なぜ、ありのままの自分を生きることができないのでしょうか。
それは他人の存在を意識しすぎるからです。仮に無人島に一人で生きるとすれば、あなたは何も意識せず、ただひたすら生きることに一生懸命になるでしょう。しかし現実の社会では一人では生きていくことができません。お互いに守り合わなければ、自分の命を保つことすらできないからです。
これは動物種としての本能です。一人であれば餌を取ることも食べることも生き続けることにも限界があります。やはり他人との協働が必要になります。他者の中で生きるとき、どうしても人目を意識し始めます。それは自然なことです。さらに集団の中での自分の評価が気になります。それも持って生まれた人の性分でしかたのないことです。やがてそこには、人の比較や優劣が生まれることになります。
集団の中で生きていると、自分をありのままに表現することが難しくなります。集団にはルールが生まれ、やがて、それが常識になっていきます。人々は時代と集団の中で作られたきまり(価値観)に知らず知らずのうちに、影響されていきます。そこでの常識という物差しで人が評価され、価値づけが行われます。
人々は価値基準というものさしで個々の人間を比べ評価していきます。ものさしは人を測る基準となり、優劣をつけていきます。比べる対象と物差しは無数に存在します。成績、学歴、会社、給料、役職、容色容姿、財産財物、地位、名誉、健康、身体、性格、各種の能力など…
人よりも強い、弱い。金持ち貧乏、顔がいい、顔がよくない。背が高い、背が低いなど。これらは全部、比較から生まれています。ある基準で価値が位置づけられ違いが生まれます。これら現実社会の比較優劣の実態です。しかし、これらは変化するので安定しません。
こうした社会の中では、人は安定できず、不安の中で生きることになります。基準の物差しが、時の流れと場で変わっていくからです。例えば戦争になると、人を多く殺す人が英雄となり、価値のある人になります。逆に平和な国では、一人、殺せば、極悪犯罪人となり、人としての価値も認められなくなります。社会の評価や価値に生きる間、本来の自分を生きることも困難になっていきます。
比較・優劣社会では、人々の目は外に向き、いつしか物差しという基準ではかられた価値に振り回され、安定できません。たえず心は揺れ動き落ち着かなくなります。
こうした比較相対の優劣を基準とした社会に振り回されないためには、自分の目を内側に向け、優劣を超えた価値を探し、それに生きることが大事です。その価値こそ、私たち本来の自分がもつ無上の心の価値なのです。
自分内比較、自己評価を根本にして生きることです。例えば、今日の自分と昨日の自分、一週間前の自分と今の自分を比較するなどの生き方です。何を比較するのか、目的をもって、努力したかどうかを比較します。結果よりも過程(プロセス、たどった道のり)を重視します。結果も比較相対の一部ですが、努力したかどうか、成長できたかどうかを問題にします。それは、比較相対を超えた絶対的な心の安定力になり、自己信頼領域が広がってゆきます。その積み重ねが、自信となり、自己の肯定意識を高もてゆきます。それに比例するかのように心の自由度も拡大します。
芝蘭の便り56
私の目的は、個々の人が、自分自身の翼で飛ぶという意識を取り戻すことを教えたい
ニコラ テスラ (20世紀の物理学者・詩人)
心の安心領域とは何か
心の安心領域とは、どこにいても、何をしていても どんな場であっても どんな人に会っても 自分は自分でいいのだ、自分は大丈夫だと思える心の在り方です。それはどんなに変化する場にも柔軟に対応する能力であり 嫌なことにに耐えることができる力であり 困難を乗り越える力であり 挑戦・経験し、失敗から学べる能力であり、自分はできるんだと自分の力を信じることができる能力です。それは知識量でも、学力でも、学歴でもありません。人間の「知・情・意」を総合した経験から生み出される磨かれた意識です。比喩的にいうなら、情緒力ともいえます。
心の安心領域を広げることが 不登校・引きこもりの 解決の良薬
会社や学校で嫌な出来事に遭っても、それに対する反応は人それぞれです。みんなが、そこから回避するわけではありません。では、引きこもりや不登校は、なぜ家という安心空間に回避したのでしょうか。その原因について考えることが大事です。そうすれば、その人独自の解決の道が見いだせるはずです。
本質的な原因の把握なしに学校・社会復帰させようとして、関係機関に相談し、子どもだけをなんとかしようとする無駄を繰り返しているのが現状です。的を外した対処に改善はありません。逆に悪化させ、ひきこもり・不登校を長期化させることになってしまいます。本質的要因の一つが心の安心領域の問題です。安心領域が狭いと、場の変化に安心感が得られなくなり、その場にいることが苦となり、そこから回避してしまいます。
自分が分からず どう生きてよいのかわからない
人間にとって最も大事なことは何があっても、自分らしく自分を表現し、どんな環境や出来事にも立ち向かっていける強い心、賢さ、そしてしなやかな心を持つことです。
この世界に、あなたの顔が一つしかないように、あなたの人生もあなた独自の道になります。ガイドラインやマニュアルは机上の知識です。残念ながら数学的な解答は人生にはありません。自分で解答を見つけるしかないのです。
環境の変化に うまく適応できていない
めまぐるしく変化する現代社会に大人も子どもも適応することに難しさを感じています。この世界の人も、ものも、自然も、すべては変化していますが、普段は意識できません。変化が小さいときは習慣的に自動反応し、今までの記憶化された心身の習慣力で適応できるからです。しかし変化の波が大きいと、適応できない人や生物や自然が増えてきます。それが、ひきこもり、不登校の一因になっています。
急速な変化に適応できず、自分でも原因が分からず、今まで普通にできていたことが出来なくなっていきます。専門家は社会不安障害、うつ、適応障害、ひきこもり・不登校という名前をつけることで解決したかのように錯覚していますが、その中身は曖昧であり、人間の部分しか見ていないため、的に当たっていないのが現状です。なぜなら生命現象(人間の心と体、自然、社会など)の全体が分かっていないからです。
物質的豊かさ 便利社会がもたらす 忍耐力の不足
科学技術の急速な発達により、物質的豊かさは年々増し、忍耐しなくてよい便利社会が到来し、過剰サービスが人間の忍耐力や思考力を脆弱化しています。人はすべてのことを当たり前と思うようになり、科学技術を盲信し、いつしか驕りという毒を飲まされ、人間の素朴な.心を失い、自分の外にあるものに感謝の念が持てなくなりつつあり、今生きていることの有り難さに鈍感になっています。
視聴覚という感覚反応中心の生き方は 情緒が育たない
スマホ・パソコン、テレビなどの電気製品の普及に、私たちの心身、脳は適応できず、心身のバランスを崩していることに気づいていません。見えたり聞いたりする情報に操作され、生きることが視聴覚という快感覚反応中心になりつつあり、思考や想像力を培う場を失い、嫌なことに耐える力が身に付かない生き方になっています。
想像力と忍耐力と思考力などの総合力である情緒の不足は、人間関係を難しくします。引きこもり・不登校は、環境適応できず、社会から逃走し、家という安心空間への回避した状態といってよいでしょう。そこには多くの場合、情緒の未熟さが見え隠れしています。
安心領域は愛情という心の栄養で育つ
安心領域の基礎を育てるのは、まず親の愛情です。なかんずく母親の無条件の愛情です。子どもを、丸ごと受け入れ、大事に守り育むことによって、子どもは人間信頼の基盤を築いていきます。いわゆる基本的信頼とか、こどもの安全基地と表現されるものです。この基本的安心領域ができていれば、成長と共に、子どもはあらゆる場での経験を糧にして、自ら安全領域を拡大していくことができます。この基本的信頼が脆弱であれば、変化しゆく場に不安を感じたりして、その場に適応することができなくなり、そこから回避することが起こります。
安心領域を広げるには 正しい知識と学びが必要
そうした場合は、特に親も子どももともに人間としての新たな学びが必要になります。学ぶことによって変化をもたらしている波を知り、変化の中で生きる自分を知り、変化する環境と自分への適応力に気づくことができるからです。つまり人生が変化の連続なら、幸福に生きるためには大人になっても学び続けるしか変化に対応できないからです。
学歴を得るために学ぶのではなく 自分を高めるために学ぶことが 人を賢くする
学校の学びは、学歴や社会的ステイタスを得ることが目標の知識偏重になり、知識がモノ化され現実の生きる力になっていないのが現状です。学校で学んだ知識は過去のものであり、多くは今の変化に対応できなくなっています。
「学べば学ぶほど、私は何も知らないことがわかる。自分が無知であると知れば知るほど
より一層 学びたくなる」(アインシュタイン)
人間の心を知る、身体と心の関連性を知る、自然や社会を知る、人との関わり方、人生を知ることを学びます。断片的知識ではなく、知識を全体につなげ、人間全体を知ることを学ぶことが大事です。そして、その人らしい個性を表現して輝いていける自分らしい生き方を知ることで、安心領域の広がりを自得していきます。正しい知識と智慧の獲得を目標に学び続けることです。智慧とは生きる最善の対処法です。どんな環境下にあっても自分に負けず、生き抜く力です。それこそがどんな場にあっても通用する安心領域なのです。
自分を高め 周囲の人を その光で照らす学びと生き方が 正しい生き方
最終目標は、人として「一隅を照らす」生き方ができるようになることです。それは、中村哲医師(注1)の生き方の指針でした。
アフガニスタンの困窮難民のため身を削って人道の道に生き、流れ弾に当たって命を落とされた中村哲医師のような方こそ、本物の人であり、現在の菩薩(慈悲と愛の心で他者を育み守ることを第一義にして生きる人・幼子を守るために自らを省みず献身する母親もその一部)の一人だと思います。
注1 中村哲氏の座右の銘「一隅を照らす」平安時代の人、最澄の言葉。意味は、「一人一人が自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」
芝蘭の便り 5月19日号
対人恐怖・場面不安を解決する具体的な行動 芝蘭の便り㉔
自分の内部で起こっていることや、「自分がどう、うまく振る舞うか」ということに焦点をあてはめないようにします。代わりに、自分が加わっている会話で、話に耳を傾け自分も参加することに集中するようにします。(話を聴くことに注意を向ける)
他人は、あなたがどれほど不安に感じていても、ほとんど気づかないことを覚えておきます。あなたが考えているほど、不安が目に見えて表れることはありません。(他者には、あなたの心の中は見えない)
他人は必ずしもあなたの言っていることに注意を払っているわけではありません。彼らの注意はほとんど自分自身のことに向けられていることが多く、自らの問題に、なによりも関心をもつものです。立場を変えればわかります。人は、基本的には、みんな自分中心です。自分が先です。それが人間の自然な姿なのです。
自分らしく自然体であればよいのです。ありのままの自分を受け入れることです。(自分に生きること)
人と関わるとき、不安感はあなたしかわからない体験であることを学びます。(心は見えない)
誰でも不安になることはあります。毎回の会話で全て完璧に振る舞う必要はありません。(実力以上には生きられない。背伸びしない。無理をしないこと。今の自分のありのままでいいのです。)
人前でのできが、思っている以上に悪くないことにも気づくことが大事です。実際、あなたよりスキルの低い人はたくさんいるからです。(自分を客観的に見てみる、メタ認知することです。)
ありのままの自分に生きるように心がけます。人目、人の思い、人が自分をどう思うのかという生き方から、自分の生き方、自分の行動、自分の考えという自分の外面に見える姿ではなく、内面の心を大事にする生き方…自分自身に生きることに努めます。
受動的な生き方から、能動的生き方に生き方の姿勢を変えます。受け身の生き方は、他人や環境に支配されやすくなります。能動的な生き方は、環境を変えていくことができます。
案ずるよりも産むがやすし‥頭の中であれこれ考えるよう、一つの行動が大事です。行動、つまり、新たな経験をすることです。
経験することが大事です。目的を達成する(成功する)ことより、やったかどうか、努力したかどうかが大事です。プロセスを大事にします。新しいことに挑戦することです。そして、うまくいかなかったことから学んでいくことが大事であり、それが本当の成長になります。
人の中で何か行動する時、行動そのものを重視し、その行動を精一杯やり、その行動がどうであったかを省みて、自分を高めていくようにします。
内向から外向、受け身から積極的・能動に動けばよいのです。見られている自分から、人を見る自分に変っていくことです。人は、あなたが思っているほど、あなたのことを見ていないし、気にもしていません。
謙虚に人から学び、世の中から学び、あらゆるものから積極的に学び、自らを向上させ、あなたが立派な人間になることです。あなたが人間的に向上していけば、あなたの周りに、あなたにふさわしい友達が出てくるものです。つまり、あなた本人と環境は、本体と影のような関係であり、一体なのです。
生きるということは、今の瞬間しかありません。その瞬間の連続なのです。過去も未来も、すべてこの瞬間にあります。今を絶えず「精一杯生きる」こと、そして、受け身ではなく能動的に行動すること、さらに学びと向上心があれば、いつの間にか、人目を気にすることさえ忘れている自分になっているでしょう。
痛み・苦しみはメッセージ
痛みや苦しみは心身の不調和から発するメッセージです。対象への執着は神経の過剰疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩します。心身の調和が乱れきった時、苦や痛みは限界を超え、心身は病んでしまいます。
しかし人は、その原因を見ようとせず、目に見える痛みの原因を除去しようとします。結果、病は増幅し本質的な解決に至ることが難しくなります。
木を見て森を見ず
森に入れば目の前の木しか見えません。これは人間の本能的感覚の現実であり、限界です。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たち人間は、見えたり耳に聞こえたりする五感覚で感知できるごく一部を見て行動し、わかったつもりになり、全体を見ることをしていません。物事の全体を見るためには想像力を働かさなければいけません。
正しい瞑想の在り方
最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本義もわからずやっている人がほとんどです。真の瞑想は意識、想像力を磨く修行なのです。想像力と思考を磨き本来の自己と宇宙的自己に冥合することが、ブッタ(覚者)の瞑想でした。
想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ
アインシュタインの名言です。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は光彩を放っています。今から述べる事柄は、感覚では理解できません。想像力を働かせれば見えてくる世界です。地球は月という兄弟衛星を伴い瞬時も休まず動き変化し 太陽系の中で絶妙な調和を保っています。その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営んでいます。
意識は1%しか感覚・認知できない 99%は無意識の活動
私たちの身体の働きの一部を知識に基づいて想像してみます。私たち人間の身体はリズムを奏でるように呼吸し心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡っています。食べたものは口内で咀嚼され、食道を経て十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進み小腸で、各血管を通じて各臓器に栄養となって運ばれます。
脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚で身体を守ってくれています。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守るため、免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節してくれています。
私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で外部世界と交渉していますが、それは身体の働きの100分の一以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識ることがではないのが人間の本来的な働きなのです。
神経とは神の通り経(みち)という意味
私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆の細胞を新陳代謝させ絶妙な調和を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の歯の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが人の身体の現実ですが、それは人の身体全体から見れば微小なことに過ぎません。
生きるとは変化であり 環境適応である
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。
思考しないことが 心の死を招く
現代人の多くは視聴・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失っています。それが様々な新しい心の病をつくりだしていることに誰も気づいていません。
現代病の多くは生活習慣、思考の誤りに起因している
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。
澄んだ心には 対象がありのままに見えてくる
人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っています。磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には すべてが正しく見えるようになります。何が幸福をもたらし 何が不幸にさせるのかを 明晰に見分けることができます…幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです。
心の不調和状態をつくる 四つの欲望と感情
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。一つ目は、瞋り(いかり)です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると 心の波は逆流し 自他を巻き込み いたずらに消耗し やがて苦しみの海に沈んでゆきます。二つ目は、限度を知らない過剰な欲望です。それは 自らを焼き焦がし 周りを燃やし 炎の波にのまれてゆきます。三つ目は本能的快楽を求めすぎることです。快楽に耽け続けると 心は淀み 濁り 善悪がわからなくなり 心の波は間延びし 思考もとまります。四つ目は、今風に言うとマウントの心です。人に勝りたい 人より優位に立ち 人を支配したいと思い続けると 心は歪んで 素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は ほどよさの感覚を失うと 調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。
幸福になる人は 心が素直で 柔らかく 心根が善い人
幸福になる音色を奏でる人は 心が素直で 柔らかく きれいに澄んで 美しい周波を演じています。財産 社会的地位 名声 人気 才能 美貌 健康などは 幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが 時とともに色褪せ 壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは 空しく時と共に風化し 最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは 花火のようなもので 刹那的な陽炎のようなものです。幸福になる人は、心の中に積む人間性や人格の光こそが大切だということを知っています。それが心根の善い人の特徴です。
この世のものは全て変化する お金や名声への執着は 最後はむなしさを招く
ー祇園精舎の鐘の声 (注)諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわすー
平家物語の冒頭の詞は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り 心の真実相が見えないからです。
自分の心の底から湧き出る喜びこそ幸福の源泉
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識 五感 心根は時とともに輝きを増し その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは 永遠性を孕んだ美しい調和された波そのものです。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる調和波なのです。
偉人に学び それを素直に 日々実行していく人は 心が健康になり 幸福になっていく
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…自分や人の心が美しいと感じた時はどんな時だったのかを 振り返ってみてください…過去の聖人・賢人の生き方や 思想哲学や文学・芸術に学んでみましょう。不断に自己を磨き続け 内省し 浄化された自己の鏡に 真実も幸福も映し出されるでしょう。意識を磨き、研ぎ澄まされた精緻な思考の力、そして宇宙をも包む想像力を身につければ、あらゆる病は消滅し、真の安らぎを得ることができるでしょう。それがブッタが悟った真の瞑想行為です。
注 諸行無常…仏教で説かれた重要な思想の一つです。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は縁起によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は縁起で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。
私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と意識しているにすぎず、夢のようなものを実在していると記憶しているにすぎません。認知症になり記憶機能が失われてしまえば、自分が自分であることも分からなくなりますが生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による錯覚現象のようなものです。
この世のものは全て動いており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の発見です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明する形になっています。
夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実相を覚知できません。瞑想で意識を磨き、浄化させ、想像力を無限に広げることで可能になります。
沙羅双樹の花…釈迦(釈尊・ブッタ)が涅槃(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で存在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相といいます。究極のブッタの哲理です。それを悟ることができれば永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は覚知されました。
―愛とは互いに見つめ合うことではなく 二人が同じ方向を見ることであるー
サンテグュペリ・星の王子様の作者
夫婦の愛情のない家庭に 不登校や子どもの問題行動が生まれやすくなります
二人の醸し出す人間の愛情の持つ周波数は、家庭の中に波となって漂い、同居家族である子どもに大きな影響を与えます。子どもは心の栄養である愛情を受け取れず、情緒が育たなくなり、健全な愛情を育てることができなくなります。その結果、人間関係の中で衝突や感情的トラブルを起こしやすくなり、集団に適応できなくなったりします。これは、私が関わった不登校児や問題行動を起こす子どもの家庭によく見られる風景です。
男女の愛情の序章 それは恋です
男女の愛の序章、それは恋です。恋なくして男女の愛の成立はありません。恋は好きという感情から始まり恋愛に発展していきます。恋愛感情の背後に、性的ホルモンの働きがあります。これは全ての動物・昆虫にも共通する種保存の生命が内在的に持つ法則です。本能的であるため、盲目性があり、暴走することもあります。その段階で結婚まで走ってしまえば、早期の破綻を迎えるかもしれません。
好きな相手も 時間が立てば 嫌になることが増えます
好きという感情は嫌いという感情と表裏ですから、相手の嫌な面を見ると、たちまち嫌いという感情に変っていき、やがて二人の間に嫌悪感が漂うことになります。例えば、どんなに好きな食べ物でも毎日食べれば飽きがきてしまい、おいしさを感じなくなります。同じように、どんなに好きな相手でも、いつも一緒にいれば飽きてしまい、新鮮さもなくなり、好きという感情も薄れていきます。これは、人間のもつ本能的生理感覚ですから、誰人も避けることができません。倦怠期と表現される状態です。
好き嫌いを超える一つの方法 利の価値に生きることです
これを乗り越える方法の一つが、相互の損得・利害関係を考える知です。離婚は、「世間の恥」とか「社会的信頼を失う」とか、「子どもの教育に良くない」とか、「経済的にやっていけない」とかで、二人が好きでもないのに一緒に生活している関係が損得関係を重視した知です。知によって好悪という感覚を克服しようとします。しかし、それだけでは、恋愛の親近性もなく、愛もないため、往々にして冷えた関係になり、家庭内別居状態になりがちであり、二人とも幸せを感じることはできません。
二人の心の向上によってもたらされる 新しい関係 それが愛です
これを乗り越えるのが、双方の努力によって育んでいく関係です。それは自己中心性と葛藤し、相手のことを考える心の成長が求められます。双方の心の向上なくして成就できません。愛は二人が紡ぎ出す、この世に二つとない美しい世界を表現します。その一端を私たちは恋愛小説やドラマに見ることができます。愛を育てていけば二人は終生、美しい絆をつくってゆけます。その二人に、離婚という文字はありません。
愛情に必須な条件は 相手をかけがえのない人間として 尊敬することです
愛に必須な条件は、相手を一人の人間として尊敬できるかどうかです。そのためには、相手をよく理解し、相手の良さを見出せるかどうかにかかっています。これは、好悪や利害を超える心の絆があります。人間信頼、人間尊敬ほど強い絆は、この世にないからです。
愛情は相手を大事に思う心であり 守り抜く行為です
愛は本当の優しさをともないます。また見返りを求めることはしません。相手がどんな状況になっても、たとえ相手の姿かたちが変わり果ててしまっても、その人のすべてを受け入れ 守り、大事にし、尽くし抜く心、それが愛です。
例えば、男性が新婚前後の女性に愛を捧げるのは難しくありませんが、10年、20年、そして相手が白髪になった70代、80代になっても愛を貫くことができれば、それは本物の愛です。そのパートナーは世界で最も幸福な人といえます。
スティーブジョブ氏最後の言葉 大事なのは 金でも 名誉でもなく パートナーへの愛情
愛はお金や財宝、名声、人気、地位で得ることができないとスティーブジョブ氏(アップル創業者・56歳で死去)は言いました。この世界の最高の宝なのです。生きているときも、そして死後にも持っていける美しい心の品性です。
愛の実践は人間の向上であり 人間完成であり 最高の幸福への道です
愛の実践には、心の強さ、心の清らかさ、正しい心を保つ品性が求められます。愛は二人を高め合います。高め合う愛こそ本物の愛です。愛は人間の品行の成長を伴います。愛する二人は限りなく向上し輝き、美しさを放ち、周囲をほのぼのとさせます。それが本物の愛の品格です。
愛は その人のすべてを受け入れ 大事にし たとえ相手が白骨になったとしても その人を 永久に 愛し続ける それがまことの愛です。
※以下に述べることを理解し、実行してゆけば、愛を育むことができ、夫婦関係は100%改善できます
◎愛情を育む具体的実践
スキンシップをこころがける
◎身体のスキンシップをこころがける…一日に一回は相手の体に触れるようにし、相手の温もりを感じ合うようにします…肩に触れたり、肩を抱いたりする、腕を組む、手を握るなど、できそうなことから行動にうつします。
◎心のスキンシップ(心の栄養を届けること)をこころがける…
・一日に一度は、相手に笑顔を贈る
・毎日、相手に優しい言葉、相手を尊敬している言葉、感謝の言葉を届ける(ありがとう、今日も一日お疲れ様など)
・毎日会話をする(5分、10分、20分…徐々に増やしていく)
・ときには、「愛しているよ」「好きだよ」などと相手に好意の言葉を贈る
以上のことが実行出来れば、二人は仲良くなれるし、愛を育んでゆけます。
さらに以下のことを理解し、実行していけば、人間理解が深まり、愛は深まっていきます。
人間の自己表現法は二つある。
1,言葉の表現…言葉は事物の比喩であり、共通の記号。 言葉の裏に込められた意味を読むためには心を遣わなければいけない。
2,言葉以外の表現(ノンバーバルコミュニケーション)から心を読む
※ノンバーバルコミュニケーション…顔の表情、服装、振る舞い、声色など
メラビアンの公式(好意の総計100%)‥人の印象に残る表現を知る
①言葉による表現(言語情報・話している内容)…7%
② 声による表現(聴覚情報…声の大きさ、声色、速さ、口調など) …38%、
③ 言語外による表現(視覚情報…見た目、視線、しぐさ、表情、服装など) …55%
※言語外表現が、最も人の心に好感として残る
会話における言葉には 三種類の機能があることを知る
1、言葉は共通の記号である
2、言葉の解釈…言葉の正しい意味
3、言葉にこめられたもの…言葉で表現しようとしている言葉以前の心、感情、気持ちという波動のようなもの」をキャッチする
※出来事を語る場合…人によって「出来事」の受け止め方は異なる。置かれた位置、立場、精神状況による。相手の背景、立場、認知の枠や癖を理解して出来事を再生し、想像し真実に迫る。
心を開く関係づくりは、無条件の肯定的な関心を持つことを知り、実行する
・相手に対して無条件の肯定的な配慮をもつこと。➡条件・限定をつけるということは、こちらの欲求を満足させる利己的愛情といえる。
・第一に、人間の意義と価値に対する心からの尊敬。⇒肯定的関心
・第二に、相手の自己指示(方向、選択、決定)の能力を信頼できるかという点であり、個人の人生を決めるのは、その人自身であることをどこまでも深くこちらが感じ取っているかである。
相手を総合的に理解するよう心を尽くす
①相手を取り巻く状況を多角的(時間・空間的)に知る
・長所短所などの特性、趣味、友人、今の置かれた状況、精神状態。
一つのカテゴリー・型にはめこまない。相手の現在を多角的に理解するメタ認知力を高める
②こちらの態度と人間性の与える影響力
・相手とどのようにつながるか、こちらの人間性、態度、言葉遣い、安心感、ほっとする雰囲気、こころを開く言動や振る舞い…総合力でつながること(コミット)を心がける。
・相手が心を開かなければ、こちらを信頼しなければ、関係はできない。
これは、すべての他者とのかかわりに共通したものである。「心を開く」「信頼関係」が大事になる。
・「心の思いを声にのせる。つまり、言葉や声、声色で心を知る。心を聴く努力。
・自分にとって相手は「鏡に浮かべる姿」 人は関係性で変わることを知る。
・悩んでいる人に対して大切なことは、心を軽くしてあげること、明るくしてあげること。相手の言うことに、じっくりと耳を傾ける。じっくりと話を聞いてあげる。それだけですっきりする心が軽くなることが多い。聞いてあげること自体が、苦しみを軽くすることになる。
メンタライゼーションを活用する…
メンタライゼーションとは、「行動の背後にある心理状態と意図を考慮に入れて、他者の行動の意味を解釈する能力である。」
⇒相手の心は理解できないという無知の姿勢が大事。だから相手を理解していこうという、相手に対して積極的な関心を持つようにする。信頼関係が築かれないと相手は心を開かない。心が開かないと、どんな言葉も相手の心に届かない。自分の心理状態を知ること。自分の心理状態が悪いと、相手の心を理解する余裕もなくなり、理解できなくなる。相手の心理状態を知り、相手の状況を知る努力をする。
心の健康のために…ストレスに負けないレジエンス力を日常から培うようにする
1 自分はできると信じる、自分に負けない心をもつ…あきらめない心が心を強くする。
2 失敗した時、新しい自分を見つけるようにする。人生・経験は、すべて教師である。失敗も成功も一つの出来事、全ては経験であり、自分や人生を教えてくれるかけがえのない教師である。
3 自分を支える人を持つ。 身近な人に感謝できる心を持つ。
4 良い習慣を身につける…規則正しい生活、良書に親しむ、笑いと感謝、積極的、前向き、楽観的、強気、出来事に意味を見出す生き方、未来を明るく想像する生き方、マインドフルな生き方など。
5 心の強さは、「苦」を乗り越える度に強化されることを知る。
スティーブジョブ氏 最後の言葉
一代で巨万の富を築き世界的名声を得た、アップル創業者のスティーブジョブ氏は、すい臓がんのため55歳でこの世を去りました。死の直前、病床で語ったこと…「富や名声は死に際して何の役にも立たない。いのちが大事だ、私の病気と替わってくれる人は、だれもいない。私は、まだ大事な書を読んでいない。それは、健康に生きるための生命の本だ」
生命は 瞬間瞬間 意識できない世界で 動き 変化しています
私たちのいのちは、五感覚(目、耳、舌、鼻、身)器官が反応しながら、常に流れています。あるときは何気なく、あるときは意識をもって…。私たちは今の自分が感じている世界が、自分のすべてと思っています。しかし、今の瞬間の心身は 常に一定のところにとどまることなく 流れ続けて(注1)ていますが、私たちは、それを意識できません。ほんの一例ですが、血液は常に、体中を流れ、酸素と栄養を全細胞に届けています(滞れば、細胞が死滅し、私たちは死にます)が、私たちはそれを意識できません。私たちが、自分がいつ死ぬのかを、意識できないのは、生の営みが潜在意識活動中心に行われているからです。
注1 仏教では、こうした生命の流れを2600年前に、既に解明していました。それを「諸行無常・是生滅法」という言葉で表現しています。万物、存在するものは常に変化し、縁起で生起し、やがて滅していく、顕在と潜在のかたちを織りし、一定の自分はないと説きます。また潜在状態で存在することを「空、くう」ととらえます。今の最先端の量子力学が、遅らせながらそれを証明つつあると言われています。
意識できる世界はわ0,1% 99,9%は意識できない世界で 人は生きています
瞑想(注2)を実践し、自分の身体や心を一心に観察し、想像力を磨いていくと、私たちが意識できている世界は1%以下ということに辿りつきます。99%以上は意識できないところで心身は活動しています。私たちは無意識的活動を意識できないため、その活動に気づくことができません。ですから、その働きの、あり難さを感じることもありません。正しい知識に基づいた想像力によって、はじめて真実の把握ができ、心身の働きの偉大さに気づくようになります。瞑想の素晴らしさはそこにあります。
「想像力は知識より大事である 知識には限界があるが 想像力は無限である」 アインシュタイン
(注2 瞑想…もともとは、仏教の禅波羅蜜(ぜんはらみつと読む。禅によって最高の不動の境地に至る)という修業から生まれたもの。心を一所に定めて、心を観じること。感覚に反応せず、自らの深層を観察すること。心身は動いているので、つかまえることはできません。その動いている心身になりきるには、心身そのものになるしかありません。それを直観、インスピレーションなどと表現する人もいますが、ブッタ(一応は釈尊を指す言葉、真意は覚者)は「悟り」と表現しています。それは心が浄化された人しかできないとされています。私たち凡人は、五感覚のもたらす欲望で心が濁っています。ですから、心の動きを、言葉やイメージでいったん止めて、真実に迫っていく方法をとります。その言葉は悟った人の真実を表現したものでなければ、真実に到達することはできません。言語道断(言葉で表現できない真理の世界)という世界に入るには、凡人は先哲・覚者の言葉を信じて、そこに入るしかないのです。そうしないと、心の浄化も進まず、迷いから迷いの世界に入り込み、部分の知を悟りと錯覚し、真理に至ることができなくなります。
我思う、故に我あり‥意識こそが 生の証拠との考え方
16世紀の有名な懐疑哲学者デカルトは、すべてを疑うが、疑っている自分の存在を真理と認め「我思う、故に我あり」との名言を残し、近代合理主義哲学を開いとされています。つまり、私たちが今、感じている意識こそすべてという哲学です。意識できない世界は闇に閉ざされることになりました。合理主義のもと産業革命が進み、物質科学は日の出の勢いのごとく発展を遂げ、量子力学、光の研究は精緻さを増し、やがて月にロケットが着陸するという、ウサギの餅つきつき神話もあっけなく崩されることになりました。
科学万能主義が 新しい病を 次々に産み続けています
やがて科学万能主義の時代が到来し、人間は神をも恐れない存在となり、科学を崇拝する科学信仰、物質・お金信仰を招きました。科学や可視化できる世界がすべてであり、科学が何でも解決してくれると…。
しかし置き去りにされてきた、意識できない世界である心については、ほぼ16世紀のままと言ってよいでしょう。深層心理学のフロイトやユング(注3)がその闇にかすかな光をともしましたが、科学性に乏しいとされ看過されています。
(注3) フロイト、ユング …19世紀の心理学の先駆的役割を果たした人たち。フロイトは、催眠や夢という現象から無意識層を仮説し、神経症やトラウマを治療したとされています。ユングは一時フロイトに師事していましたが、無意識層の理解が異なり、ユング自らの深層心理体験を基にして、個人無意識、集合無意識を仮説、曼荼羅なども図顕しています。無意識層の展開は、既に仏教の唯識思想によると2000年前に、第七識無意識世界としてマナ識、第八識無意識世界としてアラヤ識が説かれていますが、両者の見解と深遠さは根本から異なっているとされています。
心の病は 精神病薬で 根治できないと 森田正馬は叫ばれました
しかし、20世紀の終わりから、心の病は増えていきます。そして21世紀に入るとさらに増加し、さまざま身体の病気に加え、心の病も多様化しています。現代の精神医学は、精神より物質、脳の働きに注目し、薬学で対応しています。つまり精神医学も物質医学になりつつあるため、心の病の根治(注4)が出来なくなりつつあります。精神、心は脳を介在して顕在しますが、脳そのものの働きが心ではないからです。今、量子力学など先端の物理学が、物質と意識の関係を模索していますが、確かなことは未だ分かっていません。
注4 「心の病の根治」日本が生んだ精神療法家、森田正馬は精神科医でしたが、「神経症の根治法」という書の中で、神経症は薬で治らないと現場治療の現実から悟り、森田療法を考案しました。そして強迫観念、パニック障害、不安症、各種恐怖症等を独自の精神療法で、90%以上根治したとされ、全国から患者が殺到したと言われています。
今 生きているという意識は、記憶された過去の 脳神経細胞現象です
ところで私たちが生きているのは、意識できる部分、意識できない部分の働きを合わせたもの全体が私たちの心身の生命活動の事実です。五つの感覚(眼・耳・舌・鼻・身)で刺激情報を感受し、それを意識が快・不快などの感情として受け取り、感情と言語・イメージとして記憶していきます。こうして無意識層に記憶されたものが自動的に次の活動時に生起し反応します。
今、生きていることはこれまでの人生で習得した記憶が意識化されて生きていることなのです。つまり、心身全体の過去の記憶が自動的に再生されたもので生きています。記憶を失う疾患の一つ、認知症の例を考えれば、生きる活動が記憶に支えられていることが理解できます。私たちが感覚し意識できるのは、体を動かす運動神経と感覚神経の一部ぐらいで、実際に働いているものの0,1%以下にすぎません。
私たちは、この地球に生を受けて、地球や太陽や自然の恵みに守られて生きています。母から産まれ、いろいろな人に守られ生きています。私たち人間は、自然やあらゆる生物、社会の恵みに育まれて生きています。私たちの身体は、宇宙の物質からできています。
地球の恩恵は無限であり、生物・人間に無尽の愛を注いでくれています。愛とは、人知れず尽くす行為であり、どんなときも支え、大事に守る働きです。赤子に対する母の無償の愛に近いものがあります。
地球は黙々と働いています。彼は地上の生物に見返りを求めることはしません。私たちは、空気、水、光、大地など使い放題に使っています。地球は、いつも私たちに最高のものを与えてくれています。地球はだれのものでもありません。地球自らのものであることを忘れてはいけません。
地球は優しく、慈愛の体現者ですから、すべての生あるものを育み、受け入れています。その深く広い愛に気づかず、多くの人間は、甘えています。愚かな強欲者や利己主義者は自分のものでもない地球を私物化し、生物を支配したり、コントロールしたり、金儲けの手段や道具にしています。
とても悲しいことです。地球は泣いています。あるとき、地球は自らの傷の痛みに耐えかね、自然災害の形で、「痛い、苦しい」と叫び、私たち人間に警告します(注1)。しかし、欲で情緒が濁り、そのメッセージを読み取れない権力者は、目先の対処に汲々するばかりで、本質を見ようとはしません。
地球は私たちを含めた無数の生物を乗せて、精巧に自ら回転しています。人間はその変化分を24時間と計測します。また太陽の周りを正しい軌道に則り一周します。人間は、その動いた分を、365日と言います。地球の働きは、寸分の狂いもなく、休むこともなく、まるで自らの使命を忠実に果たすかのように動いています。
もし地球が休んだり、止まってしまったら、私たちを含めた生物は、たちまち死滅します。微妙な調和に包まれ、宇宙空間に漂いながら、今生きていることの不思議さに感動を覚えます。
月や近くの惑星である金星や火星に、酸素や水はないと言われています。太陽系では、地球だけが酸素が豊富にあり、水に恵まれています。この地球の慈愛、太陽の愛、自然の恵みや恩を私たち人間は、どれほど感じているのでしょうか。
この恩恵を感じる感性が、心の健康の一つの証です。心が浄化されれば、この世界や自然に当たり前なことは何ひとつなく、すべては有り難い、かけがえのない瞬間であり、できごとだと観ることができるようになります。
注1 釈尊の教えである「金光明経」「大集経」「仁王経」等の経典で説かれています。金光明経のごく 一部を、難解ですが原書にて紹介します。「一切の人衆、皆、善心なく 繋縛殺害瞋諍のみあって 互いに相讒諂し 枉げて辜なきに及ばん、彗星しばしば出でて…疫病流行し…地動き、暴風・悪風・時節によらず常に飢饉に遭って、苗実成らず…」(大意を述べます…すべての人間は、他に施したり、他を育んだり、守ったりすることなく我欲に生きている。そして互いに殺し合い、争い、いがみ合っている。結果、彗星はしばしば出現し、疫病が流行し、地震は多発し、台風、洪水、季節外れの気候が起こり、飢饉、飢餓になり、農作物も実らない)今の頻発する異常気象、各地の戦争・紛争状態など合致しています。原因は人間の五欲の執着、自己中心の生き方にあると警告しています。
)
瞋りの連鎖を解く方法はあるのか
瞋りの連鎖を解くためには、まず自分を知ることです。瞋りの対象への強度と深さを知らなければ
なりません。また瞋りの習慣化された自分の内省も必須です。瞋りを発しても、数日以内で、その瞋り
から解放される人もいます。逆に、瞋りを発しやすく、その瞋りに振り回され、簡単に瞋りから解放
されず、何日も、何年も怒りが、怨み憎しみとなり、心の奥に固着する人もいます。その人は、一日の
大半を地獄を住みかにしている人といってよいでしょう。問題は、根深い瞋りを心の奥に持っている人
の瞋りの解放です。この傾向の人は、アンガーマネジメントの講習を受けても、いっこうに解決するこ
とができません。なぜなら知識や言葉を超えた奥深くに宿っている、瞋恚の塊りの心作用だ
からです。その塊りを少しずつ溶かし、浄めるしかありません。
ブッタの悟りが教える六波羅蜜(ろくはらみつ)の実践修行
ブッタ(注1)は人間の持つ煩悩が不幸に導く元凶であることを悟りました。前回のブログで説明したよう
に、三毒という煩悩をもっとも制御困難なものとしています。人間の本能に根付いているものだからで
す。脳科学の知見で言えば、大脳皮質の言葉や感覚受容の奥にある、大脳辺縁系に端を発しているから
です。正確に言えば、大脳辺縁系にあるのではなく、瞋りはそこに顕在する心作用です。脳科学で解決
できない世界ですから、心科学(ブッタの仏法科学)に基づくしか解決はありません。
六波羅蜜(注2)の実践は、煩悩の迷いを悟りと開き、苦を楽に替え、暗を明に転じ、人を幸福に到達させ
る実践・修行です。
注1 ブッタ…覚者、生命の真理を悟った人という意味。一般的には、約2600年前ごろのインドに生まれた釈迦を指しますが、生命現象の三世を俯瞰すると生命の真実を悟った人のことをブッタと言います。いわゆる仏・如来のことです。釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、多宝如来、大日如来など、この宇宙には無数の仏が存在すると言われています。
注2 六波羅蜜…波羅蜜は、到彼岸、仏の生命へと到り、宇宙大の生命をくみ取るための六つの項目。布施波羅蜜(財物や幸福になる生き方や安心感を人に施す修行)。持戒波羅蜜(悪を止めて善を行う修業)。忍辱波羅蜜(忍耐しながら慈悲行をし、人を救うこと)。精進波羅蜜(喜んで人の善に尽くし、少しも怠けない修行)。禅定波羅蜜(精神を集中して散乱させない修行…マインドフルネスはこの修行法にヒントを得ている)。智慧波羅蜜(一切の事柄、法理に通達して明了ならしめる智慧の開発を目指す修行)
瞋りの煩悩を転換する実践は 忍辱波羅蜜にある
忍辱波羅蜜の修行は生命的存在をどのようにとらえるかから始まります。
自分を含め、すべての生命的存在は慈愛すべきものと見ます。
なぜなら、すべての生命的存在は仏性(注3)を持つ存在だからです。どんな人も根底に仏性を内在させて
いると信じ、相手を守り尽くしていきます。その姿勢で関わっても、相手から馬鹿にされたり、罵られ
たり、攻撃されたりします。それらの辱(はずかし)めに耐え、相手の仏性を信じて関わり続けることが忍
辱の修業なのです。その修業の中で瞋恚(瞋り・怒り)の生命は、浄化され、本来の清らかな生命が蘇って
くるとブッタは説きます。これは大変な修行ですが、この修行を貫く中で瞋りに振り回されない自在な
境地になるだけでなく、崩れない幸福境涯に近づくことができるとされています。
注3 仏性…仏の生命の心的側面。釈尊という場合、生命の身体的な側面を指し、仏と表現されます。仏の生命の心的な働きを指す場合は仏性と言います。この宇宙の森羅万象は仏性の働きとブッタは開悟されました。生命は自ら創造し自ら死滅する生滅の法です。また、宇宙のすべてを創る働きが生命に内在する仏性であり、慈悲を演じ生死を繰り返す無始無終の因果を内在する生命の働きです。キリスト教では、スピノザが汎神論を唱えました。自然や宇宙の神的な働き、人間や動物の神秘的な働き、そうしたものすべてが神であるという説です。アインシュタインは、両親の関係でキリスト教を信じていましたが、進化論を知って旧来のキリスト教から離れました。しかしスピノザの汎神論の神は信じていたと言われています。仏性は、汎神論で説く「神」に近い目に見えない生命の働きと考えてよいでしょう。
ブッタは能忍の人 人間世界は堪忍世界 能忍の修行が瞋り(怒り)を浄化させてくれる
この世のとらえ方を正しく見てゆく修行をします。この世を娑婆世界(しゃばせかい)と見ます。娑婆(梵
語、サーハの音写)は、堪忍(かんにん)、能忍(のうにん)と訳される言葉です。娑婆世界とは、苦悩が充満
している人間世界のことです。「この世界の衆生(人間)は、三毒およびもろもろの煩悩を堪え忍んで受け
るので娑婆世界という」(法華経巻五)。
思うようにいかないのが当然であり、自分のことを理解してくれない、わかってくれないのは当然であ
り、自分勝手な人ばかりが存在しているのが当然と、この世界をあるがままに見つめ受け入れ、堪忍し
て生きていきます。その生き方ができるようになれば、瞋りの対象を受け入れることができるようにな
ります。正しく言えば瞋りの対象が原因ととらえている自分を、原因は自分の中にあると見ていくと
き、忍耐することができるようになっていきます。その結果、生命の浄化が進みます。生命が浄化され
た分、瞋りの生命は消失していきます。釈尊・ブッタは能忍の人と言われています。釈尊自身、こうし
た修行の結果、悟りを得、ブッタになったと言われています。
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と関係ありません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・法華経に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、そして科学(量子力学)と釈尊・天台智顗・日蓮の生命理論の関係性を思索研鑽しています。学びの旅は、今も続いています。
瞋り(瞋恚・しんい)という感情が 人を不幸に導く元凶
人間の感情で、制御が難しいものが、怒り、恐怖・不安、悲しみ、ゆううつ・落ち込みです。
それらの中でも最も制御困難なものが、怒り(瞋恚、しんいと読む)です。
制御困難であるからこそ、人を地獄まで連れていきます。最悪は、殺人であり、自殺行為です。
波は振幅の大きさと周波数で強度や速度が変ります。瞋恚という瞋りの波は、振幅も大きく周波数も多
く波形も乱れていますので、自他を巻き込みます。自分や人を巻き込み、他害や自害という不幸のどん
底に人を追い込む危険性を孕んだ感情です。各地の戦争がそれを物語っています。すべて、瞋恚(瞋り・
怒り)が原因であり、それが連鎖し渦巻いています。瞋りの原因と対処としての智慧を獲得しない限り、
真の解決も平和も幸福もありません。
瞋り(怒り)の本態を知ることが 本質的な制御への第一歩
怒りは現代用語表記です。もともとは瞋りと漢語で表記していた仏教の言葉です。瞋りは正確には「瞋
恚・しんい」という心の働きであり、どんな人間にも具わっている煩悩(心の働き)であり、三毒(注1)の一
つです。
瞋恚とは、目を一杯にして対象を叩き攻撃しようとする心の働きです。自分の不利益になることに対し
て、目をいからす「忿」という心作用が起こります。自分にとって不利益になる、思いが通らない、思
い通りにならない、そんなとき、瞋恚の「忿・ふん」の心が湧き起こります。人は、生きるためには、
自分を守らなければなりません。そのためには、自分にとって脅威に感じる存在に対して、逃走か闘争かを、瞬時に判断しなければなりません。闘争は瞋りの結果であり、逃走は恐怖の結末です。いずれも生き抜くための生命の本能(煩悩)的防衛反応です。瞋りは、生き抜くための自分を守る本能であるため、制御が難しくなります。
(注1) 三毒…貪、瞋り、癡(むさぼり、いかり、おろか)の人間生命の根本煩悩。煩悩とは、人間の心身を煩わし、悩ませる種々の精神作用の総称。根本煩悩(貪り、瞋り、癡、慢心、疑い)五つと随煩悩20種類に分別しています。(成唯識論、世親菩薩作)
瞋り(いかり)は 連鎖しながら心の奥深くに根付いてしまう
強くて深い瞋りは、「忿・ふん」恨(こん)「悩」「嫉・しつ」「害」(注2)と連鎖し、瞋りを増幅させ、
簡単にはほどけない、心的呪縛(じゅばく)を演じます。反芻(はんすう)思考の本質の一つも、ここにあります。
(注2)「忿」は、自分にとって不利益な事柄に対して、忿発し、対象・相手を打ったり、罵ったりといった行為。恨(こん)は、「忿」の後に起こり、怨み(うらみ)を結んで解けないという心作用で、悔しさで熱悩する行為。「悩」は、「忿」と「恨」を追っかけ、懊悩し、他人を蟹(かに)のはさみでちくちくさすように働きかける行為。「嫉」は、自らの名利を求めて、他の栄えに耐え切れず、妬み、うらみ、憎む行為。「害」は、他人の生命を損じたり、悩ます行為。
◎当室はあらゆる思想・宗教団体と関係ありません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・法華経に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、そして科学(量子力学)と釈尊・天台智顗・日蓮の生命理論の関係性を思索研鑽しています。学びの旅は、今も続いています。
感情は 意識の対象を 替えることで 制御できるようになる
波のように生まれた感情のエネルギーが、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしか感情の収束はできません。それは、意識によって対象を替えてゆくということになります。意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることです。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーの内在力である感情がすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したもの(感情と表現している)の余情や余韻が自然に消えるを待たなければなりません。
マインドフルネスの指向するもの
マインドフルネスの意(こころ)は、評価せず今に集中して、目的に向かって生きることと、一応説明できますが、先ほど述べた、意識対象の転換と同じことを指しているといってよいでしょう。マインドフルネス的生き方が、注意の転換を可能にし、感情の囚われから脱する一つの道になるのは、体得にあるからです。それは受容とも 南無(注1)とも表現されています。このことを体得すれば どんな感情にも 振り回されなくなります。
注1 南無 ナムはサンスクリット語(古代のインド語)で、漢語では帰命と音訳されている仏教の重要な言葉の一つです。南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無八幡大菩薩、南無妙法蓮華経など、仏・菩薩や仏性を表現した言葉に冠された大事な文字です。本来は、仏・菩薩や仏性に自分の命を任せ、それに基づいて生きるという意味です。森田療法の創始者、精神科医の森田正馬氏は、自分の命をあるがままに、まかせて、今を生きることを南無というと著書「生の欲望」の中で述べています。
南無を「あるがまま」と同じ意味で使っています。つまりマインドフルネスの指向する世界と近接しています。どちらも仏教を基盤にしたものだからです。森田療法の核心は「あるがまま」に生きることです。それは体得であり、悟りであると言っています。そうすれば、どんな嫌な感情にも振り回されなくなり、受け入れることができるようになり、苦しみは消えてゆくと言います。彼は、自らの強迫観念や神経症(心臓恐怖症)を治した経験をもとに、森田療法を創作し、当時、難治とされた「神経症」「強迫観念」「神経衰弱・抑うつ」を、薬を使用せず全治させた治療実績(90%以上)があります。
このエビデンスにより、森田療法は日本のみならず、世界に広がり、精神疾患の世界で注目されるようになりました。今、森田療法が下火になっているのは、真の弟子(師匠森田の教えを正しく体得した人)が徐々にいなくなっていることと薬物療法中心の精神科医の世界が影響しています。どの世界(芸術、宗教、学問、道の世界など)も師匠の精神の体得者がいなくなったとき、形式だけが残り、やがて風化し滅亡の道をたどります。これは歴史が語る真実です。
◎当室はあらゆる思想・宗教団体とも関係はありません。室長は若き日から、ソクラテスをはじめとする哲学、フロイト・ユング・ロジャーズなどの心理学、森田療法、マインドフルネス、マルクス理論、キリスト教、仏教、天文物理学、日本人行動様式論、音楽論、世界文学、西洋文学、東洋文学、日本文学、老荘思想、孔子の儒教、人体学、脳科学、行動科学、詩音律学などを研鑽してきました。特に仏教・法華経に関しては約45年間、研究し続けています。今は、人体学、量子力学、ニコラ・テスラやアインシュタインの哲学、そして科学(量子力学)と釈尊・天台智顗・日蓮の生命理論の関係性を思索研鑽しています。学びの旅は、今も続いています。学べば学ぶほど自分の無知に気づいたからです。