相談室(ブログ)

生命は 常に 今の瞬間しかない   

2025.04.14

ティーブジョブ氏 最後の言葉

一代で巨万の富を築き世界的名声を得た、アップル創業者のスティーブジョブ氏は、すい臓がんのため55歳でこの世を去りました。死の直前、病床で語ったこと…「富や名声は死に際して何の役にも立たない。いのちが大事だ、私の病気と替わってくれる人は、だれもいない。私は、まだ大事な書を読んでいない。それは、健康に生きるための生命の本だ」

生命は 瞬間瞬間 意識できない世界で 動き 変化しています

私たちのいのちは、五感覚(目、耳、舌、鼻、身)器官が反応しながら、常に流れています。あるときは何気なく、あるときは意識をもって…。私たちは今の自分が感じている世界が、自分のすべてと思っています。しかし、今の瞬間の心身は 常に一定のところにとどまることなく 流れ続けて(注1)ていますが、私たちは、それを意識できません。ほんの一例ですが、血液は常に、体中を流れ、酸素と栄養を全細胞に届けています(滞れば、細胞が死滅し、私たちは死にます)が、私たちはそれを意識できません。私たちが、自分がいつ死ぬのかを、意識できないのは、生の営みが潜在意識活動中心に行われているからです。

注1 仏教では、こうした生命の流れを2600年前に、既に解明していました。それを「諸行無常・是生滅法」という言葉で表現しています。万物、存在するものは常に変化し、縁起で生起し、やがて滅していく、顕在と潜在のかたちを織りし、一定の自分はないと説きます。また潜在状態で存在することを「空、くう」ととらえます。今の最先端の量子力学が、遅らせながらそれを証明つつあると言われています。

意識できる世界はわ0,1% 99,9%は意識できない世界で 人は生きています 

瞑想(注2)を実践し、自分の身体や心を一心に観察し、想像力を磨いていくと、私たちが意識できている世界は1%以下ということに辿りつきます。99%以上は意識できないところで心身は活動しています。私たちは無意識的活動を意識できないため、その活動に気づくことができません。ですから、その働きの、あり難さを感じることもありません。正しい知識に基づいた想像力によって、はじめて真実の把握ができ、心身の働きの偉大さに気づくようになります。瞑想の素晴らしさはそこにあります。

「想像力は知識より大事である 知識には限界があるが 想像力は無限である」 アインシュタイン

(注2  瞑想…もともとは、仏教の禅波羅蜜(ぜんはらみつと読む。禅によって最高の不動の境地に至る)という修業から生まれたもの。心を一所に定めて、心を観じること。感覚に反応せず、自らの深層を観察すること。心身は動いているので、つかまえることはできません。その動いている心身になりきるには、心身そのものになるしかありません。それを直観、インスピレーションなどと表現する人もいますが、ブッタ(一応は釈尊を指す言葉、真意は覚者)は「悟り」と表現しています。それは心が浄化された人しかできないとされています。私たち凡人は、五感覚のもたらす欲望で心が濁っています。ですから、心の動きを、言葉やイメージでいったん止めて、真実に迫っていく方法をとります。その言葉は悟った人の真実を表現したものでなければ、真実に到達することはできません。言語道断(言葉で表現できない真理の世界)という世界に入るには、凡人は先哲・覚者の言葉を信じて、そこに入るしかないのです。そうしないと、心の浄化も進まず、迷いから迷いの世界に入り込み、部分の知を悟りと錯覚し、真理に至ることができなくなります。

我思う、故に我あり‥意識こそが 生の証拠との考え方

16世紀の有名な懐疑哲学者デカルトは、すべてを疑うが、疑っている自分の存在を真理と認め「我思う、故に我あり」との名言を残し、近代合理主義哲学を開いとされています。つまり、私たちが今、感じている意識こそすべてという哲学です。意識できない世界は闇に閉ざされることになりました。合理主義のもと産業革命が進み、物質科学は日の出の勢いのごとく発展を遂げ、量子力学、光の研究は精緻さを増し、やがて月にロケットが着陸するという、ウサギの餅つきつき神話もあっけなく崩されることになりました。

科学万能主義が 新しい病を 次々に産み続けています

やがて科学万能主義の時代が到来し、人間は神をも恐れない存在となり、科学を崇拝する科学信仰、物質・お金信仰を招きました。科学や可視化できる世界がすべてであり、科学が何でも解決してくれると…。

しかし置き去りにされてきた、意識できない世界である心については、ほぼ16世紀のままと言ってよいでしょう。深層心理学のフロイトやユング(注3)がその闇にかすかな光をともしましたが、科学性に乏しいとされ看過されています。

(注3) フロイト、ユング …19世紀の心理学の先駆的役割を果たした人たち。フロイトは、催眠や夢という現象から無意識層を仮説し、神経症やトラウマを治療したとされています。ユングは一時フロイトに師事していましたが、無意識層の理解が異なり、ユング自らの深層心理体験を基にして、個人無意識、集合無意識を仮説、曼荼羅なども図顕しています。無意識層の展開は、既に仏教の唯識思想によると2000年前に、第七識無意識世界としてマナ識、第八識無意識世界としてアラヤ識が説かれていますが、両者の見解と深遠さは根本から異なっているとされています。

心の病は 精神病薬で 根治できないと 森田正馬は叫ばれました

しかし、20世紀の終わりから、心の病は増えていきます。そして21世紀に入るとさらに増加し、さまざま身体の病気に加え、心の病も多様化しています。現代の精神医学は、精神より物質、脳の働きに注目し、薬学で対応しています。つまり精神医学も物質医学になりつつあるため、心の病の根治(注4)が出来なくなりつつあります。精神、心は脳を介在して顕在しますが、脳そのものの働きが心ではないからです。今、量子力学など先端の物理学が、物質と意識の関係を模索していますが、確かなことは未だ分かっていません。

注4 「心の病の根治」日本が生んだ精神療法家、森田正馬は精神科医でしたが、「神経症の根治法」という書の中で、神経症は薬で治らないと現場治療の現実から悟り、森田療法を考案しました。そして強迫観念、パニック障害、不安症、各種恐怖症等を独自の精神療法で、90%以上根治したとされ、全国から患者が殺到したと言われています。

今 生きているという意識は、記憶された過去の 脳神経細胞現象です

ところで私たちが生きているのは、意識できる部分、意識できない部分の働きを合わせたもの全体が私たちの心身の生命活動の事実です。五つの感覚(眼・耳・舌・鼻・身)で刺激情報を感受し、それを意識が快・不快などの感情として受け取り、感情と言語・イメージとして記憶していきます。こうして無意識層に記憶されたものが自動的に次の活動時に生起し反応します。

 今、生きていることはこれまでの人生で習得した記憶が意識化されて生きていることなのです。つまり、心身全体の過去の記憶が自動的に再生されたもので生きています。記憶を失う疾患の一つ、認知症の例を考えれば、生きる活動が記憶に支えられていることが理解できます。私たちが感覚し意識できるのは、体を動かす運動神経と感覚神経の一部ぐらいで、実際に働いているものの0,1%以下にすぎません。

 心が澄んでくると 自然の有り難さに 気づいてくる 芝蘭の便り① 

2025.04.11

 私たちは、この地球に生を受けて、地球や太陽や自然の恵みに守られて生きています。母から産まれ、いろいろな人に守られ生きています。私たち人間は、自然やあらゆる生物、社会の恵みに育まれて生きています。私たちの身体は、宇宙の物質からできています。

 地球の恩恵は無限であり、生物・人間に無尽の愛を注いでくれています。愛とは、人知れず尽くす行為であり、どんなときも支え、大事に守る働きです。赤子に対する母の無償の愛に近いものがあります。 

 地球は黙々と働いています。彼は地上の生物に見返りを求めることはしません。私たちは、空気、水、光、大地など使い放題に使っています。地球は、いつも私たちに最高のものを与えてくれています。地球はだれのものでもありません。地球自らのものであることを忘れてはいけません。

 地球は優しく、慈愛の体現者ですから、すべての生あるものを育み、受け入れています。その深く広い愛に気づかず、多くの人間は、甘えています。愚かな強欲者や利己主義者は自分のものでもない地球を私物化し、生物を支配したり、コントロールしたり、金儲けの手段や道具にしています。

 とても悲しいことです。地球は泣いています。あるとき、地球は自らの傷の痛みに耐えかね、自然災害の形で、「痛い、苦しい」と叫び、私たち人間に警告します(注1)。しかし、欲で情緒が濁り、そのメッセージを読み取れない権力者は、目先の対処に汲々するばかりで、本質を見ようとはしません。 

 地球は私たちを含めた無数の生物を乗せて、精巧に自ら回転しています。人間はその変化分を24時間と計測します。また太陽の周りを正しい軌道に則り一周します。人間は、その動いた分を、365日と言います。地球の働きは、寸分の狂いもなく、休むこともなく、まるで自らの使命を忠実に果たすかのように動いています。

 もし地球が休んだり、止まってしまったら、私たちを含めた生物は、たちまち死滅します。微妙な調和に包まれ、宇宙空間に漂いながら、今生きていることの不思議さに感動を覚えます。  

 月や近くの惑星である金星や火星に、酸素や水はないと言われています。太陽系では、地球だけが酸素が豊富にあり、水に恵まれています。この地球の慈愛、太陽の愛、自然の恵みや恩を私たち人間は、どれほど感じているのでしょうか。

 この恩恵を感じる感性が、心の健康の一つの証です。心が浄化されれば、この世界や自然に当たり前なことは何ひとつなく、すべては有り難い、かけがえのない瞬間であり、できごとだと観ることができるようになります。

注1 釈尊の教えである「金光明経」「大集経」「仁王経」等の経典で説かれています。金光明経のごく 一部を、難解ですが原書にて紹介します。「一切の人衆、皆、善心なく 繋縛殺害瞋諍のみあって 互いに相讒諂し 枉げて辜なきに及ばん、彗星しばしば出でて…疫病流行し…地動き、暴風・悪風・時節によらず常に飢饉に遭って、苗実成らず…」(大意を述べます…すべての人間は、他に施したり、他を育んだり、守ったりすることなく我欲に生きている。そして互いに殺し合い、争い、いがみ合っている。結果、彗星はしばしば出現し、疫病が流行し、地震は多発し、台風、洪水、季節外れの気候が起こり、飢饉、飢餓になり、農作物も実らない)今の頻発する異常気象、各地の戦争・紛争状態など合致しています。原因は人間の五欲の執着、自己中心の生き方にあると警告しています。

)

 怒りで苦しむ人の 心の解放のしかた

2025.04.07

瞋りの連鎖を解く方法はあるのか

瞋りの連鎖を解くためには、まず自分を知ることです。瞋りの対象への強度と深さを知らなければ

なりません。また瞋りの習慣化された自分の内省も必須です。瞋りを発しても、数日以内で、その瞋り

から解放される人もいます。逆に、瞋りを発しやすく、その瞋りに振り回され、簡単に瞋りから解放

されず、何日も、何年も怒りが、怨み憎しみとなり、心の奥に固着する人もいます。その人は、一日の

大半を地獄を住みかにしている人といってよいでしょう。問題は、根深い瞋りを心の奥に持っている人

の瞋りの解放です。この傾向の人は、アンガーマネジメントの講習を受けても、いっこうに解決するこ

とができません。なぜなら知識や言葉を超えた奥深くに宿っている、瞋恚の塊りの心作用だ

からです。その塊りを少しずつ溶かし、浄めるしかありません。

ブッタの悟りが教える六波羅蜜(ろくはらみつ)の実践修行

ブッタ(注1)は人間の持つ煩悩が不幸に導く元凶であることを悟りました。前回のブログで説明したよう

に、三毒という煩悩をもっとも制御困難なものとしています。人間の本能に根付いているものだからで

す。脳科学の知見で言えば、大脳皮質の言葉や感覚受容の奥にある、大脳辺縁系に端を発しているから

です。正確に言えば、大脳辺縁系にあるのではなく、瞋りはそこに顕在する心作用です。脳科学で解決

できない世界ですから、心科学(ブッタの仏法科学)に基づくしか解決はありません。

六波羅蜜(注2)の実践は、煩悩の迷いを悟りと開き、苦を楽に替え、暗を明に転じ、人を幸福に到達させ

る実践・修行です。

注1 ブッタ…覚者、生命の真理を悟った人という意味。一般的には、約2600年前ごろのインドに生まれた釈迦を指しますが、生命現象の三世を俯瞰すると生命の真実を悟った人のことをブッタと言います。いわゆる仏・如来のことです。釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、多宝如来、大日如来など、この宇宙には無数の仏が存在すると言われています。

注2 六波羅蜜…波羅蜜は、到彼岸、仏の生命へと到り、宇宙大の生命をくみ取るための六つの項目。布施波羅蜜(財物や幸福になる生き方や安心感を人に施す修行)。持戒波羅蜜(悪を止めて善を行う修業)。忍辱波羅蜜(忍耐しながら慈悲行をし、人を救うこと)。精進波羅蜜(喜んで人の善に尽くし、少しも怠けない修行)。禅定波羅蜜(精神を集中して散乱させない修行…マインドフルネスはこの修行法にヒントを得ている)。智慧波羅蜜(一切の事柄、法理に通達して明了ならしめる智慧の開発を目指す修行)

瞋りの煩悩を転換する実践は 忍辱波羅蜜にある

忍辱波羅蜜の修行は生命的存在をどのようにとらえるかから始まります。

自分を含め、すべての生命的存在は慈愛すべきものと見ます。

なぜなら、すべての生命的存在は仏性(注3)を持つ存在だからです。どんな人も根底に仏性を内在させて

いると信じ、相手を守り尽くしていきます。その姿勢で関わっても、相手から馬鹿にされたり、罵られ

たり、攻撃されたりします。それらの辱(はずかし)めに耐え、相手の仏性を信じて関わり続けることが忍

辱の修業なのです。その修業の中で瞋恚(瞋り・怒り)の生命は、浄化され、本来の清らかな生命が蘇って

くるとブッタは説きます。これは大変な修行ですが、この修行を貫く中で瞋りに振り回されない自在な

境地になるだけでなく、崩れない幸福境涯に近づくことができるとされています。

注3 仏性…仏の生命の心的側面。釈尊という場合、生命の身体的な側面を指し、仏と表現されます。仏の生命の心的な働きを指す場合は仏性と言います。この宇宙の森羅万象は仏性の働きとブッタは開悟されました。生命は自ら創造し自ら死滅する生滅の法です。また、宇宙のすべてを創る働きが生命に内在する仏性であり、慈悲を演じ生死を繰り返す無始無終の因果を内在する生命の働きです。キリスト教では、スピノザが汎神論を唱えました。自然や宇宙の神的な働き、人間や動物の神秘的な働き、そうしたものすべてが神であるという説です。アインシュタインは、両親の関係でキリスト教を信じていましたが、進化論を知って旧来のキリスト教から離れました。しかしスピノザの汎神論の神は信じていたと言われています。仏性は、汎神論で説く「神」に近い目に見えない生命の働きと考えてよいでしょう。

ブッタは能忍の人 人間世界は堪忍世界 能忍の修行が瞋り(怒り)を浄化させてくれる

この世のとらえ方を正しく見てゆく修行をします。この世を娑婆世界(しゃばせかい)と見ます。娑婆(梵

語、サーハの音写)は、堪忍(かんにん)、能忍(のうにん)と訳される言葉です。娑婆世界とは、苦悩が充満

している人間世界のことです。「この世界の衆生(人間)は、三毒およびもろもろの煩悩を堪え忍んで受け

るので娑婆世界という」(法華経巻五)。

思うようにいかないのが当然であり、自分のことを理解してくれない、わかってくれないのは当然であ

り、自分勝手な人ばかりが存在しているのが当然と、この世界をあるがままに見つめ受け入れ、堪忍し

て生きていきます。その生き方ができるようになれば、瞋りの対象を受け入れることができるようにな

ります。正しく言えば瞋りの対象が原因ととらえている自分を、原因は自分の中にあると見ていくと

き、忍耐することができるようになっていきます。その結果、生命の浄化が進みます。生命が浄化され

た分、瞋りの生命は消失していきます。釈尊・ブッタは能忍の人と言われています。釈尊自身、こうし

た修行の結果、悟りを得、ブッタになったと言われています。

根深い怒りは 人を地獄まで 連れていく

2025.04.02

瞋り(瞋恚・しんい)という感情が 人を不幸に導く元凶

人間の感情で、制御が難しいものが、怒り、恐怖・不安、悲しみ、ゆううつ・落ち込みです。

それらの中でも最も制御困難なものが、怒り(瞋恚、しんいと読む)です。

制御困難であるからこそ、人を地獄まで連れていきます。最悪は、殺人であり、自殺行為です。

波は振幅の大きさと周波数で強度や速度が変ります。瞋恚という瞋りの波は、振幅も大きく周波数も多

く波形も乱れていますので、自他を巻き込みます。自分や人を巻き込み、他害や自害という不幸のどん

底に人を追い込む危険性を孕んだ感情です。各地の戦争がそれを物語っています。すべて、瞋恚(瞋り・

怒り)が原因であり、それが連鎖し渦巻いています。瞋りの原因と対処としての智慧を獲得しない限り、

真の解決も平和も幸福もありません。

瞋り(怒り)の本態を知ることが 本質的な制御への第一歩

怒りは現代用語表記です。もともとは瞋りと漢語で表記していた仏教の言葉です。瞋りは正確には「瞋

恚・しんい」という心の働きであり、どんな人間にも具わっている煩悩(心の働き)であり、三毒(注1)の一

つです。

瞋恚とは、目を一杯にして対象を叩き攻撃しようとする心の働きです。自分の不利益になることに対し

て、目をいからす「忿」という心作用が起こります。自分にとって不利益になる、思いが通らない、思

い通りにならない、そんなとき、瞋恚の「忿・ふん」の心が湧き起こります。人は、生きるためには、

自分を守らなければなりません。そのためには、自分にとって脅威に感じる存在に対して、逃走か闘争

かを、瞬時に判断しなければなりません。闘争は瞋りであり、逃走は恐怖です。いずれも生き抜くため

の生命の本能(煩悩)敵防衛反応です。瞋りは、生き抜くための自分を守る本能であるため、制御が難しく

なります。

(注1)  三毒…貪、瞋り、癡(むさぼり、いかり、おろか)の人間生命の根本煩悩。煩悩とは、人間の心身を煩わし、悩ませる種々の精神作用の総称。根本煩悩(貪り、瞋り、癡、慢心、疑い)五つと随煩悩20種類に分別しています。(成唯識論、世親菩薩作)

瞋り(いかり)は 連鎖しながら心の奥深くに根付いてしまう

強くて深い瞋りは、「忿・ふん」恨(こん)「悩」「嫉・しつ」「害」(注2)と連鎖し、瞋りを増幅させ、

簡単にはほどけない、心的呪縛を演じます。反芻(はんすう)思考の本質の一つも、ここにありま

す。

(注2)「忿」は、自分にとって不利益な事柄に対して、忿発し、対象・相手を打ったり、罵ったりといった行為。恨(こん)は、「忿」の後に起こり、怨み(うらみ)を結んで解けないという心作用で、悔しさで熱悩する行為。「悩」は、「忿」と「恨」を追っかけ、懊悩し、他人を蟹(かに)のはさみでちくちくさすように働きかける行為。「嫉」は、自らの名利を求めて、他の栄えに耐え切れず、妬み、うらみ、憎む行為。「害」は、他人の生命を損じたり、悩ます行為。

感情のコントロールは 意識対象を 変えることで可能になる

2025.04.01

感情は 意識の対象を 替えることで 制御できるようになる

波のように生まれた感情のエネルギーが、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしか感情の収束はできません。それは、意識によって対象を替えてゆくということです。意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることになります。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーの内在力である感情がすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したもの(感情と表現している)の余情や余韻が自然に消えるを待たなければなりません。

マインドフルネスの指向するもの

マインドフルネスの意(こころ)は、評価せず今に集中して、目的に向かって生きることと、一応説明できますが、先ほど述べた、意識対象の転換と同じことを指しているといってよいでしょう。マインドフルネス的生き方が、注意の転換を可能にし、感情の囚われから脱する一つの道になるのは、体得にあるからです。それは受容とも 南無(注1)とも表現されています。このことを体得すれば どんな感情にも 振り回されなくなります。

注1 南無 ナムはサンスクリット語(古代のインド語)で、漢語では帰命と音訳されている仏教の重要な言葉の一つです。南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無八幡大菩薩、南無妙法蓮華経など、仏・菩薩や仏性を表現した言葉に冠された大事な文字です。本来は、仏・菩薩や仏性に自分の命を任せ、それに基づいて生きるという意味です。森田療法の創始者、精神科医の森田正馬氏は、自分の命をあるがままに、まかせて、今を生きることを南無というと著書「生の欲望」の中で述べています。

南無を「あるがまま」と同じ意味で使っています。つまりマインドフルネスの指向する世界と同意なのです。どちらも仏教を基盤にしたものだからです。森田療法の核心は「あるがまま」に生きることです。それは体得であり、悟りであると言っています。そうすれば、どんな嫌な感情にも振り回されなくなり、受け入れることができるようになり、苦しみは消えてゆくと言います。彼は、自らの強迫観念や神経症(心臓恐怖症)を治した経験をもとに、森田療法を創作し、当時、難治とされた「神経症」「強迫観念」「神経衰弱・抑うつ」を、薬を使用せず全治させた治療実績(90%以上)があります。

このエビデンスにより、森田療法は日本のみならず、世界に広がり、精神疾患の世界で注目されるようになりました。今、森田療法が下火になっているのは、真の弟子(師匠森田の教えを正しく体得した人)が徐々にいなくなっているからです。どの世界(芸術、宗教、学問、道の世界など)も師匠の精神の体得者がいなくなったとき、衰亡を遂げ、やがて風化し滅亡の道をたどります。これは歴史が語る真実です。

感情って 何ですか? 

2025.03.24

日本には、「感情」という言葉はもともとありません

日本には、「感情」という言葉はもともとありません。古来から日本では、「心」とか「気」「情け」などと表現していました。「感情」という言葉は16世紀にキポルトガルやスペインのキリスト宣教師がもたらした南蛮文化の言葉です。その翻訳語を「感情」として使用するようになりました。英語では「エモーション」(感情、情緒、情感、喜怒哀楽、情の意味)「フィーリング(感じ、感覚、気分、感じなどの意味)「センティメント」(感情、感傷、思い、情趣などの意味)と「感情「を表現しています。いずれの言葉も、曖昧であり、つかみどころがなく、本質をとらえることに苦慮しています。感情とは「心」に関連しています。そして心とは何かが分からないため「感情」も正しくとらえられません。ですから、感情の扱い方ができないのが現状です。感情はつかみどこのない心から発生している働きだからです。

感情は湖面に生まれた波と同じです

池に石を投げれば 波が起こります。その波を止めることはできません。無理に止めようとすれば、分

波したり 逆に波が大きくなったりします。 

波を起こしているエネルギーが他に変り 消えるまで待つしかありません。

人の感情も波と同じです。

ある対象との関係で 起きた感情は 言葉・イメージや思考では その流れを止めることはできま

せん。

波が徐々に消えてゆくように 流れに心身をまかせ  消えるまで 待つしかないのです。

思考より 心の深いところに 位置する感情の心作用

感情の働きは、思考よりも心の深いところに位置しているため、表層の思考・言葉では、深層から生じ

る感情をコントロールできないのです。感情をコントロールするのなら、人間の深層の心の働き(西洋心

理学でいう無意識世界とは異なる)を正しく知ることが必須になります。

知識では 人は変われない 智慧が 人を変えます

以上のようなことを知ることは知識といますが、知識だけではこの感情の問題は解決できません。

「ハウトウーもの」の本や「トリセツ」や「講座」だけでは、感情などの心作用を解決できないのは、

そこに原因があります。自ら実践・経験して体得するしかありません。それを智慧といいます。その智

慧に至るためには、それを体得した師匠・先生・先輩の智慧の伝承が必要です。それは全人格対全人格

の中で伝承されると言われています。いわゆる師弟関係の中での修得です。

智慧の体得によって人は、よりよい生き方ができるようになります。智慧こそが幸福の源泉だからで

す。

愛は 心が奏でる 音楽であり 詩であり 互いの人格を高め合うもの

2025.03.09

愛するとは お互いに見つめ合うことではなく 二人が同じ方向を見ることである           (星の王子の作者 サンテグュペリ)

かつて放映された韓国ドラマ「冬のソナタ」は、多くの女性の心をとらえ、感動をもたらしました。その物語の主題は二人の心が描き出す美しい愛の賛歌でした。文学や音楽の多くは恋愛が主題であり、洗練された愛を追い求め 人の心をつかんでいます。

人は心の奥で真の愛を求め、そんな愛に憧れ、探し続けています。深い愛との出会いは、人の心を清らかにし、その人の持つ美しさを醸し出します。

これは男女の愛だけにとどまらず、親子、友人、自然、動物、芸術など、さまざまな対象に対して共通するものです。桜が春に美しく花開く陰には、大地の恵み、みずみずしい水、太陽の優しい光など多くの自然の愛が注がれています。親から本当の愛を貰った子どもは、心が安定し、情緒が育ち、素直で、清らかに生きていけるようになります。愛はそれだけ偉大な力を持っています。

では、愛とは一体、何なのでしょうか。

愛の表現…恋愛、人類愛、家族愛、兄弟愛、夫婦愛、親子愛、師弟愛、自然愛、動物愛、母性愛、母校愛、芸術愛、研究愛、博愛、慈愛など…、愛のつく言葉はたくさんあります。それぞれ意味は微妙に違っています。また使う人が自分なりの意味をこめることもあります。

しかし、その愛とは何なのかというと明確に答えられる人が、果たしているのでしょうか? 日本にはもともとない言葉であり、欧米のLOVEの訳語だからです。翻訳語の曖昧さが日本で創作され美化された代表的な言葉が「愛」と言えます。

愛ほど抽象的なつかみどころがない言葉はありません。しかも快い響きを持った数少ない言葉です。それは、愛しているという言葉には、不思議な心地よい響きの調べがあるからです。愛という言葉は、どのようにも解釈できる幅がありますから、真実の愛が分からなくなったりします。

男女の愛では、恋は愛の序章になります。恋なくして男女の愛の成立は難しいと思われます。恋は好きという感情から始まります。その感情が中心ですから、盲目になり、暴走しがちになります。その段階で結婚まで走ってしまえば、早期の破綻を迎えるかもしれません。駆け落ちは、恋の盲目性のなせる業であり、その結婚の多くは、うまくいってないのが現状です。恋心を抑制する知が薄れ、高揚した恋情が先行してしまった結果です。

恋愛は、その盲目的本能に知性をもたらし、自己中心性と葛藤し、相手のことを考えるようになり、双方の成長の機縁になります。恋愛の二人の成長の先に、愛が待っています。愛は二人が紡ぎ出す、この世に二つとない美しい世界を表現します。その一端を私たちは恋愛小説やドラマに見ることができます。愛を育てていけば二人は終生、美しい絆をつくってゆけます。その二人に、離婚(注1)という文字はありません。

愛の模範を、お腹の中に子どもを宿した母親に、見ることができます。母親は、宿った子どもを自らを顧みず、そのいのちを守り、大事に育てていきます。無償の愛の行為です。釈尊(注2)は、その心と振る舞いを慈悲(注3)と名付けました。

愛は本当の優しさをともないます。また見返りを求めることはしません。相手がどんな状況になっても、たとえ相手の姿かたちが変わり果ててしまっても、その人のすべてを受け入れ 守り、大事にし、尽くし抜く心、それが愛です。

例えば、男性が新婚前後の女性に愛を捧げるのは難しくありませんが、10年、20年、そして相手が白髪になった70代、80代になっても愛を貫くことができれば、それは本物の愛です。そのパートナーは世界で最も幸福な人といえます。

愛はお金や財宝、名声、人気、地位で得ることができないとスティーブジョブ氏(注4)は言いました。この世界の最高の宝なのです。生きているときも、そして死後にも持っていける美しい心の品性です。

愛の実践には、心の強さ、心の清らかさ、正しい心を保つ品性が求められます。愛は二人を高め合います。高め合う愛こそ本物の愛です。愛は人間の品行の成長を伴います。愛する二人は限りなく向上し輝き、美しさを放ち、周囲をほのぼのとさせます。それが本物の愛の品格です。

愛は その人のすべてを受け入れ 大事にし  たとえ相手が白骨になったとしても その人を 永久に 愛し続ける それがまことの愛です。

私の妹夫婦(注5)が紡ぎ出した、本当の愛の詩の一部を詠んでみました。

注1 釈尊 ゴータマシッダルタ、一般的にブッタと呼称されています。約2600年前、インドの釈迦族の王子として生れ、何不自由のない生活を送っていましたが、心は晴れず、もんもんとしていたと言われています。人生の真の生き方を模索し19歳で出家したとされています。当時のあらゆる修行者に師事し修行を重ね、難行苦行の修行の末、30歳で生命の永遠の因果の法を悟ったとされています。正統仏教は宇宙、自然、生物、人間という万象を貫く、不思議な因果の如来の法を根本にしていると言われています。

注2 離婚 …現在の日本では、三組に一組が離婚すると言われています。その原因は様々ですが、一番は「性格の不一致」と言われています。正確に言えば、相手が理解できず、相手の欠点や嫌なところを受け入れることができなかった結果です。

好きと感じた一時の感情は、裏返し感情の嫌悪・嫌いに変ります。人の好悪感情、愛憎は、例えていうなら、同じ硬貨の表と裏の関係のようなものです。一時は好きで抱擁し合った関係だったはずですが、嫌悪感に支配されると、一緒にいたくない、最悪、同じ空気を吸いたくないなどの気持ちになったりします。二人の関係は、恋の段階、もしくは恋愛の段階で終わり、愛を慈しむ主題にまで到達していません。離婚の多くの原因は、筆者に言わせれば、本当の愛を知らなかった結果なのです。

注3  慈悲 …他者を守り、支え、育み慈しむ振る舞い。自然や宇宙の根本の法則の周波数に自分の周波数を重ね合わせるようにして生きるとき、心の奥底から湧き出ます…母親の一時的な慈悲の働き、菩薩の世界。その慈悲の周波数に生きるとき、あらゆる生命、人間は本来の調和を奏で最高の自分を発揮し充実し安定し、真の幸せ郷に至るとされています。

代表的な人に、孔子、老子、イエスキリスト、キング博士、ガンジー、中村医師、ヘレンケラー、ナイチンゲール、観世音菩薩、弥勒菩薩、竜樹菩薩、不軽菩薩などの無数の菩薩がいます。その他、慈悲の体現者として、釈尊、天台大師、伝教大師、日蓮聖人など無数の諸仏が存在するといわれています。

注4  スティーブ・ジョブズ…アップル社を設立し、その会社の共同経営者。一代で巨万の富と名声をほしいままにしたが、55歳ですい臓がんのために、2010年にこの世を去ります。スティーブ・ジョブズの「最後の言葉」の大意を筆者がまとめたものです。

注5  妹夫婦は45年近く、ともに歩み続けましが、先日、70歳でこの世を後にしました。特に、癌緩和病棟で過ごした8日間、24時間寄り添う夫(義弟)、ベットのそばで、腫れ上がって痛む妻(妹)の腕を、ずっと優しく撫でながら、語り掛けていました。臨終の瞬間まで手を握り「ずっと一緒だよ、明日も明後日も、来世も、ずっと一緒にいるよ。愛している」と語りかけていました。そんな光景を目の当たりにした私は、愛の何たるかを教えてもらった思いです。妹のことは、このブログ「死の瞬間が物語る その人の人生の真実」(1月19日版)に載せています。本当に尊敬できる夫婦でした。私の心も二人の愛に、どれだけ浄められたかわかりません。二人の心を少しでも伝えたいとの思いで、このブログを書きました。

※当室は、あらゆる宗教・思想団体にも所属していません。室長は、若い日より、万般の思想、哲学、宗教、文学、科学、心理学を学び続け、今もその学びの旅は続いています。

自分らしく 輝いて生きるための 智慧 

2025.02.02

自分らしく輝いて生きるためには 哲学(注1)することが大事になります。そこには先人の人生をかけて得た智慧が貯蔵されているからです。

人は本来の自己(注2)に生きるとき 心が安定し最高の充実を得ることができます。 それが生きる本当の意味であり、本来の自己が奥底で望んでんでいるこころなのです。

人は生れてから死ぬまで、自分らしく生きることを心の深層で望んでいます。そして本来の自分を生きたいと願い 自分らしさを探すように生きています。それは個人の深い本源的欲求(注3)に根差していて、その到達点にある、喜びに満ちた幸福郷という心の故郷に還る道を探しているのです。

自分はこの宇宙で、どの生物や人間にも代替できないかけがえのない個性の持ち主であり「天上天下唯我独尊」(注4)の存在だということを自己本来が心の深いところで識って(注5)います。

古今のあらゆる思想、哲学、文学、芸術、音楽、宗教、科学が本来の自己を探究してきました。「汝自身を知れ」(注6)といったギリシャの哲人ソクラテスもその一人です。夏目漱石(注7)は「足下を掘れ」と自分の内面を探求することの大切さを教えてくれました。

私の目的は 個々の人が自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい

物理学者のニコラ・テスラ(注8)の言葉です。テスラのいう「自分の翼」とは自分しか持たない翼であり、自分らしい自己のことです。彼らは、みんな本来の自己を探し、本来の自分に生きることの大切さを教えてくれています。

自分らしさは抽象的な言葉であり知識であり、どのようにも解釈される曖昧言語の一つです。「○○らしさ」は、偽りの多様化社会では、差別用語で使われることも少なくありません。「男らしく行動しなさい」「あなたは親らしくない」…。つまり「○○らしさ」のなかには、既に社会に広がった価値観が染み込んでいます。つまり本当の自分らしさではなく、時代の社会常識によってつくられた自分らしさになります。

例えば、いつも遅刻する人が、たまたま早く来たとき、周囲の人は「君らしくないね」と言ったりします。いつも遅刻することが、その人らしさになっています。その人の自分らしさとは、この場合、遅刻する自分ということになります。自分らしさとは、習慣的に意識的・無意識的に行動しているパターン化された自分を指しています。つまり「○○らしさ」は大人社会の既成の価値観が作った、その時代に通用する常識になってしまっています。そうした風潮が、「自分らしく生きる」ということを迷いの世界に誘っていきます。

では本当の自分らしさとは何なのでしょうか。この問いに答えられる人を、今の社会に見つけることは困難を極めます。なぜなら自分という人間存在、心の真実が分かっていないからです。現代社会は過度の情報化、視覚化された社会のため、真実が分かっていないのに、わかったように説明する詭弁者や偽善者に溢れ、真面目な人は混乱し、迷妄の闇にさまよう結果になっています。

自分らしさとは、本来の自己を生きることなのです。では本来の自己とは何かを知ることが、本当の自分らしさの発揮につながります。

自分らしく生きるためには スティーブ・ジョブズ氏(注9)が語るように、「大人が作った価値観や常識を一度見直し、再思考し、価値あるものとないもの、本物と偽物を精査し、自分のものとして、取り入れられるものは取り入れるという取捨選択をし、その中から独自のものを創り出していくこと」が本当の自分を作ることにつながると言います。

自分らしさの獲得は、ある意味、茨の道です。楽に到達できるものではなく、思考を磨き、意識を磨き、想像力(=創造力)と格闘しながら、日常生活の中で錬磨された思想を実践という体験の中で検証しながら、肉化していくという魂の闘いが要求されます。そのためには正しい哲学に導いてくれる師や善き友が必要になります。

道を求める困難さを避け楽な道や偏った思想や価値観に生きた人たちは、大人が作った過去の常識に埋没し、利用され、本来の自分を見失い、迷える自分を生きることになり、充実した人生も味わえなくなり、本当の幸福を感じることもできなくなります。

明治、大正、昭和初期まで、思想や哲学や文学の世界では、本当の自分を探求する魂の壮絶な闘いの人による書がありました。しかし、昨今はハウトウーものや表面的、コンビニ的知識が広がり、偽物や軽薄が幅をきかせ、本物が埋没しています。このような著者に共通しているのは、独自の哲学がなく、実践がなく科学的実証性が伴っていないことです。書物は発行部数と売り上げ至上主義となり、残念ながら中身は問われなくなりつつあります。

多くの情報が経済至上主義思想という欲望づけにされ、巧みな宣伝力で、人間の弱点である視覚(注10)を刺激し、快感覚に潜む麻薬的力で、思考を停止させ、知性を麻痺させるかのように広がっています。そんな商業主義の、軽薄ものは中身がなく、本当の自分らしさを見つけることにつながらないどころか、悪(注11)になっているものも少なくありません。悲しいかな、人を不幸に導く最大のものが悪知識(注12)であるということに、現代人は気づいていません。

芝蘭之室(しらんのしつ)では、本来の自分を識ることを哲学し、濁りに染まった現代社会や思想を乗り越える智慧の獲得を目指しています。

※当芝蘭之室はいかなる宗教・思想団体にも所属していません。室長は、18歳の頃から「自分とは何か」を探求し、あらゆる思想、哲学、文学、宗教、心理学、諸科学、人体学などの書物に向きあい、真実を探求し研鑽してきました。今もその旅は続き、現在はブッタ(釈尊以外の生命の覚者も含む)の最高の教えとされる仏法と量子力学等を中心に研究しています。

注1 哲学… 哲学は、思考の究極世界であり、瞑想の極致です。生命とは何か、自分とは何か、心とは何か、人間いかに生かるべきか、生とは何か、死とは何か、自分はどこからきたのか、宇宙は無限なのか有限なのか、時間とは何か、真理とは何か、正義とは何か、人間は善なのか、悪なのか、愛とは何か、幸福に生きるためには、どう生きればよいのか、など人生、社会、自然、宇宙万般を対象に思索し探求する学の世界です。

ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ニーチェ、ベルグソン、キルケゴール、ショウペンハウアー、サルトル、ハイディガ―などが有名ですが、近代は量子力学などの諸科学の陰に隠れた感があります。しかし、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ニコラ・テスラなど一流の科学者の真理探求過程と悟り・考え方は哲学そのものです。

これは科学者だけでなく、夏目漱石、森鴎外、吉川英治、ゲーテ、トルストイ、ドフトフエスキーなどの文学者、ベートベーン、バッハ、モーツアルトなどの音楽家、ダビィンチ、ミケランジェロなどの芸術家、ヘレンケラー、ナイチンゲール、ガンジー、キング博士などの人道主義者、老子、孔子などの思想家、イエスキリスト、マホメット、ブッタなどの宗教者など、その道の一流を極めた人は、みなそれなりの優れた普遍性に満ちた哲学を持っていますし、表現する言葉が美しく読んだり誦したりするだけで心が浄化され、深い触発を受け正しい生き方に導いてくれます。彼らは優れた詩人といえます。

(注2) 本来の自己 自己とは意識層と無意識層を含めた自分全体を指しています。それに対して、自分とは、習慣化・記憶化されたパターン化された自分を指し、自己からみれば部分的なもの・意識になります。

(注3) 本源的欲求 西田幾多郎の代表作「善の研究」の中で使っている重要な言葉。本来の自己、「純粋経験」とほぼ同義と考えてよいでしょう。

(注4 )「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんがゆいがどくそん) 釈尊の言葉とされていますが、真意が曲解されて伝わっています。唯我独尊の「我」とは個の我だけを指すのではなく、この宇宙全体にはただ一つの我、宇宙もすべての生物、人間も、存在するものすべては一つの「我」という意味です。釈尊の悟達によれば「我」とは、瞬間瞬間、如如として来る、仏性、法性、如来という意味です。この「我」が、すべてを創り出す生滅の法で、永遠に存在しているというのが真意です。

注5 識る 筆者は「知る」と「識る」を区別して使っています。知るは感覚で感受したものを意識することであり、ものごとの一部分しか受取れていません。識るは感覚、意識、記憶化された無意識を統合して感受することであり、ものごとの全体をわかろうとする働きであり、真の受容になります。

例えばタバコやギャンブルは害になるのでよくないから、やめようと頭の中で「知って」いても繰り返します。それは人間の心身の部分知だから、人間の全体をコントロールできないのです。識るとは、タバコは悪いので吸わないという行動ができることを指します。つまり識るは体得であり、「悟り」といえます。知識と感情全体を抑制できるのが「識る」であり、生命全体でわかることであり、覚者はこれを「悟り」という言葉で表現しています。これが修得できれば、心の悩みや心の病は治り、苦から解放されていきます。

(注6)「汝自身を知れ」ソクラテスの名言と言われています。あなたはあなたのことを全くわかっていない。自ら無知を自覚し、大いに学んでいきなさいと言う意味になります。ここで言う無知とは、本来の自己に対する無知のことです。

(注7) 夏目漱石「私の個人主義」という書の中で展開している言葉。「足下を掘れ」とは自分の心の深くまで探求し、本来の自己を探りなさいという意味になります。

(注8)ニコラ・テスラ…1856~1943年 交流電気を発明、約300の発明をしたとされる、天才物理・電気学者。現在のイーロン・マスクはニコラテスラを信奉していると言われています。彼の設立した車の会社の名前は「テスラ」です。

ニコラテスラの哲学の一部を紹介します「存在とは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによってすへての生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き産み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一、一つの状態から別の状態に移ることだけです。これがすべての秘密の回答です」

(注9)アップルを設立したその会社の共同経営者。スティーブ・ジョブズの「スタンフォード大学の講演」「最後の言葉」の要点を筆者がまとめたもの。

(注10)視覚を刺激…人間の感覚反応は9割は視覚に依存しています。それは二本足歩行し、体力的には他の動物より圧倒的に弱いため、視覚と記憶・知識の優位さで生き抜くために発達しています。反応の基準は、快・不快、好き・嫌い、好ましい・好ましくないという過去の記憶化された習慣的に作り上げた価値観で自分を守るために反応します。その基準は好き・嫌いという感覚反応ですから、本当の利害は得られず、また善悪など度外視しています。コンビニ感覚社会では、見た目が勝負ですから、人間の弱点にもなる視覚に訴える広告宣伝、テレビ、ユーチューブに溢れ、真偽も利害も善悪も二の次になり、思考しない人間を増産し、人間の質の低下を加速させています。

(注11)悪…ここでは人の精神を高める向上させたり、順益させるるものを善といい、逆に人の精神や生き方を低下させたり、自他を違損するものを悪という使い方をしています。古来、哲学や思想や科学は善悪を巡って魂の闘いをしてきました。一例をあげれば、地球は回っていると唱えたガリレオの地動説は当時の社会から裁判にかけられ有罪になりました。

当時の善思想は天・太陽が回っているといことであり、地球が回っていると言う考えは悪で人を惑わすものとされたのです。当時の善は、真理が究明された現在からみれば悪です。真理は権威社会が作り、当時の社会常識は今の科学からすれば、悪になります。ガリレオが善だったのです。つまり社会常識や思想は時代の民衆や権力者が作り出すものであり、真実とは限らないと言うことです。だからこそ、真理・真実を見抜く正しく賢い目が大事であり、そこに導いてくれる正しい師・先哲の存在が不可欠になります。

善を生涯探求し実行した哲学の祖ソクラテスは当時の詭弁家知識人の悪に毒を飲まされたのです。いつの世も悪は多く、善は少ないようです。悪は楽であり、善は困難を伴うので、人々は容易に悪思想に染まってしまうのです。悪は一時的に栄えたように錯覚しますが、末路は苦しみであり、地獄の世界になります。世の中を俯瞰するに、あらゆる商売、品物、企業団体、医療・心療内科やカウンセリングも商業主義・経済優位に毒されていのが現実で、残念ながら善は少なく、本物は砂浜の一粒の砂のようなものです。人々が賢くなるしかありません。

(注12)悪知識…生命全体、心全体、身体全体をみるという全体観の把握なしに、部分だけを見て、生命現象、心の働きや身体の働きを決めつける偏った知識、思想のことを指しています。わたしたちの普通の五感覚では、地球は動いていなくて、太陽が動いていると感じる中世キリスト教の常識(悪知識)が陥った天動説を信じてしまいます。

天文物理学の発見という根拠をもとに、想像力の目で太陽系全体を見れば、地球も太陽も動いていることを知ります。これを正見といいます。つまり正見とは、全体を観るということ、真実を見極めるということです。全体を知る、つまり真実を知ることで正しい対処ができるようになり、幸福な人生を生きることができるようになると言われています。

何も考えず権威を敬うことは 真実に対する 最大の敵である アインシュタイン

死の瞬間が 物語る その人の人生の 素顔

2025.01.19

今、生きている人たちは、120年後には、誰一人この地球上には存在していません。みんな死んでいます。人生は不確実ですが、死だけは誰人にも確実に訪れてきます。生まれたものは必ず死ぬというのが生住異滅(注1)という変化を持つ生命の真実相だからです。だからこそ、死ぬ存在の自分を真剣に考えることが大事になります。それは、この人生をどう生きるのかという問いにもなります。

死ほど厳しいものはありません。人生をどのように生きたのか、その総決算が臨終の場面です。そして、その人の生きざまが死相に現れ、その人の人生の本性を語ることになります。人生は長さではなく、深さであり、何を為したかが問われるのが臨終の儀式です。

アップル社を設立し一代で巨額の富を築いたスティーブ・ジョブズ(注2)は、すい臓がんのため55歳でこの世を去りました。彼の「最後の言葉」の中に、人生で大事なものは、「家族に、パ―トナーに、友人にどれだけ愛情を与えたのか、やさしくしたのか、よい人間関係をつくることができたのか」であり、富、お金、名声は死後持っていけないと言っています。彼のような富と名声を得た人だから言えた言葉かもしれません。

死の瞬間に、人は生きているときの虚飾の衣は剥がされ裸一貫の人間にされ、生きざまが明らかにさらされます。生まれてから死ぬまで身口意(身体、言葉、心)の三つの行為でしたことを、すべて自己検証する儀式が臨終です。社会的地位や財産や名誉や人気など全く役に立ちません。それらは今世を飾る一次的なものであり、執着すれば来世の足枷・苦しみになるとブッタ(注3)は警告しています。

人の目はごまかすことができても自分を欺くことはできません。死の瞬間は自分が自分の人生全部を評価し裁く厳粛な時なのです。仏教説話などで比喩的に説く三途の河や奪衣婆(だつえば)、縣衣翁(けんねおう)や閻魔大王の責めなどの儀式のことです。これらは分かりやすい比喩であり、真実は自分の身体が死滅し、身体と心が乖離(かいり)する瞬間に自分の生きざま(主として善悪の行為の総量)を自分が検証し、心の深層(阿頼耶識・貯蔵識、注4)に整理して刻印し、空の状態で存在します。そして次の自分の業にふさわしいかたちを決める時なのです。そのかたちは業によって決まり、植物、昆虫、鳥、動物、人など様々です。

身体は消滅しても、その働きを支えていた心法・心の働き(注4)は、そのまま「空」(空…くうと読む。竜樹・世親らの生命観)の状態で続くと竜樹菩薩(注5)は大智度論で展開されています。そして初七日(最初の七日間)で次の生のかたちが決まる生命もあります。長くても49日内に次の生命のかたちが決まると聖人は説いています。

人生で、善の行為が多かったのか、悪の行為が多かったのか、もしくは善悪に関係しない生き方が多かったのかなどが自己検証の基準になります。

善とは、他者や他生物の命を慈しみ、育み、守る慈悲の行為であり自己中心性とは逆方向の、ある意味自己犠牲(自己中心性を抑制したり昇華したりすること)を伴う行為です。

悪とは、他者や他生物を傷つけ、支配し、壊し、憎み、攻撃し、破壊したりする自己中心のままに生きる行為です。

善を多く成した人は、死相が安らかで、眠るような表情になります。体も軽く、色は白くなり、死後硬直もなく体は生きているように柔らかく弾力性があり、腐敗も三日以上はありません。そのような死相の人は人間界以上の世界(人界、天界、菩薩界、仏界)(注5)に旅立つと聖人は説いています。

逆に悪の多い人生だった人は、死後まもなく硬直し、顔の表情は苦渋に染まり、悔しさ、などの表情になり、体も重くなったり、顔色も黒ずんだりし、見るのも恐かったり辛くなったりします。体の腐敗も早くなります。そして、地獄の世界、餓鬼の世界、畜生の世界、修羅の世界(注6)に赴くと聖人は説いています。

これらは私が多くの人生やその臨終を実際に見てきた事実からも言えますが、聖人が説いています。人生は長さではなく、何を為したかが大事なのです。

最近最愛の妹が70歳で亡くなりました。生前は、人のため、子どもたちのため、孫のため、婿のため、病弱を省みず誠実に真心こめて行動し尽くしていました。がん闘病で、余命半年と言われていましたが、約3年生きました。そのうちの2年半は普通に生活していました。亡くなる前の半年前から入退院を繰り返していました。

辛い闘病期間もあったようですが、臨終後、顔は穏やかで安らかになり、体も白くなりました。もともと色の白い人であったようですが、若返り、きれいになりました。葬儀、火葬までの三日間、私もまじかで接し、指や腕に触れましたが、柔らかく、腹部はかすかに上下し、呼吸をしているような感じで安らかに眠っているようでした。

硬直もなく腐敗もありません。孫たちは祖母に手をつないだりして何度も触れていました。柔らかく、手が握れるのです。腕の脇の部分などは、火葬の日まで温かでした。このような死相の人は、そうたくさん見たことがありません。その人の母親も同じような状態であったと記憶しています。私がまじかで見た死相で、このような状態で臨終を迎えたの人はわずかです。いずれも人に誠実に尽くすように生きてきた人たちです。それ以外の人は、死に顔を見るのも辛くなるような状態の人の方が多かったような気がします。

「臨終のことを まず学びて、他事を学ぶべし」と聖人は言われました。死にゆく存在であるわたしたち人間。私たちはいかに死ぬのか、それはいかに生きるのかの問いになります。最高に価値ある生き方、意味のある生き方、充実した人生とは、人の幸福に貢献する生き方、つまり菩薩道(注7)にあると、ブッタは教えました。

◎当室はいかなる宗教団体とも無関係です。室長は若き日から、万般の哲学、思想、宗教、心理学、文学、科学を研鑽し、最近は法華経と量子力学の関係性を研究しています。

注1 生住異滅 じょうじゅういめつと読む。仏法哲学の生命観の一つ。この世界のすべての存在は、生れ、安定した形で住み、やがて老化したり壊れたりする異なる形になり、すべて滅していくという過程をたどります。生物、無生物すべてに当てはまる。地球や太陽、石や塵、植物、動物、人間、すべて生住異滅の法則に則っています。つまり、すべての存在は常に変化していると言うことであり、「諸行無常」と同じ世界を指しています。

注2 アップルを設立したその会社の共同経営者。スティーブ・ジョブズの「最後の言葉」の要点を筆者がまとめたもの。一代で大富豪になった人。

注3  ブッタ・聖人… 法華経正統継承者の中では、三世の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人をブッタ・覚者・聖人と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドの釈尊、中国の天台智顗、日本の最澄と日蓮の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来世を予言し、それを的中させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹・天親菩薩がいます。彼らは人間生命の深層を探り、空観や唯識思想や死後の世界を究明したと言われています。

注4 阿頼耶識・貯蔵識…唯識思想では意識の下に、無意識層として、第七識として末那識(自我執着意識)、その下に第八識、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在していますが、縁に触れて生起し、意識に影響を与えます。脳に記憶化されたものと考える理解しやすいかもしれません。天台智顗は八識下に根本浄識としての九識を覚知されました。それを法性・仏性といい、あらゆる生命、万物の根底の生命であり釈尊の妙法蓮華経や如来と同義であると説かれています。

生命の深層の第八識・阿頼耶識に貯蔵された業(カルマ)の主として善悪が次の生のかたちを決めるとされ、楞伽経(弥勒菩薩、無著菩薩の教えとされている)では、初七日から七日間ごとに行き先が決まるとされ、49日目には、どんな人も行き先が決まると説かれています。

注5 心法…生命は色法と心法の二面性をもつと天台大師は理論づけています。色法とは、簡単にいえば肉体的側面で分析可能な部分です。心法とは、簡単にいえば心性です。色法の働きを可能にする性分・性質であり、分析不可能な不可思議な働きで「空」の状態で存在しています。色心不二が究極の生命の真実相とされ、仏性や如来と表現されることもあります。

注6 龍樹菩薩… 2世紀ごろのインドに生れた仏教僧。ナーガールジュナという。空(くう)は龍樹菩薩の中心思想の一つ。存在するものを「有」存在しないものを「無」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「縁・対境」によって生起し有のかたちになる。「空」は有無の二つの在り方をとる生命現象なのです。

注7 人間界以上の世界(天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界) 注7 地獄の世界、餓鬼の世界、畜生の世界、修羅の世界

釈尊以前のバラモンの教えは、六道輪廻といって、人間は六つの世界を巡るとされていました。その六つとは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天界でした。天界が最高位です。世間で言われるところの欲望が満足された極楽のような世界です。しかし、生命の真実を覚知された釈尊は、生命の境界は十境界あるとして、それを法華経如来寿量品で説きました。中国の天台大師は、それを一念三千論として体系化され、生命の十境界を明確に説明しています。

「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、諂曲なるは修羅、平らかなるは人、喜ぶは天…」と

分かりやすく現代的に説明します。

〇地獄の世界…苦しみ・地獄の世界―地下の牢獄(ナラカという、サンスクリット語)―最低の生命境涯
・生きていることが苦しい、何も見ても不幸、どうにもならないうめき声。生命力の枯渇。
・思い通りにならない苦しみ、怒り、憤りの世界。

・怒りがもたらす破壊の働き…自傷や他傷、殺人や戦争の原因
・焼けつくような苦しみ、求めても得られない苦しみ。強いものに巻かれる苦しみ
・苦の波長…本来の波長が失われ、逆流し、混乱し生命は限りなく疲弊し生のエネルギーを奪う

※死後に赴く世界…地下深くにある八大地獄に象徴される間断なく苦が充満する世界。

〇餓鬼の世界…「〇〇したい、○○がほしい」 充たされない焼けるような枯渇した世界-餓鬼の世界―
・欲望の過剰やとらわれ、執着に心がつながれ、不自由になり苦を感じる。
・ギャンブル依存などあらゆる依存は欲望の執着がもたらしている
・飢餓的欲望の波長…一時的に速度を増し、竜巻のように自己破壊を伴う。

※死後に赴く世界…地下深くにある渇しても渇しても得られない、生命が焦がれ焼かれるような苦しみの世界。

〇畜生の世界…先を見ず目先で行動する愚かさの世界…畜生の世界…残害の苦…強いものに食べられる苦 しみ
・生きるための本能、食べる、生殖活動、自分を安全に守る働き。
・弱肉強食の世界、自分の中に規範がない。強いものに巻かれたり、食べられたりする恐怖の世界。
・後先を考えない本能に支配されて行動する愚かさ。
・波長は、どんよりして遅々として進む。けだるい感じ。以上の三つの世界を三毒とも三悪道ともいう

※死後に赴く世界…残害の苦を伴う世界(強いものに食べられる苦しみのある世界)

〇修羅の世界…他者と比較し、常に他者に勝ろうとし、心が休まらず安定しない修羅の世界
・他人と比べ、自分が優れ、他人が劣っていると思う心。優れた人に嫉妬し、引きずり落とそうとする心。
・自分は素晴らしいと思う自己像を持ち、その自己像を壊さないためにエネルギーを費やす。
 外面は善い人…仁・義・礼・知の振る舞いで本心を隠し偽り、人に諂う。素直でない。
 内面と外面が異なる。偽りの自分を守り、保つためにエネルギーをつかう。心は安定しない。
・自分の優位性を保ち、劣等を隠すため、心は戦々恐々として休まるところはなく不安定。

※死後に赴く世界…海の波が間断なく打ち寄せ、戦々恐々とした安心できない世界。

〇人の世界…平穏な境地、人間らしい境涯…自分に勝つ生き方の第一歩…人間の世界
・正しい人生の軌道を歩むことによって心が安定してくる、内面化された規範に生きる。人らしさを保つには努力が必要になる、人間を超えたものに畏敬の念を持ち、尊敬することで自分を豊かにする。「三帰五戒…人間らしい生き方」は人に生れると唯識哲学は教える。
・欲望のコントロール、抑制する努力、倫理や道徳を守る。教育によって、人は人になる。教育が大事になる。

※死後に赴く世界…安らかで穏やかな平和な世界。

〇天の世界…欲望が充足された喜びの世界…天の世界
・人々は天を仰ぎ、敬い、憧れた。 自分に打ち勝つ先に得られる喜びの世界。
・欲望世界・精神的な充実の世界。しかし砂上の楼閣であり、永続できない。

※死後に赴く世界…満ち足りた満足を感じる世界。

〇声聞の世界 反省、内省的自我…諸行無常を探究。存在の有無、真理を追究し自分を高める世界
 一切のもの、一切の生物、人、社会に学び、人間完成を目指す心。見えないが確かに存在する心を見る。空や縁起を学ぶ。

※死後に赴く世界…充実を感じる世界。

〇縁覚の世界…「空」を悟る境涯。諸法は無我と悟る。色即是空を悟る世界。代表的な人に、夏目漱石、吉川英治などの文豪、ベートベーンなどの音楽家、アインシュタイン、ニコラテスラ、ニュートン、アリストテレス、ゲーテ、トルストイ、ダビィンチなどの覚りを得た人たちの世界。

※死後に赴く世界…深い充実感のある世界。

〇菩薩の世界…他者を守り、支え、育む慈悲・愛の心に満ちた世界。自然や宇宙の根本法則、慈悲の周波数に自分の周波数を重ね合わせるようにして生きる。…菩薩の世界
その慈悲の周波数に生き続けるとき、あらゆる生命、人間は本来の調和を奏で最高の自分を発揮し充実し安定する。真の幸せ郷に至る。代表的な人に、孔子、老子、イエスキリスト、キング博士、ガンジー、中村医師、ヘレンケラー、ナイチンゲール、観世音菩薩、弥勒菩薩、不軽菩薩などの無数の菩薩がいる

※死後に赴く世界…喜びに満ちた深い充実に満ちた世界。仏国土や寂光土、霊山浄土などと表現されている。死後赴く世界で、最高の境界の世界。生前、菩薩道を実践し、菩薩の心が定着した人が赴く世界とされている。

注8 菩薩道 人々に内在する仏性(最高の生命状態、智慧、生命力を持つ、妙法蓮華経ともいう)を礼拝し、仏性を開くために、相手に尽くす生き方。人のすべての面を受け入れ、守り、大事にし、生の向上・成長のために尽くす生き方。お腹の中の子を守る母親の生き方は菩薩道そのものとされています。

母親の菩薩の行為(少なくとも胎内にいる9か月あまり)を考えると、毒親という考え方は生命の真実の在り方に反する言葉になり、その言葉を発する人自体の考え方が、逆に毒を飲むような行為になり、不幸になっていくというのが生命の因果の法則です。その考え方を煽る人たちも同罪です。

  生きている  どんな財宝や 名声にも まさる  不可思議な 有り難き 心の流れ 

2025.01.01

私たちの新進は 24時間 意識できない世界で 変化し続けている

私たちは何かを感じ何かを考え、瞬間を生きています。ある人は何気なく、ある人は何も考えず、ある人は意識をもって、今を生きています。私たちは今の自分が感じている意識が、自分のすべてと思っています。そのことを深く考えることは、ほとんどありません。今の瞬間の命が 常に一定のところにとどまることなく 流れ続けていることを 意識することはできません。

意識できている世界は1%以下、99%以上は意識できていない

冷静に自分を観察し想像力を働かせてみると、私たちが意識できている世界は1%以下なのです。99%以上は意識できないところで心身は活動しています。私たちは無意識的活動を意識できないため、その活動に気づきません。その働きの、あり難さを感じることもありません。正しい知識に基づいた想像力によって、はじめて真実の把握ができ、心身の働きの偉大さに気づくようになります。

「想像力は知識より大事である 知識には限界があるが 想像力は無限である」 アインシュタイン

(われ)思う、(ゆえ)に我あり

16世紀の有名な懐疑(かいぎ)哲学者(てつがくしゃ)デカルトは、すべてを疑うが、疑っている自分の存在を真理と認め「(われ)思う、(ゆえ)に我あり」との名言を残し近代合理主義哲学の()とされています。

つまり、私たちが今、感じている意識こそすべであるということです。意識できない世界は(やみ)に閉ざされることになりました。合理主義のもと物質科学はめまぐるしく発展を()げ、原子爆弾や光速度の研究、やがて月にロケットが着陸するという、ウサギの(もち)つきつき神話もあっけなく(くず)されることになりました。現実の月は、地上で見る月とは異なり、でこぼこだらけで美しいものではなかったのです。

科学万能主義の時代が 心の世界を置き去りにした

やがて科学万能主義の時代が到来(とうらい)し、人間は神をも恐れない存在となり、科学を崇拝(すうはい)する科学信仰を招きました。科学がすべてを解決してくれると…。

しかし置き去りにされてきた、意識できない世界である心については、ほぼ16世紀のままと言ってよいでしょう。深層(しんそう)心理学のフロイトやユングがその闇にかすかな光をともしましたが、科学性には(とぼ)しいとされ看過されています。

今生きているのは、心身に記憶されたものが自動再生しているに過ぎない

ところで私たちが生きているのは、意識できる部分、意識できない部分の働きを合わせたもの全体が私たちの心身の活動の事実です。五つの感覚(眼・耳・舌・鼻・身)で刺激情報を感受し、それを意識が快・不快などの感情として受け取り、言語化して記憶していきます。こうして無意識層に記憶されたものが自動的に次の活動を生み出します。

今、生きていることはこれまでの人生で習得した記憶が意識化されて生きていることなのです。つまり、心身全体の過去の記憶が自動的に再生されたもので生きています。 

私たちが感覚し意識できるのは、体を動かす運動神経と感覚神経ぐらいで、実際に働いているものの1%以下にすぎません。私たちの体を俯瞰(ふかん)すれば、その事実に気付きます。

身体の働きは神そのもの

少しだけ例を挙げてみます。呼吸で吸った酸素は気管支を通り、肺にある約4億個ある肺胞に入ります。その肺胞の中は、それぞれ湿度100%を保っています。一つ一つの肺胞の周囲にめぐらされている毛細静脈と毛細動脈でガス交換を行います。そして心臓を経て全身の細胞を巡り酸素を配り、二酸化炭素を持ち帰ります。心臓の一回の鼓動で約70mlの血液が送り出され、約30秒で全身を巡り、心臓に戻ってきます。こうして、酸素と栄養は全細胞に配られ、私たちは生を保っています。止まれば死にます。

また食べたものは口で咀嚼(そしゃく)され、気管に入ることもなく、食道のぜん動運動によって、胃に送り届けられます。胃には食べ物を(くさ)らないようにするため、胃酸を出し37度の温度で数時間保存し、空腹感を防ぎ、やがて十二指腸におくります。体のごく一部の活動ですが、こうした活動は、私たちは意識できません。

生きるために、私たちの身体は瞬間瞬間、熾烈な闘いをしている 

体の中で毎日新しいがん細胞が成人の場合で約3000個生れているという事実があります。私たちはボーとしていますが、体の内部で白血球が熾烈(しれつ)な戦いをし、マクロファージという細胞が、がん細胞を食べたり、攻撃したりして、がん細胞を駆逐(くちく)しています。そんな活動に対して私たちは、全く意識することもできません。

風邪を引き発熱し、のどが()れた時など、白血球が菌やウィルスと戦い、そこは戦場となり炎症(えんしょう)を起こします。また赤くはれたり、発熱したりするのは激しい戦いの(あと)だからです。

このように私たちの身体は、意識できない世界で、涙ぐましい戦いを(いた)るところで展開しています。私たちが意識して指示しているわけではありません。体の各部分が、体を守るために、本来的使命に生きているのです。生きぬくための熾烈な戦いをしています。仮にウィルスに負けてしまうと、体は死ぬからです。破傷風(はしょうふう)などの(きん)に負けると、やはり命を保つことはできません。

弱肉強食が生物界の生体の秩序(ちつじょ)の一つのルールです。人の体の内部も白血球が負ければ強いウィルスが勝ち、体を支配し、人は死にます。身体自体が壮絶(そうぜつ)破壊(はかい)と創造を()りなしているのが生の現実です。

私たちは 動きを止めれば死滅する

人は動きを止めればやがて弱り、死滅していくしかないのです。体の内部の戦いのように動き、前進するしかありません。宇宙や自然は常に変化し流動(りゅうどう)しています。人間も宇宙の一部であり、変化に合わせなければ生き残ることができないのが自然の道理(どうり)なのです。

地球は生きている それを神通力という

地球は生きています。私たち生物と同じように…。地球は地球自らのものであり、自分の役割を誠実に果たしながら 自分の使命を果たしています。

地上の大気中には、私たちの生命活動の根本である呼吸に必要な酸素がほどよく存在しています。また各惑星、月、太陽との絶妙なバランスと、ほどよい距離感と大きさによって重力や引力が均衡し、今の領域を正確に保つため一日で一回転し、太陽の周りを高速度で一年をかけて一周します。だれの指示でもなく、自らの本然の力で回っています。

そうした神秘的な智慧のおかげで、私たちは宇宙に浮遊せず、大地に足をつけ、太陽光の強烈な紫外線にさらされることもなく、適度な水と温度、湿度の恩恵に浴し、生きていくことが出来ています。

生きとして生けるものすべてが、生まれ、そして自分の役割を演じ、生を終えていきます。地球も生物も人も同じ生命体です。これを生命現象の「生住異滅」といいます。

地球の営みは慈悲を根本にした智慧の発動

地球の活動は慈悲を根本にした智慧の律動に支えられています。慈悲とは苦しみを抜き楽しみを与える働きです。地球上のあらゆる生物の苦しみを和らげ、楽しみを与えゆく慈悲の実行者にして慂出する力それが智慧です。あらゆる生物は、地球の恩恵に浴し、慈悲と神秘な智慧に守られながら生きることが出来ているのです。

地球上には大気圏が地上から、約10万キロmまであり、宇宙空間からくる電磁波などから守られています。地上の生物や動物や人が生きていけるのは、酸素が存在し、海があり、人間の血管のように河川があり、血液が流れるように水が流れているからです。

地球の自公転や水が生物の生を支えています。私たちは、普段当たり前のこととして、それらの恩恵を享受していますが、けっして当たり前のことではなく、奇跡なのです。

地球の有り難さの一部を感じるのは、地震や気温の急激な上昇や線状降水帯発生などの時ぐらいでしょうか。そんなときも、地球そのものについて深く考えることはせず、自分たちが生き延びることしか考えていません。どこまでも自己中心的な欲望に生きているのが人間です。

地球の兄弟星、火星や月には酸素がほとんどありません。金星は温室効果ガスの影響て表面温度が460度の灼熱の惑星です。美しい輪を持つ土星の輪は、氷の粒と岩石の集まりでありガスの惑星です。太陽系では地球だけが生物が住める不思議な惑星です。

太陽からの距離が絶妙な位置にあるため、地球上では生物が生きていけます。太陽が光を程よく調和するかのように、可視光線、赤外線、紫外線などを届けてくれています…。太陽の光のおかげで、暗闇の宇宙に光が灯され、私たちはものを見ることが出来ます。絶妙な気圧のおかげで振動をキャッチし音や声を聞くことが出来ています。私たち生物は、とても不思議な働きに守られています。

私たちは無料で地球に棲んでいる

地上の生物は、無料で地球に棲んでいます。人間は、地上のあらゆるものを勝手に使い、加工し破壊しています。地球全体の働きを考えず、自分の利益になる部分を切り刻み、自分たちの生を保とうとしています。他の生物に比べ知能が発達しているため、自己中心的欲望にまかせ、他の生物の生態系を壊し、母船である地球そのものを壊しつつあります。このままの愚行が進めば、生物は少しずつ絶滅し、人類も滅びてゆくことになります。今しか考えない、救いようのない愚かさが、拍車をかけています。

地球を傷つけているのは人間の自己中心的欲望

森林伐採と砂漠化、工場が出す煤煙と汚染水で海や川が汚れ、多くの生物が死滅しています。二酸化炭素の排出と気候の温暖化、食用のために動植物の殺、養殖。鳥瞰的客観的な目で見れば、人間のしていることの恐ろしさに唖然とするのではないでしょうか。

地球が生命ある存在ということを知らないようです。地球は傷つき、血を流しているのが見えないのでしょうか。科学が進歩し、物理天文学、量子力学も日進月歩しています。スマホ一つで、用が足せる便利社会になり、子どもから大人まで、楽しさやおもしろさに溢れる視覚快適感覚に脳が麻痺し思考する苦労をしなくなり、自己中心的に快楽を追い求め、生物や地球環境のことを思いやることを忘れています。

何のための科学の進歩なのでしょうか。見えるものしか追いかけず、大事な心を見ようとしない人間の生命の濁りが社会や時代の濁りを生み、あらゆる心身の病気を招き、応急対処的な症状除去の医療に身をまかせ、根本を見ることをせず、人類や生物を破滅に導いているのです。

気候変動、地震や自然災害、地球はSOSを出しています。しかし、そのサインをだれも読み取ろうとしていません。真の科学者はいますが、多くの自己保身者や自己中心者に消されているかのようです。

地球上の生物の90%は植物です。地球の主人公は植物ともいえます。地球は植物の惑星です。

残りの10%が動物・昆虫・微生物などです。動物の中でも人はごく微小で、人一人に対して、ありは一万五千匹の比率です。地球の動物の主役は昆虫です。

生物、特に動物は弱肉強食の本能の法則で生きています。最も限度を知らない自分勝手な動物が人です。少しばかり、脳が発達し、道具を開発し、言葉を持ち、記憶化した知識で、地球を支配するかのような錯覚に生きています。その錯覚がやがて地球を荒廃させ、生物が住めない惑星にしてしまうでしょう。

誰のものでもない地球、地球は地球自らのものです。「ここの土地は自分のものだ」と言い張り、人を平気で押しのけ殺す人たち…その極致が戦争です。戦争は自己中心性のもつ人間魔性の仕業です。

宇宙に浮かぶ地球を想像することができれば、地上の生物や人はみな地球号に乗った運命共同体と自覚できます。無知な自己中心的な政治家や権力者や富豪たちが、やがて地球を破滅させてゆくでしょう。

地球の恩恵を感じる心が地球や人類を救う

未来の地球に生きる人たち、今の子どもたち、他の生物、動物を思うと人間の愚かさと貪欲、そして傲慢さに怒りがこみあげてきます。地球の恩恵をありのままに感じる純な心をもつことこそ、人としての正しい道ではないでしょうか。