質問
最近、大学の後輩が亡くなりました。悲しくて、夜も眠れません。彼はどうなったのでしょうか? どこへ行ったのでしょうか? 安らかに眠っているのでしょうか?
回答
この問いに正しく答えられる人は、残念ながらいません。なぜなら、今いる人たちはみんな生きていて死んでいないからです。ですから、この問いに対する回答は、仮説になります。ここでは二コラ・テスラ(注1)の光振動理論とブッダ(注2)の生命科学理論から考察してみます。
(注1)ニコラ・テスラ…アインシュタインと並び称される20世紀最大の物理学者、交流電圧を発見するなど200以上の発見をし、人類の福祉に貢献した。 (注2)ブッダ…仏教の開祖釈迦・釈尊のこと。詳しくは下欄に詳述。
死ぬということは、生ある人間にとっては、最も大事な問題です。なぜなら、生まれたものは必ず死ぬのが生命の不思議な法則(注3)の一つだからです。死は生きている人間にとって最大の恐怖を与えます。自分が無くなる、自分の持っているものがすべてなくなる…体も、積み上げてきた地位や名声や財産や能力もすべて失くし、周囲の家族や愛する人たちとも別れなければならないからです。自分やものや人に対する愛着をすべて断たなければなりません。人生もこの世も不確実ですが、死だけは確実で、億万長者も最高権力者も凡人も必ず死にます。死は平等です。差異と差別の現実から見れば、信じられないことですが、すべての人の生命も本質部分では平等です。この真実はブッダにしか直観できないと言われていまが、ブッダの志を生きるとき、同じように直観できると言われています。
一代で中国を統一し、権力を恣にし、この世のすべての人間やものを自由に支配できると思っていた秦の始皇帝は、「不死の薬」を賢者に探すように命じたという逸話が遺されているそうですが、結局、叶いませんでした。アメリカでは、死後に生き還ることを願って、自分を冷凍保存にしている人もいると聞きます。いずれも生に対する愛着の強さを物語っています。
死ぬことは人間にとって最大の苦しみであり、一大事なのです。ですから、古来、宗教、哲学、思想、科学が、死について思索してきました。物質世界のことと違って見えない心の世界のことであるため、科学的分析が及ばないのです。そのため、昔から今日にいたるまで、あらゆる仮説がまことしやかに展開されてきました。その最たるものが宗教です。
キリスト教では、死後、神の裁きを受け、魂は天国や地獄に行くという考え方を示しています。全ては神が死後を決めるという思想です。もともと、人間を含めたこの世界を創ったのは神だから、生も神の創造、死も神の裁断ということになります。つまりすべて神が人間の運命を決めるという思想です。イスラム教では、死は終わりではなく、来世へ向かう通過点と考えているようです。死という最後の日に審判を受け、善行を積んだものは、天国へ、悪業を積んだものは地獄へ、アッラーが審判します。一般科学は、物質主義ですから、死ねば物質がなくなるように、すべてなくなるという考えです。仏教は宗派によっていろいろな考えがありますが、生命は断絶するのではなく、基本的には続くという考えです。日本人の死生観は、この仏教の考え方が受け入れられているようです。
果たして死後の生命はどうなるのでしょうか? 死とは何でしょうか?生まれる前はどこにいたのでしょうか?生れたのは偶然なのでしょうか、それとも、 生れるべきして生れたのでしょうか?この問いは、生命とは何かという難問に還ってきます。生命の真実の解明なしに、生まれる前の生命、そして死後の生命の解明もできません。私たちの生命とは一体、何なのでしょうか。ここでは、真理を悟ったと言われているブッダを中心とした仏教の生命理論とニコラ・テスラの光・エネルギー論を比較対照しながら論じてゆきます。
ニコラ・テスラは記者のインタビューに次のように答えたと言われています。「存在とは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべて生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き産み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一、一つの状態から別の状態に移ることだけです」
一方、ブッダはあらゆる生命は、無有生死(生と死は有ることは無い)と説きます。生もなく死もない、生命は縁によって顕在し、死という縁で空(注4)のかたちに変り、潜在すると悟りました。つまり生命は無始無終であり、始めもなければ終わりもない、あるのは今の生命のみと説きます。ブッダとテスラは同じ世界を見ていたようです。仏法生命論は、生命は二つのかたちをとりながら存在し続けると説きます。生命は有という顕在のかたちをとり、一方で無という死のかたちで潜在すると説きます。例えていえば、夜になって寝ます。次の日の朝に起きます。寝る前の自分を生のかたちとしての存在と考えます。眠ったときを死のかたちで存在していると考えます。朝起きた時を次の生のかたちとして新たに存在しと考えます。寝る前も自分、眠っているときも自分、次の日起きた時も同じ自分、自分と言う我は一貫し連続しています。この我の流れをエネルギーと考えるなら、テスラの考え方と一致します。
この我は空の状態で存在すると仏法は論じます。自分の我は生まれ変わって、過去の偉人や生物になるわけではありません。自分という我は、あくまで自分で一貫しています。今、生きているときの行為の総体が記憶化され、次の行為につながるように、今世の生き方の総体が心の深い部分の蔵(注5アラヤ識)に空の状態で貯蔵され、自分に適した縁を選び出し、顕在化すると説きます。それを因果応報とも言います。今の行為(因)が一つの行動を起こし(果)、幸不幸の報いを得るのが応報ということです。人の目は欺けても自分の心は厳然と事実を記憶し、その善悪の総体が、次の生のかたちを決めるとブッダは説きました。エネルギーはかたちを変えますが、不変とテスラが言ったことと同じことを指しています。
ブッダは過去・現在・未来という三世の生命を悟ったと言われています。ブッダの生命観、生と死は不二であり、生命は無始無終であり、今の我が姿かたちを変えて因果の総体( 業=カルマ)で連続すると悟りました。つまり、人が死んだら生前の行為の総体(行為、言葉、心で思ったこと)…善と悪そして無記(純粋な知識)という業が意識下に「空」のかたちで潜在してゆきます。その業にふさわしい縁を選んで、阿頼耶識に蓄積されているものが種子が発芽するように、新たな生命のかたちになり、生まれると説きます。例えば生前、人らしい生き方…人としての戒を守り、敬虔な心を持ち、四恩(親の恩、社会の恩、師の恩、一切の生物の恩)を感じ、それに報いる生き方をするなど)をしていれば人に生れると言います。動物のような弱肉強食の生き方をしていれば動物(犬・昆虫・鳥など)のかたちに生れるとブッダは説いています。全ては自分の行為の結果であり、誰のせいでもありません。これが自業自得の本当の意味です。つまり、死んでも生きているときの自分という我は、姿形を変えて、心法(注6)(色法=肉体、心法=心、仏法生命論は色心不二と説きます)として存在し、永遠に続くとの理論です。
注2 ブッタ・聖人…インドに約2500年に誕生したブッダを一般的には指します。しかし法華経の正統継承者の中では、三世の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人を聖人と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドのブッダ、中国の天台智顗、日本の最澄と日蓮の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来を予言し、それを的中させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹・天親菩薩がいます。彼らは人間生命の深層を探り、空観や唯識思想や死後の世界を究明したと言われています。
注3生命の不思議な法則…宇宙のすべての存在は生と死を繰り返しています。地上の生物は細胞で構成されていますが、その細胞は生まれて変化成長し、やがて老化し役割を終えます。人間も同じです。細胞でできているからです。この法則を釈迦は生住異滅(じょうじゅういめつ)、生滅の法(生死の二法)と悟りました。
注4 空…竜樹菩薩の中心思想の一つ。存在するものを「有」存在しないものを「無」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「縁・境」によって生起し有のかたちになる。「空」は有無の二つの在り方をとる生命現象なのです。
注5 阿頼耶識 唯識思想では意識の下に、第七識として末那識(自我執着意識)、その下に第八識、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在しているが確かに存在し、意識に影響を与えています。脳に記憶化されたものと考えると理解しやすいかもしれません。天台智顗は八識下に根本浄識としての九識を覚知されました。それを法性(仏性)といい、あらゆる万物を創造する慈悲と知慧の生命でありブッダの妙法蓮華経(注7)と同義であると論じています。
注6… 心法、仏法生命論の重要概念の一つ。色法=肉体の働き、心法=心の働き、仏法生命論は色心不二と説きます。この色心不二が生命の存在の真実の姿とブッダは悟りました。般若波羅蜜教の中心思想は「色即是空」です。色法は、これ空との教えです。心法は、空の状態で存在し、縁によって顕在し見えるかたち、色法として働きます。色心不二理論は、妙法蓮華経方便品で説かれた重要理論です。
注7 妙法蓮華経、略して法華経といいます。インド応誕のブッダは、菩提樹下で生命の真実相を悟ったと言われています。その悟りの内容を修行面で仏教と言い、法理面を仏法と言います。悟りの内容は深遠であったため、当時の民衆の生命状態や能力に応じて種々のたとえや方便を使って教えを説いたとされています。例えば念仏の南無阿弥陀仏や大日如来の教えや禅や般若波羅蜜経など、40年にわたって八万宝蔵とも言われる膨大な教えを展開しましたが、いずれも当時の民衆の能力や理解度を考えて、生命の一部分を説いたとブッダは言われました。部分ですから、それらに執着しては、正しい生命観を持てないと戒めましたが、現存する日本の多くの仏教は、部分に囚われています。それゆえ、真実の法に到ることができていないと聖人は語っています。
ブッダは最後の八年で、真実の教え、生命の全体像を説きます。それが妙法蓮華経(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランのインド、サンスクリット語の漢訳)で、略して法華経と呼ばれています。妙法蓮華経とは、宇宙を含めたすべての存在は不可思議な因果俱時の法に則って存在しているというありのままの姿を言葉として表現したものです。この不思議な法を言葉で名付けた方が聖人であり、その語音律(リズム・振動)が妙法蓮華経です。実態は言葉を超えて存在していますが、人間には比喩の言葉でしか表現できないので、聖人は言葉として表現したと言います。そして比喩即真理(比喩はそのまま真理を表す)と不可思議境の世界を説かれました。この妙法蓮華経の振動は、今この瞬間にも私たちの生命そのものとして存在していると言います。当時、書物はありませんので口承で真意を汲んだ弟子たちによって編集され、28品(章)に分類されました。生物の業を説いた比喩品は第三であり、永遠の生命を説いているのは如来寿量品第十六になります。
如来とは、阿弥陀如来や薬師如来など仏(人的側面)と訳されることもありますが、真実の意味は、今の生命の深層から湧き出る私たちの本来的な生命の振動であり法のことです。つまり、今の一瞬の生命は不可思議であり、どこからともなく湧き起こり、私たちの生を支えていますが、私たちは意識できませんし、実感もできません。過去の記憶の総体で自動的な働きの感受である意識で生きているからです。
如来の意味は、瞬間に発動する生命のもつ慈悲と智慧の律動であり振動リズムです。これを光の振動ととらえたのがニコラ・テスラです。生命は永遠に今を振動しています。永遠と言う言葉は時間の変化を表す言葉であり、アインシュタインは、時間はない、変化があるだけと言いました。実際の生命は常に今しかないのです。アインシュタインもニコラ・テスラも、こうした世界の一部を覚知していたと言われています。だからあれほどの発見ができたとも言えます。この今の生命の真実の在り方、如如としてくる生命、つまり妙法蓮華経如来にナム(ナムは梵語、漢語で帰命…リズムを冥合させること)して生きることこそ真の幸福に至る道(仏道)と聖人は教えています。私は今日まで、50年近く諸般の哲学や文学、科学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。研鑽の旅は今も続いています。あなたもぜひ、思索研究され、生命の真実に接近されてみてください。
しらんの便り…不登校・引きこもり・心の不調からよみがえる本 (来春出版予定)第五章より抜粋