地球に生きる人たち、今の子どもたち、他の生物、動物を思うと人間の愚かさと貪欲、そして傲慢さに怒りがこみあげてきます。地球の恩恵をありのままに感じる純な心をもつことこそ、人としての正しい道ではないでしょうか。

自己中心者は幸福になれますか?

2024.12.31

質問

大学1年生です。これまで19年生きてきましたが、人間の仮面をかぶったような偽善的行為をする大人の多さに失望しています。政治家は選挙になると、「国民のために、この身を捧げます」など美辞麗句を並べますが、当選後は、自分の利益、お金、名誉、権力、果ては不倫など私利私欲に走り、自分の欲望すら制御できていません。そうした政治家が日本の政治をしていると思うと悲しくなります。彼らは未来ある子どもたちに、人間は欲の塊で醜いものという毒を吹き込んでいる気がします。

一般の企業、会社の人から小さなお店の人まで、儲けという利益のために、平気で詐欺まがいの商法をしたりしています。購買した人の利や健康などに対する思いやりを感じません。過剰なキャッチコピーで不健康食品を平気で売ったり、自然環境を平気で壊したりしています。そうした商品を買う民衆が愚かではありますが…。

マスコミ、芸能界は視聴率アップという利益のためには何でもありの感じです。視聴者の心理的影響性や子どもの健全な教育など全く考えていません。マスコミ、スマホ、テレビ情報がいかに視聴者の心を不健康にしているか、特に子どもの教育に悪影響を及ぼしているか考えていません。自分たちの利益という今だけを見た自己中心の生き方であり、未来に生きる子どもの健全な心はどうなってもよいのでしょうか。

私は名門受験高校で学び、現在名門といわれる大学に通っています。思えば、私の受けた教育は、ただただ有名大学に進むためだけものでした。T大に何人入るか、国立医学部に何人入るか、その実績が高校の名誉になり、利益につながります。私は、その一齣に過ぎなかったようで、今虚しさを感じています。受験技術や受験知識は教授してくれましたが、果たして人らしい教師がいたでしょうか。人間はいかに生きるべきか、人はどうあるべきかという最も大事な人間について誰も教えてはくれませんでした。ただ私が有名大に入れるかどうかが、すべてでした。合格した私の心は彷徨っており、空虚感に苛まれています。

人間はみんな自己中心者なのでしょうか。自己中心性を乗り越えることはできますか?

自己中心的生き方では幸福になれないと思いますが、私の考えは間違っていますか?

今まで、だれも納得する回答を与えてくれませんでした。たまたま芝蘭の室のブログを見たので質問しました。思索するヒントをいただければうれしく思います。

回答

あなたは、真剣に人生を考えています。人間の生き方とは、人間とは何か、いかに生きるべきか、人は自己中心的存在なのか、それを乗り越える生き方はあるのかなど…。

生きるとは、一面から言えば、自分の身を守り、自分を保ち続けることです。それは生物としての本能です。その点から言えば、あなたも私も自分中心です。人間を含め、生物はすべて自己中心という一面をもっています。あくまで一面であり、すべてではありません。

これまで歴史に登場した偉人・賢人・哲人は、この自己中心性を脱し、人々の精神の向上に身を捧げてきた人たちです。その生き方は自己中心性とは逆方向であり、一面からすれば精神的苦を伴うものであり、よいとわかってもなかななか実践するのは困難な道だったようです。

話を動物・人の自己中心に戻します。

動物・人の場合、食べなければ死にます。寝なければ死にます。眠れる場所がなくては、睡眠がとれず身を保つことができなくなります。衣服をまとわなければ、外気や菌などから見を守ることができません。どんなきれいごとを言っても、生き抜くためには自分の身を保たなければなりません。まず、人も動物も自分ファースト、自己保身が第一になります。これは生物の本能の一つです。

しかし、ここに動物・人の他面をみることがあります。母親です。動物も人間もわが子を命をかけて守ります。自分が危険にさらされても、自分が食べなくとも、子どもを守り、まず子どもに食べさせます。これは自己中心性と逆の方向の働きであり、慈悲心といいます。人は母親のみならず、みな慈悲の心を本然的に持っています。この慈悲の心が発動されるとき、人は自己中心性を乗り越えることが可能になります。これも人間性の一面です。この心を耕し、人生を生き抜こうとした人たちを賢人といいます。

慈悲の心こそ自己中心性の対極にある心であり、それを乗り越える唯一の力です。

慈悲とは、苦しみに共感し苦しみを抜き、楽しみを与える行為です。命あるものを守り、育み、慈しむ心、それが慈悲です。

比喩的に表現するなら、太陽は慈悲の体現者であり、地球もそうですし、自然や植物もそうです。幼子の病を寝食を忘れ看病する母親も慈悲心の表れです。どんな生物や人にも慈悲心は内在しています。

慈悲こそ命あるものの本来の調和した美しい働きです。慈悲心で地球も宇宙もあらゆる生物も生きることができています。慈悲は産み出し創造する源泉です。私たちは慈悲心に守られ支えられて生きています。しかし、そんなことに気づく人は稀です。

無慈悲はその対極にある行為です。自己中心性に潜む魔性であり、破壊の働きです。命あるものは、この魔性・破壊心と慈悲心を本来的に持っていると賢人は説いています。自己中心性を克服しなければ慈悲心は発動しません。

私たちの生命を慈悲心が支配するのか、魔性の破壊心が支配するのか、生命は常に闘っています。これが宇宙の真実の姿です。正義が勝利するとは限りません。歴史は残念ながら、破壊心の勝利で綴られています。一部の権力者の自己中心性に巣くう魔性の破壊心、殺行為が人類の歴史です。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」です。野蛮な武力による暴力支配でも勝てば、その世界の正義になります。生命の魔性は思想も常識もすべてを支配下に置き、思うがままに生きようとします。

日本の神風思想、ナチスの思想、帝国主義時代の侵略思想など、すべてが魔性に操られた思想です。その魔的な思想に、どれだけ多くの尊い命が奪われたことでしょう。この魔性は権力者に最も入り込み寄生するウィルスのようなものです。今は、経済、お金が世界を支配しています。また科学万能という思想がその経済第一主義を支えています。

地球上の人類は、「歴史は繰り返す」の言葉の通り、愚の歴史を今なお綴っています。ロシア・ウクライナ戦争、ガザ地区のイスラエルとハマスの破壊・殺人合戦、世界各地の紛争、経済戦争など…。経済戦争の被害者は数億に達し、今この瞬間も餓えや渇水や感染症に苦しんでいます。

これらの破壊性・生命に潜む魔性に対抗できるものこそ、私たち一人一人の命に内在する慈悲の心と個から発する智慧です。その慈悲心を勇気で沸き立たせるしかありません。それには自己中心性に伴う快感や快適さを乗り越え、苦を伴う闘いが求められます。慈悲の体現者が増えれば、豊かな智慧が湧き、人の心も平和になり、地球も潤っていきます。

今回は自己中心性と、それを乗り越える道としての慈悲の心について述べてみましたが、人間性のごく一部しか語っていません。なぜ人は、慈悲の心が発動できないのか、自己中心的欲望に生きてしまうのか。この解決には人間の心の解明、宇宙万物の現象と、現象を現象として生起させている法則の究明なくしては不可能です。機会があれば、一緒に学んでみませんか。

自分ファーストという自己中病が増加している

アメリカファースト、都民ファーストなどの思想は、自己中心者の心に適い、彼らはその思想の支持者になり、自己愛者を増やし、やがて一国みな哲学なき自分ファーストになってゆきます。

人間が自分を第一優先し、他者や他生物や自然や地球のことを二の次とし、ひたすら自己利益のために利用し、未来のことは眼中にないようです。人間の知性が私利私欲を満たすためだけに使われているようです。

どの国の政治家も、口を開けば「経済、国益」を、金科玉条のように叫びます。経済第一主義、換言すれば、お金第一主義であり、物が豊かにあることが幸福になる道だと叫びます。やがて、ものや土地や海域を巡り、国をあげて、他国民を殺し合う戦争まで発展します。自国ファースト、自分ファーストの思想は、他者の命を物質のように考え、殺傷することができるようになります。

あらゆる企業や組織や団体は功利主義であり、成果主義であり利潤・利益を血眼になって求めます。社員が過労死しても会社の利益が優先されます。会社・組織ファーストであり、一人の命はもののようにあつかわれてしまいます。成果、利潤、お金、株価はすべて数値化され、その数字は人間の命より大事にされます。お金は数字で表記されます。その数欲しさに、強盗し、平気で人を殺しています。

中学受験の過熱、それも将来の自己利益のためであり、私利私欲を満たす一つの手段になっています。本来の学問は、自分を知り、社会を知り、自然を知り、目に見えない無数の法則を探究し、自己実現し、その磨かれた知性で他者・社会・自然に貢献する、大きな志のある学びでした。

現在の学校教育は経済推進者の養成所であり、偏差値という非人間的数字を求めて加熱し、経済至上主義社会の歯車を作ってゆきます。学校は人間教育を忘れています。その場から離脱してゆく人たちが、ある意味、不登校者であり、引きこもり者であり、純粋な心を持った人たちなのかもしれません。

成熟した社会ては、自分のための学問は小人の学として軽蔑されていましたが、今は多くの人が小人の学を目指し、自分ファーストの道を進んでいます。今の子どもが大人になったとき、社会は自己中心者で溢れていることでしょう。

 生物種の一つである人と動物の違いはどこにあるのでしょうか。言葉や道具を使う、二本足歩行するなどという生物学観点の話ではありません。行動や他生物への影響性といった心の側面に視点を当てたお話です。

 動物は本来的に生命に具わっている能力、つまり本能に従って行動します。本能的行動は、他の存在を考えることはせず、自分勝手であり、自己中心であり、自分ファーストそのものです。自分ファーストは、つまり動物と同じレベルといえます。

「あの人は獣もの以下だ」「彼は人を食い物にしている」「弱肉強食」「虎の威を借るキツネ」など、人の行為を動物に譬えた表現はたくさんあります。つまり人間も動物的側面をもった生物であり、動物と同じような行動をすることがあるということです。さらに知識があるだけに、動物以下の行動をすることもあります。このような生物は見かけは人面をもっていますが、およそ「人」とは言い難いと思います。

  畜生は空腹感を満たすため、生き抜くために他を殺し食べたます。満腹になれば、それ以上は食べません。人間は満腹になっても人を殺します。その殺し方も頭を使って残虐に、動物にない殺し方をします。地球上で最も恐ろしい生物なのです。

 人が人になっていったのは、人しか持たない温かい心根でした。他人も自分と同じように喜怒哀楽をもった存在であると他人を思いやり、そうした感情に共感し他生物と共生する心から、人は動物を超えた心性を開花させました。そこには自分だけ利を得る、自分だけ栄えるという心はありません。等しく公平に利を分け与える心でした。恩を受けたら恩に報いるというの道理に生きるようになったのです。恩を知らない人を畜生以下というのはそうした意味なのです。

自分を大事にすることと同じように人や自然も大事にしていくという共存共栄の哲学を持った生き方こそ、本来の人の道です。また、人とは徳を積むための哲学を持った人間です。これを学ぶのが真の学問なのです。つまり学問は、人が人になるために生涯をかけて実践する修養の道なのです。

その果てにあるものは、人として成熟され、自己中心性を超えた人らしい人です。

人は死んだら どこへ行くのですか? 中学3年女子

2024.12.19

質問

中学三年生の女子です。数日前、近くの学校の中三女子が突然刺され、亡くなり怖くなりました、それを機に、人は死んだらどこに行くのだろうと考えるようになり夜も眠れません。何か参考になることがあれば教えていただけますか。

回答

この問いに正しく答えられる人は、今の世にはいないと思います。なぜなら、今いる人たちはみんな生きていて死んでいないからです。ただし生命の真理を悟ったと言われる聖人は、過去世・現世・未来世の三世の生命の真理がわかると言われていますので、死後もわかるようです。まずは世間一般に流れているお話をします。そのあとに偉人や覚者・聖人の生命観について説明します。

おとぎ話では 人が死んだら「星になった」「天に昇った」などと言い、なんとなくロマンを感じま

すね。キリスト教では神に召され生前、神を信じていた人は永遠の楽園に行くなどと言われています。ちまたの仏教では、死んだ後、人はみな、三途の河を渡るとあります。その河には、三つの通りがあり、比較的罪の浅い人の通る浅瀬のみち、善を積んだ人の通る金銀でできた橋、罪の重い人のわたる深い激流のみちの三つです。その川岸のほとりには、奪衣婆(だつえば・死者の衣を剥ぎ、生前の行いをあらいざらい暴く人)がいて、罪の軽重をはかるそうです。そして行き先が決まり、地獄、餓鬼、畜生の世界へ、あるいは修羅、人、天などの世界に行くと説かれています。日本の仏教説話などに地獄絵図などが描かれていたり、別府温泉には血の池地獄など各種の地獄の湯が今でもあります。想像するだけで怖くなりますね。

唯物論哲学では、人間の身体は物資なので、死によって肉体がなくなり、すべては消滅すると論じます。現代科学の物質還元主義思想です。心は脳という肉体・物質によって生じると考えます。脳がなくなれば心も同時になくなるという考えです。人生は一度きりですから、殺人をしても、そのことを隠して生ききれば、死後に裁かれることはないことになります。別に善行を積まなくても、悪の限りを尽くしても、あくまで、一回の人生で終わりだから何をやっても関係ないと言うことになります。

スピリチャル系では霊魂になってどこかを浮遊しているなどと言います。そしてその魂が生きている家族などに災いをなす、つまり先祖の霊が祟るなど怖い話になったりします。一部の邪な宗教では、この霊魂説を利用して、人の本能的恐怖心と無智につけこみ、金儲けしているところがあります。

果たして人は死んだらどこへ行くのでしょうか?

死とはなんでしょうか?   生れたのは偶然なのでしょうか? 

それとも、 生れるべきして生れうまれたのでしょうか? 

この問いは、生命とは何かという難問に辿りつきますね。

生命の解明なしに、生まれる前の生命、そして死後の生命も解明できません。

では、私たちの生命とは一体 何なのでしょうか?


歴史上の偉人たちは、この問いを生涯かけて探究し解明しようとしました。ここでは、一生を賭けてこの難問を探究し 真理を悟ったと言われているブッタ(注1聖人)の生命観を紐解いてみましょう。 

覚者ブッタは あらゆる生命は 無始無終である、つまり始めもなければ終わりもない、今のこの瞬間が永遠に続く、正確に言えば、生命は常に今の瞬間の律動しかないと悟りました。時間は存在しない、時間と思っているのは言葉でとらえたものに過ぎず、実際は現象が流れ変化しているだけのことだといいます。

20世紀の天才ニコラ・テスラ(注2物理学者・詩人)は、この世で誰も死んだ人はいないと、逆説的な言い方をしました。それは2500年前にブッタがとらえた生命観に近接しています。

彼は、エネルギーから光が生れ、それが物質を生み、やがて別のエネルギーに変化する。

光もエネルギーも不滅と語りました。不滅なので生も死もないと言ったのです。

生もなく死もない 生命は縁によって顕在し 死という縁で空「注3 空・くう」のかたちに変り 潜在すると言います。

生命は二つのかたちをとりながら存在し続けるとブッタは説きます。

生命は有という顕在のかたちをとり 無という死のかたちで潜在すると説きます。例えていえば 夜に

なって寝ます 次の日の朝起きます。

寝る前の自分を生のかたちとして存在 眠ったときを死のかたちで存在し 朝起きた時を次の生のかた

ちとして新たに存在します。

寝る前も自分 眠っているときも自分 次の日起きた時も同じ自分 自分と言う我は一貫し連続してい

ます。この我は「空」の状態で存在すると説きました。自分の我は生まれ変わって、すごい人や生物に

なるわけではありません。自分という我は、あくまで自分なのです。

今、生きているときの行為の総体が記憶化され、次の行為につながるように 今世の生き方の総体が心

の深い部分の蔵(注4アラヤ識)に「空」の状態で貯蔵され、自分に適した縁を選び出し、顕在化すると説

きます。(注5妙法蓮華経譬喩品で説法)

因果応報とも言います。今の行為(因)が一つの行動を起こし(結果)、幸不幸の報いを得る。(応報)

他者の目は欺けても自分の心は厳然と事実を記憶し、その善悪の総体が次の生のかたちを決めるとブ

ッタは説いています。

エネルギーはかたちを変えますが不変と言われています。個の我は一貫して続くのです。

正しい生き方をしていた人が不慮の事故で死んだり、中村医師のようにアフガニスタンで流れ弾で死ん

でも、正しい生き方をしていた我は連続し、再び正しいところに生れ 正しい生命のかたちをもって生

きるとブッタは説きます。

ブッタは生命の覚者です。 過去・現在・未来という三世の生命を悟ったと言われています。

ブッタの生命観 生と死は不二であり 生命は無始無終であり 今の我が姿かたちを変えて因果の総体

(注5 業=カルマ)で連続すると悟ったそうです。(注6 妙法蓮華経如来寿量品で説法)

つまり、人が死んだら生前の行為の総体(行為、言葉、心で思ったこと)…善と悪そして無記(純粋な知識)

という業が意識下に「空」のかたちで潜在します。その業に適した縁を選んでかたち(新たな生命)にな

り、生まれると説きます。例えば生前、人らしい生き方(人としての戒を守り、敬虔な心を持ち、四恩を

感じ、それに報いる生き方をするなど)をしていれば人に生れます。動物のような弱肉強食の生き方をし

ていれば動物(昆虫・鳥など)のかたちに生れると妙法蓮華経譬喩品に釈尊は説いています。全ては自分の

行為の結果であり、だれのせいでもありません。これが自業自得の本当の意味です。

◎当室は宗教団体とは一切関係ありません。室長は20歳の頃から、哲学、倫理学、思想、医学、文学、天文物理学、生物学、孔子の教え、老子の教え、キリスト教、仏教を学び、研究してきました。最近は特に量子力学・心身医学・諸科学と妙法蓮華経(釈尊・天台智顗・最澄・日蓮の流れと竜樹・天親の空や縁起、唯識思想)の相関性について研究し、心理療法への応用展開を模索しています。

注1 ブッタ・聖人… インドに約2500年に誕生した釈尊を一般的には指します。しかし妙法蓮華経(略して法華経)正統継承者の中では、三世の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人を聖人と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドの釈尊、中国の天台智顗、日本の最澄と日蓮の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来世を予言し、それを的中させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹・天親菩薩がいます。彼らは人間生命の深層を探り、空観や唯識思想や死後の世界を究明したと言われています。

注2 ニコラ・テスラ…交流電圧を発明しました。電気学者。300以上の発明、発見をしていると言われています。詩人、哲学者。生涯独身を貫き、人類福祉のための発明に一生を捧げました。「私の脳は受信機に過ぎない。宇宙には中核となるものがあり、私たちはそこから、知識やインスピレーションを得ている。私は、この中核の秘密に立ち入ったことはないが、それが存在することは知っている。」「3・6・9という数字のすばらしさを知れば、宇宙への鍵を手にすることができる」などの名言を残しています。アメリカのイーロン・マスク氏は、ニコラテスラの崇拝者として有名です。

注3空(くう)竜樹菩薩の中心思想の一つ。存在するものを「有」存在しないものを「無」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「縁・対境」によって生起し有のかたちになる。「空」は有無の二つの在り方をとる生命現象なのです。

注4 阿頼耶識 唯識思想では意識の下に、第七識として末那識(自我執着意識)、その下に第八識、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在しているが確かに存在し、意識に影響を与えています。脳に記憶化されたものと考える理解しやすいかもしれません。天台智顗は八識下に根本浄識としての九識を覚知されました。それを法性・仏性といい、あらゆる生命、万物の根底の生命であり釈尊の妙法蓮華経と同義であると説かれています。

注5,6 法華経と言います。インド応誕の釈尊は、菩提樹下で成道(生命の真実相を悟る)したと言われています。その悟りの内容を修行面で仏教と言い、法理面を仏法と言います。悟りの内容は深く深遠であったため、当時の民衆の機根(生命状態や能力など)に応じて種々のたとえや方便を使って教えを説いたとされています。例えば念仏の南無阿弥陀仏や大日如来の教えや禅や般若波羅蜜経など、40年にわたって八万宝蔵とも言われる膨大な教えを展開されましたが、いずれも生命の部分を説いたものです。部分ですから、それらに執着しては、正しい生命観を持てないと戒めましたが、現存する日本の多くの仏教は、釈尊の教えに反し部分に執着しています。それゆえ、真実の法にいたることができていません。

釈尊は最後の八年で、真実の教え・生命の全体像を説きます。それが妙法蓮華経(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランのインド、サンスクリット語の漢訳)です。妙法蓮華経とは、宇宙を含めたすべての存在は不可思議な因果俱時の法に則って存在しています。この不思議な法を言葉で命名したものが妙法蓮華経です。実態は言葉を超えて存在しています。今この瞬間にも私たちの生命そのものとして存在しています。当時、書物はありませんので口承で真意を汲んだ弟子たちによって編集され、28品(章)に分類されています。比喩品は第三であり、如来寿量品は第十六になります。

如来とは、阿弥陀如来や薬師如来など仏と訳されることもありますが、真実の意味は、瞬間瞬間に生命の深層から湧き出る私たちの本来的な生命のことです。つまり、今の一瞬の生命は不可思議であり、どこからともなく湧き起こり、私たちの生を支えていますが私たちは意識できませんし、実感もできません。過去の記憶の総体で自動的な働きの感知である意識で生きているからです。

如来の意味は、瞬間に発動する生命のもつ慈悲と智慧の律動なのです。生命は永遠に今を振動しています。永遠と言う言葉は時間の変化を表す言葉であり、実際は生命は常に今の瞬間しかないのです。アインシュタイン氏もニコラテスラ氏も、こうした世界の一部を覚知されていたと言われています。だからあれほどの発見ができたとも言えます。この今の生命の真実の在り方、如如としてくる生命、つまり妙法蓮華経如来にナム(ナムは梵語、漢語で帰命という)して生きることこそ真の幸福に至る生き方と聖人は教えています。

寿量とは、仏の生命の功徳、智慧は限りなく果てがなく、はかりしれない。私たちの言葉に置き換えると、生命の力、生命力が無限であり、限りがない、どんな困難も、障壁も乗り越えることが出来る生命力という意味になります。

 本当の自分に生きるとき、どんな困難も乗り越える力と智慧が湧き 新しい自分がつくられていきます

2024.12.14

苦しみは 本当の自分を忘れた 迷いの姿であり 

生命は懐かしい本当の心の故郷に還ることを願っています。

本来の自己に還り 本来の自分に生きる時 苦しみはなくなり 

人生の生きる意味に目覚め 深い充実を感じるようになります。

本来の自己とは何か…古来、人間が求め続けたきた難問でした。

自己とは何か?   生命とは何か?

心とは何か?  意識とは何か?  死とは何か?

さあ 一緒に歴史上の賢聖を尋ねててみましょう 

漂流し苦悩にさまよう 自己の平和を取り戻すために…

人はどこから来たのか 偶然にこの世にやってきたのか?

ニコラテスラ氏(20世紀の物理学者・詩人)は、誰も死んだ人はいない

光は物質を産み それはエネルギーに変り 物質は消え 光に戻る、と‥。

人という物質のかたちは宇宙に還っても その物質のもっていたエネルギーは宇宙に溶け込み

変化しただけであり やがて縁によってかたちを作る つまり生命は永遠に続くとの見解を

述べました。

今は人として生きていても かたちはなくなり 次のかたちは植物かもしれない

動物のかたちかもしれない 鳥のかたちかもしれない 昆虫のかたちかもしれない…

地球一の聖人・賢者・覚者と言われ、生命現象を悟ったとされている釈尊(ブッタ)は

過去世で鹿の王のかたちで生き 仏道を修行したことがあると自らの過去世の一端を説きました。

釈尊によると、人は偶然に、この世に誕生したのではなく 生命はかたちを変えながら 個の我は

連続していると覚知されたそうです。

夢を見る前の自分と 夢から覚めた自分は別人ではなく 同じ我を持ち一貫した存在です。

つまり 今世の人生で行為として積み上げた善悪の行為の蓄積(カルマ=業の集積)されたものが

次の生のかたちを決めるとブッタは説かれました。

人らしく人間の戒を守って生きれば 人として生まれ

畜生のように生きれば 畜生(動物や鳥や昆虫)のかたちに生れ    

欲望に執着した生き方であれば 地下深くの餓鬼の世界に生れ

人や自然や生物を傷つけ続けて生命は 苦しみの連続する 地獄に生を受け

徳を積み 人に施し 他の生命を慈しみ 守った生き方は 宮殿に生れ天人となり

知的探求 真理を模索して生きた人は ソクラテスやアインシュタインやノーベル受賞者

のような知的世界に囲まれた場所に生を受け

いつも苦しむ人のために その苦を抜く行動を突けた人は 弥勒菩薩 観音菩薩 イエスキリスト 老子 孔子 マザーテレサ ヘレンケラーのようなメシア的存在で生れるといいます。

つまり 今どんな生き方をしているのか 善を積んでいるのか 悪を行っているのか それらは脳に記

憶され 無意識世界に刻まれ 次の行為に影響を与え そして次の生のかたちを決定すると釈尊は説い

たのです。

これを因果といい それが報いとして目に見えるかたちをつくるとブッタは妙法蓮華経譬喩品で説かれました。

つまり今の自分は自分の生き方が作ったものであると知ることが、根本的な苦を抜く正眼視というので

すです。

人間は人間のことを何もわかっていないと、無知の知…無知であることを知りなさいと、ギリシャの若

者に生命の真理に目覚めるように説いたのは 哲人ソクラテスでした。

私たちは自分の身体がなせ動いているのかを知りません 脳や各器官や臓器がどのように統一され連系

され生を営んでいるか知りません。

意識がどこから起きているのかも知りません なぜ周囲を感知できるのかもよくわかっていません。

自分が自分であることは なんとなく記憶された言葉で認知しているに過ぎず 

記憶は既に過去であり 今の瞬間の自分が何者なのかがわかっていません。

ソクラテスの問いは真理をついた言葉であり 当時の知識層といわれた詭弁学者は彼を恐れ

彼に嫉妬し 牢屋に送り 法を順守するソクラテスの正義感につけ込み、毒を送ったと言われています

ソクラテスの問いは 今も私たちの心に鮮明に響いてきます

自分のこと 自然や宇宙 生命についてほとんどわかっていないという

学べば学ぶほど多くのことが分かっていない自分に気づきます

まさに無知の自覚です。そこから本当の自分の探求が始まりす。

 

人、動物、植物、地球、太陽、宇宙の万物は 固有の振動を奏でながらカオス状態で常に変化しています

2024.12.13

喜びの振動 悲しみの振動 苦しみの振動 恐怖の振動 怒りの振動 破壊の振動 慈しみの振動 快適な振動 不愉快な振動、満たされた振動、不満な振動など…この宇宙は万物の存在が発する無数の振動に満ち混沌としています。

動物にも無数の振動があり、植物にも幾つもの振動があり、細菌も、ウイルスも塵も石も空気も振動を発しています。その振動を秒単位で計測したものを物理学者は周波数と名付けています。

宇宙万物本来の振動は、喜びと安心に満ち慈しみと愛、そして常に進化し創造する無限の力を秘めた律動を奏でています。インスピレーション、啓示を受けた宗教者などは、その振動を神、仏などと、地球の言葉を使って名付けました。名付ける前から、その振動そのものは無始無終の在り方で存在し、今この瞬間も振動していますが見ることも感じることもできません。

宇宙のあらゆる存在は周波数でかたちが決まり、それぞれが固有の周波数を奏でています。天にも昇る喜びの周波数もあれば、地の底に閉じ込められる苦しみの周波数もあります。動物も、その個に応じた周波数を出しています。人は通常は穏やかな周波数を出しています。それが人間界の特徴の一つとも言われています。

人面を持ちながら、弱い者をいじめ支配し、強いものにこびへつらう動物以下の周波数が基本になっている人もいます。人の発する周波数は言葉や外面で操作することはできません、心が澄んだ人は、他者の周波数を直感で正しく感じとり、その心を見ぬくことができます。

例えば光は二つの側面を持っています。それは粒子と波という二面です。以下は私の仮説ですが、人間の心の表現としての意識は、言葉・イメージと気分感情いう二側面があります。言葉・イメージは粒子であり、気分感情は波に譬えられます。人間の意識表現としての言葉は感情・気分という波動性をもっていると推測でき、そこに人の周波数の秘密が潜在しています。

生物・人間の波動・周波数の種類は八万四千波(覚者、ブッタの悟り)と言われています。それを解明すれば、不可思議な周波数の問いや喜びの周波数のなぞは解けるでしょう。

この地球上、そして宇宙には生物、無生物、物質、塵などあらゆる存在、見えないが存在しているものなどが発する様々な波、光、闇波、電磁波、声、声なき声などが飛び交い無数の周波数に満ちています。

最新の量子力学などで、素粒子の世界や動きから周波数の一部は解析できている部分もありますが、ごく一部であり、ほとんどが闇の中です。あらゆる生物、物体、人間や動物も固有の周波数を出しているからです。しかもそれが固定的なものではなく、絶えず変化し、相関性の原理で生起しているのが真相だから分析できないのです。(最新の光の二重スリット実験の結果など)その意味では素粒子の究極の世界と似ています。

つまり宇宙の物体は周波数によってかたちができ、その周波数も刻々と変化し、相関性(縁起)で成り立っているということです。

あなたは、今の瞬間、あなた独自の周波数を出して生きています。しかも刻々と、対境(縁)によって変化する周波数なのです。その周波数の持ち主は、この宇宙であなたしかいません。持ち主のあなた自身の各細胞が発する周波数の組織化された総合波を瞬間にあなたの意識が感知しているに過ぎません。細胞は30数兆個(正確な数はつかめていない)あります。人間も動物も植物も地球も太陽も、みんな独自の周波数を出しています。

波動を高めるとか運気をあげるとか、周波数を合わせるとかいっても、宇宙、生命の真実相がわからないと、どこに周波数を合わせるかさえわかりません。指標なき盲目の方向は危険です。苦海行きの周波数や人をだまし(グルーミングなどの優しい言動など)苦しみを誘う周波数で満ちているのが地球世界の真実相です。心が濁っていると、見る目が曇り、真実が見抜けなくなり、偽物を本物と見てしまいます。結果、不幸な人生をさまようことになります。

見えない世界をあつかう、宗教やスピリチュアル系や思想・考え方の怖さはそこにあります。今、問題になっている宗教がそのよい例です。そもそもお金や営利の心がある人や団体には気を付けなくてはいけません。正しい思想の人は、お金や名声名誉を求めず真実の探求を第一に誠実に生きています。なぜなら真実の探求と悟りで心が喜びと充実感に満ちているからです。

周波数の解明は宇宙すべての生命現象の解明なくしては分からない難問です。生命の真実相を求めてこの地球では有史以来あらゆる聖人、賢人、物理学者、数学者、医学者、哲学者、思想家、宗教者が格闘してきました。そして到達した世界を書物や対話などで残してきました。その数は膨大であり、一生かけても探究できません。

最も生命の真実に迫った人たちは2500年前ぐらいのインドに端を発しているようです。自分のすべてをかけて生命の真実に迫ろうとしていました。世俗の欲を絶って生命の真実と格闘しました。その代表が釈尊・ブッタ(ブッタとは生命の真理を悟った人との意味)とも言われている)です。

五欲(眼・耳、舌・鼻・身が感じる快感)は、どうしても過剰が止まらず、生命の濁りをもたらします。その濁りを浄化しないと、本来的清浄の自己に冥合できないからです。五感覚がもたらす快不快、好き嫌い、他者支配欲や承認欲などを基本にした生きるため生命に本来的に具わっている本能的智慧は抑制する目ことが難しいようです。

生命の欲がもたらす必然的な濁りを浄化するのが釈尊をはじめとした修行者の課題でした。具体的には生きものを殺さない、肉食しない、妻帯しない、他者を傷つけたり支配したりしない、悪口を言わない、ウソをつかないなどの正しい行いをすること(釈尊は八正道を説いた)で生命の濁りをコントロールしようとしました。欲望・便利社会を生きる現代人には、とても不可能な実践です。

ブッタとは、生命の覚者、宇宙の真実相の覚者と言われています。知的理解では到達できないのです。知識は生命の一部しか理解できません。ブッタの悟りは直観智であり、生命全体で識ることでした。それは心身全体をかけた実践・修行のなかで意識を浄化する果てに訪れる生命の直観知なのです。

欲望に染まった生命を浄化することによって、本来の純粋な自己が発する周波数にはじめて冥合が可能になります。本来の自己つまり宇宙本来の自己の周波数は、万物を創造し育み慈しむ慈悲・愛の音律であり波であり光なのです。慈悲の実践者にして初めて可能になります。

欧米世界やイスラム世界では、その存在を神と命名し、人間世界のはるかかなたに祭り上げ、その存在の探求や思考をやめ、崇め信じることを第一義にしてしまいました。

最高の周波数に合わせて生きるためには、覚者・釈尊の通った道に学び、その言葉を師標として修行実践するしかありません。万物本来の歓喜の周波数は、その師標に基づいた実践体得の中に脈打ちます。言葉では表現できない不可思議な因果俱時の音律がもたらす周波数です。

◎当室は宗教団体とは一切関係ありません。室長は20歳の頃から、哲学、倫理学、思想、芸術、文学、天文物理学、生物学、孔子の教え、老子の教え、キリスト教、仏教を学び、研究してきました。最近は特に量子力学・諸科学・人体学と妙法蓮華経(釈尊・天台智顗・最澄・日蓮の流れと竜樹・天親の空や縁起、唯識思想)の相関性について研究し、当室の心理療法への応用展開を探索しています。

スピリチュアルや霊的なものは、オウム真理教、統一協会の霊的な世界の二番煎じで、科学性に乏しく、行き着く先にあるものは不幸に染まった人生行路です。

2024.12.08

心は見えません。そこに心に関係する霊的なものや、妖しい宗教が、心が揺れて不安定な人に甘美な声で囁きます。「幸せになれます、運気が上がります、幸福の波動を教えます、運命が変わります、お金持ちになります、苦しみの原因をとりのぞけます、第六感が冴え幸運を呼び寄せます」などなど、見えない世界のことだけに、どんな虚言も作り話も本当らしく聞こえます。

この世の物質やものの多くは、分析でき科学の対象になります。しかし心や内的な世界や不思議な働きは把握が困難です。そこに作り話が入り込む余地があり、迷信、邪な教、偏った思想、魂や霊を扱うスピリチュアルなものが、手っ取り早い金儲けの道具と化します。

特に、スピリチュアルとカタカナ(欧米風)を使えば、アカデミックな印象を与え、曖昧模糊とした世界が、神秘さを増し、無知の彷徨える魂をひきつけます。昔の占いや迷信と紙一重とも知らずに…。

無知で不平不満が強く、愛情希求の心が強く、心が不安定で弱い人ほど、その蜜の甘さに騙されやすくなり、すぐに信じてしまいます。やがて毒が回り、思考することを忘れ、主観世界に埋没し、飛んで火に入る夏の虫のように、この世の地獄を見ることになります。

なぜなら生命の部分観しかあつかっていないものを生命の全体を扱っていると決めつける自己背信の過ちを犯しているからです。生命の部分観は部分観として見るなら問題はありませんが、部分を全体と見て信じてしまえば、生命の真理に到達できず、価値は生れないどころか、反価値的(不幸)現象を産むことになります。本当の幸福は、生命の真理を解明した全体観に則っとった法に生きる中にあるからです。

そもそも第六感やインスピレーションという言葉の曖昧さです。通常動物は人間を含め、五感(眼・耳・舌・鼻・身)で外の世界を識り、意識という第六感のインスピレーションで行動化します。この六番目の意識こそ、第六感・インスピレーションの正体です。意識は、現在の脳科学でも分析できていない謎の領域です。この能力は昆虫や鳥類や動物は特に優れており、人間はこれらの動物の第六感には及びません。

一番怖い存在は、殺人者、強盗者、詐欺者、猛毒の蛇コブラなどよりも心や魂を麻痺させる思想や言葉、そしてそれらをうまく操り人の善心を破り、思考の中心である意識を麻痺させる人たちです。身体だけでなく心、そして生命の核を破壊されるからです。覚者ブッタは、そのような人を奪命的存在と呼び、明らかに見わけ、遠ざけるように警告しました。

神のお告げを聞いた、霊的世界に感応した、テレパーシーを感じた、神のご神託があった、啓示を受けた。多くの邪な教祖の口癖でした。お告げも啓示も他の人には見えません。本人の主観世界であり、夢の世界であり、独善の世界です。

意識は、人間の心のごく一部の働きに過ぎません。人間の心には、意識の深層に広大な無意識世界があるとされ、フロイトやユングがその一部を実証しています。仏教では、既に2500年前にの世界を覚知しています。(注1)第七感(七識…自我に執着する世界、自己愛といってもよい)、第八感(八識…行動がすべて記憶化された蔵のような世界で業の蔵といい、サンスクリット語でカルマという)、第九感(九識…宇宙意識、自己と宇宙万物が根底で融合渾然一体となった世界)というすべての個や宇宙万物につながる広大な世界で、その働きはエネルギー不滅の法則のように無始無終と聖人は覚知された世界。

先人の言葉の蓄積された宝庫もなく、論理性や哲学性に乏しく、科学的実証性は皆無です。それをまことしやかに語り、邪な教えは広がります。彼らは甘美な響きがある魔性の言葉を巧みに駆使することに長けています。彼らは、信じる人が不幸になっても貧乏になっても病になっても、決して責任を取ることはしません。信じたあなたの信念が足りないのが原因だと開き直ります。

このような教祖まがいの人の言動を受け入れ、信じる民衆はいつの時代もいました。そして今の時代は、なおいっそう多くの人たちが惹かれてゆきます。時代が濁り、生命が弱り、不安が広がり、心の不幸が充満し、満たされない多くの人に溢れ、皮相や軽薄を好み、本物を嫌う民衆に満ちた時代だからです。さらに気候変動などの天変地異、各地で起きている紛争、戦争がそれに拍車をかけています。

「宗教は民衆のアヘン」といったカール・マルクスの言葉は有名です。彼は宗教(思想)のすべてをアヘンといったわけではなく、当時の倒錯した社会がつくった、当時のキリスト教思想を批判したものでした。多くの民衆を思考麻痺に導いた宗教思想をアヘンと言ったのです。人はだれしも、それなりの思想をもち思想を頼りに生きているからです。

最近ではオーム真理教の教祖がその類でした。空中浮遊という現象に多くの人が霊的なものを感じたと言われています。空中浮遊することが出来ても、現実の中で価値は生れませんし、幸福にもなれません。鳥やトンボやセミのほうがよほど超能力者といってよいと思います。

人の不幸を予言し、仮にそれが的中しても、何の価値も生じません。幸福の道を示し、現実的に幸福になれるなら、その教えは本物といってよいでしょう。その教えの実践で、どのくらいの人が幸福になったのかが科学的実証性というのです。それがない教えは迷信であり、地獄行きの思想といってよいでしょう。

一万メートルの上空を流れる時速300㌔のジェット気流を感知し、その流れに乗って遠くまで移動するコハクチョウは、そのことを本能的に知っています。まさに超能力者です。人間は、こうした動物や昆虫の超能力に遠く及びません。

人間(生物)には五つの眼(注2)があるとされています。肉眼は、遮るものがあれば見えなくなる人間の普通の眼です。二つ目に天眼があります。天眼は、昼夜遠近を問わず見ることが出来る天人の眼で、禅定(瞑想)を修した人が得る眼です。

釈尊の十大弟子の一人、目連は天眼第一と言われていたそうです。母が死後、地下深くにある餓鬼の世界に堕ちて食べ物もなく苦しんでいる姿を見たとされています。その母を救う行為から盆の食べ物の供養が始まったそうです。その他、(注1)慧眼、法眼、仏眼があります。

歴史上、精神世界、心の世界を高め人々の幸福に無私無償で尽くした人がいました。インドの釈尊、ユダヤのイエス・キリスト、多くの仏教継承者(竜樹菩薩、天親菩薩、弥勒菩薩、天台智顗、最澄、日蓮など)老子、孔子など…最近では、ヘレンケラーなど、いずれも結婚せず、世俗的なもの(お金、財宝、地位や名誉、人気など)を求めず、布施などで質素な生活をしていました。その姿そのものが本物の魂の救済者の証拠といえます。

彼らは聖者・聖人・賢人と言われ、一生をかけて、見えない心の世界、生命や正しい生き方を探究し、苦悩する人たちの救済や幸福実現のために命を賭けた人たちです。そして、不思議な生命そのもの(一端)を悟ったと言われています。

現代の霊者やスピリチャル系の人たちが、果たして世俗の欲を離れ、結婚もせず、名声、財物お金を求めずひたら、悩み苦しむ人に尽くしていく行動者を私は見たことがありません。こうした人たちには哲学や精緻な論理性や言行一致の思想がなく自己中心性(私利私欲)を脱し切れていない人の証拠です。

現代の物理天文学の最先端である量子力学は釈尊や天台智顗の生命の理論(注2)や因果、不可思議な法を証明しつつあります。光が波と粒子の二面性をもつことが明かされました。また全ての物質は周波数でかたちが決まるということも証明されつつあります。塵も石も生物も空気も粒子であり波であるということです。私たち人間と動物の違いは、量子力学的観点から言うと、周波数の違いということになります。

人体の細胞も光子(注3)を出しています。また粒子と波を持った存在です。やがて意識が光の一部であるということも証明されるでしょう。私は、意識は言葉と感情で成り立ち、意識は光であり、言葉やイメージは粒子であり、感情は波であるとの仮説をもち、日々思索と検証を繰り返しています。

「我思うゆえに我あり」近代合理主義思想の基盤を作ったとされるデカルトの有名な言葉です。確かに意識なしに私たちは、生きていることも周囲のものを認識することもできません。意識つまり認知機能がなくなった重度の認知症を患った方は、自分が何者かが分からなくなりますし、周囲を認知することが難しくなります。

認知機能の中心である意識の正体こそ、心の不思議さを説く鍵だと言われています。今、その世界に最も接近した科学は量子力学とされていますが、2500年前にブッタは既に、それを覚知されていたことが証明されつつあります。

人間、あらゆる生物、かたちを持った万物は、かたちに応じた周波数をもっています。それらの生物の周囲に存在するものも周波数を奏でながら振動しているというのが聖人の悟りであり、量子力学が遅まきながら辿りついた発見なのです。

正統派仏教の哲学思想にある、「縁起」(注4)や「空」の思想、瞬間の生命は「10世界の境界」を持ちながら常に「生死」を繰り返し、「空」で無のようなかたちで潜在したものが「縁」で有のかたちに生起すること、すべては生死

を繰り返しながら変化していることなど膨大な哲学理論を持っています。

今のスピリチャルや霊能者、偏頗な部分観の宗教は、仏教の深遠な哲学のごく一部を利用し、金儲けにつなげている人たちと言えるでしょう。

何も考えず 権威に従うことは 真実に対する 最大の敵である  アインシュタイン

※権威とは今で言えば、いわゆる専門家、宗教者、マスコミ、スマモ、ユーチューバ・SNSで発信するものなど

注1  人間の心の世界…眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識、根本常識の

  九つに理論体系している。

注2 五眼…仏教哲学の一つ、竜樹菩薩が大智度論で展開している。世界や宇宙や生命を把握・洞察する眼を五つに分けている、いわゆる肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼がある。

慧眼は、深い知識を持ち、想像力を研ぎ澄ますことによって宇宙や物理現象の一部を悟る眼、ニュートンの万有引力やアインシュタインの相対性理論、ノーベル賞受賞者の発見などがこれにあたる。

法眼は人々を救済するために、宇宙や自然や生命の真理から一切の事物・事象を判断する菩薩の眼。弥勒菩薩、観世音菩薩、普賢菩薩、薬王菩薩、文殊菩薩、その他、イエスキリスト、ガンジー、ナイチンゲール、ヘレンケラー(サリバン女史)などに具足していた眼と考えられる。

仏眼は一切の事象や事物を三世十方…過去・現在・未来、生命現象の永遠性と宇宙の無限性を見る仏の眼。妙法蓮華経という宇宙の実相を覚知した生命に具わる眼。釈尊は仏教の流れを1000年単位で予言。

正法時代1000年(解脱の時代、禅定瞑想の時代・像法時代1000年、仏教の経典を書写したり読誦したりする時代、多くのお寺が造られる時代、末法時代、未来永遠、思想や宗教が乱立し、深い思想を嫌がり浅い思想を好む人たちが生まれてくる時代であり、釈尊の仏法では救われない民衆が生まれてくるとされている。そんな中、釈尊の仏法に替わる新しい法が流布する時代と立て分け、どんな仏教が流布し、民衆がどのような行動をするか予言し的中させている。

また天台智顗や最澄も末法の仏教流布の流れを予言し的中させている。日蓮も、天変地異の起きる原因を洞察し、元寇襲来の時期を予言し的中させている。聖人(サ・ダルマ・プンダリキャ・スートラというサンスクリット語を漢訳した妙法蓮華経…始めもなければ終わりもない、無始無終の因果俱時不思議の一法を覚知された行者)は、仏教史上で四人いるとされている。釈尊、天台智顗、最澄、日蓮。それに近い人では竜樹菩薩、天親菩薩(空の思想、唯識思想を完成させた)などがいるとされている。

※注4「縁起」「空」「10世界の境界」「生死」「縁起で生起」…いずれも深遠な仏教哲学思想の根幹をなす言葉。釈尊に始まり、付法蔵の正師に継承され、竜樹・天親を経て天台智顗で一念三千理論(瞬間の生命、一念は三千の生命の法則で成り立つ、宇宙も自然もあらゆる生物、無生物、存在するすべてのものは、一念三千の妙法蓮華経の生命現象と理論化した)として完成されたという仏法の深遠な理論体系。

文証(継承された文献・経典)・理証(空・唯識・一念三千理論などの科学的知見を備えた理論)・現証(実践すれば、効果的な結果が出る、六根(眼・耳・舌・鼻・身・意)が清浄化され、生きる歓喜が湧き起こり幸福になる)を兼ね備えた完全な法体系で科学的である。

量子力学の発見が、これらの言葉の意味する世界を証明しつつあるとされている。霊的なもの、スピリチャル系には、科学的裏付けがない。主観の世界観で閉じている。科学性の有無は実証性にある。仮にある宗教思想や哲学思想を実行した結果、全員が幸福になったかどうかが証拠になる。

◎当室は宗教団体とは一切関係ありません。室長は20歳の頃から、哲学、倫理学、思想、芸術、文学、天文物理学、生物学、孔子の教え、老子の教え、キリスト教、仏教を学び、研究してきました。最近は特に量子力学・諸科学・人体学と妙法蓮華経(釈尊・天台智顗・最澄・日蓮の流れと竜樹・天親の空や縁起、唯識思想)の相関性について研究し、心理療法への応用展開を模索しています。

 偽物が氾濫する現代社会 偽物はマスコミ・SNSを巧みに使い、人々の甘心を誘い、思考を停止させ、善心を破っていく

2024.11.29

生きる、それは五感覚の働きに支えられています。中でも危険から身を守り、生を保つ行動に一番重きをなしているのが、視覚です。

私たちは記憶化された感覚情報をもとに反応し、多くの場合、思考することもなく刺激に応答して脳内で生起する言葉によって反応し生きています。

スマホ、パソコン、テレビに溢れる視聴覚情報を頼りに、思考という検閲もせず、盲信して生きています。便利であり、効率もよいからです。それが脳の働きの一面とも言われています。

テレビのコマーシャルはそうした人間の盲点を突き、ものを売っています。多くのテレビ番組やユーチューブは視聴率や再生回数に血道をあげます。刺激的で、記憶に残るように操作し、見る人の視聴覚に焼き付けようとします。

真実は二の次です。発信した視覚情報によって、人が不幸になろうと、悪に走ろうと関係ありません。視聴されることが大事であり、視聴覚に強い刺激を与え、視聴率をあげる、再生回数の多さが一番なのです。発信者の利益、つまり金儲けになるからです。

刺激的視聴覚情報は記憶に深く入り、次の行動を左右します。思考は停止し、過去の記憶化された視聴覚情報で無意識的判断をし行動するようになります。一種の自動操作状態です。洗脳状態とも言えます。

こうして無知な人は増産され、思考停止する人は増え、マスコミという得体の知れない権力の奴隷になっていきます。一種のプロガバンダのようなものです。日本人の大半は、スマホ依存、ユーチューブ依存、テレビ依存、視覚情報依存となり思考停止状態になり、洗脳されつつあります。その先に待っているのは、不幸な人生行路です。

人は悩み、思考し、より価値のある生き方をすることによって充実した深い人生を生きるようになります。多くの偉人が教えてくれているように、幸福は与えられるものではなく、自分で創り出すものなのです。

本物を探し、本物に学び、本物を摂りいれることです。過去にはそうした本物の偉人がたくさんいました。ソクラテス、アリストテレス、イエスキリスト、釈尊、竜樹・天親菩薩、天台智顗、最澄、老子、孔子、日蓮、レオナルド・ダビィンチ、ベルグソン、トルストイ、アインシュタイン、ニコラテスラ、ナイチンゲール、ヘレンケラー、野口英世、優れた文学・芸術作品など…歴史を紐解けば多くの偉人・賢人・書物や作品に出会えます。そこにはハウトウーものの軽薄(一時的流行品で、時間とともに消えていく)ものではなく、人生を賭け築いた心の宝が潜んで心の栄養になるでしょう。

不登校・ひきこもりの増加は 大人社会が作っています  

2024.11.20

マスコミで不登校の増加を騒ぐ前に、大人がしなければいけないことは、時代はいつも大人が中心になって作っていると言うことを自覚することです。不登校・引きこもりの減少を本当に願うなら、今の社会を深く洞察することです。今の社会や学校が子どもの心を成長する場になっているかどうかです。子どもの成長に貢献する教育や学校や社会になっているのか、専門家や政治家は深く賢い知見で、自らの私利私欲を見つめ世相を見極めることです。

不登校児の心理と大人の引きこもり、適応障害などの心の不調者には共通点があります。私たち人間は、環境の中で生を営んでいます。環境と自分は相互に影響し合い、持ちつ持たれつの相互関係で保たれています。私たちが、今どんな環境に生きているのかを知ることで、心の不調を健康にすることができるようになります。不登校の心理は、大人の心の不調者の心理と同じといってもよいと思います。同じ社会環境に生きていれば当然と言えば当然なのですが…。

 最近の調査によると、精神疾患者は419万人、ひきこもり者は146万人、不登校者は年々増加し小中で約34万人、小中発達障害8,8%(令和4年文科省調査)。少子化にもかかわらず、若者の精神疾患者は増え、引きこもりは増加、不登校も増加の一途をたどっています。

これは身体の病気も同じです。癌患者は2人に1人であり、認知症は高齢者の4人に1人、アトピー患者、アレルギー患者、糖尿病、各種難病等は年々、増加しています。感染症はウイルスや菌がもたらす一時的な疾病ですが、その他の身体病は、本人の生き方や社会環境と大きな関連があります。

今や、癌やうつなどは生活習慣病などと言われるようになりました。つまり本人の生き方、考え方、行動の仕方が病気を作っといるとする考え方です。

一体、何が原因なのでしょうか。

 健全な社会は、心の不調者を出さない予防に力を入れた、健康社会を目指すものです。政治家は、口を開けば「経済、経済」そして「福祉」です。あたかも経済が豊かになり、お金があれば、心の病も解消でき、健康な社会が到来するような口調です。このような政治家や専門家に、疑いを持つこともなく従う国民が、病を増産させている一因と思います。

 二つ目の原因は軽薄、表面的なもうけ主義に偏った無責任な情報の氾濫です。そうした情報は何の規制もなく一方的に流布されます。受け取る側が、よほど賢く見極めなければ情報に翻弄されます。情報の真偽が分からず刺激的な情報に踊らされ、洗脳されています。視・聴覚優位な生き方にさせられ、気付かないうちに想像力や思考力は低下していきます。

 なかんずく、テレビやスマホは人間の最も弱点ともいえる視覚に訴え、巧みに人間を操作します。人間は視覚情報に本能的に弱く敏感に反応しますから思考が麻痺する部分があります。怖いのは、操作されていることすら感じないことです。情報を受動的に受信することに慣れ、疑うことをやめることは、思考の死につながります。それに気づいていないことが一番の問題なのです。

 スマホ・ユーチューブから繰りだされる視覚情報の洪水は、感覚過敏をもたらし、強いストレス源になっていることに気づいていません。それらの氾濫情報は私たちの感覚受容力をはるかに超え、強いストレス状態に置かれていることを私たちは意識できていません。なぜ、すぐイライラするのか、不満になるのか、傷つくのかわかっていません。まさかスマホ・パソコン・テレビなどの過剰な視覚聴覚情報の摂取に原因があるとは思いもよらないと思います。 

 三つ目は快楽・刹那主義、便利こそ豊かさという欲望の偏向や錯覚です。気持ちよさを求めれば求めるほど、不快に耐えられなくなります。便利さに慣れればなれるほど、不便に対して不満を感じるようになります。便利さが普通になると、この世の自然の現象や生きていることの「有りがたさ」が分からなくなり、心身の秩序を知らず知らずに失い、心の不調の原因を作ることになります。便利さは、当たり前感覚を強め、少しの不便に出会うとイライラしたり、不満を感じたり、怒ったりして、心の状態を悪くしていきます。

 便利さや物質的豊かさの過度の追究は、恐ろしいことに自然の加工や破壊をもたらし、病める地球を作り出しています。自然や地球秩序の破壊は、地上に住む生物、人間の心身の秩序の破壊を伴います。なぜなら人間も自然の一部だからです。地球自然との絶妙な調和、秩序の中で人間も、その恩恵を受けて生きているからです。自然や地球や宇宙の恩恵さえ感じない人間の当たり前と思う心が、人間の不幸の源泉かもしれません。 

 依存心の強さが専門家を信じさせ、確かめることもしない愚かさが、心の不調者を増加させている最大の原因ではないでしょうか。真実に対する無知は不幸の原因です。賢くならなければだまされていることすら気づかず、いつしか不幸に沈むことになります。私たち一人一人が賢くなることこそが重要です。ギリシヤの哲学者ソクラテスの「無知の知…正しいことを何も知っていないということを知りなさい」「汝自身を知れ…本当のあなたの素晴らしさを知れ」という言葉を今こそかみしめるときです。

何も考えず 権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である  アインシュタイン博士