相談室(ブログ)

心の病を治す 本物の瞑想で 心は躍動する 

2025.12.12

部分観から全体観への転換が真の健康の条件

生命全体の働きを見ない部分への偏りや執着は心身の秩序を乱し、不健康状態を招きます。また過剰や不足は心身のバランスを崩し、生命の働きを不調にさせます。自分の生命全体の働きを正しく知ることが何よりも大事です。科学を信じる現代社会は、部分観が主流になっています。科学は部分の分析から法則を発見し、一定の成果を出しているからです。分析された部分の世界は真実ですが、全体ではありません。意識できる部分の世界と意識できない広大な全体の世界の働きに目を向けることが大事です。そして自分という生命活動の全体を知ることです。それがの真の健康を得るための必須の条件です。真の健康には、いかなる財宝や名声でも及ばない、内面からの喜びの律動と心の躍動があります。

痛みや苦しみは心身の傷つきや不調が発するメッセージです。執着は神経の疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩し全体を見失わさせます。心身の調和が乱れきった時、苦しみや痛みは限界を超え、心身は病んでしまいます。しかし、人はその原因を見ようとせず、五感で受信した痛みや症状を除去しようとします。その結果、本質的な解決に至ることが難しくなったりします

木を見て森を見ず」という言葉があります。森に入れば目の前の木しか見えません。これは人間の感覚の現実であり、限界です。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たち人間は、基本的には「井の中の蛙(蛙・かわず=かえるのこと)、大海を知らず」の感覚で生きています。見たり耳に聞こえたりする五感覚が受信するごく一部を見て行動し、わかったつもりになり、全体を見ることができません。それは神経や脳の働きを守るためエコの働きを脳がしているからです。井の中の蛙である私たちが大海を見ようとするなら、正しい知識に基づいた想像力を遣うしかありません。井の中から見る世界は部分であり、大海は生命全体を指す全体観のことです。

瞑想のやり方を間違えると迷妄と闇の世界に入り心の病は増幅する

最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本義がわかっている人が、どれだけいるのでしょうか。瞑想を安易に行うと迷妄の闇の世界に入ってしまい、心の病は増幅することになります。本来、瞑想はインドの古代社会から実践されていた欲望を調節し幸福な生き方を志向する一つの修行法でした。釈迦(ブッダ)は、先人の実践に学びながらも、自ら独自の瞑想法で生命の真実(生命の全体)を悟り、仏の境地を得た(注1)と言われています。以下は仏教の専門的な話になります。ブッダの展開された修行法の一つに禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ…簡単言えば瞑想によって悟りの境地に至る修行法)があります。

(注1)仏の境地を得た…仏とは宇宙の真理を悟る智慧を体得した人間、あくまで人間です。仏性は宇宙生命の智慧や慈悲を含んだ不思議な法を指しています。仏の境地という場合、すべての生命的存在に内在する不思議な智慧と慈悲の法を悟り、それに基づいて生きている人という意味です。具体的にはブッダなどの聖人を指します。聖人(生命の永遠性と智慧の無量を直感した人)は、仏教史上、ブッダのほか、天台、最澄、日蓮がいると言われています。

日本の瞑想(禅)は 達磨(ダルマ)大師から 道元(鎌倉時代の僧侶)に伝わったもの

ブッダ以降の仏道修行者の一人、インドの達磨(ダルマ)大師が独自の禅を考案し、それが日本の道元の曹洞宗の禅につながっています。道元は釈尊の涅槃経(ねはんぎょう)で説いた言葉を信じ、独自に修行の世界に入ることを目指しました。それが「不立文字・教外別伝」(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)で、釈尊の言葉から離れ、独自に悟りの世界に入る修行でした。しかし、指標なき瞑想が、どこに向かうのか、先人の言葉や正しいイメージのない瞑想は闇の中を彷徨(さまよ)ことになりかねません。道元も死ぬ直前の日々は、釈尊の法華経の一節を毎日読誦していたと言われています。心の不調者や病んでいる人は、迷いの世界にいます。そんな人が禅の瞑想をやればどうなるのか、想像しただけで結果は見えています。神経を遣った分、迷いと苦しみは増幅されるでしょう。私も、ギャンブル依存がひどいとき、座禅を修行したことがありますが、やり方が悪かったのか、全く効果はなく、逆に悪化しました。指標なき瞑想をすることで、今の迷いの自分から離れられるのかどうか疑問です。魔界に入ることも考えられ、危険性があります。瞑想には正しい師や指標が必要なのです。

マイドフルネスの目指す瞑想法

マインドフルネス考案者のカバットジン氏は、日本で禅を修行し、それを基にして、独自の瞑想法を開発しました。しかし彼のマインドフルネスは禅とは別のものです。彼はイメージや言葉から生命の全体の秩序や調和に迫っています。それが「呼吸瞑想」「歩行瞑想」「今やっていることに対することに意識を集中するという瞑想です」。つまり今生きていることに集中するという簡単なものです。簡単ですが、私たちは、今になかなか集中できません。雑念が雲のように湧くからです。過去の記憶から流れてくるような想念に流され、今を純一に生きることが難しいからです。その集中力を高めるもっともよい方法が呼吸瞑想なのです。また身体を観察する「ボディスキャン」なのです。彼が考案したボディスキャンで部分と全体のつながりを感じてゆくことができます。そうすることでストレスを低減することもできます。

心身を健康にする瞑想法

真の瞑想は想像力と思考力を遣って、生命の深層に肉薄する行動なのです。想像力と思考でブッダの言葉を指標にして深層に入り、それらを超え、本来のありのままの生命の流れに接近し、私たちの自己と宇宙的自己が冥合することが真の瞑想です。

「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ」 アインシュタインの言葉です。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は光彩を放っています。以下に述べる事柄は、感覚では理解できません。知識を指標として想像力を遣えば感じられる世界です。

身体瞑想

私たち人間の身体はリズムを奏でるように呼吸し心臓が鼓動し、その律動で血液が毛細血管の隅々まで巡っています。食べたものは口内で咀嚼され、食道を経て十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆のうの酵素によって消化が進み小腸で、各血管を通じて各臓器に栄養となって運ばれます。さらに大腸で数十兆の大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたものは約7メートルの消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、人間が生きるためのエネルギーになります。腎臓は一分間で一リットルの血液を浄化し生を守ります。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり約100の加工的な働きをしながら人体を守り動かしています。ホルモンは炎症を抑えたり、体や臓器の調和をはかり、身体の恒常性を作ってくれています。脳や神経系は電気信号を使って快、不快、痛み、恐怖などの感覚で身体を守ってくれています。リンパ管やリンパ節は外敵から身を守るため、免疫活動をし、血液の浄化や水分調節をし体を守ります。骨や関節が人体を支え、筋肉が私たちの身体の動きを調節てくれています。皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の最近、ウィルスから守り、その総重量は10㌔を超えています。人間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美男などと私たちは錯覚しています。

私たちは視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚という五感覚で外部世界と交渉していますが、それは身体の働きの100分の一以下の働きなのです。意識はいつも一部しか識ることがではないのが人間の本来的な働きなのです。私たちの身体は各臓器、脳、神経、ホルモン、リンパ、骨、筋肉、心臓、肺、皮膚などが一瞬の停滞もなく、動き変化し、数十兆の細胞を新陳代謝させ絶妙な調和を保っています。不思議であり神秘です。神がこの世界にいるなら、こうした働きを神といってもよいでしょう。もともと神経とは「神の通り経・みち」という意味なのです。神経の不思議な働きから命名したものです。例えば、体のほんの一部の歯の虫歯が痛むだけで、苦しみにとらわれるのが人の身体の現実ですが、それは人の身体全体から見れば微小なことに過ぎません。

地球自然瞑想

地球は生きています。私たち生物と同じように…。地球は地球自らのものであり、自分の役割を誠実に果たしながら、慈悲の働きをしています。大気中には、私たちの生命活動の根本である細胞に必要な酸素がほどよく存在しています。また月や太陽や金星などの惑星と絶妙な距離を保ち、重力や引力が均衡(きんこう)し、今の領域を保っています。地球は24時間で昼夜を織りなし、太陽の周りを1秒間で30㌔という速さで、私たち生物を乗せて365日で回遊します。その期間を人間は1年と名付け、日本人は春夏秋冬を味わっています。地球はだれの指示に従うわけでもなく、自らの本然の力である慈悲と智慧の働きを演じているのです。

そうした神秘的な働きのおかげで、私たちは宇宙に浮遊(ふゆう)することもなく、大地に足をつけ、太陽光の強烈な紫外線やガンマ線などに(さら)されることもなく、適度な水と温度、湿度の恩恵(おんけい)(よく)し、生きていくことが出来ています。生物は、生まれ、自分の役割を演じ、生を終えていきます。

地球の活動は慈悲を根本にした智慧の働きに支えられています。慈悲とは苦しみを抜き、楽しみを与える働きです。地球上のあらゆる生物の苦しみを和らげ、楽しみを与えゆく慈悲の実行者にして慂出(ゆじゅつ)する力それが智慧です。あらゆる生物は、地球の恩恵に浴し、慈悲と智慧に守られながら生きることが出来ています。

地球上には大気圏が地上から、約10万キロmまであり、宇宙空間からくる電磁波が人間にもたらす被害から守っています。地上の生物や動物や人が生きていけるのは、酸素が存在し、海があり、人間の血管のように河川があり、血液が流れるように水が流れているからです。

地球の自公転や水が生物の生を支えています。私たちは、普段(ふだん)当たり前のこととして、それらの恩恵を享受(きょうじゅ)していますが、けっして当たり前のことではなく、奇跡(きせき)的出来事なのです。地球の有り難さの一部を感じるのは、地震や気温の急激な上昇や線状降水帯発生などの時ぐらいでしょうか。

地球の兄弟星、火星や月には酸素がほとんどありません。金星は温室効果ガスの影響で表面温度が460度の灼熱(しゃくねつ)の惑星です。美しい()を持つ土星の輪は、氷の(つぶ)と岩石の集まりでありガスの惑星です。太陽系では地球だけが生物が住める不思議な惑星です。

太陽からの距離が絶妙(ぜつみょう)な位置にあるため、地球上では生物が生きていけます。太陽が光を(ほど)よく調和するかのように、可視(かし)光線(こうせん)、赤外線、紫外線などを届けてくれています。太陽の光のおかげで、暗闇(くらやみ)の宇宙に光が(とも)され、私たちはものを見ることが出来ます。絶妙な気圧のおかげで振動を受信し音や声を聞くことが出来ています。私たちは不思議な働きに守られています。

私たちは、無料で地球に()んでいます。現代の人類は、地球全体の働きを考えることもなく、加工したりして自由に使っています。科学的発明がなかった昔、人々は、太陽を礼拝したり、水神(すいじん)(まつ)ったり、地神に手を合わせる純な敬虔(けいけん)な心を持ち、地球や太陽の恵みに感謝していました。今は、他の生物の生態(せいたい)(けい)を壊し、母船(ぼせん)である地球そのものを壊しつつあります。このまま進めば、生物は少しずつ絶滅(ぜつめつ)し、人類も滅びてゆくことになるかもしれません。森林伐採(ばっさい)、砂漠化、工場が出す煤煙(ばいえん)汚染(おせん)(すい)で海や川が汚れ、多くの生物が死滅しています。二酸化炭素の排出と気候の温暖化、食用のために動物の殺、養殖。客観的な目で見れば、人間のしていることは果たして善なのでしょうか、悪なのでしょうか…。

地球が生命ある存在ということに気づいていないのでしょうか。地球が傷つき、苦しんでいるのが分からないのでしょうか。科学が進歩し、物理天文学、量子力学も日進月歩しています。スマホ一つで、(よう)()せる便利社会になり、子どもから大人まで、楽しさやおもしろさに(あふ)れる視覚快適感覚にはまり、未来を見つめる想像力は衰え、考えることすら止めたのでしょうか、生物や地球環境のことを思いやることを忘れているのでしょうか。科学の進歩は何のためだったのでしょうか。見えるものを相手にし、大事な心を見ようとしない生き方が社会や時代の濁りを生み、心身の病気を招き、応急対処的な症状除去の医療に身をまかせ、根本を見ることをせず、人類や生物を破滅に導いている気がしてなりません。気候変動、地震や自然災害、地球はSOSを出しています。しかし、そのサインを、誰が読み取っているのでしょうか。

地球の生物の90%は植物です。残りの10%が動物・昆虫・微生物などです。動物の中でも人はごく微小(びしょう)で、人ひとりに対して、ありは一万五千匹の比率です。地球の動物の主役は昆虫です。生物、特に動物は弱肉強食の本能の法則で生きています。最も限度を知らない動物は、人間かもしれません。脳の発達のおかげで、道具を開発し、言葉を持ち、記憶化した知識で、地球を(ほしいまま)にしています。その欲望の先にあるのは、美しい緑の地球から、荒廃(こうはい)した生物の住めない惑星の姿かもしれません。

誰のものでもない地球、地球は地球自らのものです。「ここの土地は自分のものだ」と言い張り、人を平気で押しのけ殺す人たち…その極致(きょくち)が戦争です。戦争は自己中心性から発する人間魔性の仕業(しわざ)です。宇宙に浮かぶ地球を想像することができれば、地上の生物や人はみな地球号に乗った運命共同体と自覚できます。人間の傲慢(ごうまん)さや貪欲(どんよく)さが、やがて地球を破滅させてゆくかもしれません。まず、地球も太陽も金星も月も私たちと同じ生命体と明らかに見る心を持つことです。地球の恩恵を感じる心が、自分も他人も守り、幸福にしていきます。地球の恩をありのままに感じる純な心をもつことこそ、人としての正しい道であり、幸福になる道なのです。

地球は月という兄弟衛星を伴い瞬時も休まず動き変化し 太陽系の中で絶妙な調和を保っています。その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営んでいます。

生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。現代人の多くは視聴・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失っています。それが様々な新しい心の病をつくりだしていることに誰も気づいていません

不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っています。

磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には すべてが正しく見えるようになります。何が幸福をもたらし 何が不幸にさせるのかを 明晰に見分けることができます…。幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです

不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると 心の波は逆流し 自他を巻き込み いたずらに消耗し やがて苦しみの海に沈んでゆきます。限度を知らない過剰な欲望は 自らを焼き焦がし 周りを燃やし 炎の波にのまれてゆきます。快楽に耽け続けると 心は淀み 濁り 善悪がわからなくなり 心の波は間延びし 思考もとまります。人に勝りたい 人より優位に立ち 人を支配したいと思い続けると 心は歪んで 素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は ほどよさの感覚を失うと  調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。

幸福になる音色を奏でる人は 心が素直で 柔らかく きれいに澄んで 美しい周波を演じています。財産 社会的地位 名声 人気 才能 美貌 健康などは 幸福の一面的な要素で、束の間の喜びをもたらしてくれますが 時とともに色褪せ 壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは 空しく時と共に風化し 最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは 花火のようなもので 刹那的な陽炎のようなものです。

ー祇園精舎の鐘の声 諸行無常(注2)の響きあり 沙羅双樹(注3)の花の色 盛者必衰の理をあらわすー    平家物語の冒頭の詞は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが 凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着心の強さで、心が濁り 心の真実相が見えないからです。

心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識 五感 心根は時とともに輝きを増し その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは 永遠性を孕(はら)んだ美しい調和された波そのものです。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる調和波なのです。

心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…。自分や人の心が美しいと感じた時はどんな時だったのかを 振り返ってみてください…。過去の聖人・賢人の生き方や 思想哲学や文学・芸術に学んでみましょう。不断に自己を磨き続け 内省し 浄化された自己の鏡に 真実も幸福も映し出されるでしょう。意識を磨き、研ぎ澄まされた精緻な思考の力、そして宇宙をも包む想像力を身につければ、あらゆる病は消滅し、真の安らぎを得ることができるでしょう。

注2 諸行無常(しょぎょうむじょう)…仏法生命論の重要な言葉です。この世のあらゆるもの、塵、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は縁起によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。それは諸法無我と同義です。全ての存在は縁起で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという言葉と同じ内容の意味になります。私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と意識しているにすぎず、夢のようなものを実在していると記憶しているにすぎません。認知症になり記憶機能が失われてしまえば、自分が自分であることも分からなくなりますが、生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識化された記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による嫁を見ているようなものです。この世のものは全て動いており、変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の発見です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明する形になっています。夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実相を覚知できません。瞑想で意識を磨き、心を浄化させ、想像力を無限に広げることで可能になります。

(注3)沙羅双樹(さらそうじゅ)の花…釈尊(ブッタ)が涅槃・ねはん(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で存在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相といいます。釈尊の究極の哲理(法華経方便品で説かれている)です。それを悟ることができれば永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は覚知されました。

詩朗読瞑想は重い心の病を改善する

心の病は大きく分けて三種に分けられると思います。神経症傾向(強迫性、パニック障害、恐怖症、対人不安など)うつ・躁うつ、統合失調症スペクトラムの三種類です。神経症はエネルギーがありますので、正しい心理学習で改善可能です。うつはエネルギーが低下していますので、エネルギーの補充が何よりも一番です。休養と軽い運動、気分転換の旅行、エネルギーが出てきたら、心理学習や身体・地球瞑想、詩朗読瞑想です。統合失調症は、深い深層から起きる観念が現実化しているので、心理学習と深い深層の流れの転換が必要になります。心理学習、身体瞑想、地球瞑想を含め、詩読誦瞑想が効果的です。

俳句を読めば、俳句が描いた世界に入れます。短歌を読めば、短歌が歌っている心の世界に入れます。杜甫(とほ)の詩を読めば、杜甫の心が見た世界に入れます。ブッダの悟りの言葉を朗読すれば、ブッダの悟りの世界に接近できます。それが詩読誦であり、ブッダの悟った振動や周波数に心を合わせることになります。ブッダの悟りの凝縮された世界は、生命の全体観を網羅(もうら)した法華経であり、中でも如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第16と聖人は言います。その要は自我偈(注4)(じがげ,偈は詩の意味)510音(漢語)と聖人は強調されました。「自我偈」は人間生命全体の讃歌であり、生命の無量の智慧と力を謳(うた)ったものとされています。朗読すれば、その生命がこんこんとして、私たちの生命に沸き起こり、喜びを感じるようになります。

(注4)…自我偈(じがげ)510音の漢詩句。五言の美しい言葉で構成された、法華経寿量品の要約文。「我得仏来・じがとくぶつらい」に始まり、「速成就仏・そくじょうじゅうぶっしん」で終わる。誰人の生命のにも内在する自身の生命の素晴らしさを讃歌した詩と言われている。