相談室(ブログ)

人は死んだら どうなりますか(男子大学生)

2025.12.09

質問

最近、大学の後輩が亡くなりました。悲しくて、夜も眠れません。彼はどうなったのでしょうか? どこへ行ったのでしょうか? 安らかに眠っているのでしょうか? 

回答

この問いに正しく答えられる人は、残念ながらいません。なぜなら、今いる人たちはみんな生きていて死んでいないからです。ですから、この問いに対する回答は、仮説になります。ここでは二コラ・テスラ(注1)の光振動理論とブッダ(注2)の生命科学理論から考察してみます。

(注1)ニコラ・テスラ…アインシュタインと並び称される20世紀最大の物理学者、交流電圧を発見するなど200以上の発見をし、人類の福祉に貢献した。 (注2)ブッダ…仏教の開祖釈迦・釈尊のこと。詳しくは下欄に詳述。

死ぬということは、(せい)ある人間にとっては、最も大事な問題です。なぜなら、生まれたものは必ず死ぬのが生命の不思議な法則(注3)の一つだからです。死は生きている人間にとって最大の恐怖を与えます。自分が(な)くなる、自分の持っているものがすべてなくなる…体も、積み上げてきた地位や名声や財産や能力もすべて失くし、周囲の家族や愛する人たちとも別れなければならないからです。自分やものや人に対する愛着をすべて断たなければなりません。人生もこの世も不確実ですが、死だけは確実で、億万長者も最高権力者も凡人も必ず死にます。死は平等です。差異と差別の現実から見れば、信じられないことですが、すべての人の生命も本質部分では平等です。この真実はブッダにしか直観できないと言われていまが、ブッダの志を生きるとき、同じように直観できると言われています。

一代で中国を統一し、権力を(ほしいまま)にし、この世のすべての人間やものを自由に支配できると思っていた(しん)()皇帝(こうてい)は、「不死(ふし)の薬」を賢者に探すように命じたという逸話(いつわ)(のこ)されているそうですが、結局、(かな)いませんでした。アメリカでは、死後に生き(かえ)ることを願って、自分を冷凍保存にしている人もいると聞きます。いずれも生に対する愛着の強さを物語っています。

死ぬことは人間にとって最大の苦しみであり、一大事(いちだいじ)なのです。ですから、古来(こらい)、宗教、哲学、思想、科学が、死について思索(しさく)してきました。物質世界のことと違って見えない心の世界のことであるため、科学的分析(ぶんせき)(およ)ばないのです。そのため、昔から今日にいたるまで、あらゆる仮説(かせつ)がまことしやかに展開されてきました。その(さい)たるものが宗教です。

キリスト教では、死後、神の(さば)きを受け、魂は天国や地獄に行くという考え方を示しています。(すべ)ては神が死後を決めるという思想です。もともと、人間を(ふく)めたこの世界を(つく)ったのは神だから、(せい)も神の創造、死も神の裁断(さいだん)ということになります。つまりすべて神が人間の運命を決めるという思想です。イスラム教では、死は終わりではなく、来世へ向かう通過点と考えているようです。死という最後の日に審判を受け、善行(ぜんこう)を積んだものは、天国へ、悪業(あくごう)を積んだものは地獄へ、アッラーが審判します。一般科学は、物質主義ですから、死ねば物質がなくなるように、すべてなくなるという考えです。仏教は宗派(しゅうは)によっていろいろな考えがありますが、生命は断絶(だんぜつ)するのではなく、基本的には続くという考えです。日本人の死生(しせい)(かん)は、この仏教の考え方が受け入れられているようです。

()たして死後の生命はどうなるのでしょうか? 死とは何でしょうか?生まれる前はどこにいたのでしょうか?生れたのは偶然なのでしょうか、それとも、 生れるべきして生れたのでしょうか?この問いは、生命とは何かという難問に(かえ)ってきます。生命の真実の解明なしに、生まれる前の生命、そして死後の生命の解明もできません。私たちの生命とは一体、何なのでしょうか。ここでは、真理を悟ったと言われているブッダを中心とした仏教の生命理論とニコラ・テスラの光・エネルギー論を比較対照しながら論じてゆきます。

ニコラ・テスラは記者のインタビューに次のように答えたと言われています。「存在とは、光の無限の形象(けいしょう)の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべて生命は()りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜならエネルギーは永遠だからです。神とはエネルギーのことです。神とは意識を持たない生き()み出し続ける力です。この存在の世界において、あるのは、唯一(ゆいいつ)、一つの状態から別の状態に移ることだけです」

一方、ブッダはあらゆる生命は、無有(むう)生死(しょうじ)(生と死は()ることは()い)と説きます。生もなく死もない、生命は(えん)によって顕在(けんざい)し、死という縁で(くう)(注4)のかたちに変り、潜在(せんざい)すると悟りました。つまり生命は無始(むし)無終(むしゅう)であり、始めもなければ終わりもない、あるのは今の生命のみと説きます。ブッダとテスラは同じ世界を見ていたようです。仏法生命論は、生命は二つのかたちをとりながら存在し続けると説きます。生命は()という顕在(けんざい)のかたちをとり、一方で()という死のかたちで潜在(せんざい)すると説きます。(たと)えていえば、夜になって寝ます。次の日の朝に起きます。寝る前の自分を生のかたちとしての存在と考えます。眠ったときを死のかたちで存在していると考えます。朝起きた時を次の生のかたちとして新たに存在しと考えます。寝る前も自分、眠っているときも自分、次の日起きた時も同じ自分、自分と言う()一貫(いっかん)し連続しています。この我の流れをエネルギーと考えるなら、テスラの考え方と一致します。

この()(くう)の状態で存在すると仏法は論じます。自分の我は生まれ変わって、過去の偉人や生物になるわけではありません。自分という我は、あくまで自分で一貫しています。今、生きているときの行為の総体が記憶化され、次の行為につながるように、(こん)()の生き方の総体が心の深い部分の(くら)(5アラヤ識)に(くう)の状態で貯蔵(ちょぞう)され、自分に(てき)した(えん)を選び出し、顕在化すると説きます。それを因果(いんが)応報(おうほう)とも言います。今の行為((いん))が一つの行動を起こし(果)、(こう)不幸(ふこう)(むく)いを()るのが応報ということです。(ひと)の目は(あざむ)けても自分の心は厳然(げんぜん)と事実を記憶し、その善悪の総体が、次の生のかたちを決めるとブッダは説きました。エネルギーはかたちを変えますが、不変とテスラが言ったことと同じことを()しています。

ブッダは過去・現在・未来という三世(さんぜ)の生命を悟ったと言われています。ブッダの生命観、(せい)()不二(ふに)であり、生命は無始(むし)無終(むしゅう)であり、今の()が姿かたちを変えて因果の総体( (ごう)=カルマ)で連続すると悟りました。つまり、人が死んだら生前(せいぜん)の行為の総体(行為、言葉、心で思ったこと)…善と悪そして無記(むき)(純粋な知識)という(ごう)が意識下に「(くう)」のかたちで潜在してゆきます。その業にふさわしい(えん)を選んで、阿頼耶(あらや)(しき)に蓄積されているものが種子(しゅし)発芽(はつが)するように、新たな生命のかたちになり、生まれると説きます。(たと)えば生前(せいぜん)、人らしい生き方…人としての(かい)を守り、敬虔(けいけん)な心を持ち、()(おん)(親の恩、社会の恩、師の恩、一切の生物の恩)を感じ、それに(むく)いる生き方をするなど)をしていれば人に生れると言います。動物のような弱肉強食の生き方をしていれば動物(犬・昆虫・鳥など)のかたちに生れるとブッダは説いています。(すべ)ては自分の行為の結果であり、誰のせいでもありません。これが自業自得(じごうじとく)の本当の意味です。つまり、死んでも生きているときの自分という我は、姿形(すがたかたち)を変えて、心法(しんぽう)(注6)(色法=肉体、心法=心、仏法生命論は色心不二と説きます)として存在し、永遠に続くとの理論です。

注2 ブッタ・聖人(しょうにん)…インドに約2500年に誕生したブッダを一般的には指します。しかし法華経の正統(せいとう)継承者(けいしょうしゃ)の中では、三世(さんぜ)の生命、未来の宇宙・自然・社会・万物を悟った人を聖人(しょうにん)と呼び、この地球上では四人いるとされています。インドのブッダ、中国の天台智顗(てんだいちぎ)、日本の最澄(さいちょう)日蓮(にちれん)の四人です。この四名の聖人は、いずれも未来を予言し、それを的中(てきちゅう)させ、その証拠をもとに聖人と呼ばれるようになりました。また、それに近い人で竜樹(りゅうじゅ)・天親菩薩(ぼさつ)がいます。彼らは人間生命の深層(しんそう)を探り、(くう)(かん)唯識(ゆいしき)思想や死後の世界を究明したと言われています。

注3生命の不思議な法則…宇宙のすべての存在は生と死を繰り返しています。地上の生物は細胞で構成されていますが、その細胞は生まれて変化成長し、やがて老化し役割を終えます。人間も同じです。細胞でできているからです。この法則を釈迦は生住異滅(じょうじゅういめつ)、生滅の法(生死の二法)(じょうじゅういめつ)と悟りました。

注4 (くう)竜樹(りゅうじゅ)菩薩(ぼさつ)の中心思想の一つ。存在するものを「()」存在しないものを「()」というとらえ方を超えた生命のとらえ方。分析できないが確かに存在するあり方。例えば電波を例に考えるなら、ここには無数の電波が存在していますが、混線せず存在しています。見えませんが、無数の電波が「空」のかたちで潜在しています。チャンネルを合わせると、一つの電波が受信され、目に見えるかたちをとります。つまり、「空」のかたちで潜在しているものが、「(えん)(きょう)」によって生起(せいき)し有のかたちになる。「空」は有無(うむ)の二つの在り方をとる生命現象なのです。

注5 阿頼耶(あらや)(しき) 唯識(ゆいしき)思想では意識の下に、第七(だいなな)(しき)として末那(まな)(しき)(自我(じが)執着(しゅうちゃく)意識)、その下に第八(だいはっ)(しき)、阿頼耶識を説きました。七識、八識は意識できない世界に潜在しているが確かに存在し、意識に影響を与えています。脳に記憶化されたものと考えると理解しやすいかもしれません。天台智顗(てんだいちぎ)は八識下に根本(こんぽん)(じょう)(しき)としての()(しき)を覚知されました。それを法性(ほっしょう)(仏性(ぶっしょう))といい、あらゆる万物を創造する慈悲と()()の生命でありブッダの妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)(注7)と同義であると論じています。

注6… 心法(しんぽう)、仏法生命論の重要概念(がいねん)の一つ。色法(しきほう)=肉体の働き、心法=心の働き、仏法生命論は(しき)(しん)不二(ふに)と説きます。この色心不二が生命の存在の真実の姿とブッダは悟りました。般若波(はんにゃは)()(みつ)(きょう)の中心思想は「色即是空(しきそくぜくう)」です。色法は、これ(くう)との教えです。心法は、(くう)の状態で存在し、(えん)によって顕在し見えるかたち、色法として働きます。色心不二理論は、妙法蓮華経方便品(ほうべんひん)で説かれた重要理論です。

7 妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)、略して法華経(ほっけきょう)といいます。インド応誕(おうたん)のブッダは、菩提(ぼだい)樹下(じゅか)で生命の真実相を悟ったと言われています。その悟りの内容を修行面で仏教と言い、法理面(ほうりめん)仏法(ぶっぽう)と言います。悟りの内容は深遠(しんえん)であったため、当時の民衆の生命状態や能力に応じて種々(しゅじゅ)のたとえや方便(ほうべん)を使って教えを説いたとされています。(たと)えば念仏(ねんぶつ)南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)大日如来(だいにちにょらい)の教えや(ぜん)般若波(はんにゃは)()(みつ)(きょう)など、40年にわたって八万(はちまん)宝蔵(ほうぞう)とも言われる膨大(ぼうだい)な教えを展開しましたが、いずれも当時の民衆の能力や理解度を考えて、生命の一部分を説いたとブッダは言われました。部分ですから、それらに執着しては、正しい生命観を持てないと戒めましたが、現存する日本の多くの仏教は、部分に(とら)われています。それゆえ、真実の法に(いた)ることができていないと聖人は語っています。

ブッダは最後の八年で、真実の教え、生命の全体像を説きます。それが妙法蓮華経(サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランのインド、サンスクリット語の漢訳)で、略して法華経と呼ばれています。妙法蓮華経とは、宇宙を含めたすべての存在は不可思議な因果()()の法に(のっと)って存在しているというありのままの姿を言葉として表現したものです。この不思議な法を言葉で名付けた方が聖人であり、その()音律(おんりつ)(リズム・振動)が妙法蓮華経です。実態は言葉を超えて存在していますが、人間には比喩(ひゆ)の言葉でしか表現できないので、聖人は言葉として表現したと言います。そして比喩(ひゆ)(そく)真理(しんり)(比喩はそのまま真理を表す)と不可思議境の世界を説かれました。この妙法蓮華経の振動は、今この瞬間にも私たちの生命そのものとして存在していると言います。当時、書物はありませんので口承(こうしょう)で真意を()んだ弟子たちによって編集され、28品(章)に分類されました。生物の(ごう)を説いた比喩品(ひゆぼん)は第三であり、永遠の生命を説いているのは如来(にょらい)寿量品(じゅりょうぼん)第十六になります。

如来(にょらい)とは、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)薬師(やくし)如来(にょらい)など仏(人的側面)と訳されることもありますが、真実の意味は、今の生命の深層から()き出る私たちの本来的な生命の振動であり法のことです。つまり、今の一瞬の生命は不可思議であり、どこからともなく湧き起こり、私たちの生を支えていますが、私たちは意識できませんし、実感もできません。過去の記憶の総体で自動的な働きの感受(かんじゅ)である意識で生きているからです。

如来の意味は、瞬間に発動する生命のもつ慈悲(じひ)智慧(ちえ)の律動であり振動リズムです。これを光の振動ととらえたのがニコラ・テスラです。生命は永遠に今を振動しています。永遠と言う言葉は時間の変化を表す言葉であり、アインシュタインは、時間はない、変化があるだけと言いました。実際の生命は常に今しかないのです。アインシュタインもニコラ・テスラも、こうした世界の一部を覚知していたと言われています。だからあれほどの発見ができたとも言えます。この今の生命の真実の在り方、如如(にょにょ)としてくる生命、つまり妙法(みょうほう)蓮華(れんげ)(きょう)如来(にょらい)にナム(ナムは梵語(ぼんご)、漢語で帰命(きみょう)…リズムを冥合(みょうごう)させること)して生きることこそ真の幸福に至る道(仏道(ぶつどう))と聖人は教えています。私は今日まで、50年近く諸般の哲学や文学、科学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。研鑽の旅は今も続いています。あなたもぜひ、思索研究され、生命の真実に接近されてみてください。

しらんの便り…不登校・引きこもり・心の不調からよみがえる本 (来春出版予定)第五章より抜粋