相談室(ブログ)

人は生まれた時から差があるのはなぜですか(中学生女子)

2025.11.18

質問

両親はよくけんかをしていました。私が小学校3年生の時、二人は離婚しました。母親と私たち兄弟3人の生活は、経済的に苦しく、母親は、長女の私に厳しくなりました。同級生の恵まれた家庭を見るにつけ、「なぜ、こんな親の元に生まれたのか」と疑問を持ちながら生きています。家のせいなのか、暗いと人によく言われます。金持ちの家に生まれたり、いい親をもつ家に生まれたりするのは、なぜなのでしょうか。その理由が知りたいです。

回答

とても難しい問題ですが、私たち人間にとって大事な本質的な問いになっています。この質問の問いは、前質問「人は死んだらどこへ行くのか」と重複しますが、大事な問題なので、再度、生命哲学視点から述べてみます。

あなたの質問は、「生まれる前の自分はどこにいたのか?」という問いに置き換えられます。また「人間死んだらどこへ行くのか?」という問いにもなり、生命とは何なのかという本質的な問いになっています。私も青春の頃、そうした問いに悩み、ソクラテス、プラトン、キリスト教神学。近世のデカルト、パスカル、ニーチェ、キルケゴール、ショウペンハイアー、カント、ベルグソン、日本の哲学者西田幾大郎の「善の研究」さらに、ユングの無意識心理学、聖書、仏教の唯識(ゆいしき)思想、生命論と読み(あさ)りました。その中で最も共鳴できたのは、仏教の唯識思想とユングの集合無意識という考え方でした。ここでは簡単に説明させていただきます。

 仏教の無意識世界とユングの無意識の世界には共通点があるように思えます。仏教の唯識思想派では、五感(眼、耳、鼻、舌、身)という感覚を意識が判断思考します。意識が六番目の「(しき)」です。ここまでが意識の世界で、その下が無意識層で、七番目に「自我(じが)執着(しゅうちゃく)意識」があります。今の言葉で言いかえれば、自己愛に近い意識があり、自己への限りない執着があります。これがともすれば正しい生き方の足枷(あしかせ)になり、人間に不幸をもたらすことになると言います。その下に、私たちが身体で行動したり、言葉で働きかけたり心で思ったりしたこと(すべ)てが8番目の行為の貯蔵(ちょぞう)庫に(おさ)められるというのです。行為の貯蔵庫の識をアラヤ識といいます。このアラヤ識、(ごう)・カルマの貯蔵庫は、生きているときも死後も「(くう)」の状態で存在しているといいます。(前述)

個の生命は、自分の業に応じた条件を選び、次の生を始めると説いています。つまり、今生きている行為の全体が、次の生につながるという考え方です。差異は生れる時、始まるのではなく、今世の終わり、つまり死の段階で決まることになります。これが差異を作るカルマの法則です。エネルギー保存の法則に似ています。金持ちとか、社会的な地位がそのまま続くということではなく、行為の内容…善か悪か、つまり他者の生命を慈しみ、育む、守るという善の行いをどのくらいしたのか、また、他の生命を傷つけ、害したり、さげすんだり、馬鹿にしたり、だましたり、自分だけのことしか考えず、他の生命を利用するような生き方をしたのか、「善悪」どちらの生き方が多かったのかが、死の瞬間に、自分が自分を(さば)厳粛(げんしゅく)な時が(おとず)れ(閻魔(えんま)(さば)きとも比喩(ひゆ)的に言われている)、次の生のかたち・差異が決まるというのです。

人間に生まれてくるには、やはり人間らしい生き方をしていないと人間には生まれないと言われています。動物的な生き方…本能のまま、弱肉強食の生き方であれば、次にふさわしい生命のかたちは動物かもしれないというのです。自分にふさわしいかたちや場所を選んで次の生の形と場所を自らが選択するという考え方です。来世の生まれたときの差は、つまり今世の自分の生き方が作り決定するとの考え方です。

生命は死によって断絶(だんぜつ)するものでもなく、何かに生まれ変わるという転生(てんせい)ということでもありません。今日の夜、眠る=死、明日の朝、生まれる=来世。(まった)く自分は連続したものです。見えない、知覚できない七番目と八番目の無意識の世界が続くのです。自己の(が)は連続して一貫しています。これがカルマの法則です。生命の因果は見えませんが、無意識の中に確実に刻印(こくいん)される厳然(げんぜん)たる法則であり、おまけも割引もないと言われています。自分の脳そして深層(しんそう)(しん)に記憶され、消えることなく連続します。それはエネルギーが姿かたちを変えても不変であることと同じです。位置エネルギーが電気エネルギーに姿かたちは変わっても、エネルギーは不変です。同様に、前世の自分と今世の今の自分は姿は違いますが、エネルギー本体の 我(心の法則)は一貫しているのです。これを業(生命の因果)の法則といいます。

社会法、国法、世間(せけん)法は人をだますことができますが、自らに内在する生命の因果はごまかしがききません。仏教では、こうした見方ができることを(しょう)見(ただしくものごとを見る)(けん)と言います。不幸の原因は生命を正見できないところにあるとブッタは説きました。この考え方からすると、あなたは人間に生まれてきていますので、前世(ぜんせ)で人間らしい生き方(戒律(かいりつ)=道理、倫理(りんり)を守る生き方)をしていたからだと思います。親という環境をどう受け取り、どのようにいかしていくかで、生き方も変わり、価値も変わっていきます。

私は六歳で母親を亡くし、兄弟七人、酒乱の父親、養育放任、極貧(ごくひん)の中で少年期を生きました。恵まれない環境でも生き方や関わり方一つで大きく開けることを経験から知りました。あなたも、自分の人生を、自分らしく探求され、自らを高める方向に進まれてください。未来は、今の生き方でどのようにも変わっていくからです。運命として決まっているわけではなく、生命は蘇生力(そせいの力。よみがえるエネルギー)を秘め、柔軟であり可変性に富んでいます。ここが生命の持つ可能性のすばらしさです。私の好きなドイツの詩人シラーは詠(よ)みました。「汝(なんじ・あなた)の運命の星は、汝の胸中にあり」 必ず希望の未来は開けます。

「ひきこもり・不登校・心の不調からよみがえる本」(松岡敏勝著・来春出版予定) 第五章より