相談室(ブログ)

「死は存在しない」という本を読みましたが、詭弁と思いますが、どう考えますか? 22歳・男性

2024.08.25

回答

私も興味をもって読みましたが、現実味の薄さを感じました。書の中で、仏教の般若心教(注1)の「空即是色」や唯識思想の「阿頼耶識」(注2)、法華経の「如来寿量品」(注3))の永遠の生命についての一部説明がありましたが、いずれも各経典の表層をさらった感じです。なぜなら仏教の深意は修行なくして覚知できないものだからです。

さらに最先端の量子力学を引き合いに出して説明していますが、量子力学はあくまで物質の究極の世界の話で、心とは別問題です。筆者はゼロポイントフィールドという言葉を使って、神や仏の別表現のような仮説を述べていますが、ますます曖昧であり、あなたの言う通り、私も同感で雲のように疑問が湧き起こる次第でした。

私は、哲学、思想、心理学、物理学、宗教を50年近く学んできました。死や生命や宇宙、そして神秘な心に興味があったこともあり、法華経には特に力をいれて学んできました。

結論を言えば、生命の真実は観念や知識では理解できないとブッタは、法華経方便品で智慧第一の舎利弗(注4)を叱責したほどです。つまり生命の真理は知識で理解できるものではないということです。仏教は、釈尊の全生命をかけた壮絶な戦いの中での悟りを基に、当時の弟子たちに語ったものが伝承されたものです。当時、書はなく、釈尊の教えは弟子たちの実践体得の中で悟りを得た弟子たちによって伝承されました。その教えは八万宝蔵と言われ、膨大なものであり、釈尊一人の悟りではなく、正しい弟子たちの総結集の悟達の集まりなのです。

釈尊滅後、その教えは付法蔵といわれる正法行者によって伝承されました。なかんずく、インドの竜樹菩薩は大智度論等に「中観…生命の真実相、空観など」を体系的に究明され論じています。また天親・世親菩薩は「唯識思想」を体系化され、阿頼耶識の業思想(注5)や死後の生命について究められました。

その最後の伝承者が、中国天台宗開祖とされる天台智顗です。仏教を精査され、釈尊の教えの真意を汲み時系列、内容で体系化されました。そして、その最高峰の生命哲学を法華経の中に見出し、一念三千論として完成させました。法華経が生命の全体を悟りの境涯から説いた最高峰とされ、他の教えは人間の理解や境涯に応じて説いた方便・部分観の教えとされました。例えば、般若心経は生命のもつ智慧の不思議な働きを述べた教えです。般若はサンスクリット語であり、智慧と訳されます。智慧は生命の働きの部分です。

天台大師の教えを学ぶために、当時の日本の僧侶、最澄、空海、道元上人をはじめとした僧侶は中国の天台山まで赴き、修行されました。帰国した道元は禅を、空海は真言密教を最澄は法華経を伝え弘めました。その後、法華経は日蓮に継承されていきます。700年の歳月の中で日蓮の法華経も解釈がまちまちとなり、多岐に枝分かれし、何が真の教えかわからなくなりました。

宮沢賢治も日蓮の信奉者の一人ですが田中智学の国注会で法華経を学んだとされています。また道元の禅の教えの一部は、アメリカのカバットジン氏によって、世界にマインドフルネスとして広まり、日本にも逆輸入されています。仏教の哲学思想、つまり仏法は玉石混交となり、仏法用語は顛倒し、正しい心が失われつつあります。釈尊・ブッタは、そうした時代を末法と3000年前に予言していました。

さて本題の「死は存在しない」について私見を述べます。

これは「死とは何か」ということになります。つまり死は生の終着点であり、来世への出発の種子を秘めた重大儀式です。生老病死の四苦は人間の避けられない苦悩です。もっとも強く激しい苦は私たちが死ぬ存在であることです。死は誰人も避けられない厳然たる恐怖をもった現実です。必ず死ぬ人間は、その死と向き合い解決の道を求め、いかに生きるかに昇華させてきたのです。

それが幾多の宗教思想となり、今日に結実しています。死は厳然たる事実であり、誰人も避けられない人生最後の試練であり、解答なき難題なのです。なぜなら、今生きている人間は誰一人死んではいないからです。その意味では、あらゆる死についての考えは仮説と言えます。

釈尊は苦行の末、何を悟られたのでしょうか。その悟りの全体は法華経28品に凝縮されています。

なかんずく如来寿量品には、生死不二(仏法には不二の説明がたくさんあります。不二とは二つであるが二つでないという意味です。空観がわからないと理解できません。)が説かれています。つまり生命は生と死という二つの相を本来的にもっているのです。生は法であり、死は妙です(注6)。生死の二法の生命を妙法(サンスクリットでサダルマという。ダルマは有名ですが、法という意味です。サは妙、思議できない不可思議境という意味です)覚知したのです。瞬間の生命に過去も未来も現在もすべてが包含され、その瞬間の生命がそのまま海の波の上下運動のように続くというのです。正確に言えば、続くのではなく、永遠に、今の瞬間しかないということです。

寿量とは生命の寿命が無量であること、つまり生命が永遠であることを説いています。その生命とは如来のことであり、瞬間瞬間、如如として来る生命のリズム・波動なのです。またありとあらゆる生命体、すべての物質が如来であり、仏性をもった存在と説かれています。こうした生命の真実は知識という生命の一部分の働きでは悟ることはできないとされています。修行における体得、つまり全生命という全体をかけた覚知なのです。もちろん、私も知識でしかわかっていません。修業が足りないからです。

詳しくは当室のブログや特別講座の内容などを参照されるとよいと思います。

(語注) 芝蘭の室 室長の解釈説明。

注1    般若心教の「空即是色」…正式には「魔訶般若波羅蜜多心経」のことであり、約3万字の教である。二世紀ごろの竜樹菩薩の作と言われている。生命の「空観」「縁起」を説いている。般若心教は後世、この経を300字に短縮されたとされている。空即是色、色即是空は有名であるが「空」や「縁起」という生命現象が理解できれば解読できる。

注2  唯識思想の「阿頼耶識」…生命の心性を唯識派が考察。生命とは心の働きであり、心だけがあるという見解。心を八に分け、眼識、耳識、舌識、鼻識、身識といういわゆる五感に、六番目として意識。七番目として無意識に潜在する末那識(自我執着識)八番目を心王として阿頼耶識を説く。心はすべて阿頼耶識でつくられ、蓄えられるとする。詳しくは「阿頼耶識の発見」横山紘一著を参照されるとよい。

注3  法華経の「如来寿量品」…法華経はインドの釈尊・釈迦・ブッタが約3000年前に説かれた教えであり、50年の説法の中で、晩年8年の教え。それ以前の42年の教えは、生命の部分を説いた教えであり、方便とされる。真言、禅、般若、念仏等は部分観の教えであり方便教とされた。法華経は生命全体の悟りからの教えであり、実教とされ生命の真実が説かれた。法華経は28品にまとめられ、如来寿量品第16には、釈尊の永遠の生命が説かれ、一切衆生(人間も含む)の永遠の生命も説かれている。さらに生と死は生命の二つの表現法と説かれている。

注4  舎利弗   釈尊10大弟子の一人。智慧第一とされた当時の最高級の知識と智慧の持ち主。方便品の対告衆とされた。方便品は生命の真実相の理論、十世界や十如是などが説かれている。仏の悟りは知識では覚知できないと釈尊は舎利弗を諭し、「信」より入ることを強調された。

注5 業思想  業とは衆生(人間)が言葉、心、行動でつくるものの総体。その業の因果か次の行為につながり、死後は生前の行為の総体、業によって生命の形(人間、動物、植物、細菌などの身体形状)が決まるとされる。

注6  生は法であり、死は妙です。生死の二法が妙法であり生命の真実相。生は現象であり、法則に貫かれています。死は不可思議で空の状態で潜在しています。思議できない働きなので「妙」なのです。比喩的に言えば、電磁波は見えません(死)が、周波数を合わせれば形(生)になります。

 

幸福になる人は、どんな特徴をもっていますか? 19歳女性

2024.08.22

回答

私がこれまでの人生で接してきた人の中で、二人だけ幸福な素敵な人がいました。その人の持っていた特徴を並べてみます。

一つ、心が澄んで振る舞いが素敵で奇麗な人

二つ、自分のこと以上に、身近な人を大事にする友愛の心を持っている人

三つ、何があっても自分に負けない不動な心の強さをもっている人

四つ、自分は地球や自然や多くの人に支えられて生きていることを実感し、謙虚で感謝の心を持っている人

五つ、すべては変化しゆくものと自覚し、今にとらわれず、常に学びの心を持っている人

六つ、自分というものをわきまえ、身の丈にあった生き方をしている人

七つ、正しい思想を持ち、正しい言葉、行動をこころがけている人

八つ、自分を超えたものに畏敬の念を持ち、自らの驕りを戒めしめ、偉大なものを尊敬する心もっている人

九つ、よい友をもち、常に自分を向上させることに努めている人

幸福になる人は、以上のような特徴を持って生きていました。人の心をよく観察すればわかってきます。

一言で言えば、心根がよく、正しい思想と行動をもった人間性に溢れた人、このような人と一緒にいたいと思わせる人です。何度か接すれば大体わかりますが、このような人と出会うことは稀です。もし出会うことができれば、それ自体、幸福なことです。親しく交わり、その人に学べば、あなたも幸福になれます。

幸福は環境から与えられるものではなく、自分で創り上げていくものです。同じように、恋愛は相手が与えてくれますが、深い愛は双方の努力と向上心で創りあげていくものです。相互の深い愛も幸福の一条件です。

苦しみの人生を、楽しく生きる方法はありますか? 20代男性

2024.08.16

回答

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
江戸幕府を開いた徳川家康の言葉です。今川家の人質として青少年期を不自由に過ごし、長じては、気性の激しい信長に忍耐づくめで仕え、さらに秀吉の顔色を窺い、自分の思いを心に沈め、重荷を背負って生き続けました。天下を支配し統一した家康ですが、果たして彼は幸福だったのでしょうか?

生きるとは苦しみなのでしょうか。仏教に『四苦八苦…生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみを四苦という。さらに求めても得られない苦しみ、嫌いな人と会い接しなければならない苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、自分の性格・気性がもたらす苦しみを合わせて八苦」という言葉があります。人生の大半が苦なら、生きる意味はあるのでしょうか。

反面、人生とは、生きる意味を生涯をかけて探す道のりとも言えます。それは苦を楽に転換する生き方の探求でもあります。昔の聖者や賢人はそのように人生を生き抜いた人たちです。

生きている今の瞬間の生命は絶えず変化し止まっていません。瞬間の一念には苦もなく楽もなく、過去も未来もありません。あるのは今の瞬間だけです。それは純粋な経験であり、苦楽を超えており、善悪で評価できないものです。それを苦と感じるのは五感覚で感じた意識です。過去の記憶化された潜在意識が意識を染色した結果なのです。本来の瞬間の一念は純粋経験であり、清く澄んでいます。

古来より生命錬磨の修行をされた先人たちは、人間の欲望こそが苦の原因だと究明しました。その三大欲…貪り(利へのあくなき執着)、癡・おろか(後先考えず、目先の欲に走る本能的な心)、瞋り・いかり(思い通りにならないことがらを攻撃し憎む心)を三毒としました。

毒は苦しみをもたらし、不幸にさせます。この三毒に加え、四つ目を慢としました。自分は優れていると慢ずる心、傲慢な心、現代的な言葉を借りれば「マウントする心」です。これも不幸の原因になります。これら四つを悪趣といい、悪への行為につながるものとし、自戒、抑制の道を求めたのです。

心を浄化させれば楽が得られると考え、苦行に徹しました。何日も断食したり、寒い中で水行したり、火の中に飛び込んだり、針の山のようなところを裸足で歩いたり、不眠の修業したり、異性を遠ざけたりして自らの欲望を断じようとしました。

全て苦からの解放の道を求めてのことであり、苦をもたらす欲望を克服した後に真の楽があると信じた行為でした。ブッタ(釈尊=釈迦)もその修行を一時期されたと言われています。

人の意識や感覚や行動のコントロールは難しいことなのです。人間が生きている、換言すれば、欲望に従って生きていると言えます。その欲望が苦にもなり、楽にもなります。つまり、苦楽は一念の裏と表の関係であり、どちらが出ているかで、その人の人生が彩られます。

聖者は苦即楽(苦はそのまま楽になる)、楽即苦と悟っりました。しかし、凡者は苦は苦と思い、苦を遠ざけようとして、楽ばかり追い求め、結果として苦しみの人生を生きています。ことわざに、楽あれば苦あり、苦あれば楽ありとあるります。人生の真実を穿った言葉だと思います。

楽を意識して強く一念を定て生きれば、一念は楽に染まります。そのように色付けするのは、今の意識であり一念なのです。意識を磨けば、どの瞬間も楽となり、楽しんでいけます。これが真の楽観主義です。ブッタ(生命を悟った人)の覚知でした。

そこには磨き抜かれた意識が求められます。一念が研ぎ澄まされ、清らかになれば、その純粋な一念に宇宙の慈悲の波が共鳴し、私たちの一念に慈悲が脈打ち、生きていることが楽しくなります。我が一念が宇宙の慈悲の一念と重なり共鳴する時、歓喜の周波数に包まれます。それが最高の楽であり、聖者・賢人が求めた世界なのです。
そのためは、意識を純化させ、正しく感覚・感情を磨き、行動を正しくし、正しい思想を作りあげることが必要になります。それが聖者たちの修業でした。

「生きている。ありがたい」と自分の心身の働きに素直に感謝できる心、地球や自然や太陽の恩恵に感謝できる心、一切の生き物、身近な人たちに心から感謝し恩恵に報いようとする澄んだ心に、喜びがわき起こってきます。それが宇宙の慈悲の周波数に人が心を合わせる一つの方法だからです。宇宙の働きは本来慈悲の周波数なのです。

しかし、人々は世の中の快適を誘うものに対して、過剰に反応し、とらわれ、心身を偏らせ、バランスを失い、少しずつ生命を濁らせ、ぎこちない周波数を出し、自然のその周波数と重なり苦海に入ります。

その人たちは、自然や社会の恩恵を当然、当たり前と思い、自らの驕りに気づいていません。結果として欲望に翻弄されている自分を見つめない浅い思想に生きることになります。思想は日々生きることを支えている無意識から自動的に起きる言葉であり、感情を伴っています。人生はどんな思想に生きるかで、幸福不幸も決まるとブッタは看破しました。

本当の幸福は澄んだ清らかな心田に種を下ろし、発芽し実ってゆくようなものです。真の幸福は清らかな澄んだ生命、欲や障壁に負けない強い心に宿ります。それを目指しているのが当室のマインドフルネス心身調和法であり、深い思想哲学に根差したものです。一緒に学んでみませんか。

 

人は、なぜ戦争(殺し合い)をするのでしょうか…小学校5年生女子

2024.08.15

回答

今日、8月15日は日本の終戦記念日です。一部の指導者に操られた当時の日本人は、どの戦場でも地獄を生き、国内で待つ人々も地獄の日々を送っていました。戦争は利を貪る人の心から起こり、弱肉強食の動物性で弱者を攻撃し、反撃されれば怒りに支配され、憎しみを募らせ、悪循環の地獄絵図に染まっていきます。

貪欲に利益を求め、弱者を攻撃し、思い通りにならないと怒る…そんな人間共通の欲望・感情が地上で殺し合いを続けさせます。

そこには理性も正義も道徳も人間性もありません。平和な社会では考えも及ばないことですが、戦争状態では、相手を殺すことが正義になります。人は環境によって変わる生きものである証拠です。戦争下で、人間性を貫くことがいかに難しいことなのかを物語っています。

以来79年の歳月が流れました。しかし世界の多くの地域で暴力による殺し合い、紛争、戦争が今なお繰り返えされています。「多くの利を得たい」という欲望から始まった泥沼地獄です。悲しいかな、この79年間、人間の心は全く進歩していないといえます。人間性はなぜ深められないのか?という問いが私の心にこだまします。

今日、妻に同行し癌センターに行きました。そこで目にしたのは、癌に苦しめられながらも、ひたすら生きようとしている人たちの姿でした。

生きる。いや生き抜く。意識しなくとも無意識的にそれが使命でもあるかのように苦しみを背負い一生懸命生き続けようとしていました。ウクライナやガザ地区の人々も、全く同じと思います。

生きる意味とは何なのでしょうか…。生きるとは苦しみなのでしょうか。人間は、やはり性悪説の通り、悪には勝てない生き物なのでしょうか。人類の歴史は暴力支配であり、より多く人を殺す者が勝者になり、国を治めてきました。それが人類のたどってきた歴史です。

今の日本は一見平和に見えますが、経済・お金という代替戦争をしています。殺し合いの戦争も経済の利潤追求もどちらも、「あくなき利」の追求であり、「利」への貪欲が引き金になった闘いなのです。

人はなんのために生きるのでしょうか…。利の追求、利を得れば幸福になれる、それが人生の目的なのでしょうか…。

人は生れた瞬間から、死というゴールに向かって進んでいると、ある哲学者が語っています。どのように生きれば、よいのでしょうか?20代男性

2024.08.13

回答

地球上に生を受けたあらゆる生物や人は、生まれた瞬間から死というゴールに向かって進み始めます。意識するにせよ、しないにせよ、それが厳しくも避けられない生命の因果律なのです。人生の最終目標は死です。古来、聖人や賢人は、この死という絶対的なゴールをいかに迎えるかに悩み苦しみ探究してきました。

死ぬ存在であるからこそ、私たちは生を考え、いかに生きるべきかを考えます。大事なかけがえのない人生の時を惜しみます。本当に大事なものは何なんのかを思索します。

死を考えることは生を深めさせつます。生と死を含んだ生命について思考するようになります。そして自分を見つめ、人生の在り方を考えるようになります。ギリシャの哲人ソクラテスは「汝自身を知れ」と青年に、本当の自分、そして生きることの真意を問いました。

生命は死と生という二つの相を含んだものというのがブッタ  -生命の真実を悟った人、インドの釈尊をはじめ、この宇宙にはたくさんの覚者がいて、その人達のことをブッタとよびます―  の悟りです。

瞬間瞬間、身体も心も生死を繰り返しています。身体の生死は、細胞について学べば理解できます。心の生死は、自身の心を深く観察すれば悟れます。ミクロの世界でも生死は繰り返されています、マクロの世界、つまり人生における生と死は必然なのです。

生と死は因果でつながり、環境という縁で発芽し、海の波のように、生じては消え流れていきます。今生きている現世の在り方を深く観察すれば、死後の生命も分かります。エネルギー保存の法則に比喩されるでしょう。

かつて中国の秦の始皇帝は不死の薬を求めましたが、果たせず死にました。幾多の宗教が不死を求め、永遠の王国、死後の復活などを求めました。その願いの底には、人間の現世への執着の強さが横たわっています。いずれも生命そのものがわからず迷いの苦しみの海に沈む部分観の思想とブッタは見抜きます。

瞬間瞬間、如如として来る私たちの生命…如来…それはどこから生じ発しているのでしょうか。その瞬間の生命を深く覚知する時、私たちは生命全体の不可思議境に到達できます。つまり生もなく死もない世界…生死不二の生命根源の世界です。生と死の二つの相を含んだ生命そのもの真実の秘境です。それは、釈尊、竜樹菩薩、天台大師、伝教大師、日蓮聖人らをはじめとした多くの覚者の悟りの世界と言われています。

どのような死を迎えるかは、どのように生きるかになると覚者は教えます。そして最高の生き方を私たちに示してくれています。

 

 

生きることが不安です、自然災害や人も不安です…どのように生きればよいか教えてもらえますか?

2024.08.04

回答

文明は進歩し、科学はめまぐるしい発達を遂げ、人は生物界を支配したかのように振る舞い、物質的豊かさは、今まさに頂点に達した観があります。

さらに医学の進歩のおかげで、多くの病は解明され治療法も見つかり、健康長寿社会は到来しました。日本は平和であり福祉も充実し、長寿世界一になっています。

しかし物質文明が進み豊かになればなるほど、また科学が進歩すればするほど、逆に心の病は増加し、人の心の中に不安が増大しています。なぜなのでしょうか? 私たち人間は進むべきみ道を誤ったのでしょうか。

それは人間が、分析できる物質、見えるものだけを追い、見えない心を置き去りにしてきたからです。物質世界・身体と心の世界の乖離が著しくなってきたからです。身体の一部の脳の研究は進んでいますが、肝心な心は解明できていません。つまり人間生命全体の研究が偏り、部分観だけに走りすぎた結果なのです。

人間、生命、人生という全体観に立った科学、思想、哲学がこうした問題を解明してくれるでしょう。

人間の生命とは何か?

私たちはどこからきたのか?

死とは何か?

人生とは何か?

人生いかに生きるべきか?

有史以来の人類の課題なのです。過去の偉人たちの人生を紐解けば、それらの問題が明らかに見えてきます。そして生きることに必然的に伴う不安も解明されます。

 

 

生きることが辛い… 生きる意味はありますか?

2024.08.02

回答

人は生れ、親に守られながら、乳幼児期を過ごし、少年少女期の終わりごろから、自我に目覚めていきます。そのころから、人は「自分とは何だろう?」「人生どう生きればよいのか?」 「幸せな人生とは?」など自分や人や人生について真剣に考えるようになります。私も小学校6年生のころから自分は死ぬ存在だと知りました。同時に人生を考えるようになり、幸せの人生を願うようにもなりました。

他の動物と違って人間は大脳皮質が発達し、知的活動能力に優れています。学者は霊長類と名付けました。ロダンの名彫刻「考える人」はそれを象徴しています。思考することは人間の宿命であり、優れた能力の一つであり、新しいものを創り出す要素であり、幸福を創り出す源でもあります。

その知的活動のおかげで、数学、物理、医学、天文学、社会経済学などの万般の科学や医学が発達し、多くの発見発明があり、人間は物質的豊かさを享受し、医学、生理学などの発達の恩恵を受け健康に役立てています。反面知的優位さを武器にして、地球の支配者でもあるかのように他の生物や動物を支配しています。

しかし意識を通した知的活動のため、人は苦しみや不安を強めます。言葉によって病気を過剰に苦しみ、老いることに不安を持ち、死ぬことを考えて恐怖に震えます。動物にとって死の恐怖は瞬間的なものに過ぎませんが、人は言葉で考える度に死の恐怖を味わう知的優位さの暗部を背負うことになりました。

死とは何か、どのようにすれば死ぬことを受け入れることが出来るのか。裏を返せば、生きるとは何か、人生の意味は、という問いになって跳ね返ってきます。その解決のために人は、思想、哲学、宗教を創りました。

あらゆる思想、哲学、宗教、科学は人間のもつ疑問の解決であり、意味の探求であり、知的好奇心の解決であり、生きる苦しみの解決であり、病の苦しみの解決であり、老いや死の恐怖の受容の仕方を知ることだったのです。

思想、哲学、宗教は地上の人間がつくったものであり、神や仏という概念・言葉も人間がつくったものです。この地上に存在する言葉は人間の産物なのです。つまり人間を超えたものはないということです。人間を超えたものを創作し、それを崇拝するところに思考は停止します。そして人は本当の人生の意味の探求を放棄します。その瞬間から、真の幸福から遠ざかっていきます。

どこまでも、現実の自分という人間に迫り、思考し、悩み、人間に内在する不可思議な働き、法を見出していくとき大いなる発見が訪れます。また人間を取り巻く、一切の生物、地球、宇宙の中に不可思議な法を見出し発見してきたのが自然科学であり、物理学であり生物身体学でした。このありのままの現実の中に疑問をもち、知的格闘をして、真理・法を見出してきたのです。

リンゴは昔から自然に木から落ちていました。多くの人は当たり前と思い何も考えず、その現象を見てきました。しかし、ニュートンはそこに万有引力という目には見えないが確かに働いている法を見出したのです。

 

私たち人間は、言葉を使って、自らの存在の意義を考え、自他と比較したりして生き方を模索したり心の在り方を考えたりします。さらに、自然、宇宙、社会などあらゆることに疑問を持ち、思考し、納得しようとします。

生きるとは、学ぶことであり、知的欲求を満たす行為であり、それは死ぬまで続きます。つまり人生の意味は、死ぬまぎわに、その人なりの人生の意味に回答が与えられるからです。厳密に言えば、自分の人生、生きざまが、その人固有の人生の意味になります。

意味ある人生とは、価値ある人生、充実した人生、幸福な幸せな人生という言葉に置き換えられます。その探究をしてきた地上の思想、哲学、科学、芸術、医学、宗教、つまり偉大とされた先覚者の思想(生き方の総体を支える思考・思惟の在り方=哲学・信念)を参考にしながら模索したいと思います。(次回に続く)

 

正しい人生とは、何ですか? 20歳男性

2024.07.31

回答

人は生れ、親に守られながら、乳幼児期を過ごし、少年少女期の終わりごろから、自我に目覚めていきます。そのころから、人は「自分とは何だろう?」「人生どう生きればよいのか?」 「幸せな人生とは?」など自分や人や人生について真剣に考えるようになります。私も小学校6年生のころから自分は死ぬ存在だと知りました。同時に人生を考えるようになり、幸せの人生を願うようにもなりました。

他の動物と違って人間は大脳皮質が発達し、知的活動能力に優れています。学者は霊長類と名付けました。ロダンの名彫刻「考える人」はそれを象徴しています。思考することは人間の宿命であり、優れた能力の一つであり、新しいものを創り出す要素であり、幸福を創り出す源でもあります。

その知的活動のおかげで、数学、物理、医学、天文学、社会経済学などの万般の科学や医学が発達し、多くの発見発明があり、人間は物質的豊かさを享受し、医学、生理学などの発達の恩恵を受け健康に役立てています。反面知的優位さを武器にして、地球の支配者でもあるかのように他の生物や動物を支配しています。

しかし意識を通した知的活動のため、人は苦しみや不安を強めます。言葉によって病気を過剰に苦しみ、老いることに不安を持ち、死ぬことを考えて恐怖に震えます。動物にとって死の恐怖は瞬間的なものに過ぎませんが、人は言葉で考える度に死の恐怖を味わう知的優位さの暗部を背負うことになりました。

死とは何か、どのようにすれば死ぬことを受け入れることが出来るのか。裏を返せば、生きるとは何か、人生の意味は、という問いになって跳ね返ってきます。その解決のために人は、思想、哲学、宗教を創りました。

あらゆる思想、哲学、宗教、科学は人間のもつ疑問の解決であり、意味の探求であり、知的好奇心の解決であり、生きる苦しみの解決であり、病の苦しみの解決であり、老いや死の恐怖の受容の仕方を知ることだったのです。

思想、哲学、宗教は地上の人間がつくったものであり、神や仏という概念・言葉も人間がつくったものです。この地上に存在する言葉は人間の産物なのです。つまり人間を超えたものはないということです。人間を超えたものを創作し、それを崇拝するところに思考は停止します。そして人は本当の人生の意味の探求を放棄します。その瞬間から、真の幸福から遠ざかっていきます。

どこまでも、現実の自分という人間に迫り、思考し、悩み、人間に内在する不可思議な働き、法を見出していくとき大いなる発見が訪れます。また人間を取り巻く、一切の生物、地球、宇宙の中に不可思議な法を見出し発見してきたのが自然科学であり、物理学であり生物身体学でした。このありのままの現実の中に疑問をもち、知的格闘をして、真理・法を見出してきたのです。

リンゴは昔から自然に木から落ちていました。多くの人は当たり前と思い何も考えず、その現象を見てきました。しかし、ニュートンはそこに万有引力という目には見えないが確かに働いている法を見出したのです。

 

私たち人間は、言葉を使って、自らの存在の意義を考え、自他と比較したりして生き方を模索したり心の在り方を考えたりします。さらに、自然、宇宙、社会などあらゆることに疑問を持ち、思考し、納得しようとします。

生きるとは、学ぶことであり、知的欲求を満たす行為であり、それは死ぬまで続きます。つまり人生の意味は、死ぬまぎわに、その人なりの人生の意味に回答が与えられるからです。厳密に言えば、自分の人生、生きざまが、その人固有の人生の意味になります。

意味ある人生とは、価値ある人生、充実した人生、幸福な幸せな人生という言葉に置き換えられます。その探究をしてきた地上の思想、哲学、科学、芸術、医学、宗教、つまり偉大とされた先覚者の思想(生き方の総体を支える思考・思惟の在り方=哲学・信念)を参考にしながら模索したいと思います。(次回に続く)

 

視覚・スマホ情報の刺激に生きる人たちは、大事なものを失っていく…

2024.07.15

生きる、それは五感覚の働きに支えられています。中でも危険から身を守り、生を保つ行動に一番重きをなしているのが、視覚です。

私たちは記憶化された視覚情報をもとに思考することもなく生きています。スマホ、パソコン、テレビに溢れる視覚情報を頼りに、思考という検閲もせず、盲信し生きています。便利であり、効率もよいからです。

テレビのコマーシャルはそうした人間の盲点を突き、物を売ろうとしています。多くのテレビ番組やユーチューブは視聴率や再生回数に血道をあげます。刺激的で、記憶に残るように操作し、見る人の視覚に焼き付けようとします。真実は二の次です。発信した視覚情報によって、人が不幸になろうと、悪に走ろうと関係ないのです。視聴されることが大事であり、視覚に強い刺激を与え、視聴率をあげる、再生回数の多さが一番なのです。発信者の利益、つまり金儲けになるからです。

刺激的視覚情報は記憶に深く入り、次の意識行動を左右します。思考は停止し、過去の記憶化された視覚情報で無意識的判断をし行動するようになります。一種の洗脳状態です。

こうして無知な人は増産され、思考停止する人は増え、マスコミという得体の知れない権力の奴隷になっていきます。一種のプロガバンダのようなものです。日本人の大半は、スマホ依存、ユーチューブ依存、テレビ依存、視覚情報依存となり思考停止状態になり洗脳されつつあります。その先に待っているのは、不幸な人生行路です。

人は悩み、思考し、より価値のある生き方をすることによって充実した深い人生を生きるようになるからです。多くの偉人が教えてくれているように、幸福は与えられるものではなく、自分で創り出すものなのです。

調和状態は健康であり喜び…マインドフルネス健康法

2024.07.11

人は楽しみを求めて生きています。楽しみが多ければ幸せだからです。幸福な人生とは楽しみの多い人生であり、不幸な人生は苦しみの連続とも言えます。苦しみはは長く、楽しみは短い。それが人生の織りなす現実かもしれません。

生命は苦楽というリズムを奏で常に変化し続けています。私たちの身体も心も太陽も地球も自然もあらゆる生物はすべてリズムを奏で一瞬も止まっていません。しかし人間の意識は、その変化を識ることができません。(知るは意識作用としての知識。識るは意識、無意識、五感覚でものごとをとらえることを指す言葉)

苦も楽も大海の波のようなものです。生じては消え、消えては生れます。波を生じさせる海そのものになれば苦も海の一部であり、楽も海の一部と自覚できます。苦楽は一体なのです。ただ海の別表現に過ぎません。苦も楽も仮の姿なのです。そのような自覚をもたらすものが心身調和法です。これは、カバットジンシ氏のマインドフルネスを深化させた当室独自の療法です。

マインドフルネスの淵源をたどっていくと釈尊の瞑想にたどり着きます。釈尊は瞑想で何を覚知されたのでしょうか。

釈尊自らの瞬間の生命の中に、宇宙、自然、一切の生命を貫く不可思議な法・ダルマを研ぎ澄まされた思惟力と一念集中で直観されました。

「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は世界を包み込む」

アインシュタイン博士の発見を貫いた内的世界を語る名言です。現象や出来事を想像力でつなぎ、想像で広がった世界を思考で精緻化し、組み合わせ、相対性理論を完成させました。既成の知識だけでは到達できない世界を可能にさせたのは集中力で研ぎ澄まされた思惟力・想像力だったのです。それが閃き・発見を産んだのです。完全な知識に裏打ちされた思考、それを内包した想像力こそ創造の源泉です。

それらの思考法と想像力をもとにしたものが、心身調和法です。心に感じる苦しみは、もともと楽しみをもたらす生命の働きを根源にしています。同じ根底から湧き出た苦しみという一表現であり、また楽しみという別表現なのです。根源の生命に還れば苦しみは、楽しみに変ります。厳密に言えば、苦もなく楽もない世界、苦楽を産み出す純粋世界です。釈尊の覚知・叡智の光はそこまで届いていたと思われます。その悟りの働きを弟子たちはブッタ・覚者・仏と言葉で表現しました。

ブッタ・仏は人間であり、人間を超えた特別な存在ではありません。この世界のあらゆる言葉を作ったのは人間だからです。神も仏も人間がつくった抽象語です。ブッタ・仏とは誰人の生命にも内在する不可思議な世界を悟る働きであり、修行により悟った人のことを表現した言葉なのです。

だから私もあなたも修行によってはブッタ・仏と開くことが出来るのです。それは誰人の生命の中に内在する不可思議な偉大な力であり智慧であり慈悲なのです。最も身近にありながら、それが見えないのは私たちが、五感覚がもたらす欲望に染められ、心の鏡が曇ってしまっているからです。曇りや汚れを取り、偏りという不調和を調和に転換していくのが心身調和法です。

釈尊はあらゆる病を治した医王と言われています。釈尊に会った人たちが病を治せたのはなぜでしょうか。苦からどのように解放されたのでしょうか。それは釈尊が森羅万象を貫く生命現象と、その目に見えない働き・性質を貫く法を覚知され鏡に映すように、病者の生命を明らかに見たからです。

太陽が昇れば、その光で地上の闇がなくなり一切が照らし出されるようなものでした。

物質科学の物理・天文、量子力学等は、あくまで物質を貫く法則の覚知です。全ての存在物は、光であり、電気であり、波であり、粒子であると覚知されたニコラ・テスラ博士も、可視化できず分析できない心的な働きに対しては、あまり語っていません。

釈尊は自分という存在(人のかたちをした肉体と思考したり感覚したり心を持つ不思議な存在)を通して、壮絶な禅定・三昧(瞑想)を繰り返され、分析知の及ばない心の働きを言葉を超え、ありのままの世界の働きそのものになりきったのです。(比ゆ的に言えば、波長と振動、周波数の重ね合いのようなものが起きたといえます)

偉大な科学者や哲学者や芸術家たちが、かいま見た宇宙の諸現象を現象たらしめている見えないが確かに存在する不思議な法。その全体を直観智されたといわれる釈尊の世界…生命と生命が共鳴・合奏したかのような世界に周波数をあわせることで、あらゆる生物や人も安穏安心、喜びのリズムを奏でてゆきます。その接近法の一つが心身調和法です。

 

「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」(シュレディンガー、20世紀の物理学者、波動力学を提唱、ノーベル物理学賞受賞)