部分から全体へ意識を向けることで 健康が蘇(よみがえ)る
生命全体の調和を見ない部分への偏りや執着は心身の秩序を乱し、健康を損(そこ)ないます。ほどよさを忘れた過剰や不足は心身のバランスを崩し、生命の働きを不調にさせます。生命全体の働きを知ることが何よりも大事です。科学を信じる現代の多くの人たちは、部分観に生きています。科学は部分の分析から法則を発見し、私たちに利益をもたらします。分析された部分の世界は真実ですが、物事の全体をとらえてはいません。意識できる部分の世界と意識できない広大な世界の働きに目を向けることが大事になります。自分という秩序ある生命の働きと部分と全体のつながりを知ることです。それが健康を得るための必須の条件です。真の健康には、いかなる財宝や名声にも及ばない、内面からの喜びと心の躍動があります。
痛みや苦しみは心身の傷つきや不調が発するメッセージです。執着は神経の疲労を招き細胞を壊します。思考や感情の偏りはバランスを崩し全体を見失わせます。心身の調和が乱れきった時、苦しみや痛みは限界を超え、心身は病みます。しかし、人はその原因を突き止めようとせず、五感で受信した痛みや症状を除去しようとします。その結果、本質的な解決に至ることが難しくなります
反応から対処へ意識を変えてゆくには
「木を見て森を見ず」という言葉があります。森に入れば目の前の木しか見えなくなります。これは人間の神経感受能力の現実であり限界です。人間が鳥のように空を飛べないのと同じです。森全体を見ようとすれば想像力を働かさなければ見えません。私たちは、基本的には「井の中の蛙(蛙・かわず=かえるのこと)、大海を知らず」の感覚で生きています。見たり聞いたりする感覚が受信する、ごく一部を見て、物事を理解したつもりになり、全体を見ることをしていません。それは神経や脳の働きが過剰になるのを防ぐために、脳がエコの働きをしているからと脳科学者は言います。私たちが生きている現実は、ほとんどが記憶による感覚反応による自動操作的な行動です。井の中の蛙である私たちが大海を見ようとするなら、正しい知識に基づいた想像力を遣うしかありません。井の中から見る世界は部分であり、大海は生命全体を指します。それが反応から、対処(智慧)の生き方に変える鍵になります。そして、その生き方を継続することで新しい自分が創られていきます。新しい自分を作ることができれば、いかなる心の病も治すことができるとブッダは教えてくれます。
瞑想のやり方を間違えると迷妄の世界に入り心の病は増幅する
最近、瞑想が流行していますが、瞑想の本質がわかっている人が、どれほどいるのでしょうか。心を病んでいる人が、安易に瞑想を行うと迷妄の闇の世界に入ってしまい、心の病は増幅することになります。本来、瞑想はインドの古代社会で実践されていた生命を浄化し、真の悟り(生命全体を直感すること)を志向する修行法の一つでした。釈迦(ブッダ)は、先人の実践に学びながらも、自ら独自の瞑想法で生命の真実(生命の全体)を悟り、仏の境地を得た(注1)と言われています。以下は少し専門的な話になります。ブッダの悟りに至るための修行法の一つに禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)があります。簡単に言えば瞑想によって悟りの境地に至る修行法です。
(注1)仏の境地を得た…仏とは宇宙の真理を悟る智慧を体得した人のことを指した言葉です。仏性(ぶっしょう)は宇宙生命の智慧や慈悲を含んだ不思議な法を指しています。仏の境地という場合、すべての生命的存在に内在する不思議な智慧と慈悲の法を悟り、それに基づいて生きている人という意味になります。具体的にはブッダなどの聖人を指します。聖人とは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。仏教史上、ブッダのほか、天台、最澄、日蓮とされています。世界に目を転じてみると、思想・哲学は異なりますが、孔子、イエス・キリスト、ソクラテスも自らの思想・哲学で多くの人々の精神を高め、救済した人とされ、聖人と言われています。
日本の瞑想(禅)は 達磨(ダルマ)大師から 道元(鎌倉時代の僧侶)に伝わったもの
ブッダ以降の仏道修行者の一人、インドの達磨(ダルマ)大師が独自の禅を考案し、それが日本の道元(どうげん)の曹洞宗(そうとうしゅう)の禅につながっていると言われています。道元は釈尊が涅槃経(ねはんぎょう)で説いた言葉を信じ、独自に修行の世界に入ることを目指しました。それが「不立文字・教外別伝」(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)で、ブッダ(釈尊)の言葉から離れ、独自に悟りの世界に入る修行でした。しかし、指標なき瞑想が、どこに向かうのか、先人の言葉や正しいイメージのない瞑想は闇の中を彷徨(さまよ)ことになりかねません。道元も死ぬ直前の日々は、釈尊の法華経の一節を毎日読誦していたと言われています。心の不調者や病んでいる人は、迷いの世界にいます。そんな人が禅の瞑想をやればどうなるのか、想像しただけで結果は見えています。瞑想は意識から入ります。その意識が迷いの状態にあり、指標がなければ、漂流するしかありません。神経を遣った分、迷いと苦しみは増幅されるでしょう。私も、大学時代にギャンブル依存がひどかったとき、座禅を試したことがありますが、効果を感じることはできませんでした。指標なき瞑想をすることで、今の迷いの自分から離れられるかどうか疑問です。魔界(生命の秩序を壊したり、破壊したりする働きが起きる世界)に入ることも考えられ、危険性があります。瞑想には正しい師や指標が必要なのです。
マイドフルネスの目指す瞑想法
マインドフルネス考案者のカバットジン氏は、日本で禅を修行し、それを基にして、独自の瞑想法を開発しました。しかし彼のマインドフルネスは禅とは別のものだと私は思います。彼はイメージや言葉から生命の全体の秩序や調和に迫っています。それが「呼吸瞑想」「歩行瞑想」「今やっていることに対することに意識を集中するという瞑想です」。つまり、「今、生きている瞬間に集中する」という簡単なものです。簡単ですが、私たちは、今という瞬間に、なかなか集中できません。雑念が雲のように湧くからです。過去の記憶から流れてくるような想念に流され、今を過去の記憶の反応で生きているからです。結果、今を生きることができていません。集中力を高めるもっともよい方法が呼吸瞑想です。また身体を観察する「ボディスキャン」です。彼が考案したボディスキャンで部分と全体のつながりを感じてゆくことができます。そうすることでストレスを低減することもできます。
心身を健康にする瞑想法
真の瞑想は想像力と思考力を遣って、生命の深層に接近する心の修行です。想像力と思考でブッダの言葉を指標にして深層に入り、本来のありのままの生命の振動にリズムを合わせ、私たちの自己と宇宙的自己が冥合(みょうごう)することが真の瞑想です。そのとき、私たちの意識という一部は、生命全体を直感します。ニコラ・テスラがいう、「宇宙を受信する」ということであり、振動数が重なることと言えます。
「想像力は知識より大事である。知識には限界があるが、想像力は無限であり 宇宙をも包みこむ」 とアインシュタインは言いました。宇宙の物理的真理の一端を覚知された彼の言葉は意味深長です。以下に述べる事柄は、感覚では理解できません。知識を指標として想像力を遣えば感じられる世界です。芝蘭の室の瞑想は、1、「身体瞑想」2、「地球自然瞑想」3、「詩朗読瞑想」の三つを実践し、心の状態にあったものを使います。前提としての生命の働きを理解する心理学習は必須です。とくに心の病の重篤な人は、「詩朗読瞑想」を中心に行います。
1 身体瞑想
「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」(シュレディンガー、20世紀の物理学者、波動力学を提唱、ノーベル物理学賞受賞)
身体瞑想は、身体の各部分を想像力による観察を通して心身全体を感じ、秩序と調和を知覚する作業です。やり方は自由ですが、私たちの身体の各部分を一つ一つ観察していくのが基本です。以下は私が毎朝実践している身体瞑想です。
まず体を外の世界から守り、命を支えている皮膚から始めます。全身やけどで皮膚の1/3以上を損傷すると死に至ると言われています。人は通常人間の体の皮膚しか見ていないといってよいでしょう。皮膚の下に内在している、骨、筋肉、血管、脳、各種の臓器は見えません。皮膚が覆って守ってくれているからです。最近、皮膚は臓器と言われるようになりました。人体最大の免疫器官であり、無数のセンサーが埋め込まれた感覚器官です。皮膚は臓器や内部の身体を外の種々の細菌、ウィルスから体を守り、その総重量は10㌔を超えます。人間の外側の表皮角化細胞は爪や髪と同じように死んだ細胞なのです。その死んだ細胞を見て美人だの美男などと私たちは言います。頭の先から足の指の先の皮膚を観察し、その働きを想像し、感謝してゆきます。瞑想とは研ぎ澄まされた想像力が描き出す世界のことです。
次は骨です。私たちの身体を支えてくれている土台です。もし足の指を一本骨折したとしたら、痛みの激しさに、歩くこともできなくなります。たかだか、身体全体の1000分の一以下の指の骨一本という部分すぎませんが、故障すると身体活動全体に支障をきたします。これが部分と全体の関係性です。部分は全体に影響します。また骨があるから体の姿勢を保つことができますし、二本足で大地に立ち、全体のバランスを取り、歩くこともできます。全体は部分によって構成されていることがわかると思います。意識は部分しか受信できないことが理解できたでしょうか。
次は筋肉や腱・靱帯です。これらの働きで私たちは骨を動かし自由な動きができます。私はよく肩が凝るので、肩を触りながら肩の筋肉に、ありがとうと声をかけています。そのように全身の筋肉を観察し、その働きに感謝してゆきます。
次は脳と神経です。脳は頭蓋骨に守られ、脳との間に髄液が存在し、衝撃に耐えられるようになっています。脳の外側を覆っている大脳皮質は私たちの思考や見る、聞く、体を動かす、記憶するなどの働きを担っています。一瞬のうちに視覚野は外の世界の形や色を識別したり、聴覚野は音の種類や声を区別したりします。脳幹は生きるための呼吸、睡眠などの働きを担っています。脳内には億を超える神経細胞・ニューロンが存在し、そこから波状的に出ているシナプスの数は兆を超えています。そのシナプスとシナプスの間は無数の電気信号が飛び交い、脳全体としては無秩序に一秒間に10回近く振動し、混沌としています。それがある瞬間、混沌が統一された秩序状態を作ります。それが気づきであり、気づきの流れが意識であるとフリーマン(脳科学者)は言います。
また、神経細胞は脊髄に守られ、その管の中にはやはり髄液が流れ、衝撃から神経を守っています。その神経は体の隅々まで末梢神経として張り巡らせ、体の異変、快・不快、傷つきなどを信号として意識に届けます。意識は、痛み、苦しみ、心地よさなどを受信し、方向性を指示します。
次はホルモンです。ホルモンは炎症を抑えたりして体を調整する恒常性機能の役割をします。脳幹の近くにある下垂体ホルモンはメラトニンなどの働きにより睡眠の調整をしたりしています。喉の下あたりある甲状腺ホルモンは、やる気などに関係しています。副腎のホルモンはアドレナリンなどによって情動を調整します。性ホルモンは男女機能を調整しています。ホルモンは血液に乗って、必要なものを必要な臓器に届けます。ホルモンが情動という感情を生み出しているといえます。ホルモン機能の安定は感情の安定をたらします。
次は消化活動を担う働きを想像観察してゆきます。食べたものは顎の骨や筋肉、口内環境、歯、唾液、味蕾の味の感覚(うまい、甘い、塩辛い、酸っぱい、苦いなど)など総合的な働きによって、口内で咀嚼されます。そして食道の蠕動運動によって、下に降りてゆきます。その間には気管の入り口への誤嚥を防ぐ弁の開閉によって胃に届けられます。胃では数時間38度の温度で、食べたものが殺菌され、保管消化されます。食べ物の過剰を防ぐため2~6時間胃にとどまり満腹感をもたらします。もし次から次に食べ物が腸に流れていったら、腸が疲労し壊れてしまうからです。十二指腸で本格的な消化活動が始まり、膵臓や胆嚢の酵素によって、血糖値を調整したりして消化が進みます。約6メートルある小腸でさらに本格消化が始まり、血液に乗って肝臓に送られます。そこで加工・貯蔵され、血漿を通して各臓器に栄養となって運ばれ、血漿水・血液は、細胞の排泄物を受け取り体内をめぐります。大腸では数十兆個の大腸菌によって消化吸収され、残物が直腸に溜まるとサインによって便として排泄されます。食べたものは口から入り、各消化器系の臓器をたどり約二日間の旅をし、全身の各細胞のエネルギーになります。普段は考えることすらありませんが、私たちはこうしたエネルギーのおかげで生きています。意識で生きているわけではありません。全体の細胞の統合された秩序を保った働きと調和で生きているのです。それを感じるが瞑想です。瞑想とは部分から統合された秩序ある全体を感じることなのです。
食べ物は消化され、血液を通して全細胞に運ばれます。しかし食べたものの中には、毒性なものや細胞に悪いものも含まれていますし、過剰な栄養分もあります。それらを浄化するのが腎臓です。腎臓は1分間で1リットルの血液を浄化し身体を守ります。糖尿は血液の濁りに影響しています。その濁りがひどくなると腎臓の機能も壊してしまいます。食べ物はすべて栄養になりエネルギーに変わるわけではありません。栄養であり薬になると同時に毒にもなることを知らなければなりません。肝臓は食べ物を解毒したり、保存したり約200の加工的な働きをしながら体を守り動かしています。リンパ管やリンパ節は外から入ってくる食べ物や空気の中の菌やウィルスから身を守る免疫活動をし、血液の浄化や水分調節し体を守ります。
次は呼吸器系と循環器系です。私たちは食べ物と呼吸で生きています。呼吸は体内に酸素を取り入れ二酸化炭素を外に出します。鼻から入った空気は汚れているので、鼻腔(びくう)で鼻毛などにより、ほこりなどの汚れた空気が気管に入るのを防ぎます。アレルギー性鼻炎は、この鼻腔の働きの過剰反応と言われています。鼻腔を通過した空気は喉(のど)を通ります。この喉のリンパ球がウィルスや菌を駆逐(くちく)します。この戦いに敗れると風邪やインフルエンザになったりします。喉を通過した空気は気管を通り肺に入ります。肺には約4億の肺胞があります。その肺胞の一つ一つの周りは無数の毛細静脈と毛細動脈に覆われています。肺胞に入った空気は、毛細動脈を経て、大きな大動脈に送られ心臓に入ります。心臓から鼓動によって動脈の中のヘモグロビンによって全身の細胞に酸素を届けます。そして二酸化炭素を受け取り静脈に乗って、心臓に戻り、やがて肺の周囲の毛細静脈に帰ります。それが肺胞に入り、吐く呼吸と一緒に外に出てゆきます。4億の肺胞は酸素と二酸化炭素の交換を行っています。こうして私たちは呼吸で生きています。
このようなの体の統合された秩序ある働きは、宇宙の働きと似ています。そして誰もが持つ尊い働きです。アインシュタインは、このような神秘的な働きを神と言ったそうです。ブッダは「如来秘密 神通之力」(にょらいひみつ じんずうしりき…瞬間の生命が秘める、仏のみが覚知できる不思議な偉大な力)と言いました。こうした不思議な働きに畏敬(いけい)の念を抱きながら、自分の身体とその働きに感謝しています。
2 地球自然瞑想
これまで学校などで学習してきた教養知識をもとに、地球や自然・宇宙に関する働きを想像してゆきます。以下は私がやっているものです。地球は生きています。私たち生物と同じように…。地球は地球自らのものであり、自分の役割を誠実に果たしながら、慈悲の働きをしています。大気中には、私たちの生命活動の根本である細胞に必要な酸素がほどよく存在しています。また月や太陽や金星などの惑星と絶妙な距離を保ち、重力や引力が均衡し、今の領域を保っています。地球は24時間で昼夜を織りなし、太陽の周りを1秒間で30㌔という速さで、私たち生物を乗せて365日で回遊します。その期間を人間は1年と名付け、日本人は春夏秋冬を味わっています。地球はだれの指示に従うわけでもなく、自らの本然の力である慈悲と智慧の働きを演じているのです。
そうした神秘的な働きのおかげで、私たちは宇宙に浮遊することもなく、大地に足をつけ、太陽光の強烈な紫外線やガンマ線などに曝されることもなく、適度な水と温度、湿度の恩恵に浴し、生きていくことが出来ています。生物は、生まれ、自分の役割を演じ、生を終えていきます。
地球の活動は慈悲を根本にした智慧の働きに支えられています。慈悲とは苦しみを抜き、楽しみを与える働きです。地球上のあらゆる生物の苦しみを和らげ、楽しみを与えゆく慈悲の実行者にして慂出する力それが智慧です。あらゆる生物は、地球の恩恵に浴し、慈悲と智慧に守られながら生きることが出来ています。
地球上には大気圏が地上から、約10万キロmまであり、宇宙空間からくる電磁波が人間にもたらす被害から守っています。地上の生物や動物や人が生きていけるのは、酸素が存在し、海があり、人間の血管のように河川があり、血液が流れるように水が流れているからです。
地球の自公転や水が生物の生を支えています。私たちは、普段当たり前のこととして、それらの恩恵を享受していますが、けっして当たり前のことではなく、奇跡的出来事なのです。地球の有り難さの一部を感じるのは、地震や気温の急激な上昇や線状降水帯発生などの時ぐらいでしょうか。
地球の兄弟星、火星や月には酸素がほとんどありません。金星は温室効果ガスの影響で表面温度が460度の灼熱の惑星です。美しい輪を持つ土星の輪は、氷の粒と岩石の集まりでありガスの惑星です。太陽系では地球だけが生物が住める不思議な惑星です。
太陽からの距離が絶妙な位置にあるため、地球上では生物が生きていけます。太陽が光を程よく調和するかのように、可視光線、赤外線、紫外線などを届けてくれています。太陽の光のおかげで、暗闇の宇宙に光が灯され、私たちはものを見ることが出来ます。絶妙な気圧のおかげで振動を受信し音や声を聞くことが出来ています。私たちは不思議な働きに守られています。
私たちは、無料で地球に棲んでいます。現代の人類は、地球全体の働きを考えることもなく、加工したりして自由に使っています。科学的発明がなかった昔、人々は、太陽を礼拝したり、水神を祀ったり、地神に手を合わせる純な敬虔な心を持ち、地球や太陽の恵みに感謝していました。今は、他の生物の生態系を壊し、母船である地球そのものを壊しつつあります。このまま進めば、生物は少しずつ絶滅し、人類も滅びてゆくことになるかもしれません。森林伐採、砂漠化、工場が出す煤煙、汚染水で海や川が汚れ、多くの生物が死滅しています。二酸化炭素の排出と気候の温暖化、食用のために動物の殺、養殖。客観的な目で見れば、人間のしていることは果たして善なのでしょうか、悪なのでしょうか…。
地球が生命ある存在ということに気づいていないのでしょうか。地球が傷つき、苦しんでいるのが分からないのでしょうか。科学が進歩し、物理天文学、量子力学も日進月歩しています。スマホ一つで、用が足せる便利社会になり、子どもから大人まで、楽しさやおもしろさに溢れる視覚快適感覚にはまり、未来を見つめる想像力は衰え、考えることすら止めたのでしょうか、生物や地球環境のことを思いやることを忘れているのでしょうか。科学の進歩は何のためだったのでしょうか。見えるものを相手にし、大事な心を見ようとしない生き方が社会や時代の濁りを生み、心身の病気を招き、応急対処的な症状除去の医療に身をまかせ、根本を見ることをせず、人類や生物を破滅に導いている気がしてなりません。気候変動、地震や自然災害、地球はSOSを出しています。しかし、そのサインを、誰が読み取っているのでしょうか。
地球の生物の90%は植物です。残りの10%が動物・昆虫・微生物などです。動物の中でも人はごく微小で、人ひとりに対して、ありは一万五千匹の比率です。地球の動物の主役は昆虫です。生物、特に動物は弱肉強食の本能の法則で生きています。最も限度を知らない動物は、人間かもしれません。脳の発達のおかげで、道具を開発し、言葉を持ち、記憶化した知識で、地球を恣にしています。その欲望の先にあるのは、美しい緑の地球から、荒廃した生物の住めない惑星の姿かもしれません。
誰のものでもない地球、地球は地球自らのものです。「ここの土地は自分のものだ」と言い張り、人を平気で押しのけ殺す人たち…その極致が戦争です。戦争は自己中心性から発する人間魔性の仕業です。宇宙に浮かぶ地球を想像することができれば、地上の生物や人はみな地球号に乗った運命共同体と自覚できます。人間の傲慢さや貪欲さが、やがて地球を破滅させてゆくかもしれません。まず、地球も太陽も金星も月も私たちと同じ生命体と明らかに見る心を持つことです。地球の恩恵を感じる心が、自分も他人も守り、幸福にしていきます。地球の恩をありのままに感じる純な心をもつことこそ、人としての正しい道であり、幸福になる道なのです。
地球は月という兄弟衛星を伴い瞬時も休まず動き変化し 太陽系の中で絶妙な調和を保っています。その調和は地球上のあらゆる生物、非生物に影響し 相互依存と変化によってバランスを保ち生を営んでいます。
生命は動き変化することで調和をはかり環境に適応し、生を保っています。生きるとは変化であり、動きに調和することなのです 停滞は後退であり、死を意味します。現代人の多くは視聴・聴覚情報に五感を麻痺させられ、思考することを忘れ想像力を使うことを失い、精神の死を招き変化への適応力を失っています。それが様々な新しい心の病をつくりだしていることに誰も気づいていません
心を不調にする原因
不安障害や適応障害や不登校、引きこもりは時代が産み出した新しい現象であり、病ではなく一時的な不適応状態に過ぎません。これらは心身の働きの調和の問題であり、生活習慣がもたらす記憶の問題なのです。その状態の改善のために薬は役に立たないばかりか、副作用に苦しむ結果になりかねません。人間は環境の変化に適応することで調和をはかり 生を保っています。
磨かれた鏡には 映像が明らかに映ります。心も同じです。きれいな澄んだ心には すべてが正しく見えるようになります。何が幸福をもたらし 何が不幸にさせるのかを 明晰に見分けることができます…。幸福は過不足なく調和を保った生命の状態の感覚なのです
不調和状態を産み出す代表が以下の四つの欲望と感情です。怒り、憎しみ、恨みを抱き続けると 心の波は逆流し 自他を巻き込み いたずらに消耗し やがて苦しみの海に沈んでゆきます。限度を知らない過剰な欲望は 自らを焼き焦がし 周りを燃やし 炎の波にのまれてゆきます。快楽に耽け続けると 心は淀み 濁り 善悪がわからなくなり 心の波は間延びし 思考もとまります。人に勝りたい 人より優位に立ち 人を支配したいと思い続けると 心は歪んで 素直さを失い、心の波は屈折してしまいます。人は ほどよさの感覚を失うと 調和がもたらす深い幸福感を味わえなくなります。
幸福になる音色を奏でる人は 心が素直で 柔らかく きれいに澄んで 美しい周波を演じています。財産 社会的地位 名声 人気 才能 美貌 健康などは 幸福の一面的な要素で、束(つか)の間の喜びをもたらしてくれますが 時とともに色褪(いろあせ)せ 壊れてゆきます。自分の外側を飾るものは 空(むな)しく時と共に風化し 最後は消えてしまいます。心の外側に求めた楽しさや喜びは 花火のようなもので 刹那的(せつな)な陽炎(かげろう)のようなものです。
ー祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘(かね)の声 諸行無常・しょぎょうむじょう(注2)の響きあり 沙羅双樹・さらそうじゅ(注3)の花の色 盛者必衰(せいじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわすー 学生時代に一度は目にした平家物語の冒頭の詞は、この世のもろもろの存在や出来事は、一所にとどまることはなく常に変化し移ろい行くことを教えてくれていますが、凡人にはなかなか悟れません。ものごとに対する執着の強さで、心が曇り、真実相が見えないからです。
心の内面を飾る心の宝…清らかに研ぎ澄まされた意識、心根(こころね)は時とともに輝きを増し その人の人格を照らし不滅になります。心の底から湧き出る喜びは 永遠性を孕(はら)んだ美しい調和された波そのものです。なぜなら外側から与えられたものではなく、自分の心の底から自然に湧き出たものだからです。この喜びこそ幸福の本質を奏でる周波数なのです。
心をきれいに澄ませるにはどうすればよいのでしょうか…。自分や人の心が美しいと感じた時はどんな時だったのかを、振り返ってみてください…。過去の聖人・賢人の生き方や思想哲学や文学・芸術に学んでみましょう。不断に自己を磨き続け、内省し浄化された自己の鏡に、真実も幸福も映し出されるでしょう。意識を磨き、研ぎ澄まされた精緻(せいち)な思考の力、そして宇宙をも包む想像力を身につければ、あらゆる病は消滅し、真の安らぎを得ることができるでしょう。
注2 諸行無常(しょぎょうむじょう)…仏法生命理論の概念です。この世のあらゆるもの、塵(ちり)、物質、生物や人、地球や太陽や月などの現象は縁起によって生成し、仮に和合したものであり、絶えず変化してゆき一所に留まっていないという意味です。全ての存在は縁起で生起し変化し固定的な「我」は存在しないという意味になります。私たちの今は、過去の記憶が知識やイメージとなったものを自分と意識しているにすぎず、夢のようなものを実在していると記憶しているにすぎません。認知症になり記憶機能が失われてしまえば、自分が自分であることも分からなくなりますが、生きています。多くの生物は脳の記憶の働きはありませんが、生命活動を立派に行っています。自分があると思うのは過去の知識や記憶の働きであり、今の現実ではないのです。記憶による夢を見ているようなものです。この世のものは全て動き変化しています。人間、自然、生物、非生物、石や塵といった物質もすべて究極的には振動しているというのが量子力学の発見です。最先端の科学が遅らせながら仏教の諸行無常を証明する形になっています。夢のような仮の我に執着することで苦しみが生じます。諸行無常を明らかに悟れば苦はなくなります。しかし、五感の欲望に染まった生命は、夢の中を生き、心の真実相を覚知できません。瞑想で意識を磨き、心を浄化させ、想像力を無限に広げ、深層の本質我につながることで可能になります。
(注3)沙羅双樹(さらそうじゅ)の花…釈尊(ブッタ)が涅槃・ねはん(亡くなる)時に咲いていたとされる花。涅槃の真の意味は苦から解放された清らかに澄んだ心身の状態をいいます。生にも死にもある生命状態です。諸法は生の現象をともなった状態を指しますが、「空」(くう)の状態で存在する目に見えない不可思議な法に支えられています。それを諸法実相といいます。釈尊の究極の哲理(法華経方便品第二で説かれている)です。それを悟ることができれば永遠性を覚知でき、不滅の幸福境涯に至れるとブッタ(釈尊を含めた生命の覚者、聖人の意味)は語りました。
3 詩朗読瞑想
心の病は大きく分けて三種に分けられると思います。1、神経症傾向(強迫性、パニック障害、恐怖症、対人不安など)、パーソナリティー系。 2、うつ・躁うつ系。 3、統合失調症スペクトラム系の三種類です。神経症系はエネルギーがありますので、正しい心理学習で比較的早く改善可能です。うつ系はエネルギーが低下していますので、エネルギーの補充が何よりも一番です。休養と軽い運動、気分転換の旅行、エネルギーが出てきたら、心理学習や身体・地球瞑想、詩朗読瞑想を行います。対応を誤ると遷延(せんえん)し長期間、病むことになります。統合失調症系は、深い深層から起きる観念が現実化しているので難治とされていますが、改善可能です。かつてアメリカの精神科医サリバンは入院患者をほぼ改善させたとの報告も残っています。心理学習と深い深層の流れの転換が必要になります。心理学習、身体瞑想、地球瞑想を含め、詩朗読瞑想が効果的です。
例えば、松尾芭蕉の俳句を読めば、芭蕉が言葉で描いた世界に入れます。短歌を詠めば、短歌が謳っている心の世界に入れます。杜甫(とほ)の詩を読めば、杜甫の心が見た世界に入れます。ブッダの悟りの言葉を朗読すれば、ブッダの悟りの世界に接近できます。それが詩朗読であり、ブッダの悟った振動や周波数に生命を合わせることになります。ブッダの悟りの凝縮された世界は、生命の全体観を網羅(もうら)した妙法蓮華経と言われており、中でも如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第16と聖人は語りました。その要(かなめ)が自我偈(注4)(じがげ,偈は詩の意味)510音(漢語)と聖人は強調されました。「自我偈」は生命の讃歌であり、生命の持つ無量の智慧と力を謳(うた)ったものとされています。朗読すれば、その生命が滾々(こんこん)と、私たちの生命にも沸き起こり、喜びを感じるようになり、どんな心の病も治るとブッダは説きました。ブッダは万病を治す人、医王と言われていました。
(注4)…自我偈(じがげ)510音の漢詩句。五言の美しい調べで構成された、妙法蓮華経如来寿量品の要約文。「自我得仏来・じがとくぶつらい」に始まり、「速成就仏身・そくじょうじゅうぶっしん」で終わる。誰人の生命のにも内在する自身の生命の素晴らしさを讃歌した詩と言われています。
〇筆者(室長)は、広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学と生命哲学の関係性も研究しています。学びの旅は今も続いています。