相談室(ブログ)

生きる…それはサバイバル、闘わないと生き残れない

2025.09.28

生きることは サバイバル…

生きるためには食べなくてはいけません。食べ物を確保しないと生きていけないからです。2024年世界では、推定約6億7300万人が飢餓状態に直面しており、これは世界人口の約8.2%にあたります。この数は飢餓人口の減少傾向が見られるものの、2030年の「飢餓ゼロ」という持続可能な開発目標(SDGs)の達成にはほど遠い状況ですが、これが地球の人類の実態です。

食べ物を得るためには、睡眠をとらないと活動できません。そこで安心して寝ることができる住みかが必要になります。一人では食べ物を得ることに限界がありますので、他者との協働が必要になります。ここに共同体が生れていきます。他者と支え合わないと食物を得ることができなくなり、生き抜くことができなくなるからです。

現在の地球上では、紛争状態にある国の正確な数は年々変動するため特定が難しいですが、英国際戦略研究所(IISS)の「武力紛争調査2024」によると、2023年7月から2024年6月の間に世界で約20万人が紛争による死亡者とされています。また、ウクライナ侵攻やシリア内戦など、現在進行中の紛争は複数存在し、それらの影響を受けている子どもたちの数は約4億7千万人にも上るとも言われています。これらの紛争の根本的原因も、もともとは食べ物をはじめとした物質の確保のためであり、生き残るためのものです。現実はきれいごとではなく、残酷です。これが動物種としての人類が生き抜くことの実態なのです。

争い、紛争、戦争は食べ物、物質、領土の奪い合い、つまりサバイバルから始まります。こうした動物性の克服を可能にするのが人間の持つ知性です。しかし、その知性が自己利益、集団利益、国家利益のためだけに使われると、こうした悲劇を生み出します。地球人類は、未だこの課題を解決できていません。国連の平和協議は絵に画いた餅のようであり、ウクライナの惨劇をとめることはできていません。力(暴力・武力・核力)こそ正義がまかり通る野蛮な世界、それが残念ながら地球の現状なのです。人間知性では、人間の欲望を制御できないことを物語っています。では、こうした人間の自己中心性による悪を克服できる方法はないのでしょうか。その方法を模索したのが、過去の思想家であり哲学者であり、宗教家でした。そしてその道を極めたとされているの人たちを、聖人(注1)と呼んでいます。

注1、聖人…一般的には世界の主要な宗教や哲学の開祖を指し、孔子、釈迦、イエス・キリスト、ソクラテスの4人を指します。彼らはそれぞれの時代や地域で人々を導く教えを説き、人類の文化や思想に多大な影響を与え続けています

人間行動の根っこは 本能的な身を守る行動

赤ん坊や幼い子は、本能的行動のまま生きています。親も、そのような本能的行動を満たしてやります。それが保護であり、その時点での養育になります。こどもがわがままなのは、本能的行動のまま生きているからです。人は、食べる、眠る、生殖活動をするという本来的に持つ能力(本能という)で生きています。そして、その本能の活動を支えるのが脳神経の電気信号による快と不快という感情です。だから食べようとしますし、眠ろうとします。また、種を残すために、生殖活動をします。食べ物を食べて美味さを感じないと、食べなくなるかもしれません。安眠は、心地よさを伴います。また生殖行為には快楽が伴います。そうした脳内の電気信号による快楽報酬があるから、人は本能行為をし、生を保つことができるのです。

 逆に本能行動が満たされないと、不快、不満、怒りなどの苦しみを味わうことになります。さらに、人と協力活動をするという社会性が必要になります。ここに人間関係の苦しみも生れます。このようにして人間は自らの身を保ち生きてゆきます。これが人の生きる基本です。天皇も有名人も凡人も貧困者もみな、この基本的な本能を全うしながら生きています。また、この本能的欲求の過剰性が、社会的犯罪や戦争までもたらします。また本能が満たされない場合も、社会的犯罪につながります。「衣食足りて礼節を知る」のが人間です。このような本能はだれもがみんな平等に持つものであり、人間の平等性の証の一つです。そしてこの本能的欲望の調和状態が病と健康の分かれ道になります。人間性の一つは、こうした欲望を調整できているかどうかによります。前述の釈迦や孔子やソクラテスなどの過去の偉人たちは、この本能的欲求を調和させ昇華し、人間性のすばらしさを証明した人たちと言えます。

 本能が満たされないと不快、不満、怒り、不安、恐怖という苦を感じる

 ここまでは、他の動物にも見られる本能行動の基本ですが、人間も動物の一種であることを自覚することが大事です。人間の苦しみの多くは、この本能行動に原因があるからです。食べ物や住まいを得ること、現代では、お金を稼ぐことにつながります。お金は労働の対価です。お金を得るために仕事をし、人と関わらなければなりません。お金を多く稼ぐことができれば、富裕者となり、豊かな暮らしができ、快適、快感をほしいままにできます。逆にお金に窮すれば、貧困になり、生活が苦しくなり、家族を持つ場合は、子どもの養育にも影響してきます。社会的犯罪は、この人間の本能の過剰と不足に原因しています。そして、詐欺、強盗、殺人、窃盗、ギャンブルなど多くの社会問題が起きます。また、生殖本能では、不倫、性的犯罪、ストーカー殺人など多くの犯罪が見られます。さらに集団生活の必要性から、集団のリーダーである権力者が生れ、名誉名声を過剰に求め、人権を無視した行為が生れたり、集団に適応できないひきこもり・不登校が生れたりします。

快を求め・不快を避ける本能的行動

人は生きるために不快・嫌悪・恐怖を避け身を守ります。そして安心、快適を求め、身を養います。つまり好きか嫌いかという快不快感覚が生きるために最初に反応します。それは人間の行動原理の第一法則です。誰人も、この法則に則って生きています。今の苦楽は、人の目・耳・舌・鼻・身に発した感覚の反応が言葉に置き換えた意識活動の結果です。思い通りであれば快感を味わえます。うまくいかないと不快感に支配され、怒りや嫌悪、恐れなどの苦しみになります。人が他の動物と異なるのは、二本足で歩行ができ、手が使えること、大脳皮質が発達し言葉が使え、記憶をもとに思考できる働きを持っていることです。

人間の苦しみは 思考することで増した

人間は自然のうちで最も弱い一本の葦(あし)にすぎない しかし、それは考える葦である(注1)

苦しさを感じ、生きるか死ぬかと考えるのは、この地上で人間だけです。動物も植物もそのようなことは考えません。例えば事故などで脳の大脳皮質の思考野などを損傷すれば、生きる苦しさなど考える思考が活動しなくなり、植物的生命状態で生き抜くことになります。その場合、人は動物的生に近くなります。動物は、苦しさより恐怖と快感の本能で行動しています。思考することはほとんどなく、快・不快の本能的反応行動が中心です。

(注1)葦(あし)…水辺に生える植物で風に弱く、容易に倒れてしまうことから、人間の肉体的弱さやもろさを象徴しています。しかし、人間は、他の動物にはない思考力を持つため、自分の弱さを自覚し、宇宙の大きさを認識し、死を意識することができる、という点が強調された哲学者パスカルの名言です。

 自分は自分と意識できるは記憶の働き

「われ思うゆえに我あり」とデカルトは言いました。思考し、それらを意識するために、自分は自分だと確認できます。考えることで、人間だけが自己認識できるのです。しかし、考えるために、人間は悩みと苦しみを引き受けることになりました。反面、思考することで人間は進歩発展し、物質的に豊かな生活を送ることができるようになりました。思考するという人間に与えられた特権をどう使うかが重要になります。思考は言葉によってなされます。

言葉は過去の記憶・知識ですが、言葉には心の思いとしての感情が伴います。それはAIにはない人間独自のものです。苦と感じるのは、知識・言葉よりも、それと一緒に生起する感情です。AIには感情はありません。正確な電気信号による知識があるだけです。苦からの解放は、感情をどうコントロールできるかにかかっていると言えます。人間は思考する感情の動物です。波のように生まれた感情のエネルギーは、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしかありません。それは、今の感情に支配されている意識を他の対象に置き換えることで可能になります。

意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることです。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーのもつ余派はすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したもの(感情と表現している)の余情や余韻が自然に消えることを待たなければなりません。一度起きた湖面の波が消えるのを待つしかないのです。

 

強い刺激は 頭の中を巡り続ける 

 強い刺激とは、前述した本能行動と関係しています。一番強い刺激は、自らの身が危機に瀕する時に生じる、恐怖と怒りです。恐怖場面に出遭ったとき、人も動物も、逃走か闘争かの二者択一を迫られます。闘争の場合は、対象に対して激しい攻撃的怒りを発します。逃走の場合は恐怖に支配されます。その恐怖感は深く心に刻まれます。闘争の場合も同様に心に残ります。そして、何かあるたびに心に浮かびあがり、自らを苦しめます。その心的状態をトラウマ(心的外傷)と表現することもあります。この繰り返しが頭の中で起きる現象を反芻(はんすう)思考と呼んだりします。心を病んでいる人に多く見られる心の働きです。また、強い刺激には快刺激も含まれます。刺激に伴う快感の強さは心に深く刻まれ、やはり頭の中を巡り、何かに触れて思い起こされ、行為を繰り返します。いわゆる依存症です。昔から言われてきた「飲む、打つ、買う」に代表される、アルコール、ギャンブル、買春という三つの本能的反復行動です。現代は、ゲームやスマホ依存が加速し、世の中の大半の人たちが依存症になっていると言われています。

 反芻思考は、記憶の働きがある限り、だれしもが経験するものです。ただ、その思考のため生活に不自由を感じ、頭の中をぐるぐる回り、頭から離れない思考を病的思考と呼んでいます。侵入思考、自動思考、強迫観念とも重なる心的働きです。それは、ある時のある出来事が記憶され、反復することにより強化され、その記憶が無意識層に潜在、堆積(たいせき)されているからです。そこから 波のように何気に起きてきます。制御が難しいため苦しみます。しかし、忘れてはいけないことは、「やけどした子が火を恐れるようになる」とあるように、恐怖体験は身を守るための本能の働きであるということです。

生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある

生き続けていれば、よいことにも出遭えます。人生は空模様と似ています。いつも晴れではありません。雨や雪そして嵐であっても、いつまでも続きません。台風も一週間もすれば通り過ぎます。暗雲が垂れ込め重苦しい空模様の日でも、雲のかなたには太陽はいつも輝いています。目で見えなくとも、心を働かせば輝いている太陽を描くことができます。同じように、どんな辛い苦しみも、いつまでも続きません。空模様と同じです。そして見えなくとも心には、いつも太陽が存在しています。空のたとえが教えてくれるものを信じて、今を耐え、今日を生きるようにします。今日、しなければいけないことをします。今をとにかく生きます。そうすれば空模様が一定でないように、心模様も変わっていきます。だから、人は生きていけるのです。「冬来りなば 春 遠からじ」(ドイツの詩人シラーの言葉) 冬は苦を象徴し、春は希望であり、楽を表しています。

筆者の苦しみ多き青少年期

楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦しみとの闘いです。なぜなら、生きることは常に新しい出来事・変化を経験することなのです。新しい経験であるためうまくいかないことは当然なのです。うまくいかないと人は苦しさを感じます。私の過去を例に話してみます。七歳で母親と死別しました。兄弟7人、10年の間に7人ですから、ほとんど年子(としご)状態です。父親は寂しさのためか、酒浸(さけびた)りとなり家に帰って来ず、子どもを放置した状態でした。小学生の頃は、生活苦に苦しめられました。食べるものがない、寝る布団(ふとん)がない、服がない、電気がない、年上の人たちからの不当な暴力やいじめ、暴言、罵倒(ばとう)されたり、地域の人から厄介(やっかい)視されたり、およそ人間の生活ではありませんでした。

私が5年生になったころ、私たち男兄弟4人は、児童養護施設に収容されます。今と違ってその施設は、弱肉強食がものをいう動物的な世界でした。児童に自由はほとんどなく、食べ物も粗食、(はか)り飯、休みの日は奉仕作業という名のもとの強制労働です。現代の刑務所より劣悪(れつあく)環境で、地獄そのものでした。多くの児童の心は(ゆが)んでいったようです。中学3年生の始めの頃に、親父に引き取られ叔母の家に同居しました。思春期、青年期になると、私は人と比較して自分を劣ったものと感じ自信を失なったり、自暴自棄になり横道にそれたり、自分の体形(身長の低さなど)に悩んだり、自分の弱さや劣等を隠すために、高校では服装違反、規律違反し、突っ張り、虚勢(きょせい)を張って生き続け、同級生や教師からも一目置かれる存在になっていました。しかし心は空虚で満たされず、ますます反社会的行動に走っていました。結果は高校中退です。また施設出身ということを気にしたり、性格を悩んだり、悩み・苦しみ、そして失敗の連続でした。ですが、なんとか生き抜きました。

20歳の頃、人生の()き先輩と出会い、正しい人生、生き方に徐々に目覚め、生き方の方向がかわってゆきました。自活しながらの浪人・学生時代は、自分の存在に煩悶(はんもん)し、生きるとは何か、自分はどこからきて、どこへ行くのか、心とは何なのか、真理とは、神や仏がいて、なぜ人々は不公平なのか、神はいないのか、正しい生き方とは、幸福とはなど、大学の勉強はそっちのけで、心、生命、見えない世界、正しい社会の在り方などを探求し哲学しました。そのせいで2年間留年しました。社会に出てからも苦悩は続きました。仕事、職場の人間関係、そして家族のことなど、青年期以上の苦悩の連続でした。ですが生き抜きました。

苦悩の先に楽しさや喜びを束の間 感じ やがて平穏な日々になる

今日まで多くの苦しみに向き合い、生き抜くたびに楽しさを感じることもありました。苦を乗り越えた先に、人生の喜びを味わいました。だから生き続けてこれたのかもしれません。しかし、その楽しさもつかの間、また苦が訪れます。その繰り返しですが、苦を乗り越えてゆく度に強くなり賢くなったのも事実です。そして、いつの間にか、苦しみの日々より、平穏な日が増えたような気がします。それは私自身の生き方が変った結果だと気づきました。生きる、それは苦楽であるということを先人は、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と(おし)えてくれています。それが、私たちの人生であり、生命の真実のありようかもしれません。

生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人

生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。動物は、子どもに生き抜く方法を教えるために、わが子を千仭(せんじん)の谷に突き落としたりして、生き抜くことを体に記憶させます。人間は、子どもの頃は親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。よいとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命を、どう生きていくかが大事になります。闘いに勝つ、つまり自分に負けないということで生き抜いていけます。

負けない自分作る 信念 目標 勇気 忍耐 そして希望

負けない自分を作るためには、正しい信念、目標、勇気、忍耐、行動、そして希望が必要です。何よりも「正しい」ということが大事です。例えば、強盗する勇気とか、人を殺す勇気とかは動物的勇気であり、人間の道に背いているため間違った勇気になります。お金持ちになりたいと言うのは正しい目標とは言えません。お金持ちになって、恵まれない人たちの役に立ちたいというのは正しい目標です。正しさの基準は、自分だけが潤うのではなく、自分も他人も潤っていく、つまり、自他共存共栄の思想が正しい生き方の意味です。そのためには、正しい知識・思想が必要です。