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質問1「人は死んだら、どうなるのですか」(男子大学生)質問2「生まれながらに差別があるのはなぜですか」(中学生女子)

2025.11.18

1人は死んだら、どうなるのですか?             芝蘭の便り  2025.11.18

この問いに正しく答えられる人は、いないと言うのが正しいのかもしれませんね。なぜなら、今いる人たちはみんな生きていて死んでいないからです。死ぬということは、(せい)ある人間にとっては、最も大事な問題です。なぜなら、生まれたものは必ず死ぬのが生命の不思議な法則(注1)の一つだからです。死は生きている人間にとって最大の恐怖を与えます。自分が()くなる、自分の持っているものがすべてなくなる…体も、積み上げてきた地位や名声や財産や能力もすべて失くし、周囲の家族や愛する人たちとも別れなければならないからです。自分やものや人に対する愛着をすべて断たなければなりません。

一代で中国を統一し、権力を(ほしいまま)にし、この世のすべての人間やものを自由に支配できると思っていた(しん)()皇帝(こうてい)は、「不死(ふし)の薬」を賢者に探すように命じたという逸話(いつわ)(のこ)されているそうですが、結局、(かな)いませんでした。アメリカでは、死後に生き(かえ)ることを願って、自分を冷凍保存にしている人もいると聞きます。いずれも生に対する愛着の強さを物語っています。

死ぬことは人間にとって最大の苦しみであり、一大事(いちだいじ)なのです。ですから、古来(こらい)あらゆる宗教、哲学、思想、科学が、死について思索(しさく)してきました。物質世界のことと違って見えない心の世界のことであるため、科学的分析(ぶんせき)(およ)ばないのです。そのため、昔から今日にいたるまで、あらゆる仮説(かせつ)がまことしやかに展開されてきました。その(さい)たるものが宗教です。

キリスト教では、死後、神の(さば)きを受け、魂は天国や地獄に行くという考え方を示しています。(すべ)ては神が死後を決めるという思想です。もともと、人間を(ふく)めたこの世界を(つく)ったのは神だから、(せい)も神の創造、死も神の裁断(さいだん)ということになります。つまりすべて神が人間の運命を決めるという思想です。イスラム教では、死は終わりではなく、来世へ向かう通過点と考えているようです。死という最後の日に審判を受け、善行(ぜんこう)を積んだものは、天国へ、悪業(あくごう)を積んだものは地獄へ、アッラーが審判します。一般科学は、物質主義ですから、死ねば物質がなくなるように、すべてなくなるという考えです。仏教は宗派(しゅうは)によっていろいろな考えがありますが、生命は断絶(だんぜつ)するのではなく、基本的には続くという考えです。日本人の死生(しせい)(かん)は、この仏教の考え方が受け入れられているようです。

世界三大宗教、キリスト教、イスラム教、仏教は(たましい)や生命は死で()くならないと言う考え方が基本になっています。それに対して物質科学は、死ねばすべてなくなるという考え方です。どちらが正解なのかは、初めに述べたように、誰にも分りません。死に対する(なぞ)は、今生きている生命を深く掘り下げ、洞察(どうさつ)してゆけばわかるとしたのが、哲学であり、ブッダ・聖人(しょぅにん) (注2)の生命観です。

一般の仏教では、死んだ後、三途(さんず)(かわ)を渡るとあります。その河には、三つの通りがあり、比較的罪の浅い人の通る浅瀬(あさせ)のみち、善を積んだ人の通る金銀でできた橋、罪の重い人のわたる深い激流のみちの三つです。その川岸のほとりには、(だつ)()()がいて、罪の軽重をはかるそうです。そして行き先が決まり、地獄の世界、餓鬼(がき)の世界、畜生(ちくしょう)の世界のいずれかの世界へ、あるいは修羅(しゅら)の世界、(にん)の世界、(てん)の世界などのいずれかに行くと説かれています。話を()くだけで怖くなりますね。唯物論(ゆいぶつろん)哲学(てつがく)では、人間の身体は物資なので、死によってすべては消滅すると言います。つまり一度きりの人生ですから、ある意味、極悪(ごくあく)の殺人をしても死後に裁かれることはないことになります。あくまで、一回の人生で終わりですから。あなたは、どの死生観を信じますか。

ある新興(しんこう)宗教では祖先(そせん)(れい)を問題にし、苦しんでどこかを浮遊(ふゆう)しているなどと言います。そしてその魂が生きている家族などに(わざわ)いを()す、つまり先祖(せんぞ)の霊が(たた)るなど怖い話になったりします。一部の宗教では、この霊魂説(れいこんせつ)を利用して、人の本能的恐怖心と宗教的無知につけこみ、金儲(かねもう)けしているところがあります。死後は誰にもわからないため、どんな仮説も展開でき、本当らしく語ることができ、人の恐怖心に入り()みやすいのです。

()たして死後の生命はどこへ行くのでしょうか? 死とはなんでしょうか?生まれる前はどこにいたのでしょうか?生れたのは偶然なのでしょうか、それとも、 生れるべきして生れたのでしょうか?この問いは、生命とは何かという難問に(かえ)ってきます。生命の真実の解明なしに、生まれる前の生命、そして死後の生命の解明もできません。私たちの生命とは一体、何なのでしょうか。ここでは、真理を悟ったと言われている釈尊(ブッダ)を中心とした仏教の生命理論とニコラ・テスラの光・エネルギー論を比較対照しながら考察してみたいと思います。

ニコラ・テスラは記者のインタビューに次のように答えたと言われています。「存在とは、光の無限の形象(けいしょう)の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべて生命は()りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き()み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一(ゆいいつ)、一つの状態から別の状態に移ることだけです」

一方、釈尊はあらゆる生命は、無有(むう)生死(しょうじ)(生と死は()ることは()い)と説きます。生もなく死もない、生命は(えん)によって顕在(けんざい)し、死という縁で(くう)(注3)のかたちに変り、潜在(せんざい)すると悟りました。つまり生命は無始(むし)無終(むしゅう)であり、始めもなければ終わりもない、あるのは今の生命のみと説きます。釈尊とテスラは同じ世界を見ていたようです。仏法では、生命は二つのかたちをとりながら存在し続けると説きます。生命は()という顕在(けんざい)のかたちをとり、一方で()という死のかたちで潜在(せんざい)すると説きます。(たと)えていえば、夜になって寝ます。次の日の朝に起きます。寝る前の自分を生のかたちとしての存在と考えます。眠ったときを死のかたちで存在していると考えます。朝起きた時を次の生のかたちとして新たに存在しと考えます。寝る前も自分、眠っているときも自分、次の日起きた時も同じ自分、自分と言う()一貫(いっかん)し連続しています。この我の流れをエネルギーと考えるなら、テスラの考え方と一致します。

この()(くう)の状態で存在すると仏法は論じます。自分の我は生まれ変わって、過去の偉人や生物になるわけではありません。自分という我は、あくまで自分で一貫しています。今、生きているときの行為の総体が記憶化され、次の行為につながるように、(こん)()の生き方の総体が心の深い部分の(くら)(注4アラヤ識)に(くう)の状態で貯蔵(ちょぞう)され、自分に(てき)した(えん)を選び出し、顕在化すると説きます。それを因果(いんが)応報(おうほう)とも言います。今の行為((いん))が一つの行動を起こし(果)、(こう)不幸(ふこう)(むく)いを()るのが応報ということです。(ひと)の目は(あざむ)けても自分の心は厳然(げんぜん)と事実を記憶し、その善悪の総体が、次の生のかたちを決めると釈尊は説きました。エネルギーはかたちを変えますが、不変とテスラが言ったことと同じことを()しています。

釈尊は過去・現在・未来という三世(さんぜ)の生命を悟ったと言われています。釈尊の生命観、(せい)()不二(ふに)であり、生命は無始(むし)無終(むしゅう)であり、今の()が姿かたちを変えて因果の総体( (ごう)=カルマ)で連続すると悟りました。つまり、人が死んだら生前(せいぜん)の行為の総体(行為、言葉、心で思ったこと)…善と悪そして無記(むき)(純粋な知識)という(ごう)が意識下に「(くう)」のかたちで潜在してゆきます。その業にふさわしい(えん)を選んで新たな生命のかたちになり、生まれると説きます。(たと)えば生前(せいぜん)、人らしい生き方…人としての(かい)を守り、敬虔(けいけん)な心を持ち、()(おん)(親の恩、社会の恩、師の恩、一切の生物の恩)を感じ、それに(むく)いる生き方をするなど)をしていれば人に生れると言います。動物のような弱肉強食の生き方をしていれば動物(犬・昆虫・鳥など)のかたちに生れると釈尊は説いています。(すべ)ては自分の行為の結果であり、誰のせいでもありません。これが自業自得(じごうじとく)の本当の意味です。つまり、死んでも生きているときの自分という我は、姿形(すがたかたち)を変えて永遠に続くとの理論です。

注1 生命の不思議な法則…宇宙のすべての存在は生と死を繰り返しています。地上の生物は細胞で構成されていますが、その細胞は生まれて変化成長し、やがて老化し役割を終えます。人間も同じです。細胞でできているからです。この法則を釈迦は成住異滅(じょうじゅういめつ)と悟りました。

注2 ブッタ・聖人(しょうにん)…インドに約2500年に誕生した釈尊を一般的には指します。しかし法華経の正統(せいとう)継承者(けいしょうしゃ)の中では、三世(さんぜ)の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人を聖人(しょうにん)と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドの釈尊、中国の天台智顗(てんだいちぎ)、日本の最澄(さいちょう)日蓮(にちれん)の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来を予言し、それを的中(てきちゅう)させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹(りゅうじゅ)・天親菩薩(ぼさつ)がいます。彼らは人間生命の深層(しんそう)を探り、(くう)(かん)唯識(ゆいしき)思想や死後の世界を究明したと言われています。

注3 (くう)竜樹(りゅうじゅ)菩薩(ぼさつ)の中心思想の一つ。存在するものを「()」存在しないものを「()」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「(えん)(きょう)」によって生起(せいき)し有のかたちになる。「空」は有無(うむ)の二つの在り方をとる生命現象なのです。

注4 阿頼耶(あらや)(しき) 唯識(ゆいしき)思想では意識の下に、第七(だいなな)(しき)として末那(まな)(しき)(自我(じが)執着(しゅうちゃく)意識)、その下に第八(だいはっ)(しき)、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在しているが確かに存在し、意識に影響を与えています。脳に記憶化されたものと考えると理解しやすいかもしれません。天台智顗(てんだいちぎ)は八識下に根本(こんぽん)(じょう)(しき)としての()(しき)を覚知されました。それを法性(ほっしょう)(仏性(ぶっしょう))といい、あらゆる万物を創造する慈悲と()()の生命であり釈尊の妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)(注5)と同義であると論じています。

注5 妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)、略して法華経(ほっけきょう)といいます。インド応誕(おうたん)の釈尊は、菩提(ぼだい)樹下(じゅか)で生命の真実相を悟ったと言われています。その悟りの内容を修行面で仏教と言い、法理面(ほうりめん)仏法(ぶっぽう)と言います。悟りの内容は深遠(しんえん)であったため、当時の民衆の生命状態や能力に応じて種々(しゅじゅ)のたとえや方便(ほうべん)を使って教えを説いたとされています。(たと)えば念仏(ねんぶつ)南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)大日如来(だいにちにょらい)の教えや(ぜん)般若波(はんにゃは)()(みつ)(きょう)など、40年にわたって八万(はちまん)宝蔵(ほうぞう)とも言われる膨大(ぼうだい)な教えを展開しましたが、いずれも当時の民衆の能力や理解度を考えて、生命の一部分を説いたと釈尊は言われました。部分ですから、それらに執着しては、正しい生命観を持てないと戒めましたが、現存する日本の多くの仏教は、部分に(とら)われています。それゆえ、真実の法に(いた)ることができていないと聖人は語っています。

釈尊は最後の八年で、真実の教え、生命の全体像を説きます。それが妙法蓮華経(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランのインド、サンスクリット語の漢訳)で、略して法華経と呼ばれています。妙法蓮華経とは、宇宙を含めたすべての存在は不可思議な因果()()の法に(のっと)って存在しているというありのままの姿を言葉として表現したものです。この不思議な法を言葉で名付けた方が聖人であり、その()音律(おんりつ)(リズム・振動)が妙法蓮華経です。実態は言葉を超えて存在していますが、人間には比喩(ひゆ)の言葉でしか表現できないので、聖人は言葉として表現したと言います。そして比喩(ひゆ)(そく)真理(しんり)(比喩はそのまま真理を表す)と不可思議境の世界を説かれました。この妙法蓮華経の振動は、今この瞬間にも私たちの生命そのものとして存在していると言います。当時、書物はありませんので口承(こうしょう)で真意を()んだ弟子たちによって編集され、28品(章)に分類されました。生物の(ごう)を説いた比喩品(ひゆぼん)は第三であり、永遠の生命を説いているのは如来(にょらい)寿量品(じゅりょうぼん)第十六になります。

如来(にょらい)とは、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)薬師(やくし)如来(にょらい)など仏(人的側面)と訳されることもありますが、真実の意味は、今の生命の深層から()き出る私たちの本来的な生命の振動であり法のことです。つまり、今の一瞬の生命は不可思議であり、どこからともなく湧き起こり、私たちの生を支えていますが、私たちは意識できませんし、実感もできません。過去の記憶の総体で自動的な働きの感受(かんじゅ)である意識で生きているからです。

如来の意味は、瞬間に発動する生命のもつ慈悲(じひ)智慧(ちえ)の律動であり振動リズムです。これを光の振動ととらえたのがニコラ・テスラです。生命は永遠に今を振動しています。永遠と言う言葉は時間の変化を表す言葉であり、アインシュタインは、時間はない、変化があるだけと言われました。実際の生命は常に今しかないのです。アインシュタインもニコラ・テスラも、こうした世界の一部を覚知されていたと言われています。だからあれほどの発見ができたとも言えます。この今の生命の真実の在り方、如如(にょにょ)としてくる生命、つまり妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)如来(にょらい)にナム(ナムは梵語(ぼんご)、漢語で帰命(きみょう)…リズムを冥合(みょうごう)させること)して生きることこそ真の幸福に至る道(仏道(ぶつどう))と聖人は教えています。あなたもぜひ、思索研究され、生命の真実に接近されてみてください。

「ひきこもり・不登校・心の不調からよみがえる本」(松岡敏勝著・来春出版予定) 第五章より

2生まれた時から、差別があるのはなぜですか(女子中学生)

(質問)

両親のけんかは絶えず、私が小学校3年生の頃、両親は離婚しました。母親と兄弟3人の生活は、経済的に苦しく、母親は私たちに厳しく接しました。同級生の恵まれた家庭を見るにつけ、「私だけ、なぜこんな家に、こんな親の元に生まれたのか」と思いながら大人になりました。家庭環境のせいなのか、暗いと人に言われます。金持ちの家に生まれたり、いい親をもつ家に生まれたりするのは、なぜなのでしょうか。これは、どうしようもないことなのでしょうか。何かしら回答していただければありがたく思います。

(回答)とても難しい問題ですが、私たち人間にとって大事な本質的な問いになっています。この質問の問いは、前質問「人は死んだらどこへ行くのか」と重複しますが、大事な問題なので、再度、宗教哲学視点から述べてみます。

あなたの質問は、「生まれる前の自分はどこにいたのか?」という問いに置き換えられます。また「人間死んだらどこへ行くのか?」という問いにもなり、生命とは何なのかという本質的な問いになっています。私も青春の頃、そうした問いに悩み、ソクラテス、プラトン、キリスト教神学。近世のデカルト、パスカル、ニーチェ、キルケゴール、ショウペンハイアー、カント、のベルグソン、日本の哲学者西田幾大郎の「善の研究」さらに、ユングの無意識心理学、聖書、仏教の唯識(ゆいしき)思想、生命論と読み(あさ)りました。その中で最も共鳴できたのは、仏教の唯識思想とユングの集合無意識という考え方でした。ここでは簡単に説明させていただきます。

 仏教の無意識世界とユングの無意識の世界には共通点があるように思えます。仏教の唯識思想派では、五感(眼、耳、鼻、舌、身)という感覚を意識が判断思考します。意識が六番目の「(しき)」です。ここまでが意識の世界で、その下が無意識層で、七番目に「自我(じが)執着(しゅうちゃく)意識」があります。今の言葉で言いかえれば、自己愛に近い意識があり、自己への限りない執着があります。これがともすれば正しい生き方の足枷(あしかせ)になり、人間に不幸をもたらすことになると言います。その下に、私たちが身体で行動したり、言葉で働きかけたり心で思ったりしたこと(すべ)てが8番目の行為の貯蔵(ちょぞう)庫に(おさ)められるというのです。行為の貯蔵庫の識をアラヤ識といいます。このアラヤ識、(ごう)・カルマの貯蔵庫は、生きているときも死後も「(くう)」の状態で存在しているといいます。(前述)

個の生命は、自分の業に応じた条件を選び、次の生を始めると説いています。つまり、今生きている行為の全体が、次の生につながるという考え方です。差別は生れる時、始まるのではなく、今世の終わり、つまり死の段階で決まることになります。これがカルマの法則です。エネルギー保存の法則に似ています。金持ちとか、社会的な地位がそのまま続くということではなく、行為の内容…善か悪か、つまり他者の生命を慈しみ、育む、守るという善の行いをどのくらいしたのか、また、他の生命を傷つけ、害したり、さげすんだり、馬鹿にしたり、だましたり、自分だけのことしか考えず、他の生命を利用するような生き方をしたのか、「善悪」どちらの生き方が多かったのかが、死の瞬間に、自分が自分を(さば)厳粛(げんしゅく)な時が(おとず)れ(閻魔(えんま)(さば)きとも比喩(ひゆ)的に言われている)、次の生のかたちが決まるというのです。

人間に生まれてくるには、やはり人間らしい生き方をしていないと人間には生まれないと言われています。動物的な生き方…本能のまま、弱肉強食的生き方であれば、次にふさわしい生命の形は動物かもしれないというのです。自分にふさわしいかたちや場所を選んで次の生を自らが選択するという考え方です。来世の生まれたときの差は、つまり今世の自分の生き方が作り決定するとの考え方です。

生命は死によって断絶(だんぜつ)するものでもなく、何かに生まれ変わるという転生(てんせい)ということでもありません。今日の夜、眠る=死、明日の朝、生まれる=来世。(まった)く自分は連続した(が)(七番目と八番目の無意識の世界)なのです。自己の(が)は連続して一貫しています。これがカルマの法則です。生命の因果は見えませんが、無意識の中に確実に刻印(こくいん)される厳然(げんぜん)たる法則であり、おまけも割引もないと言われています。自分の脳そして深層(しんそう)(しん)に記憶され、消せないからです。 社会法、国法、世間(せけん)法は(ひと)誤魔化(ごまか)すことができますが、自らに内在する生命の因果はごまかしがききません。仏教では、こうした見方ができることを(しょう)(けん)と言います。不幸の原因は生命を正見できないところにあると覚者ブッタは説きました。この考え方からすると、あなたは人間に生まれてきていますので、前世(ぜんせ)で人間らしい生き方(戒律(かいりつ)=道理、倫理(りんり)を守る生き方)をしていたからだと思います。親という環境をどう受け取り、どのようにいかしていくかで、生き方も変わり、価値も変わっていきます。私も、六歳で母親を亡くし、兄弟七人、酒乱の父親、養育放任、極貧(ごくひん)の中で少年期を生きました。恵まれない環境でも生き方や関わり方一つで大きく開けることを経験から知りました。あなたも、自分の人生を、自分らしく探求され、自らを高める方向に進まれてください。必ず希望の未来は開けます。

「ひきこもり・不登校・心の不調からよみがえる本」(松岡敏勝著・来春出版予定) 第五章より