相談室(ブログ)

不登校が私の人生を大きく開いた

2023.05.23

 私は人生で多くの失敗をしてきました。その一つが二度の不登校経験です。一回目の不登校は、小学校時代でした。
 3年生から5年生の終わりまで、一日も登校していません。学校に行かず、川、山、畑、野原、村、街、市場、海など何かありそうなところを毎日のように兄弟で放浪していました。食べ物と遊び場を求めて。
 
 私の母親は6歳で亡くなりました。残された父親と6人の兄弟での生活が始まりました。母親が死んだとき、長男小3、次男小2、私は三男で小1、四男の弟5歳、妹は3歳、2歳。父親は大工で、毎日のように酒を飲み、家に寄り付かず、今で言えば、子どもの養育放棄でした。家には食べ物が徐々になくなっていきました。布団も破れ、やがてなくなりました。火も電気もやがてなくなりました。残ったのは、ぼろぼろの夜は真っ暗になる家だけでした。服も夏冬兼用のぼろぼろ、靴は劣化し破れ、履けなくなるとと裸足で歩いていました。いつも下を見て歩いていました。5円や10円玉が落ちていないかと探しながら…。

 私たち兄弟は、「汚い」とか「ほいとの子」(乞食の子という意味)と、地域の人に罵られ、バカにされるようになっていたのです。それは、とても嫌なことで、心は傷付きましたが、どうすることもできませんでした。大人の人間の心に敏感になり、心が優しい人の見わけがつくようになったのも、そのころからです。
 
 家は、いつしか不良中学生数名が自由に出入りするたまり場になり、荒らされました。保護者の父親が家に帰ってこないからです。不良中学生は私たち兄弟を、使い走りにしたり、遊びのおもちゃにしたり、奴隷のように扱い、ひどい虐待や暴力を振るい、「学校に行くな」と命令され、何日も休むことを強制したのです。それがきっかけで、長い不登校生活が始まりました。不登校が 3年を経過したころ、地域の人たちの働きかけで、私たち男兄弟は、養護施設に収容されました。私は、そこで、よい保母さんや、信頼できる中学校の担任の先生に出会い、勉強や読書の楽しさに目を開いていきました。その勉強法や読書が、生涯の基礎になり、後年の自学・独学を可能にしてくれました。
 
 二回目の不登校は、高校2年のときです。70日間の不登校生活の結果、中退を余儀なくされたことです。当時バイクの好きな友達と学校を休み、あらゆるところを暴走していました。中退後は家を追い出され、単身で東京に出て、牛乳配達をしながら、定時制高校に編入しました。そこで、素晴らしい人生の先輩に出会い、哲学や本当の学問とは何かを啓蒙されたのです。生き方が変ったのは、その時からです。
 
 人生は面白いものです。そんな私が中学教師になり、生徒指導担当になったりしました。不登校、退学、非行少年が、中学校の生徒指導教師になるなんて、夢にも思っていませんでした。教員離職後は臨床心理士・公認心理師資格を活かし、心理カウンセラーの仕事をさせてもらい、不登校児童生徒や問題を持つ人たちにかかわっています。人生は本当に不思議なものですね。
「人生塞翁が馬」ともいえます。(松岡敏勝著「失敗もいいものだよ」自伝的小説 文芸社に詳細記載 )
 

医師を信じて20年間苦しみ、自らの無知の怖さを知る

2023.05.17

 今日まで多くの失敗をしてきましたが、その中でも20年近く私が苦しめられた失敗体験を以下に述べてみます。
 多くの人の不幸は一面から言えば、無知から起きていると言えます。その一つが、専門家ということで、確かめもせず盲信してしまうことです。特に怖いのは、命にかかわる専門家…医師への盲信です。全ての医師が正しい診断をし、正しい処方をしていると思ったら痛い目にあうことになります。
 
 私はかつて、運動中に足首を傷め7度の手術をした経験があります。最初の診断をした整形外科の町医者は私に対して「たいしたことはありません。普段通り運動してもいいですよ」と言いました。それで、単純な私は、専門家の医師が間違えるはずはないと信じ、言われた通り運動を続けていたら、足首は大きく腫れ徐々に歩行困難になっていきました。
 
 その間、整骨院などで数カ所の診療所で治療を受けましたが、悪化するばかりでした。そこで九州で有名な整形外科をもつ大病院で診察をしてもらいました。すると、そこの整形外科医は『治療法はありません。やがて歩けなくなるでしょう』との絶望的な言葉を私に投げかけのです。私は、有名な病院の医師の言葉だから正しいのだろうとその見立てを受け入れ、その医師の言葉の暗示にかかったように、やがて本当に歩けなくなり、松葉杖生活になってしまいました。「仕事ができない、経済的に家族を養なっていけなくなる」という人生の大きな危機に瀕し地獄を彷徨う日々が続きました。初診の町医者の誤診に始まり、次の医師の見立てと処置の悪さが重なり、脚の痛み、歩行困難という苦しみは既に10年近くになっていました。
 
 医師は医師免許を持った専門家だから間違いないと思っていた私の安易な盲信に近い考えは間違いであると、その時に気づいたのですが、既に時遅しでした。人は失敗から一番多くを学ぶと言いますが、その通りでした。医師の診察、診断が人生を大きく変えてしまうことを骨身に染みて知った辛く苦しい経験でした。

 苦しむのはいつも患者であり、診察診断した医者は、誤診であったとしても、責任をとることもありません。不幸に泣くのは患者なのです。だからこそ愚かであってはならないのです。賢明さが必要なのです。
 
 話は戻りますが、当時の私は「藁をもすがる思い」で必死に、いろんな人に聞いて回り、情報を集めました。生き続けなければならなかったからです。特に家族を守るために、治療をしてくれる医師を探し回りました。ある人の紹介で、整形の名医に出会い診断してもらったところ、「大丈夫、歩けるようになりますと関節固定術」を勧められました。名医と評判の医師でしたが、途中誤診もありました。患者の私の症状の報告と申し出を受け入れてくれ結果、MRIでの撮影が正確な診断に結びつき、間違った手術を回避することができたのです。最終的には、その医師の六度の手術で痛みなく歩けるようになりました。
 20年間苦しんだ、歩行に伴う痛みはなくなりました。走ったり、膝を深く曲げたりはできませんが、運動は50%できる状態に戻りました。痛みなく歩けることの素晴らしさを感謝できるようになりました。この足に対する長年の苦悩が私の身体に対する傲慢さを少し浄化してくれたようです。

 この時私が知ったことは、患者も医師であるということでした。私こそが脚の痛み、痛みと全身の関係などの症状を熟知していたからです。その報告を参考にしてくれた整形の医師こそ名医たる所以であったと私は思っています。患者に学べる謙虚さを持った医師こそ、名医の条件の一つではないでしょうか。

外科や内科にはレントゲンやMRIなどの最先端の科学的な武器があり、さらに各種の検査があります。それでも誤診は少なくないと言われています。
 心の不可思議な世界を扱う精神科には最先端の科学的な武器は何一つないのです。どのように診断するのでしょうか。ある著名な医科学の大家は「心理的な事柄の多くが科学的に解明されていない以上、診断することに無理がある。似たような症状群に対処するしかない」という趣旨のことを述べています。つまり心理的原因は分かっていないのです。わかっているのは患者の症状だけなのです。
 
 医師の評価は、最終的に実際に何人の患者を治したかで決まります。病院設備がきれいとか、評判がよいとか、○○大医学部出身、専門指定医とか、博士号とか外国留学の経験とか、著名な人に師事していたとか、ホームページや宣伝がいいとか、口コミにいいことを書いているとか、別問題です。大事なのは優れた技術を持ち、見立ての正確さがあり、現実に何人の人を治したのか、それが全てです。
 これは、心理士やカウンセラーも同じであり、すべての専門家に当てはまる真実だと私は思っています。
日本人は昔から権威(専門家)に弱く、権威(専門家)に盲信する傾向を持っています。「お上の言うことは絶対」などと。そうした風土の中で生きているからこそ、権威や専門家を正確に見る目を養わないと私のように苦しむことになります。
 
 専門家を盲信せず、自分の目で確かめ、丁寧に吟味し学ぶ賢明さが必要です。最終的に苦しむのは患者なのですから。 
 

人間の行動の99%は潜在意識の働きです。今の瞬間に意識を集中し目的を持って生きることで充実した人生になっていきます。

2023.05.16

私たちは常日頃、生きているということを実感しないまま、無意識に習慣的に惰性で行動しています。
私たちが意識しなくても、体の99%の機能は自動操作状態で、無意識で動いています。脳の活動、呼吸、各神経機能、血液の全身の循環、内臓の消化、吸収、代謝活動など、意識していませんが人の生を保つために、一瞬も休む間もなく活動しているのです。
 
 しかも絶妙に調和され、秩序を保っています。そうした身体の不思議な働きに対して、当たり前のように思い、不可思議な働きに対して敬虔な心を忘れて生きていることから多くの不調和状態が生まれています。心身の病の大半は、不調和状態の産物なのです。私たちが意識しているのは、生命活動の一部にすぎないにも関わらず、全体を見ることもなく、意識という一部で突っ走り、バランスを無視したような行動になっており、そこから多くの病も起きていると言えます。
 
 健康状態は、自己の全体につながり、調和のとれた意識活動から創り出されます。心身の健康は、自らの本当の在り方を知ることから始まります。

不登校や引きこもりは生き続けるためのやむにやまれぬ行動なのです

2023.05.11

 人は昔から一人では生きることができない生き物です。拠り所となる集団に所属することで身を保ち、安心を得ることができます。それは集団が命を守ってくれるということを本能的に知っているからです。その場は家庭であり親です。無条件の愛情と言う保護があり、世界で最も安心できる場であり、安全基地なのです。
 
 今の子どは、早ければ1歳前から、幼稚園や保育園に行かされる子もいます。そうした外の集団は、もともと自分の身を安全に守れる場ではありません。子どもなりに、無意識の中で目に見えない多くの脅威に対しての戦いをしています。意識をこえた心身全体をかけた戦いで、神経を使っています。具体的には脅威に対して自律神経系の反応による『逃走か闘争』によって対処しようとしています。それは身を守り生き続けるため本能的な自然の働きです。それはかなりのエネルギーを必要とします。学校や会社の中で安定を保つことに、意識、無意識を含めた人の持つ総合的な力が使われているのです。
 
 うまく対処できると軌道に乗ったように、習慣の力(無意識的な力)で集団になじむ(適応する)ことができるようになります。しかし新たな脅威を感じること(いじめ、仲間はずしなど)が起きると、再び大きなエネルギーを使い、『逃走か闘争」かの選択の戦いが始まります。
 引きこもりや不登校は、闘争にエネルギーを消耗させ、『逃走』という自分を守るための生き残るための行動であり選択の結果なのです。
 
 では、その打開法はあるのでしょうか。
 もちろんあります。人間は可変性に富み、変化成長する種子を心の奥底に持っているからです。その打開の道は、人間の感情と行動の関係、心のありよう全体を知ることから始まります。つまり自分の本来の姿を知ることで解決できるようになります。本来の自分には想像もできない力があり、行き詰まりはありません。その力を引き出すことができれば、どんな場や環境に対しても対処していく力や勇気や智慧が出てきます。
 
  私の定義ですが、セルフとは意識する自我を含めた無意識に広がる自己のことです。換言すれば真実我とも本質我とも宇宙我とも表現できるものです。その自己(セルフ)を感じるとき、またはその自己にアクセスできるとき、癒し、勇気、智慧がふつふつと湧きあがり、あらゆる困難も乗り越えていくことができるようになります。人間の持つ潜在力は素晴らしいものがあるのです。

10人に1人が不安障害…自分の心身のからくりを知ることで不安は軽減されます

2023.05.10

 今やこどもから大人まで多くの人が不安を病んでいると言われています。10人に1人は不安障害といってよいかもしれません。なぜ、現代人は不安を増大させているのでしょうか。
 
 それは、意識という概念が分かっていないことから起きています。近代哲学の祖といわれるデカルトは「我思う故にわれあり」と人間存在の認識を意識している自己にあるとしました。しかし、その意識の実態は科学で検証されず、曖昧なままなのです。
 
 意識する自己を把握するには、内省の哲学が必要になります。しかし、現代人の目は外に向き、心を見ようしていません。内面の心の働きを省察せず、外の心地よい刺激を追いかけ続けています。おいしい食べ物、気に入った服や靴やカバンやアクセサリー、心地よい暮らし、好きな異性、車、家など。楽しめるスマホ、テレビ、ゲーム、推しやお気に入り。一日の苦しみを忘れさせるお酒など。目を内に向ける暇などないようです。心地よさの追求と不安の増大は比例しているようです。

 人間は、意識と意識できていないが存在している働きがあり、多くは無意識的存在に支えられているのです。意識と無意識の相互関係を知ることが不安の解明につながります。
 
 意識していることが私たちの全体ではなく、一部に過ぎないことが分かれば、不安は軽減していきます。それは哲学的実践で可能になります。

哲学は本当の自分を知る入口であり、深い人生につながります

2023.05.09

 哲学とは何か。それは自分とは何か、人生とは何か、心とは何かなどを思索し、探索し続ける実践活動です。自分を知ろうとせず、表面的なものに心を奪われ生きても人生の充実、深い喜びを感じることはできません。

 人間の目は、科学の進歩、経済的豊かさや物質主義がもたらす快楽、便利さに惑わされ、いつしか本然の生命のリズムから少しずつ外れていき、本物が見えなくなっているようです。それだけではなく、もっともこわいことは、全てが「あたりまえ」と思いこんでいる現代人の傲慢さです。
 今この瞬間地球上で生きていること、それは当たり前のことではないのです。大不思議なことなのです。地球が回っていることも当たり前なことではありません。不思議な生命的な働きなのです。地球の軌道が少しずれただけで大変なことになります。
 光、酸素、水、温度などがわずかでも変化すれば地上の生き物はたちまち病み、死滅の道になるかもしれません。私たちの体も絶妙な神秘的な働きで瞬間瞬間を生きています。それは当たり前ではないのです。不思議な働き支えられて生きているのです。人は病になったりして何かを失ったとき、その大切さを知り、有りがたさを知るというのが現代人のようです。それでは遅すぎます。もっと早く目覚めるべきではないでしょうか。

 本当の自分を知るためには、目を自分の心に向けなければいけません。本当の自分を知らずしては本当の幸福はありません。心の底からふつふつと湧きあがってくる歓喜こそ、本当の幸福の実感なのです。
 そこに到達するためには、哲学的実践が必要なのです。

心身の病を好転させるには、どうすればよいのですか…苦しみや痛みに学ぶことです

2023.05.08

 症状を好転させる上で重要なポイントは、自分の健康状態を良くするために何かをしようという心がけです。
症状を見つめ、ありのままの自分を受け入れる姿勢が大事です。症状自体に意識を向け、それを現実の体験として受け入れることが大切です。注意を集中するとは、今、現在の自分を受け入れることになります。痛み、恐怖、苦しみ、歓迎できない状況、全て拒否するのではなく、この症状や苦しみは自分に何を伝えようとしているのか、心や体のどんな状態を伝えようとしているのかと問い直してみることが大事です。
 
 健康状態を向上させるためには、自分が今いる場所から出発しなければいけません。症状や感情は心や体の状態のメッセージなのです。症状や苦しみは自分の一部です。症状と自分全体を同一視する態度を改めなければなりません。

 集中力を発揮すれば冷静に痛みや苦しみの感覚を観察できます。自分は自分が体験している感覚とは完全に切り離されているのです。痛みは私の痛みではなく、ただの痛みであり、痛みは想像の産物なのです。
 痛みや苦しみは体が送ってくるメッセジです。急性の痛みは、問題が起こっているから、そこに関心を向け状況を改善する行動を起こしなさいという警告なのです。

 痛みや苦しみは先生です。何度も失敗しながら私たちは安全に暮らす技術を体得します。人は何年もかかって体や心の痛みを体験しながら、世の中の事や自分の体や心について学んでいきます。痛みはいろんなことを教えてくれる先生なのです。人は病気になったり、失ったりして初めて有りがたさを感じるものなのかもしれません。

不登校児童は、なぜ増加するのか…科学や人間の生活は進歩し豊かになっているにもかかわらず…

2023.04.29

 60年前、昭和35年ごろ、どの学校にも不登校者はほとんどいませんでした。いたとしても、家が貧しくて家の仕事や子守のためか、病気のために学校を休んでいるのが理由でした。子どもの数は団塊世代と言われたように、中学校では、1クラス50名、一学年500名ぐらいは平均的に在籍していました。そんなに多くいたのに、今のようないじめも不登校もほとんどありませんでした。なぜ現在のようになったのでしょうか。

 昭和55年ころになると、小中高で非行が増加し、社会や親に反抗する形で子どもたちは、不満を発散していきました。当時の不登校者は、外を徘徊したり、遊び回ったりている子どもが圧倒的でした。
 平成になり、非行は徐々に減少し、外への反抗のエネルギーは個人の内面に向かっていきました。
 
 その間、世界・社会は科学の進歩の恩恵を受け、便利社会が出現し、人間は快楽志向となり、快適さ便利さ、スピード化が進みました。それにつれ、人間は不快や不満、遅さに耐えられなくなり、人間の大事な要素である忍耐力は減少していきました。
 
 科学の進歩、物質的豊かさと心の進歩は比例せず、むしろ反比例しています。精神不調者は増え、鬱、不安障害、適応障害、発達障害などバブルのように爆発的に増加し、精神科医療と製薬会社が大繁盛するようになり、心を病む人が増えていきます。ここにも情報化社会、コマーシャリズムの陰の部分があります。
 
 情報は個人で正邪が判断できないほど溢れ、テレビ、ゲーム、スマホに人間の頭はハッキングされているような観さえあります。人々は、自分で考えることをせず、受け身に情報にさらされ、判断は快不快が基準になっていっています。結果人間の大事な部分である自立心が弱くなり、依存性を強め、メンタルを限りなく弱めています。あたかも情報や快楽やお金やスマモにマインドコントロールされているようにも見えます。
 
 不登校は大人社会が作り出した産物なのです。子どもは未成熟であり、親や大人社会の中で模倣としての学びを続け、成熟していくからです。不登校を減少させるためには、迂遠に映るかもしれませんが、大人が生き方を変え、社会の在り方変えることが抜本的な解決になると思います。

不登校・ひきこもりの背後に不安が潜んでいます。それを自覚できれば解決に向かいます。

2023.04.28

 不登校の多くの背後に得体の知れない不安が存在しています。その不安の正体は、人間のよりよく生きたいという本能的な欲求であり、誰人もが持っているものであり、特別なものではありません。言葉を変えれば「適者生存」という人類古来の生き抜くためのギリギリの選択が不登校という形をとっていると言えます。

 不登校者にとって学校に行く事は得体の知れない不安との戦いになります。不安の強い中では、自分を守ることが精一杯であり、見えないものに対して無意識で構えているのです。いつ外敵から攻撃されるか分からないからです。みんなと一緒にいると自分も守られるという感覚が無意識にあるからです。そうした意識はしていないが確かに存在する所属感に伴う安心が薄れているところに不安は強まります。そうした所属に伴う安心がないと自分で自分を守ることが難しくなります。

 そうした得たいのしれない感情は、五感と意識から緊張となって自分にささやくように言います「一人では自分を守れないだろう」と。そして不安に心が支配されてしまうのです。

 もし自分を守ることができれば登校できるようになります。なぜ自分が登校できないのでしょぅか。生き残りたいという本質的な生存本能から不登校も起きています。それがわかれば不安解消の道も見えてきます。さあ始めましょう。どうしたら不安を乗り越えられるかを…その道を探してゆきましょう。それには自分を知ることです。自分の感情を知ることです。人間の感情と思考の関係を知ることです。人間の意識が、行動が、自分で制御できない感情や無意識につきうごされていることを知ることです。つまり人間そのものを知ることです。ソクラテスの、「汝自身を知れ」「自分が無知であることを知りなさい」という言葉が響いてくるようです。
 
 それがわかればあなたの不登校は解決できるでしょう。つまり不登校というあなたの人生の一部が、あなたの学びを促しています。あなたの成長を願っているのです。不登校はあなたという人間全体が向上することへのメッセージなのです。

感情は意識ではコントロールできない。どんな感情もあるがままに受け入れれば苦しみから解放される。

2023.04.26

 人間は、思考を持った感情の生きものです。「思考を持った感情のマシーン」と表現した神経学者もいます。つまり感情が人間全体をコントロールし、思考はその一部です。とすると思考や意識で感情はコントロールできないことになります。では感情をコントロールするにはどうしたらよいのか…。
 それは今の瞬間を生きるということです。今の瞬間に意識を集中することです。人間は意識を含めた6つの感覚器官があり、この6つの感覚器官が感情を受信しています。特に5感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身)です。身体の感覚と脳の働きです。詳しく言えば、脳内の神経伝達物質が人間の感情を操作しているといえるでしょう。
 
 人間が求める最高の気分、それは歓喜。ベートーベンは、それを「喜びの歌」で表現しようとしました。生命の中から沸き起こる喜び、歓喜に勝るものはないでしょう。つまり人間の感情の最高のものが歓喜という喜びなのです。もっとも、最低の感情が苦しみにまつわるものです。とするならば、感情は苦楽に集約されると言ってよいと思います。
 怒りイライラ、焦り、満たされない、不満、不利益、馬鹿にされる、下に見られるなど。つまり、ブッタ(釈迦)が説かれた地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の生命が苦しみに最もかんけいしてきます。この生命感に入る感情を分類すれば、人が避けたい感情がはっきりします。心が沈む、心が締め付けられる、心が閉じ込められる、心が苦しい、心が思い通りにならないなどは地獄界の感情です。心が焼き付くように満たされない、心がとらわれる、これらは餓鬼界の感情です。不安や恐怖は畜生界。恥ずかしさ、馬鹿にされた、見下げられた、などは修羅界の感情です。これらが苦しみの主な感情であり、いずれも苦しさを伴います。
 
 逆に楽しみの感情は嬉しい、天にも昇る気持ち、満足、ご満悦、充実感、満たされた思い、長く続く喜び、永続する喜び、快楽、気持ちがいい、気分が良いなど、人間が最も求めている感覚です。これらも多くは餓鬼、畜生、修羅から得られます。または自分に打ち克つことで得られます。それは人間界に伴うものであり、また天界に属するものになります。
 これらの感情は、いずれも身体5つの感覚器官+意識が脳を通して感じるものなのです。しかし環境が変わると感情も変わります。今述べた世界をブッタは六道の世界と名付けました。これは、環境に左右されやすい世界ですが、自らの力で関係する環境(例えば、苦しい職場に行かない、嫌な人を避けるなど)を変えることもできます。

 しかしどんな感情も長続きはしません。何かを達成した時、例えば合格や宝くじが当たったなど。その時は最高に嬉しく喜びの絶頂かもしれませんが、そのもすれば感情は数日も続くでしょうか。反対に怒り、この感情も1 日も続くものでしょうか。悲しみ、例えば愛する人が死んだとします。その悲しいみは、自然にしておけば3ヵ月でかなり薄れていきます。
 
 つまり今の瞬間、目の前でやっていることに対して意識を集中していくと、感情は薄れていきます。なぜなら今、意識を向けている、それに伴う新しい感情が生起するからです。だから、嫌な感情から離れるには、その嫌な感情に伴ういろいろな雑念観念をそのままにして雑念の流れるに任せます。そして今やっていることに意識を集中します。それが習得できれば感情に支配される事なく、苦しみの感情から解き放たれていきます。
 臨床心理シランの室の「セルフ感受療法」は、その修得を目指しています。